とある竜のお話 改正版 FE オリ主転生 独自解釈 独自設定あり   作:マスク@ハーメルン

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とある竜のお話 第二部 四章 3 (実質12章)

 

 

自分は、何故こんな、そう、まるで人間の様なことをしているのだろうか?

そしてこれは、迷子の子供を見つけた大人の対応として、思えばかなり下策なのではないか。

本来なら街をゆく騎士たちにでも預けて、自分はさっさとこのアクレイアを訪問する八神将とやらを遠目から眺めて帰るのが上策というものだろう。

 

 

 

イデアは、改めて冷静に考えれば考えるほど訳がわからない自分が居ることに頭を傾げずにはいられなかった。

自分は、一体何故こんな子供に貴重な時間を割いて、構ってあげているのだろうか。

正直な話、イデアがこのアルという子供を助けようと思ったのは完全な気まぐれである。

そこには一片の利己心も、悪意も無く、ただ何となく助けてやろうと思ったから彼はこの子を助けることにしたのだ。

 

 

ならば、何処からそんな”気まぐれ”は沸いてきたのだろうか……?

一体何処に興味が惹かれたというのか。

 

 

 

だが……。

 

 

 

「~♪ ~♪」

 

 

 

 

一転の穢れも無い笑顔で手を繋ぎ、通り過ぎるモノ一つ一つにその真ん丸いくりくりとした眼で興味を示すアルを見ると、そんなどうでもいい事が薄れていくのだ。

もしかすると、自分は自分でも自覚できていないだけで、子煩悩なのかもしれない。多少言葉の意味は違うだろうが、どうもイデアはそう思えて仕方なかった。

何と言うか、こう、敵意でもなく、忠誠でもない。純粋な尊敬を念を向けられるのはやはりむず痒い。

本当に子供というのは、付き合いづらい。純粋な力だけではどうにもならないからだ。

 

 

 

 

「ねーねー、リンゴもう一つちょうだい!」

 

 

 

…………。

 

 

 

もう、どうでもいいか。そもそもの話、自分は何をこんなにこの事態を重く捉えてるのだ。

たかだが子供一人が迷子になって、それを自分が親の元に送る、ただそれだけじゃないか。

この子には親が居る。親というのは子供と最も長く共に居る存在だ。だが、その時間は永遠ではない、いつか親というのは子よりも先に居なくなってしまう。

だが、まだアルはそんなことを理解することも出来ない程に幼い。ならば彼が親とするべき事はいずれ訪れる別れに備えるための思い出作り。

 

 

 

………………。

 

 

 

「ほら」

 

 

 

 

背中に持っている皮袋の中に放り込まれていたリンゴを掴み、それを布で拭いてやってから渡す。

皮の表面がてかてかと磨きぬかれた大理石の様な輝きを放つソレは、見ているだけで涎が出てきそうな程に芳醇な香りを醸し、見るからに美味しそう。

 

 

 

二個目のリンゴに豪快にその小さな口で齧りつくアルを横目にイデアは再度溜め息を吐いた。思えば、自分はさっきから一個もリンゴを食べていないではないか。

自分で食べようと思って買ってきたのに、これでは意味が無い。というか、本当にそろそろ口の中をリンゴの匂いで満たさないと、周囲の汗臭い臭いで頭痛になりそうだ。

素直に手を使って袋の中からリンゴを取り出すと、ソレを一口齧る。じゅわっと果汁が染み出してきて、とても甘い。

それでいて果肉は柔らかすぎず、水っぽすぎず、適度な硬さと甘い果汁を含んでおり中々に美味しい。

 

 

 

中々にアクレイアで売っている果物は舌にあう。また機会があれば買うとしよう。

イデアは胸中で書き続けているアクレイアの観察メモに一言そう書き足した。

ちなみに他に書かれていることといえば「臭いが酷い」とか「まるでローマだ」やら「八神将の作品多すぎ」などである。

 

 

後は、もしかしたら、いつかこの都市を自分が破壊するかもしれない、だ。

まぁ、今の所はそんなつもりはないが。どうにもこう、人が生活している様子を見せられると、やり辛いものになる。

 

 

 

 

イデアは自らの隣をチョコチョコと小さい歩幅で忙しなく歩くアルに声を掛けた。

 

 

 

「しかし、君は一体何処の出身なんだい?」

 

 

 

これは完全な好奇心だ。イデア自身もこの子の出身地や、家族の名前を聞いても何も自分に得はないことは知っている。

問われたアルが小さく頭を傾げた。恐らくはイデアの言っている言葉の意味が判らないのだろう。

こんなまだ5歳かそこらの子供が出身を言えるか? イデアは頭を小さく俯かせ、判りやすい言葉を探し出しはじめた。

 

 

出来るだけ、優しく、出来るだけ怖がらせないように。彼は考える。

まずは、何か面白い芸でも見せるとしよう。打ち解けなければ話もしづらい。

 

 

 

アレでも作るか。イドゥンには大変好評だった奴だ。以前遊びで作った時は、確か彼女は食べるのを渋って、結局シオシオになるまで眺めていたモノ。

 

 

小さく風系統の理魔法【エイルカリバー】を発動させ、リンゴの一面を皮ごと8つに切り分け、くりぬいたもう使わない芯を口の中に放り込む。

バリバリとほんの僅かだけ開放した竜の牙で芯を噛み砕きながらイデアは作業を続け、皮を切り離さないように切込みを入れて、皮の一部をV字形に切り取る。

耳の様に尖った皮の部分だけを残して他の部位の全ての皮を手早く切り落とすと、それも口の中に放り込む。やはり、皮も甘くて美味しい。

 

 

ゴクリと、十二分に噛み砕かれた芯と皮を飲み込んだイデアが、更に数回魔力を行使し【エイルカリバー】を最低限にまで威力と規模を落として使用。

 

 

不可視の空気の刃が音も無くイデアの願ったとおりに駆けた。シュッという何かを擦るような音と共に刃はリンゴを削り取り、その形を整えていく。

同じ作業を7回繰り返し、あっという間にウサギを思わせるシルエットをしたリンゴの欠片が8個生産された。

ソレを『力』を用いて宙に浮かばせ、さながら生きているウサギが野原を駆け巡っているかのような動きで動かしてやる。

 

 

 

さながら、ウサギ形のリンゴを使った人形劇だ。後でちゃんと全部食べるのだから、別に食物を粗末にはしていない……はず。

 

 

 

イデアが気になるアルの反応はかなり良好であった。眼を星の如く輝かせ、夢中でリンゴを眺めていた。

時折、手を叩いて賞賛の声も送っているといえば、どれほど彼がこの劇を気に入ってくれたか、判るだろう。

ほっとしたイデアが、器用に力を操り、ウサギを一匹アルの手の上に乗せてやった。

 

 

嬉しそうにアルがソレを眺めた後、おそるおそる齧り付き、リスが木の実を食べるかのように何度も何度も小さく噛み付いて実を削っていく。

カリカリという果肉を乳歯が食いちぎっていく音を竜族の聴力は確かに捉えた。

 

 

 

さて、これ以上余りこの街の空気に触れさせておくのもイヤだ。リンゴの味が落ちてしまいそうだ。イデアが未だに宙に浮いているリンゴのウサギを見た。

名残惜しみさを覚えつつ、アルには出来るだけ気が付かせないように一匹ずつリンゴのウサギを丸呑みにして即効で喉を通し、食べてしまう。

多少の罪悪感を感じてしまったが、すぐに胸中を心機一転させ、彼はこのアルという少年の事を改めて観察しはじめた。

 

 

次いで手をしっかりと握って自らのすぐ隣を離れず歩くアルの顔を盗み見る。

やはり見れば見るほど、何やら変な感情が胸中の奥底からとめどなく湧き出してくるのをイデアは自覚せざるを得なかった。

 

 

 

サラサラのよく手入れの届いた髪の毛やシミ一つない、ぱっと見でも直ぐに判るほど潤いに満ちた最高品質なクリームの塗りこまれた肌に

しっかりとした造りの衣服等などを見る限り、やはりアルはただの一般市民の子供とは思えない。

何より、仕草の一つ一つから隠し切れない支配者層のマナーとオーラとでもいうものが溢れているのがイデアに見えた。

 

 

だとすれば中々の富豪か、もしくは貴族の類の子息という事になる。具体的に何処の、まではさすがのイデアでも判らないが。

イドゥンならば広い精霊の眼と耳を瞬時に呼び寄せて、必要な情報を必要なだけ取り寄せ、この子の出身地を判明させることが出来たかもしれない。

 

 

 

 

何故あんな場所に居たのだろうか?

捨てられた、とは考えづらい。この子の両親が金銭に困っているとは考えられない。でなければ、こんな良質な服は着ていないし、もっと肌なども荒れているはずだ。

もしくは望まれない子供という線も考えたが、その場合は既に殺されているか、最低でも付き人が居るはずなのだが……。

 

 

結局は迷子になってしまったと考えるのが妥当だろう。仮に付き人が探しに来たら、その人物に引き渡せばよい。

 

 

そう考えを一通り纏めるとますますイデアはこの子の両親に対して懐疑的になった。

もっとちゃんと見ていろよ、子供というのは、親から離れたくないモノなのに。

ハァ、とまた溜め息を吐いてイデアは半眼でアルをじぃっと見つめた。

何はともあれ、拾ってしまった以上は責任は取らねばなるまいて。俺はナーガとは違う。

 

 

 

「アル」

 

 

「?」

 

 

 

不意に名前を呼ばれたアルがイデアを見た。二人の眼と眼が交差し、その奥を確かに見据えあった。

 

 

何度か頭の中で言葉と単語をこねくり回し、何とか「これなら判るだろう」と判断した言葉をイデアは発する。

ご丁寧に魔力でその中に込められた意味と、その心が直接相手の中に入るように細工まで仕掛けて、だ。

仮の姿である黒髪の少年が、その漆黒の瞳でアルの蒼い瞳を真っ向から見据え、その奥まで言葉を流し込んでいく。

 

 

一瞬だけ、竜族としての力を行使したイデアの影の漆黒の瞳が、彼本来の色である鮮やかな紅と蒼の光を湛え、ソレは不気味に輝きを放った。

 

 

「……君はどんな場所で住んでいたんだ?」

 

 

 

今度こそイデアの問いたい言葉の意味はしっかりと伝わったらしく、アルが眼を明後日の方向に向けてうーんと考え始め、しきりに顔を左右に傾けている。

その光景にイデアは安堵を覚え、ほっと胸を撫で下ろした。さすがにこれも無理だったら、色々と辛い。

イデアの視界の端を騎士たちが何やら急いだ様子で走り抜けていく。やかましく騒ぎ立てている騎士達の声が少々耳障りであったイデアが少しだけ術でその音を温和する。

ついでに騎士達に変に目をつけられるのが厄介だと感じたイデアが術で自分とアルの気配を少しばかり薄くした。これで、魔術に対抗のある存在にしか二人は余り目立たない。

 

