続・異界録 作:同志、どうされました
博麗神社には鬼が棲んでいると評判だが勿論それは妖怪どもに鬼のようだと恐れられている巫女とは別のことである。
六尺三寸もの長身に、固く引き締まった筋肉を肌に浮かせる大男シシンのことだ。
ただでさえその図体から発せられる威圧感は見る者をぎょっとさせる。二本の角を生やした鬼の面を決して外さないのだから尚の事だ。
物心つく前から同じ屋根の下で暮らしている霊夢としても神社の参拝者の少なさとはこの男によるところが多分であろうと少々不満を抱いている。
せめてその面を取れ、と命じた事幾百回、実際に引っ掴んで剥がそうとした事も数知れない。しかし、シシンは何も応えないし、彼の素顔を明らかにする事も決して叶わなかった。
押しても引いても取れない面に興が失せた霊夢がその日始終仏頂面になったままでいるのも日常の一部だった。
シシンはものを喋れなかった。
しかし、霊夢はそれに不便を感じた事は……少なからずあったが、どれも致命的なものとは言えなかった。人間とは慣れてしまうものだ、まして、幼少より付き合っているのならば。
シシンは齢をとらなかった。
それはどうも、先代の頃より、更に先代のころよりからそうであるらしいと、霊夢は里の人間から聞いた。しわしわになった老人は、懐かしそうに語っていた。いつかあの鬼よりも大きくなってやろう、と息巻いていた少年の日を思い出していたのだろう。
シシンは里に下りなかった。
それは己の身なりが他者を恐れさせると理解していたからかどうかを霊夢は知らない。だが、少し長じている里の者の中にシシンを恐れる人間など居なかった。人を食うでも、畑を荒らすでも、金子を奪うでもない。何を恐れるというのか?博麗神社の名物、話の種として語られるのが、シシンの姿だった。
「ご馳走様……片付けといてよ」
「……」
慎ましい朝食を終えた霊夢は、さっさと食卓を後にした。準備は霊夢がして、後片付けはシシンがする、という光景が、いつの間にか定着していた。
食器を重ねる音を聞きながら、霊夢は縁側でぼーっとしていた。最近は妖怪どもも大人しく、安らかな日々が続いており、彼女の機嫌も上向きだった。
秋の空はどこまでも青かった。涼やかな風が頬を撫でた。日なたでトンボが身体を伸ばしていた。
ざ、ざ、ざ、と、砂を掻く音が聞こえてくる。シシンが境内を箒で掃いている音だ。やれやれ、あいつが境内に居ると、ますます参拝客が減るではないかと霊夢は思ったが、今の自分を取り囲む麗らかな空気からは抗いがたかった。
霊夢はぼんやりと秋の午前を過ごした。
たまにはこんな日があってもいいだろう、と、思った。
「うおっす」
魔理沙がやって来た。不躾にも庭を横切り、縁側に座り込んだ。そして、割り箸に付いた水あめをぺろぺろとしゃぶり始めた。
霊夢の機嫌は一瞬で底を割った。
「んな顔しなくてもさあ~……欲しい?」
差し出された割り箸に対し、要らんわ、と跳ね除けないのは、霊夢が常識人だからである。シシンが、湯のみを二つ、盆に載せて持って来た。
「ナイスタイミングだぜ」
こんな奴に出さずともよい!と怒鳴りつけないのも、霊夢が常識人だからである。渋い顔で湯のみを手に取り、口を付ける。麦茶であった。
「ウム、夏の残り香がする味」
魔理沙の寸評を聞いても、霊夢は憮然としたままだった。
近年の博麗神社とは概ねこのような光景が繰り返されている場所だった。そこに暮らしたり、集ったりする者が、それを永遠のものと思うほど自惚れていたわけではないものの、そこに確かな安らぎの時間と空間があったというのは、事実なのである。
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唐突だが、里に赤色の霧が迫っていた。前触れは一切無かった。あっという間に里を包囲した霧は、その中で妖怪どもの凶暴性を煽り、人々を恐れおののかせた。
これが妖怪の起こした異変である事は明らかだった。霊夢は征かなければならなかった。それは彼女の使命であり、背く事は出来なかった。
けれども彼女自身、それを逃れ得ぬ運命なのだと気負うような事はなかった。それが彼女の稀有な才覚だったと言ってもよい。育んだものが何だったのかはさて置くとして、だ。
「パッと行ってパッと解決すりゃいいんでしょうよ」
霊夢はいそいそと準備を整えていた。上着に袖を通した。赤と白の服を着た彼女が縁側を見ると、庭で腕を組み佇んでいるシシンの背があった。隆々とした背筋が露になっていた。
外足袋を履いた彼女も庭に降りた。シシンがいつも着ている粗末で簡易な着物のくすんだ浅葱色が、並び立つ少女の神聖さを引き立てているようですらあった。
霊夢は空を見た。化生がこちらへと飛んで来るのが見えた。上着に手を入れ、忍ばせた札を握る。心音はいつも通りの間隔を刻んでいた。
そして、地を蹴った。
風を切り、空へと翔けていく。どこまでも高く……。
「……あ?」
霊夢は、後ろをついてくる気配を察知し、振り向いた。
