モモナリですから、ノーてんきにいきましょう。   作:rairaibou(風)

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セキエイに続く日常 18-キンタマ橋で会いましょう ③

 それから、毎日ジムに行った。

 

 昼間は親方の仕事をこなして、夕方になるとハナダジムの練習コートに向かう。トモキと打ち合いをして、他の門下生の相手をして、閉館近くまで体を動かし続けた。短パン小僧の言葉を思い出す夜もあった。コラッタの目を思い出す夜もあった。答えはまだなかったが、足は止めなかった。

 

 その夜も、トモキと向かい合っていた。

 

 何度目かは、もう数えていなかった。

 

 キングラーが、倒れた。

 

 続いてオコリザルも、水しぶきを上げながらコートに崩れ落ちた。プールの水面が波立ち、天井の光を不規則に弾き返している。静寂が、その広い空間に満ちていた。

 

 以前のトールなら、ここで何かが消えた。

 

 自分の価値がすべて剥ぎ取られたような感覚に囚われて、膝をつき、床を見て、そのまま動けなくなっていた。

 

 だが今、脳裏に焼きついているものがあった。

 

 コラッタの目だった。傷ついたまま、前を向いていた、あの目だった。

 

 トールは震える手で、キングラーのボールを拾い上げた。続いてオコリザルのボールも。両手でそれぞれを握りしめて、立ち上がった。悔しさで視界が歪みそうだった。惨めさが喉の奥から込み上げてくる。それを、奥歯を噛み締めて堪えた。

 

 逃げなかった。

 

 トモキの前から、動かなかった。

 

 頭を下げたまま、口を開く。言葉を探した。これまで使ってきた言葉は、どれも使えなかった。地下通路での言葉も、チャンピオンとしての言葉も、全部どこかに落としてきた。だから、残ったものだけで、絞り出した。

 

「……負けた」

 

 掠れた声だった。

 

「……俺の、完敗だ。……だけど、俺は、ここで終わりにしたくねえ」

 

 一度止まった。続きを探す。

 

「……教えてくれ。俺のバトルの、何が、何が悪かったんだ」

 

 語彙が追いつかなかった。言葉がぶつ切りになった。それでも、止めなかった。

 

「あいつに言われたみたいに、俺のバトルはただのゴミなのか。負けたら何も残らない、ただそれだけなのか。……俺は、次は、次はどうすれば、あいつらの前に……ちゃんと、立てるようになるんだ」

 

 最後の方は、声にならなかった。

 

 プールの水面が、静かに揺れていた。

 

 後ろで、トモキが息をついた。頭を掻いて、小さく笑った。声には出さなかったが、その笑い方が何かを示していた。

 

 カスミが、前に出た。

 

 トールの前まで歩いてきて、止まった。その目を、真っ直ぐに見た。かつて地下に逃げ込んでいた不良を見る目ではなかった。冷たさも、侮りも、そこにはなかった。

 

「……合格よ、トール」

 

 静かに言った。

 

「あなた、ちゃんと『価値ある負け』を掴み取ろうとしてるじゃない」

 

 トールは顔を上げた。

 

「今までのあなたは、自分が傷つかないために、勝てる相手だけを嬲って最強ごっこをしてた。だから格上に出会った時、自分が壊されるのが怖くて動けなくなった」

 

 一拍おいた。

 

「でも、今のあなたは負けを受け入れて、そこから何かを毟り取ろうとしてる。モモナリがあなたとの勝負を拒んだのは、技術のせいじゃない。あなたが負けを次に繋げられない、つまらないトレーナーだったからよ」

 

 その言葉が、胸の中に落ちた。

 

 痛かった。だが、逃げる気にはならなかった。今度は、その痛みから目を背けなかった。

 

 トモキが一歩前に出て、トールの肩を軽く叩いた。

 

「あいつは、負けても目をギラギラさせてる奴が大好物なんだよ」

 

 苦笑いしながら、続けた。

 

「今のその惨めな悔しさを、一滴も忘れるなよ、トール。技術の基本はできてるんだ。だったら次は、その基本を相手に崩された時にどう足掻くか、泥水のすすり方を身体に叩き込め」

 

 カスミが、腕を組んで言った。

 

「明日から、ジムの裏コートを使いなさい。トモキがあなたの特訓に付き合ってあげるから」

 

