モモナリですから、ノーてんきにいきましょう。   作:rairaibou(風)

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キャラクター紹介

・モモナリ(オリジナルキャラクター)
 信じられないことだが主人公、この十代ギリ前半
 暇なときはクロサワについていけば大体面白いことに出会えると学習している


セキエイに続く日常 18-キンタマ橋で会いましょう ①

 クチバとハナダを繋ぐ地下通路は、今ではほとんど使われていない。

 

 地上の交通網が整備されるにつれて、人々はこの道を選ばなくなった。

 今となっては、わざわざ薄暗い地下を歩く理由はどこにもない。今この通路を利用するとすれば、それは地図の古い旅行者か、あるいは物好きか。

 

 ジョウト地方の地下通路も同様の悩みを抱えてはいたが、さすがは商売の街なだけあって、誘致されていたテナントショップが独自のブランド性を得て、今では移動目的ではなく、商業施設として一定の価値があるようだ。

 

 だが、カントーのそれはそうではない。

 

 壁に積み重なった落書きと、床に散らばったゴミだけが、ここがかつて多くの人間に踏まれていたことを辛うじて伝えていた。

 

 そんな必要とされない場所が、同じく必要とされない者たちのたまり場になるのは時間の問題であり、世の中の常でもあった。

 

 

 コンクリートの床に、ピッピが倒れていた。

 

 薄く開いた口からは、小さな呻き声も出ていない。それが意識を失っているためか、あるいはもはやそれすら出来ないほど消耗しているためかは、その子の隣にしゃがみ込んで泣きじゃくる少女にしか分からないことだろう。

 

 少女の肩が震えている。そして、よく見ると、膝も。

 

 ハナダシティを目指していたのだろう。地図を手に入れたか、あるいは誰かに教えられたか。この地下通路を、旅の近道として、あるいは冒険の一つとして選んだに違いない。

 

 悪い選択だった。

 

「ほら」と、革ジャンの男が少女の前に手を差し出す。

 

 若い男だった。少女よりはいくらか年上だろうが、まだ顔のどこかに青さが残っている。その口元には、値踏みするような笑みが張りついている。

 

「俺達のシマでバトルに負けたんだ。通行料ってもんがあるだろ」

 

 少女が財布を胸に抱えて後ずさる。それを見て、男の笑みがわずかに深くなった。

 

「泣く子も黙る『ネオロケット団』のシマだぞ、ここは。勉強代だと思えよ」

 

 男の背後、薄暗い通路の奥から、ぞろぞろと取り巻きが笑い声を上げた。チカチカと点滅する古い蛍光灯が、そのシルエットを断続的に照らしている。

 

 ハナダの地下は湿っぽく、空気が淀んでいた。換気がまともに機能していないのか、古い油と埃の匂いが混ざり合って、それが鼻の奥に張りついて離れない。

 尤も、それを問題にする者はいなかった。それを問題にすることは、この地下を表の世界に引きずり出すことと同義だったから。

 

 少女は震える手で財布を差し出す。

 

 男はそれをひったくって中身を確かめ、取り巻きたちに向かってにやりと笑った。

 それなりに入っている、今夜は騒げるだろう。

 

 壁に寄りかかって、その一部始終を眺めていた少年、トールが一つ、息をついた。

 

 

 

 

 トールは、ハイティーンと言っていい年齢だった。

 だが、その目つきは、同世代の中で一回り古びて見えた。その視線は少女にも男にも向いていない。通路の天井、チカチカと明滅し続ける蛍光灯のあたりを漫然と眺めている。

 

 彼の足元には、砕けたコンクリートタイルが散らばっている。

 

 先ほどのバトルの痕だ。キングラーの『クラブハンマー』が着地した場所は、今も粉塵がうっすらと漂っていた。

 少女のピッピがどれだけ善戦しようとも、結末は変わらなかっただろう。巨大なハサミを持つキングラーが全力を乗せた一撃は、タイプの相性がどうであれ、力の差がどうであれ、それ以前の問題だ。

 

 砕けたのはタイルだけではなかった。彼らは少女のトレーナーとしてのプライドを、尊厳を粉々にしたのだ。

 

 キングラーはトールの隣で、ゆっくりとハサミを開閉させている。

 

 もう一匹、オコリザルが通路の壁をドンドンと殴っていた。規則的な音が、しんとした地下に響く。

 

 トールはそれにも視線を向けなかった。

 

「さすがだトール!」と、革ジャンの男、トールたちがボスと呼ぶ男が振り返って声を上げる。

 

「お前がいりゃあハナダのジムリーダーだって目じゃねえ!俺たちのチャンピオンだ!」

 

 取り巻きたちがそれに続いた。わあっと上がる歓声が、地下通路に反響する。

 この地下通路を『闘技場』として、トールを『地下のチャンピオン』として持て囃す。

 彼らにとってはそれが世界のすべてだった。

 

 トールは鼻で笑う。

 

「手応えがない」

 

 男の言葉を遮るように、それだけを言った。

 

「こんな奴じゃ手応えがない。もっと骨のある奴はいないのか。俺を熱くさせる奴が」

 

 男は一瞬、その言葉の意味を測るように黙ってから、すぐに「そうだよな!お前はそうじゃなきゃな!」と笑った。

 

 トールも笑う。

 

 自分の言葉は本当のことだ、と、彼は思っていた。手応えのある奴と戦いたい。それは本当のことだ。

 ただ、その言葉の続きを、彼は持っていなかった。

 

 外に出ればいい。ジムに行けばいい。この地下を出て、リーグに向かえばいい。口で言う『骨のある奴』たちは、きっとそこにいる。

 

 だが彼はそれをしない。

 

 ここでは自分が最強だ。誰も自分に勝てない。それは正しい。キングラーの一撃を止められる奴は、この地下通路に存在しないし、そして、連れてこられない。

 

 こここそが、自分のいる場所なのだ。

 

 その正しさの心地よさを、彼はよく知っていた。

 

 負けるはずがない場所。負けることの意味を問わなくていい場所。チヤホヤされて、称えられて、缶ジュースを差し出される場所。

 

 そこに居続けることへの言い訳として、彼は「手応えのある奴が来ない」という言葉を使っていた。本人は、それを言い訳だとは思っていない。本当にそう信じていた。自分はもっと広い場所で戦えるはずだ、だが今はまだその時ではない、いつかきっと、骨のある奴がここに現れたなら。