 

暫しの熟考の後、アルは元気よく満面の笑顔で答えた。年齢相応の穢れ一つない笑顔。

 

 

 

「山がいっぱいあるところだよ!」

 

 

 

「山?」

 

 

 

「うん!」

 

 

 

当たり前の話ではあるが、この広大なエレブ大陸には山脈も数多く存在する。イリアにリキア、このエトルリア王国の領地の中にもだ。

山地と一言で言っても多数存在する中から、この少年の故郷を割り出すのは不可能に等しい。というか、そんな労力をわざわざ割いてやろうとはイデアは思わない。

余りにも漠然とした情報に顔を不機嫌そうに歪めてしまいそうになるが、子供の眼の前だという事を思い出して何とか彼はそれを押さえ込んだ。

 

 

気を取り直して彼は考える。今日一日の予定表を脳内で加筆修正し、大幅な変更を書き加えた。

八神将が参加するパレードは遠目に見て、その他の時間は全てこの子の両親探しに振り当ててやることにしよう。

 

 

 

次に少しだけイデアは問いを変えてみた。もちろん、ちゃんと魔力で言霊化させた言葉を発して。

 

 

 

「じゃぁ、何であんな場所に一人でいたんだ? お父さんかお母さんと一緒じゃなかったのか?」

 

 

 

 

アルは先ほどと同じように顔を傾げ、両手を額に当てて考え込んだ。今、必死に記憶の糸を辿っている所なのだろう。

意外と子供というのは記憶力がいいものでもある。

 

 

そして暫しの時間を思考に使用した後、彼は元気よく答えた。

 

 

 

 

 

「わかんない!」

 

 

 

 

イデアの溜め息がまた漏れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「?」

 

 

 

しばらく二人で歩いていたイデアが歩を進めつつ思わず頭を傾げた。

どうにも、この道はさっき自分が通ってきた道だ。この道を作るために整然と規則正しく並べられた石畳みも、全て見た。しかもついさっきに。

この道の続く先をイデアは知っている。先ほどあの初老の男と話した場所、八神将の像が祀られている場所だ。

 

 

その道をアルは笑顔のまま鼻歌交じりに突き進んでいる。

イデアはどうにも自分の腹の虫の居所が悪くなるのを感じた。まるで体内で溶岩が渦を巻いているかのようである。

八神将のことは余り、それこそ文献と噂程度でしか知らないが、どうにも気に入らない。

 

 

 

そうだ。はっきりと言ってしまえば、イデアはハノンを除いた全ての神将がどうにも好きになれない、否、確固たる嫌いという感情がある。

特にアルマーズを用いたテュルバンなどはその最たるものだ。文献を読む限り、彼は単なる戦闘狂で、戦役以前から度々竜族と揉め事を起こしていたらしい。

そんな人格破綻者でも、戦争と言う舞台で活躍すれば一躍英雄になれるというのだから、本当にどうかしている。

あんな野蛮な男の斧がイドゥンに向けられたかもしれないと思うだけで全身に蕁麻疹が走りそうだ。

 

 

 

本当に視点と言うのは大事なものだとつくづく思う。自分が人間として生まれていたならば、まず間違いなく伝説の英雄である神将に憧れを抱いていただろうに。

竜族として在るこの身からすれば、神将というのも単なる潜在的な強大な敵としてしか映らないのだから。

 

 

 

しかし、イドゥンは死んでいない。水晶の中に幽閉されたとはいえ、生きている。

イデアは神将たちを殺そうとは思わない。結局の所、これは戦争であり、その戦争でイドゥンが生き延びた以上、イデアには特に復讐したいという思いはない。

まぁ、もしも奪えるならばハルトムートの封印の剣と【炎の紋章】は手に入れて調べてみたいし、機会さえあれば神将器は是非とも研究してみたいが。

 

 

先ほどまで滞在していた神将の広間が徐々に近づいてい来る。周りに人が余り居ないのは、そろそろ訪れる神将らを見にいったからだろう。

遠目に映るハルトムートの像を見て、イデアはまた一つ溜め息を吐いた。もう、この男の顔は見飽きた。

 

 

 

アルが神将らの像の広間に向けてイデアの手を振りほどき、走り出す。小さな歩幅ではあるが、懸命に足を動かし、幼いながらも全力で走る。

しかし、道端にある小石などに何度か足を引っ掛けてしまい、その度に彼の小さな体は左右に小さくぶれる。その姿は見ていて何とも危なっかしい。

 

 

何人か道行く人にぶつかりそうにさえなっている。一瞬、相手の男が迷惑そうにアルとイデアをにらみつけるが、怒鳴り散らすのは大人気ないと判断したのか、直ぐに立ち去ってしまう。

 

 

 

「こ……!」

 

 

 

思わずイデアが彼に制止の声を上げようとした瞬間……彼の頭蓋骨の奥、そして胸の内側、心臓の中心部より、けたたましい警告の鐘が鳴り響いた。

まるで、獰猛な今にも飛びかかってきそうな獣を前にしたような、おぞましい感覚。背筋を冷たい刃が通り抜けるかのような、悪寒。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【スリープ】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一瞬の出来事であった。恐ろしく高度な技術を持った魔道師の仕業である。

全ての生物の精神と心に影響を与え、強制的な睡眠に陥れる魔術が行使され、通りを歩いていた魔術に対抗の無い人間の多くがバタバタと倒れ、夢幻の中に囚われていく。

大通りに比べれば少ないとはいえ、それでも十を超える数の人間、それだけではなく都市の上空を飛んでいる鳥などが力なく、糸の切れた人形の様に倒れていく様は何処か滑稽でさえあった。

 

 

スリープの魔術は蒼く光る雪として周囲に降り注ぎ、それは遠くから見ればとても幻想的で美しいとさえ思わせるほどの存在感を放っているだろう。

但し、触れればまず間違いなく一般人は深い眠りに落とされてしまうだろうが。

眠るという行為は生物には必要不可欠であるが、同時に最も危険な行為でもある。

何故ならば、寝ている間は完全に無防備になり、その間はどんなに強大な存在でもどうしようもない程に無力と化す。

 

 

 

生物として芸術的に完成されている竜族は成長すると、眠るという行為を滅多に行わないのは、本能的にその無力な時間を恐れているからなのかもしれない。

 

 

 

 

 

「アル!!」

 

 

 

アルの小さな体躯が、幼い少年に魔術に対する対抗力などあるはずもなく、呆気なく崩れるのを目の当たりにしてイデアは冷静な思考をかなぐり捨てて思わず叫んでいた。

無力に地に倒れ伏すその姿は、彼の心にさざ波を大きく広げ、かき乱す姿であった。子供が、たとえ死んではいないと判っていたとしても、倒れる姿というのはイデアは嫌いだった。

心底嫌いである。どうしようもないほどに嫌悪感が沸いてくる。子供は何も気にせず、笑っていればよいのだ。

 

 

 

神竜であるイデアに【スリープ】はその効果を発揮できない、舞い散る蒼の雪はイデアに触れても全く影響を与える事が出来ず、ただ宙に溶ける様に消えてしまうだけ。

魔術では影響を与える事は不可能だ、そう、魔術では。

 

 

故に、術者達はより“直接的”な手段に出た。より野蛮で、より効果的で、そして何より手っ取り早い方法を選択したのも、彼らの事情を考えれば当然といえる。

 

 

 

 

 

 

 

 

『ぐふっ、ぐふふふふふふふふふふふ……』

 

 

 

 

 

 

 

 

酷く下卑た笑い声。

聞いているだけで不快、嫌悪、侮蔑、そして吐き気。大よそ人間と言う種が根源的に持っている感情である生理的嫌悪の類、その全てを撫でやる嘲笑であった。

そんな人間が出せるものとは思えない悪魔の声が幾重にも反響、反芻を繰り返し、無数に聞こえてくるのだ。

ある意味アルは眠っていてよかったのかもしれない。こんな不気味な笑い声を子供の時代に聞いてしまったらトラウマ確実なのだから。

 

 

まるで耳に濁りきった下水の水を流し込まれたような錯覚に陥りそうな声。

 

 

 

アルに駆け寄ろうとしたイデアが足を止め、その声の発生源を突き止めるべく、周囲を見渡す。

そして……見つけた。

 

 

 

そこから先のイデアが感じた世界は苛立ちを感じるほどに緩慢と時間が進んでいく。

一つ一つの事象がゆっくりと流れ、その全ては連続性を維持したまま起こった。

 

 

まず、最初に神竜の気配探知能力が捉えたのは、今まで偽装を施していた野蛮な獣の外装が剥がれていく現象である。

バリバリと何やら分厚い紙を力任せに引き千切っていく光景を連想させる音が鳴ると同時に、イデアの視界の片隅にぽつんと存在する一人の男に変化が訪れる。

 

 

 

その人物とは先ほどアルと衝突しそうになり、迷惑そうな顔を浮かべて立ち去った男であった。今はローブを深く被っており、その顔は窺えない。

中肉中背の、茶色いローブを着込んだ男だ。ゆっくりとアルに向かい歩いていく。

ただ歩いているだけ、それなのに何処と無く冷たいイメージが拭えない。そう、まるで長い間関節などを調整されなかった人形が人形師に操られて歩いているようだ。

 

 

 

一歩。 

 

 

一歩。 

 

 

一歩。

 

 

 

 

足を踏み出すたびに男から何かが剥がれ落ち、ソレは紅い雫と共にアクレイアの綺麗に整備された石畳を汚していく。

表が白く、裏がピンクとも赤ともつかないソレ。一つ一つ床に落ちると同時に地面を汚染していくソレは男の“皮膚”だ。

皮膚が、一歩歩くたびに剥がれ落ちていくのだ。血と肉と共に男の顔からこそげ落ちていく。

 

 

 

肉食動物にもしも人間が肉を食われたら、きっとこうなるのだろう。彼らは綺麗に、肉と言う肉を持っていく。

 

 

 

剥がれ落ちた男の皮膚、その代役を務めるべく男のローブの裾から放出され始めたのは“闇“だ。

根源的な”闇” 全てを塗りつぶす純粋にして、一種の神々しささえも感じる禍々しい黒。

イデアの嗅覚はその存在から腐臭を嗅ぎ取った。まるで長い年月放置された死体から嗅ぐわえる吐き気を催す匂い。死のにおい。

 

 

 

その全てが、一つ一つの要素の全てが、常人から正気を奪い取り、狂気に走らせるほどに濃厚な魔道の匂いがぷんぷんした。

 

 

 

 

イデアの思考は一瞬だけ、余裕に満ちた雰囲気で男がローブに手をかけ、そして降ろした瞬間に凍結させられた。

 

 

 

 

 

 

男に先ほどまであった人間としての顔は無かった。

 

 

 

 

 

ただ、飛竜と人間の頭蓋骨を溶け合わせたような形状の白い髑髏が、本来人間の顔がある部分に鎮座するだけであった。

眼窩の部分に宿す、赤黒い狂気を孕んだ光だけが、この存在は確かに生きて動いているのだと伝えていた。

その姿は、あの日殿でイデアが見た亡霊兵士に近い。だが、ここは殿でもないし、亡霊が沸くような戦場の跡地でもない。エトルリア王国の王都アクレイアの一角だ。

 

 

 

何故? 何故? 何故? 一体、こいつらは何なのだ? 何故ここにこんな奴らが居る?

