モモナリですから、ノーてんきにいきましょう。 作:rairaibou(風)
『遠くにあるボールが、随分と小さくなったように思わず錯覚してしまいます』
アナウンサーはそう言うが、スタート地点とボールの距離は最初の二倍弱ほどしかない。
『我々には、すでに理解のできない領域に、彼等はいるのでしょう、リーグトレーナーであるモモナリ選手と、それを経験したカタヤマ選手は、すでにこの領域をクリア、もう一つ、上の次元での戦いを予感させています』
スタート地点、ガブリアスと向き合うチカは、ボールとガブリアスとの距離を改めて目測していた。
「ギリギリね」
マイクが拾わない程度にそうつぶやく、それは、この競技に関することではない。
この距離をクリアしてしまえば、残るのは自分と、モモナリと、カタヤマ。
それは、偶然にしては出来すぎている、ちょっと抜けてるアイドルと、人から借りた賢いガブリアスが巻き起こす偶然にしては、すこし、出来すぎているように感じる。
本来ならば、立場を考えるならば、負けるべきだろう。
『ですが、我々は希望を持ちたい! ガブリアスというものが、ドラゴンというものが、彼等だけのものではない事を』
笛が吹かれる。
沈黙だ、そこいるすべての人間が、彼女の集中力を阻害しない。
順位は十分だ、たとえこの競技で優勝しようとも、大きく変動することはない、上手くやった。
ボールが、落ちる。
「ゴウ!」
身を翻す。
『さあ行った! 駆ける! 駆ける!』
そのガブリアスのスピードは、前二人のものに引けを取らない。
彼はマットに滑り込み、ボールにタッチした。
しかし、審判員はまだ成功の旗を上げない。それの成功を、人間の目では判断できていないでいた。
『わからない! まだわからない! ですが、わからないと言うことは! 明確に失敗したとは言えないということ! スーパースローを見てみましょう!』
会場にセッティングされているビジョンに、落下地点のスーパースローが映し出される。
画面に滑り込みながら映ったガブリアスの爪は、ボールが落下するよりも先に、それに触れていた。審判員が成功をあらわす白旗を揚げると、参加者と番組スタッフしかいないはずの会場がドッと湧く。
『タッチしています! タッチしていました! チカ選手! この距離をクリア! まだつなぐ! 我々の希望をまだつなぎます!』
チカはふうと一つ息を吐いて、ガブリアスを迎えるためにセットを降りる。
『なんとも、なんとも素晴らしい連携でした! とても急造とは思えない! あるいは彼女の若さが、その反応を可能にしているのでありましょうか!?』
アナウンサーの言うとおり、アイドルが知人にガブリアスを借りたにしてはとても出来すぎな結果だった。
ギリギリだった。と、彼女は結果を振り返る。手加減をしながらやるのはこの距離が限界だ。
彼女がその次を考えようとしていた時、セットに上がるために彼女とすれ違うモモナリが、足を止めて笑顔を作りながら彼女に言った。
「ギリギリだったね」
その言葉自体に、何も含みはなかっただろう。彼はそれを見ていて思ったことを素直に言ったに過ぎない。
だが彼女は、その言葉にカッと体が熱くなるのを感じる、これは間違っても恋なんかではない、屈辱と、怒りと、強烈な嫉妬だった。
「あまり、調子に乗らないことね」
それは、アイドルである彼女が決して他人に見せてはならない目だった。モモナリの背後から彼女を眺めていたガブリアスが、一瞬身構えるほどの。
リーグトレーナー『ごとき』に、偽りの実力を見極められる事が、彼女には耐えられなかった。
今更ドラゴンつかいの一族の名を背負おうなどとは微塵も考えてはいないし、そのような義理もない。息苦しいとあの時憎く思った感情は、今も変わってはいない。家を飛び出してアイドルとして生きている今に不満があるわけでもない。だが、物心つくより前から培ってきたガブリアスとの関係を、連携を、絆を、甘く見積もられることはこれ以上無い屈辱。それら積年の思いをぶつける血走った目だ。
それを見ていたのが、モモナリとガブリアスだけだったことが、彼女にとっての幸運だった。気がつけば、同じくセットから降りてきたガブリアスがいつの間にか彼女の背後からモモナリに牙を見せる。
