少女は春が好きだった。
今まで鳴りを潜めていた生命が一斉に顔を覗かせる瞬間が、堪らなく愛おしく感じる。まだ少し肌寒く、それでいて冬の面影を残しながらも、春は確かにやってきてくれるのだ。
一人寂しい神社を、春は桃色に染め上げてくれる。
幻想郷中で最も美しいのは、ここの桜だ。それを一番に、一人だけで見ることができる。それはきっと、喜ばしいことなのだ。
幼き巫女が一人、縁側に腰掛ける。
咲き誇る美しい桜の木々を肴に、少女は酒を煽った。そんな彼女と寄り添うのは、物言わぬ桜の木たち。
その姿は他者にどう映っただろう。
広い神社に一人、桜を眺める幼い少女。その横顔は、沈んで見えたかもしれない。
それは何度となく繰り返した春。
博麗花梨、九歳の頃の記憶であった。
◇ ◇ ◇ ◇
トットッと、小気味良い音が廊下に響く。
朝の巫女業を終え、向かうは居間だ。そこに行けば、きっと彼女が変わらずに空を眺めているはずである。
そっと障子へ手をかける。
慣れた手つきで障子を開けると、そこには望んだ人物の姿があった。
「……」
何というか本当に自然に、毎日ご飯を作りに来てくれるようになった彼女。
今朝も料理が下手な花梨のために、早い時間から来て料理を作ってくれていた。いくら親友とはいえ、最近は自分がすっかり頼りきってしまっている女性。
そんな彼女は、黙して空を眺めていた。
「……寒くないんですかね」
縁側から入ってくる風はまだ肌寒く、春とはいえまだ少し厚着する必要がある。
花梨は変わらぬ紅白の巫女服の上に羽織を着ているので問題はないのだが、彼女は何時もと変わらぬ黒を主色とした洋服だ。見る限りでは薄着に見えるのだが、どうしたわけか寒そうには見えない。
縁側に腰掛ける黒髪の女性、サツキ・マーガトロイド。
初めてできた友人である彼女は魔法使いだ。本人は見習いなんて言うけれど、花梨からすれば人形を操る術は立派な魔法であった。そんな彼女の左肩には見慣れた人形の姿がある。
「……サツキ」
肩に掛けた羽織りを掛け直し、縁側へと歩を進める。
振り返ったサツキと目があった。綺麗な黒い瞳、それを正面から見つめ返す。
「少々無用心ではないですか。春とはいえまだ肌寒いのですから、何か羽織ってください。ほら」
自分が掛けているのと同じ羽織りを、サツキの肩へと掛けてやる。
僅かに触れた彼女の肌は、驚く程に滑らかで。思わず触れた手を引っ込めてしまった。
「ありがとう」
そう言って、サツキは微笑んだ。
その微笑みに顔を赤らめ、目を逸らしてしまう。チラリと視線を向けると、羽織りが気持ち良いのか、祈里がサツキの肩で幸せそうに包まっていた。
そんな祈里の頭を小さく撫で、彼女は視線を青空へと向ける。
「春だなぁ」
「そうですね。暖かくて、気持ちいいです」
「ああ。まったくだ」
良い昼寝日和だと、サツキは仰向けで縁側に寝転がる。
そんな主の行動が不服だったのか、飛び上がり頬を膨らませる祈里。どうやら、そうとう羽織りが気に入ったらしい。小さく詫びを入れるサツキに、寛大なのかどうなのか、祈里はサツキのお腹の上に寝転がった。
そんな二人の横に腰掛ける。
「ここの桜は綺麗だな」
縁側へと春風に運ばれてくる桜の花弁を一つ掴み、サツキは言う。
「最近ずっと、ここで桜を眺めてますからね。そんなに気に入ったんですか?」
「ああ。以前さ、母さんと人里近くで花見したことがあるんだよ。そこの桜も綺麗だったんだけど、ここの桜はそれ以上で。何ていうのかな、ずっと見続けられるんだ」
「そうですか。それは光栄ですね」
この景色を褒められて、抱くのは歓喜の情。
自分が好きな物を褒められて嬉しくないはずがない。ここの景色は、自分にとっての自慢であり誇りでもあるのだから。
齢十九。未だ短い人生なれど、これ以上の桜を自分は見たことがなかった。
「本当、綺麗だ」