余りにも様々な事が起こり、イデアの頭には無数の疑問が螺旋を描きながら飛び交う。

魔道師としてのイデアは全ての情報を整理しようと、必死に頭を働かせていた。

 

 

それにかかる一瞬の時間が命取りであった。

イデアの犯した致命的なミスは、瞬時に思考を戦闘のための冷徹なモノへと変更出来なかった点である。

 

 

男、否、怪物のいつの間にか黒く染まっていたローブを着込んだ顔なしがその手を未だに事態の推移についていけないイデアに向けられる。

殺意と敵意を敏感に感じ取ったイデアが気が付いて、咄嗟に【オーラ】を展開しようとするが、既に遅い。ただでさえ分身であるこの身では、様々な面で本体に劣るのだ。

 

 

 

 

 

ソレは、数回の瞬きにも及ばない、正に刹那ともいうべき時間の間に起こったことだ。おおよそ、このエレブではほぼ全ての存在が対応は出来ないであろう程の早業だ。

【スリープ】の効力が効いていないと判断した怪物の行動はそれほどまでに迅速で、残忍で、電撃的であった。

魔術、それもイデアなどが普段よく行使する物を持ち上げたり、動かしたりする魔術、怪物が使ったのはそのちょっとした応用だ。

 

 

 

ただ、物体を思いっきり、遠慮なく加速して投げただけだ。

 

 

 

怪物が掲げた腕、その動作に応じて広がった黒いローブはまるで巨大な漆黒の翼に見える。

そして、奈落の底を想起させるであろう袖の奥底から、一本の棒状の物体が凄まじい回転を加えられて発射された。

いっぽんの手槍だ。長さはアルの伸長とほぼ同じぐらいの長さに揃えられたソレが、まるで堅牢な城壁を砕く攻城兵器の如き勢いを持って放たれたのだ。

 

 

 

「が……っ!!!」

 

 

 

不可視の空気の壁を突き破り、魔術の力によって目視するのがほぼ不可能といえるほどの速度に加速されたソレは、イデアにありとあらゆる抵抗を許さず、彼の腹部、鳩尾の辺りに深々と突き刺さった。

しかし、それでもたかが人間の身体程度では槍の威力を殺しきることは叶わず、そのまま槍はイデアを串刺しにしたまま飛び去り、そのまま背後の石つくりの壁に彼を打ちつけた。

余りの激突の衝撃に、幾重にも石を積み重ねて作られた壁に無数の断裂線と亀裂が走り、槍の飛来した後の大地の石畳も捲れ上がり、次いで粉々に砕けた。

 

 

イデアが呆然とした様子で自らの腹部を見る。

銀色の無骨な作りの槍が、深々と、まるで冗談の様に突き刺さっている。

 

 

まるで磔刑に処される罪人の如き姿だ。貫かれた腹部からは槍の回転と肉が擦れあったために生まれた熱量のために、血が気化して煙となっている。

槍に貫かれた場所から鮮やかな真紅の液体が滲み出、それはあっという間に豪雨の如き勢いで放出され、彼の足元に粘性を持った血の湖を形作った。

 

 

 

「ごっ……あっ……!」

 

 

 

『運が悪かったな。この小僧に関わらなければ長生きできたものを……死ぬまでの時間を後悔に費やすがいい』

 

 

 

ぐふふふふ、とあの聞く者全てにどうしようもない不快感を与えるであろう狂笑を仮面の奥底から漏らす。

怪物が磔にされたイデアをその眼光で見、怪物が嘲り、その無謀を嘲弄する。その声には絶対的な強者が弱者に対して抱く哀れみさえ混じっているように取れる。

既にイデアに対する興味は失ったのか、怪物が踵をかえし、背後で眠りについているアルに近づき、彼のすぐ傍まで行くと、その白骨化した腕で乱暴に首を掴んで持ち上げる。

アルが呼吸を阻害され、苦しそうな顔をした。唇の端からは小さなうめき声さえ聞こえた。目元には薄っすらと涙さえ浮かんでいる。

 

 

 

夢の中で両親に助けを求めているのか、小さく唇を動かし、その動きははっきりと見えた。

そして、イデアの視力と、竜族としての優れた直感能力は、その言葉を読み取ることが可能であった。

 

 

 

 

 

「────」

 

 

 

 

イデアはその全ての光景を黙って見つめていた。胸の奥底で暴れ狂う怒りを必死にかみ殺しながら。どうしようもなく、イラついていた。

彼が見ているのは、苦しそうに顔を歪めるアル。そしてそんな子供を傷つけた怪物。

痛みは既に超越していた。生物の死に対する警告とも言える痛みはもう、彼には関係ない。

今は、この報いをどうやってこの亡霊もどきに与えるかを考えている自分がいるのが克明に判った。

 

 

既に、こいつが何処の誰で、何を目的にしているかなど知ったことではない。

 

 

 

息が、出来ない。食道に灼熱の血の塊が存在し、ソレが呼吸を遮る。鼻と口、大よそ顔のありとあらゆる場所から熱を持った血が放出され、命が流れ出ていく。

しかしそれでも、その眼は、その双眸からは全く生命力が失われうることはなく、それどころか激烈な光と共に怪物を睨みつけていた。

その瞳の奥底に宿ったのは怒り。そして明確な敵に対する煮えたぎる闘志。

 

 

幾つもの言葉が彼の頭の中を春先の蝶のように飛びまわり、それらは一つ一つがくっつき始め、やがては彼の頭の中で明確な文字の羅列となった……つまり。

 

 

 

 

 

───身の程を弁えろ。この死にぞこないが。

 

 

 

たかが、腐臭を放つ怪物如きが、どうしようもない程に醜い気配とエーギルを放つ化け物風情が。

イデアの黒曜石の瞳が血よりも鮮やかな蒼と紅に染まり、縦に裂けた瞳孔の中で危険な光が凄然とした凶光を放ち始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「申し訳ありません。全ては私の責任です」

 

 

 

王都アクレイアに存在する王城の一室。

床には選ばれた動物の最高の毛並みを利用して丹念に編まれた真紅の絨毯が敷き詰められており、部屋の壁には様々な上質な絵画が飾られている部屋。

部屋を彩る色彩は全体的に明るく、机の上などに置かれた調度品なども趣味がよく、この部屋の厳かながらも、何処か柔らかい空気を演出するのを助長していた。

 

 

だが、そのこの部屋に存在する全ては恐ろしく高価なものばかりである。

例えば、部屋の隅に置かれているキングサイズの天蓋付きのベッド一つにしても、大量の金でライオンを至るところに刺繍してあり

これ一つでも並の平民なら1年は遊んでくらせるだけの価値がある代物だ。

 

 

 

他にも壺や絵画、置物、その全てがこのベッドと同等か、もしくは遥かに上回る価値を持っている。

 

 

 

しかし、この部屋、とにかく広い。

どれほどの広さかというと、完全武装した騎士の一個中隊程度ならば容易に全員を収納できるほどに広大だ。

人間が一人で住むにはあまりに広すぎて、逆に不便とさえいえるだろう。

 

 

 

ここは王都アクレイアの中枢、聖王宮。この王宮の面積だけでもこの王都の一割以上を担うというとてつもなく巨大な城だ。

しかし、この城は本来城が持つ要塞という役割を果たすよりも、人間達の自らを飾り付け、その力を誇示する役割に重みを与えられて作られている。

その証拠に城の外壁を彩るために用いられた無数の金銀宝石や、石膏で作られ、敷地の至る所に設置された様々な像の総数はもはや数えるのが馬鹿馬鹿しくなるぐらいだ。

 

 

 

金銀などを提供したのはかつてリキアに住んでいたとある竜だそうな。何でもその竜は自らの力で鉄や鋼はおろか金や銀、ありとあらゆる宝石などを作り出せたらしい。

他にもその年の食物や水の供給など、おおよそ人が生きていく上で必要な全ての要素を自由に操れたその竜は

人間に様々な新しい食べ物の作り方などを伝授していたが戦争が始まる少し前に何処かへと去ってしまったらしい。

 

 

 

 

話を戻そう。

 

 

 

聖王宮の中でも最も高価な部屋の一室。

たとえ名高い大貴族であろうと勝手に入ることは許されない最上級の、それこそ王族にしか許されないほどの格の高い部屋。

この中に入れるのはそれこそ王族か、国王自身か、またはその血縁者、もしくは前述の者どれかの許可を得たのみ程度というほどの空間である。

 

 

そんな部屋に二人の人影が居た。一人は全身を磨きぬかれた銀のフルプレートアーマーで覆った一人の屈強な体格の騎士。

羽織った紅いマントには一本の槍を背負った飛竜……彼の所属する王国の国旗の模様があしらわれており、いかにこの騎士の階級が高いかを示していた。

常人よりも遥かに効率的に引き締まった肉体に、幾つもの戦場を神将と共に駆け抜けたその眼は確かな知性と力強さを宿しており、正に歴戦の兵士と言わんばかりの立ち振る舞いだ。

 

 

 

そんな男性が膝を折り、頭を深く下げる主は意外なことに男ではない。いや、戦士ですらない。

彼が膝を屈している存在は女性であった。今は部屋の中央に置かれた黒い丈夫なつくりの椅子に腰掛け、黙って彼の話を聞いていた。

 

 

神秘的な雰囲気の女性だ。蒼く、光の加減によって翡翠色の髪を後ろでまとめており、それらは一本一本に至るまで、まるで芸術品のような輝きと艶やかさを持っている。

身に纏うのは本来、大貴族が身に纏うにしては余りにも質素な黒いドレスを着こんでおり、それでも全く地味という印象は沸かず、むしろ落ち着いた雰囲気を放っていた。

そして何より、この女の目は、とても優しい光を宿してはいるが、その奥には確固たる信念ともいうべき“芯”が在る。

 

 

 

だが、さすがの彼女も今回の話には動揺を隠し切れないのか、膝の上でぎゅっと握り締めた小さな拳の皮膚が真っ白になっている。

 

 

 