一触即発の雰囲気に会場は少し緊張感を帯びたが、モモナリはそれに笑顔を返すだけでセットに上がった。
☆
『この距離を、トレーナーとドラゴンがクリアすることが出来るということを、モモナリペアは証明しました。もしかすれば、あるいはこの距離こそが、リーグトレーナー、戦いの遺伝子が刻み込まれているものと、そうでないもの分かつ距離なのでありましょうか』
アナウンサーが、何かを言っている。
だが、カタヤマの耳にそれは届いていなかった。
現役時代、反射神経は悪い方ではなかった。むしろ、知識不足と戦術感の稚拙さを反射神経と動体視力で補っていた面もある。
相棒のガブリアスも、考え方次第ではハンデになる小さな体を、俊敏性という長所でカバーし、戦い抜いた。
そりゃあ自分たちはCリーグを抜けることができなかった落ちこぼれかもしれない、しかし、自分たちは確かにポケモンリーグを生き歩いた。その自負が、彼に集中を与える。
遠い、実寸的には先程から一メートルの半分も離れてはいない、だが、あまりにも遠い。
この距離を、モモナリ達はクリアしたというのか。
がむしゃらにでも、クリアしなければならない。認めたくはない、自分たちがモモナリたちより劣っているなどと認めたくない。
それが無茶苦茶な理屈である事は自分でもわかってる、モモナリと自分、どちらがトレーナーとして劣っているかなど今更論じるまでもない。だが、それが、その差が自分たちの能力である事を認めることだけはしたくない。
笛が吹かれる。カタヤマは中腰の姿勢をとって、ガブリアスの瞳を見つめながら、その先にボールを捉える。
長い時間だった。長い時間、それは落ちてこないような気がした。
その間、彼は何も考えてはいなかった。それは、久しぶりだった。
ボールが落ちた。
「行け!」と、彼が一言言い終わるより先に、ガブリアスは体を反転させ、低い姿勢を保ちながら走る。
一歩、二歩、少し体の小さい彼は、歩幅の小ささを、回転でカバーする。現役の頃、カタヤマは彼のそんな様子を、可愛らしいと何度も思ったものだった。
マットに滑り込みながら、ガブリアスが体を目一杯伸ばす。その先端の爪が、ボールをマットからはじき出したように見えた。
『どうだ!』
アナウンサーの声とともに、モニターにスーパースローが映し出される。
しかし、カタヤマもガブリアスもそれを見ない。
彼等はわかっていた。
ボールは、マットに落とされてから、ガブリアスの爪にはじき出されていた。
『赤旗! 赤旗です! カタヤマペアここで脱落!』
その後アナウンサーは、彼等の健闘を称えるだろう。だが、それは彼等には届かない。
もう少し、もう少しでいいからガブリアスの腕がながければ、背が高ければ、足が長ければ。
そう考えて、カタヤマは頭を振り、両手で顔を覆う。
違う、そうではない。それは否定だ、これまでの、自分たちの歩みそのものの否定だ。
知っていただろう、相棒のガブリアスが種族の割に小さいことなんて、フカマルの頃に出会った頃から知っていただろう、それでも戦ってきた、ともに生きてきた。それを今更、なんてことを考えているんだ。そんな事を考えなくとも良いように、頭をつかうのが自分たちトレーナーの役目ではないのか。そう思うこと自体が、恥ずべきことだ。
一つ二つ顔をなでてから、彼はカメラに顔を向けようと顔を上げたが、照らされた光が、ぼやけて見えたことに気づき、再び顔を覆いながら、セットを降りる。
こんなつもりはなかった。楽な仕事のはずだった。ニコニコしながら適当に競技に臨み、要所要所で多少力を入れて元リーグトレーナーとしての威厳を保てればいい、その程度の仕事のはずだった。
どうしてこんなことを思わなければならない、一瞬そう考えたが、その答えは明白だった。ここにいるべきでない存在が、自分を再び戦いの道に立たせ、二度、自分を殺したのだ。
☆
『さあ、我々に残された希望は、最後の一人、アイドルのチカ選手とその知人のガブリアスのペアに託されました』
チカは、そのきらびやかな服装に似合わないほどに腰を落とし、ガブリアスの目と、セットされたボールを同時に捉える。ガブリアスもまた、姿勢を低くして、彼女の瞳を覗き込むように凝視する。
