モモナリですから、ノーてんきにいきましょう。 作:rairaibou(風)
川面が、赤銅色に染まっていた。
日が西に傾いて、ゴールデンボールブリッジの影が河川敷に長く伸びている。一日の仕事の終わりが近い時間だ。水の匂いと、土の匂いと、かすかに残るヘドロの匂いが夕風に混ざっていた。
トールはスコップを動かしながら、今夜のことを考えていた。
考えているといっても、焦燥ではなかった。ハナダジムで打ち合いを重ねてきた日々に比べれば、今の自分の内側は静かなものだった。研ぎ澄まされている、という感覚に近かった。刃物がゆっくりと冷えていくような、そういう静けさだ。
キングラーが、器用なハサミで道具をまとめている。
トールの動きに慣れているのか、指示を出さなくても次に何をするか分かっているような動き方をするようになっていた。地下通路にいた頃は、キングラーの力をどれだけ大きく見せるかしか考えていなかった。今は違う。こいつと一緒に何ができるかを考えるようになっていた。
親方が、大きな体を揺らしながら近づいてきた。
「おいトール。お前、今日は夜に大事な予定があるんだろ。あとの細かい片付けは俺がやっとくから、そろそろ上がれ」
トールは首を振った。手は止めなかった。
「いや、いいよ親方。これくらいすぐに片づけられる。自分の担当した現場を放り出して行くわけにはいかねえよ」
親方は何も言わなかった。
トールの隣で、しばらく黙って作業の様子を眺めていた。
次はうまくやる、と決めた日から、トールは仕事の終わりまで手を抜かないことにしていた。バトルだけの話ではなかった。失敗を次に繋げるということは、目の前のことを最後までやり切るということだと、親方の背中を見ながら理解した。片付けを途中で投げ出して勝負に向かうのは、それに反する。そういう人間がバトルで勝てるはずがない、と、今は思っていた。
手際が上がっていた。
以前より、動きに無駄がなくなっていた。キングラーとの連携も、自然に早くなっていた。片付けが終わるまで、それほど時間はかからなかった。
親方が、不器用な笑みを浮かべた。
「そうかい」
短く言って、続けた。
「いい男になったな、お前」
ぶっきらぼうだった。照れを隠すような、いつもの親方の言い方だった。
トールは、少し鼻を擦った。ハナダジムでバッジをもらった時とは違う温かさが、胸に広がった。あの時は、バトルの向き合い方を認められた。今度は、泥にまみれてヘドロを浚う、生活の場での肯定だった。大げさなものではなかった。それだけに、じわりと滲みた。
その時、ポケットが鳴った。
ポケギアだった。画面を見ると、登録されているネオロケット団の下っ端の名前があった。嫌な予感が、一瞬で広がった。
通話ボタンを押した。
スピーカーの向こうから、声が聞こえてきた。
『ト、トールさん!? 助けてくれ! 地下通路に、またあのクロサワが現れたんだ……! チームが……ネオロケット団が、もう壊滅状態だ……っ!』
背後に、怒号も破壊音もなかった。
壊滅状態だと言いながら、声の向こうは静かだった。それが引っかかった。本当に追い詰められているなら、もっと別の音が混ざるはずだ。だがトールはその違和感を、すぐに飲み込んだ。状況をうまく伝えられていないだけかもしれない。どちらにしても、この声を無視することはできなかった。
ネオロケット団の活動中止を告げた。ボスと同格として決別した。それは本気だった。だが、かつて一緒に泥水をすすってきた連中の声を、聞かなかったことにはできない。
「あぁ、分かった」
短く、力強く答えた。
「すぐに向かう。持ちこたえろ」
通話を切った。
隣に、親方がいた。事の成り行きを、黙って聞いていた。トールは慌てなかった。逃げるように走り出すのではなく、親方を真っ直ぐに見た。
「すまねえ、親方。昔のツレがヤバい。行ってきていいか」
親方は、トールの目を一目見た。
何も聞かなかった。深く頷いた。
「行ってきな。怪我すんじゃねえぞ。どうしようもなくなったら連絡しろ、大人を頼れ」
