モモナリですから、ノーてんきにいきましょう。   作:rairaibou(風)

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セキエイに続く日常 132-人を認めた日

 モモナリが、負けた。

 それ自体は別段特別なことではない、モモナリがBリーグとAリーグを行ったり来たりするトレーナーであることを知っていれば、彼がそれなりに負けていることはわかるだろう。

 だが、彼の敗北の内容は、リーグトレーナー達、そしてモモナリ本人に衝撃を与えるに相応しいものだった。

 

 カントー・ジョウトリーグBリーガーのクロサワは、シオンとヤマブキをつなぐ八番道路を、ヤマブキシティ出身の若手リーグトレーナー、タマキと共にランニングしていた。

 程よい距離で、適度に景色が変わる八番道路は、血気盛んなトレーナー達に睨みをきかせてさえいれば、ランニングに最適な場所と言えた。

 クロサワがタマキにランニングの『弟子入り』をしたのは前期リーグの終了後の事だった。同郷の彼女が毎日ランニングに勤しむ健康優良児であることは、ヤマブキシティでは有名だった。

 ランニングの心得をよく知る彼女に弟子入りしたことは、結果的にクロサワに超健康的なランニングを身につけさせる事となった。タバコと酒と不摂生な生活でタマキから見れば戦闘不能もいいとこだった彼は、まずは歩く事から始めることとなった。ところが、この歩くと言うのも、本腰を入れてやれば結構きつかったりした。自らを案じながら追い抜いたタマキが、折り返してきて再び自分を案ずると言うちょっぴり屈辱的な日々が続いた。

 八つ当たりに目が合うたびにボコボコにしていた暴走族とスキンヘッズが明らかに敬意の眼差しを向け始めた頃、ようやく彼はタマキに『ランニングをする許可』を貰った。

 その頃には、本職の方にも随分とその影響が出始めていた、集中力は若い頃かそれ以上になっていたし、長時間の試合でもスタミナが切れなくなっていた。悩まされていた頭痛も無くなり、随分と勝ち星を伸ばしていた。

 ランニングを始めると、自らの前を風よけと称してタマキが走るようになった。彼はその頃には事ランニングに関してはタマキに敬意を表するようになっていたので、自らのタイミングで走ってくれたほうが気持ちが楽だったのだが、何度そう言っても彼女はそれを辞めなかった。

 その頃からだろうか、彼女はクールダウンのウォーキングとストレッチ中に、バトルについて事細かに質問をするようになっていた。

 まさかそんなことのために自分のペースに付き合っているのかと思うと、クロサワはすこしばかり呆れてしまった。そもそも勝手に弟子入りしてペースを乱しているのは自分なのだ、言えば何時間でも付き合うというのに。

 しかしまあ、それも自分のこれまでの生活のせいなのかもしれないなあ、とも思った。先輩と呼べるトレーナーは随分と減り、近い世代のトレーナーも半分ほどになってしまった。一回り以上に年齢の違うトレーナー達から見れば、自分は相当に理不尽で怖いベテランなのだろう。

「今日はかなりハイペースでしたね」

 よく冷えたスポーツドリンクを手渡しながら、タマキが言った。自らのペースを上手く維持するクロサワにしては珍しい事だった。

「ああ」とクロサワは彼女からそれを受け取って喉を潤した。最初の頃は甘ったるいばかりで味気ないと思っていたスポーツドリンクも、今では飲むと頭がシャキッとして気持ちが良いとすら思うようになった。

「ちょっとばかし、気になることがあってな」

「もしかして、モモナリさんのことですか」

 タマキの問いに、クロサワは少し歩みを進めてから「ああ」と答えた。タマキはクロサワが良いトレーナーとしてモモナリを評価していることを、彼がモモナリの名前を度々出すことから知っていた。

 タマキはCリーガーであったが、クロサワがしきりに話題に出していたので、モモナリとクロセの試合はリアルタイムでチェックしていた。正直な所、彼女の同期や付き合いのあるトレーナー達は、クロセの天才性こそしきりに評価するが、モモナリにはそれほど興味が無いといったところだった。イッシュ地方とのエキシビションマッチで結果は出したものの、モモナリの強さより対戦相手の先走りの方が大きい要因だと思われていた。

 クロセがモモナリを全く寄せ付けずに完勝したことも、完全に下馬評通りで特に話題になることもなかった。

「あの試合は、クロセ君の強さが全面に出ていましたから、気にすることはないと思いますけど」

 その言葉を、普段のクロサワなら一喝するだろう、だが彼はタマキに対してそのようなことをする気にはならなかった。

 もちろんそれは彼女に対してランニングの恩があると言うこともあったが、それ以上にクロサワは彼女に対して特別な思いがあった。

 特別な思いといっても、タマキはこれっぽっちもクロサワの好みではない、健康的で、スタイルも申し分ないが、彼から見ればまだまだまだ子供である。自らの妻と天秤にかける必要すらない。