 それだけだった。

 

 トールは、ボールを握りしめたまま、しばらく動かなかった。自分の欠落が何だったのか、今ならはっきりと分かった。分かった上で、まだそれが直っていないことも分かった。直すのはここからだ。今夜ではない。明日から、泥水をすすりながら、少しずつだ。

 

 コートの水面が、ようやく静かになっていた。

 

 トールは顔を上げた。

 

 視界は、まだ少し歪んでいた。だがその奥に、消えないものがあった。惨めさや悔しさとは別の、もっと深いところから来るものだった。それが何なのか、まだ言葉にはできなかった。

 

 ただ、消えなかった。

 

 

 

 

 仕事が終わった。

 

 防護服を脱いで、長靴を脱いで、軽トラックの荷台に腰を下ろした。体中に泥の匂いが残っていた。夕日が低くなって、作業現場の水たまりが橙色に光っていた。

 

 親方が缶コーヒーを二本持ってきて、一本をトールに放った。冷たかった。アルミの感触を手のひらで確かめながら、トールはしばらく口をつけなかった。

 

 心地よい疲労感だった。

 

 ぎらぎらした焦燥は、今この瞬間だけは遠かった。ジムで負けたこと、短パン小僧の目、カスミの言葉、それらは全部頭の中にあったが、今夜の打ち合いまでの時間は、ただそこに座っていた。

 

 親方がタバコに火をつけた。

 

 煙が夕風に流れていく。それを眺めながら、トールはずっと喉の奥に引っかかっていたものを、ぼそりと吐き出した。

 

「なぁ、親方」

 

 親方が横目でトールを眺める。

 

「負けて学ぶことなんて、本当にあるのか?」

 

 言い終えてから、自分でも何を聞いているのか分からないような気がした。頭では分かっている、つもりだった。カスミに価値ある負けと言われた。短パン小僧の目を見た。それで何かが動いた。だが、どこかまだフワフワしていた。自分のものになりきっていない感覚が、ずっとそこにあった。

 

 親方は、トールの横顔を一目見て、ハハッと笑った。

 

「あほか」

 

 煙を一口吐き出してから、続けた。

 

「人生なんて失敗の連続よ」

 

 説教の口調ではなかった。当たり前のことを言う声だった。

 

「例えば今日だ。午後の仕事、ぬるかったろ」

 

 そう言われれば、そうだった。昼過ぎから、手持ち無沙汰な時間があった。

 

「あれは俺が配分をミスったからだ。お前さんの覚えが速くて、俺の予想より早く仕事が回るようになったのよ。だから現場がちょっと手持ち無沙汰になっちまった。俺の計算違い、完全な失敗さ」

 

 親方は特に恥ずかしそうでも、悔しそうでもなかった。ただそういう事実があった、という顔で言った。

 

「だが、次はうまくやる。明日からはお前さんのスピードに合わせて、もっと効率よくヘドロを回せるように配分を組み直す。失敗したから、今日より明日の方がもっといい仕事ができる」

 

 一口、コーヒーを飲んだ。

 

「ただ、それだけのことだろ」

 

 トールは、その言葉を聞きながら、缶を握る手に力が入るのを感じた。

 

 何かが、噛み合った。

 

 短パン小僧が、つぎは絶対ぶっとばすと笑っていた。カスミが、向き合い方と言った。トモキが、泥水のすすり方を叩き込めと言った。それらが全部、今の親方の言葉と同じ場所に繋がった。難しいことではなかった。ただそれだけのことだった。

 

 負けを恐れてボールを握りしめたまま立ち尽くしていた自分が、どれほど狭い場所で独りよがりに怯えていただけだったのか、その輪郭がはっきりした。負けたらすべてが終わると思い込んでいた。だが終わっていなかった。短パン小僧は終わっていなかった。親方も、失敗するたびに終わっていなかった。

 

 次はうまくやる。

 

 それだけのことだった。

 

 トールは残りのコーヒーをぐっと飲み干した。

 

「そっか」

 

 缶を膝の上に置いてから、もう一度呟いた。

 

「次は、うまくやる、か」

 

 自分の声で言うと、今度は自分のものになった気がした。

 

 夕日が、作業現場を赤く染めていた。水たまりの橙色が、少しずつ暗くなっていく。トールはそれを眺めながら、もう何も言わなかった。

 

