魔法の森の中にある一軒家。その主である魔法使い――アリス・マーガトロイドは大きな溜息を吐く。彼女の耳を打つのは、窓を叩く静かな雨音。視線を窓の外に向ければ、ポツポツと雨が降っていた。木々に遮られているので、地面へと届く水滴は殊のほか少ない。
寂しげに鳴り響く雨音は、今のアリスの心情を見事に表していた。
「……明後日か。憂鬱だわ」
嫌だとばかりに首を振る。それでも、明後日という日がやって来ることは火を見るよりも明らかだ。避けられないことなど分かっている。分かっていても、アリスの口からは溜息が止まらない。
机に項垂れるアリス。そんな主人を気遣うように、上海がふわりと飛んでくる。
「ええ、大丈夫よ。あの子には悟られないようにするから」
主に頭を撫でられ、上海は嬉しそうに体を攀じる。その様を見ながら、アリスが思うのは娘のこと。
サツキの前で、アリスは弱っている姿を見せることは許されない。アリス・マーガトロイドは一児の母だ。母が娘の前で弱っている姿を見せれば、娘を不安にしてしまう。
だからこそ、どれだけ辛くてもアリスは弱っている姿を見せることはない。
「もう大丈夫。さあ、早く降りましょう」
暗い気持ちを無理やり押し込め、アリスは立ち上がる。踏み出すその歩みからは疲れの色が見られない。目元の隈を化粧で隠し、背筋を伸ばし歩き出したその姿は、先ほど沈んでいた女性とは思えない。
それだけ、アリス・マーガトロイドという女性は強い母親だった。
◇ ◇ ◇ ◇
最近、母さんの機嫌が悪い。
動きにもムラがあり、この前は夕食に生の牛肉が出てきたくらいだ。これはもはや、一種の事件である。まあ、すぐにそれに気づき、私と一緒に作り直したのだが。
普通に食べられるレベルには、夕食のメニューを持ち直させることはできた。
「どうしようか、祈里」
時刻は夕方。勉強も一段落した私は、椅子に深く腰掛ける。机の上には開きっぱなしの参考書が置いてある。それを閉じる元気は、残念ながら無い。
両手の平に祈里を乗せ、大きな溜息を吐いた。
「私がなんか出来たらいいんだけど」
悩みは母さんについて。
昼食を食べたあと、母さんは自室に篭ってしまった。どれだけ忙しくても、家族間のコミュニケーションを疎かにしなかった母さん。最近では話そうにも、母さんが何かに没頭していることがほとんどで、満足に会話すら出来ていない。
別に、構ってくれないのが淋しいのではない――いや、嘘だ。本当は寂しい。
だが淋しいからと言って駄々を捏ねるほど、私も子供ではない。きっと何か理由があるのだろう。それが大したことじゃないのならいい。だが、母さん一人じゃどうしようもないことなら、助けになりたい。
なりたいのだが……
「なあ祈里、どこまで踏み込んでいいのかな」
分からないと首を振る祈里。
根本的に、私は母さんの悩みを知らない。なぜ最近、何かから逃げるように作業に没頭しているのか。その原因が分からないのだ。これでは助けようがない。
ならばそれを聞き出せばいいのだろうが、果たしてそれは正しい選択なのか。今の私にはそれすらも分からない。私が聞いてはいけない内容なのかもしれないし、母さん自身が私に聞いて欲しくないのかもしれない。
つまるところ、今の母さんに対する接し方がわからないのだ。
だが、それも仕方のないこと。
何せあんな母さんは初めてなのだ。経験のない事態に、私はこうして頭を悩ませることしかできない。
そんな私だけど、一つだけ分かっていることもある。
「……こうして悩んでても、何も変わらないよな」
どれだけ悩もうとも、私が行動を起こさない限り、母さんの助けになることは出来ない。
嫌われるかもしれない可能性が頭を過る。怖いが、私はそれでも覚悟を決めた。
「行こう祈里、母さんの部屋に」
母さんの悩み、それを聞く覚悟を。
「母さん、私だけど……入ってもいい?」
軽くノックし、しばらく待つ。
返事はない。それでも、部屋の扉は開けられた。そこにいたのは母さんの一番大切な人形である上海。
「ありがとう上海」
扉を開けてくれた上海にお礼を言う。
見れば、母さんはベッドに仰向けに寝転がっていた。
周囲には多くの魔道書が散乱している。腕を目の上に乗せた母さんの姿は、酷くやさぐれて見えた。
「……母さん?」
「あー、サツキ。どうしたの、もう晩御飯の時間?」
母さんは、私が部屋に入ってきたことにも気づいていなかった。きっと上海が乱数の元、勝手に動いたのだろう。
腕をどけ、時計へと視線を向ける母さん。目の下には隈が出来ていた。
「ううん、まだ夕方だよ。ちょっと話があってさ」
なぜ、もっと早くに動き出さなかったのか。
母さんはすごく疲れている。今まで私の前では、化粧をして隈を誤魔化していただけだ。せめて、家事の全てを代わることくらいなら出来たはずなのに。
今頃になって、後悔が押し寄せてくる。
「なに? また借りたい魔道書でもあるの?」
「違う。――母さん、なんで最近そんなに疲れてるんだ?」
寄り道はしない。いきなり核心を投げかける。
倒れていた体を起こす母さん。それだけの動きが辛いと言わんばかりに、その動きは鈍かった。
「最近徹夜しすぎてね。体が重たいのよ」
「嘘だ。今までだってずっと徹夜してきたじゃないか。それなのに、今回は違う」