両目を閉じて寝転がる彼女の黒髪を、風が優しく撫でる。
何やら考えているようであるが、自分には彼女の考えが分かるはずもなく。やがて、ゆっくりと開けられた両目がこちらへと向けられる。
そしてサツキは一言、言葉を発した。
「なあ花梨、花見をしないか」
「花見ですか?」
妙案とばかりに、サツキはこちらを見つめている。
確かに春といえば花見なのだが、どうしても躊躇ってしまう。そんな自分を見てもどかしく思ったのか、サツキは上体を起こして力強く言葉を続けた。
「こんなに綺麗な桜なんだ。花見をしないと損ってもんだ」
「……ですが」
躊躇ってしまう理由は簡単だ。
花見を最後にしたのはもう何年も前。
博麗を継ぎ、たった一人で桜の下で酒を飲んだ過去のこと。一人で酒を飲みながら、以前までは共に花見をしていた家族を思い寂しさを覚えた。それ以来、花見はしていない。
自分にとって花見とは、好ましい物ではなくなってしまっていた。
ただ、それをサツキが知るわけもなく。
彼女は純粋に、提案をしてくれていた。
「私たち二人だけでするのもいいし、何なら私の知り合いをできるだけ連れてくるよ。それに、母さんを紹介する良い機会だし」
「……」
「花梨はさ、花見は嫌か?」
サツキは心配そうな表情を浮かべていた。
好きか嫌いかで聞かれると、花見は好きだ。それを忌避するのは、過去の記憶が邪魔をするから。
だが、そうか。考えてみれば、今はもう昔とは違うのか。
「……もう、一人じゃないんですね」
何を恐れる必要があるのか。
自分はもう一人ではない。博麗の巫女として悲しみを表に出さず耐えてきたが、今はその必要はないのだ。
昔とは違う。今は、こうして傍に親友がいてくれる。ならば、返す答えは決まっていた。
「嫌ではないですよ。サツキと一緒に、お花見がしたいです」
そう言えば、返ってくるのは自分の好きな彼女の笑顔で。
「……ああ!」
その笑顔を見ると、とても救われた気持ちになれた。
◇ ◇ ◇ ◇
結局、花見が開かれることになったのは、それから五日後の午後だった。
あまり知人は多くないと言っていたサツキであったのだが、ある知人を捕まえるのに苦労したらしい。そのおかげで、色々と下準備をする時間が確保できたのはまた別の話。
そうして本日。咲き誇る桜と真っ青な晴天の下、ついに花見が開かれることになったのだ。
「なあ花梨、敷物はここでいいか?」
「はい。そこと隣の桜の下にお願いします」
「了解」
鎮守の森の桜の木。一際綺麗な桜の下に、それなりに大きい敷物を敷いていく。
総勢五人。あまり花見としては多くはない人数ではあるが、自分からすれば初めての人数だ。その半数以上が、自分とは面識がないのだから内心では緊張してしまっている。
あまり粗相の無いようにしなければいけない。
「よし、敷物はこんなもんだろ」
サツキの言葉に、確認のため視線をそちらへ向ける。
敷物は、四隅を重りで止めただけの簡単な処置だけ。今日は風も強くないので大丈夫だろうというサツキの判断だ。それに関しては同感なので、軽く頷いてみせる。
シワを軽く伸ばしていた背に、サツキの声がかかった。
「あと三十分もないし、料理持ってくる」
「お願いします」
中へと入っていったサツキを見送り、自分も仕事を済ませてしまう。
立ち上がり眺めてみれば、我ながら良い仕事をしたと自画自賛。桜のチョイスに関してはこれ以上無いほどの綺麗な桜を選んだのだ。お客様にも気に入ってもらえることだろう。
「あとは料理だけですか」
指折り数えてみたが、残っている作業もそれだけだ。
料理はサツキに任せてしまった手前、酒くらいは自分で取ってくるか。
そう思い、神社へ歩き出す。
半ば神社までの距離を縮めた頃。鳥居を潜る人影が視界の端に映った。
指す日光に輝く美しい金髪。お人形のように整った顔立ち。脇に人形を従えて、女性は境内を見渡すように顔を動かした。