話は少しだけ過去に戻る。

彼女とその息子はとある用事でこのアクレイアを訪れていた。息子の見聞を広めるためでもあるし、同時に権力者同士の交流会に彼女達は招待されたのだ。

そうして時間は流れ、祖国に帰ろうと思った矢先に夫が近々この地を来訪するから、ここに滞在して待っていようという事になったのである。

 

 

 

もちろん、超を頭につけてもいいほどの重要人物である彼女達の護衛は完璧だ。

彼女達の故郷であるベルン王国の精鋭の一個部隊と、それらを率いるかつての大戦で活躍をし

今や彼女の王国でも神将らを除けば最強に近い腕を誇る三人の『竜将』の一角、今彼女の眼の前で報告をしている男が護衛についている。

 

 

 

息子も同じように守られているはずだったのだが……完璧であったはずだ。

城の警備兵らも大戦を生き延びた精鋭たち、それにベルンの竜将直々に鍛えられた精強なる騎士達……。

 

 

 

だが、事件は起きた。それも最悪の形で。

息子が、恐らく誘拐されたのだ。護衛についていた騎士達は皆殺しと言う惨状であった。

親衛隊を皆殺しにするほどの力の持ち主が、彼女の息子を連れ去った。

言葉にしてしまえばこれだけであるが、内容は恐ろしいことである。

 

 

彼女とその息子の身分を考えれば、最悪、エトルリアとの関係が想像するのも恐ろしいほどにねじれる可能性さえあるのだ。

そうなれば待っているのは今度は人間同士の戦争。かつては竜を打倒するために手を取り合った彼らは、その手にもった刃を同じ人間へと向けることになるだろう。

 

 

様々な可能性を一瞬で頭の中で思い描くことが可能なほどに優秀な頭脳を持った女性は、一瞬だけ浮かんだ最悪の可能性に目を伏せ、そして直ぐに何かを決意した面持ちの顔を上げる。

椅子から立ち上がり、跪く男に小さく手を翳して、柔らかな声で彼女は言う。しかし、その言葉の端々からは、子と引き離された母親としての弱さが覗いていた。

 

 

 

「判りました。引き続き、貴方は捜索隊の指揮をお願いします……アルを、よろしくお願いします」

 

 

 

「この命に代えましても。ミリィザ様」

 

 

流れるような動作で男が立ち上がり、剣を鞘から抜き、見事な飾りを施されたソレの剣先を胸の前で天に掲げ、誓いを行う。

彼の言った“この命に代えても”という言葉はこれで比喩やおぼろげな表現などと言う言葉遊びではなくなった。

 

 

 

騎士の誓いというのは、それほどまでに重いモノなのだ。

男がピシッと背筋を伸ばした体勢で、部屋からなるべく気配と音を抑えて出ていくのを見送りつつも女性──ミリィザは椅子に再度腰掛けて考える。

あの騎士の事を信頼していないわけではない、むしろ良く尽くしてくれるし、最高に頼りがいの騎士だと思っている。

伊達に竜将を名乗っているわけではないのだ。あの騎士は彼女の祖国において、彼女の夫の次に強いだろう。

 

 

 

 

ミリィザはチラリと窓の外を盗み見た。この部屋はこの王宮の中でも高い位置に存在するため、ここから見える光景は正に絶景としかいいようがない。

広大な緑色の面積を誇る王宮前広場に、左手に見えるのは太陽の光の加減で夕暮れ時には真紅に輝くことから名づけられた『暁の泉水』

更に奥にはこの王宮と、王宮の庭を区別するための境界として建築された南門があり、その果てに広がるのは聖王領と呼ばれる人口の森だ。

 

 

更に更に奥にはこのアクレイアの地平線の果てまで広がる町並みが見える。今日の様に晴れた日にはこの街がはっきりと見えるのである。

 

 

 

彼女は一つだけ確信していた、母親と子の繋がりと言ってもいいし、彼女の誰にも打ち明けていない出生による能力かもしれないが、一つだけ彼女は確かなアルに関する情報を持っていた。

即ち、アルはまだこのアクレイアを出ていないということだ。理屈ではない。確かな真実としてミリィザは愛しい息子の存在をあの巨大な街の中から感じ取っていたのだ。

 

 

そしてもう一つ、彼女は根源的に、もう一つの“何か”を感じていた。それは魂に刻まれた記憶と言ってもよい。

生き物が生まれた時から呼吸の方法を知っているように、鳥や魚が泳ぐことや飛ぶことが出来るように、彼女は“何か”の気配を知っていて、尚且つそれを感知できた。

酷く恐ろしい“何か”が、このアクレイアを訪れている。

 

 

 

あの騎士の事は心の底から信頼している。この言葉にうそは無い。

だが、だがしかし……。息子が居なくなったというのに、何もせず、部屋で黙って報告を待ち続けるのは本当に正しい行為なのだろうか?

だからといって、自分の立場や責任を蔑ろにして、感情の赴くまま探しにいくのも正しいといえるのか?

 

 

彼女がここに残り、たとえ息子が見つからなかったとしても夫に弁解をすれば最悪の事態だけは回避できるかもしれない。

もしも誘拐犯の本当の狙いが彼女で、息子はミリィザをつるための餌であったならばどうする?

一度に王女と王子を失った祖国は怒り狂うだろう。

 

 

それに何より、彼女は立場以外の、“自分たちが狙われる本当の理由”を薄々感づいても居た。

だが、これだけは絶対に認めたくない。

 

 

 

母親としての自分と、立場ある有力者としての自分。二つの側面を彼女は持っている。

もっと言うならば、国か息子か、どちらを取る? という事になる。

 

 

 

 

 

「…………」

 

 

 

 

少しだけ考え込むように顔を伏せた彼女であるが。椅子から勢い良く立ち上がると、黒い木製のクローゼットへと早歩きで近づき手早く開ける。

 

 

 

 

答えは、既に出ていた。

 

 

 

 

中から出切るだけ質素なローブを引っ張り出すと、ソレを身に纏う。更に懐から金色の通貨がどっさりと詰まった袋……だいたい3000ゴールドほどを取り出して確認すると直ぐにしまう。

もっと奥から見事な装飾の施された短剣を取り出し、ソレを腰に巻いたベルトに固定。鏡の前で何度か自らの何処にでもいそうな旅人の様な姿を確認し、よしと頷いた。

頭の中を再度整理し、今回自らがやらなければならない事を順序だてて彼女は並べていく。まるでタロットカードを机の上に並べていくように彼女は情報を陳列させていくのだ。

 

 

 

最優先はアルを見つけて連れ帰る。最悪そのためならば、彼女は“奥の手”を使う覚悟さえもあった。

次点、これは大分優先度が下がるが、可能ならば同じ事を繰り返されない為にも相手の正体、もしくはソレに準じた情報を知ることが必要となる。

最後に、自分とアル、両者が揃って戻らなければ意味が無い。どちらか片方でも欠けてはいけない。

 

 

こうやって改めて羅列すると、いかに自分がこれから行おうとしている行為が無謀かよく判る。だが、やめるつもりは既になかった。

 

 

「……」

 

 

 

次に、彼女はこの部屋からひっそりと抜け出すための準備を始めた。

一般的に高い階層にある部屋から誰にも悟られずに脱出と言うとロープか何かで窓から脱出と連想する者が多いだろう。

だがここは全ての人間という種族の首都であり、ましてやこの王宮はその街での最高の場所であり、警備もそれに見合っているモノとなっている。

 

 

もう間もなく八神将がアクレイアを訪れるとあれば尚更、万が一の事態に備えているのだ。

現在、この王宮だけでも何百何千と言う兵士や騎士が欠かさず巡回を行い、警備の死角などはほぼないといえる。

 

 

 

それに、この無駄に広い王宮の領内は、例え聖王宮からの脱出に成功したとしても、

次に待ち受けるのは一つの小さな都市程度ならばすっぽり入ってしまいそうなほどに広大な庭、聖王領だ。

監視の騎士や兵士の眼を一々盗んで進んでいたら、アクレイアの市街地に入るのは恐らくは夜になってしまうだろう。

 

 

 

 

ならばどうする? どうやってこの部屋から脱出し、市街地に行く?

答えは一つだ。そんな不可能を可能にする力が一つあるではないか。

 

 

 

「……つっ!」

 

 

 

 

取り出した短剣の切っ先を右腕の人差し指に当てて、刃を走らせる。彼女の白魚の如く可憐な肌に一筋の紅い線が走り、やがてそこから血が滴り始める。

短剣を鞘にしまい、部屋の中でも過剰に装飾の施されたレースのカーテンの裏側に身をもぐりこませる。これで部屋の入り口からは彼女の姿は全くと言っていいほどに見えなくなる。

そして指を一本の筆に見立てたのか、彼女はその未だ止まることなく血が滴る指を壁に走らせ、画家がボードに絵を描くかの如く壁に何かの文様を一片の迷い無く描いていく。

 

 

 

先ずは全てを包み込む円。次にその円の周りに人間達が使う文字とは明らかに違う言語体形の文字を刻み付けるように書き込んでいく。

一連の作業の最中、彼女は一度も指の動きを止めることなく、完全に暗記している内容を確かな形として表現し続けた。

最後にその円の中心点を軸に上下の異なる向きをした三角形を二つ描き、六芒星を製図する。

 

 

 

全ての作業を終えたミリィザが壁から指を離し、懐から一枚のハンカチを取り出して指を拭いた。

魔術の知識があるものが見れば一目でこの絵の正体が判るであろう。次いで、この術式の複雑さと怪奇さに度肝を抜かれるであろう。

転移の術式だ。それも魔力を込めれば何回も使える遠く離れた場所へと通じるための“扉”になる種類のモノ……竜族がヴァロールに建築した“門”を小型化させたと考えればよい。

言うまでもないことだが、かなり専門的な魔術に対する造詣が深くなければまずコレを描くことは不可能と言ってもいい。

 

 

 

だが、何故ミリィザがそんな知識を持っているかは今重要なことではない。いまは彼女が息子を救えるか否かという事だけだ。

彼女が完成したその魔法陣へと手を翳すと途端に流し込まれる魔力。その色は限りなく黒に近い澄み切った蒼。

海の遥か深海。汚れも何もないそこに僅かに太陽の光を通せばこんな色になるのだろう。

 

 

 

見ているだけ寒気が走り、肌が粟立つような、そんな底知れない色の魔力を彼女は放っているのだ。

おおよそ、彼女と言う人物の性質とはかけ離れているおぞましい質と量の魔力、否、これはもっと根源的な……。

 

 

 

 

 

そして彼女は、光に包まれて消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

怒り。腹部を図太い槍で貫かれ、人間ならばショック死か大量出血で死んでいるであろう傷を受けてもなお、イデアは激しい列然とした憤りを感じていた。

今の自分の状況は傍目に見れば、壁に打ち付けられた罪人が死を前にしてありとらゆる憎悪を吐き出している姿にも見えるのかもしれない。

 