 迷いは、まだ全部消えたわけではなかった。

 

 だが、どこに向かえばいいのかは、分かった。

 

 

 

 

 ジムの裏門を出ると、夜霧が漂っていた。

 

 街灯の光が薄く滲んで、足元だけをぼんやりと照らしている。昼間の作業現場の熱気も、コートの熱気も、夜の冷たい空気の中に消えていた。全身の筋肉がきしんでいた。泥と汗の匂いが、まだ体のどこかに残っている。

 

 その暗がりから、声がかかった。

 

「おい、トール」

 

 低く、掠れた声だった。

 

 ビルの影から、人影が出てきた。服が薄汚れていた。目元に焦燥と怯えが滲んでいたが、トールの顔を見た瞬間、かつての笑みを取り戻そうとした。うまくいっていなかった。

 

 ボスだった。

 

 クロサワに連行されてから、ずっと身を隠していたはずの男が、ここにいた。

 

 トールは立ち止まった。

 

 ボスがトールの肩をガシッと掴んで、周囲を窺いながら早口で捲し立てた。

 

「探したぞ、お前。リーグの犬どもに地下は潰されちまったが、俺はまだ終わっちゃいねえ。もう一度『ネオロケット団』をやるぞ。今度はもっとデカい組織だ。次はもっと、うまくやる」

 

「セキチクの暴走族集団と裏で話をつけてきた。あいつらの兵隊と、俺たちの残党を合わせれば、カントーで一番でかいワル集団がつくれる。あいつやリーグのプロどもだって、数で囲んでなぶり殺しにすりゃあいいんだよ。お前はまた、俺たちの最強のチャンピオンとして頭を張ってくれ」

 

 トールは、その言葉を聞きながら、ボスの顔を見ていた。

 

 寒気がした。

 

 白々しさ、という感覚が、これほどはっきりしたことはなかった。数で囲む。一番でかいワル集団。その言葉の一つ一つが、泡のように軽かった。かつての自分なら、その派手な話に目を輝かせていたかもしれない。だが今の自分には、ボスが言っていることが、おままごとを大きくしているだけにしか見えなかった。

 

 カスミたちに負けて、何が悪かったのかを泥臭く問い始めた。親方から、失敗を次に繋げるという話を聞いた。その時間と、目の前の男が持ち込もうとしているものが、あまりにもかけ離れていた。負けた現実から目を背けて、形だけを大きくして全能感をやり直そうとしている。それが、今のトールには耐え難いほど格好悪く映った。

 

 トールは一度鼻を鳴らして答える。

 

「正気かよ、ボス」

 

 冷めた声が出た。焦燥も混じっていた。

 

「カントーのチンピラが集まったくらいで、本物のポケモンリーグと喧嘩しようっていうのかよ」

 

 一拍おいて、唇を噛んで続ける。

 

「ついこの間のこと、もう忘れたのかよ。たった二人のプロを前に、俺たちは何もできなかったじゃねえかよ。数が集まったところで、あの化け物どもの前じゃただの肉の壁だぞ」

 

 ボスが、一瞬言葉に詰まった。

 

 やはり反論はできない、とトールは思った。事実だからだ。だがボスは黙らなかった。目を血走らせて、今度は別の声を出した。

 

 ハッタリではない声だった。

 

「だからだよ、トール」

 

 少し間があった。

 

「だから、お前がいるんじゃねえか」

 

 トールは、その言葉を聞いて、何も言えなくなった。

 

「俺には才能がない。セキチクの連中もただのハッパだ。だけどお前は違うだろ。お前は俺たちのチャンピオンだ。お前がハナダジムで腕を磨いて、あの化け物どもをブチのめせる本当の怪物になってくれりゃあ、誰も俺たちをナメられなくなるんだよ。俺には、お前が必要なんだよ」

 

 声が、本気だった。

 

 ハッタリでも、利害関係でもなかった。この男が本気で自分を必要としている、という事実だけが、その声の中にあった。

 

 トールは、ボスの手がまだ肩にあることに気づいた。振り払おうとした。

 

 できなかった。

 

 親方は、真面目に働いて立派だと言ってくれた。だがそれは、普通の人間としての肯定だった。カスミは、価値ある負けを掴もうとしていると言ってくれた。だがそれは、トレーナーとしての可能性への言葉だった。

 

