振り上げられる獣の右腕。祈里を抱え込むように蹲り、キツく両目を閉じる。
脳を埋め尽くす死の情景。
血が、骨が、肉が――己の成れの果てを思い、体は自由を失う。視界が暗い中、その想像はよりリアリティを増した。むしろ、咄嗟に祈里を抱え込めたことすら奇跡に近い。これから襲うだろう痛みを思うと、失神しそうなほどに意識が霞む。そんな私の意識をつなぎ止めているのは、胸に感じる確かな感触のみ。
そんな、限界とも言える精神状態がどれだけ続いたか。
どれだけ待とうが痛みはやってこない。
痛覚が死んだか、それとも本当に死んだか――もしくは、私はまだ五体満足なのか。祈里の無事だけでも確認しようと両目を開ける。
「……」
そこにいたのは、化物の一撃を私の知らない術で受け止めている一人の少女。右手に握られた札から放たれる不可視の”ナニカ”が、妖怪の一撃――その威力を削いでいる。
私では想像もつかないだろう力の込められた一撃を、少女はいとも簡単に受け止めてみせた。
「妖怪落ちした人間……ようやく見つけました」
それだけ言うと、少女は懐から別の札を取り出す。
右手に札、左手にお払い棒を持つ姿は巫女のよう。その眼差しは、驚く程に冷たかった。
「妖怪落ちは禁忌の一つ。退治させてもらいます」
「……博麗の巫女ぉぉ!」
感情が希薄に感じられた妖怪。口数が少ない化物が発した怒声。それは、妖怪が少女に気圧されたことを意味していた。
空いている左手を振るう妖怪。だがその姿は焦っているようであり、何が妖怪をそこまで駆り立てるのか分からない。
だが、それもすぐに分かった。
「ふっ――」
お払い棒を一閃。たったそれだけで、巫女は妖怪の腕を根元から切り捨てた。
鮮血が舞う。帰り血を浴びながらも、巫女の視線は変わらない。底冷えするような眼差しは、真っ直ぐに妖怪へと向けられている。
なんて力だ。これは魔力か、いや違う。これは魔力とは似て非なるものだ。だが、ある種の力であることは間違いない。私のような半人前にすらはっきり分かるほど、巫女から溢れ出す力は凄まじかった。
「ひっ!?」
それを妖怪も感じ取ったのだろう。腕が切られたというのに苦しむ様子はない。それよりも、すぐそこまで迫っている死を予感して震えている。
まるで、先ほどの私のようだ。
無音で、少女が動く。
「――――!!」
まるで腕が消えたのかと錯覚するような速度で、巫女はその左手を動かした。その手にあるのは一枚の札。それは狂いなく、妖怪の額へと貼り付けられる。
「グぁぁぁぁぁぁl」
どれほどの激痛が妖怪を襲っているのか。想像を絶する叫びを上げる妖怪。その表情は痛みで歪んでいた。顔は涙と鼻水で濡れ、口は限界を超えて開け放たれている。体は激しく痙攣し、軸が定まらない。
そして、実に十秒。顔に札を貼られた妖怪は、その姿を完全に消滅させる。
あとに残るものは何もない。左腕を切り飛ばされた時の血痕は跡形も無かった。
「――すごい」
知らず、呟いていた。
あれほどまでに恐怖を感じた妖怪を、抵抗することすら許さずに倒して見せた少女。
返り血で、脇の露出した紅白の巫女服は真っ赤だ。彼女の綺麗な顔にも赤い跡が残っている。それでも、彼女の凛とした表情は歪むことはない。まるで一本の大樹のように、揺るぐことなく少女はそこに立っていた。
少女の視線がこちらへ向く。
「大丈夫でしたか? 怪我はありませんか?」
「あ……ああ。助かった、ありがとう」
手を差し伸べてくる少女。その手を取って立ち上がる。
立ってみれば少女との目線の高さに差はなく、似たような年齢なのだろうことが想像できた。
髪は光沢のある栗色。腰まで伸びたその髪はとても綺麗で、少女の優しげな顔立ちととても合っているように感じられた。
「そちらの小さいお友達も、大丈夫ですか?」
少女の視線は私の左手へと向けられている。そこには、しっかりと抱きしめられた祈里の姿があった。
先ほどのことですっかり頭から抜けていたことを思い出す。急いで傷が無いか確認するが、外傷は見受けられなかった。
「ふぅ……」
安堵の息を吐く。
私を守ってくれた小さな女の子は、そんな私の姿を見て笑顔をこぼした。