トールはキングラーをボールに戻した。道具を一か所にまとめて、親方に任せる形で置いた。それから、河川敷を走り出した。
夕暮れが、ハナダシティを包んでいた。橋の上を行き交う人影が、逆光の中でシルエットになっている。その向こうに、街の灯りが一つずつ点き始めていた。
今夜はモモナリとの約束がある。橋の上で、一対一で戦う。その前に、片付けなければならないことがある。
地下通路の入り口が、夕闇の中に見えた。
すべての始まりの場所だった。
トールは速度を落とさず、その暗闇の中に飛び込んでいった。
☆
地下通路は、静かだった。
飛び込んできたトールの荒い息が、湿った空気の中に溶けていく。血を流して倒れている仲間はいない。クロサワの姿もない。破壊の痕跡もなかった。
ただ、奥に人影があった。
通路の奥で、ボスが立っていた。不敵な笑みを浮かべて、腕を組んで、こちらを見ていた。その周囲を、見慣れない連中が囲んでいた。チェーンや鉄パイプを手にした、体格のいい男たちだ。セキチクから来たという暴走族だろう。足元には、すでにポケモンが繰り出されていた。アーボック、ドガース、ヘルガー。低い唸り声が、通路の壁に反響している。禍々しい殺気が、空気に染み込んでいた。
対照的に、かつての仲間たちは、おびえるような、憐れむような視線でトールを見ている。
トールは一瞥して、低い声で問うた。
「クロサワは?」
笑い声が返ってきた。ボスの笑い声だった。取り巻きの笑い声も混ざった。
その瞬間、全部が繋がった。
仲間が危機だという電話。向こうが静かだったこと。それでも飲み込んで走ってきたこと。退路のない閉鎖空間。全部が、最初から組み立てられていた。
ハメられた。
その事実を、トールは淡々と確認した。怒鳴る気にもなれなかった。ただ、冷えた。
ボスが一歩前に出た。勝ち誇った顔をしていたが、その目の奥には焦りが見えた。どうしてもトールを手に入れたいという、歪んだ執着の色があった。
「何も無条件にボコそうってわけじゃない」
大げさな身振りで続ける。
「また戻ってこいよ、トール。同格でも何でもいい。何なら、お前をこのネオロケット団の一番上にしてやったっていいんだぞ」
トールは、その言葉を聞きながら、ボスの顔を見ていた。
ここまでやっても、まだそれを言うか、と思った。プロの洗礼を受けて、組織を潰されて、それでも諦めない。その図太さは本物だ。だがその図太さが、今この瞬間、最も薄汚い形で使われていた。
仲間を想う情を、騙し討ちの道具にした。
それが、トールの中で何かを完全に断ち切った。怒りではなかった。怒りはもう通り越していた。残ったのは、冷たい軽蔑だけだった。この男は、もう自分の地平には入ってこれない。そういう人間だと、境界線が引かれた。
「断る」
静かに言った。
「よりにもよって、俺を騙した」
それだけだった。それ以上の言葉は必要なかった。
ボスの顔が、引きつった。怒りと焦燥が混ざった顔だった。
「じゃあ、残念だ」
顎を動かした。
ポケモンたちが動いた。アーボックが鎌首をもたげ、ドガースが毒の霧を漂わせ、ヘルガーが低く吠えた。暴走族の男たちがチェーンを鳴らしながら、じりじりと間合いを詰めてくる。
トールは、腰のボールに触れなかった。
指が、ボールに向かわなかった。
あの夜と同じ場所で、あの夜と同じように、迫り来るものを前にしてボールを開けていない。だがその理由は、まるで違った。
あの夜は、恐怖だった。モモナリの前で全身が凍りついて、ボールを開けなかった。
今は、違う。
目の前の殺気を、トールは静かに見ていた。毒の霧が広がってきた。チェーンの音が近くなってきた。それらが、恐ろしくなかった。
否、恐ろしくないのではなく、戦う価値を感じなかった。
ハナダジムで、カスミとトモキに何度も完敗しながら、それでも立ち上がってブルーバッジをもぎ取ってきた。その時間を経た今、目の前のチンピラどもの殺意が、あまりにも矮小に感じた。