 

 そのいつかを、彼は待ち続けていた。

 

 オコリザルがまた壁を殴った。

 

「お前も同じだよな」と、トールは視線だけをそちらに向けて続ける。

 

「強い奴と戦えなくて、苛立ってる」

 

 オコリザルは答えない。ただ歯を剥き出しにして、もう一度、壁を殴った。

 

 男が「追い出せ」と少女に顎をしゃくった。取り巻きの一人が少女の腕を引いて、通路の出口の方へ突き飛ばす。

 

「乱暴はするなよ、警察が出てくるとめんどくさい。『バトルの結果』にポリ公は手を出せないからな」

 

 それは優しさではなく、彼らがこの遊びを続けるための処世術であった。

 

「二度と来るな」という声が遠ざかり、少女の泣き声が消える。

 

「はいよ」と、ボスがトールに缶ジュースを放った。

 

 トールはそれを片手で受け取り、プルタブに指をかける。

 炭酸が吹き出ることはなかった。

 尤も、冷蔵庫などあるはずのない地下に放置されていたものだ、口の中を満たす炭酸は無い。

 

 トールは一口含んで、薄暗い天井を見上げた。

 蛍光灯が、またチカチカと点滅している。

 

 取り巻きたちの笑い声が、湿った空気の中に溶けていく。

 

 

 

 

 ハナダシティの運河は、観光客に人気がある。

 

 橋の上から眺める水面は、光の差し込む角度によっては確かに美しく見えるだろう。

 手を繋いで橋を渡るカップルや、ポケモンを連れて笑い声を上げる若いトレーナーたちの姿が、それを証明している。

 

 綺麗な水を嫌う人間はいない、そこに自分の責任が絡まないとなればなおさらだ。

 

 ただしそれは、橋の上から見ている分には、の話である。

 

 橋の下まで降りてくる者は滅多にいない。そこが何の匂いで満ちているか、欠片の興味もないからだ。

 

 腐敗した水と、積み重なった泥と、誰が捨てたかも分からない生ゴミが混ざり合ったそれは、この街が観光客に見せたい顔とはかけ離れている。

 当然、それを処理するのは、地元の人間だ。

 

 トールは腰まで浸かりながら、黙々と作業をしていた。

 キングラーがヘドロの底に巨大なハサミを差し込み、引き上げる。錆びた自転車のフレームが、どろりとした泥を滴らせながら水面に現れた。トールはそれを岸の一輪車に積み上げ、また次の指示を出す。

 

 頭上の橋を、笑い声が通り過ぎる。

 

 トールは一度だけ目を向けた。ポケモンを連れた二人組が、橋の欄干から身を乗り出して水面を覗いている。楽しそうだった。少なくとも、そう見えた。

 

 退屈な連中だな、と、トールは思う。

 

 毎日毎日、観光地を歩いて、ポケモンの写真を撮って、それで満足できる人間というのが、彼にはよく分からない。自分にはとてもできないことだと思った。

 それは蔑みではなく、ただ純粋な感想として、そう思った。自分の方が、もっと刺激的な場所にいる。それは少なくともここではないが。

 

 キングラーが次のゴミを引き上げた。タイヤだった。

 

「おい、そっちじゃねえそっちじゃねえ、まず奥から片付けろって言っただろ」

 

 堤防の上にいる親方が、苛立たしげに怒鳴る。

 

「あいよ」と、トールは気のない返事をした。

 

 キングラーがゆっくりタイヤを元の場所に戻し、奥へと向かう。

 

 この仕事を始めたのは去年の夏だった。

 金が要必要だったし、日中の暇を潰すための選択肢として、金が出るならどこでも良かった。

 結果的にここに落ち着いたのは、親方がトールの事情をほとんど問わない気楽で豪胆な人間だったからだ。

 それに、キングラーを使えば捗るという実用的な理由もあった。嫌々やっているわけではない。ただ、誰かに誇れるような仕事だとも思っていない。

 だが、それなりにまとまった金を現金でもらえる、それで十分だった。

 

 どのみち、稼いだ金の大半はポケモンのエサ代と家賃に消える。残りで飯を食って、こっそり酒を少し飲んで、地下に戻る。そういう繰り返しだ。

 

 

 

 

「相変わらず泥んこ遊びか、チャンピオン」

 

 堤防の上に、見慣れた影が現れたのは、昼をとっくに過ぎた頃だった。

 革ジャンの男、ボスが、こちらを覗き込んでいる。

 

 トールはそれに気づいて、わずかに口の端を上げた。

 

 ボスが堤防の縁に腰を下ろし、炭酸ジュースを二本、ぶら下げた。

 

「暇だからな」と、トールは泥だらけの手を伸ばし、一本受け取る。

 

 プルタブを引く。炭酸は吹き出なかった。

 

 二人の間に、特に何かを埋めようとする言葉はなかった。それが必要な距離ではなかったからだ。

 ボスとの付き合いは長い。気がつけばそういう関係になっていた、という種類の間柄だ。友人と呼ぶには薄っぺらく、共犯者と呼ぶには暖かく、しかしどちらでもあると言えばそれも正しい。腐れ縁という言葉が一番近かった。

 

 ボスが一口飲んでから、何でもないように続ける。

 

「今夜、地下で少しばかり景気のいい話があってな」

 

 トールは答えない。

 

「お前の『暴力』が必要なんだ」

 

 橋の上でまた笑い声が上がった。トールはそちらには目を向けなかった。

 景気のいい話、という言葉の中身は、だいたい想像がつく。それが表に出せる種類のものでないことも、もちろん分かっている。分かった上で、彼は特に不快を感じていなかった。

 

 この手の誘いに慣れているからだ、とトールは思っていた。だがそれだけではない。

 

 表で泥をさらっている間、自分は何者でもない。

 ただの若い、過去も未来もない一人の人間が、ポケモンに仕事をさせているだけだ。

 だが地下に降りればどうだ、話が変わる。そこでは自分は『チャンピオン』であり、誰もそれを疑わない。誰かを黙らせることができる場所だ。何者かである場所だ。

 