 そう、クロサワにとってタマキらの世代はもはや子供であった。彼女らはレッドをまさに言い伝えでしか知らないし、当然モモナリがリアルタイムで世界に与えた衝撃も知りようがない。通だとか通じゃないとか、わかってるかわかっていないかとかそんな次元ではなく、自分達の感性とはズレてて当然、自らの感性に合わないからといってどうのこうの言っても仕様のないことと理解していたのである。

「例えば、ある日突然クロセが手も足も出ず完封されるようなことがあったらどう思う」

 クロサワの問いに、タマキはうーん、と頭を捻ったのち「凄いことだなあ、とは思うと思います」と答えた。

「そうだな、今の俺がそうさ。まあ、俺はもっと深刻だけどな」

 サングラスを外し、顔の汗をぐるりとタオルで拭ってから「まあ、おっさんの愚痴だと思って付き合ってくれや」と更に続ける。

「モモナリがこの業界に現れた時、俺はとんでもない衝撃を受けた。俺よりもずっと若いガキが、俺が欲しい物を全て持っていたんだ」

「才能、ですか」

 タマキが相槌を打つ。

「そうだな、まるでポケモンを自らの手足のように扱えるトレーナーだった。悔しかったね、あれだけの才能が俺にあれば、本当の意味で世界を取れていたかもしれないと思った」

 クロサワは、数少ないチャンピオン決定戦に駒を進めたトレーナーの一人だった。ワタル相手に奪取はできなかったものの、それだけ突出したトレーナーだったことには間違いなかった。

「才能は天から贈られるものだ、努力うんぬんで簡単に乗り越えられるものではない。だが、俺はなんとしてもあの才能が欲しかった。だから俺は、あいつと良くつるんだ。何でもいい、あの才能が作られる日常を知りたかった、奴の食っているものを俺も食えば同じ才能が与えられると言われたら、きっとそうしただろう」

 道すがらにあった小石を軽く蹴り上げる。転がったそれは、草むらの中に消えた。

「だけど駄目なんだなこれが、もう、考え方から何から全て違うんだ。ある日俺達はクソババア、ああ、キクコのババアに『フリーザーを従えたカンナに勝てるか』と挑発的に聞かれたことがある」

 タマキはすぐにいつかのチャンピオン決定戦のワタル、カンナ戦を思い浮かべた。伝説のポケモンを引っさげて来たカンナに、それを乗り越えたワタル、その対戦はチャンピオン決定戦に残る名勝負として、リーグトレーナーの中では有名だった。

「俺はそれに答えられなかった。『勝つ』と無責任に言い切るだけの根性はなく、『負ける』と言い切れるだけの勇気もなかった」

 なるほど、とタマキは思った。『勝つ』と口に出して言うことだけを考えれば簡単かもしれないが、それは只々薄っぺらい威嚇に過ぎないと見抜かれる恐怖がある。その状況で『勝つ』と断言するには、自分自身を百パーセント信じている必要があるだろう。だからといって『負ける』とも言えない、言えるはずがない。

「ところが、まだお前と同じ位の歳だったあの男は『やってみなきゃわからない』と平然と答えやがったんだ」

 タマキには、その言葉はピンとこなかった。クロサワもそれはわかっていたようで、すぐに続ける。

「俺が自分のプライドとせめぎ合っている間に、奴はカンナと戦う事をイメージできていたんだ。その上で、やってみなければわからないと答えた。勝負に絶対はないという不条理を、いとも簡単に受け入れていた。俺は思ったね、俺は凡人なんだと」

 わかるか、と更に続ける。

「己には一角の才能があると信じ続けてきた男が、ある日突然、目を疑うような出来事に出会うんだ、どうしてそんなことが考えられるんだとか、何でそんなことが出来るんだとか、その時は只々不思議に思うだけかもしれない。だがある日、それが才能の差だったことを思い知った時の、その気持ち」

 まるでモモナリが怪物のようだな、とタマキは思った。モモナリが積み重ねてきた実績が一流ではないとは言わないが、かつてチャンピオンに最も近づいた男にここまで言わせるまでのものだとは思わない。

 タマキがそのギャップを感じていることに、クロサワも気づいているのだろう。

「それでもリーグトレーナー達は、モモナリを抑えこんできた。たとえ才能で敵わずとも、それ以外の要因を詰めれば、モモナリに勝つこと自体はできる。俺だって、奴との対戦成績が悪いわけじゃない。だが、クロセとモモナリのあの一戦は違った」

