とある竜のお話 改正版 FE オリ主転生 独自解釈 独自設定あり   作:マスク@ハーメルン

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とある竜のお話 前日譚 三章 4 (実質17章)

 

 

 

 

世界にこれほどまでに深い苦悩が存在することを彼は信じられなかった。

身体が痛いのではない。事実、彼は体の痛みなどどうにだって耐えられる。

問題なのは、心の奥底で願う念と、自らの理性が全くかみ合わない時に生じる“ずれ”が齎す絶苦。

 

 

 

 

 

無心で何かの作業に没頭しなければ、胸が内部から食い破られ、破裂してしまいそうだった。

 

 

 

 

 

「…………違う、違う」

 

 

 

陽の光が差さない暗闇の中、ネルガルは闇と同化したように陰惨な空気を纏ってひたすら文字を書き連ねていた。

頭の奥底まで照らし出されるような、唐突な、芸術的で、今まで彼が経験したことのない程の無数の閃きをただ、文字として書くだけの行動。

しかし、彼は喉の奥から無意識の内に拒絶の念を垂れ流していた。

 

 

 

 

稲光の様に夥しい発想が頭の中で絶えず轟雷を響かせている。

一文字一文字が、それぞれ自分を書けと叫んでいるようにも思えた。

 

 

 

善悪、正道外道関係なく彼はただ無心にその溢れる欲求を文字を描くという行為で発散していた。

 

 

 

自分でも何を言っているかよくわからない状態だが、ただ、ナニカが違うというのは判る。

喉の奥まで乾ききり、まるで今まで一度も水を飲んだ事のない人間の様に渇きを覚えるが、それも意味が判らない。

この身は一体どうなってしまったのだろう? 自己判断を下そうにも、思考も何もかもが夢うつつの様で、まるで酔ってしまったようだ。

 

 

 

 

唐突に呟くのを止めて、ネルガルは今自分が向き合っているノートに目を通した。

今まで確かに自分の指を動かしてこれを書いていたというのに、まるで初めて読んだ書物の様にその情報は新鮮味あるモノとして頭に入って来る。

本当にこれは誰が書いたものなのか、判らなくなりながらも改めてネルガルはその内容を頭にもう一度入れていく。

 

 

 

 

筆跡はやはり自分がこの文字を書いたのだと証明しているが、しかしその羅列された内容はとても自分が描いたものとは思えない。

まるで童話の中の血を啜る怪物の様な術。他者の存在の吸収と、自らの存在の進化へ至る術。

考えたことがないとは言わない。リザイアとは違う、自らの器そのものを強化する術を。

 

 

 

 

だが……それはこの世の道理に反する行為であり、間違いなく手を触れれば秩序を乱す力。

だからこそネルガルは決してソレに触れようとはしなかったというのに。

 

 

 

なのに、今、彼は……心を揺さぶられていた。

何かの意思というわけでもない、自分自身の意思で、彼は、力を求めていた。

なまじ人としての理を超えて、力を他者より得てしまった彼は頂上を知ってしまった……なのに。

 

 

 

 

なのに、ネルガルには運命が更なる力を得る糸口を与え、道を照らし、誘惑するように背を押してくる。

禁忌の道を進めと、心の底が囁いている。しかしネルガルはソレに断固として否を叩きつけた。

単にそれはダメなモノはダメだからという子供じみた理屈ではなく、損得を天秤に乗せて導き出した理屈づくしの答えだった。

 

 

 

 

 

 

「馬鹿らしい……他人を犠牲にして力を得るなど、それこそ大勢の敵を作るだけではないか」

 

 

 

 

例えば1の力を得るために何者かを犠牲にしたとして、それで10の者に恨まれたらどうする?

全くもって損得が釣りあっていない。敵を大勢増やしてしまったら、それだけ面倒事は増えるというのに。

故に彼はありえないと自らの欲望に歯止めを利かせるが……ノートを処分する気はなかった。

 

 

 

 

しかして、常に人は理屈を踏み越える。そしてネルガルは、人である。

 

 

 

もう一度最初から最後まで読み通し、少しばかり冷静になった頭でネルガルは考える。

頭の片隅では理解不可能な黒い雲が稲妻の唸りをあげて、彼に囁いていた。

 

 

 

 

“良い”や“悪い”というのは視点の問題だと。

他者から命……エーギルを奪って、それを自分のモノにするのは万人が悪だと認める行為だ。

 

 

 

しかし、ここで彼の頭には疑問が湧いて出た。

では、国家が正義と銘打って起こす戦争は正しいのか?

 

 

 

 

 

 

正義という名目で、今まで自分たちを愛し、慈しみ、守ってくれた存在を殺すのは正しいのか?

 

 

 

とつ、とつ、と、胸の内側から想像だに出来ない憎悪を滲ませて彼はくるくると果てのない迷宮を頭の中で作り上げ、自らそれを踏破していく。

 

 

 

 

 

延々と答えの出ない自問自答を求道者の如く続けているとネルガルの頭は破裂しそうな程に熱を帯びてしまう。

考えるのは好きだが、それは答えがある課題についてだけだ。

このようにどうしようもない世界の理不尽についての議論は意味がない故に好きではない。

 

 

 

だのに、思考はネルガルの意思とは裏腹に止まってくれない。

胸の内側が刺されたように熱を帯び、痛苦を訴えてくる。

この傷は、今できたモノなのか、それとも、遥か昔のモノが再び開いてしまったのか。

 

 

 

 

そもそも、今自分が抱いている黒い念は誰のモノだ?

いや、これは確かに自分のモノ……ならばこれをいつ、抱いた?

 

 

 

 

すぐにでもこのノートを焼いて捨ててしまいたいとさえ思ったが、不思議とそういう気はしない。

何故ならば力そのものは悪ではないのだ。力を得ようと思うのは、人や竜も変わらないはず。

幾ら綺麗ごとを述べたとしてもこの世は弱肉強食であり、強いモノが弱者から搾取する構造となっているのだから。

 

 

 

更に深く思う。そもそも、仮にこの力を自分が得たとして何に使うかを。

意味のない力など存在しているだけの、ただの置物と変わらない。

持ち主のいない武器はたとえそれが『神将器』だとしても、オブジェにしかならないように。

 

 

 

では、どうする? 力を得たとして、自分ならば何に使う?

ネルガルは友の顔を思い浮かべた。皆の顔を。

 

 

 

大切な友であるアトス。種族の差を超えて友情関係を築いたイデアや、メディアン、ヤアン、アンナ……。

他にも色々いる。雑談をした者、盃を交わした者、遊戯札で遊んで自分からかなりの量の賭け金をもっていった者…………。

そして自分を慕ってくれるソフィーヤとファ……二人の小さな子供たち。

 

 

 

 

ネルガルは俯いていた頭を上げて、窓から入り込んでくる光を見る。

ほんの僅かに差し込む太陽光は、まるで線の様に彼の身体の半身を照らし出した。

太陽……何もかもを照らし出す神竜の象徴にして、この世の中でも最も永遠、無限に近いモノ。

 

 

 

命を慈しみ、育み、そして反転して焼き尽くす絶対の存在。

その朧に倒錯した頭の中で、ネルガルは答えを見る……。

 

 

 

以前イデアに語った通りだ。

もう、事ここに至っては認めるしかない。

 

 

 

 

自分は力が欲しい。全ては奪われない為に。

 

 

 

 

そうだとも……すべては奪われない為に。

 

 

 

 

ここは理想郷であるが、永遠の園ではない。単純にして残酷な事実だけがある。

外部にはエトルリア、ベルン、リキア等々の国家群がひしめいており、いつその平穏が乱されるか判ったモノではないのだ。

イデアの力は十二分に信仰しているが、それでもネルガルは楽観的には考えられなかった。

 

 

 

 

彼は今まで世界を旅して様々なモノを見てきている。

エトルリアとサカの血なまぐさく、バカバカしい宗教戦争。

神と聖女の名を高らかに歌い上げて異教徒は人にあらずという絶対正義を強行した貴族達は幾万もの死者であの草原を汚した。

 

 

 

 

イリアの傭兵団たちが信頼を得るために、決して雇い主を裏切らない誓いを立て、その為には家族同士でさえ殺し合う光景。

涙を流し、唇を噛みしめて共に幼少時代を過ごした家族を槍で突き刺し息の根を念入りに止める姿。

 

 

 

例外はない。戦争はありとあらゆる場所で起こり、それ以上の理不尽は全て人がある所で産まれる。

戦争など理不尽の形の一つでしかない。

戦争がなければそれは平和と言えるのか? という答えに誰も答えられないように。

 