ああ、あの時のお前はこんな気持ちだったのか。
これから戦うのは、あの化け物だ。
今夜、橋の上で、モモナリと一対一で戦う。そのために、今日一日の仕事をやり切った。そのために、ここ数週間を泥まみれで過ごしてきた。キングラーとオコリザルの力を、こんな場所で一欠片でも削る気にはなれなかった。
トールはボールから手を離したまま、迫り来るものを見据えていた。
動じなかった。
その動じなさが、通路の空気を変えた。チェーンを鳴らしながら詰めていた男たちの足が、わずかに鈍くなった。アーボックが唸り声を上げたまま、それ以上前に出なかった。ドガースの毒の霧が広がっているのに、その場の誰もがそれより先に動けないでいた。
ボスが、トールの目を見た。
そして、何かを察したように、わずかに顔色を変えた。
トールはまだ、ボールに触れていなかった。
☆
鈍い音がして、背中が壁に叩きつけられた。
コンクリートの冷たさと硬さが、衝撃と一緒に全身に走った。肺から空気が抜けて、膨らむことを忘れ、一瞬、息ができなかった。
口の中に鉄の味が広がった。トールは荒い息を吐きながら、溜まった血を床の泥に向けてペッと吐き捨てた。
チェーンの音がした。もう一発来るかと思った。
だが、止まった。
「お、おい、ここまですることはねえだろ!」
知っている声だった。かつての地下通路の仲間の声だった。
「トールはもう活動をやめたんだ、止めろよ!」
別の声も続いた。下っ端たちが、暴走族の間に割って入ろうとしていた。情義は残っていたのだと、壁に背を預けながらトールはぼんやりと思った。
「すっこんでろ、雑魚が」
セキチクの男が一言で切り捨てた。下っ端たちの声は、それ以上続かなかった。
靴音がした。ボスが前に出てきた。トールを見下ろして、首を傾ける。
「どうしてポケモンを出さねえ?」
壁に背を預けたまま、トールはボスを見上げた。
「お前をボコるってことで、少々過剰に戦力を整えたんだが」
アーボックたちを顎でしゃくって、ボスが続けた。
トールは、腫れ上がった顔に笑みを浮かべる。
「ばーか」
鼻で笑って、続けた。
「今日はよ、お前らに代わって、モモナリとタイマン張ることになってんだよ。あいつと戦う前に、こんなところで相棒たちの力を一ミリでも使えるかよ」
ボスが、少し表情を変えた。ばつの悪そうな顔になってから、すぐに嘲るような笑みに変わった。首を振って、言った。
「そりゃ無理だ」
首を振って続ける。
「あの男も、クロサワも、今日はリーグ戦でこの街には来ねえよ。だからこそ俺は、リーグの目がハナダから消える今日を狙って、この計画を立てたんじゃねえか」
一拍おいて、続けた。
「騙されたんだよ、てめえは」
モモナリが来ない。約束の橋の上に、今夜あの男は現れない。ボスはそれを突きつけて、トールを絶望させようとしていた。
だが、トールはニヤリと笑顔を崩さなかった。
「そうかい」
ふらつきながら、口角を上げたままで言った。
「じゃあ、戦わずして俺の勝ちだな。逃げたんだよ、あいつは」
本気でそう思っていた。
あの夜の地下通路で、モモナリはトールのボールを見ていた。目の前に立った人間のことを、何秒かだけ、確かに見ていた。あの男が今夜来ないというなら、それはあの男がトールを恐れた、ということだ。そうでなければ、意味が分からない。かつて恐怖でボールを握りしめたまま立ち尽くしていた自分は、もうどこにもいない。
今の自分は、あの化け物を退けた。それだけのことだ。
ボスの顔が、歪んだ。
嘲りが消えた。代わりに、別のものが出てきた。怒りでも、呆れでもなかった。もっと剥き出しの、惨めで弱い何かだった。ボスがトールの胸ぐらを掴んだ。指が震えていた。
「いい加減、夢を見るのを辞めろ」
声が、裏返りかけていた。
「俺達が、あいつらと同じ目線を持てるわけねえじゃねえか」
一息ついて、また続けた。
「らしくねえよ、何急に真面目になってんだよ。背伸ばすな、前に歩くな」
最後の言葉が、震えていた。