 二人は八番道路とヤマブキシティをつなぐゲートに辿り着いた。タマキの「最後まで、聞かせて下さい」という言葉に、クロサワはゲートの壁に背もたれながら続けた。

「あの一戦は、クロセがモモナリを完全に才能で抑えこんだ一戦だった。俺は『すなあらし』の状況下で奴が翻弄される光景を初めて見たよ。ついに、ついに現れたんだ、単純な才能で、モモナリを上回るトレーナーが」

 タマキはCリーグでクロセとの対戦経験があった。ボロ負けと言っていい結果だった。

「遂にモモナリが『追う側』の人間になったんだと思った時、俺は気づいてしまったんだ。モモナリやクロセのような才能あふれるトレーナー達がしのぎを削るのがポケモンリーグなのだとしたら。俺のような凡人は、一体なんのために存在しているのだろうってな」

 

 

 

 

 

 

 Bリーグは、大変な興奮を維持したまま最終節に突入した。

 いつまで続くかと思われたクロセの公式戦連勝記録は、前節にイッシュからの刺客シンディアが止めた。彼女は戦況を停滞させ、深い集中力の勝負に持ち込んだ、クロセも軽快に動いて戦況を動かそうと努めたが、もがけばもがくほど体を締め付けるアリアドスの巣のような彼女の戦略は、突如現れた不世出の天才であるクロセが唯一逃れることができない若さという弱点を、冷酷に、そして的確に突いていた。

 彼女はクロサワからすればまだまだ若手と言っていい年齢だったが、その戦略はすでに完成されており、もはや洗練の領域に入りつつあった。女性は男性に比べて、集中力において優位性があるらしいということを考えれば、彼女の戦略は現役のトレーナーの中でもトップクラスの合理性があるだろう。

 去年までの俺だったら負けていただろう、とクロサワは思っていた。根気での勝負には多少の自信があったが、集中力で大きな差がついていただろう。しかし、彼は今期Bリーグ中盤で、シンディアに勝利していた。

 酒と煙草を絶ち、食事に気を使い、ランニングを始め、妻よりも早く床につく生活は、彼のトレーナーとしての実力を全盛期に近いものに引き上げていた。彼は根気強く彼女の世界に付き合い、その感性と思い切りからなる豪腕で最後の最後に戦局を逆転させたのだ。

 クロセ、シンディア、クロサワの三名は、九勝一敗の成績で最終戦を迎える。クロセとクロサワはコガネシティで、シンディアは二敗のモモナリとタマムシシティで戦うことになっていた。昇格の枠が二名であることを考えれば、一敗勢の内一名は昇格ができないという厳しいものだった。

 

 クロサワは新たにマタドガスを繰り出した。ニドキングへの攻撃を狙ったマンムーの『じしん』攻撃は、体内のガスによって『ふゆう』しているマタドガスには効果が無い。実質的に無償でエースポケモンを降臨させることに成功した。特性やタイプ相性による無償降臨の選択肢を豊富に持つクロサワの得意戦術だった。

 マンムーとマタドガスの対面は、色々と複雑な要素がからみ合っていた。意外に器用なポケモンであるマタドガスは、体内のガスを高温に保つことにより『だいもんじ』や『かえんほうしゃ』など氷タイプに対して有効な炎の攻撃を撃つことが出来る。

 しかし、マンムーの特性は『あついしぼう』である可能性が高い。寒さに耐えるための肉付きは、氷タイプの攻撃だけではなく、炎タイプの攻撃への耐性もある。マンムーはこの特性によって炎タイプの攻撃をものともせず、実質的に弱点を一つ克服しているといえる。現代バトルにおいてパルシェンに並んで採用率の高い氷タイプである理由の一つだった。

 クロセがマタドガスの存在を知りながら『じしん』を敢行したのも、ニドキングを確実に一撃で沈める事のできる『じしん』のメリットのほうが、マタドガスを無償降臨されるデメリットを上回っているという感覚からだった。

 ならばこの対面はマンムーが一方的に有利なのかといえば、決してそうとは言い切れない。なぜならばマタドガスの選択肢の一つである『おにび』と『いたみわけ』が常にプレッシャーとして存在しているからだ。

 やけど状態は非常に危険な状態異常の一つで、どく状態のようにじわじわと体力を削りながら、物理的な攻撃の威力を相当に弱めるという側面がある。『おにび』は食らったポケモンをやけど状態にする技であり、力押しのポケモンに対する対策の一つとして有効である。