 

 

 

そうだ。力は笑顔を守るためにある。

彼は、この里の平和を守りたかった。

何時かイデアが行使している力と同じ次元に立ち、共にこの里の守護者になりたかったのだ。

 

 

 

 

 

 

ネルガルは暫し、呼吸を止めた。

瞼を閉じ、自分の中で轟音を立てる雷にそっと寄り添う。

もはや恐怖はない。彼は魔道士である故に、その人並み外れた好奇と分析をもって稲妻の纏う“死”の本質を垣間見る。

 

 

 

そして、彼は決めた。決めたのだ。

 

 

 

少しも、何も難しくない。

 

 

 

自分が欲しいモノを、欲しいと認めて、行動すればいいだけだ。

 

 

 

 

 

苦悩が、嘘の様に消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エレブの夜の闇はナバタにも広がっていた。

だが、この一寸先も塗りつぶし、万人を恐れさせる暗闇も彼には何の障害にもならない。

何故ならば彼は決めていたからだ。もう、恐れる必要はないと。

 

 

 

 

そうだとも。彼は決めたのだ。闇を、力を、知識を怖がるのを止めるのだと。

友がおり、守りたいものがあり、奪われたくない場所がある。

その意思を確認し、遂に一歩を踏み出した男は、恐怖をその一歩で踏みつぶす。

 

 

 

 

恐怖することは間違っていたと彼は遂に答えに至った。

恐怖を征服するのが正解であり、それを成すには力がいる。

力を以て恐怖をうち滅ぼし、不安を踏みつぶし、永遠の平和をこの理想郷に齎すのだと。

 

 

 

運命というのはただ享受するものではなく、自らの手で引き寄せるモノ。

必要な準備をし、心を開き、諦めずに努力と忍耐を重ねればソレはこの手に落ちてくる。

この里にやってきた自分がそうだったように。絶え間ない魔道の研鑽の末に竜の知識と大賢者という友はネルガルの元に引き寄せられてきたのだから。

 

 

 

 

 

彼にはもはや恐怖はない。ただ一つ、この得た力を失う事以外は。

 

 

 

 

部屋に幾つかもってきた小さな植物の花を前に、ネルガルは腕を組んで立っていた。

無造作に里の外周から詰んできた花々は色とりどりの色彩を放ち、香しく、とても美しいが今の彼にはそんな事は意味がない。

彼は花の可憐な外見よりも、その瑞々しい生命力に用があったのだから。

 

 

 

根から引っこ抜かれながらも栄養豊富な大地で育まれたソレの生命が陰る様子など微塵も見当たらない。

むしろ産まれて初めて訪れたこの苦境に決して負けるものかと奮い立つように、凛と茎を伸ばし、紅い花弁を大きく主張するように天井に伸ばしている。

 

 

 

 

花瓶に入り、必死に生きるソレにネルガルが手を翳す。

その掌に彼の魔力が集い、一つの術を成す。

渦を巻く様に収束された魔力が闇色の魔方陣を展開し、その中に刻まれた文字が不気味に発光すると同時に力は顕現する。

 

 

 

 

艶めかしく黒紫の光を塗りつぶすように発生させる術の属性は【光】と【闇】が混ざった、世にも珍しい複合属性。

命への干渉という領域は神の御業である【光】であり、それを狩りとる側面は始祖の【闇】でもある。

 

 

 

 

 

【リザイア・ハーヴェスト】

 

 

 

 

黒紫の光が迸り、それは花に照射されると同時にその威力を遠慮なく発揮してみせた。

即ち、生命力の吸収と、術者への還元である。

見る見るうちに花の全体から水分が消え失せ、色素は零れ落ち、そして天井を向いていた花弁はその自重によって床へと落下する。

 

 

 

 

太陽光を一欠けらも逃すまいと大きく広がっていた葉っぱの内部を循環する液が消滅し、茶色く染め上げられた。

瑞々しく、指で押せば押し返してくるほどもあった弾力は既になく、ここにあったのは人間で言う所の“ミイラ”だ。

生きる為に必須な根本的なモノを抜かれてしまった結果がこれである。

 

 

 

 

水分でもなく、栄養でもない……直接“命”を概念として型に嵌めた存在であるエーギルを抜かれたのだ。

だがしかし、ネルガルは頭を捻っていた。【リザイア】をベースに改良していた術は問題なく効果を発揮したはずなのだが……思った様にはいかない。

確かにエーギルを吸収したはずなのだが、自分への力の還元が上手くいかない。

 

 

 

 

元々は広く大陸にも普及していた術を改良した術式によって回しているだけあって術を組み立てる労力は少なくて済んだが

問題はここから幾つも改良を重ねて完全に別の一つの術として確立させるまでの道程だろう。

まだまだネルガルはこの程度では満足していない。

 

 

 

 

彼は一度やると決めたら、最後までやり通す男であり、妥協という文字は好まない。

 

 

 

だが今現在発生している問題は中々に頭を捻る内容だった。

確かにこの身に今目の前で朽ち果てた花のエーギルは注がれているのだが、実感が沸かないのだ。

余りに増幅した量が微細に過ぎて、普通のリザイアと同じなのか、それとも新術はしっかりと効果を発動しているのかが判らない。

 

 

 

リザイアとこの術の違いは、己本来への“器”への干渉を果たせるか否かにある。

普通のリザイアでは10ある器の中でしか効力を発揮せず、器そのものの大きさを10から11へと増やす事は出来ないが、これは違う。

他者から1を取り込み、その分だけ自らの存在を“水増し”させる効力をもつ。

 

 

 

今回の問題はその増量した分が余りにも小さい事にあった。

1どころではなく、その頭に幾つも0を重ねた分だけ自分の存在が増えたといったところで、それを実感する事は本当に難しい。

自分の体重が砂粒一個分ほど増えた所で気に掛ける者が居ないように、命が花一つ分濃くなった程度ではネルガルは術の効果を確信できなかった。

 

 

 

 

もっと数がいる。もしくは刈り取るエーギルの質をあげるべきか。

だが、このナバタには余分な命は少ない上に、イデアにもこの術が完成するまで……隠しておきたいが、やはりそれは無理だろう。

そのような甘い考えなど、竜族の支配者には全く通じないのはこの世の道理だ。

 

 

 

あの神竜はナバタ、ミスルにおいて全能の存在であるが故にどう偽装しても発覚する未来は目に見えている。

故に、一応の報告はしておくべきだろう。何も隠す必要などない、自分はこの里の為に正しい事をしているのだから。

きっと、アトスも含めた皆も判ってくれる。彼らも理想だけで世界が回っているなんて信じる歳でもない。

 

 

 

 

とりあえず今はこの術が一応の満足のいく完成を迎えさせたい。

更に平行してモルフの研究も更に進めるのも忘れてはならないというのが嬉しいながらにも、多忙で頭が痛くなりそうだ。

 

 

 

 

キシュナは一応の試作品としての役目を十二分に果たしてくれたが、それだけだ。

既にネルガルの中であの存在に対しては喜びよりも、邪険に思う気持ちの方が強くなり始めていた。

 

 

 

 

もはや“アレ”には大した価値はなくなりつつある。

沈黙の結界と、基礎的な術しか使えない……言ってしまえば戦争では余り使えない出来損ないだ。

その沈黙の結界さえもこの地にはイデアが居る限り、どうにでも出来ることを考えると本当に何の存在価値もない。

 

 

 

 

恐らく、ここから先に自分が更なる進歩を遂げた際にアレを見たら当時の自分の余りの能力の無さに憤慨を確実に覚えるだろう。

 

 

 

 

「やはり他の生物でも試す必要があるか……」

 

 

 

 

零した言葉には少しばかりの疲労が滲んでいるが、それを遥かに上回る期待が篭っていた。

この里に来てから何度も何度も抱いた念が更に強くなり、胸の内側を満たしていく。

今回の術は花には恐らくは作用したが、これが大型の植物、次に小動物や果てには人を対象とした結果しっかりと当初の効果を発揮できるかは判らないのだから。

 

 

 

 

改良点は多く、道は長い。しかしその先にはこれ以上ない程の高みと名誉がまっている。

何時の日かイデアにも並ぶ存在になり、この里と共に…………。

 

 

 

 

頭を振ったネルガルは頭の中にたまってきた雑念を振り払ってから、これからを考える。

とりあえず、ここからまた書類の山が増えるのは確定であり、今現在でもお世辞にも広いと言えない空いた空間は更に狭まる事は必須。

必要なモノと不要なモノを別ける掃除が必要となるだろう。

 

 

 

 