 自分の力を、自分という存在そのものを、ここまで本気で頼ってくれた人間が、この男しかいなかった。地下通路の連中しかいなかった。それが正しいことではないと、今の自分には分かる。分かっていても、その事実は消えなかった。

 

 必要とされることの重さが、足首に絡みついていた。

 

 ジムのコートでの悔しさも、短パン小僧の目も、親方の言葉も、全部頭の中にある。だが、この男を冷たく切り捨てられるだけのものが、まだ自分の中に揃っていなかった。

 

 口が、開かなかった。

 

 断る言葉も、受ける言葉も、どちらも出てこなかった。

 

「すぐには、決められねえ」

 

 掠れた声だけが、出た。

 

 それだけ言って、トールはボスの視線から逃げるように歩き出した。重い足が、夜霧の中を進む。後ろに、ボスの気配が残っていた。じっと、待っている気配が。

 

 どちらにも進めないまま、トールは夜霧の奥へと消えていった。

 

 

 

 

 また、倒れた。

 

 カスミのポケモンの一撃を受けて、オコリザルがコートに崩れ落ちる。水しぶきが上がり、静寂が戻る。何度目かは、もう数えていなかった。数える気にもなれなかった。

 

 以前のトールなら、ここで何かが終わった。

 

 だが今は、倒れたオコリザルをボールに戻しながら、頭の中で今のバトルを巻き戻していた。どこで間合いが甘くなったか。どのタイミングで指示が遅れたか。それだけを考えていた。

 

「クソ」

 

 次のボールを握りしめながら、呟いた。

 

「今のは俺の間合いの取り方が甘かった。……次だ。もう一回、もう一回頼む」

 

 カスミが、バトルを続行しなかった。

 

 静かに自分のポケモンをボールに戻した。それを見て、トールは食い下がろうとした。

 

「なんで止めるんだよ。俺はまだやれる」

 

 カスミは何も言わなかった。

 

 代わりに、トールの前まで歩いてきた。その手のひらに、何かが乗っていた。

 

 水色だった。

 

 輝いていた。

 

 それが表のトレーナーにとって喉から手が出るほど欲しい輝きであることは。さすがのトールにもわかっていた。

 

 トールは自分の目を疑って、思わず一歩後ずさった。

 

「は? なんでだよ」

 

 声が掠れた。

 

「俺は、あんたに勝ってない。一回も、プロのあんたたちに勝ててねえだろ」

 

 カスミは答えなかった。

 

 代わりに、トールの手を取った。ボロボロになったその手のひらに、ブルーバッジを握らせた。無理やり、だが丁寧に。

 

「いいえ、これでいいのよ、トール」

 

 凛とした声だった。

 

「ジムバッジはね、ただ相手を力でねじ伏せた強さの証明じゃない。ポケモンリーグに挑む資格があるかを見極めるための、信頼の証よ」

 

 一拍おいた。

 

「これまでのあなたは、負けを怖がって、自分のプライドを守るために勝てる相手だけを嬲ってた。だからあの時、ボールを開けなかった。でも、今のあなたは違う。何度も負けて、ボロボロになって、それでも次はどうすると前を向いてる。今のあなたは、負けても何も失っていない。むしろ戦うたびに強くなってる」

 

 また一拍おいて、続けた。

 

「モモナリがあなたを拒絶したのは、あなたがただただ失うだけの無価値な敗北しかできなかったからよ。今のあなたなら、あいつの前にだって、胸を張って立てるわ」

 

 最後に、静かに言った。

 

「おめでとう。あなたは本物のトレーナーよ」

 

 トールは、手のひらの中のバッジを見た。

 

 勝っていない。一度も、この人に勝っていない。それでもこれが手の中にある。その重みが、じわじわと手のひらから染み込んでくるようだった。

 

 ボスの言葉が、頭の中に浮かんだ。カントーで一番でかいワル集団。お前がいる。お前が必要だ。夜霧の中で揺れていた自分が、遠くなっていた。あの地下通路の王冠が、今この瞬間に、ちっぽけなものとして見えた。見えて、もう揺れなかった。

 

 あれはおままごとだった。

 

 自分が怖くて、外に出られなくて、負けない場所に籠もって育てていた、空虚なプライドだった。

 

 それが分かったのは、今この手の中にあるものの重みを知ったからだ。

 

