とある竜のお話 改正版 FE オリ主転生 独自解釈 独自設定あり   作:マスク@ハーメルン

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もしも、のお話です。
もし、あの時里に来たのがイドゥンで、イデアが魔竜になったらのIFです。





とある竜のお話 異界  【IF 異伝その1】

 

何度かかなり以前より書いてみたいと言っていたイドゥンとイデアの立場交換IFで、イドゥン主役です。

時系列的には、一部の7章(サカへの旅行&飛竜の大群駆除)終了後、8章突入寸前と言ったところから始まります。

第一部のキャラの心情を書くのが久しぶりなため、一部のあの雰囲気を出せるかどうかは微妙ですが。

 

 

 

 

 

結構暗い話になりそうですが、あくまで異界、IFだと割り切ってお読みください。

そしてIFなので、色々と出来事や、イドゥンの性格なども少し変わっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夢というのは彼女にとっては好きで嫌いなものだった。

イデアが自分に焼き菓子を作ってくれる夢や、遊びに行く夢、エイナールと一緒に氷竜姉弟と戯れる夢、そういった夢を彼女は好いていた。

 

 

 

 

 

しかし、当然、その反対もあった。

 

 

 

 

 

 

常に瞼の裏にこびり付いて離れない光景が神竜の片割れにはある

ソレは彼女が必死に生きたこの短い十年と少しの時間の中でも、最も恐ろしい記憶だ。

幾ら忘れようとしても、それは彼女と言う存在の奥底に深く刻み付けられ、延々と離れることはない。

 

 

 

 

彼女は未だに幼い竜であり、まだまだ睡眠や食事などを必要とする存在である。

そして、彼女の抱く恐怖はいつも眠りに付いた彼女の夢の中で小さな竜を貪りつくす。

 

 

 

頭蓋骨の中に、そして心臓の奥底に根を張った恐怖という蟲は、いつも彼女を苦しめている。

じわじわと傷口が化膿し、膿を撒き散らし、鈍い痛みを与えるようにイドゥンを苛むのだ。

 

 

 

 

まるで水の中に浮かんでいる様な感覚を神竜は味わっていた。

意識は定まらず、今、自分が何を考えているのかさえも判らない。視界さえもぼやけ、ただ純白の光しか見えない。

この現象を最初に体感したとき、何も知らなかった彼女は大いに動揺したが、後々イデアにコレは夢であると教えられたことがある。

 

 

 

 

夢なのに、眼が覚めても彼女はいつもはっきりと全て覚えている。

深く、深く、柄まで剣を体内に刺された痛みが決して消えぬように、心に残された痛みも消えないのだ。

 

 

 

 

世界が変わる。景色が、音が、温度が、匂いが、何もなかった世界に色づけされていく。

しかし、決してそれらはいい方向になどではなく、むしろ彼女を傷つけるものだ。

激しい変動の中、イドゥンは何も出来ずに、ただ成り行きを見守っていた。見守ることしか出来ない。

 

 

 

 

それはあの日のサカの光景。世にも恐ろしい怪物達が明確な敵意と殺意を浴びせかけ、襲ってきた悪夢。

今までは絶対に敵意など向けられることなどなかった彼女が、始めて負の感情を浴びせかけられた時だ。

 

 

 

 

最初に見るのは傷つき倒れた弟の姿。力なく倒れ、眼を閉ざした姿。飛竜の群れを相手にし、やられてしまったイデア。

ずたぼろのマントにローブ、手足には酷い火傷さえあり、小さく弱弱しい息を繰り返すだけの弟。

見れば、右肩から、腕に掛けてはブレスの影響なのか黒く焼け焦げ、炭化している場所さえあった。

 

 

 

 

焦げ臭い匂いと、血の何ともいえない匂いがイドゥンの鼻腔を暴力的なまでに刺激する。

頭からは真紅の血を流し、少しずつ死へと向うイデア、こうなってしまった原因は彼女は痛いほどにわかっている。

飛竜の群れの中に居た、明らかに別格のワイバーン、イデアはその存在にやられてしまった。

 

 

 

その時、自分は何も出来なかった。ハノンさんを守るという大義名分の元、結界を作り出してその中に閉じこもってただけだ。

イデアは必死に命を賭けて戦っていたのに。自分は逃げていた、助けることが出来なかった。

何も出来ない子供は、泣き喚いて、ただ弟の生存を祈ることしか出来ず、全ては父であるナーガが来たから大事には至らずに済んだのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

覚醒。柔らかい毛布に包まれた、そんな安らげる感覚を少女は覚えた。

途端、彼女はガバッと音を立てて激しく起き上がり、激しい息をつきながら、暗がりを見つめ、部屋の奥で燃えている暖炉を見る。

血に塗れたイデアが末期の疫病に犯された患者の如く弱弱しく呼吸を繰り返し、少しずつその身のエーギルをすり減らしていく姿が眼に焼きついて離れない。

 

 

 

そしてそのエーギルが底を付き、雄雄しく燃え盛るイデアという存在が燃え尽きれば……後に残るのは冷たい燃えカスだけだ。

 

 

 

あの日、震えながらハノンを助けに行くと勇気を振り絞ったイデアが消えない。

恐怖という感情を激しく掻き散らすおぞましい飛竜達の絶叫が耳からこびり付いて離れないのだ。

何も出来なかった自分に対する遣る瀬無さが減衰することなど在り得るわけがない。

 

 

 

夜の闇に優しく抱きしめられた寝室、胸の中で激しく千切れんばかりに鼓動を繰り返す心臓の音以外、何も聞こえず、彼女は刹那自分が何処に居るかさえ忘れていた。

左手が腰に絡まるたっぷりと水を含んだシルクを想起させるベッドのシーツに触れ、ようやく神竜の思考は本格的に稼動を開始した。

ここは自分の部屋。自分のベッド。そして自分はいつもイデアと一緒に寝ている。

 

 

 

全身から出てきた汗が、気持ち悪くてたまらなかった。

 

 

 

横を向くと、そこにはいつもの調子で眠っているイデアが……いない?

親からはぐれた子鹿の様に幾度も視線を慌しく部屋のありとあらゆる場所に巡らすが、いない。

 

 

 

 

……どこ?

 

 

 

 

 

 

 

 

頭部を鈍行な鉄製のハンマーで殴打されたような鈍く、それでいて身体の芯までを振動させる衝撃が彼女の身体を駆け抜け、眠気が吹き飛んで、一瞬にして意識が完全に覚醒する。

更に汗が激しく吹き出し、全身の体温が急激に降下していくのを自覚しながら、必死にイデアの姿を部屋の中に求めるが、やはり彼はいない。

既に彼女の頭の中には、気配探知能力を駆使してイデアを探すという選択肢は存在しない。思いつかない。

一刻も早く、気配などではなく、もっと物理的に、もっと直接イデアの存在を認めたくてたまらないからだ。

 

 

 

 

 

それもあんな夢を見た後ならばなおさらだ。

 

 

 

 

 

 

 

銀紫の長髪の森から突き出た尖耳が上下に忙しなく動き、周囲の音と気配をかき集め、その全てをイドゥンへと流す。

濁流の様に頭に流れ込む周囲の状況を無意識の内に一つずつ丁寧に、かつ素早く整理した神竜は次いで精霊に頼った。

理と呼ばれ、世界を構築するありとあらゆる要素の端末たる精霊達は、言語ともいえない言語を以ってその“意思”を返す。

火が、水が、氷が、風が、雷が、そしてそれらを構築する細胞とも言うべき精霊達は特殊な位相の波を神竜に送り、あっという間に答えをこの小さな竜に教えた。

 

 

 

 

 

 

 

開け放された窓の外にあるバルコニー。そこに弟はいる。見ればカーテンが冷たい夜風に揺らされ、仄かな月明かりの向こうに黒いシルエットが見えた。

バスローブの様な形状の衣服の裾を引きずり、暗闇の中四苦八苦しながらも何とかサンダルを履いた彼女は駆け足でバルコニーに彼女は駆け寄る。

途中何度か裾を踏んでしまい、前に倒れそうになるが、咄嗟に背に顕現させた翼の浮力で身体を立て直す。

 

 

 

 

 

 

黄金の光で室内を照らし出す4枚の翼が音もなく揺れ、空気を静かにかき混ぜた。

発生した風により、閉められたカーテンが捲れ、その向こうに居る人物の後ろ姿を映し出す。

肩口辺りで大雑把に切り揃えられた金色の髪と、紅と蒼の色違いの眼、自分と同じ特徴的な瞳を“眼”で見つけた竜の顔が綻ぶ。

 

 

 

 

何やらイデアは澄み切った夜空を、空に浮かぶ満面の宝石と、夜を照らす月の光と、すぐ近くに置いた蝋燭の灯を光源に本を読んでいる。

ほっと胸を撫で下ろし、氷の様に冷たい空気を肌に浴びながら彼女はイデアの元へ余裕を持って歩み寄り、声を掛けていた。

 

 

 

 

「どうしたの?」

 

 

 

 

イデアの肩が一瞬だけ跳ね上がり、小さく息を漏らすが、すぐに落ち着きを取り戻したのかゆっくりと振り返り、眼を瞬かせた。

読んでいた本を懐にしまってから、彼は口を開いた。

 

 

 

 

「起こしちゃった? ごめん」

 

 

 

 

「違うよ。私が起きたのはイデアのせいじゃない」

 

 

 

 

 

 

じゃあ、どうしたの? 眼で問いかけてくる弟に恥ずかしさを混ぜた声で答えた。

バスローブの襟をギュッと掴み、それで顔を半分隠してぼそぼそ喋る。

伏せられた眼があちこちを見渡して、落ち着かなく動き回った。

 

 

 

 

 

「その、寝汗が気持ち悪くて……」

 

 

 

 

「なら、速く部屋に戻って着替えた方がいいよ。汗かいたまま夜風に当たったら、体が冷えるだろうし」

 

 

 

 

 

着替えが終わるまで、俺は向こう側を見ているから、イデアは背を向けて夜空に眼を向けてしまう。

此方を見てくれないのを少しばかり不満に思いながら、さっさと着替えるべく部屋に戻る。

急いで汗で濡れたバスローブや下着を脱いで洗濯物を入れる籠に放り込み、新しい下着などを取り出してさっさと着替えてしまう。

 

 

 

 

何故か彼女は自分が焦燥に駆られるのを感じていた。速く、速くイデアの元へ戻らなければと思った。

時間にしてほんの僅か。心臓の鼓動が20回鳴ったか鳴らなかったか程度の時間。

全身を未だ太陽の残り香がする新しいバスローブに包んだ彼女は、早歩きで弟の下へと向かう。

 

 

 

 

 

「着替え終わったよ」

 

 

 

 

判ったと答えるだけでイデアは振り向かない。変わらず星を眺めている。

そこに微妙な違和感をイドゥンは感じた。自分を見ていない。それ所か、こことは全く違う場所にその意識を飛ばしているのだと彼女は直感的に悟った。

本当に稀に、イデアはこの様な状態になるのを彼女は知っていた。その視線の先が、何処か別の場所へと向けられているのを。

 

 

 

 

自分とほぼ同時に誕生し、最初に出会った自分以外の存在であり、そして自分の片割れである弟を彼女はもっとも近くで、最も長く観察しているのだ。

そのまま、何処かへと飛んでいってしまうのではないか、たんぽぽの種の様にふわふわとこの時のイデアは存在があやふやになる。

 

 

 

 

「何してるの? こんな時間に本なんて」

 

 

 

 

見ているの、ではなく、何をしているのと彼女は聞いていた。

思えば、さっきの問いは寝汗云々のせいではぐらかされた様な気がしたから。

 

 

 

 

「ちょっとした考え事のついでさー」

 

 

 

 

ふぅっと重い息を吐きながらイデアは答えた。やはりその眼は姉を見ていない。

夜の星さえも厳密には見ておらず、その言葉には何も篭もっていない。

無言で弟の隣に立つと、少しだけ彼の意識が自分へと振り向けられるのを肌で感じて、僅かに安堵する。

 

 

 

 

しっかりとイデアはここにいる。その証明が出来たような気がしたのだ。

 

 

 

 

 

「…………」

 

 

 

 

何を考えていたの? そう聞きたかったが、ぐっと我慢する。

どうにかして会話がしたかった。どんな下らない内容でも、イデアと会話がしたい。

猛烈に湧き上がるその欲求に任せてイドゥンは口を開く。

 

 

 

 

 

「ハノンさん……元気かな? ウィルソンも足、怪我しちゃってたし……」

 

 

 

 

「ナーガが何とかしたんでしょ? それなら何も心配なんていらないと思う」

 

 

 

 

 

普通の術者ならともかく、ナーガならば死んでさえいなければどうとでも出来るはず、そう確信しているからこそイデアの言葉は軽い。

小さく弟が息を漏らすと、白い吐息が口から漏れて夜風に流されて消えていく。

 

 

 

 

今回、一歩間違ってたら大変な事になってた、それぐらいの事は自分でも判る。

運が悪かったといえばそれまでだろうが、もっとあの状況で自分に出来たことはあるのではないか。

そんな考えが浮かんでは沈みを繰り返している。

 

 

 

 