部屋の隅で固まっている“アレ”はとりあえずまだ捨てる気はないが、何時か邪魔になる日が来るのは目に見えている。

定期的に少量のエーギルだけを与えて、後は放置しておくという結論は既に出ていた。

捨てるにはまだ早い。まだ、ほんの少しでも絞りかすでしかないあの存在にも研究する余地が残っているかもしれないのだから。

 

 

 

 

キシュナは何も言わず、少しでも主の使用する空間を減らさない為に全身を丸めて、取るに足らない荷物の如く部屋に隅からは動かない。

そんな彼の存在は金色の瞳でネルガルを見たが、ネルガルはそれに何も返さなかったし、返す必要も感じなかった。

ただネルガルは自分の事を考えていた。これから“自分が”どう動くかを。

 

 

 

 

 

そこには被造物への興味は、自らの技術と力の確認という意味以外では全くない。

彼の視線は未来へと向いている。華々しい栄光によって光る未来へ。

 

 

 

 

 

 

「……………」

 

 

 

 

考える事が出来るモルフ……キシュナは、ただ闇の中で思考を回す主を沈黙して見守るだけであった。

 

 

 

決して自分を見ることのない主を、ずっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お姉ちゃん、きょうは何しよっか?」

 

 

 

昼下がりの何も予定が入ってない日、ファはよくメディアンとソフィーヤの家に遊びに行く事が多い。

その日も特に理由はないが、幼い竜の娘は姉妹とも言える程に心を通わせた大好きな姉の隣で寝っ転がっていた。

ソフィーヤと彼女の母が使用する寝室、そこに置かれた少女のベッドの上で二人はだらだらと過ごし、暇を潰すために頭を捻っている。

 

 

 

すみれ色の髪の毛を指先で弄りながら、混血の少女は頷いた。

彼女としても、このまま時間を無駄に使うのは余り得策ではないと知っており、出来ればもっと有意義に休日を過ごしたかったのだから。

母は今の所、学校の教師として出かけており、この家に居るのは彼女とファだけだ。

 

 

 

大きなクッションに背を預けたソフィーヤは言葉こそ少ないが、眼を細めて妹分の言葉を吟味する。

いつもの竜族の術などの勉強は……今はいいだろう。ファの学習能力を考えれば日頃の勉強と、その復習だけで十分すぎる程の学を得る事が出来ている。

何より父親であるイデアが急速なファの成長に配慮をしているのだから、そこに自分が口を挟む余地はないとソフィーヤは身の程を弁えていた。

 

 

 

 

では、何をするかと考えると……思ったより二人でやる遊びが少ない事に気が付く。

外で男の子の様に駆け回るのは得意ではないし、何より昼の今にそんなことをやってしまったらファはともかく、ソフィーヤは確実に倒れてしまうだろう。

 

 

 

 

今の時間では無理だが……もう少し、時が経過して、太陽が陰ってきたならば少しだけ外を歩くことも可能になる。

 

 

 

だが、ファとお散歩……もう何回もやった行為だが、悪くないとソフィーヤは思った。

街の散策のルートを少し変えるだけで何を発見するか変わる上に、色々なモノを興味深く眼を光らせながら観察するファはとても愛らしい。

何より彼女はこの里が好きだった。愛していると言ってもいい。陳腐な言い回しにしかならないが、この理想郷という故郷に彼女は誇りを持っている。

 

 

 

戦役後に産まれた世代であるソフィーヤはかつての竜族の超巨大都市である【竜殿】を知らないが

人と竜が寄り添うために作られたココはそれ以上に素晴らしい場所であると思っていた。

きっとファもそうだと判っており、いつか外を見る時も一緒だと決めている。

 

 

 

 

「一緒に、本でも……読む?」

 

 

 

「よむー!」

 

 

 

 

「わーい」ともろ手を挙げて喜びを表現するファを見て彼女は微笑む。

さて、何を読もうかと立ち上がり、部屋の書棚に安置されている本に向けて歩こうとすると、唐突に一冊の本がごそごそと動き出す。

ソフィーヤにまるでとってくれと言わんばかりにその分厚い冊子を差し出す本の向こうには長い付き合いである人型のリンゴが居た。

 

 

 

この本がお勧めだと身振り手振りで表すリンゴにソフィーヤは小さく頷いた。

 

 

 

「…………あ」

 

 

 

小さく驚きと想起で声を上げつつも本を受け取り、その表紙を確認する。

書かれた本の名前は……エレブ生物図鑑。

人間ではなく竜が描いたこれには馬や鳥はもちろんの事、神話時代の竜の事でさえ詳細に、まるで実際に見て書いたように深く書かれている。

 

 

 

何気なく表紙の名前に惹かれてこの書籍を借りたソフィーヤだったが、中々に時間が取れずに何時か読もうと棚に置いてあった本だ。

そろそろ返す時期も迫っているために、なるべく早急に読む必要がある。

 

 

 

かつては神竜姉弟も暇つぶしとして読んでいたソレは、長い年月の果てに今はソフィーヤ達の手にあった。

最も、そんなことを知る由もない二人は丁度良い暇つぶしの手段が文字通り発掘できたことにより、眼を輝かせる。

 

 

 

 

「これ、なぁに!?」

 

 

 

ぴょんぴょんと興奮してベッドのクッション上で小さく跳ねながらファは眼を光らせる。

興味の惹かれる対象が出来、それを知ることが出来るという事は彼女にとって最も大きな楽しみなのだから。

純粋無垢な神竜の前にソフィーヤは大きく手を伸ばして図鑑をまるで伝説の剣でも見せびらかすように翳した。

 

 

 

背後に回り込んでいたリンゴが何処からか取り出したのか、色とりどりの果物の皮を小さく刻んだ物体をソフィーヤの背後から吹雪の様に撒き散らす。

さながら今のソフィーヤの姿は舞台の上で喝采を浴びる役者の様であった。

 

 

 

「これは……生物の図鑑です………!」

 

 

 

 

胸を逸らし、姉としての威厳を精いっぱい表しながらソフィーヤは図鑑の表紙を撫でた。

正直、まだ自分でも読んだ事はないが……どうして今まで放っておいたのか判らない程にこれの中身に興味が沸いてきたのだ。

 

 

 

「“ずかん”………!」

 

 

 

 

図鑑という単語を知っていたファはその意味を口にしようとしたが、物事を表現する語呂に乏しい彼女は必死に口をパクパクさせるだけに留まった。

打ち上げられた魚の様に口を大きく開閉しながらうーうーと唸るファは、最後は諦めたのかベッドに力尽きた様に倒れ込み、今にも行き倒れてしまいかねない旅人の様な顔でソフィーヤに腕を伸ばす。

 

 

 

「ファ、しってるのにぃ……! うまく、言えないよぉ………!!」

 

 

 

断末魔の様に声を絞り出すと、ファはばたんを顔を伏せて動かなくなった。

このまま放っておけば眠りだす事を知っているソフィーヤはそれでもあえて、両手を合わせて祈るようなポーズで祈りを捧げてからそそくさと自分一人で図鑑を読む為にページを広げる。

ファとは少し離れた場所でベッドに腰掛けて、これ見よがしに音を音を立ててページを捲り始めるとファの耳がピクッと動いて反応する。

 

 

 

 

わざとらしく大仰にページの内容に頷きを入れながら読んでいるフリをすると、案の定背後でのっそりとファが起き上がった。

彼女は気配を消してそーっと背後から忍び寄っているつもりかもしれないが、ソフィーヤにはバレバレだ。

時折母が自分をびっくりさせる為だけに見せる隠行術に比べれば笑い話にしかならない。

 

 

 

時折彼女は数千歳とは思えない様な驚く行動をすることがあり、ソフィーヤはそれによって鍛えられている。

最も、自分も何回かやり返したこともあるのだが……悉く見破られる結果に終わってしまっていた。

 

 

 

 

「ずるいっ……ファにも見せて!」

 

 

 

予定通りのセリフを聞いたソフィーヤは微笑むと、自分の隣をぽんぽんと掌で叩いてファに座る様に示唆した。

一瞬もしない内にファがその場所に腰かけると、彼女にも見える様に本の場所を動かして調整。

両者が問題なく本が読めると判断した彼女はまず目次の辺りを開き、そこに書かれていた種族の多さに感嘆の声を思わず漏らしていた。

 

 

 

 

外の世界の事は知らないソフィーヤだが、これほどまでに外界ではもはや空想の生き物とさえ思われ始めた存在について綿密に書かれた書物はほとんど存在しないというのは容易に想像できる。

 

 

 

 

「あ、おとうさんだ」

 

 

 

 