「……」
陰陽玉が音も無くふわふわと浮かんでいた。その物体は神社の宝物の一つであり、シシンの得物たる対魔具でもあるのは思い出すまでもない事だった。
霊夢は既に眼下で遠くになっている神社の庭を見た。シシンは相変わらず庭で腕を組んだまま、仁王立ちしていた。何故だか、霊夢の癇に障った。
「まあ精々、使い倒させてもらうけど」
フン、と鼻を鳴らして陰陽玉を手に取り、霊夢は前方に向き直った。襲い来る妖精たちの姿があった。
霊夢は指に挟んだ札を構えた。
赤い霧が彼女の前に広がっていた。だが恐怖など無かった。その自信を得るだけの鍛錬を彼女は積んできた。
紅魔の異変は今、始まったのだ。
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神社に妖怪は入って来れなかった。それも僅かな猶予などではない事は、未だに(出歩く人影こそ見当たらないものの)平穏無事な里の様相を見ればわかることだ。意外と霧の起こす変化の程は大きくはないのだった。見た目以上には。
シシンは無言で縁側に腰掛けていた。
「……」
彼は、妙に落ち着かない気分を持て余していた。彼自身、この地に住まうようになってからどれ程の時を重ねたのか覚えていなかったが、まるで未経験と言える事態に戸惑っていた。
たまらず、膝の上で組んだ手に顔を乗せ、目を閉じた。面の硬い感触が手に伝わる。暗黒が彼の視界を包む。木々のざわめきだけが耳に入る全てだ。
無為と少ない外的刺激は彼の内の渦を殊更強く自覚させるだけの結果を招く。
何かが足りない気が湧き出してくる。
何かを求める気が湧き出してくる。
何かに……呼ばれている気が、湧き出してくる。
「…………」
そう。何かが、呼んでいた。彼をだろうか?
何をだろうか?
シシンにはわからなかった。
何もわからなかった。
シシンには記憶が無かった。この地に辿り着くまでの何もかもを覚えていなかった。
酷く傷付き斃れていたのを助けられ、傷の手当を受け、目覚めるまで介抱された。それが彼が知っている己の来歴の全てだった。
「………………」
結局、シシンはその衝動に耐える事が出来なかった。
シシンは鉈を両手に携えると、ふらふらと、熱病に浮かされたような足取りで歩き出した。
自分を呼ぶ何か、に導かれて。
その先に何があるのかも知らぬまま。
シシンは何もわからなかった。
けれども、何となく、感じる事はあった。
何故だか彼は、懐かしさを覚えていた。
理由はわからなくとも行かなければならない、という、その衝動に。
神社から生き物の気配が消え去った。
残暑も去ろうとしている季節の涼やかな風が後に吹いていた。
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「あんたも来てたのね」
「そゆこと」
霊夢は、門番を叩きのめしたところで魔理沙と出会った。何となく同行する事になる二人。廊下を飛ぶ。妖精がひっきりなしに現れる。
巨大な扉を開け放ち中に飛び込むと、見上げるほどに大きな本棚が幾つも林立する光景が二人の視界を覆った。
「バベルの図書館か、こりゃあ?」
「魔法でしょ、どうせ」
広大な空間を飛び回りつつ、深部を目指す。番人としての責務かただ遊んでいるだけなのか判然としない妖精達の妨害を退けながら。
「こんなドでかい部屋を作るなんて、きっと相当な使い手だぜ。ぜひご教授願いたい」
魔理沙が零した。霊夢の耳には冗談に聞こえなかった。息抜きの雰囲気が漂い始めた両者の周囲。それは、唐突に破られる。
「侵入者……」
「お、中ボス。任せたー」
魔理沙は、角と翼を生やした女の化生の脇を一気に翔け抜けていった。霊夢の機嫌を損ねる言葉を残して。
(おのれ)
「……こ、ここは通せません」
赤い髪をたなびかせて、化生は取り繕うように宣言したが、少し引きつった表情により、緊迫感は無かった。
霊夢はしかし、相手の努力を汲んだ。
「でも通るわ」
霊夢は指さして、凛然と言い放った。化生はその空気に当てられ、すぐに姿勢を正し、身構える。
この異変における、霊夢の幾度目かの戦いが始まった。
他方で、霊夢よりも先行していた魔理沙も、相方に労苦を押し付け出し抜いたつけをすぐに突きつけられていたのである。
「おまえがこのクソでかい図書館の主なのか」
「そう」
紫色の魔法使いはふよふよと浮遊しながら、魔理沙と対峙していた。覇気の無さそうな目つきの奥からは、感情を窺い知れない深い闇の色が顔をのぞかせていた。
「おまえを倒せば、ここから出られるってことか?」
「さあ」
いつの間にか魔法使いが取り出していたカードが光った。それは戦いの合図である。魔理沙は驚愕と恐悦に表情を歪ませた。彼女はこの遊びが大好きなのだった。
地平線すら望める魔法の図書館での激闘は暫し続く。
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「ブザマね」