姉の胸中を読んだのか、弟は軽快に笑うと言った。

 

 

 

 

 

「そもそも死ぬなんて冗談じゃない。始めての遠出でそんなことになったら、姉さん、絶対にトラウマになっちゃうでしょ」

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 

 

 

 

 

思わずイドゥンは弟の顔を覗きこんでいた。肩をつかんで、自分の方を無理やりにでも見させる。

その手に篭もる力は未だに幼い彼女の全力、少女が必死に搾り出す程度でしかないが、それでもイデアを少しばかり怯ませた。

口をパクパクと酸欠の魚の如く動かすが、言葉が出てこない。何て言おうとしたのか考えることさえ出来ない。

 

 

 

 

 

 

やんわりとイデアが姉の手を取り払うと、彼は部屋の中に戻っていく。手招きしているのが月夜の灯りで見えた。

ベッドの上に乗っているイデアの眼の前までいくと、イデアはその手に何かを持っている。

細長い木の棒、それは先端が少しだけ返されており、土を掘る道具の一種にも見えるが大きさが違う。

 

 

 

表面を魔力で覆われて、ささくれなど一つもなく、ツルツルとしているその棒の名前は耳かきと言った。

 

 

 

 

耳かきを見た瞬間、自分の顔が引き攣るのを彼女は感じる。

自分の眼に見えない所で、自分の体の一部を好きにされる感触があんまり彼女は好きではないのだ。

だが、耳掃除が嫌いなわけではない。あのなんとも言えない心地よさは素晴らしい。

 

 

 

 

それにしても、何故弟はちょうど自分が今、耳がムズムズしているのが判ったのだろう。

 

 

 

 

「…………!」

 

 

 

 

ゴクリと喉を鳴らす。冷や汗が一滴、頬を伝う。

失敗した時の痛みは凄まじいが、それと同時にあの恍惚とした感触はどうしようもないほどの魅力がある。

半身である弟は、何故かとても耳掃除が上手で滅多に痛い思いなどさせない。

 

 

 

 

 

コロンと弟の膝の上に子猫の様に寝転がると、耳が僅かに震える。

耳に掛かっていた邪魔な髪の毛を退かされ、露出した耳管の中に棒が緩やかに入っていく。

感覚が鋭敏なのも困ったもので、恐らくは人間の数倍の感度で棒の居場所がわかってしまうため、どうもむず痒い。

 

 

 

だが、それを補って心地よいのだ。完全に安心できる場所で、最も信頼している者が居るのだから。

 

 

 

 

 

「痛いと思ったらすぐにいってね」

 

 

 

 

 

ごわごわとした音と共に耳の内部に冷たい感触を覚えて、少しだけ身動ぎしてしまう。

緊張を逃がすためにふぅと小さく息を吐くと、瞼が少しだけ重く感じる。

唯一自由な足だけがモジモジとどうしても動く。

 

 

 

「……ん」

 

 

 

 

 

眠気を振り払いながら、彼女は頭を回転させて必死に話題を考える。

何だか無性に、イデアと喋りたかった。

夜の自由な時間に、家族と取りとめもない話を出来るというのは、彼女にとっては最高の幸福なのだから。

 

 

 

 

「ねー」

 

 

 

 

なに? と弟の声が耳元から返ってくる。

考えて、考え抜いた結果、出てきた質問は簡単なモノ。

 

 

 

ずっと前から知りたかったこと。

 

 

 

 

 

「夜の空って、凄く光ってるけど……あの光って何なんだろう?」

 

 

 

 

本を読んで調べたのだが、難しい単語ばっかり並んでいてよく判らないというのが正直な感想だ。

重力やら、光年やら、重力歪曲空間、食変光星、その他にも様々な専門的な用語がビッシリと書き詰められた本は読みづらい。

ただ単純に自分はあの空で光っているモノが何なのかを知りたいだけなのに。

 

 

 

 

「あれは“星”だよ。物凄く離れた場所で光ってたり、他の“星”の光で照らし出されたりしてるのさ」

 

 

 

 

 

 

「遠いって、どれぐらい?」

 

 

 

 

 

 

うーんとイデアが頭を捻る気配を出す。手元は休まずに耳の中を探り、こりこりと優しく耳管の表面を掻いて行く。

その行為に全く痛みなど感じない。しかしやはり緊張は残るのか無意識に足の指をぎゅっと握りこんでいた。

 

 

 

 

 

「一番近い星まで竜族で一番早い風竜が、全力で休みなく飛んでいっても何年以上も掛かるぐらいかな」

 

 

 

 

 

凄いと素直に思った。一番近いところまでそんなに掛かるなんて。

自分が行くとしたら、そんなに遠いと迷子になってしまうかもしれない。

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、大きさはどうなの。その“星”っていうのは、実際はどれぐらいの大きさなんだろ。ここからじゃ、凄く遠くて光ってる点にしか見えないけど」

 

 

 

 

 

「……かなりそれぞれに差はあるけど…………基本的に多分、エレブよりも何百倍も大きくて、もっと凄いのになると太陽よりも光ってて、大きいのがいっぱいあるよ」

 

 

 

 

 

 

やっぱり凄い。この世界よりも大きくて明るい。ただその一言に魅力を感じてしまう。

エレブよりも大きい、実際自分はエレブの形を地図で見たことはあるが、自分の眼でしっかりとその大きさと形を確認したことはない。

サカに行く際に雲よりも上の部分を飛んで見たエレブは地平線の果てまで広がる大地だったというのに、それよりもずっと大きいとは、もはや想像の限界を超えている。

 

 

 

 

恐らくその星々の世界から見れば自分たち竜でさえもちっぽけな存在になってしまうのかもしれない。

興奮が伝播したのか、彼女の尖耳がパタパタと動き始めるが……イデアはソレを許さず先端を指で摘むとそのままぎゅっと弱い力で耳全体を引っ張って伸ばす。

耳の外部、人間のソレよりも必然的に長くなる溝を耳かきがぞりっと走ると、思わず身震いしてしまう。

 

 

 

 

くひぃっと悲鳴が漏れそうになるのを必死におさえた自分を内心で彼女は褒めた。

そんな情けない声を出したら、姉としての威厳が丸つぶれではないか。

 

 

 

 

「はい、片方終わったよ。もう片方もする?」

 

 

 

 

ボロボロの紙切れで耳かきを拭きながらイデアが言う。

まだまだイデアと話足りない。だから、返答は一つだった。

頭を逆にして、さっきとは違う耳を上に向ける。ピクピクと耳が機嫌よさ気に揺れるが、イデア笑い混じりに溜め息を吐く。

 

 

 

期待するのはいいが、そう器用に動かされるとかえってやりづらい。

“眼”を使って弟の顔を認識しながら彼女は弾むように声を掛ける。

 

 

 

 

 

 

「“星“……“星”…………」

 

 

 

 

行って見たいなぁと口内で言葉を転がす彼女の耳を伸ばしたりして具合を確かめつつイデアが少しばかり意地の悪い笑顔を浮かべる。

 

 

 

 

 

「今行っても、あっちに着いた時にはもう無くなってるかも」

 

 

 

 

「え?」

 

 

 

 

全身を預けてる為、身動きが取れない彼女は耳で自分の感情を表現する。

ピーンと伸びきった耳はまるで猫が警戒をしている姿にも似ていて、イデアは苦笑した。

驚きすぎだと呟きながら、ゆっくりと耳掃除を続けていく。

 

 

 

 

 

「とにかく凄く遠いから、向こうの光景がこっちに届くまでにも途方も無い時間が必要なんだ。つまり……」

 

 

 

 

「わたし達が見てるのはずっと前の光?」

 

 

 

 

そうだよと、答えながらイデアは的確に耳かきを操り、内部の皮膚を傷つけないように掻いて行く。

外部から飛来した塵や、老廃した皮の残骸などを精確に取り除き掃除する。

痛くない様に最高の注意を払いつつも、会話に答える余裕は決して失くさない。

 

 

 

 

 

 

「……見にいける自信がなくなったよ。それに、“星”も、死ぬの?」

 

 

 

 

 

 

 

「死ぬ、というのかな、アレは……すごい長い時間が経つと、炎が消えて、熱が冷めちゃう様に、星も冷めて固まっちゃうんだ」

 

 

 

 

 

 

心地よさに負けてこみ上げる眠気と必死に戦いながら、何とか思考を回転させて語る。

光の速さは彼女も十分に知っている。

稲光のあの目視できない速度……あれでも想像できない時間が掛かるとなるとサカまで飛んでいくのに1刻ほど時間を掛ける今の自分ではとても無理だ。

 

 

 

 

 

そして、何より永遠とも思える“星”さえも死ぬという言葉が深く、印象に残った。

 

 

 

 

 

稲光……そういえば稲光といえば、この殿があるベルンでは雷の音は山々で反響して凄まじい音量になるなぁと彼女は思った。

そういう時は怖いからベッドに潜り込んで頭から毛布を被ってしまえば恐怖は半減するのだ。

あの暗黒に包まれながらも暖かさを失わない世界は素晴らしい……。

 

 

 

 

 

そうだ。朦朧とする意識の中で口だけが勝手に動く。言葉を話せたかは判らない。

だけど、確かに自分は喋ろうとしていた。

 

 

 

 

一緒に見に行こう、と。

 

 

 

 

 

黒く染まる視界の端でイデアが確かに頷いた。判ったよ。そう苦笑交じりの声が確かに耳朶をたたいた。

小さな小さな夢が産声を上げる。子供の夢見物語で、とても幻想的な願望が。

 

 

 

 

 

最後に頭に誕生した念だけを朧に感じて、彼女は睡魔の闇に落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分が見ている世界って、もしかしたら凄く小さいのかもしれない。

イドゥンはこの頃よくそういう考えをしていた。世界は広いと思ったが、その先は更に広い、ならばその果てはどうなってるのだろう、と。

 

 

 

 

 

 

イドゥンという竜は興味のあることに対しては異常なまでに好奇心と向上心を見せる性質がある。

彼女の中には自由に何でも書き込める白紙の様な部分があるからなのかどうかは判らないが、知りたいと強く思ったことに関して彼女は凄まじい速度で学習することが出来るのだ。

イデアと会話して理解を欲した“星”や世界の成り立ち、その他様々な学問について彼女は再び本を読んで調べたのだ。

 

 

 

 

 

父であるナーガに頼んでもってきてもらった本の難易度も最初はその手の学問の入門書から始めたのだが、今では専門的で、今尚竜族の間でも議論が

交わされるであろうほどに最先端の内容を彼女は読み進めていた。

尊敬するお父さんの感心した様な視線をよそに彼女は何とか分厚い本と格闘して、様々な事を学んだ。

 

 

 

 

 

その中でも特に興味が湧いたのはとある二つの論文。

 

 

 

第一異界理論。エレブを基準に今のエレブとは違う“もしも”のエレブの存在の可能性をあるという前提から語られる理。

第二異界理論。上記とは違い、エレブとは全く別の新天地の可能性を考える理。

そんな異界に行くための世界を渡る為の術式の基礎理論は夢物語としか思えないが、何となく何処かでコレは可能なのだろうなぁと彼女は思った。

 

 

 

 

例えば、竜族が全ての技術と労働力を惜しみなく注ぎ込めば可能なのだろう。

お父さんならばきっと可能だと何処かで確信している自分がいた。

 

 

 

そして彼女は本を読んで知識を蓄えていく内に愕然とし、興奮を覚える。

この世界は可能性に満ち溢れていることを実感し、その可能性の全てを理解し、知るのは竜の無限の時間をもってしても困難だと判って彼女は笑った。

 

 

 

 

 

もしも、違う世界があったとして。そこに自分がいたらどんな生活をしているのか、それさえも気になってしょうがない。

 

 

 

 

 

弟と一緒に見られるモノが増えた。一緒にいつか、こういった謎を解いていきたい。

イデアは凄く頭がよくて、自分なんかよりもずっと謎解きは上手そうだ。

 

 

 

 

 

 

「…………はぁ」

 

 

 

 

 

思わず身体の底から息が漏れる。イデアはよく溜め息を漏らしているが、もしかしたら自分も似ているのかもしれない。

動くたびに身体に適度な暖かさのお湯が肌に刺激を与えてくれる。湯浴みが好きなイドゥンにとって、湯に使っている時間と言うのは実に心地よい。

長髪が濡れたせいで肩や胸などに張り付いているのを指先で退かしながら彼女は全身の力を抜いてゆっくりと湯に身を任せる。

 

 

 

 

 

よく磨かれた白亜色の岩盤の床と、それをくり抜いて作られた巨大な温泉。殿の地下に造られた巨大な浴場。

壁や天井などが眩い光を放っているために足元が見えないという事もない場所に彼女は居た。

 

 

 

 

 

ちゃぽんと湯の中から露出させた白くて細い腕を見やり、更に視線を動かしていく。

小さな子供から成熟を始め、女性への道に着実に歩を進める身体に視線を走らせて彼女は笑った。

気がついたら、大きくなってる。速く大人になりたいな。そうすればもっと色んなことが出来るようになるのに。

 

 

 

 

 

温い湯は、体の奥底まで染み込むように熱を伝えてくる。その中で彼女は考えを回す。

 

 

 

 

 