目に飛び込んできた絵にファは素直に感想を漏らした。

そこに映っているのはよく知っている存在が故に。

 

 

 

まず目次から進んで最初のページに描かれていたのは太陽を背負う巨大な竜。

世界……竜族の理論では複数の大陸さえ浮かばせる球状の塊である“星”さえもその掌で軽々と握りつぶす絶対存在。

余りに強大かつ神々しく描かれた存在はもはや理屈抜きの畏怖を見る者にたたきつける。

 

 

例えそれが絵や偶像の様な製作者のイメージを混ぜ込まれたモノであっても、理屈を超越した存在は決して色あせない。

太陽として万象を照らし、見通し、掌握する神の姿を見てソフィーヤは無意識の内に息が詰まった。

神竜としてはイデアとファしか知らない彼女だが、イデアは自分は先代に比べれば遥かに弱いと言っていたのを知っている。

 

 

 

ならば恐らくこの神は先代の姿なのだろう。

ソフィーヤはほっと胸をなでおろすように息を小さく吐く。

正直言ってしまえば、少しだけ怖いというのが彼女の感想だ。

 

 

 

半分とはいえ、竜の血が身体に流れる彼女は無意識の内に他者よりも深く神竜の波動に飲まれてしまった。

なまじもう半分が人の血であるというのも含めて、人としての原初の恐怖と竜の根源に刻まれた畏怖を同時に抱いてしまうからこそ。

 

 

 

理屈など意味をもたない絶対の超越存在に対して人々は恐れ、敬い、そしてそういうモノだと割り切るしかないという事がよくわかる。

この絵を描いたものはかなり腕がいい。所詮はただの絵だというのに、古の神の威光を現代にまでこうして残し続けているのだから。

 

 

 

 

「お姉ちゃん、どうしたの?」

 

 

 

 

「いえ……何でも、ない……」

 

 

 

 

横から覗きこむファの顔にソフィーヤは微笑んで答える。

所詮は絵であり、文字の羅列だけで読み取れるのは表層部分だけ。

こうして2柱の神竜と近くで接してきたソフィーヤからすれば、竜にも性格があり、個性があるということは当然の様に思えた。

 

 

 

 

では、この本の竜は一体、イデアの父であり先代の長はどんな性格をしていたのだろう。

だが、とソフィーヤは頭の隅に沸いてきた興味を振り払う。

500年の付き合いで、イデアが自分の親の話題になると露骨にその話題を逸らそうとし始めるのを彼女は知っている。

 

 

つまり……触れられたくない事なのだろう。

そこにみだりに踏み込むのは良くない事だと彼女は思う。

 

 

 

 

「ファもいつかお父さんみたいに、こうなれるのかな?」

 

 

 

最初に言葉をあげて以来、沈黙しながら神竜の絵画を見つめ続けるファの言葉には何時もの天真爛漫さはなく、低い声であった。

微かな気配の変化に気が付いたソフィーヤは包み込むように、丁寧な言葉で返す。

 

 

 

「なれるわ……どれほどの年月を経ようと……必ずね」

 

 

 

 

「そのとき……お姉ちゃんはいっしょに喜んでくれる?」

 

 

 

 

ソフィーヤは一瞬だけ言葉に詰まった。

ファが完全なる神竜に至るまでの時間と自らの寿命を考え、ファの大人になった姿に立ち会えるかどうか判らなかったから。

地竜の血は半永久の時間を与えてくれるが、真なる永久である神竜と同じ時間の間共に居られるかは不明だ。

 

 

 

だが、とソフィーヤは自分自身に喝を入れた。

ファは恐らく半分は察しているのだろう。かつての自分がそうだったのだから、その思いは手に取る様に判る。

外見の幼さからは一見すれば想像できない程にこの妹の様な子は物事の本質を見抜く力をもっているが故に、ここで変に誤魔化せば……きっと傷つく。

 

 

 

だからと言って他者の心を顧みずにヤアンの様にただ真実だけを突き刺すように言うつもりもない。

 

 

 

彼女は神竜の手を取り、その翡翠の瞳を見つめながら自らが出した答えを言う。

終わりは逃げられない故に、そこに至るまでに何をするかと。

 

 

 

 

「私は……いなくならないです……おばあさんになっても大きくなったファの隣にいるから……約束、しよ?」

 

 

 

 

イデアから教わった約束の儀式を行う為にソフィーヤは小指を差し出した。

何でもこれは自分と相手が小指同士を絡ませて上下に振りながら祝詞を唱える契約の儀式とか。

魔術的な拘束はないが、生半可な覚悟では行わなれない、真に信頼しあっている者同士の契約確認の為に行われるコレは今こそ相応しい。

 

 

 

「やくそく……うん……やくそくして!」

 

 

 

ソフィーヤの真摯な言葉に自らが望んだモノを手に入れたと朧に理解したファは大きく頷いた。

死という概念に対して未だに理解が及んでいない彼女であるが、その別れに対する恐怖が少しだけ和らいだ故にその笑顔は何時もよりも眩しい。

 

 

 

ファは嬉々としてそこに自らの小指を絡めた。

彼女もイデアから概要は学んでいるらしく、説明する手間は省けた。

 

 

 

「……ゆーびきーりーげんまーん」

 

 

 

 

ぶんぶんと大きく腕を上下に振りながら二人は声を斉唱させる。

透き通った甲高い声が部屋に響き、その締めに向かって止まらずに流れていく。

二人の少女の誓いをただリンゴだけが黙って聞いていた。

 

 

 

「うーそーついたら・ぶー・れー・-すー・せんーかーいー!」

 

 

 

 

ゆびきった、と二人の声が重なり誓いが結ばれるとソフィーヤは苦笑した。

千回どころか1回で昇天する未来がありありと想像出来てしまい、その時自分の身体はきっと黒焦げのパンの様になってしまう。

最も約束を破る気など今も、そしてこれからも絶対にないから、無駄な心配であるが。

 

 

 

 

「ブレスを千回……私、黒焦げのパンに…………」

 

 

 

あ、そういえば最近は余りパン類は食べてなかったなとソフィーヤは思った。

肉やスープ類、野菜系統はいっぱい作ったり食べたりはしているが、ミートパイの系統は近頃はご無沙汰だ。

アレも母曰く人類が小麦を使った食事文化の開闢に近い時から存在していた食べ物らしく、その可能性は無限大である。

 

 

 

 

はーい、とファが手を伸ばして宣誓するように言う。

その容姿には先ほどまでの不安染みた様相はなく、大好きな親友とずっと一緒に居られるという確固たる契約を結んだ安堵がある。

 

 

 

「ファ、パンにジャム塗って食べるのすき!」

 

 

 

「……バターも、いいです」

 

 

 

 

むーとファはソフィーヤに対して不満そうな視線を向けるとソフィーヤは受けて立つようにふふんと平原の様な胸を逸らして答える。

ぐぬぬと歯噛みしながら二人は向き合うと、この不毛な戦いに決着をつける事は難しいと悟り、ソフィーヤの手に持った図鑑に視線を戻す。

何だかんだで話が飛躍しながらも最終的には最初の位置に二人は戻ると、神竜が描かれた次のページに記されている説明文を視線で読み上げ始めた。

 

 

 

太陽であり、秩序であり、絶対の神であるという文から始まる神竜を湛えた祝詞の数々にファは改めて自分の父親の凄さに興奮をその瞳に宿す。

そしてこれからいずれ自分が背負うことになるかもしれない責任の重さを確認し耳をしゅんとさせてうなだれてみせた。

が、ソフィーヤが何か声を掛ける前に彼女は直ぐにまだ時間はあるという事を思い出してしゃきっと背筋を伸ばして復帰。

 

 

 

まだまだ父のイデアから教わる事は多く、竜として若輩に分類される彼の統治はたかが500年では始まったばかりなのだ。

数百年、数千年単位でこれから知らないのならば知っていけばいいと習っている故に、ファは直ぐに頭を切り替える。

翡翠色の瞳で次のページを開く様に催促の視線をソフィーヤに送ると、彼女は頷いて手を動かした。

 

 

 

 

次にあったのは無数の小型の竜……それでも一体一体の大きさは小さな要塞や城砦にも匹敵する竜を何千と従え、堂々と振る舞う一柱の竜。

神竜に似ている様であり、何かが違うその竜の姿を見てソフィーヤの眼が過去を見る様に細められた。

父と母から彼女はこの竜の存在を教えられている。最も新しいこの竜に誰がなったのかを。

 

 

 

だがソフィーヤはそのことを自分からファに言う気はない。

これはとても繊細な問題で、何よりイデアとファの最も深い部分に根差す話になる。

彼女の父の口からいつか語られる事を自分が言ってはいけないという直感でもあった。

 