「ちくしょぉぅ」
魔理沙はあの紫色の魔法使いと引き分けた結果、霊夢の進む道を切り開く贄となったわけだが、それでも箒を杖にして立つ彼女の意志はどうも挫けてはいないようだった。
紫色の魔法使いは崩れ積み上がった本と本棚の上で白目を剥いて倒れている。
霊夢はそれらを一瞥し、捨て台詞を投げかけて、館の奥へと飛び去った。
「お前も素直に早く負けとけよっ」
魔理沙は、箒で紫色の魔法使いをべしべしとはたいた。
彼女が霊夢に追い付くにはかなりの時間が掛かりそうだった。
その頃シシンはというと、ふらふらと霧の中をさまよい歩いた挙句、ついに湖のほとりをその目に認めた。
その手に握る鉈は汚れていた。土と、砂利と、木くずと、正体の分からない、黒い染みがあった。だが、彼がそのことを省みる事は無いのだ。
面の奥の青い瞳から心情を伺う事を、いま彼の前にわらわらと集いつつある妖精どもに期待することは出来ない。
妖精たちは思考の結果に基づかない笑顔でシシンに光弾を向け、次の瞬間には、シシンの振った鉈に両断されることを繰り返した。
霊力の残骸がバラバラと吹き飛び、湖畔の一角は赤い霧の中で雪風を湛えていた。紙吹雪のように舞う妖精のムクロの中心で、シシンは、ここに来て更に強くなる『誰か』の『何か』を感じ取っていた。
「おい鬼男」
シシンを示す呼称だろう。その声の主が、吹雪の中から現れた。青い妖精だった。
「フッフッフ。あたいが来たからにはお前の好きほーだいも終わりさ」
仁王立ちしながら含み笑いをする妖精の表情は自信に満ち溢れている。声といい、その内容といい。
妖精がカードを掲げた。
その瞬間、カードがすっぱりと真ん中から切れた。
「えー!?」
驚愕に目を剥いて硬直する妖精を、シシンは両手の鉈で十字に切り裂いた。
「うぎゃー!」
間抜けな声を上げて妖精が消え去った。
大きな力を持っていはいたのだろうが、しょせんは妖精、いち化生でしか無い。化生は死なないし、病気にもならない。
明日には何事もなかったようにこの湖畔を飛び回っているだろう。
だが重要なのは、いま彼がした行為がこの地の法に些か外れているという点だ。魔符を掲げた相手に応えずに誅する事がすべて禁じられているという訳ではないが……。
しかしシシンがその事に気を払う余裕を持っていないのは事実なのである。
嵐の去った湖畔は、赤い霧に包まれながら、それがあるべき光景であるかのような穏やかさを漂わせていた。
それもすべて、湖の奥に見える赤い館の主のなす技なのかもしれない。シシンは、足を踏み出して、そこへ向かった……。
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館のメイド長と名乗る女。しかし霊夢の目には、彼女以外にメイドという役を果たせる者が他にいるのかどうか、わからない。
館の中にひしめく妖精どもが、館の外にひしめく妖精どもと何が違うのかわからないのである。
メイドが居ないのに、メイド長か。と。
「この霧は、おたくの主の仕業なのでしょう」
「それが」
銀色の前髪と眉毛が、女の目を冷たく輝かせる。
女は、霊夢が出会ったこの館の数少ない住人達と同じで、あまり侵入者と友好的に接するタチではないようだった。
慇懃無礼な態度で、霊夢は言葉を続けた。
「やめていただくように進言しようとなさらない?」
「なさるつもりはありません」
女はどこからか一本、ナイフを取り出した。指で挟んだそれを、わずかに揺らしている。
霊夢のする事は決まった。いや、決まっていたのだろうか。この館に入った瞬間から。
「じゃあ、本人と話つけるしかないわけね」
「かなわぬ話でしょう」
女の目が細くなる。敵意と憐憫と侮蔑が、眼光に満ちる。
霊夢は、札を取り出した。少女達は、ただ見た目がそうであるだけで、その中身は、尋常の理をたやすく覆す技を持つ超越者なのだ。
この地に定められた法だけが、ふたりの戦いを流麗な演舞にとどめる事となる。
メイド長を名乗る女の手元の閃きは、それを更に幻惑的に彩るだけなのだ。
糸が、女の手から伸びた。しかし、霊夢の目には、そう映らない。迫る光点を寸での所でかわし切ると、霊夢の頬に、赤い糸が貼り付いた。投げられたナイフは、傍から見る者にとっては、一筋の光条にすぎなかった。
しかし、今からは、その理は通じない。投網を放ったかのような、放射状の銀糸は、いま霊夢の肉体を絡め取ろうとしている。
霊夢は、息を止めて、空を蹴った。右腕を伸ばして身体を寝かせ、そのまま網の目をくぐり抜けたのである。
絶技と言わざるを得ないのだろうが、それが珍しくもないのが、この、少女達の舞踏である。そして、霊夢は反撃の機を掴んでいる。
札が滝のように放たれた。可視化されている退魔のエネルギーの奔流は、瞬閃の勢いを保ったまま、銀の女を飲み込もうと、顎を開け、迫る。
はたして、それをたやすく避ける銀の女もまた、霊夢と互角の技量の持ち主であると断じない者など居ようか?