「あぁ」

 

 トールは、バッジを強く握りしめた。

 

「ありがとな、カスミさん」

 

 後ろから、大きな手がトールの頭をクシャクシャに撫で回した。

 

 トモキだった。何も言わなかった。ただそれだけだった。

 

 プールの水面が、静かに揺れていた。天井のライトを反射して、コート全体が淡く光っている。

 

 トールは顔を上げて、前を見た。

 

 迷いは、もうなかった。

 

 

 

 

 夜の道を、一人で歩いていた。

 

 街灯の光が飛び飛びに続いていて、その間は暗かった。夜霧がうっすらと漂っていて、遠くの灯りが滲んで見えた。ハナダジムを出てから、誰とも言葉を交わしていなかった。交わす必要もなかった。

 

 ポケットの中で、指先がバッジをなぞっていた。冷たい金属の感触が、歩くたびに手のひらに伝わってくる。

 

 勝っていない。一度も勝っていない。

 それでも手の中にある。

 

 その事実が、歩くたびに少しずつ自分のものになっていく気がした。これが何なのかをまだうまく言葉にできないでいるが、悪くない感触だった。

 

 足音が、後ろから近づいてきた。

 

 早足だった。

 

「探したぞトール」

 

 振り返らなくても、分かった。

 

「おい、ハナダジムでバッジを取ったんだってな」

 

 ボスが、隣に並んだ。

 

 息が少し切れていた。走ってきたのかもしれない。トールは歩みを止めなかった。ボスは横に並んだまま、口を開く。

 

「だがな、そのバッジのことは公言するんじゃねえぞ」

 

 声に、ニヤついた気配があった。

 

「いいか、バッジ一つの裏チャンプと、バッジなしの裏チャンプじゃあ、明らかに後者の方がワルとしてのウケがいい。ハナダジムなんかナメてハナから相手にしてねえ、ってツラをしてる方が、セキチクの暴走族どもへのハッタリも利くからな」

 

 トールは、その言葉を聞きながら、ゆっくり歩き続けた。

 

 呆れていた。だがそれだけではなかった。

 

 あの地下通路でプロに完膚なきまでに叩き潰されて、組織を潰されて、連行されて。

 

 それから何日経ったのか、はっきりとは覚えていない。だがこの男は、その間ずっと身を隠しながらも、次の手を考え続けていたということだ。少しも懲りていない。また大真面目に、セキチクの暴走族を巻き込んでハッタリをかまそうとしている。

 

 昏い納得が、胸の奥に落ちてきた。

 

 自分がネオロケット団にいた頃、この男に従っていたのは、こういう部分があったからだ。

 

 痛い目を見ても折れない。反省もしない。その無軌道で図太い懲りなさが、かつての自分には格上のカリスマに見えていた。勝てば官軍という二元論の中にいた頃は、ボスのその図太さが、自分にない何かのように見えていた。何があっても曲げない、という意味では確かに筋が通っていた。

 

 今は違う。

 

 カスミたちに何度も負けた。不格好に足掻いた。失敗を受け入れて次に繋げるということを、泥水をすすりながら少しずつ覚えた。

 

 その時間を経た今、目の前の男の懲りなさは、格上のカリスマではなく、ただの図太さに見えた。

 方向を変えることができない、というだけのことだ。それ以上でも、それ以下でもない。

 

 ボスが、クシャクシャのメモ用紙を差し出してきた。

 

「これがあのクソ野郎の家の場所だ。ハナダの洞窟に一番近い、あの寂れた小屋だよ。あそこに一人で住んでやがる。セキチクの奴らと囲んで」

「おい、ボス」

 

 トールは歩みを止めた。

 

 差し出されたメモを見て、ため息をついた。

 

「その情報、ぶっちゃけ何の価値もねえだろ。ハナダの洞窟のすぐ近くの小屋なんて、ハナダの住人なら誰でも知ってる公然の秘密だぞ。リーグトレーナーの居場所としちゃあ、ザルすぎるって有名だ」

 

「あ、いや、まあ、場所が確定してるってことが大事だろ」

 

 ボスが少し狼狽えた。誤魔化そうとしているのが、声ににじんでいた。

 

 それでもまだ食い下がろうとする様子が、ボスらしかった。どんな局面でもそうだ。この男は諦めない。その粘り強さだけは本物だと思う。ただ、それが正しい方向に向いているかどうかは別の話だ。