そうだ、大人になったら、今よりもずっと色んなことが出来る様になる。

またあの時と同じような状況になったとしても、ハノンさんもイデアも両方守って、ウィルソンも助けられて、皆で逃げることも出来るようになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

ぐぎゅぅーとお腹が鳴ると……彼女の両隣から無邪気な笑いが響いた。

一つな女の子の、もう一つは男の子の声。

二つともかつてのイドゥンの様に舌ったらずではあるが、それでも喜色に満ちた声。

 

 

 

 

 

「おなか……へった?」

 

 

 

 

「リンゴ、たべる?」

 

 

 

 

 

ニニアンとニルス。エイナールが殿へと連れて遊びに来る彼女の子供たち。まだまだ幼く、ようやく喋って歩くことを覚えた程度の年齢。

イドゥンにとってこの双子は特別な存在だ。始めて出会うイデア以外の自分よりも年下の存在。

この二人を見ていると、過去の自分もこうだったのかな、と彼女は時々思うのだ。

 

 

 

 

 

姉と呼んで慕ってくれるのも嬉しいし、一緒に遊んだり本を呼ぶのも楽しい。

こう、見ていると無性に保護欲求が湧いて来る困った子たち。

 

 

 

 

 

イデアは弟だが、こう、何と言うか時々自分が面倒を見られている感じがするのだ。

だからこそ、もっと自分はお姉ちゃんとしてしっかりせねばならない。

 

 

 

 

 

右隣で湯に浸かっているニニアンが母親譲りの綺麗な蒼い髪を揺らし、おどおどしながら遠慮がちにだが、笑みを浮かべながら喋りかける。

左隣のニルスは何処から取り出したのか、リンゴをイドゥンへと差し出した。

何処からそんなもの持ってきたの? そう聞こうと思ったが、その理由を思い出した。

 

 

 

 

 

イデアが渡していたっけ。お風呂あがりに食べなよとニニアンとニルスに真っ赤でおいしそうなリンゴを手渡していた。

湯浴みをしてスッキリした所に食べる僅かな酸味と甘みを併せ持ったリンゴの破壊力は凄まじいモノがある。

 

 

 

 

今自分たちが使っている浴槽とは別の浴槽にはのぼせた身体等を冷やす為の冷水がたまっていて

そこで冷やしていたのだろうか、リンゴは雫に塗れながらもひんやりとした空気を放っている。

 

 

 

 

年下の子たちから施しを貰うの? でも、でも、とてもリンゴは美味しそうで……仄かに漂う匂いがたまらない。

口内が物凄い速度で潤ってくるのを感じつつイドゥンは悩んで……誘惑に負けた。

ぷるぷると震える腕を伸ばしてリンゴをつかみ、眺める。

 

 

 

 

「ありがとう」

 

 

 

 

しっかりと感謝の言葉を述べるのも忘れない。イデアに教えられた通り、何か嬉しいこと等をしてもらったら絶対に言わなくては駄目だ。

指を一本立てて、そこからエーギルを放出。黄金色の光が編みこまれて一枚の皿を作る。

その上にリンゴを乗せて湯の上に浮かべながらイドゥンは頭を捻った。

 

 

 

 

このまま自分だけが食べるつもりは毛頭ない。

脳裏で思い出すのは昔イデアが作ってくれたモノ。凄く可愛くて、改めて弟の発想に驚かされた芸術。

 

 

 

 

 

【エイルカリバー】

 

 

 

 

 

最近何とか覚えた術を極小規模で発生させて器用にリンゴを切り分けて、皮を剥ぎ取っていく。

空気がかき混ぜられ、不可視の真空の刃はその役割を果たす。

しゅっと言う皮を摩り下ろす音が耳に届き、果肉諸共彼女が望んだ形へと形を整える。

 

 

 

 

 

8つに等分されたリンゴの白い果肉に、そこに僅かに切れ込みを入れられて残った紅い皮の部分……ピンッと伸ばされたそこはウサギの耳のように見えた。

リンゴウサギ。以前イデアが作ってくれた時はその愛らしさから食べることが出来なくて、結果しおしおになってしまった苦い記憶がある。

眼の前でイデアが一口でうさぎを食べてしまった時は思わず叫んでしまった。

 

 

 

 

 

 

耳の様に尖った部分をさわさわと撫でてみて、満足げに頷く。いい出来だ。

同じ作業を数回繰り返すと、8匹の真っ赤な耳が可愛らしいうさぎが産まれる。

それを先ほど構築した黄金色の皿の上に乗せて、お湯に浮かべてニルスとニニアンに差し出した。

 

 

 

 

 

無言で、しかし喜色を浮かべながらリンゴをシャリシャリと食べる双子を見て、イドゥンは楽しそうに笑う。

自分で食べるのもいいが、やはり食事は大勢で食べるとその分楽しい。

外の世界の人間達は収穫祭などでそういった事をするらしいが、一度自分も参加してみたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

考え事を一旦やめて、自分もリンゴを食べようと水に浮かぶ皿を見て彼女は固まった。

最後の一個を今まさに、ニルスが掴み取ろうとしている。自分はこのままではリンゴを食べられない。

その隣でリスの様に頬を膨らませてリンゴを幾つも食べているニニアンの姿も見える。

 

 

 

 

「ま……」

 

 

 

 

 

 

待ってと、そう抗議の声をあげようとしたが余りにもニルスとニニアンの顔が嬉しそうで、リンゴを食べることを楽しみにしているのがありありと見て取れて……彼女は逡巡した。

ここでリンゴを取るのは簡単だが、それでは……大人らしくないし、何より姉として、年上の頼れる存在として非常に駄目だろうと。

ならば、少しばかりのリンゴは我慢し、ここは「おとなの女」の余裕という奴を見せてやるべきではないか。

 

 

 

 

 

 

仕方ないから、片腕の親指と人差し指で輪を作り、その外周によく石鹸水を練りこむ。

そして一息吹きかけると、石鹸水は泡のような形状になり宙を舞う。これもイデアが教えてくれたもので、確か名前を……。

 

 

 

 

 

結局、そうこう考えているうちに全ての大好物がなくなっているのに気が付いた彼女がふぐぅという不満とやるせなさに満ちた唸り声を漏らすのはこの少し後である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

湯浴みを終えて自分の部屋に戻った彼女と双子を迎えたのはエイナールとイデアだった。

二人は何やら悪戯が成功した子供の様な顔でイドゥン達に笑いかけている。

部屋に充満しているのは、先ほどまでにはなかった甘い匂い、リンゴの匂い。

 

 

 

 

 

 

ピィンと耳が逆立つ。リンゴだ。しかも一個ではない、幾つもの──。

 

 

 

 

 

「お疲れ、湯加減はどうだった?」

 

 

 

 

 

「すっごく気持ちよかったよ、イデアも一緒に入ればよかったのに」

 

 

 

 

 

いつもよりも少しだけ上機嫌に問いかけてくる弟に返す。

何年か前までは一緒に湯浴みに入っていたのだが、最近は絶対に一緒に湯浴みは嫌だと拒否ばっかりしてくる弟にべーっと舌を出してやる。

ははんとイデアが流すように鼻で笑うと、彼女が湯浴みに入る前にはなかった大きなテーブルと椅子を指差す。

 

 

 

 

 

そこには綺麗な純白のベールで覆われた皿とバスケットが幾つも置いてあり、甘い匂いはそこから漂ってくるのを彼女の鼻は捉えた。

リンゴ、リンゴ、頭の中で想像されるのはリンゴを素材とした焼き菓子の数々。

エイナールが時々作ってくれるソレは彼女の好物の一つ。弟と一緒に食べると更に嬉しい。

 

 

 

 

 

「食べる?」

 

 

 

 

 

「食べる!」

 

 

 

 

 

即答で返すが、一つ気がつく。

髪の毛がまだ濡れていて、気持ち悪いという事実に。

毛の先を指で弄ると、まだ落としきれていなかった水滴が滴る。

 

 

 

 

傍目ではニニアンとニルスが突進するように競ってエイナールに抱きつき、その頭を差し出している。

彼女達の母は、微笑みを絶やさずに椅子に腰掛けると、膝の上に二人を乗せた後に大きな布を使ってその頭を優しく拭き始める。

 

 

 

 

もやもやしたモノが心の中に広がっていく。

自分は母親という存在を知らない。父と弟がいるが、母は自分にはいないという事実を改めて直視した気分だった。

 

 

 

 

 

 

「!」

 

 

 

 

 

急激に心が冷めていくのを感じ取りながら、自分も頭を拭こうと布を取り出した所で、自分を見ていたイデアと偶然眼があった。

視線と視線が交差し、眼だけで会話をするとイデアは溜め息を吐く。

おいでと手招きする弟に突進するように飛び込み、背を向ける。

 

 

 

 

 

 

「わたしもやって」

 

 

 

 

 

 

 

櫛と布を手渡して自分でも不思議な程に強い口調で頼み込む。

事実、自分の髪の毛を弄らせたいと思う相手はイデアしかいなかった。

 

 

 

 

 

 

「髪の扱いとかあんまり知らないけど、いいの?」

 

 

 

 

 

「イデアがいい」

 

 

 

 

 

身を後ろに微かに倒して、背中をイデアの手へと押し付けてみる。

やんわりとバスローブの上からでも弟の手の形状が判り、竜は少しだけ自らの心が軽くなるの心地よく感じて、口を開いた。

 

 

 

 

「ゆっくりでいいから、お願いね」

 

 

 

 

 

返事はなく、その代わりとばかりに髪の毛を労わりをもって扱われていく。

指先が髪の毛の先を掴み、櫛が流れて、水気が払われる。

湯で芯から温められた今の身体にはあまりに甘美な刺激、それが眠気に変換されると、視界が徐々に狭まり、意識が朦朧にうつろぐ。

 

 

 

 

時間にしてほんのわずか、本のページを5か6枚めくる程度の時間だったが、それでも効果はすさまじい。

 

 

 

イデアから見れば、彼女の背中はぐらぐらと頼りなく揺れていることだろう。

 

 

 

 

 

極楽という言葉があるが、正に今、彼女を包んでいる状況はソレだった。

最も安心できる場所で、気を抜くという事の何とすばらしいことか。

眠りそうになる頭を必死に稼動させて眠気を追い払おうとするが……ほぼ敗北確定の状況。

 

 

 

 

と、ここで彼女が眠る寸前、完全に意識が闇に染まる瞬間にイデアの手が止まった。

肩を2回ほどたたかれて、海底から錨を持ち上げるかの如く眠気が消えうせて、思考がはっきりとしていく。

 

 

 

 

 

「今寝たら、夜に眠れなくなるよ……それに、起きたら焼き菓子はぜーんぶ無くなってるだろうね」

 

 

 

 

 

 

ぐぬぬと唸りでもあげそうな顔の姉に対し、イデアは平然とした様子で告げて、そしてその次に小さな声で言う。

 

 

 

 

 

「出来立てを食べて。……結構、自信作なんだ」

 

 

 

 

 

 

少しばかり興奮した調子に見えるのは、気のせいだろうか。

当然、甘いモノが好物の身としてはそんなこと言われなくても食べるつもりだったが。

頷いて答えた後に、自分の為に作ってくれたのだと理解し、頭と胸が熱くなった。

 

 

 

 

 

 

「わぁ……」

 

 

 

 

 

 

 

視線を動かし、バスケットにかけられた布を“力”を使ってまで取り払った彼女は、無意識に感嘆の声を漏らす。

適度な甘い匂い、クッキーの様な歯ごたえのある硬さ、そして練りこまれたリンゴの気配に、バスケットの周囲を飾る小さな鳥たち。

掌程度の大きさの紙を折って作り上げられたソレに彼女の眼は惹きつけられた。

 

 

 

 

 

「これは……どうやったの?」

 

 

 

 

 

紙で作られた鳥、何処かで見たことがあるようで、見たことのない“折り紙”の鳥を手に取り、イデアの前に晒す。

イデアがふふんと鼻で笑うと、一枚の四角形の紙を懐から取り出す。

どうやら彼はあらかじめ姉に聞かれることを想定していたらしく、その紙はイドゥンが持っている折り紙をちょうど広げたようなサイズだった。

 

 

 

 

 

「これを」

 

 

 

 

 

イデアの指が物凄い速度で動き出す。

蜘蛛の足の如き正確さと、こなれた感じで指が踊り、一枚の紙がみるみる姿を変えていく。

姉がいきなりの弟の動きに驚きの視線を巡らせる中、イデアは黙々と紙を折る。

 

 

 

 

何かの記録にでも挑戦しているのか、驚愕し息を呑む姉の前で紙が、あっという間に一羽の鳥へと変貌。

体感時間としては、呼吸10回分程度だろうか。

 

 

 

 

 

「こうするの」

 

 

 

 

 

掌の上で完成した折り紙をイデアは淡々とした顔で見せつける。

差し出されたソレを受け取ったイドゥンは、手に持った折り紙を下から覗きこんだり

羽の部分を壊さないように恐る恐るいじくったり、とりあえず興味がわくところ全てを余さず観察。

 

 

 

 

 

 

「私も、作れるかな?」

 

 

 

 

 

「手順さえ覚えちゃえば、簡単だよ」

 

 

 

 

 

