その日は朝から母さんが奇妙なことを言い出した。もっとも、朝から自力でしっかりと起きてきたこと自体も十分奇妙だったのだが。
「祈里と一緒に庭に来てちょうだい」
それだけ言って、母さんは上海を連れて外へ出ていった。
いつになく真剣な眼差しである。出て行く時に、心配そうにこちらを見た上海の顔がやけに印象深かった。
「祈里、なんだと思う?」
聞いてみても、分からないとばかりに首を横に振る祈里。この状況だと、さすがの乱数とはいえ、首を横に振る以外の選択肢は存在しないのだろう。
母さんがああ言ったということは、それなりの理由があるのだろう。真意は分からないが、ここは付いていくしかない。
祈里を引き連れ、私は庭へと急いだ。
◇ ◇ ◇ ◇
家の周りに広がる魔法の森。
辺り一面に生える木々は好き放題に伸びており、日差しは遮られて地面に届くことはない。空気はジメジメしており、昼とは思えないほどにその森は暗かった。
母さんが言うには、この森には化け物茸が生息しており、放出される胞子によって人間が住むには最悪の環境なんだとか。その例外が母さんであり、私。
母さんは種族が魔法使いなので問題はなく、私は少々特殊な体質により瘴気とかそれらのモノが一切効かないのだ。
そんな森だが、私にとっては遊び慣れたホームグラウンド。別に暗かろうがジメジメしていようが気にもならない。むしろ今日は少しカラカラしている方だ。
だが、今日に限ってはそんな空気は皆無。
魔法の森で、私は母さんと正対していた。
「この幻想郷に妖怪がいることは、貴女も知っているわね」
森の中、上海を脇に従えた母さんは早々にそういった。
「うん。もちろん」
「この魔法の森は例外だけど、外には数多くの妖怪が生息している。妖怪は人を殺すし、今の貴女では抵抗すらできずに瞬殺されるわ。それだけ、妖怪という存在は強靭なの。それは、サツキ自身がよく分かっていると思う」
無言で頷く。本で得た知識だが、確かに私は知っていた。
何とも物騒な話だが、母さんの言っていることは事実である。妖怪は人間とは比べ物もないほどの力を有している。私たち人間がいくら足掻いたところで、襲われたら最後。食い殺されて終わり。
事実、里の外に出た人間が妖怪に殺されたなんて話、別段珍しいものでもないのだ。
「でも、魔法の森にいれば安全なんだろ?」
「ええ。この魔法の森は瘴気や茸の影響で、人間は愚か妖怪ですら入ってこれないわ。でもね、この森を一歩出れば違う。外は常に死の危険を孕んでいる」
「……」
「だから、貴女には自衛の術を身につけてもらうわ」
母さんの脇に控えていた上海が、巨大なニードルを構える。
それが意味することは、すぐに分かった。
「貴女は人形操作を習得したわ。だけど、他は皆無。なら、その祈里で貴女は自分の身を守るしかないの――構えなさい」
いつもは優しげな笑顔を浮かべている母さんだが、今はそんな優しさなど欠片もない。浮かべるのは無表情。その顔からは何の感情も読み取ることなどできはしない。
「……」
「――何してるの、早く構えなさい」
「……嫌だ」
体が震える。未だかつて母さんに口答えなどしたことがない。
嫌われるのではないだろうか、捨てられるのではないだろうか。不安で仕方がない。それでも、私は構えなどしない。
そんな私の態度に苛立ちを覚えたのか、珍しく母さんの顔が歪む。
「ダダをこねないで。構えなさいと言っているの」
「嫌だ!」
それでも私は構えない。隣で祈里がアワアワと慌てているのだが、フォローできるような精神的余裕はゼロだ。
しっかりと母さんの目を正面から睨みつける。そうでもしないと、罪悪感で倒れ込んでしまいそうだから。
「じゃあサツキは、妖怪に襲われても突っ立っているだけなの? 抵抗もせず食べられるつもり?」
「抵抗するよ、逃げもする。それでも、祈里を危険に晒すなんて絶対にできない」
そう、それが曲げることのできない私の考え。
母さんの考えも分かる。私だって、ずっとこの森にいるつもりはない。何時かはここを出る時がやってくる。それに、人里に一人で訪れる機会もあるはずだ。母さんがいない状態で妖怪に遭遇すれば、死は免れないだろう。どちらにしても、自衛の術は必要になってくる。