「俺を置いていくな」
トールは、その顔を見ていた。
かつて格上だと思っていた男の顔が、今は泣き出しそうなほど惨めだった。置いていかれることへの恐怖が、全部そこに出ていた。
この男がトールをハメたのは、金のためでも権力のためでもなかった。ただ、一人になりたくなかっただけだ。
トールは胸ぐらを掴まれたまま、静かに言った。
「付き合う人間を変えろ、ボス」
目線だけで、周囲のセキチクの男たちに向けてから、続けた。
「こんな奴ら引き込んだって、最後は全部からめとられて終わるだけだぞ」
それ以上言わなかった。
それ以上言える状態でもなかった。暴走族の一人が、しびれを切らしたように前に出てきた。ボスの手を押しのけて、トールの胸ぐらを強引に掴み直し、壁に叩きつける。
「殺すぞてめえ」
顔の前に、ナイフが来た。
ポケモンの凶牙も、間近に迫っていた。
トールは、その目の前の男を冷たく睨みつけた。血混じりの笑みは崩れていなかった。
「殺せるもんなら殺してみろ」
一拍おいた。
「できねえよ、てめえみたいな小物のワルには」
男の顔が、真っ赤になった。拳が振り上げられた。
その瞬間だった。
音がした。
地下通路の奥の暗闇から、乾いた足音が響いてきた。一定のリズムで、止まらなかった。近づいてくる。
拳が、止まった。
通路にいる全員の視線が、同じ方向に向いた。暗闇の奥を、誰もが黙って見ていた。
足音は、まだ続いていた。
☆
足音が、止まった。
暗闇の奥に、人影があった。
ふらふらと、音もなく歩いてきた。その目が虚ろで、周囲への関心が薄い。何度見ても、同じ歩き方だった。地下通路の薄暗い蛍光灯が、その人影をぼんやりと照らした。
ボスの顎が、震えた。
いないはずだった。今日はリーグ戦でこの街にいない、そのはずだった。その情報は確かだった。ハッタリでもなかった。だからこそ今日を選んだのに、目の前にいる。どういうことなのか、ボスの頭では処理できなかった。
モモナリは、通路の中をぐるりと見回した。
リンチの現場だった。
血まみれのトールが壁際に立たされていて、暴走族の男がその胸ぐらを掴んでいた。アーボックとドガースとヘルガーが唸り声を上げていた。ネオロケット団の下っ端たちが隅に押し込まれていた。その状況を一瞥してから、モモナリは首をひねった。
「取り込み中だったかな?」
いつもと同じ声だった。
それから、血まみれのトールを指さして告げた。
「彼とタイマンを張る予定だったんだ。夜になっても来ないからさ、試しにここに来てみたんだ」
肩をすくめて続ける。
「逃げはしないと思ったから」
セキチクの暴走族の一人が、我に返った。顔を真っ赤にして怒鳴った。
「あァ!? 舐めてんじゃねえぞガキが!」
モモナリの恐ろしさを知らない男たちが、一斉に動いた。アーボックが鎌首をもたげて突進した。ドガースが毒の霧を吐き出した。ヘルガーが炎を纏った牙で跳んだ。
音もなく、ゴルダックが現れた。
光の粒子が散って、静かに、そのポケモンがモモナリの前に立った。
アーボックの突進が、ゴルダックの前で止まった。
否、止まったのではなく、弾かれた。透明な壁に叩きつけられるように、跳ね返された。ドガースの毒の霧が、その壁に触れて散った。ヘルガーの牙が、光の膜に阻まれてびくともしなかった。
『リフレクター』だった。
暴走族たちのポケモンの攻撃が、牙一本、爪一枚すら通さなかった。
その事実が静寂を作った。
誰かが、小さく「なんだよ、あれ」と呟いた。動揺が、暴走族たちの間に広がった。それを確認するでもなく、モモナリはゴルダックに何かを告げた。
その瞬間、ゴルダックは水を生み出した。
通路全体を満たすほどの激しい濁流が、一瞬で地下を駆け抜けた。暴走族たちが悲鳴を上げた。ボスが叫んだ。下っ端たちが足をすくわれた。濁流が壁を叩き、ゴミを流し。全員が『みずびたし』になった。
ただ、トールの前だけは違った。