「ふ」
息を吐き、同時に霊夢はまた、札を投げる。かわされる。一、二、と数えられるリズムだ。
そして、もう一度。
より、鋭い狙いで、銀の女の腹を目指す。胴体は、いちばん当てやすい。
女は……避けた。
同じ呼吸で、だ!
「慣れたな!」
霊夢の隠し球だ。
更なる一閃、狙いすまされた札は、神速の形容を湛えて、女の肉体を捉えていた。それは、確実な未来図を予測させた。
霊夢の勝利と、自称メイド長の敗北を。だが、それは覆る。
「は?―――――――――――に、をっ!!!!」
霊夢の身体が回転して、床をめがけて飛んで行く。素っ頓狂な回避運動をさせたのは、突如の、そして、非常に過大な、状況の変化に由来する。
つまり、霊夢の放った札の先に居た女が消え、自分の周囲にナイフが現れた、という事実。
銀の女は、大道芸じみた挙動を行う霊夢に対し、暇無く得物を投げる、というか、浴びせる。滝のように、ナイフが降り注ぐのである。
(超スピードとか、催眠術か何かっ!?)
霊夢は、先ほどの恐ろしい『手品』の正体を掴まなければ、この戦いに勝てぬ、と正確に認識していた。
霊夢はすぐに知ることになる。自分の予測が実にチャチな代物であることを。
そして、自分がすでに、この異変の元凶、すなわち館の主のすぐ手前にまで辿り着いていることも、また。
戦いはすぐに終わることだろう。半時も経たないに違いない。
勝利者が誰であれ。
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結局シシンは、湖を泳いで渡り、島に辿り着いた。そこは、館の裏手側だった。
濡れた身体のまま、塀を飛び越え、窓を破り、いともたやすく内部へ押し入るシシン。
廊下は薄暗かった。霧のせいで、日差しがあまり入ってこないからだ。シシンが歩くたび、足あとが、廊下に形作られた。
シシンは歩を進めるごとに、内に響く衝動が強くなるのを感じていた。それが何に由来するものなのか確かめなくてはならないという渇望は、彼の中に確かに息づいていた。それはきっと、彼がこの地に訪れて以来、はじめてのことだった。
「……」
彼も、彼の心を知ることができない誰にも知り得ないことだけど、失われた彼の過去、記憶の断片は今、少しずつ、復元するための鼓動を刻み始めていたのだ。
妖精は彼を阻まなかった。みんな、表門を蹴破って入ってきた二人の少女に夢中だった。館のもう一人の主、深淵へと続くとも紛う空気で満ちる道程は、たった一人の鬼面の男だけで踏破されつつあった。
草履に染み込んだ水の音だけが、高い天井までよく響いていた。
青い瞳は、闇の果てだけを見つめていた。自分を呼ぶ誰か、何かを求める声を聞きながら……。
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銀色のメイド長は敗北した。さすがの強さであり、霊夢が何か一つ手を違えていれば、立場は逆だったのに違いない……。
止まった時の中で行動できるという驚愕の技は、見抜く事が出来たからといって、常人にやすやすと撃ち破ることのできる代物ではない。何が『手品』か?