 

 

 

『親の方は手中には落ちなかったか……まぁいい、こんなガキでも育てれば相応の利用価値を産むだろうて』

 

 

 

怪物、今や既に人間としての在り方さえも放棄したであろうモンスターがアルの首に手を掛け、まるで奴隷を品定めしているかの様な口調で言う。

言葉の端々からは明らかに侮蔑の感情さえも篭もっているように取れた。もう少しだけ、もしもこの怪物がほんの僅か力を込めれば、それだけでアルの首は呆気なく折れるだろう。

そんな態度がますますイデアの胸の内の“太陽”の光を強めていく。この怪物の挙動の一つ一つがイデアを不機嫌にさせうるものだ。

 

 

だが、それと同時にほんの少しだけ驚いても居た。このモンスターは、あの亡霊共と違って確かな知性を持っているという事実に。

会話も出来るだろうし、自らの姿が異形であると自覚し、ご丁寧な“変装”までも行っているのだから。

 

 

最後に一回だけ、壁に張付けられ、顔を伏せたイデアに無駄な事に関わった愚かに対しての蔑みの視線を送ると、直ぐに怪物は踵を返し、

アルを肩に担いだまま何処かへと立ち去ろうとする。

 

 

 

 

 

が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「────て」

 

 

 

 

 

 

 

 

たった一言だ。

たった一言、文字にして二つの記号で表せる言葉により、怪物はその歩みを止めざるを得なかった。

それも腹部から逆流してきた血と胃の内容物に喉が強く圧迫され、その影響によってがらがらの罅割れた声。

小さくイデアが咳き込むと、そこから新たな新鮮な血が零れ出し、彼のローブをどす黒く汚していく。

 

 

 

その言葉に込められた意味はあまりにも大きすぎた。

憎悪、憤怒、義憤、そして何より、悪意。どうしようもないほどの敵意と織り交ぜられた悪意。

 

 

 

 

 

 

 

『貴様……?』

 

 

 

 

怪物が骸の眼窩に光を浮かべた、人間で言う眼らしき場所を再度イデアに向ける。

今度の視線に練りこまれているのは明らかな警戒と疑問の感情。先ほどまで視線の中に存在していた蔑みは身を潜ませ、今度は自らの障害に対する怒りと警戒に取って代わられていた。

 

 

 

醜い。どうしようもなく醜い。見ているだけで吐き気がしそうだ。イデアの“眼の延長線上”が捉えた怪物に対して評価を下す。

白日の元に晒され、改めてみる怪物の“顔”は、醜悪極まりなかった。

真っ白な骸は所々に皹が入り、そこから煙のような“闇”と共に、死体に集る蟲、蛆や銀色に輝くハエ、その他様々な見るだけで鳥肌が立つような蟲達がひっきりなしに湧いて出ている。

怪物が煩わしそうにその顎を金属的な音と共にかみ合わせると、口内に侵入していたのであろう蟲達が怪物の歯にすりつぶされ、濁った緑色の体液と共に残骸が吐き出される。

 

 

 

『しぶとい』

 

 

 

もう一本。現在イデアに突き刺さっているのと同じデザイン、同じ長さ、全く形状の槍をそのズタボロのローブの中からどうやったのかは全くもって見当もつかないが、取り出すと

その切っ先をイデアに向け、しっかりと狙いを定める。鋭利な槍の先端が獲物を狙う獅子の如く向けられた。

 

 

投擲の体勢だ。次に狙うは頭部。頭部を破壊されて生存する生物など存在しえない。普通ならば。

この怪物の人間離れした技量ならば、小さな小さな、磔刑にされた子供の頭部を粉砕することなど、手足を動かすのと同義であるはずだ。

 

 

 

 

が、残念ながら、怪物は出来なかった。否、手を止めざるを得なかった。全身に迸る危機感が怪物の全身を縛り付ける。

 

 

 

 

 

 

 

「く、ははは、くははははははははは、はははははははははははははははは─────」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

笑いだ。天にさえ届くほどの、心胆の奥底に鉄槌の如く叩きつけられるような哄笑。

磔にされ、今死んでいない事そのものが奇跡な状態の男から発せられる嘲り。

血を、胃の内容物を口から吹き出し、真紅の泡を汚らしく撒き散らしつつ、それがどうしたと言わんばかりに轟く狂笑。

 

 

場の空気が変わった。怪物が支配し、淀んだ瘴気を漂わせていたこの広場の支配権が移り変わっていく。

思わず怪物は、彼自身さえも気が付かない内に一歩だけ後ずさってしまっていた。

何をされたわけでもない。別に攻撃されたわけでもなく、魔術による干渉を受けたわけでもない。

 

 

だが、彼は本能に従い後退したのだ。

 

 

 

怪物は、先ほどのイデアと同じように動きを止めてしまった。胸中に渦巻いていた殺意さえも一時的に消失させ、それこそ呆然とイデアを見ることしか出来なくなった。

 

 

何なのだ? 一体、“これ”は何なのだ? 何がどうなっている?

そこまで難しい目的ではなかったはずだ。あの母子を手に入れ、誰にも気がつかれずにアクレイアから離れる。それだけの簡単な話。

母を手に入れることは警備の厳重さから断念し、分断させた息子も親衛隊を片付けている最中に逃がしてしまった結果このような状況になったが、全ての問題は解決されたはずだった。

 

 

この怪物たちを相手にそれなり以上に時間を稼げたというのは、さすが竜将直属と言うべきか。

 

 

 

『貴様……このガキの護衛か? あのガキを逃がした騎士の協力者か?』

 

 

 

怪物は問う。あの時、この気絶していた子供を抱いて逃げ出した騎士の仲間か否か、と。

我ながらふざけた質問だ。どちらにせよ排除する敵にそんな事を聞いてどうなるというのだ。

 

だが、これしか出来ない。身体が、動かない。まるで蛇ににらまれた蛙のように。獅子に対面してしまった鹿の如く既に人外の身と成り果てた身体が機能しない。

違う。人外に成り果てたからこそ、だ。同じ人外に、それこそ自らよりも圧倒的な力に恐怖を抱くのは当然の理。

 

 

べろぉっと異常に長い、まるでトカゲを思わせる舌がイデアの口から吐き出された。

ちろちろと不気味な程によく動くそれで自らの唇の周りに付着している真紅の血液を上手に拭き取っていく。

はぁ、と熱を持って吐き出される吐息に、本当の意味での火が灯り、小さな火炎放射となる。

 

 

コキッと首の骨を鳴らし、僅かに首を傾けたイデアが答えた。

 

 

 

 

「さぁて、どうだろぅ?」

 

 

 

返答には、隠す気さえもない嘲りが多分に含まれていた。

同時に今まで伏せていた顔をゆっくりと上げる。黒い髪の毛が、まるで蛇の如く動き出し、前髪のカーテンが開かれた。

 

 

 

 

瞬間、怪物は既に喪失したはずの肺と胃から何かがこみ上げてくるのを感じ、思わず息を呑んだ。

蒼と紅、鮮やかな対の色を灯した眼は爛れた様に燃え上がり、本来の人間では在り得ない縦に裂けた瞳孔の奥で激しい存在感を示している。

口は大きく裂け、頬の約半分辺りまで亀裂が走っている。まるで顔面に断線が刻み込まれているようだ。

 

 

口内に見える歯、牙は、肉食動物のソレよりも遥かに力強く、そして禍々しい。

 

 

 

亀裂の様な笑みを浮かべた怪物。正にそう言うざるを得ない。

その真っ赤に染まった手でイデアが自らを固定する槍に手を掛け……力任せに思いっきり引き抜いた。

 

 

 

途端にせきを切ったように更にあふれ出る血液が彼の体から抜けていく。常人ならば既に死んでいてもおかしくない程の量だ。だが、イデアは平然としていた。

自らを壁に固定していた槍がなくなったことにより、当然の結果としてイデアは地に落下する。

粘性の液体の水溜りを踏みにじる音と共に大地に立つ。

 

 

 

普通ならば、下半身に指示を出すために必要な骨の連結を破壊されては立つことはおろか、動くことさえ出来ないのだが、彼はさも当然の様に動いている。

 

 

破壊された背骨や、周囲の臓物が体内で異質な音と共に超速修復され、若干浮ついていた上半身の姿勢が修正され、背筋をしっかりと伸ばす。

未だぽっかりと穴が空いた傷口からは滝の様に赤い液体が流れ出しているが、そんなことは関係ないといわんばかりにイデアは笑いながら直立している。

そもそもの話、ドラゴンキラーやそれに準じた武器での攻撃ならともかく、何の魔術的要素のないただの槍では身体を傷つけることは出来ても

彼の本質、エーギルそのものへの攻撃にはならないのだ。それに、この身体は本体の影である。影を幾ら踏みつけても消えることなどない。

 

 

 

 

ようやくここで怪物が我にかえった。自分がいかに愚かな行為をしてしまったか瞬時に理解した彼は今度こそ迷い無く槍を投擲。

再度放たれる殺意の矛は、イデアが手に持っていた腹から引き抜いた槍が残像さえ見えない速度で一度だけ振るわれ、全ての力を相殺され、叩き落される。

その結果、想像を絶する力によって行使された二本の槍は刃の先から真ん中辺りまで見るも無残に砕けてしまった。

 

 

 

 

「脆い武器だ」

 

 

 

 

自らの手の内に残る、半分以下の長さになってしまった槍の残骸を見つめつつイデアがぼやく。少々力を入れすぎてしまったか。

腹部に多量のエーギルが収束し、内部の修復をおえ、表面の修復を開始したのを実感しつつ、彼は怪物を見据える。

先ほど怪物が自分を見ていたのと同じ、まるで虫けらを見るかのような、鋭利な視線が哀れな骸の者に突き刺さる。

 

 

もはや槍としての形状を保っていない手槍を投げ捨てる。

 

 

粟立っていた腹部の傷口から、金色の煙が噴出し、最後の締めと言わんばかりに新たな皮を作り出し完全に傷を消す。

更におまけに汚れてしまった服と大地に撒き散らされた血に対して修復魔法【ハマーン】でも掛けたかのごとく、全ての汚れを消し去る。

多少の血の匂いはあたりに残るが、血の池が消えたというのは大きい、後々騎士たちなどに妙な詮索をされずにすむだろう。

 

 

 

 

 

 

『ぐふ、ぐふふふふふ、ぐふふふふふふふふふふふふ……』

 

 

 

 

怪物が大きく肩を揺らし、またもあの逆鱗を逆撫でする嗤いを仮面の内側から吐き出した。

それにつられたのか、同じくイデアも裂けた笑顔で小さく笑い声を漏らした。

暫しの間、二人の冷笑が互いに響きあい、不気味に木霊する。

 

 