壁際に立たされていたトールの周囲だけ、水が来なかった。ゴルダックが張った『リフレクター』が、一滴の水もトールに届けなかった。その精度が、何よりも雄弁だった。精密な技術ではなく、この男のゴルダックがそれをできるという事実が、暴走族たちの肌に直接触れる。
しばらくして、床の水が落ち着いた。
暴走族たちが体を起こした。それほど深刻なダメージではなかった。濡れた、それだけだ。一人が「ハッ、大したことねえじゃねえか」と声を上げた。別の一人が「かかれ」と叫んだ。
モモナリが、表情一つ変えなかった。
「『れいとうビーム』」
冷気が走った。
床の水が、一瞬で凍った。暴走族の男たちの足が、氷の底に縫い付けられた。彼らのポケモンも、氷の中に固定された。通路全体が、しんと静まった。凍った足を引き剥がそうとする音だけが、断続的に響いた。
モモナリが、ボールをもう一つ取り出した。
ジバコイルが、音もなく現れた。磁力のハミングが、通路の空気を震わせた。蛍光灯が一度、強く明滅した。
モモナリは動けない暴走族たちを眺めながら、子供が算数の問題を解くような顔で言った。
「動けないし、この距離なら『でんじほう』も当てられるね」
少し首をひねってから、続けた。
「こういう時、どうすればいいかわからないんだよね」
笑みが、浮かんだ。
「だって、野生のポケモンなら、相当な腕自慢でもない限り僕からは逃げるからね。だって『ただ奪われるだけ』なのを知っているから」
その目の中に、慈悲がなかった。
怒りでも、嫌悪でもなかった。それよりも、もっと単純なことだった。
悪意を持って自分に向かってきた相手に対して、この男は加減をする理由を持っていない。
どれだけ哀れに見えても、どれだけ命乞いをしても、それがさっきまで自分に牙を向けていた相手である以上、情けをかける根拠がこの男の中には存在しない。
弱者への『暴力』を楽しんでいるわけでも、残酷さを好んでいるわけでもない。
ただ純粋に、敵対してきた相手に対して慈悲を差し挟むという発想が、生まれた時からそこにないのだ、とその目を見た者には分かった。
『でんじほう』を撃てばどうなるかを理解した上で、躊躇する理由を持っていない顔だった。
その上で、大いなる慈悲から、時間を与えている。
暴走族の男たちが、震え始めた。
「や、やめてくれ」
一人が言った。
「頼む、やめてくれ」
別の一人が続いた。チェーンを持っていた手が、ゆっくりと降ろされた。鉄パイプが、氷の床に落ちた。プライドも、虚勢も、どこかに消えていた。命乞いだけが、通路に響いた。
その時、血まみれのトールが口を開いた。
「おい、待て」
ドスの利いた声だった。
モモナリが、トールを見た。
「もう格付けは終わってる」
一拍おいた。
「これ以上、仲間に手を出すな」
モモナリは、首をひねった。
仲間、という言葉の意味が、この男にはうまく摑めていないようだった。自分をハメた人間たちを、血まみれになりながら仲間と呼んで庇うという論理が、どういう回路から来るのか、理解しかねているような顔だった。
だが、トールの目を見た。
恐怖に怯える目ではなかった。媚びる目でもなかった。血まみれで壁際に立たされたまま、この男と対等に言葉を交わしている目だった。
かつて地下通路でボールを握りしめたまま立ち尽くしていた人間の目ではなかった。今から戦う相手の目だった。
モモナリは、深く頷いた。
「そうかい」
静かに言った。
「君がそう言うなら、そうなんだろうね」
ジバコイルが、ボールに戻った。ゴルダックも、続いた。
殺気が、霧散した。
さっきまで通路を支配していた圧力が、煙のように消えた。モモナリは特に何も言わず、トールの隣に並んで、出口の方を向いた。それだけだった。
トールは血を手の甲で拭って、歩き出した。
モモナリも歩いた。二人で、地下通路の出口へと向かった。
氷漬けになった暴走族たちが、その背中を見ていた。ボスが、その背中を見ていた。下っ端たちも、声を失ったまま見ていた。
出口の手前で、トールは足を止めた。
振り返らなかった。