霊夢はしかし、日々の鍛錬に得た技と身体によって成し得た勝利に酔ってはいられなかった。おそらくは、すぐ先に、この館の主が待ち受けているのだろうから。
そうでなければ、このメイド長をさらに凌ぐ強さの護衛が霊夢の前に立ちふさがるだけだし、霊夢はそれを斃すために更なる死闘を演じさせられるだけだ。
「十六夜咲夜……あんたより強い奴が何人も居るとは思いたくないわ」
霊夢は、偽らざる本音を口にして、扉を開いた。後には、床に這いつくばる咲夜の姿が残されていた。
たくさんのナイフが通路の床に壁に、天井に突き刺さっていた。それは、戦場に築かれた墓標のようだった。
沈みゆく陽が窓から赤銅色の光を注いでいて、そのきらめきを銀色の墓標たちが霊夢の行く先へと反射していた。
開かれた闇の奥へと続く幾重ものプリズムの導は幻想的な光景だったけども、霊夢はそれに見とれたり、あるいは自分の旅路の祝福を見出したりするようなロマンチシズムを発現させる事もなかった。
「暗いわね……」
霊夢は闇の奥へと向かう。扉が閉じる音とともに、闇だけが彼女の傍らに在る者となった。……それは、ほんの刹那の出来事だ。すぐに彼女の前に、最後の関門を務める妖精たちが姿を現した。
仄かな燐光を纏う儚い化生たちは、楽しげに弾丸を撃ちだし、ばらまく。かれらの行動とは主への忠誠の証なのかどうか、どうにも霊夢には胡散臭く思える。きっと、会話しても無駄だろう。
だから、弾幕をくぐり抜けて応戦する。狙い澄まされた攻撃が妖精を一匹一匹、塵芥へと変えていった。撃ちだされる札は矢継ぎ早に、更なる獲物を求めて遥か深奥へと飛んでいき、その先に待ち構える番人たちを炸裂させるのだった。
だが、敵の数はさすがに多い。おまけに、挙動も随分と意地の悪い意思を感じられるものへと変わってきている。右から、左から、一直線に向かってくる者も在れば、明後日の方向へ飛び去る者も在り、放つ弾丸は奇妙奇天烈な幾何学模様を描き出す。
あるいは何も無かった空間から突如姿を現して、あわや正面衝突の事態も起こる。
「くそ……」
焦りが生まれる。長い戦いだった。かつて彼女が経験した事のないものだ。まさに正念場と来ているのに、これ以上集中力を擦り減らすのは、望むところではない。
そうまで考えた所で、霊夢の顔をいっそうしかめさせる光景が展開する。いよいよ、妖精たちは陣列を組み、猛烈な弾幕でこちらを押し潰しにかかったのだ。
抜ける場所は、ある。しかし、それは刹那の間に変幻自在に姿を消す魔の空隙だ。無限の走査線を潜り抜けこの分厚い壁を打ち砕くには、彼女の力は(余りにも不本意な事に)不足に過ぎた。
(……)
霊夢は、打つ手を一つ、隠し持っている。もはやそれを使うか否か、決めるだけだ。
決断を遅らせる余裕は無かった。
この旅路でつねに背後に忍ばせたまま使わないでいた陰陽玉を取り出した。
目の高さで浮いたまま静止するそれに、手のひらを向ける。
「はあああああーーーーーっ!!」
博麗の巫女の掛け声が挙がると同時に、高まる霊力が陰陽玉に流れ込み、神社の秘宝はまばゆく輝き出す。まるで天空の星が地上に落ちてきたかのような光は、闇の帳を、その中に潜む者達もろとも一気に照らした。
この膨大な力を体感する事は初めてではないが、それでも霊夢が完全に御するには大いに至難となる代物だった。彼女の額にひとしずくの汗が伝った。
「ーーーっやああああ!!」
そして、陰陽玉から、猛烈な爆風が解き放たれた。それは明確な指向性を持っており、霊夢の前に立ちはだかる障害すべてを薙ぎ払っていった。
灰も残らず消し飛ぶ妖精たちは、獄炎とも見まごう聖なる力に、最期の時まで見とれていた。その記憶はきっと、また生まれた時の世間話の種となるだろう。
数秒にも満たない霊撃の掃射ののち、僅かな余韻も過ぎ去れば、あとはもう、何も無い闇が残った。霊夢は一人、深く息を吐いた。
休んでいる暇は無いのだ。霊夢は再び空を駆けて行った。さっさと終わらせて、神社に帰って、休みたいと思った。
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(そろそろ……)
そろそろ、終着点に辿り着く頃合いではないか……と霊夢は予感した。根拠などどこにもないが、そう思ったのだ。幼い頃から彼女はそういうふうに、妙に勘を働かせる事が多かった。そして大抵、的中するのである。尤も、単に的中した出来事だけが印象に残っているだけだと彼女自身は思っているが。
はたして、今度もまた彼女の勘は当たった。
「人間ね……」
「!」
突如、鈍い赤色が視界に混じり、その中から初めて聞く声が漏れ出た。辺りを包む空気が一気に変質したことを霊夢は理解した。声の主が何者であるかすらも。
いつの間に、霊夢はそこに到達していたのだ。赤い館の最も赤い場所……今彼女が辿り着いたのが、館の主、レミリアの居室だった。