 

 

 

魔竜について一通り読み終えたファはうーんと頭を捻る。

どうしたの? とソフィーヤが聴くと彼女は心底判らないと言った顔で姉の顔を見て問うた。

 

 

 

「……なんで、仲良くできなかったんだろ? たたかうって、痛いことなのに………こわかったのかな?」

 

 

 

父から竜の歴史を学んだ際にふと浮かんだ疑問を言葉という形に昇華させ、ファは無知故に知りたいと紡ぐ。

頭を捻りながら始祖と神の戦争について考えるが、答えは出ないと直ぐに悟った彼女は、次! と大きく催促しソフィーヤはそれに答え、時間は流れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やがて一通り本の内容を読み終える頃になると、天の真上にあった日は大きくその位置を移動させており、白から真っ赤な夕暮れに近い色へとその姿を変えていた。

一種一種ごとに一喜一憂し、大げさと言える程に感想を漏らしながらの読書はとても楽しく、二人は本を最後まで読み終えると同時に余韻の中へ浸る様に後ろに倒れ込む。

ぷはぁと揃って大きく緊張が途切れた合図である息を吐くと、少しばかり疲れてしまった眼をいたわる様に瞼の上から揉み、ぐっと背伸びをした。

 

 

 

んーと唸りを漏らし、関節の各所からパキパキと音を立てて背伸びをし、次に脱力してベッドに身を委ねる。

すみれ色の長髪が大きく広がり、その毛先をファは掴んで何やらきゃっきゃと騒いでいるが、何時もの事だ。

疲れが徐々に発散されていく中ソフィーヤは早く本を返しにいかねばと思う。

 

 

明日明日と先延ばしにすると、その内記憶の中から消えてしまいそうだ。

今日出来る事は出来るだけ今日中にやってしまいたい。

せっせと本棚の中に本を戻そうと背に分厚い図鑑を背負いながら移動するリンゴを見つめ、彼女は起き上がる。

 

 

 

 

「本を……返してくる」

 

 

 

ファが聴いてくる前に宣言するとソフィーヤはリンゴをいたわる様にそっと本を持ち上げると胸にかき抱いた。

礼を言うようにぴょんぴょんと周囲を跳ねまわる家族の一員を踏まないようにしながら彼女が歩き出すとファは当然のことの様にベッドから起き上がり彼女の後に続こうとするが……。

その足取りはふらついており、平衡感覚が少しおかしくなっているのかまるで酒に酔った者の様に千鳥足となっている。

 

 

ファ自身にも自分の体調の状態が判っていないらしくその顔は混乱に満ちており、必死に真っ直ぐに歩こうとすればするほど振れ幅は大きくなっていく。

終いにはリンゴに引っ張られる形でベッドの上に横になった彼女は仰向けで天井を凝視しながら言う。

 

 

 

「あ、あれ? めが……ぐるぐる……ぅ……ど、どうして?」

 

 

 

 

「本を読んで眼が疲れちゃった…………?」

 

 

 

数時間の間一回も休憩を挟まずに小さな活字を黙読し続ければこうもなるとソフィーヤは納得した。

彼女は既に何千冊も本をそのように読んで慣れているが、ファはまだまだ幼く眼の体力もそこまでではない。

イデアの授業の際も何回も休憩を挟んでいたが、今日は思えば講義の倍にも近い時間本を読み続けていた。

 

 

 

首と眼と肩に掛かる負担はファの身体を考えればかなりのもので、こうなっても無理はない。

事実彼女も昔はよく眼の疲れから来る疲労に悩まされたもので、今では自分の限度が何となく判るまでになっている。

 

 

 

何となく事情をいち早く察していたリンゴが姿を消すと、直ぐにぬるま湯に浸された清潔な布を桶ごと持ってきてそれを差し出す。

ソフィーヤはそれをよく絞ると熱が消えない内にファの眼を覆うように被せた。

母から教わった眼の疲れに対する対策をファに施すと、彼女は何とも言えない心地よさに手足をばたつかせて興奮したように暴れる。

 

 

 

どうどう、とソフィーヤが初めて味わう理解しがたい心地よさに歓喜を爆発させるファを宥めると、竜の少女は惚けた口調で端的に感想を発した。

穏やかに胸を上下させて半分ほど夢見心地な少女は今にも眠ってしまいそうな程に掠れた小声で喋る。

 

 

 

「これ……すごぃ……」

 

 

 

 

「“ライヴ”でも良かったのだけど、私はこっちの方が好きだから………」

 

 

 

何でもかんでも回復の杖を使えば解決となってしまえば、逆にそれが仕えない時は無力になるということ。

ソフィーヤは己がイデアやメディアンの様に万能と言えるほどの力をもっていない事は重々承知しており、魔法以外の努力すれば誰でも出来る技術やちょっとした豆知識の習得には拘りがある。

最も、ほとんどが今ファに施した様な少しだけ知っていれば生活で得をするコツの様なモノで、劇的に人生を変えるモノは一つもないが。

 

 

 

 

それに何よりこのお湯で蒸したタオルによる方法はライヴでは味わえない恍惚を与えてくれる。

ファの反応を見る限り、この幼い竜の少女も間違いなくこの魅力に取りつかれたとみていいだろう。

その姿にかつての自分の姿を重ねてから、彼女はすみれ色の髪を揺らして胸の本に力を込める。

 

 

 

 

「ファ……私は本を返してきますから、少しここで眠っていて下さい……」

 

 

 

 

返答はなく、いつの間にか深い眠りに落ちてしまっていたファに対してリンゴが毛布を引っ張り出してかけてやると一声鳴いた。

任せて欲しい、と、言語でなくとも身振り手振りで意思疎通し、付き合いの長いソフィーヤは一瞬でリンゴの言いたいことを理解した後に小さくお辞儀をして部屋を出る。

 

 

 

家の外に出ると、まだ周囲に熱気は残っているもの、昼時の猛烈な暑さはなく、吹きすさぶ風には僅かに夜の冷気が混ざり始めていた。

遠くから運ばれてきた砂埃から身を守る様にソフィーヤは身を縮めると、その中を小さな歩幅で歩きだす……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

特に何事もなく借りていた本を返し終えたソフィーヤは何となく、特に理由もないが里の外周を散策していた。

彼女の見立てでは日が完全に落ちるまでまだ少しばかり余裕があり、どの程度ならば余裕をもって家に帰れるか知っている。

比喩ではなく本当に何万回も歩いた道のりは体に覚え込まれており、例え夜であっても彼女は鼻歌交じりに迷う事などなく悠々と歩けるだろう。

 

 

 

何時もはファと共に色々な場所を歩いていたが、こうして一人で歩くのは珍しいと彼女は何気なく気が付く。

彼女が産まれて早くも数年という歳月が経過した事実にソフィーヤは深く考えを巡らせる。

今まで自分が生きた500年近い歳月に比べればほんの僅かの歳月、しかしもはやファがいない日々は考えられない。

 

 

 

そして逆に言えばファにとっては産まれてからひと時も離れることなく一緒に居たのがソフィーヤということになる。

イデアが最初の家族ならばソフィーヤは最初の“他人”だ。

最初の友であり、対等に話せる存在。

 

 

 

ずっと一緒にいてほしいと懇願してきたファの姿が彼女の頭にこびり付いて離れない。

 

 

 

過ごした年月の分だけ心の中を占める割合は大きくなり、同時に失った時の衝撃も大きくなる。

生気を無くしていく肌。色を失う髪の毛。水気が消え、固く濁る肌……。

日に日に死という終わりに向かっていく姿を見るのは………。

 

 

 

あの日母と彼は泣いていた。そして自分も……。

いつかはそれをファにも?