暗い地下通路の奥に向かって、背中越しに言った。
「親方が言ってたが、今、人手が足りないらしい」
一拍おいた。
「明日、河川敷の現場に行ってみろ」
それだけ言って、また歩き出した。
地上への階段が、見えてきた。
階段の上から、夜の光が差し込んでいた。ゴールデンボールブリッジの方角に、街の灯りがある。橋の上で、決着をつける。最初からそういう夜だった。地下通路に引きずり込まれた分の時間は、余分だったかもしれないが、それでもここに立っている。
後ろで、誰かが息を吐く音がした。
ボスだった。
振り返らなかったから、その顔は見えなかった。だが、長い沈黙の後に、かすかに湿った音がした。それが何の音か、トールには分かった。分かった上で、何も言わなかった。
二人は、階段を上がった。
地下通路の奥に、トールの言葉だけが残った。
凍った床が、少しずつ、溶け始めていた。
☆
橋の上は、静かだった。
昼間はポケモンを連れた旅行者が行き交い、カップルが写真を撮り、子供たちが欄干から身を乗り出していた橋が、今は誰もいなかった。月が高く、その光が川面と橋の上を同じように照らしていた。遠くで水の音がしていた。風が一度吹いて、橋の上を通り過ぎていった。
トールは歩きながら、袖で口元の血を拭った。
まだ滲んでいた。地下通路で受けた分は、そう簡単には止まらない。頬が腫れていた。脇腹も痛かった。だが足と手は動いた。それだけで十分だった。それ以上のことは、今は考えなくていい。
隣に、モモナリがいた。
並んで歩いていた。この男と並んで橋を歩くことになるとは、あの地下通路の夜には思いもしなかった。あの夜から今夜まで、思いもしなかったことが積み重なって、気づいたらここに来ていた。
人生というのはそういうものかもしれないと、トールはぼんやりと思った。柄でもない考えだと、すぐに打ち消した。
ずっと引っかかっていたことがあった。
ボスが言っていた。今日はリーグ戦でモモナリはこの街にいない、だからこそ今日を選んだと。その言葉が嘘ではなかったとすれば、目の前の男はどこかから戻ってきたことになる。トールは前を向いたまま、口を開いた。
「おい。今日、リーグ戦じゃなかったのかよ」
モモナリが夜空を見上げた。
川の方角に、月があった。モモナリはそれを一瞥してから、大したことでもないように答えた。
「ああ、お休みしたんだ」
あっさりとした声だった。
トールは歩みを止めた。
モモナリを見た。プロのリーグトレーナーが、公式の試合を休んだ。正式なリーグ戦を欠席して、この橋の上に来た。その言葉の意味を、頭の中で繰り返した。繰り返しながら、どうしても飲み込めなかった。リーグ戦を休むとはどういうことか、それがプロにとって何を意味するのか、トールには想像もできなかった。
モモナリが振り返った。
目を、少しだけ細めた。
「だって、こっちのほうが、楽しそうだったから」
その一言が、胸の奥にすとんと落ちた。
落ちて、しばらく、何も言えなかった。
視界が、開けるような感覚があった。
地下通路でボールを握りしめたまま立ち尽くした夜から、どれだけの時間が経ったのだろうと思った。仕事を終えてジムに通い、トモキに何度も完敗して、床に膝をついて、それでも立ち上がった。短パン小僧の目を見た。親方の言葉を聞いた。カスミにバッジをもらった。ボスと決別して、地下通路に駆け込んで、血まみれになった。その全部が、今夜この橋の上に繋がっていた。
そしてその全部が、目の前の男に『楽しそうな対象』として認められた。
リーグ戦を休んでまで来た。それだけのことだった。それだけのことが、これまでの日々をまるごと救い上げてくれるような気がした。間違っていなかった。泥水をすすりながら足掻いてきた時間は、無駄ではなかった。そうだと言われたわけではなかった。だが、この男がここに来たという事実が、言葉よりも重くそれを証明していた。