力を使って、折り紙の鳥をパタパタと羽ばたかせつつ問う姉にイデアは笑いながら答え

視線をもの珍しそうに空を飛ぶ折り紙を見ている氷竜姉弟に向けた。

イデアが何を言いたいか瞳だけで理解した彼女は、二羽の鳥をニニアンとニルスの方へと向けて飛ばす。

 

 

 

 

 

 

黄色い歓声が聞こえる。心の底から喜ぶ無邪気な声を聴きつつ、弟が作ってくれた焼き菓子を“力”を使って一つ掴み、食べた。

 

 

 

 

 

 

 

「どう?」

 

 

 

 

 

ちょっとばかりおどおどした様子で、感想を求めてくる弟に彼女は少しばかり時間を置く。

口の中で咀嚼し、味わい、嚥下してからイドゥンはじわりと湧き上がってくる甘味に身を委ねつつ口を開いた。

 

 

 

 

 

 

「……美味しい、すごく、美味しい!」

 

 

 

 

 

 

甘く、美味しく、彼女は満たされていた。

お腹いっぱいまで食べたいが、それはしない。

この後にやってくる晩飯の料理も素晴らしいものだとしっているから。

 

 

 

 

 

 

 

リスの様に頬に焼き菓子をつめていく姉を横目で見つつ、イデアは小さく苦笑した。

この頃、彼女が夢見が悪いのはしっている。何度か彼女がうなされている光景を見たこともある。

そんな姉にほんの少しでも喜んで、楽になってもらいたかったが、どうやら成功のようだ。

 

 

 

 

 

バスケットが置いてある机の椅子にイドゥンは腰かけると、興奮を隠し切れない様に小皿に焼き菓子を盛り付けていく。

いつしか寄ってきていた氷竜姉弟にも焼き菓子を分け与えつつも、笑顔を見せる姉にイデアは安心したように肩を揺らした。

 

 

 

 

 

 

「イデアも、食べる」

 

 

 

 

 

 

イデアを手招きと“力”を使って呼び寄せながら、神竜は心の底から笑いながら次々と焼き菓子を口の中に放り込んでいく。

ニニアンとニルスも遅れまいと必死に焼き菓子に手を伸ばすが、そこがやはりまだまだ幼い子供。

先ほど食べてしまったリンゴの影響による満腹感のせいか、思うように食べられないらしく、1個か2個食べたぐらいでもう無理だと倒れこんでしまう。

 

 

 

 

 

そんな氷竜姉弟を見つつ、イドゥンはどこか勝ち誇った顔をしながら、余裕綽々と焼き菓子を味わうように食していく。

 

 

 

 

 

 

結局、一人で大半を食べてしまい、お腹がいっぱいになってしまった彼女がどうやって晩飯を全部食べようかと悩むのは余談である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベッドの中、イドゥンは一人考え事をしていた。この頃眠れない夜はこういうことをする日が多い。

今日は単に苦悩がどうとか、そういう理由ではなく、単純に眠れないのが原因だ。

自分の隣ではイデアが背を向けて眠っている。呼吸するたびに聞こえる寝息と、上下する体の動きを夜の暗闇に鳴れた眼で見て彼女は安堵を覚える。

 

 

 

 

 

 

それもこれも、イデアが怖い話をするからだ。

いつの間にか夜隣で眠っている人間が恐ろしい怪物に入れ替わっている話は未だに思い出すだけで恐ろしい。

 

 

 

 

 

 

少しだけ寒くなってきた。毛布を強く握りしめて体を丸める。

眼を少しだけ細めると、イデアの首の裏に紐が見える。ぐるっと首に回されている紐は一つのアクセサリー。

忘れるわけがない、あれは自分の鱗だ。何でもサカに行く途中に誤ってはがしてしまったとか。

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 

 

 

 

 

手を伸ばし、弟の背に触れてみる。背中から伝わる心臓の鼓動が、指先を伝わる。

弟に対して思考を巡らせるとき、イドゥンは何時も測定しきれない程の感謝の念を感じる。

数えきれない事を教えてもらった。数えきれない程に助けてくれた。

 

 

 

 

 

 

だから早く大人になりたいという渇望につながる。

大人になって、今度は自分がイデアを助ける番だ。

もうサカの時の様に泣いているだけは嫌だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

舌と腹でイドゥンは回顧する。

父がもってきてくれた料理とイデアが作ってくれたお菓子の味、得られた満足感の高揚を。

自分の居場所で得られる温もり、無くしかけた時の怖さ。

 

 

 

 

 

 

 

結局の所、自分はまだまだ子供だと彼女は痛感する。

イデアの様に様々な知識を知っているわけでもない、お父さんの様に強くもない。

そんなに深く考える必要などない事柄なのだが……彼女はそういう年頃だった。

 

 

 

 

 

 

急激に膨れ上がった知識に対して、体、精神が適応するために成長を行おうとしている。

その為に発生した様々なしがらみだが……まぁ、いいかと彼女は判断した。

イデアがいて、お父さんがいて、エイナール、ニニアンニルスがいる、何もおかしいところはない。

 

 

 

 

 

 

不意に力を使って一枚の何も書かれてないボロ紙を引き寄せると、彼女は横になったままそれを折り始めた。

さっきイデアがやってみせてくれた手順を脳内で一つずつ思い出し、ゆっくりと確認するように折っていく。

イデアの10倍近くの時間をかけて完成した折り紙の鳥を見て、彼女は満足げに小さく含み笑った。

 

 

 

 

 

 

実はイデアを驚かせるための計画を彼女は遂行中だ。

いつも使っているクローゼットの奥に彼女はそれを隠し持っている。

イデアが溜まり場に直接本を取りに行くときや、逆に一人であの溜まり場に篭って彼女は黙々と糸と棒を使って編んでいるものがあった。

 

 

 

 

 

 

 

アレを渡したとき、どんな顔をするのだろうか。

そう思うと彼女の含み笑いはより深くなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

血の様な毒々しい色合いの月が宙に浮かんでいた。今まで見たことがない程に鮮烈な色彩をもって世界を染め上げる月が。

イドゥンはそれを見て、とても美しいと思った。見るだけで心がざわめくのは、それが一種の芸術だから、だと。

真っ赤な血のような光が、ベルンを、エレブを照らしている。まるで昼と夜が逆転した様に。

 

 

 

 

 

アレを渡すならば、今夜か明日の朝にすべきだろうか。彼女は朧に考え続ける。

 

 

 

 

気分を直すように彼女は一冊の本を手に取り読もうとして……表紙を見る。タイトルは「異界理論3」

この本はもう何回も読んで、中身は覚えてしまったと思いながらイドゥンはごろんとベッドに身を任せる。

足を延ばし、そのままゴロゴロと転がりながら彼女は本を開くでもなく、本を掴んだまま回転を続ける。

 

 

 

 

 

 

何か知らないが、こうやって回転を続けていれば新しい技でも覚えることが出来そうだーとか思いつつ。

ふと、唐突に自分を生暖かい眼で見てくる弟に気が付き、彼女は回転を止めた。

 

 

 

 

 

 

 

「あんまり回りすぎると、頭が痛くなるよ」

 

 

 

 

 

 

ベッドの端に腰かけたイデアは相も変わらずマイペースに話す。

もうそろそろ夜も深まってきた時間帯だろうからか、少しばかり目元が緩んでいるようにも見える。

そんなイデアの視線が彼女の握っている本へと移り……。

 

 

 

 

 

 

 

「……続きが見たいの?」

 

 

 

 

 

 

 

「いい、また今度にする、今夜はもう寝る」

 

 

 

 

 

 

 

毛布をめくって自分のスペースを確保すると、その中に滑り込む。

とりあえず、今は少し眠りたい。そして弟も眠ったら、自分はその間に起きてアレの最後の仕上げを行おうと思った。

だが今は……彼女はベッドの端の方、自分から離れた場所に潜り込み寝ようとする弟に対して力を使う。

 

 

 

 

 

寝る時は、近くに誰か信頼できる存在がいないと彼女は安心できないのだ。

がっちりと掴んだのを確認し、そのまま自分の所へ引きずり寄せて……彼女は丸められた毛布を抱きしめた。

ぎゅうっと両腕を回しながら彼女は頭を傾げて一言。

 

 

 

 

 

 

「あれ?」

 

 

 

 

私が引き寄せたのはイデアだったはずなのだが……。

よく引き寄せた毛布を見てみようと思ったら、視界に飛び込んできたのは毛布の表面に刺繍の如く刻まれた黄金色のエーギルの羅列。

「へ」、「の」、「も」、「じ」、という形をした怪奇な何かの字にも見える絵がまるで人の顔のパーツ、鼻、口、眉の様に配置され、毛布の塊にくっついている。

 

 

 

 

 

 

簡易的な人の顔だった。もっとも、本職の芸術家たちが見たら怒り狂いそうな人の顔だが。

 

 

 

 

 

円筒形に丸められた毛布にそれはぴったりとあっているようにも思えたが……。

どことなく人を馬鹿にしたような表情のそれとイドゥンの視線がぴったりと合う。

次いで彼女はベッドの毛布から顔を出すと、ベッドの端っこからこっちを見ているイデアを見て、弟も自分を見た。

 

 

 

 

 

 

 

「………………」

 

 

 

 

 

 

 

「……………………………っ…くくっ」

 

 

 

 

 

 

 

ほんの数瞬の時間の後にイデアは堪え切れなくなったのか

無表情だった顔を堪え切れないように歪めてからベッドの中に潜り込み、モグラの様に丸まってしまう。

ベッドの中から溢れる噛み殺した笑いを聞きながらイドゥンはもう一度奇妙な案山子のごとき毛布の塊を見る。

 

 

 

 

 

意外とかわいい。こう、言葉にしづらい愛嬌の様な、間抜けなのだが、何処か癖になる顔だ。

 

 

 

 

 

「これって、顔、だよね?」

 

 

 

 

 

そう何時もの様に問いかけると、イデアは顔だけをちょこんとベッドの端から出した。

ごそごそ動き、ベッドから抜け出して、こちらに這いよって来る。

彼女は知っている。弟がこういった事を語りたがりなのを。そしてそれが隙になるということも。

 

 

 

 

 

 

不用心に自らに近寄ってくる弟を見て彼女は口の端を上げるのを必死に堪えつつ機を伺い……。

 

 

 

 

 

 

ある程度の距離まで近寄ると……黄金色の光がイデアに絡みつき、グルグル巻きに拘束。

巨大な蛇が小動物を締め上げるように徹底的に、それでいて痛みや息苦しさは極限まで排除するように気を使う。

ばたばたと体を何回か捻り、脱出が不可能だと知った弟は涙交じりの眼で姉を見る。

 

 

 

 

 

そんな弟に見せつけるようにイドゥンは指を蠢かせた。

両腕の細い指がわきわきと稼動するのを視界に収めたイデアの顔が引きつった。

奇しくも彼はこの光景に見覚えがある。あの時と立場が逆だが。

 

 

 

 

 

 

まずい。やり返される。そう判断した彼の行動は早かった。たとえ悪あがきだったとしても。

 

 

 

 

 

 

 

「ま、待って! ちょっと待って!!」

 

 

 

 

 

 

 

もじもじと体を捻りながらベッドの上を転がり、逃げていく弟を膝歩きでイドゥンは追いかける。

ベッドの端まで到達し、腕さえ使えない為に落ちると痛いという事が判っているイデアは震えながら頭を捻って姉の場所を確認し……馬乗りに伸し掛かられる。

布擦れの音を鳴らしながら無理やり体を仰向けにした弟と姉の目が合う。

 

 

 

 

 

姉の眼はとても楽しそうだった。指がどんどん首やわき腹に近づくと……イデアは観念したように目をぎゅっと閉じる。

と、唐突に体が自由になり、眼を開けると視界いっぱいに悪戯成功といったような表情の姉の顔が見えた。

 

 

 

 

 

 

「“冗談だったよ…………少し本気だったけど”」

 

 

 

 

 

 

あの時の状況を思い返しながらイドゥンは一言一句同じ言葉を返す。

呆けたような表情で見てくる弟の手を取って上半身を起き上がらせると、彼女は決意した。渡すのは今しかないと。

ベッドから素足のまま飛び降りて、そのまま部屋の隅に置いてあるクローゼットを開けて、何枚か布を引き出し……その下に隠しているそれを手に取ろうとして固まった。

 

 

 

 

 

 

「あ……れ?」

 

 

 

 

 

 

ここで気が付く。イデアに渡そうとしていたもの……マフラーがない。

どうして? なぜ? 一瞬で幾つもの疑問が脳裏で産声をあげる。

顔から血の気が抜けていくのが自分でも判る。

 

 

 

 

 

 

 

「どうしたの?」

 

 

 

 

 

 

後ろから飛んでくる弟の声に答える。少しばかり震えてしまった声が出たのはしょうがないだろう。

必死に行動を思い返し……気が付いた。そうだ、そういえば、昨日ぐらいに溜まり場で編んでいたっけ。

そのまま持って帰ってくるのを忘れたかもしれない。思えばあの時は翌日にエイナールやニニアン、ニルスと会えると思っていて、少々舞い上がっていたからそれが原因か。

 

 

 

 

 

 