 それが正しい道かどうかは、考えないことにしていた。正しい道を歩んでいる人間は、そう多くないに違いない。

 

「今夜か」と、トールは短く答えた。

 

「分かった」

 

 ボスが満足そうに頷く。

 トールは残りの作業に戻った。キングラーがまたヘドロの底に腕を伸ばし、何かを引き上げる。

 

 日が傾いてきた。橋の上の人影がだんだん少なくなっていく。光が斜めになるにつれて、運河の水面は橙色に染まっていった。それは確かに、観光客が写真に撮りたがる光景だろう。

 

 岸へ上がったトールの背中には、泥とヘドロがこびりついていた。

 

 乾けば落ちるかもしれない。だが、そうでないものもある。彼自身がそれを選び続けている限り、落ちないものが確かにあった。

 

 蛍光灯もなく、歓声もなく、ただ夕日だけが、ハナダシティを赤く染めていく。

 

 

 

 

 地下通路の中腹には、段ボール箱が積み上げられていた。

 

 きずぐすり。げんきのかたまり。なんでもなおし。

 

 丁寧に梱包されたそれらは、本来であれば旅行者のリュックの中にあるか、あるいは救急物資として行き先が決まっているはずのものだった。

 ではなぜそれらはしかるべきところにないのか。

 今この通路にあることが、すでにその答えだ。

 警察に嗅ぎつかれることはないだろう、ボスはそういう部分は慎重だ。

 

 ボスが段ボールの一つを開けて、中身を改めながらニヤニヤと口を開く。

 

「いやあ、今回は当たりだ。これを全部捌けば当分は食いっぱぐれないぞ」

 

 誰も返事をしなかった。それが必要な言葉ではなかったからだ。団員たちはそれぞれ通路の壁に寄りかかったり、地べたに座り込んだりして、ボスの金勘定を聞き流している。

 

「バイヤーも喜ぶだろうよ。こんだけまとまった量、そうそう手に入らないからな」

 

 ボスが続ける。

 

「俺たちロケット団がやることはこれくらいやって当たり前なんだ。昔のロケット団ってのはな、カントー中からこうやって金を巻き上げてたわけだ、俺たちもそういう連中の末裔なんだから」

 

 団員の一人が「そうだそうだ」と声を上げた。別の一人が「カントーは俺たちのシマだ」と続ける。

 

 その言葉の軽さに、誰も気づいていなかった。本物のロケット団が何をした組織で、なぜ今は存在していないのか、そういう話に彼らは興味がない。

 名前だけを借りることで、自分たちが大きな力の一部であるような気持ちになれる。それで十分だった。

 

 トールは段ボールの山を背もたれにして、腕を組んで座り込んでいる。

 

 ボスの計算が、まだ続いている。

 

 トールはその声を右から左に流しながら、通路の暗い奥に目を向けていた。

 

「早く来ねえかな」

 

 小さく、独り言のように呟く。

 今夜ここに来るはずの相手は、この販路を賭けて戦いに来るセキチクの暴走族の連中だ。

 

 単純だ、勝った方が儲けを独り占め。

 

 どんな面子かは知らないし、興味もない。来たら叩きのめす、それだけだ。

 

 そのことに、疑問はなかった。

 

 奪った医療品をどこに売るか、それで誰が困るか、誰の手に渡らなくなるか、そういうことをトールは考えない。

 考える必要を感じていない。自分の役割は用心棒だ。来る者を叩きのめして、この地下を守る。それがトールにとっての仕事であり、この場所での存在理由だった。

 

 ボスが自分を必要としている、団員たちが自分を頼っている、暴れることができる。

 この地下では自分が一番強い。

 それは全部、事実だった。事実であれば、それは正しいことのはずだ、と、彼は思っている。

 

 時間が過ぎた。

 

 暴走族が来るはずの時間を、少し超えたあたりで、団員の一人がそわそわと口を開く。

 

「遅くないか」

 

 別の団員が「道でも間違えたんじゃないのか」と続けた。笑いを取ろうとした声だったが、笑う者はいなかった。

 

 トールは腕を組んだまま、目だけを通路の奥へ向ける。

 

「逃げたか」

 

 誰も、それに反論しなかった。

 地下通路は静かだった。チカチカと点滅する蛍光灯の音だけが、薄暗い空気の中に漂っている。

 

「相手が逃げたらどうするんですか」

「そりゃおめえ、こっちの総どりだろ」

 

 それを期待するボスの声が響く。

 

 静寂が、少し長くなる。

 

 その時だった。

 

 暗闇の奥から、音が聞こえてきた。

 

 一つ、革靴がコンクリートを叩く音。

 一つ、新しいゴム底がコンクリートをこする音。

 

 一定のリズムで、こちらに近づいてくる。二つの靴音だった。

 

 

 

 

 二つの靴音は、止まらなかった。

 

 一定のリズムのまま、暗闘の奥から近づいてくる。団員たちの視線がそちらに集まった。ボスが顎をしゃくって、近くの団員に懐中電灯を向けさせる。

 

 光の中に、二人の男が現れる。

 

 先頭の男は、ジャケットの襟を立てていた。後ろの男、否、少年と言っていいだろう。

 彼はその少し後ろを歩いており、通路の壁やら天井やら段ボールの山やらを、きょろきょろと見回している。暢気な観光客のような目つきだった。

 

 ボスの表情から、警戒が消える。

 

 暴走族ではない。とすれば、こいつらはただの迷い込んだ一般人か、あるいはカモだ。ボスはそう判断した。

 

「あぁ?」と、ボスは声を上げる。

 

「何しに来やがった、ここは俺たちのシマだぞ」

 

 二人は足を止める。

 

「有り金置いてさっさと消え失せな。いまからこわぁい暴走族が挨拶に来ることになってんだ、そいつらが来る前に消えたほうが身のためだぞ」

 

 先頭の男は、ボスの言葉を最後まで聞いてから、一つ息をつく。

 

「そいつらは来ねえよ」

 

 低く、静かな声だった。

 ボスが「は?」と眉をひそめる。

 男は、心底つまらなさそうに続けた。

 

「さっき外で『世間話』してきた」

 

 鼻を鳴らす。

 

「全員、おうちに帰るそうだ」

 

 通路に沈黙が落ちた。

 