小さく怪物が人間でいう深呼吸をした……様にイデアには見えた。

 

 

 

『どうやら、貴様は排除しておかないと厄介なことになりそうだ』

 

 

 

一しきり笑いあい、精神的な落ち着きを取り戻したのか怪物が淡々とした調子で宣言する。

骸の内側で燃え上がる炎が更に攻撃的に、更に冷酷に、そして残忍に研ぎ澄まされていく。

油断も、慢心もない。本気で殺しに来る。それを読み取りながらも、イデアは決して笑みを絶やさない。

 

 

むしろ彼は何処か客観的に、まるで歌劇を見る客の様な余裕を持ってこの状況を観察し、何処か楽しんでさえいた。

もちろん、胸の奥で轟々と音を立てて怒りを糧に燃焼を続けるドス黒く燃える太陽の光はある。今は怒りを制御しているのだ。

怪物がその痩せこけた骨だけの手を用いて大きく手を叩き合わせる。何かの合図らしきものを誰かに送ったのだろう。

イデアは何をしている? と、頭を傾けそうになったが、すぐにその理由が判った。

 

 

 

 

石畳の床が、まるで水面の様に揺れた。急速に複数の気配が接近してくるのをイデアの感覚は伝えた。

頑強な岩を削って作られた石の表面が、ゆらゆらと風になびく湖の湖面の如く揺れているのだ。

そしてそこから這い出してくるのは、この怪物と同じ黒いローブに竜と人間の頭蓋骨を熔かして混ぜたようなデザインの仮面を被った異形のモノ達。

そんな怪物が次から次へと湧いて出てくる光景は、まるで質の悪い悪夢でも見ているかのようだ。もしくは悪魔か魔物が地獄から逃げ出してきたようにも見える。

 

 

 

よくみれば、一人一人、被っている骸のデザインが微妙に違うことが判るだろう。

ただし、イデアからしてみれば、全員が全員、一人の例外も無く悪趣味であるが。

 

キィンという金属の擦れあう甲高い耳に残る音と共に異形達がそれぞれ武装する。

剣、剣、剣、各々が一つの軍隊を思わせる程に全てが同じ形状の剣をその手に持ち、骸骨の眼窩から殺意に溢れる視線を放っていた。

 

 

 

 

「またかよ」

 

 

 

ぐるりと全方位を怪物に囲まれ、ハァと溜め息を吐く。何で自分の敵というのはこう……人間の姿さえしていない怪物が多いのだろう。

こいつらといい、あの殿に居た亡霊兵士たちといい。

 

 

 

 

 

 

 

──ギィイイァアアアァァァァァ!!!!

 

 

 

 

人間で言う絶叫に近い咆哮と共に、骸の怪物たちがイデアに向けて殺到する。耳栓が欲しくなるほどに耳障りで、不愉快な絶叫のオーケストラだ。

既に人間をやめた彼らの踏み込みの強さは、第一歩を踏み出した時点で石畳の地面に皹が入るほどだといえば、どれだけの加速をもっているかが判る。

 

 

文字通り矢の如き素早さで疾走し、イデアを微塵も残さず解体するべく彼らは征く。

イデアが能天気とさえ取れるほど緩慢に周りを見渡し、次いで自らの両手を見た。何一つ武器が無い状況に気が付き、困ったといわんばかりに肩を竦める。

敵にまで後十歩という所で怪物たちが人間では出せない脚力を持って大地を激しく蹴りつけ、飛翔。

 

 

 

空から幾つもの殺意の塊が落下するのを感じて、イデアはますます顔面の亀裂を深めた。

 

 

 

 

既に撃退するための準備は整えてある。

 

 

 

 

 

 

【シャイン】

 

 

 

 

 

 

発動されるは光属性の術。【ライトニング】よりも一段階上の術である下級魔術。

太陽をモチーフとする円陣の陣と、そこから放たれる光をイメージの角を持った陣、この二つが合さった魔法陣が激しい黄金の輝きを伴い、イデアを中心として8つ展開される。

次いでその魔法陣が術者であるイデアを中心として、まるで風車のようにクルクルと緩やかな速度で回転を始めた。

 

 

 

くるくるくると回り始めた魔方陣にイデアが更に魔力を込めると、直ぐに全てはイデアのイメージどおりの光景となる。

剣だ。黄金の光で形作られた長剣、それが8つ、イデアを中心とし、その刃を外に向けた状態で回転をしていた。

さながら、見えない騎士達がイデアを守るためにその剣を構えているようにも見える。

 

 

 

【シャイン】という術は浄化の光を操り、それで相手を攻撃する術である。

ただイデアは【サンダー】と同じようにこの術にほんの僅かな、自分なりのアレンジを加えただけだ。

神竜の光とエーギルを適当に圧縮し、その形を整えてやればソレはそのままイデアの思いのままに動く武器となる。

 

 

 

この場合は、最も基本的な剣の形に。実体なき剣の舞は、イデアの胸中を代弁するかの如く、激しく、烈火のような殲滅の意を乗せて輝いていた。

羽虫の羽ばたきにも聞こえるブゥンという音と共に展開された剣にイデアが指示を……否、指示を出す必要など無い。自らの手足に指示など必要なものか。

剣舞の回転速度を上げ、まるでひっきりなしに周る水車の如き怒涛の速度をさせると、イデアは傍目から見ると金色の霞を纏っているようになった。

 

 

高く飛び上がり、全体重を乗せた猛烈な勢いで最初にイデアに到達した骸の異形の剣がその霞に触れる。

正確にはイデアが、霞の位置を調整し、触れさせたのだ。初めて使うこのアレンジを施した術の威力が早く見たくてたまらない。

 

 

 

 

『ぉ』

 

 

 

それがこの怪物の最後の声だった。手に持つ剣の磨きぬかれ、よく手入れされた刀身が、次にソレを握っていた白骨化した指が

腕が、そして胸部が、そして最後に全身が、高速回転する実体無き剣の歯車に無慈悲に巻き込まれ、丁寧に、神経質なまでにバラバラに切り刻まれた。

それでも刃の支配する領域は無情にも回転を続け、最後に残ったこの怪物の骸を、その中に内包された仄暗い闇を神竜の放つ光が蹂躙する。

 

 

断末魔の悲鳴さえ残せずに、光剣の歯車に飲み込まれ、消滅した同類を見た残りの怪物たちの動きは早かった。

全くうろたえず、彼らは掌から純粋な魔力を放出し、それで何とか刃の歯車から逃亡を図ろうとする。

あの刃の渦の中に飛び込めば、痛みさえも感じる間もなくあの世に旅立てるだろうが、彼らはまだ滅びを選択するつもりはないらしい。

 

 

 

 

だが。

 

 

 

 

「仮面か? お前たちの弱点は」

 

 

 

 

 

『!』

 

 

 

怪物の視界を埋め尽くす蒼と紅い眼光を激しく輝かせるイデアより、どうしようもないほど軽い調子で質問が投げかけられた。

ただし、声そのものは不気味に、不気味に低い声であった。

 

 

 

まるで処刑台に昇った罪人を拘束する万力を連想させる力を以って怪物の内の一体の骸が神竜の五指によって鷲掴みにされる。

ただ、単にイデアが受身なのをやめただけ。自らも跳躍し、獲物に飛びかかっただけ。

怪物の怪しく発光する眼窩に、キス出来るほどにイデアの裂けた笑みを浮かべる顔が近づけられ、その炎が混ざった吐息が吹きかけられた。

 

 

 

 

『が? 、アァアァ、イギギィイイァァアアアアアアアアアア!!!!???』

 

 

 

 

無様な悲鳴。

 

 

ガッシリと固定された指を通じ、試験的に仮面の内側に直接魔力を送り込まれ、直接“中身”をかき混ぜられた怪物がまるで屠殺される家畜の如き醜悪極まりない絶叫をあげる。

 

 

 

やっぱり。

 

 

イデアは何となく予想をしていた自らの考えがあたり、ついつい上機嫌になる自分がいることに気が付いた。

何らかの方法でこいつらは、自らの【エーギル】と意思、記憶、自我などをこの仮面などに定着させているのだろう、と。

 

 

十年以上も前からずっとエーギルや魔術を竜の豊富な知識を借りて勉強してきたイデアだからこそ判った。

こいつらの仮面に異常なまでの【エーギル】が集中しており、他の部分はそこから延びた細い糸のような魔力で動いていることを。

 

 

 

確か、つい最近読んだ書物にもそういった術などが書いてあったはずだ。あの書では確か人間を【モルフ】に……。

 

 

 

あの術の利点は亡霊兵どもと同じような姿に成り果てでも、自らの意思などは残しておけるという事だ。

 

 

 

 

ある意味転生ともいえる。

いつか限界が来る人間としての身体を捨て、壊されない限り永遠とも言える寿命を持つ物体として生きるのは。

そうすれば病気にも掛からず、もしかしたら食べたり寝ることも必要なくなるのかもしれない。

まるで“理”を超えた魔道士の様に、永遠に存在することも夢ではないのだろう。

 

 

転生、この言葉に苦いモノが腹の奥底から湧き上がってくる。だが、直ぐに答えは弾き出される。

自分は、イドゥンを救うためにこの世界に産まれたのだ。それが自分の転生した意味だ。

 

 

 

 

だが、何故? 何故こいつらは竜の術に近いモノを扱えているのだ?