 

 

「何でもないよ!」

 

 

 

 

 

 

 

自分の背に弟の生暖かい視線が突き刺さっていることにイドゥンは気が付けない。

背後で弟が今度こそ眠るために寝転がる動きをしたのを“見て”彼女はほっと安堵の溜息を吐いた。

幾らなんでもこんなのはあんまりだと思いつつ。

 

 

 

 

 

 

これは寝静まってから、取りに行く必要がある。

最悪、捨てられているかもしれないが。その時はまた1から作り直せばいい。

 

 

 

 

 

とりあえずは一度眠るためにベッドに戻る。イデアの隣に潜り込んだが、弟は先ほどの様に拒絶しなかった。

へのへのを消して、丸めていた毛布をぴっしりと伸ばしてから、手渡してくる。

 

 

 

 

 

 

 

「はい、アレ、なかなかに愛嬌のある顔だったでしょ?」

 

 

 

 

 

 

 

先ほどとは違う純粋な笑顔で毛布を渡してくる弟の顔には、わずかばかりの、何処か遠くを見るような哀愁染みた気配さえ感じ取れた。

何故だろうか、いつも彼女は弟のふとした拍子に漏れ出るこの顔に疑問を抱く。一体、どこを見ているのだろう。

 

 

 

 

 

 

「記号の羅列で、絵って書けるんだね」

 

 

 

 

 

 

 

「明日、色々教えてあげるよ。結構種類があるんだ。楽しみにしてて」

 

 

 

 

 

 

 

 

本当に楽しそうな顔をするイデアに自分も釣られて笑い出してしまう。

弟の頭を何回か撫でる。掌に流れる金糸とその温もり、手触りを確かめた後、彼女は今度こそ眠るために瞼を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜中、彼女は唐突に起き上がる。

上半身だけを起き上がらせて室内を見ると、眠る前よりもその色を濃くした月の赤が部屋を薄暗く照らしていた。

グロテスクとも取れる、煌々とした紅。今まで見たことがない程に濃い色の満月。

 

 

 

 

 

 

 

「よし……」

 

 

 

 

 

 

隣で眠りについている弟の姿を確認し

熟睡している所までを確かめた彼女はなるべく物音をたてないように細心の注意を払いつつベッドから抜け出す。

しかし毛布から体が離れた瞬間、全身を凍える空気が包み込み、思わず小動物の様に身震いしてしまう。

 

 

 

 

 

 

とがった耳が体温を逃さない為なのかは判らないが、意思とは無関係にぺたんとへ垂れる。

がちがちと震える歯を意思の力で抑え込みながら彼女は四苦八苦しつつ紫色の厚手のローブを着こむのに成功した。

ふーと息を吐き、全身を抱きしめるように身を竦ませて体内に熱を貯めてから動き出そうと決意。

 

 

 

 

 

足も暗がりで躓いて転倒などしないために何時も履いているサンダルではなく、しっかりとした革製のブーツを装着。

 

 

 

 

 

ある程度外で活動するための熱を蓄え終えた彼女は自分の竜石を手に持った。少し意思を送ればそれは松明の様に光を放つ。

これで深夜の竜殿を歩く準備はできた。多少暗いとはいえ、竜の眼は暗闇の中に猫の様な速度で適応する。

 

 

 

 

 

 

 

目的はただ一つ。マフラーを回収し、イデアが気が付く前に戻って、それを隠すこと。

なかった場合や、一定時間探し回っても見つからなかったら、素直に諦めよう。

 

 

 

 

 

 

ふと、ここでイドゥンは一つ思い出す。最近お父さんが自分たちに言っていたことを。

余り部屋から出るな。夜の時間は部屋に籠っていろ。そして、我以外の竜を見かけても近寄るのはやめろ。

どうしてそのような事をナーガが言ったかは判らないが、きっと何か意味があるのだと彼女は判断した。

 

 

 

 

 

 

 

だからもう一つ彼女は目的の中に書き足す。誰にも見つからず、誰にも話しかけてはいけないと。当然、いや出来ればの話ではある、父にも。

見つかったら怒られるかもしれないけど、その時は全て正直に話そう。

それでも怒られたら、甘んじて受けるしかない。

 

 

 

 

 

もう一度だけ彼女はイデアに目をやった。こちらに背を向けているからどんな顔をしているか判らないが、ゆっくりと眠っている弟を。

明日、お昼でも食べてゆっくりしている頃に渡そう。そうイドゥンは決心した。

 

 

 

 

 

使いなれた扉を開き、彼女は部屋の中よりもひんやりとした空気に包まれた廊下に出る。

竜石を使って光源を確保した彼女は数歩歩きだして、首を傾げた。

紫がかった堅牢な大理石の様な素材で作られた通路の奥をじぃっと見つめる。

 

 

 

 

 

縦に裂けた瞳孔の奥底が広まり、捕食動物の様な鋭敏さを以て周囲の空気と気配を読み取るが……。

不気味だ。彼女はそう判断した。何もいない、何も感じない。空気の流れも、他者の気配も、それどころか物音一つ、熱源一個ない。

 

 

 

 

 

怖い。今自分の置かれている状況を再認識して恐怖が湧き上がってくる。

一人で暗闇の中を歩く。近くには頼りになる弟も父もいない。

何時も色々と教えてくれる精霊さえも、今日は周囲には存在しなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「……うぅ…………」

 

 

 

 

 

 

 

今自分が最も嫌いな状況に陥っているという事実を理解してしまい、戻ろうかどうか考える。

部屋に戻れば弟がいる、暖かいベッドがある、安息できる空間があるが……。

刹那の思考の後、続行を決意。ここで戻ったらきっと自分はずっとそのままだと思った。

 

 

 

 

 

足元に注意しながら進んでいく。昼間の時とは全く様相を変えた殿の中は……彼女の知る限り、今まで見てきた中で最も異質だ。

歩を進めるたびに胸の中での違和感と恐怖が膨れ上がっていく。

何度も歩いたはずの通路でさえも全く知らない樹海の中と同じように見える。

 

 

 

 

 

 

自分の家はこんなにも恐ろしかったか? そうした考えが頭をよぎる。

ただ暗いだけではない、何か筆舌に尽くしがたい別の要因さえあると思えた。

 

 

 

 

 

 

やっぱり部屋に戻ろうか。何か、嫌な予感がする。

丁度自室と溜まり場の中間地点程度にまで到着した時、彼女の心の内側は戻ろうかという感情が徐々に顔を覗かせてくる。

それは恐怖というにはあまりにも鮮明で、深く、近い。

 

 

 

 

 

 

 

それは一瞬だった。

 

 

 

 

 

 

自分が通ってきた道を振り返り、また顔を正面に戻した時に変化は起こっていた。まるで何度も弟に聞かされたちゃちな怖いお話の様に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戻した視線、目の前にいたのは深い影。比喩ぬきで自分の数倍もの体躯をもつ大男。

男の真っ赤なローブが真紅の月光を浴びて、まるで返り血の如く凄惨な輝きを放っている。

筋骨隆々の肉体に、真っ赤な髪をした男は竜独特の真紅の眼で自分を値踏みするように見ていた。

 

 

 

 

 

 

転移の術? それとも自分が気づけない程に隠れていた?

 

 

 

 

 

唐突に男が、手を伸ばし、腕を掴む。遠慮も何もないその動作によって、細い腕が軋み、骨が悲鳴をあげる。

そのまま腕を無理やり引っ張り出し、自らへと近づけようとする。そして男の足元に浮かび上がる転移の魔方陣。

 

 

 

 

 

 

「っ! 離してくださいっ!!」

 

 

 

 

 

 

 

とっさに“力”を使って男を突き飛ばし、距離を取る。本気で放たれた神竜の波動は男を蹴鞠の玉の如く軽々と弾き飛ばし、通路の端まで吹っ飛んでいく。

一瞬遅れて硬質な物体が破損する怪奇な音と、破砕音が殿を揺るがし、黄金の閃光が周囲を染め上げた。

胸の内側が痛い程に鼓動を刻み、全身の筋肉が委縮する。紛れもない恐怖を感じつつ、イドゥンは男が吹っ飛んでいった場所を注意深く睨みつけ……。

 

 

 

 

 

 

 

「───!!」

 

 

 

 

 

神竜の第六感。極限まで研ぎ澄まされたソレが危機を警告し、とっさに頭を下げて床に這いつくばる。

半秒後、矢の様に飛んできた炎の玉がほんのさっきまでイドゥンの頭があった位置を突き抜けて飛び去り、廊下の一部の床を溶解させた。

髪の毛の先端の部分が焼け焦げたチリチリという音が耳朶を突き抜け、遅れて届いた振動が背を打ち付ける。

 

 

 

 

 

 

 

【エルファイアー】だ。

冷静な頭脳の一部がそう判断を下す。かなりの魔力を込めて撃たれたソレは当たればただでは済まないだろう。

避けられると確信して撃ったのか、それとも殺す気で撃ったのか、判らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうして……!?」

 

 

 

 

 

 

 

舌がもつれたせいで大きな声は出なかった。

その代わり、腹の底から雑巾を絞るような力む感じと共に噴き出た言葉は何重もの感情に染め上げられたモノ。

顔も声も聞いたことがない男に襲われている。何か恨みを買うようなことをした覚えさえないというのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

「知る必要はないですよ。貴女はただ、神竜として産まれた勤めを果たすために弟君共々、我らの元に来てもらわなくてはいけない」

 

 

 

 

 

 

男の低く重い声が無音の殿を振わせる。淡々と紡がれた言葉の抑揚はお父さんに似ている様で、決定的に違う。

その言葉を聞いて、今度こそ背筋に今まで経験したことがない程の恐怖が走るのを彼女は感じた。

飛竜に感じた獲物としてのモノとも違う、怒った父に感じる罪悪感の混じったモノとも、弟の悪戯に感じる暖かいモノでもない。

 

 

 

 

 

 

生理的な嫌悪と恐怖。明らかに何かがおかしい。絶対にひどいことをされる。

 

 

 

 

 

 

若い竜の男。恐らくは火竜であろうと推測されるその男は首をゴキッと鳴らした。

凄まじい速度で壁に叩き付けられ、人間ならば全身の骨が粉々になっている程の衝撃を浴びながらも男には全く堪えた様子など見えなかった。

 

 

 

 

 

丸太の様に太い腕がゆっくりと音もなく動き出し……そして横凪に振われた。

 

 

 

 

 

 

【エイルカリバー】 【エルファイアー】

 

 

 

 

 

 

 

 

発生した莫大な熱と風の断層と嵐。疑似的に目視さえ可能なソレが風速でイドゥンへと迫る。

当たれば竜である彼女でさえも四肢の欠損は免れない威力の大渦。

だが、死にさえしなければ男には特に問題ではなかった。

 

 

 

 

 

後でどうせ治すのだから、死なない程度に弱らせてから連れ帰る、それが男の考え。

幾ら神竜とはいえ、まだまだ幼い竜。しかも戦い慣れさえしておらず、戦うための気構えさえない。

そんな小娘に後れをとるつもりなど男はなく、そしてだからといっての油断もない。

 

 

 

 

 

 

どれほど幼かろうが、相手は神竜。全ての竜の頂点。何をしでかすか判らないからだ。

そして時間を掛ければかけるほど、もはや竜という言葉でさえ括れないあの王が戻ってくる可能性が高まる。

男は胸中の苦い思いを噛みつぶす。あの時、ナーガに謁見した時の思い出を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目の前に熱と風の壁が突き進んでくるのを見て、神竜の頭はかつてない程に冴えていた。

 

 

 

 

 

 

どうしてこんなことに。

私が何をしたの。

助けてお父さん。助けてイデア。

 

 

 

 

 

 

 

竜の頭を流れるのは、普段の彼女が考えそうな以上のどれでもなかった。

すなわち、どうやってこの場を切り抜けるか、だけ。純粋な生存の為だけに脳髄は過負荷を与えられ、稼動。

そのちっぽけな勇気の源泉は……これまたちっぽけな意地だった。

 

 

 

 

 

 

ここで泣いたら、あの時と同じ、弟とハノンさんの陰で震えていたあの時と。

そんな少女のちっぽけな意地が神竜を支え、奮い立たせている。

 

 

 

 

 

 

無意識に体が動く。何とかするという意思が、精神を超えて体を直接動かす。

両手でしっかりと自らの竜石を握りしめ、それを熱の壁に向けて真正面から翳すように構える。

そして彼女は思いっきり念じた。自らの力を信じるように。

 

 

 

 

 

刹那、胸の内側で燃え盛る“太陽”が主の生存の為、そして願いの為に爆発した。

竜石が黄金に輝き……そこから放たれた一条の光が熱風の断層を引き裂いた。

中位魔法同士の混合魔法、威力にして上位魔法にも匹敵するソレを単純なエーギルの放出だけで千切り取ったのだ。

 

 

 

 

 

 

熱壁の断層を突き抜けた光は霧散し周囲の殿の壁を粉々に粉砕する。

巻き上がる埃、溶けた石の煙、ちぎれ飛んだ魔法の残骸、全ての要因が重なり、通路は一寸先も見えない闇に覆われる中、必死に走った。

自室とは違う方へ。確信があった。部屋まで逃げたら、この男は確実についてくると。

 