『あるいは、彼女らが唯一モモナリペアに勝っている若さと言うストロングポイントが、ダンスで培われた反射神経が、これまでと同じように奇跡を起こすかもしれません』
チカは、アナウンサーの『唯一』という言葉に少し反応し、小さく舌打ちする。
まだ、それはバレていなかった、おそらくモモナリと自分以外の全ては、まだ誰も自分の過去に気づいてはいない。
「頑張れ」と、セットを降りたカタヤマが彼女の肩を叩いていた。その声が、普段の彼からは想像もできないほどに小さく、震えていたことも覚えていた。
あの声は、あの震えは、リアルでしか起こらない。虚構、フェイクの世界では、それを感じることなど出来ない。
どうするべきなのか、どうすれば良いのか、彼女はまだ決めきれていない。
まだまだ駆け出しではあるが、自分自身の手で掴み取ったアイドルの地位を簡単に捨てることは出来ない。
しかし、ここで負ければ、当然のことだがモモナリが勝つことになる。やはりリーグトレーナーだと、尊敬と尊厳を勝ち取り、食い散らかされたプライドを眺めながら、ここを去るだろう。
ここで負ければ、自分のプライドを守ることはできる。アイドルとしての立場を守るため、手を抜いた。理由としては十分すぎる。
だが、それ以上に、モモナリを勝たせたくはない。
とっくに牙が折れていたはずの男が、その牙を折ったことをあそこまで悔やんでいる。モモナリに悪意はないだろう、だが、彼が自然的に持ち合わせているその自惚れを、打ち崩したい。
できるのだ、自分たちには、それができる。
笛がなる。これまでのタイミングを外して、すぐさまボールが落ちる。
彼女は声を上げない。だが、ガブリアスは体を反転させてコースを走る。
『走った!』
アナウンサーがそう叫んだ頃には、もうガブリアスはマットに飛び込んでいた。ボールが点々と転がる。
『スーパースロー!』
アナウンサーがそう叫んだ頃には、もうモニターにそれが映し出される。
ボールは、落ちるより先にその軌道を変えていた。
『クリア! クリア! 白旗です!』
参加者たちのトレーナーたちがどっと沸く。
チカは、顔を赤くし、フウと息を吐いてセットを降りる。
『恐ろしいほどの、奇跡的な偶然が重なりました』
アナウンサーが、モニターのリプレイを見ながら、らしく無く本当の興奮を見せながら続ける。
『急なタイミングに、チカ選手は声を失いました。ですが、偶然でありましょうか、ガブリアスが暴走し、自らの意思で走り出します。たまたまそのタイミングが、ボールが落ちてすぐ、あるいは、この博打は戦略通りなのでしょうか』
セットを降りながら、チカはカタヤマの表情を見る。他の参加者と違い、赤い目に驚きを携えた視線に、彼女は目を伏せた。
バレた。
当然ながら、この一連の動きは、ガブリアスの暴走などではない。彼はチカの目を覗き込み、その瞳の動きで状況を判断した。声の指示を待つよりも、人間の反射神経を合図にすることで、より早い行動を可能にする。
勿論その理屈がわかったところで、誰もができるようになるテクニックではない。トレーナーの能力、ポケモンの能力、信頼、経験、決断力、集中力、およそ対戦において能力とされるものすべてを高いレベルで持ち得ていないと使いこなせない。分家とはいえドラゴンつかいの一族の血を持ち、お互いに物心付く前から苦楽をともにしてきた彼女らは、その要素を満たしている。
トレーナーの技術だけでなく、それ以外の要素も必要とするそのテクニックを、リーグトレーナーを経験した人間が、見逃すはずがない。
当然それは、現役のリーグトレーナーであるモモナリも。
「見せてくれるね」
セットの下で順番を待っていたモモナリが、笑顔を浮かべながら彼女に言う。
チカは、それに言葉を返さなかった。
後悔があった。
ついに使ってしまった。あれほど毛嫌いしていたはずの、ドラゴンつかいの一族としての過去を、その経験による技術を、ついに使った。
☆
『この距離こそが、この競技における、最大の距離であり、これ以上の距離は、用意ができません』
アナウンサーの言うとおり、そのセットは、これ以上その距離を伸ばすことが出来ない。