新たに浮かんでくる疑問だが、その思考を隅においやる。後でいい。今はこいつらが何だろうが興味は無い。

 

 

 

イデアが再度【シャイン】に意思を送り、操作する。

霞が掛かるほど高速で回転をしていた全ての剣が何の前触れも無く完全に停止し、一度その刀身を光に戻す。

輝きすぎる黄金の光球はまるで粘土の様にその姿を再度剣へと移し変えた。但し、今度は剣の配置が違う。

 

 

 

全ての剣が、イデアに頭部を掴まれ、全身を激しく痙攣させている怪物へとその穂先を無慈悲に、無感動に向けている。

怪物の背後から、下から、頭上から、横から、斜め上から、斜め下から、ありとあらゆる場所に1本ずつ剣が配備され、その全てが次の指示を今か今かと持ちわびていた。

ありとあらゆる光剣から純粋な殺意を感じるのは、その全てがイデアの一部だからだろう。

 

 

 

 

やれ。

一つ、小さく、何処までも冷たくイデアは自らの力を動かした。そこには一切の慈悲は無い。

 

 

 

 

刹那、ありとあらゆる方向から殺意に満ち満ちた剣が、弓から放たれた矢よりも遥かに速く、正に閃光を連想させる速度で飛翔し、怪物に容赦なくその刃を突き刺していく。

 

 

胸部、人間ならば心臓がある場所に剣が背後から突き刺さる。

鎖骨、右斜め上から襲い掛かった一本の剣が、鎖骨のある場所から左の肺があるはずの場所に貫通する。

首、左から飛び込んだ剣の刀身は安々と怪物の首を突きぬけた。

 

 

 

他にも、腕、足、腹部にそれぞれ穴を開け、もしくは切断していく。まるで出来の悪い芸術品を作るように次々と剣が差し込まれていくのだ。

そして最後に頭部を叩き割るように剣がイデアの掌から新たに創造され、射出。それは容易く、欠伸が出るほど簡単に怪物の骸を微塵に砕いた。

ガラスの割れるような金属音が鳴り渡り、役目を果たした黄金の剣が光の粒子となって消えていく。

 

 

 

だが、まだ終わりではない。最初のミンチにされた者を除き、飛びかかった怪物は三体。そして今排除したのが一体。残りは簡単な引き算で二体だ。

イデアの両手が音を立てて変化を起こす。人間の少年のモノであった白く細い指の皮が硬質な黄金色の鱗と甲殻、重殻に覆われ、

その健康的なピンク色の人間の爪が、光を反射して眩く輝く白銀色の竜の剛爪に戻った。

 

 

 

一回、彼がその爪を突風さえも発生する速度で振るった。彼の右の怪物の頭部が粉々に粉砕される。

再度、イデアがもう片方の手の指をぎゅっと纏め、手刀の形状を作り、達人が繰り出すレイピアの刺突の如き、目視さえ叶わない速度で突きぬく。

その一撃は最後の一体の骸の額の部分を的確に貫き、その中で渦巻く闇を卵の殻でも割るように軽々と握りつぶす。

 

 

 

数回大きく身体を震わせ、陸に打ち上げられた魚の如く痙攣していた怪物の全身から力が抜け、操者の居なくなった人形の様に崩れ落ちる。

 

 

 

イデアが両腕を大きく広げ、客から喝采を浴びる役者を思わせる姿で地に足を着けると同時に、彼の背後には3体の骸を破壊された怪物の残骸が無様に大きな音と共に落下。

これで最初の怪物が呼んだ増援は全滅だ。この場に残るのは、未だに深い眠りについているアルや一般人たちと、怪物と神竜だけ。

 

 

 

 

『その手……そうか、貴様は……』

 

 

 

怪物が何かを理解した様な声音でそう呟くのを聞いて、初めてイデアの顔から余裕が消えた。牙は食いしばられ、眼が細められ、更に敵意と闘争心が研ぎ澄まされていく。

手、今の自分の手は竜としての力を解放したもの、コレを見て“何か”を悟ったというのならば……こいつは確実にここで消しておかねばならない。

今のエレブには、表向き、絶対に竜が存在してはいけないのだ。感づくことさえ許さない。あってはならないのだ。

 

 

 

よって、イデアは確実にこの存在を排除するために、確実を喫する方法を選んだ。

怪物がいつの間にやら両手に刀身が少しだけ反ったサーベルを二本持ち、ソレを眼で追えない程の速度で振り回し始め、イデアへ跳躍。

並の人間、並の達人ならばあっという間に切り伏せてしまいそうな程に苛烈な突撃の速度。

 

 

 

『グゥッ!?』

 

 

 

突如、横合いから飛来した何かが怪物の身体を無遠慮に揺らす。

 

 

石畳み、程よい形に切り分けられ、ビッシリと隙間無く地に敷き詰められたソレを

イデアは基本的な力を使い、リンゴを持ち上げる要領で無理やり大地から引き剥がし、放り投げたのだ。

それも1つや2つではない。視界に映る全ての石畳を根こそぎ持ち上げ、人間の胴体程の大きさの石の塊が轟音と共に飛来する。

 

 

宙にいる怪物に四方八方から飛来する大小様々な石の塊。

それの一つ一つがフルプレートの鎧を打ち砕き、その下の人体を粉々にする威力を秘めていると言っても過言ではないだろう。

 

 

つぶてに全身を打ち付けられ、その仮面に幾つか大きな皹を入れられた怪物が苦悶の声を上げ、サーベルを一閃。

魔術によって強化された刀身はそれだけで、眼前に迫る巨大な自然岩を両断せしめた。恐ろしい程の技量だ。

サーベルが幾ら優秀でも、ソレを使いこなしているこの存在は優秀なのだろう。

 

 

 

だがイデアはここで手を緩め、この醜い存在を休ませる気など無い。

 

 

 

 

 

【シャイン】

 

 

 

 

またもや発動される下級魔術。

但しそこに秘められた魔力は並の人間の魔道士3人分にも匹敵するであろう呆れるほどの魔力の量。

故、この【シャイン】はその質、量共に申し分ないものとなっている。例えば、狂った魔術の力によって生きながらえてる怪物をこの世から消す程度には。

 

 

ビッシリと、一点の隙間なく、狂気的とも言える密を持ち、怪物をぐるっと幾つもの輪で囲むように生成された何十もの黄金の光剣は、その刃を全て怪物に向け、優雅に回転を開始。

丁度先ほどイデアが使っていた光剣の円陣回転の穂先を逆、内側にしたもの。明らかに剣の檻に囚われた獲物を無残に処刑するための配列。

怪物が呆然と、まるで信じられないモノを見たかのように、その眼窩の内の光がいっそ笑いを誘うほどに丸くなる。

 

 

 

アレは……人間で言うところの“眼を剥く”とでも言ったところか。

 

 

 

そんな光景を見て、イデアは心底満足していた。腹に風穴を空けてくれたお礼としては、十分すぎる程といえる。

何も遠慮は要らない。お前は何も知らず、何も抵抗できず、消えてなくなってしまえばいい。

 

 

そういえば、こういう時なんといえばいいのだろうか?

ほんの一瞬、それこそ瞬き一回程度の時間を思考に費やし、一つ思い当たる。

今の状況と、自らの心境を最も語ってくれる言葉を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ざまぁ、ねえな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歪んだ満面の笑顔と、沸騰するような蔑みの感情と共にイデアは言い放った。

カチカチとその凶悪なフォルムの牙と牙を幾度もかみ合わせ、まるで拍手の様な音を出す。

 

 

 

 

そして……。

 

 

 

裂けた禍々しい人外の笑みと共に神竜の処刑宣言が宣告され、剣舞の嵐が怪物を襲う。

荒れ狂う黄金の狂嵐が、怪物の纏うちっぽけな闇を切り刻み、蹂躙し、その存在の欠片の一片さえ残さずこのエレブより抹消した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、この後片付けはどうしようか。眼の前に広がる無残に破壊されつくされた広場。地の石畳は剥がされ、八神将の像にも小さくは無い被害が出ている。

例を挙げるとすれば、ハルトムートの像に皹が入っていたり、バリガンの持つ槍が折れてしまったりしていた。

イデアはつい調子に乗りすぎてしまった自分を恥じていた。どうにも戦いになると手加減がしづらい。

 

 

 

だが、と、イデアはその手に持った黒いローブをじっと見つめる。あの怪物は滅びる際、このローブだけを残し、中身は灰とも錆とも知れぬモノに変化してしまうのだ。

 

 

 

手と顔、それと眼が舌人間のモノにしっかりと変わったことを持っていた手鏡などで確認したイデアが溜め息を吐いた。

広場の端っこに転がっていた表面は血塗れの皮袋を力で掴んで取り寄せ、中身を確認する。

この皮袋はかなり頑丈に作られているためか、中の書物などには特にキズなどなく、無事なのを念入りに確認し、その口をギュッと紐で縛りつけ、背中に背負う。

 

 

 

片手を破壊し尽くされた広場に向けて術を一つ発動させる【ハマーン】を。

あっという間に辺りの無数の瓦礫、砕けた石像、割れた大地などが一人で元通りに、最初イデアがここを訪れた時と同じ状態へと復元されていく。

次いでと言わんばかりに【リブロー】を何度か発動させ、アルを始めとしたスリープで眠りについてしまった人々へと回復魔術を掛けてやる。

 

 

 

自らの力で破壊の傷跡が見る間に癒えていく光景を横目で見つつイデアは考える、即ち、あの怪物達は何だったのだろう、と。

 

 

 

 

アレは何だったのだろうか? まず間違いなく人間ではないと言うのは確かだが。

自分の正体に恐らくは感づいていたということも気になる……それに何故アルが狙われたのかも、だ。

掌に小さく【ファイアー】の術によって小さな火種を生み出し、ソレでローブを炙る。まるで枯れた葉に火をつけたかの様にあっという間にローブは灰になり、風に流されていってしまった。

 

 

まぁ、いいだろう。今は居なくなった奴らの事を気にしてもしょうがない。竜の術に限りなく近い術によってあの姿になった経緯も気になるが、今はどうでもいい。

また来たのならば、また倒せばいい。もしくは捕獲して、情報を吐き出すのもありか。今は、どうでもいい。それよりもやるべき事がある。

 

 

 

 

今は……。

 

 

 

 

音も無くイデアが振り返り、右手の人差し指を物陰に向ける。そこに光が収束し一本の黄金の矢が形作られる。

【ライトニング】をいつでも射る事が出来る状態にし、イデアは声を張り上げ、まるで誰かに話しかけるように言葉を飛ばした。

 

 

 

 

 

「誰だ? お前もあの怪物達の仲間か?」

 

 

 

 

明確な声の返答は無い。だが、相手の動揺したであろう些細な空気の変動をイデアは確かに感じた。

再度彼は、先ほどよりも遥かに多量の敵意を混ぜて大きく、既に怒声とさえ言えるものを飛ばす。

これで出てこなければ、本気で彼は魔術を発動させるつもりだった。

 

 

 

 

「出て来い。隠れている場所ごと吹き飛ばされたいか?」

 

 

 

その言葉が嘘ではないと証明するように指先に形成された【ライトニング】は輝きを増し

そればかりか新たにイデアの背後に8つの【シャイン】が創造され、その切っ先をイデアの視線と同じ方向に固定。

少しでもイデアが意思を送れば、この剣は主の障害をあの怪物と同じように八つ裂きにするであろう。

 

 

小さく、風が吹き一枚の木の葉がひらりひらりと何処から飛んできたのかイデアの足元に落ちた。

 

 

場に満ちる緊張に満ちた空気も、無視し、その葉っぱは飛んできたのだ。

 

 

やがて、物陰から一つの人影がゆっくりと観念したようにその姿を現す。

眼を細め、一欠けらの油断は無く、されど決して余裕は失くさずにその人物を敵意と共に観察していたイデアだったが……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その人物がその頭に被ったローブを下ろしたのを見た瞬間、思わず彼は小さく眼を見開いてしまった。

主の動揺を敏感に感じ取った【シャイン】の剣列がその姿を蜃気楼の様に薄気にさせ、霧散し消える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「女……?」

 

 

 

 