 団員たちが顔を見合わせる。ボスは男の言葉の意味を測るように、しばらく黙っていた。その比喩が何を意味するのか、理解はできる。ただ、信じたくない、という感情がそれを遅らせていた。

 

 トールは二人を眺めていた。

 

 先頭の男は動じていない。当たり前のことを言ったような顔をして、ポケットに手を入れたままでいる。

 只者ではないのだろう、自分自身でそういう雰囲気を醸し出している。

 

 問題はその後ろだ。

 もう一人の男が、相変わらず通路をきょろきょろと見回している。壁の落書きに目を留めて、少し首を傾けた。興味があるのか、ないのか、判断がつかない。

 

 トールは視線をそちらに固定した。

 

 隙がない。

 

 きょろきょろしているのに、隙がない。

 

「お前、ポリ公か?」と、ボスが先頭の男に向かって問うた。

 

 男は薄く笑う。

 

「だったら良かったのにな。まだ何もしてねえんだから、口頭注意で終わりだろ? そういう狡い事だけは頭が回るんだ、お前らは」

 

 ボスの神経が逆撫でされるのが、トールのところからでも分かった。

 

「なんだとてめえ!」と、下っ端の一人が、それより先に動いた。男に向かって拳を振り上げる。

 

 一瞬だった。

 

 男の右腕が動いて、下っ端が床に倒れていた。それだけだった。男は姿勢を崩していない。表情も変わっていない。

 

「馬鹿がよ」と、男は拳を振りながら、倒れた下っ端を一瞥して言う。

 

「不意打ちするならせめてポケモン繰り出せ。腰についてるボールは飾りかよ」

 

 誰も動かなかった。

 男はジャケットのポケットからタバコを取り出し、火をつける。煙を一口吐き出してから、ボスに向き直った。

 

「お前ら、少し前にシオンの芋女にちょっかいかけたろ」

 

 ボスが口を開きかけて、閉じる。

 

「アレな」と、男は続ける。

 

「シオンの偉いジジイの孫娘だったんだよ」

 

 タバコの煙が、湿った空気の中に広がっていく。

 

「まあ個人的には、そういう立場の人間の『社会経験』としては悪くはねえと思ってるんだよ。世の中にゃあ理不尽なこともあれば、悪意もあるってことを、知ることができたわけだ」

 

 男は笑って続ける。

 

「だがまあ、ジジイの方はそうは思わなかったわけだ。まあしゃあねえわな、大事な一人娘の、大事な大事なたった一人の孫だ」

 

 一拍おいて続ける。

 

「人間偉くなるとな、頼るのはジュンサーじゃなくなるんだ」

 

 ボスの顔から、色が抜けた。

 同時に、地下通路からも血の気が引いていく。

 暴走族に勝つ、そして、この地下通路での立ち回り。

 考えられる最悪の可能性がある。

 

「マフィア、かよ」と、ボスは掠れた声で呟いた。

 

 その言葉に、男は薄笑いを浮かべたまま言い捨てる。

 

「まあ似たようなもんだ。俺たちは『暴力』で喰わせてもらってる」

 

 しばらくの間があった。

 ボスは唇を動かして、何かを考えている。それが結論を出したのか、声を絞り出した。

 

「交渉の余地は、ないのか。金なら出す」

 

 必死の提案だったが、男はタバコを持った手を軽く振って拒否する。

 

「残念だがそれはできねえな」

 

 煙をもう一口吐き出す。

 

「吹かしとはいえ『ロケット団』の名前を語るような連中と、仲良くやる義理はねえ。『リーグトレーナー』様がよ」

 

 その言葉が、通路の空気を変えた。

 

 団員たちの間に、小さなざわめきが起きる。

 誰かが『リーグ』と繰り返した。別の誰かが、男の顔をもう一度、改めるように見た。

 

 リーグトレーナー。

 

 その言葉が通路に落ちてから、しばらく誰も口を開かなかった。

 

 最初に動いたのは、団員の一人だった。壁際に立っていたそいつが、隣の仲間の袖を引いて、耳元に何かを囁く。囁かれた方が目を見開いて、男の顔を改めるように見た。

 

 その視線が、じわじわと広がっていく。

 一人が見る。隣が見る。また隣が見る。それぞれの表情が、順番に変わっていった。

 

「クロサワ」と、誰かが掠れた声で言った。

 

 名前が出た瞬間、通路の空気が変わった。

 

 クロサワ。

 カントー・ジョウトリーグのトレーナー。

 リーグに詳しい者であれば、否、多少スポーツニュースを見るような人間であれば、知らない人間はいない。

 ただのプロではない。

 Aリーグでも好成績を残し、チャンピオンであったワタルにも挑戦したトップオブトップ。

 

 団員たちの顔が、みるみる引きつっていった。壁際の者が半歩後ずさる。地面に倒れたままの下っ端は、もはや起き上がろうともしていない。

 

 クロサワは、それらの反応を特に気に留める様子もない。

 

「おいおい」と、ボスが声を上げた。

 

 引きつった顔のまま、それでも両手を広げて声を張り上げる。

 

「ビビるんじゃねえ、ビビるんじゃねえよ! むしろこれは名誉なことだろうが! ついに俺たちネオロケット団は、リーグトレーナー様にも目を付けられるほどの組織になったってことだ! 箔がついたじゃねえか!」

 

 団員たちがざわめく。一人が「そうだ」と声を上げた。別の一人が「俺たちはロケット団だ」と続ける。ボスの煽りが、恐怖を薄く塗り替えていく。

 

 クロサワは、ふぅ、と深く息を吐いた。

 

「ああ、そうだ」

 

 タバコを床に落として、靴で踏み消す。

 どこかめんどくさそうに、言葉を続ける。

 

「その『ネオロケット団』とかいう名前についてなんだがな」

 

 一歩、前に出る。

 

「ガキの遊びで『ロケット団』は名乗らないほうがいい。本気になっちゃう大人もいるからな」

 

 その言葉は、脅しのような熱さを持っていなかった。忠告にしては冷たく、それでいてどこか、ごみ箱に向かって言い聞かせているような、静かな語り口だった。

 

 ボスが顔を歪める。

 

「ふざけんじゃねえ!」

 

 自分の統率力が崩れていくのを感じたのだろう、声が一段と大きくなる。

 