 マタドガスは、やはり体内のガスを高温にして『おにび』のように撃つことが出来る。物理攻撃が主力の攻撃手段であるマンムーは、常にこの技に気を使わなければならない。

 だが、マタドガスが『ふゆう』で地面タイプの攻撃を受けず、物理攻撃に強い身体構造である以上、マンムーがマタドガスを一撃で沈めることが出来る可能性は低い。それならば、マタドガスの『おにび』はほぼ確実にマンムーに打ち込むことが出来る選択肢となる。

 それでもゴリ押しを狙えば、今度はマタドガスの『いたみわけ』による体力レースのリセットが怖い、体力レースをリセットされてしまえば、『やけど』によって弱体化しているマンムーが圧倒的な不利だろう。更にその隙を利用されて『たくわえる』などの積み技でマタドガスを強化される可能性もある。

 クロセの控えにはファイアローがいる、炎タイプのファイアローなら『おにび』を無効化することが可能で、無償降臨のお返しをすることもできるが、その選択肢はあまりにも安直すぎる。クロサワがその交代を読んで『ヘドロウェーブ』を選択すれば、耐久力のないファイアローは無視のできないダメージを食らってしまうだろう。『ヘドロウェーブ』は同時にクロセのエースであるニンフィアをも縛り付けていた。

 この勝負に持ち込めばこっちが有利だと、クロサワが意図的に誘導した展開だった。クロセはこれでも自分が有利と見ているかもしれないが、クロサワから見れば願ってもいない状況だった。

 クロセ側には安定を保証された選択肢は存在しない。すべての選択にリスクが付きまとい、その一点を読み負ければ、相手に試合の展開を握られてしまう。

 観客の中にいた古いファンは、クロサワにかつての全盛期を重ねていた。手厚く、パーティ全体で相手の安定選択を潰し、いつの間にか主導権を手繰り寄せる。安全を欲し、軽快に攻めていた相手は不意に現れた脳裏をまとわりつく代償の重みに溺れ、クロサワに吸い寄せられるようにコントロールされる。かつてドラゴンの圧倒的なポテンシャルで勝利をほしいままにしていたチャンピオンワタルに、確かな戦略で互角の勝負を演じていた豪腕がそこにいるように見えた。

 クロサワはマタドガスに指示を出す。マタドガスが動いたのを見てから、クロセも動く。

 クロセはマンムーをボールに戻し、新たにファイアローを繰り出した。特性『はやてのつばさ』によって飛行タイプの技を優先的に撃つことが出来るそのポケモンは、キノガッサを中心として業界に確固たる地位を築きつつあった格闘タイプ相手に有利な立ち回りをすることが可能な新世代のポケモンだった。耐久に自信のあるポケモンではないが『ヘドロウェーブ』を一発耐えて、『ブレイブバード』などの高威力技や『オーバーヒート』などの特殊攻撃などでマタドガスに大ダメージを与えることが出来れば悪くないという判断だった。

 だが、クロサワの感性は更にその上を行っていた、マタドガスは帯電した毒ガスで『十万ボルト』のような攻撃を繰り出されたばかりのファイアローに敢行。

 その攻撃に、観客はどよめいた、電気タイプの技である『十万ボルト』は地面タイプも複合しているのマンムーには全く効果の無い技である。もしクロセが『おにび』を構わずマンムーを居座らせていれば、大きな損になる選択だった。

 クロサワは、ある意味でクロセの天才性を信頼していた。凡夫ならば、この一瞬の読み合いを放棄し、早く楽になる手段として猪突猛進になることを選択するだろう。だが、天才ならば、ここでマンムーを居座らせるわけ無い、もちろん、読み合いの末にそのような選択があることは当然だが、イケイケの超新星がここでそんなダサい選択をするわけがないと確信していた。

 『十万ボルト』をモロに食らってしまったファイアローは、地面に墜落し動かない、元々耐久力に自信のあるポケモンではない上に、弱点である電気タイプの攻撃を食らってしまっている。戦闘不能であることは明らかだった。

 イケる、とクロサワは思っていた。

 人が変わったと言われるまでに体のケアをし続けてきたのは、今日この日のためだった。今日、将来のチャンピオン相手に、勝ち逃げをするためだった。

 クロセはきっと、いかにもそれが当たり前のようにチャンピオンになるだろう。クロサワは殆ど確信していた。そして、彼と比べれば自分はちっぽけな存在で、いずれ彼が手を合わせる数々の名トレーナーたちの記憶に上書きされる程度の存在であろうとも思っていた。