呆然と、間抜けな声でそれだけを呟くのが精一杯。それほどまでにイデアは強いショックを受けている。

同時に、この人物は絶対に先ほどの怪物の仲間ではないという絶対的な確信を一瞬で抱いてしまった。

それと、何処かアルにも感じた“懐かしさ”を覚える自分が居る事に彼は気が付いた。

 

 

 

イデアの目線が宙を当ても無く溺れた魚の様に泳いだ。

今の彼を支配するのはまるで古い故郷の友人に久しぶりに会ったかのような、奇妙な既知感。

 

 

 

もう一度気を取り直し、女性に視線を戻す。

 

 

 

光の加減によって蒼にも翡翠色にも見える長い艶やかな髪の毛。

白魚の如く美しく、透き通った肌は、決して病弱などには見えず、それどころか瑞々しい活力が溢れている。

そして何より、その蒼く透き通った聡明な輝きを宿した眼、最高級のサファイアさえも霞んで見えるその瞳には強い意思が窺え、母親としての決して折れない心と決意が表れていた。

 

 

 

母親? 何処からこの単語は出てきたのだろうか? 自分はこの女性の事を何も知らないのに。内心、わけもわからずイデアは首を傾げた。

 

 

母親……? 何故、自分はこんな感想を抱いてしまったのだろうか。

もう一度、イデアは女性をしっかりと見据える。彼女に一瞬だけ、別の女性の影が重なった。蒼い長髪の、何処か気の抜けた笑顔を浮かべる美女を。

 

 

 

……あぁ、判った。エイナールだ。何となく得心がいった。

恐らく、この女性の纏っているオーラとも言えるものが、何処か姉弟、ニニアンとニルスを出産後のエイナールに似ているから、なのだろう。

 

 

 

チラリと、イデアが未だにスリープの効果で眠りに付いているアルを見た。

アルの髪の色は光の加減によって翡翠にも見える蒼、そしてこの女性も……。

 

 

 

イデアの中で全てのバラバラだった欠片が、パズルを解くように繋がった。なるほど、つまり彼女は……。

 

 

【ライトニング】の矢を消し去り、両手をだらんとぶら下げる。少しでも彼女に、自分は敵意を持っていないとアピールしたかった。

 

 

絶世の美女。正にこんな言葉が相応しいのだろう。それほどまでに彼女は美しかった。

そんな女性が、強い意思を込めた瞳で自らを沈黙を保ったまま見据えているのを見て、イデアは思わず視線をそらす。

逃げるようにローブを被り、出来るだけ動揺を表に出さないように心がけつつイデアは倒れているアルを指差した。

 

 

 

「貴女がアルの母親ですか?」

 

 

 

 

「──アル?」

 

 

 

 

何故か口から出たのは敬語であった。

ふっと、女性の視線が柔らかくなるのを全身で感じて、イデアは妙な安心感を覚えた。

まるで親に叱られるのを恐れている子供の様に、イデアは出来るだけ身を竦め、アルを顎でしゃくった。

 

 

一刻も早く、この場から離れたかった。

 

 

 

 

「無事ですよ、ただ眠っているだけです。速く安心させてあげてください」

 

 

 

 

目を開けて初めて見るのが母親の顔ならば、アルも安心できるでしょう?

言葉の裏に秘めた意思を読み取ってくれたらしい女性は足早に倒れたアルの元へ向い

何かを確かめるように胸に手をあて、ほっと安心したように肩を落とした。

 

 

 

 

「ここで何があったのですか?」

 

 

 

アルを優しく背中に担いだ女性がイデアに向き直り言う。既にその視線にはイデアに対する敵意などはなかった。

彼女の背中で安らかに眠っているアルの顔が、やけにイデアの眼をひく。

 

 

そういえば、自分もナーガに背負われたことがあった。あの時の温もりは……。

 

 

 

小さくかぶりを振り、イデアはなるべく穏やかな口調で答えた。

同時に彼の“眼”と“耳”は遠くから大量の騎士達が鎧を鳴らしながらこっちに来ているという事実を捉えていた。

敵意を感じないところから、どうやら、彼女の迎えらしい。これでここから消える理由が出来た、その事実に多少イデアは安心を覚える。

 

 

 

 

「奇妙な……黒いローブを着込み、妙な仮面で顔を隠した集団にその子は攫われそうになっていました。

 あいつらはどうやら貴女も狙っていたらしいので、貴女も気をつけたほうがいい」

 

 

 

 

手短にそれだけを告げると、踵を返し、立ち去ろうとするイデアに女性の声が届いた。

思わずイデアは動きを止め、女性の眼を見つめた。知性を称えた蒼い美しい眼が彼の眼の中にに映った。

 

 

 

 

 

「あの……お礼をしたいのですが……」

 

 

 

 

「いりませんよ。アルと出会ったのも偶然ですし、何よりただの気まぐれでしたから」

 

 

 

 

一刀の元に有無を言わさず跳ね返す。そのまま、立ち去ろうと思ったイデアだったが、ここで女性は彼の予想を超えた。

何かを決心した表情で彼女はその額に装着している、宝石があしらわれている額あてを外し、ソレを手にイデアの近くへとやってきた。

あまりも一連の動作が優雅に、それでいた流れるような速さで行われてしまったため、イデアは動くことが出来ず、完全に立ち去る気を逃した。

 

 

 

そして、彼女はその額あてを差し出す。まるで何処かの国の王女が、何か武勲を立てた臣下に報酬を与えるように。

イデアが鳩が豆鉄砲でも食らったような、何処か気の抜けた顔でソレを見やり、次いで女性の顔を見た。

 

 

 

「これは?」

 

 

 

「受け取ってください。母として、息子が救われたというのにその恩人に何もお礼をしないわけにはいきません」

 

 

 

彼女の蒼い眼には強い意思が見て取れた。何が何でもお礼をしなければ気がすまないのだろう。

イデアは急に自分が何か悪い事をしてる感覚に陥いり始めた。人の好意を無下にするというのは、余り好ましいことではない。

 

 

 

 

「……ん」

 

 

 

しばらくの間、女性の眼を見ていたイデアだったが、やがて観念したかの様に小さく溜め息を一つ吐いた。

恐る恐るといった風に手を伸ばし、差し出された額あてを受け取る。そしてソレを目の前に翳し、観察をするように見つめた。

 

 

 

小さく宝石から反射された光が眼に入り、イデアは眼を細める。

 

 

 

感想は素晴らしい。正にその一言に限る。宝石や、こういった装飾品の価値には疎いイデアであったが

この一品は正に超一流の職人が最高の素材で作ったのであろうという事が窺えた。

決して嫌味に感じさせず、それどころか細かい所まで完璧に手を入れられた金の装飾。

メインであるサファイアとルビーの小さな宝石の粒は、太陽から注がれる光を反射し、小さいながらも鮮やかな虹をその中で生み出している。

 

 

そればかりか、ほんの微かながら、この宝石からは魔力を感じる。本当の意味でのお守り。

恐らくは、後に人工的に込められたモノではなく、何らかの影響で自然に発するようになったのだろう。まるで小さな竜石といえるだろう……。

 

 

これを一つ売ったら、恐らくはどんな貧民でも並の貴族を凌駕するであろう程の資産を手に入れることが可能だろう。そう思えた。

 

 

 

 

「では……また、何処かで機会があればお会いしましょう」

 

 

 

また、など在り得ないはずなのに、イデアはそう言ってしまった。どうにも調子が狂う。

女性が、この言葉をどう受け取ったかはイデアには判らないが、彼女は美しい微笑を浮かべて頷いたのを見る限り、不快には思ってはいないのだろう。

先ほどはかなり遠くに感じた騎士達の気配が大分近くに迫っている、そろそろ本当にお別れだろう。余り自分は目立ちたくないのだ。

 

 

 

それに、先ほどの戦闘や身体の再生によってこの身体に振り分けた【エーギル】は大分目減りしている。

そして魔力の回復速度が余り速くないのは、やはりこの身体にもガタ来ているからなのだろう。

風穴を無理やり修復したり、一時的に許容量を超えるほどの竜の力を使った代価だ。

 

 

 

 

転移の術による消耗を考えれば、もう八神将を見る時間はないかもしれない。

 

 

 

 

だが、イデアは不思議と神将を見れないであろう事に対する不満はなかった。

それ以上にいいものを見れたという甘い充足感がある。

 

 

 

 

最後に一度だけ、眠っているアルに微笑みかけると、今度こそイデアは転移の術を発動させるべく、人目の付かない所に移動するため、彼女の傍から離れた。

 

 

 

 

念のため、何度か無茶苦茶な箇所に転移を繰り返してから、最終的な目的地であるナバタへと向うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あの後、迎えに来た竜将率いる騎士団の一派に護衛されつつも、アクレイアの王宮に戻る馬車に息子と共に乗り込んだミリィザは考え事をしていた。

今日起こった出来事はまるで当事者の一人である彼女からしてもまるで全く別の赤の他人に起こった出来事の様に感じる。

息子が誘拐され、その息子をあの少年が助けた。言葉にしてしまえばこれだけだが、これが如何に稀な体験だと思うのか。

 

 

 

 

「……」

 

 

 

 

隣で、自分の膝を枕代わりに安らかな寝息を立てている息子を見る。

首元に少し締め付けられた様なあざが付いているが、他の部分は全く無傷。

頭をなでてやると、無意識に手を動かし、小さな力で必死に指を掴んでくる。

 

 

確かにアルは、ここにいる。生きて、ここに。

 

 

小さくミリィザは微笑んだ。今日は色々あったが、この顔を見るだけでそんな疲れも一気に吹き飛んでしまいそうだ。

それにしても意外だったのが彼女が王宮の一室から出る際に感じた力の正体だ。

その力を辿って彼女はアルにたどり着いた。

 

 

“恐ろしい何か”……確かに持っている力は恐ろしい。だが、心は普通の人間と余り変わらないあの少年。

恐らく彼は……いや、やめておこう。息子を助けられた自分に出来るのは彼の事を誰にも話さないこと。

 

 

 

自分と彼は言ってしまえば、似た境遇の存在ということになる。

 

 

 

 

既に彼女の護衛たる竜将のあの騎士にも話は通してある。

誘拐犯は騎士達の手により粛清され、息子は無事に取り戻された。そういう筋書きが既に出来ているのだ。

あの少年の事は黙っておいた。

 

 

 

彼女は小さく、アルの額に口付けを落とした。まるで天使が愛しい存在に加護を与えるかのように。

 

 

 

さぁ、もう今日の事は心の奥底にしまっておこう。

間もなく、彼女の夫がこのアクレイアを訪れる。これからの時間、彼女は王女として振舞わなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

ベルン王国初代国王にして建国者 八神将の指導者ハルトムートの正妻。

初代ベルン王国王女。

 

 

 

 

英雄王の妻。イドゥンを封じた存在の伴侶。

 

 

 

それが、ミリィザの立場であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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