「違わないわ。だから少し寝たら元気になる。心配しなくても大丈夫よ」
あくまで徹夜だと言い張る母さん。何をそこまで拘るのかは分からないが、それだけは違うと断言できた。伊達に、母さんの娘を何年もしてきていない。母さんの最近の不調は、徹夜のせいなどではない。
それなのに、苦笑いを浮かべる母さん。私に心配を掛けないように浮かべた笑顔が、とても痛々しい。
私の中で、激情が止められないほどにうねりを上げる。気づけば、声を張り上げていた。
「違わなくない! だって、母さん最近ずっとフラフラしてる。隈だってすごいし、それに何時も考え事してる! 何か悩みがあるんだろう!? 力になれるか分からないけど、私に言ってくれれば――」
言葉を紡げたのはそこまでだった。
起き上がった母さんに抱かれ、言葉は続きを失う。あの動きの鈍さはどうしたとか、言いたいことは色々ある。だが、そんなことよりも心に突き刺さったことがあった。
なんで、私の言葉を遮ったのか。
それは一種の逃げだ。
私にそれ以上は喋るなという行動。そんなに私は頼りないのか。私は、母さんの助けになることなど出来ないのか。
そう考えると、頬を涙が伝う。
母さんの胸の中で、年甲斐も関係なく嗚咽を漏らした。
「そうね……まあ確かに、悩みはあるわ」
そんな私の耳元で、言い聞かせるように語り始める母さん。感情の濁流に流されながらも、私はその言葉に耳を傾ける。
「でもね、貴女に言ってもどうしようもないことなの。だから言わない」
「……なっ、んでっ」
耳を打つ自分の嗚咽。何ともみっともない声だ。とてもではないが、言葉でコミュニケーションを取る種族とは思えないような声。もはや言葉ですらないそれを母さんはしっかりと聞き取ってくれる。
「貴女は一つ勘違いをしてるわ。貴方に言っても変わらないのは事実、でもね――――」
母さんにキツく抱きしめられる。肩に押し付けられる母さんの顔。なぜか、母さんの顔が当たる私の肩は、軽く濡れていた。
「貴女という存在が私にとって、どれだけ救いになっているか。貴女は何一つ理解していないわ」
「――――えっ?」
「どれだけ辛くても貴女の笑顔を見れば耐えられた。どれだけ苦しくても貴女が私を思ってくれる、それだけで私は頑張れた。私はね、今とても嬉しいのよサツキ。貴女が私を思い、私のために泣いてくれている。それがとても嬉しい……貴女にはまだ分からないでしょうけどね」
そう言って母さんは笑った。
母さんの顔が真っ直ぐに、私へと向けられる。母さんは軽く泣いていた。
それはとても綺麗な笑み。隈が濃く、顔は涙で濡れて、とてもではないけど他人には見せられない顔。だけど私は、その笑顔を綺麗だと思った。
「……そんなの、全然分からないよ」
その感覚は、私には分からない。私が母さんを思うだけで頑張れるなんて、そんな簡単なことがあってたまるか。だって、私は何もしていない。何もしなくても母さんは頑張れる。そんなの、私には何の実感もない。
だけどなぜだか理解は出来た。これがきっと、母親というもの。
「ええ。今は分からなくても、何時か分かる日がくるわ。まあ、その時には私もお婆ちゃんになっているわけだけど」
「……外見は大して変わらないだろ、魔法使いなんだし」
「違いない」
涙を拭う。母さんの前で泣いてしまったことで、今更ながら恥ずかしさがこみ上げてきた。顔はきっと赤くなっていることだろう。でもなぜか、自然と内心はスッキリしている。ここ何日間か溜め込んでいた物を吐き出したからなのか。清々しくすらあった。
拭い終えた腕を退け、母さんと視線を合わす。
「なあ母さん」
「なに?」
少し言い淀む。
この年になって、今から言う言葉はかなり抵抗があった。それでも、なぜだか今言っておかないといけないと思ったのだ。
そんな私の左手を、祈里が握る。小さな手、その手はとても温かい。
「あのさ、私は母さんが大好きだから。ずっと、何があっても」
頑張って伝えた私の思い。それは嘘偽りのない私の本音だ。
祈里が後押しをしてくれたから、私は今の一言を伝えることができた。
驚いたような顔を浮かべる母さん。それは次第に、困ったような表情へと変化する。
「まったくこの子は――――無駄に男らしいんだから。口調だけじゃなくて、行動もそう。言って欲しい時に言って欲しい一言をくれる。本当に女ったらしよね」
「いや、同性には興味ないんだけど……」
「――ねえサツキ」
言葉が遮られる。
見れば、何時になく真剣な表情を浮かべた母さん。
「その言葉に偽りはないのね? 何があっても、ずっと――――」
「ずっと、母さんが大好き。それは絶対に変わらない」
「そう……」
大体、私が母さんを嫌うなんて有り得ない話だ。だから、これだけは自信を持って断言できた。
それを聞き、幾分か晴れた母さんの表情。微笑み、母さんは私へと右手を差し伸べる。
「さて、夕食の支度をしないとね。手伝ってくれる?」
「ああ。また生肉なんて出されたら堪らないからな」
「言うわね。じゃあ、よろしく」
「おう」
今回の私の行動が正しかったのかは分からない。何せ、肝心の悩みが分からないのだから。
でも、母さんの顔を見てこれだけは分かった。きっと間違ってはいないのだ。私の存在が少しでも母さんの救いになるのなら、それはとても素敵なことだと思った。