 ミーハーな観客の記憶になど残ろうと残るまいともどうでもいい、ただ、クロセの記憶から消え去るのはトレーナーとしてのプライドが許さなかった。

 初対戦となるこの試合で、全力を出しきり、勝利する。その後何年負け続けてもいい。あわよくばこの試合が悪夢としてクロセの脳裏にこびりついて欲しい。自分が死んだ時、クロセが少しだけほっとするだけでもいい。そうすれば、トレーナーとして生きてきたかいがあったというもの。

 クロセはファイアローをボールに戻し、次のポケモンを繰り出す。

 新たなポケモンは、水タイプと悪タイプを複合したポケモン、ゲッコウガだった。その特殊な特性『へんげんじざい』は実質的に自身のタイプを自由に入れ替えることのできる、ポリゴンの『テクスチャー』を実践的にすることを可能にした技で、このポケモンが対戦場に現れた瞬間に、より複雑な駆け引きが現れる、一方で、高火力な技も持ち比較的安定した行動を選択することも可能なポケモンだった。

 この選出も、クロサワの想定内だった。

 ゲッコウガは『じんつうりき』を選択肢として持っている。確実にマタドガスより先手を取れる素早さを持っているし、マタドガスは特殊攻撃にはあまり耐性がない、一撃で沈められるだろう。

 クロサワはマタドガスを手持ちに戻し、手早く次のポケモンを繰り出した。

 繰り出されたポケモンに、ゲッコウガの『れいとうビーム』が直撃する。エスパータイプの技に対する受けとして選択肢であるクロサワのダーテングを意識した技で、マタドガスが居座っても大きなダメージを与えることが出来る選択だった。

 しかし、それを食らったポケモンには効果が今ひとつのようだ、鋼タイプのそのポケモンは、氷タイプの技を苦にしない。

 クロサワをよく知る古い観客は、そのポケモンの選出に驚いていた。確かに強く、後出しでの無償降臨も狙える、圧倒的なパワーではなく小回りに強みのある性能も、クロサワのパーティには合っている。だが、長いトレーナー歴の中でも頑なにパーティをいじらなかった男のその変貌は、古い観客を感慨深くさせるものがあった。

 繰り出されたポケモン、クレッフィはかねてよりクロサワが調整を重ねていたポケモンだった。海外や若手のトレーナー達は積極的に取り入れているポケモンだが、ベテランが使用するのは初めての事だった。

 クロセは危険を感じてゲッコウガを手持ちに戻す。ニンフィアがパーティの精神的な支柱だとするならば、ゲッコウガは常に質の高い攻撃を期待できる特攻隊長である、『いたずらごころ』を絡めた『でんじは』などでスピードを殺されてしまっては、今後の試合展開に大きく関わる。

 クロセが新たに繰り出したポケモンはナットレイ、『でんじは』による麻痺状態をある程度苦にせず、『じならし』攻撃によって弱点をつくことが出来る、何よりナットレイにとって最も避けたい『おにび』の選択肢を、クレッフィは持っていない。

 クレッフィがゲッコウガに撃った『でんじは』は代わりにナットレイを麻痺させる結果となった。電気タイプの技である『でんじは』はマンムーやガブリアスに無償降臨を許す選択肢ではあるが、その二匹は鋼タイプとフェアリータイプを複合するクレッフィには出しづらい。実質的に『でんじは』は安定のある選択肢だった。

 ナットレイとクレッフィの対面も、ナットレイに分があるわけではない、現状では、間違いなくクロサワが大きく戦況をリードしていた。

 

 

 

 

「撤回はしねえ、引退だ」

 控室のそばで新聞記者の肩を突き飛ばしながら、クロサワはそう吐き捨てた。

 激闘の後だったが、クロサワ側の控室前に陣取っていたのは、アクツと言う中年の新聞記者一人だけだった。無理も無いだろう、反対側には、CリーグとBリーグを共にたったの一期で抜けた天才の、貴重な言葉があるのだから。

 アクツはクロサワがまだ若手の頃から長きに渡り彼に密着していた。時に強気に、時に大げさに業界をたたっ斬る言動が多かった彼は、その言葉を面白おかしく引用しようとする記者達の殆どを拒絶していたが、アクツは多少の理解がある男として信頼していた。その関係はクロサワがBリーグに降格して、業界の中心から離れつつあっても続いていた。クロサワはアクツに業界内で起こった面白おかしい事件の詳細を提供し、アクツはクロサワに知っている情報を提供するという関係だった。

「馬鹿なことを言うな、今期のBリーグで九勝二敗。誇るべき成績だ、何も恥じることはない」

 今期リーグ開幕前、クロサワはアクツに「今期リーグで昇格できなかったら引退する」と伝えていた。幾多もの冗談を交わしながらも、引退という言葉だけは使わなかったクロサワのその決意は、本物なのだろうと思っていた。