へえ、と思いながら、モモナリはボールとの距離を測り、ガブリアスと額を合わせ、彼女の体温の低さを額で感じる。
確かに、この距離は遊びではクリアできそうではなかった。そして、モモナリが手を抜くことはありえない。
『伝説が生まれようとしているこの日に、なぜこれ以上の距離が用意できないのか。先程私は、この番組の責任者に直接問いました』
参加者と、スタッフたちの沈黙を確認してから、続ける。
『彼はこのセットを作る際に、とあるドラゴンの専門家に助言を求めました。そして彼はこう言ったそうです。この距離をクリアできるものは、ドラゴンつかいの一族にも数人しかいないだろうと。その後、どれだけロケハンを重ねようと、この距離をクリアできるペアは存在しませんでした。最終的にガブリアスに正面を向かせ、彼自身にボールの落下を確認させても、それは出来なかったのです。今、一番驚いているのは自分だと、責任者は最後に締めくくりました。その距離に、二組のペアが挑戦します!』
大きく息を吸って続ける。
『まずは一組目! モモナリペア!』
拍手を合図に、モモナリは腰を落とし、先程のチカと同じように、ガブリアスの目を覗きながら、その背後にボールを捉える。
そのテクニックを、モモナリも持っている。ゴルダックやジバコイルとならば、彼女よりも高い精度でそれを成功させる自信もある。戦いの中でそれをすることを考えれば、雨も砂嵐もあられもなく、野生のポケモンが飛び出してくるわけでもなく、ルールを無視した二体目で不意打ちされることもない、ただただボールを捉えるだけでいいこの環境は、ぬるい。
『すでに彼らは、総合優勝を決めております。それでも手を抜かないのは、リーグトレーナーとしての矜持か』
笛が吹かれる。
お互いを見つめ合いながら、モモナリはその背後のボールに意識を割く。
ガブリアスもまた、じっとモモナリから目を離さない。まだ若く、経験不足ではあるが、モモナリを最も強い生物達の一つ、カントージョウトAリーガーに押し上げたポテンシャルに、今更疑問を覚えることはない。
ずいぶんと長く、ボールは落ちない。モモナリとガブリアス以外の人間がそう思っていた。
その時、ガブリアスの瞳が、わずかにモモナリから逸れた。モモナリは、それに驚く。
それを狙っていたかのように、ボールが落ちる。
意図せずとも、モモナリの瞳が動く、ガブリアスがそれに反応して体を反転させる。
『さあどうだ!』
アナウンサーがそう力強く言い終わるより先に、ガブリアスがマットに滑り込む。
参加者たちは、その結果がまだわからない、明確に成功ではないが、明確に失敗でもない、遠く、わからない。
だが、落下地点の一点を凝視する権利を得ている審判員は、それを肉眼で確認している。
審判員は、赤旗を上げた。
『失敗! 失敗です!』
ショックからか、まだ起き上がらないガブリアスを呆然と眺めながら。モモナリは立ち尽くしていた。
会場のモニターは、スーパースローを映し出している。だが、モモナリはその真逆を向く。
ガブリアスは、一体何に気を取られたのか、Aリーグを戦い抜いた彼女が気を取られたものは何だ、彼女の瞳が動いた方向を、モモナリは強く確認する。
モモナリの視線は、セットの下に向けられていた。そこには、次の挑戦を待つチカとガブリアスがいる。
チカは、驚きと、どこか満足げな表情をモモナリに向けている。違う、彼女ではない。
その背後にいるガブリアスと、今度は目が合う。
これだ、と、モモナリは頭を抱えた。
チカのガブリアスが、特別何かをしたというわけではないだろう、だが、同族としてか、はたまた異性としてか、彼女は、チカのガブリアスに一瞬目を向けてしまったのだ。
だから、遅れた。反応が一瞬遅れた。
そのテクニックを持ってしても、ギリギリの距離だった、どれだけ彼女のポテンシャルが優れていようと、その一瞬の遅れを取り戻すことは出来なかった。
想定しきれていなかった。
彼女が、チカのガブリアスを悪くは思っていないということを、想定しきれていなかった。些細なことで集中を乱された彼女だけの責任ではない、それをうまく排除するのが、力を持たない人間の役割だと言うのに。
ようやくモモナリは、落下地点にいるガブリアスに目を向ける。