「使えない番人は、何をしているのかしら……」
「まだ生きてるのなら、私に叩きのめされたまま、寝っ転がってるわよ」
化生一人の使うには大き過ぎる部屋は、やはり魔法によってそうなっているのであろうか。闇の中で呟く影は、窓から見える、雲間より顔を覗かせた月光によって、その貌を遂に明らかにした。
赤い薄明かりが、白い肌と、すみれ色の髪の毛を、歪な彩りで飾っていた。それは、少女の姿をしていた……。
「五百歳もいいところの主に腰を上げさせるような従者達を、あなたは……どう思う?」
「運動しないとボケるわよ」
見た目がそうであるだけで、尋常の理を覆す超越者であるのは、それらを束ねる主も同じことだと霊夢は知っていた。恐ろしい実力を持った妖怪の一種に違いない。しかし、敗北を味わいたい気には決してならないのが、霊夢だった。
赤い妖気が渦を巻くのを霊夢は見た。強大な力は今まさに、自分に襲いかかろうとしているのを理解する。
けれども……、霊夢は、妖怪退治を生業とせねばならない、巫女としての己の生き方を思い出していた。
その記憶は、彼女に恐怖や、逃避の感情を撥ね退けさせた。
「食後の運動にでも、付き合ってくれるかしら、あなた」
そして、赤い主との戦いが幕を開けた。
霊夢は、その直前、一瞬だけ……赤い鬼面の男の姿を、思い出した。
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その道は迷宮のようだった。それは確かに、尋ね人を拒絶する意図があったのだろうけど、果たしてその奥に居る何者かを拒絶する意図もまた、存在するのかもしれない。
右手側に窓が並ぶ廊下の突き当りを右へ曲がると、また右手側に窓が並ぶ廊下を歩くことになる。常人の神経であれば、すぐにうんざりして引き返す仕掛けに違いないが、シシンは黙って歩を進めるだけだった。
彼の思うことは、自身の内に呼びかけると思しき何かの根源へと至る渇望だけだから、踵を返す事など考えつかない。
それは、何時間も続いた。彼は、頭から、疑問という概念が抜け落ちてしまった狂人なのだろうか。霊夢や魔理沙が見れば、そう思うに違いない。そして、現実今の彼はそうだった。
しかし、無為なる進軍を支えていたのは、確かな、真実を求める意志に他ならなかった。そう本人は理解してなどいなかったのだけれども。
やがて彼の道が唐突に開けたのはその思いが結実したからなどではなく、館の中の遠い別の場所で、この仕掛けを維持していた番人たちが尽く倒された為なのである。
最後の廊下は一切の灯も無かった。いつしか陽は沈んでいて、星の光すらも、窓からは見えなかった。それは偶然雲が遮っているからというだけなのだろうか?シシンにはわからなかった。
心臓の鼓動がシシンの鼓膜を打っていた。自身のものなのか、それとも、この音が、自分を呼ぶ何かの声そのものだったのだろうか。全ては彼の前に在る扉の向こうで明らかになるだろう。
彼ほどの怪力を持つのは里の者の中にも史上一人も居なかったが、それでも、大きな両開きの扉を動かすのに、数秒の時間を要した。
石と鉄の塊は重い音を響かせて、ややあってから、ほの暗い袋小路を隔てる為にふたたびその役割を果たそうと、元の位置に戻った。シシンを闇が包んだ。
「誰?」
か細い、涼やかな声が聞こえた。その誰何は、紛れも無く幼い少女の口から発せられたものであろうとシシンにも予測はついた。
「人間?」
小さな足音がカーペットに吸収されてもなおシシンの耳に届くほどに、静謐な空間があった。彼の前に、金色の輪郭を持った少女が姿を現した。
薄暗く判然としない顔立ちは、大きな赤い目でシシンの事をまっすぐに見つめていた。
シシンは、何も答えなかった。
彼を突き動かし導いた者の正体を前にして、彼は沈黙する事しか出来なかった。渇望にのみ従う空虚な人形は、目的を失い、呆然と立ち尽くすだけだった。
それは、彼の中に、確かな失望の念を芽生えさせた。ただ漫然と、『生きてきただけ』の男は今、望むものを得られないという、ありふれた結果に打ちのめされていた。
「どうしたの?」
少女はいつの間にか、シシンの眼前に立っていた。金色の髪と、あどけない作りの顔が明らかになったが、それだけだった。シシンは、答える事が出来なかった。
なぜここに来たのか……何を求めていたのか……。
そう、自分は確かに『何か』を求めていた。今までそのような事が、一度でもあっただろうか。巫女達の世話をし、助けとなって妖を滅ぼす日々。穏やかではあったが、彼の中には何の衝動も無い世界がただ続いていた。
赤い霧の出現は虚ろなシシンに対して、明らかな変革をもたらしていた。だから彼は落胆していた。今までの彼ならば、そんな感情など抱かなかったし、この場所に来ることすらもあり得なかったに違いないのに。
自分は何者なのか?