 だが、アクツはそれを自らの心の中に止め、記事にすることはなかった。クロサワがいつその宣言を撤回しても良いようにである。彼は戦いの中でクロサワがその考えを改めてくれることを期待していた。トレーナーという生き方を体現したような男だった。何も恐れず、自分を信じ、自らとポケモンの力だけでのし上がった男だった。確かに年齢だけを考えれば、引退という選択をしてもおかしくはない、だが、彼はそこらの十把一絡げのトレーナーとは格が違うと思っていた。

 そして、クロサワは今期Bリーグで勝ちまくった。九勝二敗という成績はAリーグに昇格してもおかしくない成績だった。クロセとシンディアが居るBリーグでこれだけの成績を残せるトレーナーが、なぜ引退する必要がある。

 勿体無いじゃないか、とアクツは本気で思っていた。まだ戦えるだろうと思っていた。

 だが、クロサワはアクツの言葉に一切耳をかさず、ううん、と一つ唸り声を上げた。

「モモナリの試合はどうなってる」

 クロサワは会場の雰囲気から、まだコガネシティでのモモナリ、シンディア戦が終わってないことを察知していた。ポケモンリーグ最終戦は、勝負の紛れを極力排除するために、同日同時刻に行われる。対戦者達は今他の試合がどうなっているのか分からない。

 アクツは自らの言葉が彼に届いていなかったことに少しショックを受けたが、それでも懐から携帯端末を取り出して彼の質問に答える。

「数の上ではシンディアが押してる、モモナリが粘っていると言う状況だ」

「戦況はどうだ、どっちの空気になってる」

「シンディアだ、完全に受けの試合になっている。ちょうどクロセ君が負けた時によく似ている」

 へえ、とクロサワは息を吐いた。

「アクツさん、たしかあんた、ピジョット持ってたよな」

 その不意な質問に、アクツはああ、とだけ答えた。

 一記者として情報は鮮度が命だと考えていた彼は、昔から空をとぶことが出来るピジョットを育てていた。昔はその飛行技術が追いつかず、ロケット団のシルフカンパニー襲撃事件を逃したりもしたが、今では問題なく空をとぶことが出来る。

 クロサワは、ちらりとアクツを見やりながら言った。

「インタビューは適当に誤魔化してさ、ちょっとコガネまで飛んでくれ。あいつの試合が終わったらすぐに、あいつをここに呼んでくれ」

 その突拍子もない頼みに、アクツは首を横に振った。

「無茶を言うな、聞かなければならないことは山ほどある、引退についてもそうだし」

 クレッフィとメタモンの選択についても、とまで彼は口にしようとしたのだが。クロサワが突然アクツの胸ぐらをつかみ引き寄せたので、そう続けることができなかった。

 クロサワはアクツを揺さぶりながら「そんなもんは後で死ぬほど聞かせてやる」と凄んだ。

「今まであんたには散々いい思いさせてやっただろうが、後にも先にもこの一回だけだ、さっさと行け」

 突き放されたアクツは、二、三歩ほどふらついて、軽く壁にぶつかった。

「わかった、わかったよ」

 これは、余程のことなんだな、と思った。

「だが、一つだけ聞かせてくれ」

 ああ、と凄むクロサワに、アクツは「どうして引退なんだ。何がきっかけなんだ」と聞いた。

 クロサワは舌打ちとともにアクツに背を向けると「もうガタがきちまったんだよ」と答えて、控室に消えた。

 あの一敗がなければ、とアクツは思った。

 たとえクロセに負けていたとしても、あの一敗がなければ彼は昇格できた。

 モモナリに敗北した、あの一敗がなければ。

 

 

 

 

 

「よお」

 勢い良くドアを開けて現れたモモナリに、クロサワはソファーに思いっきり体重を預けながら軽くそう挨拶した。

 相当に急いできたのだろう、肩で息をしていたモモナリは、開口一番に「飲みに行きましょうよ」と無理矢理な笑顔を作った。クロサワが酒と煙草を断って、ランニングで体を作っていたことも知っていた。だからこそ酒を呑む必要があると思った。

「いや、やめとくよ」と、クロサワは答えた。

「今から飲むと、死ぬまで飲むことになる」

 ところで、とクロサワは笑った。

「あの女に勝って、昇格らしいじゃないか」

 八勝二敗で最終戦に突入したモモナリは、前年度順位の関係上、シンディアとの対戦に勝てば昇格を決めると言った状況だった。結果として彼はその試合に勝利し、昇格を決めていた。

 気まずさに、モモナリは何も答えられなかった。

「クロセと、お前が昇格か。まああの女でもお前でもどっちでも良かったけどな」

 ハハハと笑いながら、クロサワはタバコを取り出して、口に咥えた。そして、自分がタバコを断っている途中だということに気づいて、火がついていないそれをくわえたまま弄んだ。