 

 

 

 

 

そうしたらイデアまで巻き込んでしまう。ならば何処か遠くへ、男を巻くしかない。

 

 

 

 

 

 

だが男は飛竜ほど甘くはない。同じ竜である以上、男は視覚や聴覚だけで物事を見ているわけではないのだから。

床を蹴る気配、必死に逃げようとする小さな思惑、全身から汗と共に漏れ出る熱量、そして……宿した恐怖、全てを手に取る様に読み取る。

指が一本動き、ほんの小さな力が動く。小さな赤い光が固形化し、獲物を追いかける猟犬の如く残光を残して疾走。

 

 

 

 

 

 

それは男の予想通りに逃げようとする神竜の足を“躓かせ”る役割を果たす。

ただでさえ冷静とはいいがたい中、しかもこの場は力の衝突によって足場が滅茶苦茶になっていて、そんなところで一回でもバランスを崩したらどうなるか。

 

 

 

 

 

 

その結果、神竜は回った。

思いっきり右足を固形化したエーギルにぶつけた彼女はそのまま顔面から地面に叩き付けられそうになる。

慌てて突き出した両手によって手首を痛めながらも顔面を地面にぶつけることそのものは回避したが、その代わりに倒れこんだ拍子に左の膝をローブの上から擦り剥く。

 

 

 

 

 

四つん這いの態勢となったイドゥンはすぐに動こうとして、止まった。ぶるりと身を震わせて、歯を思いっきり噛みしめ、額には脂汗さえも浮かび上がり、小さく震える。

じわっとした寒さの後に、激痛がやってくる。今まで生きてきた中で痛みを経験したことのない彼女にとっては初めてと言ってもいい経験。

 

 

 

 

 

 

「っうぅぅ!!」

 

 

 

 

 

 

 

鋭利な痛みによって悶絶し、涙さえ溢れてくるが、彼女はそれを飲み込んだ。

神竜の体が答えるように傷口にエーギルが収束し、即座に皮が作り直され、跡形もなく復元。

 

 

 

 

 

そして未だわずかに残る鈍痛が竜の感覚を更に研ぎ澄ませていく。さながら追い詰められた獣の様に。

神竜は痛みの中、頭脳だけは明晰に動かし、状況を理解、分析、把握を繰り返し続ける。

落ち着かなければ、冷静に周りを見なくては。泣く前に、祈る前に、困惑する前にやることがある。

 

 

 

 

 

 

 

まだ周囲には埃が漂い、視界は悪い。逃げるには今だろう。

逃げる、これがベストだと彼女は判断している。戦って勝つ可能性など皆無以前に、自分は戦い方さえ知らない。

しかも相手はあの男一人だけではないかもしれない。いや、一人の可能性の方が少ない。

何故ならば、さっきあの竜は「我々」と言った。何らかの集団が後ろについていて、この行動もその集団の差し金……なのか。

 

 

 

 

 

 

 

我々? いや、待って。さっき、あの竜は何て言ったの?

 

 

 

 

冷静に考えを整理する中でイドゥンは気が付く。

先ほどはただ襲われていたという事で頭がいっぱいだった為に思い至らなかった言葉の意味に。

 

 

 

 

 

我々と共に。神竜として産まれた勤め。弟君共々。

 

 

 

 

 

 

 

 

──弟君共々──。

 

 

 

 

 

 

今度こそ、顔から血の気が完全に引いた。今迄とは異質の恐怖が体を蝕み、冷や汗が止まらない。

何でさっき気が付けなかったのだろう。イデアも、私と同じように狙われている。しかもイデアは今は眠っていて、抵抗さえできない状況だ。

巻き込む以前の問題。最初からイデアは危ない状況に陥っている。

 

 

 

 

 

 

 

弟が、危ない。

それだけで足元が崩れ落ちていくような、文字通り心の底から自分という存在に罅が走っていく恐怖を覚え、歯がかみ合わず、視界の焦点さえも揺れる。

 

 

 

 

 

思い起こすのは、サカの時のあの光景。悪夢の光景が、現実へと寝食を始めている。

だが、それをすぐに振り払いながら行動に移す。

 

 

 

 

 

 

彼女の胸中を支配する思いは一つだけだった。

イデアに、伝えなければ。違う、一緒に逃げなくては。

逃げて、何としても何処かにいるお父さんに助けを求めるしかない。

 

 

 

 

 

 

目を鈍く輝かさせながら神竜は、再度走り出す。

逃がさないと言わんばかりに足元に蛇の如き執念深さをもって絡みつく紅いエーギルの光を、彼女は竜石から放つ黄金の光で塗りつぶすように打ち消す。

轟々と噴き出る黄金の閃光は、火竜の真紅の光など意にも返さない様に消し去り、神竜と火竜の格の違いを教え込むように念入りに消し潰していく。

 

 

 

 

 

 

 

 

既に廊下を走って逃げ切るつもりなどなかった。彼女は、走るのに邪魔なローブを破る様に脱ぎ捨てて、手近の窓から思いっきり躊躇いもなく身を投げた。

ここは竜殿、ベルンの山脈そのものをつくりかえて作られた巨大な王都であり、城でもある、故に窓の外は切り立った崖。

頭から真っ逆さまに雲を風を切り払いながら落下しつつ、竜石を握りしめて力を発動。

 

 

 

 

 

 

 

背に顕現させた4枚の翼で浮力を生み出し、逆さまだった頭を上に向けて態勢を立て直し、彼女は飛翔した。

薄いワンピースだけを着こんだ今の姿では夜のベルンの風は寒くてたまらなかったが、そんなことを気にする余裕はない。

 

 

 

 

 

 

高く、高く、まずはどこまでも高く。

山々を飛び越え、雲を突き抜けて、月光だけが支配する星空へ。

遥か眼下に見えるのは地平線の果てまで続くベルンの巨大な竜殿。

 

 

 

 

 

 

彼女の“眼”と直感が幾つかの物体の接近を捉えた。赤黒い夜天を舞うように軽やかな速度で移動する存在が近づいてくる。

意識として向けられるのは無機質な、そう、それこそ石造の様な冷たい害意。

そしてイドゥンの耳朶を揺らすのはあの、もう聴きたくないと思っていた掠れた鳴き声。

 

 

 

 

 

 

───ギ、ギギギギギギギギギギ、ギィイイ

 

 

 

 

 

 

 

黄金の眼が、爛れた光を放っている。空気をかき混ぜて羽ばたくのはただ飛ぶという事のみに特化した野生の獣の翼。

赤黒い色彩の甲殻に包み込まれ、宙を悠々と征服する存在達が造物主の命令によって神竜を追撃し、追いすがる。

 

 

 

 

 

 

 

【モルフ・ワイバーン】

 

 

 

 

 

ソレは劣化型戦闘竜であり、量産の出来る使い捨ての航空戦力。

一体一体の力は人間の戦士数人分程度だが、この存在は……使い捨てであり、その数はとてつもなく多い。

本物の飛竜と同じく数頭単位の群れで行動するモルフ・ワイバーンが涎を撒き散らし、その萎びた果実の表皮の如き喉を鳴らし、神竜に食い掛かる。

 

 

 

 

 

 

ズラッと口内に規則正しく並んだ鋭利な牙は肉を噛み千切り、咀嚼するためのもの。

彼らは神竜を殺すなとは命令されてるが、傷つけるなとは命令されていない。

殺しさえしなければ、どうなっても構わない。このモルフの思考ではその程度しか理解は不可能だ。

 

 

 

 

 

 

 

「ぅ、ぁっ!」

 

 

 

 

 

 

 

小さな馬車程もある体躯が勢いをつけて突っ込んでくるのを擦れ擦れでかわしながら、イドゥンは思わず毀れ出る悲鳴を堪えた。

掠っただけだというのに、風圧で体がグルグルと回り、長髪が振り乱れ、視界が狭まる。

エーギルの力を収束し、輪っかを作る。両手で未だに背中でブラブラと揺れている髪の毛を根元から掴み、輪を用いて固定。

 

 

 

 

 

先ほど転倒した際に痛めた両手の手首が鈍痛を発し、顔を歪める。視界と“眼”に映るモルフ・ワイバーンは3体。

だが更に“眼”を広めると、殿の内部に数えるのさえも億劫に感じるほどの莫大な数のワイバーンの反応が見えて、頭痛さえ覚えた。

まるで、そう、これではまるで戦争の準備でもしているようじゃないか。

 

 

 

 

 

 

一定の距離を保ちつつも淡々と狙いを定めていたワイバーンの一体が我慢の限界だと飛びかかってくる。

首を伸ばし、猛禽類が獲物を捕食する際に見せるのと同じような一切の慈悲のない攻撃。

それはまるで、あの日サカで見たアレらを彷彿……否、全く同じ動きだった。

 

 

 

 

 

 

ハノンさんを食べようとした。弟を、家族を傷つけた。あの飛竜たちと同じ存在が、今度は自分を狙っている。

その事実にふつふつとよく判らない、しかし決していい感情ではないモノが湧き上がり、喉元から飛び出しそうになるのを抑え込む。

竜はその感情を理解できない。産まれて初めて味わう心の動きを、竜は判らない。

 

 

 

 

 

 

 

エーギルの質量が跳ねあがる。感情の荒波を燃料に、燃え上がり、膨らんでいく。

黒い、理解できないソレが解放を求めて暴れ狂う。ほんの少しだけ、抑えきれない一部の感情をエーギルに込めるようにイドゥンは飛竜へ打ち込む。

 

 

 

 

 

 

黄金の波動。圧縮された光は物理的な破壊さえ伴い、一つの大岩となり飛び立ち、光速の嵐となる。

ギギギギギギという何か、金属質なモノが捩じれて行くような音と共に波動は神竜へ反逆した愚者を飲み込むべくその勢いを増した。

大渦を巻き、嵐を極小化したような様相の光の波動は、飛竜2体をまとめて飲み込み、その存在の一欠けらも残さずに世界から消去。

 

 

 

 

 

 

幾つかの雲を突き抜けて光の渦は地平線の彼方に消えていってしまう。

 

 

 

 

 

「……はぁ……はぁァ……ハァ……」

 

 

 

 

 

 

 

それを見届けると同時に全身を虚脱感が襲う。呼吸をすることさえ億劫な程の脱力状態。

魔力として計算して放出したわけでもなく、竜化さえしていない状況での純粋なエーギルの放出の負荷が一気に体に伸し掛かり、神竜の体を苦しめ、視界をぼやけさせた。

 

 

 

 

 

 

 

残り一匹のモルフ・ワイバーンは仲間が跡形もなく消えてなくなるのを見て、逃げるように距離を離す。

戦闘では勝てないという事を理解し、ならば攻撃をよけつつ監視の役割を果たすべきだと判断したのだ。

上空に自らの存在位置を示すように何発か火球を吐きつけ、黄金の眼で神竜を睨みつけ、唸りをあげる。

 

 

 

 

 

 

 

 

後1体、あれを急いで何とかして、逃げなければ……そう、彼女が考え付いた瞬間──。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ご苦労」

 

 

 

 

 

 

 

ワイバーンの首が唐突に“捩じり飛んだ”

間抜けとさえ見える顔をしたまま飛竜の顔が真っ逆さまに落ちていく。

特殊な力でも何でもなく、純粋に握力で握って、捩じっただけ。

 

 

 

 

 

鉄程の硬度が鱗にはあったが、男の腕力の前にそんなものは意味をもたない。

 

 

 

 

一泊遅れて、飛竜の体が錆の様な微細な粒子となり、霧散し落下。

 

 

 

 

 

 

虚空にはいつの間にか男が“立っていた”

浮いているのではなく、その場、空間に足を付けて平然とした様子で上空に男は悠々と有る。

深夜の山場の冷気など微塵も感じてないように彼は周囲に暴力的なまでの存在感とエーギルを撒き散らしていた。

 

 

 

 

 

 

ついさっき出会ったばかりの男にイドゥンは無意識に、我慢しきれず問いを投げた。

彼女の澄んだ声は、かなりの距離があるのも関わらず男に届く。

 

 

 

 

 

 

 

「……どうして、私の邪魔をするの?」

 

 

 

 

 

 

 

ただ私は忘れ物を取りに行きたいだけなのに、なぜ? そんな子供のふざけた問い。

おおよそ場には似つかわしくない呆れるほどに状況を理解していない言葉に男は首を傾げた。

 

 

 

 

 

 

「……? 邪魔? 先ほども言ったが、貴女は神竜であり、我らはその力を必要としているからですよ。何も言わずについて来てくだされば、手荒な事をしなくて済むのですがね」

 

 

 

 

 

 

 

 

何でもないかの様に男は言葉をつづける。淡々かつ、浪々と。

 

 

 

 

 

 

「最悪、片方だけでもいいのです。貴女が抵抗をやめてくれるのなら、弟君には手を出さないと──」

 

 

 

 

 

 

 

言葉が完全に終わる前にイドゥンは叫んでいた。喉が割れるほどの声量で吠えるように。

敏感に、神竜の“眼”は火竜の内心で渦を巻く虚偽を見抜き、叫んだ。

 

 

 

 

 

 

 

「そんな口約束、後でどうにだって出来るじゃないですか!!」

 