「俺はあのロケット団の流れを汲む存在だ! この俺が新しいロケット団を名乗らなくて、一体誰が名乗るんだよ!」

 

 トールはその言葉を聞きながら、ボスの横顔を眺める。

 

 ロケット団の流れを汲む。それが、ボスの殺し文句だった。

 この地下でトールを含む不良たちをまとめ上げることができたのは、その一言があったからだ。

 幹部の血脈、残党の系譜、そういう話を信じた者たちが、ボスの周りに集まった。トールも、最初はそれを聞いた。聞いて、どうでも良いと思った。強い奴についていく、それだけの話だと思っていたから。

 

 クロサワは、ボスの言葉を最後まで聞いてから、薄く笑う。

 

「へえ、ロケット団の流れね」

 

 新しいタバコに火をつけながら、滑稽なものを見るような目で、続ける。

 

「じゃあ、お前は誰の下についてたんだ。アポロか? アテナか? ランスか? ラムダか?」

 

 一拍おいた。

 

「それとももっと下か? タナハシか? ナカムラか? マカベか?」

 

 名前が並ぶたびに、通路の気温が下がっていくように感じた。

 団員たちのざわめきが、止まっていた。ボスの口が、わずかに開いて、閉じた。

 

 クロサワの口から出てきた名前は、ボスが聞いたことのないものだった。

 しかし、その響きは、自分たちが『ロケット団』と口にするときの薄っぺらさとは、まるで違う重さを持っていた。

 それが本物の名前であるということが、説明されなくても伝わってくる。

 

「なんなんだよ、お前」

 

 ボスの声が、震えた。一歩、後ずさる。

 

 クロサワはタバコの煙を吐き出してから、軽い口調で返す。

 

「諸事情でな、ロケット団の上の方の連中とは顔なじみだ。どうだ、ちょっとした身内ネタで盛り上がろうや」

 

 誰も、何も言わなかった。

 

 ボスは口をパクパクと動かしている。だが、言葉が出てこない。出てくるはずがなかった。知らない名前ばかりだったからだ。ロケット団の流れを汲むと言い張っていた男が、ロケット団の幹部の名前を一つも知らない。それはその場の全員が、今この瞬間に理解したことだった。

 

 団員たちは押し黙っていた。壁に寄りかかっていた者が、静かに目を伏せる。

 

 クロサワが、もう一度口を開く。

 

「まあ、ガキはガキらしく、自分の身の丈に合った名前でも付けて盛り上がれや」

 

 冷たかった。だが怒鳴っているわけではない。それが逆に、この通路の隅々まで、冷気のように染み渡った。

 

「お前らも、このまま、お家と、この薄汚い掃きだめを往復する生活を、飽きるまで続けりゃいい」

 

 一拍おいて、続ける。

 

「だが、しばらくはおとなしくしとけ」

 

 ボスは、何も言えなかった。

 地下の王様は今、ただの若い男に戻っていた。顔を真っ青に染めたまま、唇を震わせながら、それでもどこかに逃げることも、反論することも出来ずに立ち尽くしている。

 

 チカチカと、蛍光灯が点滅している。

 

 クロサワは立ち去ろうとしなかった。タバコの煙を緩やかに吐き出しながら、まだその場に立っている。

 

 トールはクロサワから視線を切って、その後ろの男に目を向けた。

 

 男は爪先で地面をトントンと叩いていた。退屈しているのか、考え事をしているのか、やはり判断がつかない。判断がつかないまま、その男はこちらを見ようともしていなかった。

 

 最初に動いたのは、壁際の下っ端だった。

 

 精神的に追い詰められた者が取る行動の種類は、大体において限られている。

 逃げるか、縮こまるか、あるいは無謀で手近な何かに縋るか。

 彼は三番目を選んだ。

 

 誰も気にしていなかった後ろの男、ずっときょろきょろしていた少年の背後に、音もなく近づく。

 

 懐から取り出したナイフの刃が、蛍光灯の光を鈍く反射した。

 

 その切っ先が、少年の首筋に触れる。

 

 クロサワが、即座に顔色を変えた。

 

「おい、動くな」

 

 鋭い声だった。それまでのどこかめんどくさそうな口調とは、まるで別の声だった。

 ボスの口元に、笑みが戻ってくる。

 

「おいおい」と、声を弾ませて続ける。

 

「形勢逆転だなァ。連れのガキの命が心配なら、大人しくこっちの言うことを聞いてもらおうか」

 

 トールも、それを見て一歩前に踏み出した。

 さっきまでの冷水が、少し薄まった気がした。この地下では自分が一番強い、そのはずだった。

 ならば、あとは詰めるだけだ。

 

 だが、クロサワの視線は、ボスたちには向いていなかった。

 ナイフを突きつけられている少年だけを見ていた。その目は焦りではなかった。それよりも、もっと具体的な何かを計算している目だった。

 何かを知っている人間の目だった。

 

「てめぇらに言ってねえ! 勘違いすんな」

 

 クロサワはボスたちに向かって静かに言い捨て、それから、少年に向き直る。

 

「動くなよ。下手な気を起こすんじゃねえ」

 

 その声には、さっきとは別の種類の緊張があった。怒鳴るような熱さではなく、まるでその少年に最大限の気を使っているような、懇願しているような、そんな。

 

 ボスが意味を摑みかねたのか、眉をひそめて下っ端に命令する。

 

「おい、何ビビってんだ。ちょっとばかしそのナイフで、ガキの皮膚を撫でてやれ」

 

 返事がなかった。

 下っ端は、動かなかった。

 指一本、動かなかった。冷や汗が顎から滴っている。目だけが恐怖に泳ぎ、それ以外の全身が、まるで石になったように硬直している。

 

 トールはそれを見て、眉をひそめた。

 

 少年の方を見る。

 少年は、ナイフを突きつけられたまま、ふぅ、と退屈そうにため息をついた。

 

 それから、自分の首元にある下っ端の手首を、当たり前のように掴む。壊れ物でも扱うように、あるいはマネキンの腕でも動かすように、グイと押しのけた。ナイフが遠ざかる。

 

 少年はそのままスタスタとクロサワの隣まで歩いていく。

 

「クロサワさん、もう帰りましょうよ」と、少年は何でもないことのように言った。

 