彼女もまたようやく立ち上がったところで、瞳をうるませながら、恐れるようにモモナリに視線を向けていた。
モモナリは、それに笑顔を返そうとした。大したミスじゃない、この程度の遊びが出来なかったからなんなんだ、もっと大事なことが、いくらでもある。表情でそう伝えようとしていた。
だが、それは出来なかった。彼は彼女にセットを降りるようにと指で合図し、顔をひきつらせながらセットを降りる。
チカと目が合った。
「瞳だけでは、難しいかもしれないよ」と、何とか伝える。
ものすごい顔をしていたのだろう、チカは、それに何も返さなかった。
「モモナリ選手」
セットを降り、ガブリアスと合流したモモナリに、女性アナウンサーとカメラマンがインタビューを求める。
アナウンサーは緊張していた。モモナリの憔悴っぷりは、誰の目にも明らかだった。もしかすれば機嫌を悪くし、とてもテレビでは使えないような言葉を発するかもしれない。まだ若い彼女は、目の前のリーグトレーナーが決して品行方正なタイプではないということだけを、なんとなく知っていた。
しかしモモナリは、笑顔を作ってそれに答える。なんとなくではあるが、これほど好き勝手やったのだから、せめてインタビューくらいにはよく答えていたほうが良いのだろうなと彼は思っていた。
「挑戦失敗してしまいましたね」
思いの外彼の機嫌が良さそうに見えたので、アナウンサーはいつものように質問する。
「そうですね、お互いに色々ミスがありましたが、ガブリアスはあそこからよく走ってくれたと思います」
ぐう、と、うなだれるガブリアスの首元を掻きながら、モモナリが答える。
「ミスと言うと?」
より詳細な情報を求めるアナウンサー、しかし、モモナリはそこに関しては答えを濁す。
「まあ、お互いに色々と経験不足だったということです。僕が調子に乗ってたということもあります。それが今ここでわかったことは良かったですね、この経験を、必ずリーグに活かします」
よくわからなかったが、時間の迫っているアナウンサーは次の質問をする。
「チカペアはクリアできると思いますか?」
その質問に、モモナリは困ってしまった。
彼女らのバックボーンであったり、付き合いの古さ、瞳のテクニックなどの高度さを考えれば、全く出来ないというわけではない。
だが、今彼女らはアイドルとアイドルが知人に借りたガブリアスなわけであって、流石にそれをバラす訳にはいかないだろう、モモナリにだってその程度の良心というものはある。
しばらく考えた後に、モモナリは答える。
「頑張れば、なんとかなるもんですよ」
ありがとうございました、と、アナウンサーたちが去った後に、モモナリはガブリアスの耳元で言う。
「よく頑張ったな、帰りにガレット屋にでも行こう」
一瞬だけ、ガブリアスが目を輝かせるが、それが罰の前の飴だとすぐに理解して、またうなだれる。
モモナリは感のいい彼女に笑顔を見せながら罰を言う。
「そして、当分の間甘いものはお預けだ」
ああ、もったいないなあと彼は思う、せっかく副賞が手に入るというのに。
うなだれるガブリアスの顎を両手で包むようになでながら、「当分、酒抜くかな」と、モモナリはつぶやいた。
「おい」と、そんなモモナリに声をかけるのはカタヤマ。
「お前の意見を聞きたい」
彼はモモナリがそれに返事をするより先に問う。
「チカちゃん達がさっき見せたあれは」
しっ、と、今度はモモナリが、カタヤマがそれを言い終わるより先に遮る。
「大体、あなたの考えてるとおりですよ」
その言葉に反応して、まだ何か言いたげだったカタヤマに、更にモモナリが言う。
「今は黙っといてあげましょうよ、別にあの子のことが嫌いってわけじゃないんですし」
☆
セットの上で呼吸を整えるチカは、ボールの落下地点と、ガブリアスの走路を何度も何度も視線でなぞりながら、これまでの経験を含めたシミュレーションを、これまた何度も頭の中で繰り返していた。
『もしかしたら我々は、今日、伝説を目にするかもしれません』
アナウンサーはほとんど素だった。
『リーグトレーナーであるモモナリペアの失敗によって、この距離は、その神秘性を増しました。ドラゴンの専門家が言った、ドラゴンつかいの一族でも数人しかクリアできないであろう距離、その言葉に信憑性が生まれました』