 

 

 

 

 

信じられるわけがない。

幾らなんでもこっちの立場が圧倒的に悪い状況で、圧倒的に有利な相手が不利益を被ってまで約束を果たす義理なんてないと思ったから。

 

 

 

 

 

 

いきなり【エルファイアー】を打ち込んでくる様な奴のいう事など信用するに値しなかった。

それに何より、直感が告げている。ここが運命の分かれ道だと。ここで男達の元にいってしまえば……後戻りは出来ないことになる、と。

イデアも自分も何とかするにはこの火竜を何とかするしかない。その結論は簡単に出たが、どうすればいいかなど皆目見当がつかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

ぎゅっと竜石を握りしめる。やってみようか。

竜化は今まで何回もしたことがあるが、戦いに使ったことは一度もないが……新しい可能性に賭けなくては、今の状況は打破できないかもしれない。

そんな必死の覚悟の神竜を男はやれやれと、聞き訳が悪い子供を叱る親の様な口調でなだめるように言葉を告げる。

 

 

 

表面上だけ感情があるように見せかけた、何とも薄気味悪い嘲笑を顔に張り付ける男。

見ているだけで胸の奥がムラムラするような、熱さに焼かれて気分が悪くなる。

 

 

 

 

 

 

 

「やめなさい。貴女は自分の価値に気が付いていない。そんなことをして、何になるというのですか?」

 

 

 

 

 

 

男の真紅の眼にはそれが当然だという考えが色濃く映し出されていた。

神竜とは竜族の神。ならば、竜族の為にその身を捧げるのが当然の事だと。

ある意味ではそれは正しいのだろう。だが、イドゥンは訳も分からずいきなり弟と共にそんなことに巻き込まれるのは絶対に嫌だった。

 

 

 

 

 

 

 

「仕方ない」

 

 

 

 

 

 

男は懐に手を入れる。取り出すのは、真紅に、血にまみれた心臓の如く輝く竜石。

 

 

 

 

再度腕を男は凪ぐ。引き起こされるのは【エルファイアー】と【エイルカリバー】の複合魔法。

風と焔が融合し、燃え上がる竜巻が男を中心に発生。それは竜化を行う際の無防備な姿を守るための壁となった。

 

 

 

 

 

火と暴風の向こうから、声だけが淡々と飛んでくる。つまらなさそうに、ほんの少しばかり面倒な仕事を押し付けられた人間が漏らす愚痴の様に。

 

 

 

 

 

「先ほども言いましたが、殺しはしません。だが、手足の一本くらいは覚悟するのですね。私も、幼いとはいえ神竜の相手は骨が折れる」

 

 

 

 

 

 

 

そして……。

 

 

 

 

 

……暴力的に竜の力が膨れ上がる。

 

 

 

 

 

 

森羅万象を塗りつぶし、焼き尽くす極光の紅がベルンを月に代わって照らす。

大気の熱が瞬時に暖められ、気圧が狂い、小さな竜巻が幾つも巻き起こり、ベルンの山々を削り取り、幾つもの草木を巻き上げた。

腹の底を揺さぶる重低音が空間を揺らし、放電現象さえ雲々の内で発生。

 

 

 

 

 

 

 

熱地獄。その言葉以外に今の状況を形容できるものなどない。

男が竜の力と姿を解放した結果、穏やかな上空の世界は噴火寸前の火山の火口を思わせるほどの熱によって重々に塗りつぶされたのだ。

 

 

 

 

 

 

その熱源となる【火竜】の姿は……多くの人間が竜と言われてまず初めに思い浮かべる姿そのものだった。

 

 

 

 

 

 

山など一跨ぎで超えてしまいそうな、天を突く巨躯。炎を凝固した真紅の鱗と甲殻。

背から噴き出るのは膨大なエーギルを具現化した物質はおろか、空間さえも焼いてしまう生命の炎、そしてそれによって形作られた翼。

 

 

 

 

 

古の時代から存在し続けた純血の火竜の、完全なる降臨だった。

真紅の縦に裂けた瞳孔がギョロギョロと動き回り、イドゥンを見つめて……吊りあがった。

冗談のような規模のエーギルの塊が、ちっぽけな少女を見たのだ。その威圧感は、並の人間ならば眼を合わせただけで狂うか、もしくは生命活動を停止してしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

透き通るほど澄んだ瞳の中に映る自分の顔は、恐怖と絶望が絶妙なさじ加減で混ざったモノ。

闘いの方法など、彼女は判らない。どうやって相手を倒せばいいかなど、覚えていない。

だが、やるのだ。やるしかない。やらなければ……私だけじゃなく、イデアさえも酷いことをされる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは、ダメだ。絶対に阻止しなければならない。何時も何時も苦労を掛けてばかりの弟に、また何も返せないなど、嫌だ。

今、弟を助けられるのは自分だけなのに、その自分が諦めてどうする。

既に何回も念話による呼びかけは行っているのに、何かに妨害されているように声は届かない。

 

 

 

 

 

ならばこそ、自分の手で助けに行かなくてはいけない。今、この場で動けるのは自分だけなのだから。

 

 

 

 

 

強く握りしめた竜石に祈る。

竜化を行う為の前準備、石から力を引き出す為の前動作。

けた違いの量の黄金のエーギルが石から体に流れ込み、力があふれ出る。

 

 

 

 

 

 

黄金色の球体が現れ、それはイドゥンを包み込み、その身を変化させていく。

爪が、翼が、鱗が、そして四肢が人のソレから、竜のソレへと回帰する。

 

 

 

 

 

 

 

 

もしも、イドゥンにもう少しだけ、実戦経験などがあれば、敵の前で呑気に竜化を行う等という隙だらけの行為はせず、男の様に何か防護策を打つのだが……もう遅い。

 

 

 

 

 

 

……火竜がその咢を開いた。口内で蠢くのはこの世の何よりも熱く、防御など意味を成さない竜の極火。

竜は、神竜の力を決して軽んじてなどいない。故にもっとも手っ取り早く倒すための方法として、この瞬間を狙っていたのだ。

 

 

 

 

動けず、竜化さえ完全ではない状態の神竜を、火竜はためらいなく攻撃する。

 

 

 

 

 

瞬間、絶大な量の火がベルンの空を“焼いた”

紅という紅が、灼熱のブレスとして竜より放出され、それは原初的な燃焼という概念を世界へと刻み込む。

防御など無意味。回避など不可能。ましてや相殺など出来るわけがない。

 

 

 

 

 

 

絶対の終わり。竜の怒りに触れた全てを消し去り、消滅させる吐息。

それが容赦なく竜化を行っているイドゥンへと吹きつけられた。

業火に対応するように黄金が膨れ上がったが、それさえも焔は容赦なく飲み込む。

 

 

 

 

 

 

時間にして瞬き数回分だろうか。

だが、一瞬でいかなる金属でも気化するほどの熱の暴力の前に、その刹那はあまりにも長すぎた。

竜がブレスの照射を停止する。ガァンという重厚な音を響かせ、凶悪な形状の牙が上下でかみ合わされ、漏れ出る火を噛み砕いた。

 

 

 

 

 

 

 

未だに熱を孕んだ空間が沸騰している中、徐々に焔の残滓が消え去り、視界が戻っていく。

 

 

 

 

 

姿を見せるのは、黄金の発光体。

薄い布の膜を塗り固めたようにも見える球状の繭に、罅が走り、中から神竜がその姿を現し、掠れたうめき声と共にイドゥンは何とかその場に滞空する。

 

 

 

 

 

全身が引きつる様に痛い。体内の大切な何かを丸ごと持っていかれた様な重大な喪失感。

 

 

 

 

 

「い、……いぃ……うぅぐぅ…………」

 

 

 

 

 

 

竜化を途中で妨害された結果、その姿は人と竜の姿が入れ混じったモノとなってしまっていた。

背から生える翼は4枚とも大きさが無茶苦茶になり、頭部からは何本かの角が突き出ている。

ぼろ布同然となってしまった衣服の所々から見える素肌は竜の鱗に覆われてこそいるが、それは黒く焼け焦げ、痛々しい火傷の後を晒している。

 

 

 

 

 

ブレスが直撃する寸前、彼女は完全な竜化を放棄し、竜化に使用するはずだった全ての力を全力で防御に注ぎ込んだのだ。

魂という概念さえ焼き尽くす焔を前にありったけの力を込めた防御の膜はボロボロと崩れ落ちていったが、それでも彼女は諦めなかった。

光の膜が崩れる度にそれを補うために新しい膜を編み上げ、それを以て熱から身を守り続けることを繰り返し続けて、何とか命を紡ぐことには成功した。

 

 

 

 

 

 

命だけは、だ。正直な話、今の彼女は気力だけで意識を保っている。

最後の半秒は、膜の生成が間に合わず、まともにブレスを浴びることになったが、幸運な事に一部竜化した部分で顔などを守ることによって失神こそ免れたが、全身は今も熱によって犯されている。

火竜のブレスは、物理的にだけではなく、エーギル、魂さえも焼いてしまう効果があり、その力は神竜の持つ力を何割という単位で削り取っていた。

 

 

 

 

 

 

 

全て、火竜の計画通りに物事は進んでいた。力の消耗具合も、何もかも。

これは戦いではなく、作業だった。獲物を弱らせ、捕獲するための。

 

 

 

 

イドゥンは竜の眼を見る。そこにあるのは冷ややかな観察の視線と、もう諦めろという通達。

モノを見る目だった。知的生命体を見る目ではなく、利用できる剣や書物を見るのと同じ瞳。

その眼の中に、もしも捕まればどうなるかの末路が見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………!」

 

 

 

 

 

 

 

痛みが多すぎて、体の何処が痛いかさえ判らない。

お気に入りだった衣服は黒く炭化し、焼け焦げた布が肌にひっついて動くたびに皮を引っ張られるような違和感と鈍痛を刻む。

 

 

 

 

 

 

 

「これぐらい……!!」

 

 

 

 

 

 

全然痛くない。まだ大丈夫。そう言葉に出そうとしても舌が動かない。

腕を振るわせ、拳を握りしめる。少しでも気を抜けば視界は暗転し、体は崩れ落ちそうだった。

体内に“眼”を通せば、吹き付けられた火竜のブレスの炎は今も深く心身を侵食し、体細胞からエーギルへと刻まれた火傷を悪化させていくのが見える。

 

 

 

 

 

 

 

 

ここで、この竜を退散させて、イデアを連れ出し、お父さんの元へ行く。

そして、そして明日も変わらない日常を送る、そのために、今自分は頑張っているし、これからも頑張れる。

愛すべき平穏の謳歌と、何処までも続く愛しい家族との生活、それこそがイドゥンの願いの全て。

 

 

 

 

なけなしの力を振り絞り、体内に残ったエーギルを片手に収束。圧縮された波動は極小の黄金の玉となり浮遊。

力を手に集める度に竜化が崩れ落ちるように解けていくが、そんなことは気にしてはいられなかった。

最低限翼だけを残し、全ての力と意思をかき集めた純粋な力の収束体を見て、神竜は悔しさに顔を歪める。

 

 

 

 

 

 

 

 

ニニアンの握りこぶしよりも小さく儚い光の玉が、今自分が持っている力の全て。

 

 

 

 

 

火竜が再度咢を開く。深淵を思わせる喉の奥から吹き上がってくるのは竜の業火。

殺しを目的としないソレは先ほどに比べて多少威力こそ落ちているが、それでもまともに受ければ今度こそイドゥンは全ての力を削り取られ、動くことさえできなくなる規模の力の濁流。

そして竜は最後の締めとして吐息を一切の慈悲を含まない思考の元に発射。

 

 

 

 

 

イドゥンに迫るのは“焔”という概念を抽出し、濃縮した真っ赤な壁。大気を凄まじい速度で消耗し突き進む熱波。

無慈悲に吐きかけられたブレスに向かい、神竜はただ一つ、全てを込めた球を撃ち込んだ。

黄金と紅が空で衝突する。一瞬の膠着の後に、黄金は熱の壁を切り裂く。

 

 

 

 

 

 

焔が切り裂かれ、真っ二つに裂けていく中、黄金の波動玉は勢いを全く落とさずに天を駆け抜け、そして竜へ直撃。

轟音と閃光が世界を埋め尽くす。そして、次に訪れるのは完全なる無音。

 

 

 

 

 

 

世界から、一切の音が消えてなくなったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

一泊の時が過ぎ去り……世界が戻る。

そして怒りに満ちた号砲がベルンを揺らした。

 

 

 

 

 

 

光が収まり、現れた火竜は頭部の一部の外殻を砕かれ、肉が露出し、片側の眼球は潰れてしまい、血が噴き出てこそいたがそれでも致命的な傷ではない。

潰れかけた瞳に力が収束し、修復を開始。不気味な肉がうごめく音と共に眼球が膨れ上がる様に再生し、ギョロリと動き回った。

瞼の再生を行う最中の真ん丸な眼が神竜を無機質に見つめ、その瞳孔が何度も何度も収縮を繰り返した後、血涙と共にぐるんっと回転。

 

 

 

 

 

 

 