「時間の無駄ですよ」

 

 その声の波長が、トールの耳の中で妙な引っかかりを残した。

 緊張感がなかった。脅されていた人間の声ではなかった。

 

 それどころか、今の今まで自分の首にナイフが当たっていたという事実を、そもそも認識していなかったような、間の抜けた声だった。

 

 混乱を隠し切れない様子を隠そうともせず、ボスが怒鳴る。

 

「何やってる、さっさとそのガキを捕まえねえか!」

 

 その声に、下っ端が、泣きそうな声で口を開く。

 

「ち、違うんです……! 体が、指一本、全く動かないんです、急に……急に、『かなしばり』に遭ったみたいに……!」

 

 トールは、その言葉を聞いて、通路を改めて見回した。

 

 ポケモンは出ていない。

 そして、その気配もない。

 

 少年はモンスターボールを投げていない。投げる素振りすらしていなかった。それどころか、ボールに手を伸ばした様子もなかった。

 あのきょろきょろとした目が、通路のどこかに向いた一瞬が、あったのかどうか、トールには分からなかった。

 

 分からないまま、下っ端は動けずにいる。

 

 考えられるのは、ポケモンがボールの内部から何らかをしているということだ。

 

 だが、そんなことができるのか?

 

 ほんの一瞬の気配だけで。この通路にいる人間を一人、完全に縫い留めている。それがどれほどの練度を必要とするのか、トールには想像もできなかった。できないことが、逆に、皮膚に直接触れてくるものがあった。

 

 少年はクロサワの隣に立ったまま、ネオロケット団の面々を特に気にする様子もない。

 

「これ以上ここにいてもしょうがないでしょ」

 

 同じ平坦な声で言う。

 

「何もないですよ、ここには」

 

「仕方ねえだろ、仕事だ」と、クロサワが短く返す。

 

「大体、なんであんなことになったんだよ」

「ポケモン出すなって言ったのはクロサワさんでしょ」

「身の危険を感じたら良いと言っただろ」

 

「別に感じませんでしたもん」

 

 その言葉が、通路に落ちた。

 落ちて、しばらく、誰も何も言わなかった。

 トールは、全身の血が引いていくような感覚の中で、ばらばらだったものが一つに繋がっていくのを感じていた。

 あのきょろきょろとした目。隙のない気配。ノーモーションの呪縛。そして今の言葉。ナイフを首筋に当てられて、身の危険を感じなかった。感じなかったと、当たり前のように言った。

 

「お前」と、トールは声を出した。

 

 かすれていた。自分でも気づかなかった。

 

「モモナリだな」

 

 

 

 

 その名前が通路に落ちた瞬間、ざわめきが起きた。

 壁際にいた団員の一人が、隣の仲間の腕を掴む。別の一人が、半歩後ずさった。誰かが掠れた声で何かを言いかけて、飲み込んだ。

 

 モモナリ=マナブ。

 

 ハナダ出身。十代の前半でジムバッジをコンプリートしてリーグのプロになり、シンオウ遠征では公式非公式を問わず目があったトレーナーを片っ端から叩き潰した。

 

 通り魔。

 狂犬。

 暴力の化身。

 

 そういった言葉と一緒に、この名前は不良たちの間にも流れ込んでいた。噂の類いは尾ひれをつけて広がるものだが、この名前に限っては、尾ひれを剥がしても残るものの方が十分すぎるほど恐ろしかった。

 

 当の本人は、トールの視線を受けて、わずかにそちらを見る。

 

 一秒もなかった。

 

 路傍の石を確認するような目つきで、それだけで視線をクロサワに戻す。

 

「さっさと仕事してくださいよ」

 

 今まで自分の名前が叫ばれたことなど、どうでもいいという声だった。

 

「クロサワさんならすぐでしょ、こんなの」

「あほか」

 

 クロサワが呆れたようにため息をつく。

 

「多少の説教は必要なんだよ」

 

 目の前に十五人の不良が立っていて、しかし二人の口調は、そのことを完全に背景として処理していた。戦う相手として見ていない。それが何より、トールの皮膚に触れた。

 

 ボスの顔が、みるみる赤くなった。

 

 プライドをへし折られ、コケにされ、部下の前でただの道化として扱われ続けた男が、最後に選べる手段は一つしかない。

 

「やれ」

 

 ボスが団員たちに向かって叫んだ。

 

 合図だった。

 

 団員たちが動き、二人を囲む。十五人が、じりじりと距離を詰めていく。

 二人は眉一つ動かさなかった。

 

「だってよ」

 

 クロサワが、横目でモモナリを見る。

 

「お前はどう見る」

 

 モモナリは周囲を見渡す素振りもなく、即答した。

 

「こっちは十二。向こうは十五でしょ。それも、パンチやナイフよりも信頼されてないレベルの」

 

 トールは、その言葉の意味を一瞬遅れて理解した。

 

 十二対十五。

 

 この通路に足を踏み入れた最初の数秒で、この男の計算はすでに終わっていた。何人いるか、どこに立っているか、腰のボールに何が入っているか、誰が前に出てきて誰が後ろに下がるか、全部を、あのきょろきょろとした目が拾っていた。

 

 それを確認と呼ぶような素振りすら、今この瞬間まで見せなかった。

 

 囲まれた空気の中で、不良たちの殺気が頂点に達する。

 

「クロサワさん」

 

 モモナリが口を開いた。

 

「ポケモン出していいですか?」

「ああ、しゃーねーだろ」

 

 音はなかった。

 

 派手なエフェクトも、宣言も、何もなかった。モモナリの傍らに、ジバコイルが音もなく滑り出る。ただそれだけだった。

 

 次の瞬間、蛍光灯が消えた。

 

 正確には、消えかけた。異常な明滅が走り、チカチカという音が一瞬だけ高まって、通路全体が電磁波の圧力に包まれた。それは音ではなく、皮膚と、肺の奥と、頭の芯に直接触れてくるものだった。

 

 不良たちが悲鳴を上げながら、腰のボールに手を伸ばした。

 

 だが、プラスチックの虚しい音だけが、通路に響く。

 誰のボールも、開かなかった。

 

「なんだお前ら」

 

 クロサワが、呆れたように鼻で笑う。

 