大切な人が死の危険を孕んでいれば、それを取り除こうと思うのが人情だ。
それでも、私は自分の命のために大切な家族を戦わせるなんてこと、できはしない。
「はぁ。貴女はもう少し賢い子だと思っていたけど、仕方ないわね。こうなったら、無理矢理にでも――」
上海の構えていたニードルが鋭く光る。
これはまずい。
母さんの視線は、真っ直ぐに私の隣に浮く祈里に向けられている。
上海が祈里を攻撃してくれば、私は祈里を助けるために祈里を操らなければいけなくなってしまう。母さんは、間違いなくそれを狙っている。
さすが魔法使い。その思考は驚く程に冷静で的確だ。
「でも、やらせない!!」
隣に浮く祈里を腕に抱く。胸の中で暴れる祈里だが、もう少し我慢してほしい。
「――っ!? サツキ!?」
一目散に、私は駆け出した。敵前逃亡も立派な作戦である。
駆けて駆けて、とにかく駆ける。単純な足のリーチは母さんの方が上だ、普通に走っていたのでは簡単に追いつかれてしまう。それに、母さんには私なんかとは違い、上海以外にもたくさんの人形がいる。それらを総動員されれば、見失う前に包囲されることは確実だ。
だったら、どうすれば逃げ切れるのか。
私がこの追いかけっこにおいて、母さんを凌駕している点。
考えればすぐ思い浮かぶ。地形をどれくらい把握しているかという点に限れば、この魔法の森をホームグラウンドにしている私に勝機がある。地の利というやつだ。
それらを駆使して、母さんが私を包囲する前に母さんの視界外から逃げ切る。
子供の身長でしか通れない場所、木が入り組んだ道。それらを優先して駆ける。何時もはあまり通らない道だが、今日は別だ。
幾つもの木々を抜け、たくさんの道を超え、私は駆け続けた。
どれくらい駆けたか、気付けばある樹の下に座り込んでいた。背中に当たる幹の感触が妙に暖かく感じる。
「はぁはぁ」
とにかく疲れた。こんなに走ったのは生まれて初めてだ。
「はぁはぁ……母さん、まだ探してるよな」
当分は帰ることが出来ないかもしれない。帰れば先ほどの焼き回しになってしまう可能性がある。私が自衛の術を他に考えなければ、状況は何も好転しない。
「……」
必死に考えても、脳裏に過る光景が邪魔をして正常な思考ができない。
あの時の母さんは、上海を道具として扱っていた。家族同然に人形を扱っていた、あの母さんが。
確かに、母さんと喧嘩したこともショックだ。だがそれ以上に、武器を構える上海の姿が私を傷つける。
「祈里は道具なんかじゃない。大切な家族だ。私のために戦わせるなんて、できるわけない」
だが、それ以外の自衛の方法を思いつかないのも事実。
「どうすりゃいいんだろうな」
疑問に答えてくれる声はない。当然だ、ここにいるのは私と祈里だけだ。声が返ってくるわけがない。
それでも、返ってくる感触は確かにあった。
「……祈里」
見れば、胸元に抱きしめていた祈里が暴れていた。痛かったのだろうか、悪いと思いながらも開放してやる。
するとどうしたわけか、祈里は私の頭の上にちょこんと腰掛けて頭を撫でてくれた。
「そうだよな、お前を戦わせたくないってこの気持ちだけは、間違いなんかじゃない」
私の行動が正しいのか否か。そんなことは分からない。それでもこの考えだけは間違いではないと、はっきりと断言できる。
「ちょっと野宿することになるけど、付き合ってくれるか?」
はっきりと頷いてくれる祈里。
感傷的になってしまうのは、現状なら仕方ない。少し涙目になりながら、静かに両目を閉じる。
現状でのベストは、母さんが私を見失っている間に遠くへ逃げること。ここに留まっていても、すぐに見つかってしまうだろう。それでも、長時間走り続けた体は疲労が溜まっており、眠気に抗うことが出来なかった。
「ちょっと……きゅうけい……」
そうして、私の意識は暗転した。
◇ ◇ ◇ ◇
「んぁ……」
ここはどこだ。視界に映るのはたくさんの木々。感じるのは生々しい土の感触。
「……祈里?」
目の前には、私の頬を叩く祈里の姿。その力は弱く、触れている程度の感触しか感じることができない。
それでも祈里は真剣で、切羽詰っているように見えた。
「あ、そうか。母さんと喧嘩したんだ」
ようやく意識が覚醒する。
今までの出来事が一気に脳裏に浮かんできて、その情報量に思わず目眩がしてしまった。