チカは、まだスタート地点につかない。まだシミュレーションを繰り返している。
だが、誰もそれを急かさない、その権利を有しているものなど、今この場にはいない。
『この際、彼女の職業や、ガブリアスとの関係などは忘れましょう。この競技における彼女らの活躍は、それを忘れさせるに十分であります』
駄目だ、と、彼女は天を仰いだ。
絶対に失敗する、とは口が裂けても言えない。だが、絶対に成功するとは断言が出来ない。
たとえあのテクニックを駆使したとしても、成功の見込みは三割あるかないかと言ったところだろう。
悔しいが、認めたくはないが、単純に生まれ持ったポテンシャルだけを考えれば、相棒のガブリアスは、モモナリのガブリアスに劣る。一瞬の遅れを、馬力で引き戻しかけたあの脚力は、ガブリアスの中でもそうはいない。
違う違う、と、彼女は頭を振る。絶対に成功させる、そのためのトレーナーだろう。
だが、妙案がない、シンプルな競技故に、技術的な介入が難しい。
そこまで考えて、彼女は「そうか」と、初心を思い出す。
別に失敗してもいいんだ。
そうだ、自分の身分を考えれば、ここで成功するほうがおかしいんだ。
フン、と、ガブリアスの鼻息がチカの髪を揺らす。それに気付いた彼女が彼の顔を覗き込む。
真っ直ぐに自分を見つめ返す瞳を見て、彼女は我に返る。
「馬鹿なことを」
今の考え方は駄目だ、言い訳どころの騒ぎじゃない。自らの境遇を、失敗の免罪符にしようとしただけ。最悪の逃げだ、これまでアイドルとして頑張ってきたのは、ここで逃げるためではないだろう。手段と目的が、逆転するところだった。
「できる?」と、彼女はガブリアスに問うた。彼女には自信がなかった、彼女は珍しく、彼を頼った。
ガブリアスは目線で彼女にスタート地点に着くように促した。それが難しいことは、彼にもわかっているだろうにと、チカは少し笑う。
「策はないわよ」
チカはガブリアスにそう声をかけながら、スタート地点に着く。そして中腰の体勢を取り、ガブリアスの瞳を見つめながら、その背後にボールを捉える。
アナウンサーは、もう何も言わない、それが、彼女のサポートになることが分かっている。
会場もまた、それを尊重した。
笛が吹かれる。
ボールを落とすスイッチを握るスタッフは、目をつむり、頭の中で自分の知っている古い曲を口ずさみながら、そのサビにはいる直前にスイッチを押した。
ボールが落ちる。
彼女がそれを視線で追うよりも先に、ガブリアスがねじ切れんばかりに体を反転させる。それは、ボールが落ちるのとほとんど同時だった。
一気に遠くなる背中を眺めながら、チカはそれに驚き、息をつまらせる。
完璧なスタートだ、完璧なスタート。
だが、彼が何を見たのかがわからない。瞳の動きではないはずだ、先程の挑戦のときよりもスタートがいいから。
小さくなった彼が、マットに飛び込む。
暴走ではない、それだけはありえない、何かを確信して、彼はスタートした。
滑り込む彼を見ながら、彼女は「まさか」と、ひとりごち、目をうるませる。
彼は彼女ですら気づかない些細な彼女の変化を感じ取り、それを機にスタートを切ったのだろう。彼自信も、それが何かとは断言することの出来ない何かを、俗にいうならば、心を、彼女の心を読んだ。瞳の動き、反射神経を超え、彼はそれを成した。
ボールが跳ね、マットから飛び出す。
審判員は旗を振って、スーパースローをリクエストする。
『スーパースロー! スーパースローを!』
モニターにそれが映し出されるが、チカは両手で顔を覆い、それを確認しない。
考えてもいなかった、反射神経以上の連携など考えてもいない。それ以上の連携は無いと思っていた、必要もないと思っていた。だが、彼はそう思っていなかった。
大歓声が彼女の耳に入り、彼女は涙ぐみながら顔を上げる。
審判員が、白い旗を掲げていた。
『成功! 成功! 成功!』
チカは、ガブリアスがそうしたように、セットの上を駆ける。
誇らしかった。
この困難を、共に乗り越えることの出来た相棒を、誇らしく思う。
マットの上、すでに立ち上がり彼女を待ち構えていたガブリアスの胸に飛び込み「やった! やった! やったあ!」と、歓喜の声をあげる。