竜の背から噴き出る炎の翼が形状を変える。巨大の人の手に。

火竜が宙を歩き、神竜へと迫っていく。一歩一歩踏みしめる度に、焔の腕が神竜へと絡みつこうとのたうち回る。

徐々に感じる熱波が激しくなり、火竜より感じる圧迫感が跳ねあがっていくのを理解しつつも、そんなことイドゥンはどうでもよかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうすれば? どうすればいい? 私が、今何とかしないと……何でもいい、誰でもいい───。

 

 

 

 

 

 

眼前、目と鼻の先にまで迫った竜の顔が、不気味に笑ったような気がした。真っ赤なエーギルの嵐が周囲を取り囲んでいく。

さながら、今の彼女は鳥籠に引きずり込まれた小鳥、しかも逃げられないように念入りに翼を手折られた──。

 

 

 

 

 

 

 

「あぁ…………」

 

 

 

 

 

 

 

イドゥンは息を小さく漏らす。火竜はソレを最初は諦観だと思った。諦めの悪い子供がやっと自らの使命を受け入れたのだと。

だが、彼女の左右で色が違う眼を見て、違うと理解する。

 

 

 

 

 

 

それは絶望ではない。安堵だった。怯えていた子供が、悪夢にうなされていた子供が、親に抱きしめられて浮かべる顔。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして───狩る者と狩られる者、その立場の逆転を意味している合図でもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

いつの間にか、火竜とイドゥンの間に一人の男がいた。気配も何もなく、本当に誰も気が付かない内に。

最初からいたと言われても納得してしまいそうな程に男は、一片の遠慮も見せずに割り込んだのだ。

男は空間を跨いでここに居る。それこそ遥か西の彼方、絶海の孤島に建造された人知を超過した地より現れた。

 

 

 

 

 

竜殿全体に張っていた空間転移を阻害するための大規模結界さえ軽々と砕いてナーガは降臨したのだ。

 

 

 

 

 

幼い神竜の体を男の黄金色の力が繭の様に包み込み、保護する。

同時に発動されたリカバーとハマーンの力によって全身に受けた傷と、衣服の損傷が再生し、全ての痛みがイドゥンの体より消えてなくなった。

 

 

 

 

 

紅と蒼の眼が、虫でも観察するような無機質な視線を火竜へと向けている。

人の幼子と成体の竜の間に存在する絶望的なまでな力の壁の比率は、このたった一人の男……ナーガと火竜の間に存在する壁と同じ高さだった。

 

 

 

 

 

 

ナーガは、殿へと“眼”をやる。そこに居るもう一柱の神竜を感知し……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

火竜は叫びを絞り出す。

音波が膨大な波となり、不可視の壁は世界を叩き割る声量と共に周囲を吹き飛ばしていく。

そこに込められたのは純粋な怨嗟と憤怒。

 

 

 

 

 

 

なぜ、何故邪魔をする。事は竜族全体に関わるというのに、よりにもよって、何で貴様が邪魔をする──。

 

 

 

 

 

 

かつての臣下であり、民であった火竜の全てを込めた叫びに、業火が重なっていく。

産まれるのは先ほどイドゥンへと放ったモノとは比べ物にならない規模の力が篭ったブレス。

焔の、熱の色は紅が青へ、そして白へと変貌し、その度に熱の力は数桁単位で跳ね上がり、限界知らずに放たれた際の破壊の規模だけが膨らんでいく。

 

 

 

 

 

 

 

既に紅蓮を超えて、白色化している熱の塊を神竜王は表情一つ変えずに見つめ、首を音もなく傾げた。

左手の指で小さく円を描く。ただそれだけ、たったそれだけの動作でナーガは術を完成させるに至る。

膨大な、とてつもなく膨大な純粋な“力”が数えきれない程の竜の術により増幅され、一つ一つが神域の【奥義】さえ伴い発動する。

 

 

 

 

その全てが各々の特性を合致させ、一つの術となったのだ。

 

 

 

 

 

【陽光】【流星】【太陽】

 

 

 

 

 

 

現れた5つの三角を基調とした魔方陣に黄金の光が収束。文字通り地上に5つの【太陽】が【流星】の如く現れ【陽光】がベルンを真昼間へと変える。

夜の領域は消え去り、空は青く染まり、陽気が周囲を見たし、昼間へとベルンは変貌したのだ。

昼夜の区切りなど、ナーガの意思一つで覆せるという事を証明するように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5つの太陽から放たれる黄金の閃光が世界を染め上げ、強制的にたった今創世された隔離世界の中に火竜は太陽諸共飛ばされてしまう。

問答無用の力、竜という領域を超えた正真正銘神の御業の前に、火竜の存在など意味はない。

ナーガが別の世界に火竜を送ると決めた瞬間に、彼の命運は定められた。

 

 

 

 

 

 

 

 

夜に帰った世界。後に残るのは荒涼としたベルンの闇夜だけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無音。無風。突如として目の前に現れた世界に火竜は言葉も思考も失った。ナーガもイドゥンもおらず、自分だけがある世界。

人も竜も、虫や木々もない世界。宙を浮く火竜が見るのは遥か下界に波を打つ果てのない真っ黒な大海。

上を向けば、空には無数の星々が輝く夜空があり、天には幾つもの華麗なオーロラが走っている。

 

 

 

 

 

 

 

幻想的な世界。平穏と静寂を究極まで求めた結果創世されたような世界。

月は、なかった、あの真っ赤な月はこの世界には存在していない。

 

 

 

 

 

 

 

竜が見たのは夜空の果てに、なぜか夜なのに輝く“太陽”

神竜の象徴であり、竜族が掲げるシンボルでもあるソレが……堕ちてきていた。

オーロラはソレが原因だった。太陽の膨張と爆発による影響で発生したモノ。

 

 

 

 

 

 

いつの間にか存在していた三角形の赤色魔方陣が今まで見たこともない規模、天を覆い尽くす巨大さをもって残酷に歯車として回り続けている。

 

 

 

 

 

海が、蒸発する。無音の世界が轟音に塗り替えられ、白く、白く染まる。

真の熱地獄、火竜でさえ熱さに悶え、声や息さえ出ない世界。

熱の塊は更に膨張する。融合、融合、融合、爆発、爆発、爆発を果てなく繰り返し、その先にまで至りながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──【ファラフレイム】──。

 

 

 

 

 

 

 

3つの奥義が完全に融合を果たした結果、生み出されたのは【ファラフレイム】を更に進化させた新たな禁忌。

ナーガのみが扱いこなせる魔道の究極の一つ。いかな防御も無効にし、いかなる回避も不可能。

【流星】のみならば本来乱射出来ない規模の術を5回同図に発射可能な分、そのリスクとして威力の低下もあるが、ナーガはそんなものを気にしない。

 

 

 

 

 

 

威力の低下はなく、それどころか他の奥義により数倍、数十倍の威力に高められ、更には一定の力量差のある存在の魔術的防御を完全に無効化するという効果をもった【ファラフレイム】が動く。

神竜王の【逆鱗】を踏みにじった存在への、神罰。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

飛竜の群れを消し去った際に放ったフォルセティと同位階の魔法。

アレの属性は『風』であったが、これは『火』の属性。

単純な火力ならばナーガが持つ魔法の中でもトップクラスの術。

 

 

 

 

 

 

 

世界に対する影響を考慮し、限界まで威力を削いだ【フォルセティ】とは比べ物にならない次元での破壊。

エレブで使用すれば、竜、人、はおろか大陸そのもの、否、エレブが存在する世界というレベルで甚大な被害を発生させ、何も残さない破壊を齎す術。

かつてこの術が行使された【始祖】と【神】の戦いの激しさを雄弁に物語る技。

 

 

 

 

 

 

 

火竜など、神竜王という絶対の神の前には何の意味ももたない。それを見せつけるようにナーガは竜を焼き殺すという手を選んだのかもしれない。

 

 

 

 

吹き付ける超高温高濃度のガスと生物の体細胞を微塵に粉砕する光が竜の鱗を沸騰させ、溶解させていく中、竜は叫んでいた。

“太陽”が更に膨張し、この隔離異界ごと竜を吹き飛ばし消滅させるその瞬間、意識が消えてなくなるまで、火竜は胸中で絶叫をあげて叫んだ。

眼球が破裂し、舌が溶けて、鱗、甲殻が気化する。臓腑が沸騰し、手足、肉体、細胞、エーギルの欠片に至るまで原始の彼方に完全消滅する刹那、竜の胸中を占める思いは一つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何故、あなたは我らと共に人と戦わないのだ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

閃光。白亜の光が万象を消し潰した。煮えたぎる混沌の太陽が、炸裂。

薙ぎ払い、世界を削り取っていく死の光と嵐。

 

 

 

 

 

 

 

そして、後に残るのは何もない完全なる無だけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……おと……う、さん」

 

 

 

 

 

 

イドゥンは何とか言葉を絞り出す。体の傷こそ治ったものの、今や限界ぎりぎりの彼女は呼吸さえも辛く感じていた。

膨大なエーギルの放出、灼熱のブレスの直撃、初めての戦闘による精神的な緊張感に、弟に対する不安。そしてナーガの出現による安堵によって、今にも意識は暗闇に落ちそうなのを必死に繋ぎとめている。

 

 

 

 

 

 

 

「イデ、アを……」

 

 

 

 

 

 

助けて。

 

 

 

 

 

 

口だけが確かに動いたのを最後に感じつつ、イドゥンは今度こそ意識を手放し、暗闇に落ちていった。

彼女を黄金色の繭が包み込み、ナーガはその繭の中に覇者の剣を柄から放り込む。

覇者の剣が漆黒色に発光し、空間を侵食。発動した特殊な転移の術、一切の追跡も探知も許さないソレがイドゥンを【里】へ剣諸共送る。

 

 

 

 

 

ナーガは無言で、たった今火竜の一柱を消し去ったとは思えない程に何の感情も見せない顔で殿を見やる。

もはや隠すのは不可能、いや、予定よりも計画が狂った時点でナーガは幾つかを諦めていた。

何十、何百の“眼”がこちらを見ている。いつでも戦闘が出来るほどに力を高めた全ての竜がナーガを注視しているのだ。

 

 

 

 

 

そこに宿るのは、純粋な恐怖と憤怒。王に、神に逆らう竜達は勝てないことを承知で、念を飛ばしている。

 

 

 

 

 

 

ナーガは、その光景を眉一つ動かすことなく見ていた。彼の頭にあるのは冷静に計画をどう修正し、どう動かすか、だけ。

既に演じていた親としての念など捨て去った彼はメリットとデメリットを天秤にのせて測る。

「門」と「里」の最終確認を行い、殿へと戻るのが遅れた結果がこれだ。

 

 

 

 

 

片割れは確保したが、もう一柱は既にあちらの手に落ちていると見ていいだろう。

 

 

 

 

 

 

 

助けるか? 否か? 

 

 

 

 

 

ナーガは既にイドゥンの言葉に対して考えることさえしない。彼女の手は届かない。彼女の心は届かない。

既に割り切ってしまったナーガは、姉弟を我が子として見ていない。

 

 

 

 

 

一瞬で答えは出た。

神竜とはいえ、“代わりはいる”たかが子供と、竜としての種族全体、どちらが大切か。

無駄ともいえる戦闘を行った場合の消耗。負けはないにせよ、少しばかりこの後に響くだろう。

 

 

 

 

 

 

時空の狭間を超える民達を導くためにも、自らの力は十分でなくてはならない。

それに、どちらにせよここでこの敵対する竜を根絶やしにしても、人との戦争はもはや止まらないところまで来ている。

自分に従わない人と竜を全て駆逐し、ナーガが絶対の支配者となり君臨する世界を作るという選択肢もあったが、彼はそれに見向きもしなかった。

 

 

 

 

それではまるでかつての“始祖”と同じではないか。自らが滅ぼした存在と同じことをするなど、実にバカバカしい。

 

 

 

 

 

 

もう、世界はどうしようもない状況になってしまっているのだ。人と竜が混じってしまった時点で、こうなるのは必然。

世界に存在できる知的生物は一種のみ、それが真理。

 

 

 

 

 

 

ナーガは踵を返し、転移を発動させる。黄金色の光が全身を包み込み、空間を跨ぐ刹那に、僅かな苦痛を彼は感じたがナーガはそれを気のせいだと揉みつぶした。

 

 

 

 

 

 

 

そう。愛など無かったのだ。愛などなかった。自分が両者に抱いていた感情は親が子を愛する感情ではなかった。

便利な道具を使える領域まで育てて鍛える、それが自分のやっていた事。

竜王は導き出していた答えを確認するように反芻させ、そしてエレブからいなくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何百もの竜の怨嗟の咆哮だけがベルンを揺らし続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







IFは基本的に本編と同時間軸まで進めていく予定です。
一度本編の二部の中盤ぐらいの時間軸まで書いてから、今度は本編の方を烈火前日譚、烈火本編まで進めたいと思っています。
構想の段階で色々やっていたら、どんどん暗い話になってしまいましたが、それでもよろしかったら、どうぞ。



さりげなくイドゥンと火竜の対決は、封印烈火のラスボス対決だったりします。
このIFを書くに当たって、結構これが書きたかった節もあったりします。


追伸

まさかこのお話を書いた数年後に本当に「IF」が出るとは思いませんでした。





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