それすらわからない男とは、『どうしたの?』という問いにすら答えられないのだ。
「……まあ、いいや」
うんともすんとも言わない男に対し、少女はそっぽを向いて、自分の寝床のほうへ歩いた。
「ここに来れたんなら、きっと、凄く強いのね……あなたは」
少女は、ベッドの下から、何枚かのカードを取り出して、シシンに見せびらかすように手の中で広げる。
「遊ぼうよ」
口角を吊り上げて、そう誘った。無邪気な笑みと、見る者が見ればそう思えるのだろうが……生憎とシシンはそういう風情を感じる心持ちにはなかった。
そもそも……。
「どうしたの?……ひょっとして、持ってないの?」
少女が眉をひそめた。あてが外れた事で機嫌を傾かせているのだろう。彼女の提案とは、シシンが無視して押し通ってきた規則そのものだった。だから、どうあれ、シシンが彼女の要望に応えるのは不可能なのだ……。
だが、暫し、不満気な表情で腕を組んで唸った後、はた、と何かに気付いた顔をした。
「じゃあ、いらないね、これ」
カードが床に投げ捨てられた。すさ、すさ、と、繊維のこすれる小さな音が聞こえた。
それらの枚数がいくつであったのか、理解する暇は与えられなかった。シシンは、襲いかかる暴風を危なげなく避けきった。数十歩ぶんの距離の跳躍は、かつて立っていた場所のカーペットを踏抜き、床を砕く足跡を作っていた。
「やっぱり。強いんだね」
過ぎ去った闇が囁いた。シシンの青い目は、金色の僅かな煌きを見逃さなかった。風圧でずたずたに引き裂かれた部屋の調度品が崩れ落ち、甲高い音が連続で生まれた。
それは赤黒い巨大な砲弾にも見えた。シシンは、両手の鉈を十字に重ね、尋常ならない力を足腰に込めて、来たる衝撃を受け止めた。
空気が弾ける轟音が部屋中に響いた。
「やっぱり、これが一番楽しいね」
型も糞もない正拳突きを受け止められたフランドールは、鬼面の奥から自分を見つめる青色に少しだけ心奪われたまま、つぶやいた。
歪んだ口元から覗く牙が光っていた。
「ぁは」
竜の子と名乗った男の血を継ぐ娘は、久しぶりの楽しい遊びへの期待に胸膨らませて、空いていた片腕を振り上げた。
シシンを支配していた喪失感は遠くへ去って行っていた。いまの彼を突き動かすのは、この地へと流れ着いてからも失っていなかったたった一つのものだった。
妖怪を殺す為の技が、フランドールの望む遊戯を盛り上げる演目だった。
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「うっ……」
(つ、強かった)
スカーレット家は当主レミリア、彼女こそこの異変における最強の敵であった。だが、霊夢は勝った。
破れた上着は、柔肌にサラシを巻く少女にまとわり付くブサイクな紐飾りのようになっていた。
「さあ、とっととあの変な霧を片付けて頂戴」
札を握りしめ、肩で息をする霊夢は、膝をつく吸血鬼に対し居丈高に言う。それは勝者の当然の権利を行使する姿だ。
「……ええ、仕方が…………!?」
溜息をついて立ち上がったレミリアが、目を見開いてあらぬ方角へ顔を向けた。その反応の意思は知れずとも、意味は霊夢にも知れた。驚嘆と、焦燥。
口を開いて霊夢が問うより先に、赤い館の主は一目散に部屋を飛び出していく。
「ちょっと!?」
「後にしなさい!」
死闘の疲れも感じさせないスピードでかっ飛ぶレミリア。必死でそれを追う霊夢は、館を揺らす衝撃に気付く。
「何これ!?」
「あなたが引き込んだの……!?」
「はあ?」
燭台が次々に倒れていく廊下を、二つの影が飛んで行く。
レミリアの恨み言めいた質問の意味など、霊夢に理解できるはずもなかった。
留守番していたはずの、……霊夢にとって、よくわからない存在である、鬼面の男が、異変の元凶を青ざめさせる事態の渦中にいると、どうして想像できるだろうか。
夜明けの時は、刻一刻と、迫りつつあった。
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「んっがぁっっ!!」
「……!!」
フランドールは、両手に抱えた石造りの柱を、思い切り振り抜いた。
彼女の身長よりずっと長い胴周りの、彼女の部屋よりもずっと背の高い大槌は、音と等しい速度でシシンの身体に叩きつけられた。
そのまま、崩壊した暗い部屋の壁に挟まれ、降り注ぐ天蓋の中に男の影が埋もれていった。
それは、一瞬だけのことだ。
「はははは!」
石材の山から飛び出したシシンは、刹那の間もなくフランドールに肉薄し、鉈を振り下ろした。
小さな手のひらを貫き、そこで刃は止まる。
柄を握る固い拳に、少女の細い、柔らかい、血塗れの指が触れた。
「はははは、はっあ゙ァッッ!!」
自由な左手で、フランドールはシシンの顔面を殴りつけた。
鬼面の隙間から、血が噴き出す。
「壊れないね、おかしいね」
フランドールは笑顔で、何度もシシンを殴る。
貫かれた右手で、シシンの左手を掴んだまま。
「…………っ!」
シシンは、夢中で連打するフランドールの、無防備な腹に、右手の鉈を突き刺した。
背まで貫通する一刺しに、少女の身体が浮く。
「痛ぁっ」
鈴の鳴るような声音は、その身に降りかかる苦痛などまるで感じさせなかった。だが、シシンは構わず、膂力に任せ、少女の身体を振りかぶって床へと叩きつける。