「珍しいじゃないか、お前が粘り勝ちするなんて。昇格に向けて、気合でも入ってたか」

 モモナリが相手の術中にハマって敗勢になりながらも、なおもがいて粘り強く戦うという光景を、クロサワはこれまで見たことがなかった。勝つための無駄な粘りをしないのは、モモナリと言うトレーナーの一つの特徴であった。いい勝負をしたことに満足してしまって、それ以上を望まないのだろうとクロサワは分析していた。

 だからアクツからモモナリが相手の術中にはまりながらも、粘り強く戦っていると聞いて不思議に思った。

「僕は、負けたくなかったんです」

 リーグトレーナーとしては当たり前の、しかしモモナリの口から飛び出せば異質なその言葉は、クロサワを驚かせた。

「約束でしたから」

 モモナリはその疲れきった表情を両手でこすった。

 お互い、残りの試合をすべて勝つ。それは残り二戦を控えていた時に、彼らが交わした約束だった。世界の流れに逆らって、チャンピオンロード世代の執念を見せつけようと誓い合っていた。

「そうか」と、クロサワはくわえていたタバコを指先で潰して、灰皿に投げ込んだ。

「悪かったな、まもれなかったよ、約束。だが、これだけはハッキリと断言できる、途中までは俺が有利だった。それは間違いない。一瞬だけ、一瞬だけ夢を見たよ。俺ごときが夢を見たから負けたんだ」

 更にクロサワは「辛かったか」とモモナリに聞いた。モモナリの疲れきった表情は、常に勝負を楽しんでいた彼には似つかわしくないものだった。

「『負けたくないと思うこと』がこんなにも疲れるものだとは、思っていませんでした。あれは勝負のように見えて、本当は勝負じゃなかった。勝つことが全てでそれ以外は意味のない、得体のしれない何かだったんです」

 クロサワは笑った。

「そういうことなんだよ。俺達のやってることはそういうことなんだ」

 クロサワさん、とモモナリがその笑いを遮った。

「まだ、やれますよ。速いですよ、引退は。来年はクロセくんが消えるんですから、また昇格は狙えます」

 きっとアクツから聞いていたのだろう。モモナリのその言葉をある程度想定していたクロサワは、それまでの笑い混じりのトーンを落として答える。

「自暴自棄になってやめるわけじゃない、むしろ満足している。だが俺はもう疲れた。勝ちとか負けとか、そういう勝負の世界に身をおくのももう限界だ。最後に一花咲かせることが出来て、幸せだった」

 モモナリは何も言わずその場に立ち尽くした。クロサワがその答えを撤回するまで、一歩もそこを動かないつもりだった。

 彼にとってクロサワはとても大きな存在だった。若い頃から自由奔放で不躾だったモモナリは、自然に敵を作る言動が多かった、モモナリでさえ自らの過去を思い返して、あの時はあまりにも常識がなかったと思うこともあったほどである。

 クロサワはモモナリのそのような社会性の無さをずっとサポートし続けたトレーナーの一人だった。モモナリの起こした騒動に便乗して有望な若手の将来を潰そうと画策していた連中に睨みを効かせ、それでいて彼に必要最低限の常識はやんわりと教えた。モモナリが頭の上がらない数少ない人物だった。

「悪いな、人を待たせてるんだ」

 クロサワは立ち上がって、黙ったままのモモナリの肩を叩いた。

「無責任だが、Aリーグで頑張ってくれ。お前は俺に勝ったんだ、誰がなんと言おうと、お前は昇格にふさわしい」

 モモナリは、その言葉に何も返さなかった。

 

 

 

 

 コガネシティのそのバーは、数名のベテランリーグトレーナー達からはよく知られていたものだった。

 悪くない立地ながらも、誰かに連れて来られないと絶対に辿りつけない、実質一見さんお断りのそのバーは、常連の間でも適度な距離感が保たれていた。

 年老いたマスターは程よくこの業界のことを知らず、お節介でおしゃべり好きなトレーナーの話に軽快に付き合う。かと言って深入りするわけでもなく、しゃべりすぎたと気まずくさせることもない。