アイドル、チカのファン達の中には、このときの笑顔こそが、彼女のこれまでの中で最も素晴らしいと断言するものも多い。
この後のことは、このあと考えようと、チカは歓喜に身を任せる。今はただ、この誇らしい相棒と、それを共有したい。
歓喜を分かち合う彼等のもとに、他の参加者たちも集まる。
まず、彼女たちに抱きついたのは、ガブリアスとともに活躍する、女性コーディネーターだった。
参加者たちは彼女らを中心に円になって、まるで自分たちがそれを成したかのように喜び、声を上げ、しばらく忘れていた全力の力での拍手を共有していた。
☆
歓喜の円陣を、モモナリとガブリアスは、少し遠くから眺めていた。
チカ達がやってのけたことの偉大さは、おそらくこの世界の中でモモナリが一番良く理解してる。
だが、気分ではない。
あの美しい光景に、入る気にはなれない。
彼は、ふと横にいるガブリアスを見た。
彼女は、チカと抱き合うガブリアスをじっと眺めている。
そのガブリアスは、力任せにチカを振り回しながら、その喜びを、全身で表現していた。
彼の景色に、彼女が入ることはないだろう。
「まあ、長く生きていれば、そういうこともあるさ」
ポンポンと、モモナリはガブリアスの背を二、三度叩く。それに気付いた彼女は、モモナリの頬にすり寄った。
☆
「出禁だとさ」
番組放送後、野暮用でポケモンリーグ協会を訪れたモモナリは、タイミングよくそこを訪れていたオークボに呼び出され、そう通告された。
「出禁?」
考えをまとめるために、モモナリは一旦その単語を復唱する。覚えがないわけではない、これまでの人生を考えると、覚えがありすぎて一つに絞れないのだ。
「あの番組だよ」
オークボの言葉に、モモナリは苦笑いを浮かべる。
「ああ、あれですか」
良い経験だったが、あまり良い思い出ではなかった。リーグトレーナー仲間からはそもそもあの番組に出たことを散々からかわれた、キリューは弟弟子たちに自分を紹介するときに「あの第四回ガブリアスナンバーワン決定戦優勝者だぞ」といちいち言うし、クシノなんて、わざわざご丁寧に『第四回ガブリアスナンバーワン決定戦優勝者』と記入された無駄にでかいトロフィーを寄越す始末。エッセイの編集者からは「プロフィールに第四回ガブリアスナンバーワン決定戦優勝は記入したほうが良いですか?」と真面目な顔をして聞かれるし、散々だ。
「もう出ませんよ」
「だからもう出られないんだよ。もうちょっと上手くやれなかったのか」
「ひどいなあ、本気でやれと言ったのは理事のあんたでしょうが」
「お前はいつになったら真人間のバランス感覚を身につけるんだ」
大抵この手の話題になると切られる切り札のような言葉に、モモナリはぐうと更に笑顔を苦くし、慌ててその場から退散しようとした。
それを引き止めるように、オークボが続ける。
「チカちゃんはずいぶんと出世したなあ、今度ポケウッドでカルネと共演するらしいぞ」
あの番組放映以来、チカの人気はうなぎのぼりだった。一度人の心をつかめば、ドラゴンつかいの一族として生まれた過去も、それに抗った過去も、アイドルとして活動していた期間も、全て肯定的に捉えられる。
中でもガブリアスとの絆は、それまでただの抜けたアイドルでしかなかった彼女が一人の人間としての尊厳を得るに十分なものだった。
「そりゃそうでしょうよ、あのレベルでガブリアス扱えて顔も良いとくれば、世界でもあの子と、シロナくらいのもんです」
「リーグトレーナーにも勝ってるしな」
「からかわんでくださいよ」
モモナリを弄るオークボのなんと楽しそうなことか。
今度こそ本格的にモモナリが背を向けようとするのを、オークボが更に引き止める。
「ああそうだ、これはまだ噂の段階なんだが、カタヤマ君がお前とエキシビションやりたいそうだ。ハンデなしで」
「いつでもどうぞ」と、モモナリは笑って答え、今度こそそそくさと、その場を去るのだった。
感想、評価、批評、お気軽にどうぞ、質問等も出来る限り答えようと思っています。
誤字脱字メッセージいつもありがとうございます。
今回の話は思っていたより膨らんで、書いていて楽しかったです