頭を一つ振り、振り払う。
「どうしたんだ祈里、一体何が……」
そこまで言って、何者かの足音が私の耳を打つ。
「……母さんか?」
まさか、もう追いつかれたか。
明るさを見ても、寝付いてからまだ半日も経っていない。母さんは私を完全に見失っていたはずだ。この広大な魔法の森を、人形操作の魔法のみで私を見つけるのは相当に時間がかかるはず。
慌てて辺りを見渡した。そして、気づく。
「あれ、この場所……私、知らない」
寝る前は気付かなかったが、ここはどうやらかなり開けた場所のようだ。
木々も森の中である割にはかなり少なく、足音は比較的、木々の多い方から聞こえてくる。
「もしかして、魔法の森の外なのか?」
魔法の森とは、化け物茸が生えている森を指す呼び名だ。
だが、魔法の森にはある地域を超えれば、茸の生えていない場所が存在する。母さんが言っていたことだ。
ここは、魔法の森の外側なのだろう。
「じゃあ、この足音は……」
母さんの言葉を思い出す。
魔法の森を出れば、妖怪はたくさん生息している。遭遇すれば最後、命はない。
「やばい……!」
一気に思考は覚醒する。
色々な考えが頭をすぎるが、どれもこの現状を打破するための一手には成りえない。
そうこうしていたら、足音はもうすぐそこまで迫っていた。
「くっ」
もう他に手はない。背もたれにしていた樹に体を隠す。
幸い、足音は樹を隔てた反対側から聞こえてくる。それに、隠れるのには最適の大きさの樹だ。これならなんとか、隠れることができるだろう。
「匂い……匂い、近い……」
おぞましい声だ。身の毛もよだつとはまさにこのこと。
小さな声ながら、風に流されるように耳に届く低く嗄れた声。
私を探しているのだろう。声から察するに、距離は5mもない。
言い知れぬ緊張感が私を蝕む。歯が噛み合わず、カタカタ震える。
「……樹、後ろ」
バレたのか、声だけでは判断できない。
そもそもそんなことを思考する余裕は欠片もない。頭の中は混乱しており、正常な思考など望むまでもなく。
匂いで場所を探されたのでは、隠れようがなかった。
どうする、このままこの場に留まっていても場所はバレてしまっている。死は免れない。
「祈里、ごめん!」
祈里を胸に抱え込み、震える体に鞭打って、樹から勢いよく飛び出す。
逃げるのは当然、妖怪とは真反対の方向。まだ少し両足が痛むが、そんなこと言っていられない。
「はぁはぁ」
後ろは振り向かない。妖怪の姿も見てはいない。
きっと見ていたら、私は恐怖で動けなくなっていたから。だから、後ろを向くことはできない。
「逃げろ、逃げろ、逃げろ逃げろ逃げろ」
ただ呪詛のように同じ言葉を繰り返す。
声を聞いただけでも感じた濃厚な死の匂い、それから逃げるため、ただ駆ける。
だが、それをあざ笑うかのように、妖怪は鼻を鳴らした。
「……遅い」
呟かれた言葉はとても短い。
視界の横を何かが駆け抜ける。次の瞬間、眼前には巨大な化け物が直立していた。
「__!?」
足が竦み、縺れ転ぶ。何とも間抜けなこけ方だ。だが、そんなことが気にならないほど、体は悲鳴を上げていた。
「あ――ああっ……!
眼前の存在がただただ怖い。見上げるほどの巨体、覗く鋭い牙、動物なのかと疑う程に醜悪な顔。存在そのものが死の匂いを放っていた。
思考なんてできない。人は迫り来る死を前に、出来ることなどありはしないのだ。
「腹、ごめん」
ゆっくりと上げられる化物の右手。あんなもので叩かれたが最後、首と体が分離してしまうだろう。その姿を想像して、絶望した。
そんな時だ、私の視界の先に見慣れた影が割り込んだ。
「――いの、り?」
小さな体に金色の髪。母さんが私にくれた、私の大切な家族。
魔法によって組み込まれた乱数という思考の果てに、祈里は私を庇うように化物の前に立ちふさがった。
息が止まる。
化物はためらわない。祈里ごと、私を殺すためにその腕を振り下ろすだろう。私を守るために祈里が死ぬ。
――そんなこと、許容できるはずがなかった。
「っ!!」
無意識に体が動く。人体では有りえない速度で右手が閃いた。祈里を引き寄せ、化け物に背中を向ける。祈里を守るようにしっかりと、両腕で包み込んだ。その間、わずか一秒。
そして、化物は撃鉄を振り下ろした。