「開閉スイッチ切ってないのかよ」

 

 モンスターボールの開閉スイッチ。

 

 外部からの衝撃による暴発や、電磁波などによるシステムエラー、そして何よりしつけのできていないポケモンの逃走を防ぐための機構だ。

 

 ポケモンを完全に御し、戦いを日常とするプロであれば、ボールの初期設定など入門の話に過ぎない。

 スイッチをオフにして、緊急時にはポケモン自身の意思で飛び出せるよう管理しておく。それが当たり前だった。

 

 ネオロケット団のボールは、スイッチが入れっぱなしだった。初期設定のまま、何も考えずに腰にぶら下げていたそれは、ジバコイルが放った高濃度の電磁干渉によって一瞬でシステムをハッキングされ、ただの重いプラスチックの塊になっている。

 

 パニックになった団員たちがボールをいじり回している。ボスが声を上げようとして、しかし言葉が出てこない。

 

 静かになった通路で、モモナリが口を開いた。

 

「これで」

 

 淡々と、続ける。

 

「十二対二だね」

 

 プロ二人の手持ちフル戦力、十二。

 ネオロケット団十五人のうち、辛うじてボールが機能しているのは、キングラーとオコリザルを抱えるトール一人だけだった。

 

 その視線が、静かにトールを捉えた。

 

 熱はなかった。

 期待も、敵意も、怒りも、何もなかった。それでも、その目がこちらに向いているという事実だけが、トールの全身に冷たいものを走らせた。

 

「君だけだね」と、モモナリは言った。

 

「意識が高かったのは」

 

 それ以上の言葉はなかった。褒めているのか、確認しているのか、あるいはただ事実として述べているだけなのか、その声の温度からは判断ができない。

 

 ボスが、その沈黙に割って入った。

 

「ビビんなトール」

 

 顔がひきつっている。それでも声を絞り出して、続ける。

 

「お前は俺たちのチャンピオンだろうが。差しでこいつらをブチのめしてやれ」

 

 クロサワが、ボスに顔を向けた。

 

「お前、ちょっと黙ってろ」

 

 それだけだった。怒鳴ってもいない、凄んでもいない。ただそれだけを言った。

 ボスは口を閉じた。それ以上、何も言えなかった。声が出なかったのか、言葉が出なかったのか、あるいはその両方か。押し黙る、ああいう状態のことを言うのだろうと、トールは場違いにも思った。

 

 トールはボールを握りしめたまま、モモナリを見る。

 

 ボスが潰された。団員たちのボールは開かない。この地下で積み上げてきたものが、ここにいる二人の人間によって、この短い時間の中で、何一つ残らず引き剥がされていく。

 

 それでも、トールは前に出た。

 

「タイマン張れ、モモナリ」

 

 声が震えないように、ただそれだけを意識しながら言った。

 

「どっちが『ハナダ最強』なのか、今ここでハッキリさせようぜ」

 

 だが、そのバトルの誘いを、モモナリは鼻で笑った。

 

「いやだよ、めんどくさい」

 

 心底だるそうな声だった。

 

 トールは、その言葉を一度、頭の中で繰り返した。いやだよ、めんどくさい。モモナリ=マナブが、バトルを断った。

 他地方でも目があった相手に片っ端からバトルをふっかけると聞いていた男が、今この瞬間、面倒くさいと言って断った。

 

 逃げている、という考えは、浮かばなかった。

 

 それが浮かぶためには、自分にはまだモモナリというトレーナーへの侮りが必要だった。だがこの男が放つ暴力のオーラを、この距離で受け続けた後では、その侮りを作り出せるだけの場所が、トールの中にはもう残っていない。

 

「なぜだ」

 

 喉を鳴らしながら、それだけを絞り出した。

 

 モモナリはため息をついてから、口を開く。

 

「君がこのグループで一番強いのはまあ、わかるよ。だけど所詮それだけだ」

 

 一拍おいて、続ける。

 

「『ハナダ最強』だって? 君はそのレベルにはない。ハナダジムのトモキさんにすら劣るよ」

 

 クロサワが、新しいタバコに火をつけた。めんどくさそうに、わずかに歯を食いしばりながら。

 

「何も実力だけの話じゃない」

 

 モモナリの言葉は止まらなかった。かつてクロサワに言われた『喋りすぎろ』という教えを忠実に守っている。

 

「実力が劣っていても、戦いたくなるような価値のあるトレーナーだっている。だけど君はそれですらない。こんな地下の吹き溜まりで、自分が絶対に勝てる相手だけを提供されて、強いつもりになってる。ぬるい場所で、ぬるい勝ちを積み上げて、ぬるいプライドを育てて、それで満足してる。君みたいな性根のトレーナーは、俺はこれまで何人も見てきたし、戦ってもきた。だから、もう飽きちゃったんだよ」

 

「おいモモナリ、その辺にしとけ」

 

 クロサワが制止しようとした。だが、モモナリは聞いていなかった。

 

 クロサワには分かっていた。今この瞬間のモモナリを、物理的に止められるだけの力を持つ人間は、この通路に一人もいない。かつてサカキのトキワジムを見てきた凄みを知るクロサワですら、この十代の少年がひとたび牙を剥けば、それを止めるのには骨が折れる。

 

 抑え込めるとは言い切れない。

 

 それがプロの領域の危うさだった。言葉の暴力であれ、ポケモンを介した暴力であれ、この男がそれを向けている間、止められる人間などどこにもいない。

 

「野生のポケモンとおんなじだ」

 

 モモナリは続ける。

 

「君達は負けても失うだけだ、ただただね」

 

 通路が静まり返った。

 トールは、その言葉の一つ一つが、皮膚の下まで染み込んでくるのを感じていた。反論の言葉を探した。

 どこかに、この男の言葉を否定できる根拠があるはずだと思った。だが、どこを探しても、それが見つからなかった。見つからないことが、否定することよりも恐ろしかった。

 

「ずいぶんと余裕なんだな」

 

 声を振り絞った。震えていた。

 

「てめえ、自分が負けるとは思わねえのかよ」

 精一杯の挑発であったが、モモナリはそれにも鼻を鳴らす。

 

「まったく思わない」

 

 モモナリはあっけらかんと答えた。

 