 

 

 

やめた、とソフィーヤは母親と同じように即座に思考を切り替えた。

未来を“見る”事が出来る彼女だが、そこに自分の不安や恐怖、絶望を混ぜたら碌な結果にならないことはよく知っている。

見えたというが、それは所詮は見えただけであり現実ではないのだから。

 

 

が……彼女は母の様には完全に物事を割り切るには経験が少なく、何より感性が繊細過ぎた。

見ないふりをするにはこの問題は彼女の本質で抱く苦悩と直結したモノである故に、心の何処かがじくじくと膿んでいる様に苦痛の声を漏らす。

 

 

 

気晴らしに彼女はネルガルが以前創りだした花畑に向かう事にする。

あそこの花々はとても生き生きとしていて、見ていて心地よい。

偶には一人で花畑を堪能してもいいはずだ。

 

 

 

 

物事で悩んだ時は無心で美しいモノを眺め、心を落ち着けさせるというのも一種の解決法なのだ。

一度足を止めると太陽の位置や、見慣れた岩、木々、道の風景から自分が今居る場所を直ぐに導き出し、目的の箇所までの距離を把握するとソフィーヤは少しだけ急ぎ足で駆けだす。

余り運動は得意ではなく、体力も外見相応の幼子程度しかないが、それでも彼女は半ば走る様に動く。

 

 

無性に今は普段とは違って体を動かしてみたい気分だった。

走り辛いドレスの様な衣服だが、スカート部分を腕で掴み上げて足を絡ませないように気を付けながら彼女は行く。

 

 

 

 

道なき道も含めて彼女がここいらの移動経路を知り尽くしているのと、元々現在地が近かったというのもあり、ソフィーヤの足でも特に問題なく花畑へたどり着く事は出来た。

少しだけ息が乱れてしまった彼女は髪の毛に手をやり、乱れた髪を整えると衣服に数枚ついていた葉っぱを指で摘まんで投げる。

はーはーと呼吸を整えてから彼女は頭をあげ、目的の場所を視界に収めた。

 

 

 

 

たどり着いた花畑は斜陽の中、美しく咲き乱れ、何も変わらずに花々はある。

静かな空気の中、僅かに生息した虫たちの鳴き声が鈴々と場を震わせ、静謐な世界を演出し、幻想的な世界を彩り飾る。

 

 

 

 

数歩花畑に近づくとソフィーヤはふとした違和感を覚えた。何もおかしい所などないというのに。

眼の奥から何かがじくじくとこみ上げて来て、それは朧な幻影として彼女の視界を侵食していく。

何度も体験した無秩序な力の発現。未来視が彼女の意思とは関係なく動き出し、数ある世界の一つを見せようと動く。

 

 

 

 

猛烈な砂嵐でも吹きすさんだように視界が消えていく。

最初は端から、やがては左右上下を埋め尽くす情報がソフィーヤに未来を否応なく流し込む。

周囲の時間が彼女だけを置き去りにし何倍もの速度で進み出し、世界はその顔を変える。

 

 

 

 

闇だ。真っ黒な闇が何もかもを飲み込んでいく。

水玉の様にまん丸い闇が炎で炙られた紙に浮かぶ焦げの様に世界を塗りつぶす。

 

 

 

 

闇は語る。

黄金の輝きは永遠ではない。いつか汚れ、曇り、埋もれる。

しかし闇は永遠だ。世界の始まりも終わりも、絶えることなく影はそこに在る。

 

 

 

夜よりも深く、泥よりも濁り、黒曜よりも純粋な深淵は何人にも止められない。

太陽が陰り、草花が飲まれ水は枯れ、世界は黒で埋め尽くされる。何もない、原始の混沌へと戻り行くのだ。

は、は、と動悸を激しくしながら彼女は何かに取りつかれたようにその光景を観測していた。

 

 

 

 

見ているのではない、観測しているのだ。もはやソフィーヤの意思も願いも関係ない。

半ば暴走したように発動を止めない未来視は能力の持ち主が死んでも構わないと言わんばかりに終わりと絶望を与えてくる。

瞼を閉じようと瞼の裏側に閃光がはじけまわり、それは無数の色彩を伴って爆発。

 

 

 

余りの視界の移り変わりの速さに吐き気さえ覚えるが、それでも止まらない。

 

 

 

身体に流れる地竜……暗黒竜に至る事が出来る存在の血がコレが何なのかを教えてくれた。

言葉にせずとも理解できる。もはや本能の域で彼女は把握してしまい、流れ込む膨大な闇に眩暈と頭痛を覚えた。

立つこともままならず、震える膝は身を支えることが出来ずにソフィーヤは座り込む。

 

 

 

 

彼女は“終わり”を見ていた。万象が終わる光景を。

それは火山の噴火や疫病の発生などで起こるものではなく、絶対の黒が全ての色を上書きして完了する。

本能を刺激し、掌握する恐怖を前に悲鳴さえ上げることなく彼女は息を乱れさせ……意識が地平の彼方に飛びかかる……。

 

 

 

 

そして、唐突に何者かに肩を叩かれた事によって未来視は終わりを告げる。

暖かい人肌の温度を感じる事が出来た安堵は彼女を深淵から引き揚げた。

 

 

 

 

「大丈夫かい?」

 

 

 

 

目線を動かせば、そこに居たのはネルガルであった。

久しくあっていなかったが、彼の姿は何も変わらない。

温厚な人を安心させる声と、心の底から心配しているのが判る真剣な顔。

 

 

 

今のソフィーヤにとってはそれは正しく救済にも等しい。

何を見たのか自分でもよく判らないが、ただ恐怖だけは残っている。

余りに想像を超える情報は既に彼女の処理能力を超えてしまい、一部はよく思い出せない。

 

 

 

ただ、恐怖だけが噛みついている。

黒く塗りつぶされてしまったモノは、見えないし、思い返すのを無意識が拒絶している。

 

 

 

 

「………………」

 

 

 

 

こくこくと、精いっぱいの感謝を込めて頷くと彼はまだ心配そうな眼をソフィーヤに向ける。

震えが残っている少女の身体に対して彼は自らのマントを脱いで羽織らせた。

その後も彼は辛抱強くソフィーヤの恐怖が完全に抜けきり、平素の自分のペースを崩さない芯のある女性に戻るまで待った。

 

 

 

そうしてから彼は出来るだけ慎重に、優しく、言葉を選びながら話しかける。

 

 

 

「何があったんだい? 怪我をしたのか? メディアン殿を呼ぶ必要も───」

 

 

 

瞬間、ソフィーヤは命綱にでもすがる様な力でネルガルの腕を掴み、まるで懇願するような視線を向けた。

だが直ぐに腕を離すと彼女は何でもないと言わんばかりに平時の表情に乏しい顔に戻り、深呼吸をする。

 

 

そして深々とソフィーヤはネルガルに頭を下げた。

 

 

 

 

「ありがとうございます……助かりました」

 

 

 

 

「いや、それよりも大丈夫かい? 筆舌に尽くしがたい顔をしていたが……」

 

 

 

 

「もう大丈夫です……お見苦しい所を見せてしまいました……」

 

 

 

 

それでようやくネルガルは納得したらしく、渋々と言った様子ではあったが引き下がると踵を返して森の中に消えようとする。

彼の背中にソフィーヤは何とも言えない違和感を感じ、声を掛けた。

 

 

 

何だろうか、この……違和感は。

嫌な予感とまでは言わないが、胸騒ぎに近いモノを感じる。

彼の身に何かが起ころうとしているのかは判らない。

 

 

 

だからこそ彼女は咄嗟に声を掛けてしまっていた。

 

 

 

「あの……ここで何をしているのですか?」

 

 

 

森の木々が作り出す深い影の中に身を半分ほど立ちいれていたネルガルは足を止めるとゆっくりと振り返った。

彼は何でもないような話題を切り出すように苦笑すると、頬を掻きながら言う。

 

 

 

 

「いや……ちょっとした処理さ。小さな小屋を作って、その中にもう不要になったモノをゴミとして置いておこうと思ってね」

 

 

 

さすがにそこらへんに投げ捨てるのはダメだと思ってねと言葉を続ける彼にソフィーヤの不安は少しだけ減った。

むしろ物一つ捨てるのに専用の小さな小屋まで作りだす彼の几帳面さ、彼らしさに彼女は安堵を覚えたほどだ。

余り最近は出会っていないし、イデアはどうも彼の事で頭を悩ませているようだが、それらも杞憂だろうと改めて思った。

 

 

 

 

「何を捨てるのですか……?」

 

 

 

彼の元に歩み寄り、そう問うとネルガルはおいで、おいでと手招きをしてソフィーヤを誘導する。

深いオアシスの木々の中、周囲の草木で隠されるようにいつの間にか建てられていた木製の小屋を彼は指さした。

本当に「掘立小屋」と評してもいい程に小さく、両手の指で数える程しか木材を使わずにつくられた小屋だ。

 

 

ログハウスというには余りに小さすぎる小屋だが、それにしても何時の間に? とソフィーヤは頭を捻った。

 

 

 

ネルガル程の大人一人でも入ってしまえば中の空間の余裕がなくなるほどのソレはひっそりと佇んでいる。

まぁ、彼ほどの術者ならば何らかの方法で小屋を僅かな間に作り出してもおかしくないと察したソフィーヤは彼の指示に従い小屋の扉に手をかけて、開けた。

 

 

 