一通り境内を眺め終えたあと、彼女の翡翠の瞳がこちらを向く。
「……あっ」
失礼ながらも、思わず声が漏れた。
そんな自分の失態など気にもとめず、彼女はこちらへと真っ直ぐに近付いてくる。初対面なりの距離で立ち止まり、彼女は淡く微笑んだ。
「博麗花梨さん、貴女と直接会うのは初めてになるのよね。初めまして、私はアリス・マーガトロイド。サツキの母親よ」
漂う雰囲気はお淑やかなご令嬢のよう。第一印象としては綺麗の一言に尽きた。サツキも女性としては十分に綺麗な部類に入るのだが、それは彼女も同じようで。血が繋がっていないと言っていたが、こういうところに親子としての繋がりを見ることができる。
一瞬だけ面食らったが、すぐに気を持ち直して頭を下げた。
「はい、この度はよくおいでくださいました。ここの巫女を勤めております、博麗花梨と申します。サツキさんとは懇意にしてもらっていて、アリスさんのお話も予てよりお伺いしていました」
「あらそう。あの子からどんな話を聞いていたのか気にはなるけど、それは置いておいて。私も貴女については娘から山のように話を聞いていたわ。これからもあの子と仲良くしてあげてちょうだいね」
「はい! もちろんです!」
返事を聞き、アリスは優しげに微笑んだ。
彼女の笑顔は小さいながらも綺麗で、漂う大人の雰囲気に自分との生きてきた年月の差というものを自覚させられた。
「あれ、母さん。もう来てたんだ。随分と早いな」
縁側から聞こえてきた声に、二人揃って視線を向ける。
声の主を視界に収め、アリスは軽く細く白い腕を振ってみせた。
「ちょっとね。噂の巫女を一目見ようと思って」
見れば、大皿を抱えたサツキがこちらへと歩いてきていた。
中に入っているのは肉じゃがであろうか。湯気が立っていて、腹を刺激する匂いが鼻腔を刺激する。
そんなサツキの肩には、やはりというべきか祈里の姿があった。アリスを見るやすぐに飛び上がり、祈里はアリスの胸に収まる。
「あら祈里、ご主人様を放っておいていいの? スネちゃうわよ?」
「拗ねないよ。母さんは私を何だと思ってるんだ」
「可愛い可愛い私の娘。間違ってるかしら」
「いんや。少し釈然としないけど正解だよ」
「そう。それは良かったわ」
花梨は、そんな二人の会話を横で眺める。
すぐそこにいるのに、何故か二人が急に遠くにいるように感じてしまった。それは紛れもない疎外感である。
話慣れているというか、こういうのが親子の会話なのだろう。楽しそうに話す二人を見て、少しだけだが小さな寂しさを抱いた。
自分には、母親なんていないから。
「ほら祈里、そろそろ戻ってこい。上海が射殺すような視線向けてるぞ」
主に急かされ、祈里はフワフワとサツキの肩へと戻っていった。
アリスの胸の中も幸せそうであったが、やはりサツキの肩が一番好ましいようで。そんな祈里を見て、アリスの肩に座る上海というらしい人形も眉根を下げた。
サツキの手に持つ料理を見て、アリスは口を開く。
「見たところ、準備はまだ終わっていないようだけど、何か手伝いましょうか?」
「いや、いいよ。あとは料理を運ぶだけだし、私と花梨だけで十分。母さんは先にあそこで寛いでてくれ。なあ、花梨」
「えっ、あっはい! 全然大丈夫なんで、どうぞあちらで休んでいてください!」
突然に話を振られ、驚きから取り乱してしまう。両手をアワアワ動かしながらも、何とか言葉を発することはできた。
一対一なら取り乱すこともなかったのに、何でなのだろうか。自分でも、その原因はまったく分からない。
「そう? じゃあお言葉に甘えるわね」
上海を連れて、アリスは桜の下へと歩いていく。その後に続いて料理を運ぶサツキ。それを見送り、花梨も神社へと急ぐ。メインである酒が無ければ何も始まらない。
何せ、今日はお花見なのだから。