 

 トールは、ボスの肩をポンと叩いた。

 

 それから、その目を真っ直ぐに見た。夜霧の中でも、ボスの目がこちらを見ていることははっきりと分かった。

 

「悪ィな、ボス。もうお前から命令はされない」

 

 一拍おいた。

 

「今の俺とお前は、同格だ」

 

 ボスが、黙った。

 

 何か言おうとして、できなかった。かつて地下通路でトールが向けていた目とは、まるで別の目だった。吠えていた頃の目ではない。全能感でも、怯えでも、焦燥でもない。静かで、重い目だった。その目に呑まれて、ボスは言葉を失ったまま立ち尽くした。何かを言い返そうとする気配だけが、夜の空気の中に漂っていた。

 

 トールはメモを受け取って、ポケットに仕舞った。

 

「この情報は、一応もらっとくよ」

 

 それだけ言って、背を向けた。

 

 夜霧の中を、歩き出す。後ろに、ボスの気配が残っていた。呼び止めることも、追ってくることもしない気配だった。ただじっと、トールの背中を見ている気配だけがあった。

 

 少し歩いて、街灯の光の下に入った。

 

 ポケットの中で、バッジが指先に触れた。

 

 冷たく、重く、確かにそこにあった。

 

 トールは前だけを見て、歩き続けた。

 

 

 

 

 小屋の前は、静かだった。

 

 月が高く、遮るものがなかった。その光が冷たく周囲を照らしていて、草や石ころの影がくっきりと地面に落ちている。ハナダの洞窟の方から、独特の冷気が流れてきた。生き物の気配と、岩の匂いが混ざった、あの場所特有の空気だ。

 

 ハナダの町に長く住んでいれば、その気配には馴染みがある。だがこんな深夜に、こんな場所で、それを一人で嗅いでいるのは初めてだった。

 

 風が一度吹いて、草が揺れて、また静かになった。

 

 トールは暗がりに立ったまま、じっと待っていた。

 

 どれくらい待ったか、分からなかった。日付はとっくに変わっていた。

 

 眠くはなかった。

 眠れる状態ではなかった、というのが正確かもしれない。

 

 仕事を終えてジムに行き、打ち合いをして、それからここに来た。体には疲労が積み重なっているはずだが、感じなかった。ポケットの中でバッジの感触を確かめながら、足音だけを聞いていた。

 

 こんな深夜まで、何をしているのだろうと思った。

 

 思いながら、動かなかった。

 

 足音は、聞こえなかった。

 

 気配だけがあった。

 

 気づいた時には、影がそこにいた。ふらふらと、音もなく歩いてくる人影だった。落ち着きが無く、周囲への関心が薄い。あの歩き方だった。

 

 橋の上で見た歩き方だった。地下通路で見た歩き方だった。何度か目にしてきたのに、それでも毎回、どこかから現れたように感じる歩き方だ。

 

「おい」

 

 トールは暗がりから一歩踏み出した。

 

 月光の中に立って、モモナリの行く手を遮るように立ちはだかった。

 

 モモナリが、足を止めた。

 

 目がこちらに向いた。しばらく、トールの顔を見ていた。

 

 首をかしげた。

 誰なのか、分かっていない顔だった。かつての地下通路の一件など、この男の記憶には残っていないのだろう。

 

 それは想定の範囲内だった。怒りもなかった。怒れる立場でもなかった。あの夜、自分はボールを開けなかったのだから。

 

「ハッ、まぁ覚えてねえよな」

 

 トールは自嘲気味に言った。

 

「ついこの間、地下通路でお前さんの前に立ってた、ネオロケット団のトールだ。お前に『負けても失うだけだ』って言われて、恐怖でボールを開けなかった、あの意気地なしだよ」

 

 モモナリの目が、少し変わった。

 

 虚ろな目の奥の焦点が、じっとトールの顔へと合わさった。地下通路。ボールを開けなかった。その言葉が何かを手繰り寄せているのか、しばらく黙ったまま、トールを見ていた。何かを思い出そうとしているのか、ただ目の前の人間を観察しているのか、その区別がつかなかった。

 

 そして、トールの目を見た。

 