まだ出来て間もない小屋の中は新鮮な草木の匂いが充満している。

生き生きとした土のにおい、湿気を含んだ草のにおい。

 

 

 

 

薄暗い小屋の中には色々な書類や日常の道具が所狭しと置かれていた。

これら全てはもはやネルガルには必要のないモノであり、ここに置かれたモノは二度と彼が手に取る事はない。

人を超え、人としての生理現象を超越したネルガルにとっては衣服などを除いた殆どの品々はもういらないモノ。

 

 

 

そして……その中にさも当然の様に捨てられていたのは。

 

 

 

 

 

「………ぁ」

 

 

 

 

ソフィーヤはそれを見た時、最初は何かの間違いだと思った。

自分の眼も、ファと同じように疲れていてあらぬ物を見てしまったのだと。

ふわふわとした意識の中で足を運ばせて手に取ると、軽快な音を立ててソレは彼女の手に収まる。

 

 

 

ただならぬ彼女の様子に何事かと後ろから覗きこんだネルガルはソフィーヤが持つソレを見ると彼女が知ってる暖かい、人当たりのよい笑顔を浮かべて言った。

本当に気楽で肩に何の力も入っていない、完全な本心からの言葉を。

 

 

 

「ソレがどうかしたのかい?」

 

 

 

 

「どうして、これがここに……?」

 

 

 

 

ソフィーヤが振り向いて手に持った物を両腕でネルガルがよく見える様に差し出すと、彼はおどけたように肩を竦めた。

 

 

 

 

「必要ないから、なのだが」

 

 

 

 

「うそです……だってこれは……」

 

 

 

 

断固とした意志を見せるソフィーヤに対して困ったとネルガルは頭を傾げた。

彼には全く判らなかった。目の前のこの幼子がどうしてその様な“無価値なモノ”に執着するのか。

何で、受け取って欲しいと言わんばかりに両腕で抱えた不要なゴミを差し出してくるのか。

 

 

 

 

 

 

なぜ? 全く判らない。そんなかつて何故か執着していたゴミに何の価値がある?

 

 

 

 

絵描きの道具なんて捨ててしまっても問題ないじゃないか。

 

 

 

 

「ソフィーヤ、どうしたと言うんだ? やはり、何処か今日の君はおかしい」

 

 

 

 

いたわる様に少女の肩にネルガルが手をやると小さく震えた。

何か判らないが、彼女はとても不安に陥っていると察し、目線を彼女に合わせてやるようにしゃがむと、彼女の眼を覗き込む。

少女の瞳はかつてない程に揺れており、これ以上ない程に内心の動揺を表している。

 

 

 

 

頭によぎるのはイデアの言葉だ。全員そろって本格的な講義を始めた際の彼の忠告という名前の警告。

 

 

 

 

ソフィーヤはこの時に朧に理解していた。何故イデアがあそこまでネルガルに対して頭を悩ませているのか。

彼が何に警戒をしていて、竜の長としてネルガルの動向に常に目を向けている理由を。

魔道に踏み込み、禁断の叡智を貪ったモノの変質は人が認知に対する病を患った際と同じように非常に初期の変貌は判り辛い。

 

 

 

さながら地脈の底の板がずれていくように、ゆっくりと、じわじわ蝕まれるように壊れていく。

その一つの大きな分岐点が彼女の前に現れた。これほどまでに表層に変化を齎して。

頭から腹へと向けて震えが走る中、彼女は後ずさろうとして足を止めた。

 

 

 

彼女はソフィーヤだ。人と竜の混血児であり、500年の時間を生きた存在。

この場でどうすればいいかを竜としては余りに短く、人としては長すぎる経験から割り出すべく頭を働かせた。

 

 

 

 

結果は直ぐに出る。彼女は自らが無力ではなく非力なのを理解している。

この無力と非力の差は、とてつもなく大きい。

 

 

 

 

ソフィーヤはネルガルの眼を見つめ返した。

そのすみれ色の瞳には先ほどまでの怯えは存在していない。

切り替えられた頭は、冷静に対処しこの場を乗り切る為に体を動かす。

 

 

 

 

そっと、しかしとんでもない意思の力が込められて無理やりネルガルに差し出されていた絵は引っ込められた。

出来るだけ優しく、それでいて余り興味がないように演技しつつ彼女はそれらを小屋の床に置く。

 

 

 

 

 

「……いえ、大丈夫です。少し……疲れてしまって……ごめんなさい」

 

 

 

 

素直に謝罪の言葉を何時も通り、ネルガルの知っているソフィーヤとして紡ぐと彼から向けられていた不安と懐疑の念は消えた。

そしてネルガルは何処までもソフィーヤの知っている彼と同じように、大切な少女へと向けて労りの感情を宿した言葉を発する。

彼の顔は優しく思いやりに溢れていて、とても頼りになる。

 

 

 

「よく食べて、しっかりと休むんだ。この後で私が家まで送るよ」

 

 

 

 

「ありがとうございます……お願いします」

 

 

 

お辞儀をして素直に従順な言葉を言うと益々ネルガルの機嫌は良くなったようだ。

久しぶりに出会った友との会話を彼は非常に楽しんでいるらしく、立ち上がるとソフィーヤに背を向けて一言。

 

 

 

「少し、花畑に付いて来てくれるかな? 君に見せたいものがあるんだ」

 

 

 

まるで子供の様に無邪気に笑うと彼は出し物をする芸人の様に恭しく一礼。

何だろうかとソフィーヤは思ったが、今の彼が自分に危害を加える可能性は限りなく低いと判断し、頷く。

彼女の歩幅に合わせる様にゆっくりと前を行くネルガルの背を見て、彼女は彼から借りたマントの裾を強く握りしめた。

 

 

 

 

何が起ころうと、受け入れる準備を彼女はしている。

だが、締め上げられる心臓の痛みは内側で叫びをあげ続けていた。

 

 

 

花畑を一望できる地点にまで歩くと彼は踵を返し、笑う。

一点の悪意も含まない純粋無垢に。朗らかで、優しくて、魅了的な笑顔。

彼は、昔ソフィーヤに絵を譲った時と同じように笑っていた。

 

 

 

ネルガルは、水平に挙げた腕の先に複雑な魔方陣を展開し一振り。

ソフィーヤの見た事がない陣の形だ。リザイアに似ているとも見えるが、何かが決定的に違う。

 

 

 

 

瞬間、彼の誇る奇跡の御業はここに降臨する。

黒紫の澄んだ光は草花に絡みつく様に照射され、その内部にまでゆっくりとしみ込む。

すると最初は青々しい若草色をしていた葉が、次に茎が……変色していく。

 

 

 

 

先端から枯れ枝の様な、茶色く水気のない色素に変わると、最後は自重に耐え切れず黒く淀み枯れた花が地面に落ちた。

草花は言葉をもたない。だが、ソフィーヤは確かにその悲鳴を聞き取る。

未だ咲き誇るだけの余命があったというのに、無理やりにそれを奪われた悲痛な声を。

 

 

 

 

一輪、二輪、そして無数に。

見る見るうちに緑は茶色にとって変わられ、小さな光の玉だけが花畑から飛び去り、ネルガルの手中に収まる。

その輝きを彼女は知っている。命……魂とも比喩される【エーギル】だ。

 

 

 

 

どうして? とわななく口の端から漏れそうになるのをソフィーヤは懸命に堪えた。

今の彼は否定を許さない気配があった。

自らの芸術を否定されたら、どんな行動をとるか判ったものじゃない。

 

 

 

かつての彼ならば、自らの絵に対する否定、批評は笑って受け入れただろうが今のネルガルのこの奇跡を否定することは許さない。そんな気配が彼にはあった。

呆然と一瞬の内に灰の様に色素を無くし、頭を垂らした花園だったモノを見るソフィーヤに彼は言う。

 

 

 

 

高らかに腕を掲げて、演説するように。

片手に無数の、小さいながらも確かな命の光を奪って握りしめながら。

男はまるでソフィーヤの知らない存在にも見えた。

 

 

 

ただ、ただ誇らしく奪ったエーギルを掲げてソフィーヤに見せつけた。

 

 

 

 

「どうだい? 素晴らしい光景だろう?