 何より人の空気を察して干渉しない選択もできると言う男だった。当然のようではあるが、なかなか実際に出来る人間は少ない。

 平日深夜、閑散とした店内で、リーグトレーナー、イツキはある男を待っていた。

 チリンチリンと鈴が鳴った。イツキとマスターがちらりと来店者を見やると、それはクロサワだった。

「よう」

 クロサワは迷わずイツキの隣に陣取り、お気に入りの酒を注文した。随分と久しぶりの来店だったが、マスターは必要最低限に言葉を紡いだ。

「禁酒していただろう」

 イツキは呆れたようにそう言ったが、それを糾弾しているふうでは無かった。

「いいんだよ、お前の横なら飲み過ぎることはねえ」

 イツキとクロサワは同世代だった。ちょうどワタルがレッドに負けた頃にリーグトレーナーになった彼らの世代は、その溢れ出る野心を隠そうとしなかった。四天王も、チャンピオンも、若き日の彼らにとってはただの肩書に過ぎなかった。

 そして、それは同期の関係でも同じだった。むしろ彼らは『最も感性の近い強敵』としてお互いを強烈にライバル視していた。やがてその感情は固い絆として昇華されることになった。

 そのライバルの前で酔いつぶれるなど、たとえ体がアルコールに侵されてもその本能が拒否するだろう。

 差し出されたグラスを、クロサワは小さく傾けた。それだけで十分と感じるほどに体からはアルコールが抜けていた。

「アクツさんから聞いたよ」

 イツキの口からその名前が出たことに、クロサワは驚かなかった。アクツはクロサワの同世代のトレーナー達を大体おさえていた。きっと泣き付かれたのだろう。

「引退にはまだ早いだろう。クレッフィと『かわりもの』メタモンの組み合わせは、工夫すれば後三年は食える」

 クロサワはこの試合で、クレッフィと共に、メタモンを投入していた。クレッフィの『いばる』の効果を増大させる狙いだった。『いばる』で攻撃力の上がった相手のポケモンの能力値をそのまま擬態するメタモンは、そのシナジーが密かに期待されていた。

「だろうな」とクロサワは再びグラスを小さく傾けた。クレッフィの持つポテンシャルの高さは、クロサワの想像以上だった。

「いや、脇のポケモンを環境に合わせれば一生あれで食えるかもしれない」

「お前ならそうかもしれないな」

 イツキの同意に、クロサワは少し笑った。

「だがやっぱり駄目だな。お前のその言葉が、嬉しい自分がいるんだ。もう俺は、牙が折れている」

 気づいちまったのさ、と続ける。

「他人の才能を認めた時が終わりなんだよ。心がポッキリと折れちまう音を、本能が誤魔化してるだけなんだ」

 イツキはその言葉を否定できなかった。クロサワという男は、猛烈な敵対心を闘争心にしている男だった。自信満々な雰囲気と素振りでごまかし続けていたが、その本質は、自己評価の低い男だったとイツキは思っている。自分とよく似ている男だった。その彼が、他人の才能を認めているとなれば、それすなわち闘争心の欠如を意味しているだろう。

「正直な所、モモナリに引き止められた時も嬉しかった。奴のせいで昇格を逃したと言うのに、なんとも呑気なものだよ」

「モモナリか」

 イツキはその名前を感慨深そうに呟いた後に、しばらく考えを巡らせた。

「何年付き合ってもつかめない男だね、クロセに完全に壊されたと思っていたのだが」

 モモナリがクロセとの試合で大きなショックを受けていたことは、あの支離滅裂なエッセイから容易に見て取れた。実際、大きな才能を前にして、己の無力感に恐怖し、闘争心が崩壊してこの業界から離れてしまうトレーナーは少なくはなかった。モモナリの才能を目の当たりにして、チャンピオンになる道を諦めたリーグトレーナーも数多くいる。

 モモナリもこれまで自身がしてきたのと同じように、クロセに潰されたのだろうと彼らは思っていた。己の才能に頼りきっていた男だった。ところがである、モモナリはその後奮起し、九勝二敗の成績で昇格を決めた。

「わかりゃしねえさ。わかるもんかね」

 再びグラスが小さく傾く。

「あの野郎、負けたくないことが辛いと言いやがった」

 へえ、とイツキが相槌を打った。モモナリが奇妙なことを言うこと自体には、慣れていた。

「俺達がとうの昔に感じることの無くなった痛みを、奴は今更辛いと言う」

 クロサワは、初めてアルコールを口にした日を思い出そうとした、しかし、それがどんなシチュエーションだったかを思い出すことはできても、その時どのようなことを思っていたかなんて、とうの昔に忘れていた。

「来期は、僕も安泰ではないかもね」

 イツキが少し緊張した面持ちで言った。ここ数年Aリーグ中下位が多かったイツキにとって、不出世の天才であるクロセと、奇妙な男であるモモナリの参戦は、Aリーグの勢力図を大きく歪めないかねないものだと思えた。

グラスが、大きく傾いた。




エッセイ部『36-昇格』付近の話になります。
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