 ギラギラとした目だった。焦燥でも全能感でもない、別の何かが宿った目だった。短パン小僧の目に似ていた、とトールは後から思うかもしれない。だが今のトールには、その目が自分のものだという感覚だけがあった。

 

 モモナリは、その目を確かめるように、静かに口を開いた。

 

「ああ、そう」

 

 一拍おいた。

 

「見違えたね」

 

 短い言葉だった。

 

 だがその言葉が持つ重みは、トールには十分すぎるほど伝わった。

 

 あの夜、ジバコイルの前でボールを握りしめたまま立ち尽くした人間が、今ここに立っている。それをこの男が認めた。ただそれだけのことだったが、それだけのことだった。

 

 トールは、ポケットの中でバッジをそっと指先でなぞった。

 

「お前さんとタイマンをしに来た。今すぐ、ここでボールを開きてえところだが、あいにくもうてっぺんを回ってる」

 

 鼻を鳴らして続ける。

 

「俺には、明日も朝から親方のところでヘドロを浚う仕事があるんだ。今からお前さんと殺し合いみたいなバトルをして、明日の仕事に支障を出すわけにはいかねえ。俺は、次はうまくやるって決めたんだよ」

 

 一度止まって、続けた。

 

「明日の夜。仕事が終わった後、キンタマ橋の上だ。そこでお前さんと一対一で戦いたい。今度の俺は、絶対にボールを日和らねえ」

 

 キンタマ橋、地元のやんちゃな人間にだけ伝わる蔑称。

 だがモモナリにもそれはしっかり届いている。

 

 モモナリは、特に考える素振りも見せなかった。

 

「うん、いいよ」

 

 あっさりと答えた。迷いがなかった。断る理由を探した様子もなかった。ただ、いいよ、と言った。

 

「明日の夜、あの橋の上ね。遅れないでね」

 

 それだけだった。

 

 あっさりしすぎていた。だがこの男は、地下通路でもそうだった。欲しいものには真っ直ぐで、欲しくないものには徹底して関心を示さない。今のトールは後者ではなくなったのだろう、とだけ思った。

 

 トールは頷いて、背を向けた。月光の中を、歩き出す。

 

 その時、後ろから声がかかった。

 

「ヘドロを掬う仕事をしているのかい?」

 

 足が、止まった。

 

 妙なところに興味を持つんだなと思った。

 だが考えてみれば不自然なことではない、わずか十代前半でポケモンリーグという圧倒的な表の世界にいついた人間だ、そんな仕事など、物珍しい珍獣だろう。

 

 そうぼんやりと思いながら、トールは前を向いたまま、自嘲的な笑みを浮かべる。

 

「ああそうだよ、お似合いだろ。不良上がりが泥水すすって、毎日ヘドロまみれだ」

 

 後ろから、静かな声が返ってきた。

 

「ああ、立派な事だ。ハナダの河は綺麗なんだ。ありがとう」

 

 背中が、強張った。

 

 皮肉か。賞賛か。どちらとも取れた。取れないまま、どちらなのかを測ろうとした。だがこの男の声に、嘲りは聞こえなかった。バカにするような笑みも、余裕を見せるような距離感もなかった。本当に愛おしいものを言葉にするような、静かなトーンだった。その静けさが、かえって摑みどころをなくしていた。

 

 ならば、賞賛か。本気でそう思っているのか。

 

 それもまた、信じ難かった。

 

 バトルしか知らないような化け物が、なぜヘドロ浚いに礼を言うのか。自分がやっていることを立派だと言うのか。馬鹿にしているのでなければ、何がこの男にそう言わせるのか。あの地下通路でも、あの橋の上でも、この男の内側にあるものがトールには分からなかった。今もまた、分からなかった。

 

 ありがとう、という言葉が、耳の奥に残った。

 

 答えは出なかった。

 

 トールは何も言わずに、夜霧の中へ歩き出した。足を止めなかった。振り返らなかった。振り返ったところで、答えが見つかるとは思えなかった。

 

 背後で、小屋の扉が開く音がした。

 

 それから、閉まった。

 

 静寂が、また戻ってきた。

 

 月光だけが、道を照らしていた。トールはその光の中を、ただ前に向かって歩き続けた。あの言葉の意味は、明日のバトルが終わってから考えればいい。今夜はまだ、それを考える順番ではなかった。

 

 明日の夜のことだけを、頭の中に置きながら。




次回投稿は6/13です。



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