 今はまだこの程度の事しか出来ないが、やがて私はイデア殿にも匹敵する力を得る事が出来る……。

 この“力”があれば、この里の防衛は更に完全に近づく。永遠の理想郷を守る事さえ出来る様になるんだ」

 

 

 

 

「………………」

 

 

 

 

今の彼の所業と姿はソフィーヤの決意を軽々と上回り、少女から言葉を奪う。

 

 

 

何を言おうしたのか判らないが、ソフィーヤは頭を真っ白にし無意識に首を振った。

外の世界では戦争があり、人の命が容易く奪われる事も知っているが、これは……ソレとも違う。

人を武器で殺すのと、魔術で殺す、謀略で、悪意で殺す……それらとも違う、もっと恐ろしい事の様に思えた。

 

 

 

 

それを見たネルガルは本当に不思議そうに首を傾げた。

彼はソフィーヤがこの術の威力に失望していると思い至り、弁明するように言葉を吐く。

 

 

 

「まだこの術は未完成でね。草木ならばともかく、動物のエーギルを回収するにはまだ研究が必要なんだ。

 だが、待っていて欲しい……私はきっとやり遂げて見せる。その時になったらもう一度────」

 

 

 

ネルガルの言葉は剣の様にソフィーヤの心に突き刺さる。

命への感謝を忘れかけている彼……絵を捨てた彼……そして力を求める彼。

眼を逸らそうと現実はここにある。未来でも過去でもない今が。

 

 

 

すっと手を伸ばしてくるネルガルにソフィーヤは身を震わせた。

悪意も何もない。今まで何度も撫でてくれた男の腕。

かつては温かみを感じたそれが、今は得体のしれない化け物の怪腕に見えてしょうがない。

 

 

 

 

彼の眼の中に本当に不思議そうな光が宿った。

彼はソフィーヤの恐怖を読み取りながら何に恐怖しているのかが判らなかった。

ただ、剣呑な光だけが瞳の奥で胎動を始めていた。

 

 

 

場の空気が砂漠のそれとは違う種類の、敵意で凍り付きだす。

理を超過した人外の術者ともなれば気配だけで物理的影響さえ周囲に出せるのだ。

 

 

 

 

どうしてそんな目で私を見る。

何より、この小さな幼子の不安そうな顔を見ているとたまらなく不愉快でしょうがない。

今に至るまで感じたことのない不快感を覚えたネルガルは無意識に彼女へ伸ばした掌に力を込めていた。

 

 

 

魔力も何も纏っていない男性の五指だが、それでも幼い子供には脅威でしかない。

細首を締め上げる、頭部を叩き潰す……他にも魔力を用いずともあらゆる殺傷方法はある。

悪意という人間の深い部分に馴染の薄い生活を送っていたソフィーヤがそれを受けてしまえば体が硬直し、動けなくなるのも道理。

 

 

 

 

ただ、彼女はこれだけ言い放った。彼女が彼女であるが故に。

もう逃げれないと悟ったからこそ。

 

 

 

「こんなの……おかしい……まだ、引き返せます……」

 

 

 

 

眦に涙さえ浮かばせ、体を震わせながらもネルガルを懇願交じりに見るソフィーヤの瞳、その中に映る自分の顔をネルガルは見た。

見て………違和感を覚え、これは本当に私か? と自問した。

だが、直ぐにそうだともと答えは出た。

 

 

 

胸部で荒れ狂っていた怒りは熱さを通り越し、冷たく鋭くなる。

これが私だ。力を得て、大きく強く、奪われなくなり、いずれはイデアと共にいくのが私だ。

 

 

 

今日はどうやら彼女は気に入ってくれなかったようだが、時間はまだたっぷりある。

まずは彼女を家に連れ帰そうと、更に腕に力を込めて伸ばすとソフィーヤは逃げる様に身を引いた。

その様に内心で舌打ちをしながら更に一歩を踏み出して捕まえようとすると、腕が横合いから伸びてきたもう一つの手に捕まれる。

 

 

 

 

少しばかり浅黒い引き締まった筋肉をした男性の腕だ。

視界の端に見える腕を覆う衣服の色は真紅。

気まぐれで、あらゆる場所に唐突に現れ、理不尽な災害の様に動く男をネルガルは知っていた。

 

 

 

 

「!」

 

 

 

 

「なんだ?」

 

 

 

驚愕を隠せずに彼を見ると、男は首も傾げることなく、全くいつも通りの口調で、道端で出会った時の挨拶の様に言葉を返した。

火竜ヤアン。この里に在る純血の竜の一角。

かつての大戦で人と激戦を繰り広げた超越種がネルガルの腕を掴んでいた。

 

 

 

ヤアンに捕まれた腕は、幾ら力を込めても動かない。

まるで巨大な落石に押しつぶされたような圧だけが伝わってくる。

内部から骨が軋む音と血管が圧迫され血流が乱れる感覚が伝わる中、ネルガルは痛みなど全く感じてないように声を出す。

 

 

 

「腕を離してくれないか? どうやら何か誤解があるようだ」

 

 

 

ヤアンはソフィーヤの方を見る事もなかった。

ただ言われた通り、腕を離す。

ネルガルは解放された腕を脱力させて腰の横に垂れ下がらせると、ソフィーヤを一瞥してからヤアンの眼を見た。

 

 

 

今まで何度も見てきたヤアンの眼だが、その時ネルガルは初めて何時もと違う感想を抱く。

彼の真っ赤な瞳の中には何もない……ないのだが……ただ、どうでもいいと言っていた。

お前の事などどうでもいいからさっさと失せろと、視線だけで語っている。

 

 

それが許されるだけの力と存在の格を彼は持ち合わせている。

イデアにより500年の昔、人と激戦を繰り広げた力を復活させたヤアンならば。

 

 

 

「荷物を整理している最中にソフィーヤと久しぶりにあって、話し込んでしまってね……もう間もなく夜だから家に送ろうとしたんだ」

 

 

 

「そうか。だが彼女は私が送る。お前は早く荷物整理の続きをするがいい」

 

 

 

紡がれる言葉に反論の隙間は一切許されていない。

ヤアンはネルガルの意思など考慮せずにこれから自らが行う行動だけを宣言し、さっさと踵を返してソフィーヤを引き連れて消えてしまう。

無防備に向けられる背は、もはや攻撃を誘っているようであったが、それさえもヤアンにとっては些事でしかない。

 

 

 

 

例え【理】を超えた術者であろうと、高位の竜である竜からすれば僅かばかり他より魔力が豊富なだけのただの人間程度にしか映らないのだ。

だからこその今までの他者と変わらない交流があり、そして今の無関心な結果がある。

全盛の神将器でもあれば話は違ってくるが、生憎この里にあるフォルブレイズはイデアが所持している上、もしも仮にネルガルがもったとしてもその力を十全に使う事は出来ないだろう。

 

 

 

 

つまり……ネルガルはヤアンにとって敵にはなり得ない。彼から見たネルガルは……無価値だ。

 

 

 

 

ただ一人闇の中に取り残されたネルガルは無言で二人に背を向けて歩き出し、未だに残っている荷物の整理の為に闇の中に潜っていく……。

明確に竜と人の差を認識した彼は、いつかその差をひっくり返すと決意を新たにしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ありがとうございました」

 

 

あの場所から大分離れて里の住宅街に入ると、数歩先を悠々と進むヤアンにソフィーヤは言葉を切り出した。

彼女から見ても彼は全く変わらない、ただ、自分の言葉を聞く気だけはあったらしく僅かばかりの意思が背を向けていても自分に向けられるのをソフィーヤは認知する。

止まらずに歩き続けるその背に対して変わらず声をかけ続けようと言葉を探すと、意外な事にヤアンからの返答が返って来た。

 

 

 

「一人であの男に出会うのはこれからは避けるのだな。ファと二人で居る時も常に力のある、あの地竜の様な第三者を呼べるようにしておけ」

 

 

 

ソフィーヤはその言葉に口をつぐんで答えた。

まるでヤアンの言っていることはネルガルを危険人物としてみなしているようだが……心の底でソレに同意してしまう自分が居たから。

いや、先ほどあった事を思えばこれでもまだヤアンの言葉は軽い方だ。

 

 

 

彼には人を気遣う配慮はないが、無駄に傷を広げる悪意もない。

 

 

 

身体の芯が凍り付くようなおぞましい記憶を想い返し、ソフィーヤは身震いした。

ほんの少しの間出会わなかっただけだというのに……。

ただ、彼に羽織らせてもらったマントだけが風によってなびく。

 

 

 

 

もう間もなく家に着く。そして早く母に会いたかった。

出会って、色々と言わなければならないことが有る。今日会った事を、ありのままに。

ふと、ソフィーヤが地平の果てを見ると太陽は完全に地平に消え去り、先ほど見たような黒が世界を染めていた。

 

 

 

 

久しくなく、夜の訪れに対して彼女は……拒絶に近い念を抱く。

何かよくないことが起こるかもしれない。そんな未来が見えた様な気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

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