結局はかなりの大所帯となった。
初めて顔を合わせた鴉天狗の二人、アリスにサツキ、そして自分。五人もの人間と妖怪が一堂に会したのは、人生の中でも初めてのことだった。
二つのシートに分かれて座り、それでも会話は分かれることはなく。
お互いのシートを行き来し、垣根など感じさせることもなく花見は進行していった。
「本当、椛が来れなかったのは残念だったわね」
酒樽片手に、姫海棠はたては口を開く。その隣を見れば、同じく酒樽を両腕に抱いている射命丸文の姿があった。花梨もそれなりに酒には強い自信があったのだが、そこは流石鴉天狗と言ったところか。酒樽をコップ代わりという荒技は、人間の身では到底真似できそうもなかった。
「椛さんですか?」
「うん。白狼天狗なんだけどね、哨戒任務があってどうしてもね」
「それは残念でしたね。私も会ってみたかったです」
最初は緊張していた花梨だが、やはり酒の席。気付けば気さくに話せるようになっていた。ただ、それもはたてや文の性格によるものであるのだが。
椛の名前が出てきたとたん、文の表情が陰る。
「椛、止めておいた方がいいですよアイツは。人の揚げ足ばっかりとって、いけ好かないやつなんで。花梨も気をつけてくださいね」
「椛がそれするのは文だけでしょうが。間違った知識を他人に植え付けるの止めなってマジで」
仲良さそうに話をする鴉天狗の二人。
横を見れば、ひと組の親子が咲き誇る桜へと視線を向けながら、各々の人形と戯れている。周囲を飛び回っている上海を手繰り寄せ、アリスは懐から大事そうに一体の人形を取り出した。
「アリスさん、その人形はいったい……」
「新しい人形よ。前の子はちょっとガタが来ていたから。昨日できあがったの」
見えやすいようにと、人形を軽く掲げてみせるアリス。
時折、光に照らされて細い糸のような物が視認できる。それはアリスの指先と人形を繋いでおり、サツキの手に見えるものと同じものであった。
「へぇ、この子が新しい人形か。相変わらず、母さんは手先が器用だな。羨ましいよ」
「何言ってるのよ。人形操作が扱える時点で、サツキも十分に器用でしょうに」
「いやいや、さすがに母さんには及ばないって。人形なんて作れないしな、私」
眼前では人形と戯れる親子がひと組。
桜の間から溢れる日差しが、二人の姿を明るく彩る。外見上はあまり似通っていない二人だが、漂う雰囲気は同じもので。
「……っ、負けないッ」
「こっちこそ! アンタにだけは絶対に負けないわよッ」
少し目を離した間に、どうやら天狗組も盛り上がっているらしく、文とはたてが酒樽を真上に持ち上げて喉を鳴らしていた。その光景にはさすがに少し引いてしまったが。
「……」
そんな、眼前に広がる光景を眺めながら、ぼんやりと思考する。
友達が出来ただけでも、身に余る幸福だと思っていた。
それが、こうして大勢の人たちと花見をすることが出来るようになっている。今までは考えられなかったことだ。
陽の光、舞い散る桜の下、酒を飲む皆の姿。
この光景を、忘れないように覚えていよう。鍵をかけて、無くしてしまわないように大切に仕舞っておこう。何時でも取り出して、思い出せるように。
「サツキ」
「――――?」
「ありがとう」
「……ああ」
きっと本人に自覚はない。
こうして花見を開いてくれたのだって、花梨の内心を見透かしてのことではないはずだ。ただ、皆で花見をすれば楽しいだろうと思っての行動だったのだろう。サツキの想像以上に花梨が楽しいと感じたのは、サツキに語っていない花梨の秘めた思いから来るものだ。
軽く微笑むサツキを見て、どうしようもなく実感する。
「本当、楽しいですねぇ」
新春の木漏れ日は暖かく、流れる風は桜を攫う。
心地よい春の息吹に頬を緩めながら、天を仰げば広がる青い空。
今年の春は、とても暖かかった。
春よ、来い(切望)