「百パーセント、百パーセント俺が勝つ。君と違って、俺はそういうのは好かないんだ」

 

「体のいいこと言って」

 

 トールは、自分でも本心では思ってもいない言葉が、口から出てくるのを感じた。

 

「結局は逃げようとしてるだけじゃねえか」

 

 モモナリは、動じなかった。

 ピクリとも動かなかった。それどころか、底冷えするような静かな笑みが、その口元に浮かんだ。

 

「そう思うなら」

 

 ゆっくりと、続ける。

 

「俺にバトルをさせてみればいい。簡単なことじゃないか。君はバトルをしたい。俺はしたくない。戦いの始まりはいつだって、意見の相違から始まるんだ」

 

 一歩、前に出た。

 

「ポケモンを繰り出して、俺に本気の殺意を向けてみればいい。そうなれば、さすがに俺もポケモンを繰り出さざるを得ないし、それを完膚なきまでに叩き潰すしかないんだから」

 

 それはある意味、バトルを許可されたようなものだっただろう。

 

 だが、トールは、動けなかった。

 オコリザルのボールを握る指が、震えていた。カタカタと、止められなかった。

 

 今ここでボールを開けば、何が起きるか。

 

 キングラーとオコリザルが出る。そしてジバコイルが、それを叩き潰す。

 

 勝ち負けの話ではない。この男のポケモンは、そういう次元の『暴力』を持っているのだろう。自分が積み上げてきたキングラーの力も、オコリザルの闘争心も、この化け物の前に差し出した瞬間に何が残るのか、体が知っていた。体が先に理解していた。

 

 これまで地下通路で少しずつ育ててきたもの、絶対に負けない場所で積み上げてきた最強のプライド、それをこの男の前に差し出すことの恐怖が、トールの全身を縛り付けていた。

 

 トールは、黙った。

 

 それ以外に、できることがなかった。

 

 その時、クロサワが前に出る。

 

 モモナリとトールの間に、その背中が割って入る。大きくはない背中だが、それで十分だった。

 

「もういいだろその辺にしとけ、モモナリ」

 

 振り返りはしなかった。彼に向けたままの声で、静かに続ける。

 

「喋りすぎだ」

 

 その言葉は、不良たちへの怒りを含んでいなかった。

 

 怒りではなく、判断だった。これ以上この言葉が続けば、目の前の子供たちの何かが完全に壊れる。それを見抜いた上での、クロサワなりの止め方だった。

 気づけばクロサワはもう、圧倒的な捕食者であるモモナリの側ではなく、哀れな不良たちを庇う側に立っていた。

 本人が意識していたかどうかは分からない。だがその背中は、確かにそちらを向いている。

 

 クロサワは不良たちを見渡してから、低く静かに告げた。

 

「とにかくだ、しばらくここに溜まるのはやめとけ。しばらくは、お前らの動向を上からチェックさせてもらうからな」

 

 それから、顔を真っ青にしてガタガタと震えているボスに歩み寄り、その胸ぐらをグイと掴み上げた。容赦はなかった。

 

「だが、お前だけは補習だ。いくつか、じっくり世間話もあるしな」

 

 ロケット団を騙った罪の重さ。本物の地獄を知る男が直々にそれを叩き込むということが、どういうことなのか、ボスには想像もできないだろう。

 だからこそ、その言葉の意味を理解できない分だけ、ボスの顔はより青ざめていった。

 

「はいはーい、それじゃ、先出ときますね」

 

 モモナリが、気の抜けた声で相槌を打つ。

 

 それだけだった。トールへの視線を外して、踵を返す。キングラーのボールを握りしめているトールに対して、一瞥もくれなかった。振り返らなかった。何かを確認することもなく、スタスタと地下通路の出口に向かって歩き出した。

 

 その背中が、トールには直視できなかった。

 

 隙だらけだった。今なら不意打ちができる。後ろからポケモンを叩き込める。本能がそう告げていた。間違いなく、今のモモナリの背中には隙がある。

 

 だが、体が動かなかった。

 

 動かない理由が、トールには分かった。

 

 あの無防備さは、隙ではない。お前らが後ろから何をしようが、俺を脅かすことすらできない、という事実の裏返しだ。

 振り返る必要がないから、振り返らない。

 確認する必要がないから、確認しない。

 それだけの話だった。その背中が放つ壁の厚さを、トールの体は正確に理解していた。理解しているから、動けない。

 

 足音が遠ざかっていく。

 

 モモナリの足音と、クロサワの足音と、引きずられるボスの靴が立てる音が混ざり合いながら、地下通路の奥へと消えていく。

 

 ジバコイルが、いなくなった。

 

 チーン、と軽い電子音が、あちこちから一斉に鳴った。ロックが解除されたモンスターボールのシステム音だった。

 

 静まり返った通路の中で、その音だけが妙にのどかに響いた。

 

 クロサワの声が、最後に一度だけ振り返った。

 

「まあ、気にすんな」

 

 ぶっきらぼうな声だった。トールに向けられていた。

 

「あいつが特殊なだけだ」

 

 それきり、足音は聞こえなくなった。

 

 しばらくして、壁際にへたり込んでいた下っ端の一人が、冷や汗を拭いながらおそるおそるトールの顔を覗き込む。

 

「ト、トール……どうする? 暴走族の連中も来ねえみたいだし……これから、俺たち……」

 

 トールは答えなかった。

 答えられなかった。悔しさも、怒りも、湧いてこなかった。悔しがるための場所が、もうどこにもない気がした。

 

 脳裏に残っているのは、モモナリの目だった。自分を路傍の石として確認して、すぐに興味を失ったあの目。ハナダジムのトモキにすら劣ると言い切った、虚ろな声。そして何より、振り返ることすらしなかった、あの背中。

 

 この地下通路で育ててきたものが、跡形もなく消えていた。絶対に負けない場所で積み上げてきたはずのプライドが、今夜どこかに落としてきてしまったのか、探しても見つからない。

 

 残っているのは、戸惑いと、恐怖だけだった。

 

 化け物に出会ってしまったという、根源的な、説明のしようのない恐怖だけが、キングラーのボールを握りしめた手の中で、まだカタカタと震え続けていた。

 

 トールは暗闇を見つめたまま、一言も、発せられなかった。




次回投稿は6/9です。



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