長い時間ではなかったのかもしれない。だが、トールにとってはずいぶん長く感じた時間だった。その時間の終わりに、この橋の上がある。悪くない終わり方だと思った。いや、終わりではない。始まりだ。今夜ここで戦うことが、本当の始まりになる。そういう感覚があった。
トールは歩き出した。
橋の真ん中あたりで、二人は自然に立ち止まった。向き合った。月光が、二人の顔を同じように照らしていた。川の風が、また一度通り過ぎた。
トールはポケットの中のバッジに触れた。
冷たかった。重かった。勝って得たものではなかった。だが本物だった。カスミが、この手のひらに押しつけてくれたものだった。この重みがあるから、今ここに立てている。
「どーせ、お前は百パーセント自分が勝つと思ってるんだろう」
自嘲気味に、だが腹の据わった声で言った。
「まあ、実際にそうかもしれない。だが、俺は俺なりにお前にかみつく」
その言葉に、モモナリが、首をひねった。
「百パーセント勝つだなんて思ってないよ」
そう言いながら、彼は後ろに歩き始めた。
トールから距離を取りながら、こちらをまっすぐに見ていた。虚ろな目の奥に、楽しそうな光が宿っていた。橋の上を後ろ向きに歩くその様子が、どこか無邪気だった。
「九十九パーセント、俺が勝つ」
一パーセント。
その数字が、トールの胸に刺さった。
刺さって、燃えた。
あの夜、ボールを握りしめたまま動けなかった自分から、今夜ここに立つまでに積み上げてきたものの全部が、その一パーセントの中に詰まっていた。勝てないかもしれない。おそらく勝てない。だがこの男が、一パーセントを認めた。それだけのことが、今のトールには十分すぎるほどだった。
トールは、口角を上げた。
爽快な笑みだった。泥水をすすってきた人間が、ようやく顔を上げた時の顔だった。地下通路でボールを握りしめていた男の笑みでも、チャンピオンと呼ばれていた頃の虚勢の笑みでもなかった。もっとずっとシンプルで、飾り気のない笑みだった。
腰のボールに、手をかけた。
キングラーのボールだった。ヘドロの底から錆びた自転車を引き上げてきた相棒の、冷たい球体だった。
月光が、橋の上を白く照らしていた。
川の水が、遠くで流れていた。
モモナリの目が、楽しそうに細くなった。
二人の間で、夜の空気が張り詰める。
その日、少年たちは何も奪われないだろう。
これにて『セキエイに続く日常 18-キンタマ橋で会いましょう』は完結となります。ありがとうございました。
最近自分の素行が悪いのが原因か、youtubeshortで半グレ系の映画無断転載ばっかり出るようになりました。元々ポケモン世界における反社の話は書いてみたいと思っていたので、元々あった構想につぎ足しして今回出してみました。
元々『後のない若者たちの青春』というのは自分の作風にはない色で、前々から出してみたいとは思っていたのですが、今回の話でもそうだったんですが、どうしても自分はキャラクターを極端に暗い道に進ませることができないという人間的な弱点があるので、今回もどこかに救いを残した場面を切り抜いて書いたという感じになります、この話の陰にもっとどうしようもない末路を迎える若者もいる事でしょう
今回の話は内容よりも『キンタマ橋』というワードのパワーへの反応が多かったイメージです、しかしよく考えてみてください、あなたの地元に『ゴールデンボールブリッジ』何て名前の橋があったら中高生は『キンタマ橋』と呼ぶに決まってますし女子たちはそんな男子をゴミを見るような目で見るはずです、ここのリアリティは譲れません。何ならこの章で一番リアリティがある部分だと思います。
ありがとうございました。
感想、評価、批評、お気軽にどうぞ、質問等も出来る限り答えようと思っています。
誤字脱字メッセージいつもありがとうございます。
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マシュマロ
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