それから、その平たい胸を踏みつけると、串刺しにした鉈を横に引いた。
骨を砕き、臓腑を引き裂きながら、鉈は少女の身体に大きな切り込み痕を作って、抜けた。
直後、シシンの身体が宙に浮いた。
「んっ!」
仰向けのまま、フランドールは右手に力を込めて、シシンを投げ飛ばした。
腹に入った力のせいで、傷跡から血と内蔵が飛び出した。
原型も残っていない調度品とカーペットに、どす黒い彩りがまた、描き加えられた。
「なんで壊れないのかな」
滅茶苦茶になった内装と、完全に崩れた壁のせいで、フランドールの部屋はテラスのような構造に変貌していた。色気も生活感も無い廃墟と言うべきか。
ともかくフランドールは、部屋の外、庭の芝生で膝をつくシシンに向かって、血塗れの右手を掲げる。
「ギュッ、として……」
握りつぶした、何かを。だが、シシンには何の変化も無かった。
フランドールは、首を傾げる。
「ね。おかしーの」
疑問に眉を撓らせる少女の心境など、シシンは考慮しない。
腹から内蔵をぶら下げて棒立ちするフランドールは、突っ込んできたシシンの鉈を紙一重で避けた。
その勢いで縦に回転し、速度の乗った蹴撃は、シシンの割れた腹筋に叩きこまれた。
バク転を兼ねた蹴り上げを食らって、シシンの身体は天蓋方向に飛んだ。
「バイバイ」
追い打ちを掛けるべく、飛び上がるフランドール。右手を突き出しながら。
それが、シシンの狙いだと、彼女は気付かなかった。
空中で、目が合う。赤と青の視線が交錯した。
シシンは、自分の腹を貫いた少女の右手を掴んで、その根っこに鉈を突き刺す。
腋の下から関節を貫通した刃は、そのまま、血で汚れた細い腕を引き千切った。
大量の血が降り注ぐ水音とともに、二つの落下音が短く響いた。重いものと、軽いもの。
腹の傷は塞がりつつあったが新たな深手を負ったフランドールは、自分の右腕を引き抜いて血を吐くシシンを見つめて、ぽつりと口を開いた。
「そっか」
唐突に、フランドールは悟った。
目の合った瞬間。男の青い瞳の中にあったものを、彼女は朧気に理解したのだった。
「もう、壊れてるんだ……あなたは」
じゃあ、もう、壊しようがないではないか。
赤い面の奥の、青い光が一直線に向かってくるのを見て、フランドールは思った。
それはちょっと、ズルいんじゃないの?と。
それから暫く、心も魂も壊れた男は、ちょっとおかしいだけの吸血鬼の少女の身体を、蹂躙した。
それは、いつも彼が妖怪に対してするのと同じ事だった。
妖怪を殺す技だけが、彼の覚えてる数少ないものの一つだった。
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「やめて!やめて!」
両腕を引き千切られて仰向けに寝転がるフランドールの身体は、朝焼けの陽で、金色の光に溶けてしまいそうにレミリアに見えた。
全身血みどろの鬼面の男が今、彼女のたった一人の妹の命脈を奪い去ろうとしているのは明らかだった。
半死の獲物を庇い立てる妖怪の姿は、シシンの心に、不可思議な波紋を生んだ。
涙を流して、大切な家族の助命を乞う姿。
どこかで見たような気がした。
あれは……。
「何、何やってんの、あんたは!!」
霊夢はシシンの前に立ちはだかり、怒声を浴びせた。
彼女の本領とは、妖怪を殺す事ではなく、この地の秩序を守る事なのだ。今のシシンは間違いなく、博麗の巫女として、看過できぬ行いに手を染めていた。
「あんたは……!……!?」
返事など当然、無かった。それでも詰問は紡がれようとしたが、霊夢は、言葉に詰まった。
血で黒く汚れた鬼面の奥の青い目を見て。
物心ついた頃から、毎日のように見てきたそれは、どんな時も、決して揺るがず、濁らず、平らかで、巫女のどんな言動も黙して受け入れる穏やかさを湛えていた。
未熟な彼女が恐ろしい人喰いの手に掛かろうとした時、そこに現れて一切の躊躇もなく獲物を血祭りにあげた際においてさえ。
それは、今、激しい驚愕と、遠き憧憬により、かつてない混沌の色を浮かべているように、霊夢の目に映っていたのだ。
「……シ、シン……?」
衝撃に我を忘れた霊夢が、呆然とその名を呼んだ瞬間、青い瞳に波紋が走った。
シシンは、目の前に立つ少女の姿を認めた。
幼い頃から見守ってきたその顔は、動揺と、そして、小さな寂寥を浮かべていた。
「……」
シシンは、ものを喋れなかった。人は、言葉に、どれほどの意思伝達を託しているのだろうか。少なくとも、今口を聞けたとしても、彼は霊夢に返すべき言葉を知らなかっただろう。
少し顔を伏せてから、シシンは霊夢から背を向け、去っていった。
霊夢も又、そんな彼に対し、掛ける言葉を持たない自分への苛立ちを感じた。
お前は、何者なのだ。
なぜ、ここに居るのだ。
どこから来たのだ。
遠い遠い昔より、自分の名を受け継いだ者達が何百回も口にしただろうその問いを繰り返す事への忌避感だけが、霊夢の中に渦巻いていた。
妹の名を呼びながら泣き伏せる吸血鬼の声をどこか遠くに感じながら、霊夢は湖の前で佇んでいた。
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