「よかった、どちらも無事みていですね。すいません、助けるのが遅れてしまって」
「いや、なんでそっちが謝ってるんだよ! 謝るのはむしろこっちだろ、えーと……」
助けてくれた相手が謝罪をしてきたことで、なぜだかテンパってしまう。
そういえば、名前を知らないことを思い出した。なんて呼べばいいのだろう、名前を聞くという簡単なことも思いつかず頭を捻る私を、少女は一瞬呆けた表情で見る。
だがやがて、クスリと笑った。
「あははっ、そんなにテンパらないでくださいよ。私は博麗花梨です、あなたは?」
「サツキ・マーガトロイド……いや、命の恩人がいきなり謝ってきたらテンパるだろ」
笑われたことに多少落ち込む。だけど、綺麗に笑う少女だ。
「サツキさん、って呼んでいいですか?」
「別に呼び捨てでいいよ」
「では。サツキはなんでこんな所にいたんですか? 本来、人間はこんな所に一人で来ないものなのですが」
彼女のそれは、至極当然の疑問だった。
魔法の森ならいざ知らず、こんな森だと先ほどのように妖怪に食べられる恐れがある。普通がどうかは知らないが、なんの力も持たない少女が一人で来るような所じゃない。
「えっと、私は魔法の森に住んでてさ。親とちょっと喧嘩しちゃって、気付いたら妖怪の出るエリアまで来ちゃってたんだよね」
軽く掻い摘んで説明する。
母さんとの喧嘩、その内容まで話す必要はないだろう。それに、身内の問題をおいそれと他人に打ち明けることは出来ない。
「えっ、魔法の森にですか!? でも、あそこは……」
「私の母さんが魔法使いでさ、私自身もちょっと特殊な体質だから」
「なるほど、お母様が魔法使いなんですね。じゃあ、サツキも魔法が使えるんですか?」
そう聞かれて、私は自慢げに左手に抱く祈里を持ち上げた。
「ああ。人形操作っていう魔法でさ。祈里を思い通りに動かせるんだ……ほら」
浮いて、と念じる。それだけで、祈里の小さな体は宙に浮く。それから一通り、ふわふわと飛行させ、最後に私の頭に着地。
それを見て、花梨は目を輝かせた。
「うわっ、すごい! これが魔法なんですね!」
「うん。まあ、私の練度はまだまだなんだけどね。最終目標は母さんと一緒に人形劇をすることなんだけど、母さんのレベルに追いつくのに何年かかるのか……」
祈里と共に日々練習中である。まあ、祈里と一緒に生活するというだけでも十分な練習になるのだが、それでもまだ練度は足りていない。
母さんに追いつくにはあと何年かかるのか。気の遠い話である。
「充分すごいですよ! でも、人形劇ですか……見てみたいですねぇ」
「人里で母さんが時々、人形劇してるから。また見にくればいいよ」
そう言えば、花梨の表情は僅かに曇る。
墓穴だったか。理由は分からないが、彼女がこの話題を好まないということが、表情を見れば分かる。
それでも、彼女は私に話してくれた。
「えっと、人里には私……あまり行けないんですよ。ほら、さっきの私を見ましたよね」
「ああ。私を助けてくれた時のことだろ?」
「はい。私は博麗の巫女といって、博麗神社に住んでいるんですが」
博麗の巫女、その言葉は以前に母さんから聞いたことがある。
確か、人里から離れた所にある神社の巫女さん。その主な仕事は妖怪退治で、それに伴ってかなりの力を有しているのだとか。先ほどの戦闘を見れば分かるが、その実力はかなりのものなのだろう。
「どうも、博麗の巫女が人里に行くと周りが気を使ってしまうようで。あまり私が里に行くのは好ましくないんですよ」
残念そうに語る花梨。
そのことについては分からなくもない。私も、里に祈里を連れて行くと嫌悪の眼差しを向けられることがある。
人間とは異端を嫌う者だ。それが代々、妖怪退治を受け持ってきた博麗の巫女ならば尚更。
「……そうなんだ」
少し空気が固まる。今まで友人どころか同世代とすら満足に会話をしてこなかった私だ、こういう時にどうしたらいいのか全く分からない。
気持ちは多少理解できる。それでも、どう声をかけたらいいか分からない。
しばらく無言が辺りを支配していた。
だが、それは唐突にやってくる。
「あれ、何か来ますね」
先程までの空気を壊すように、花梨は言った。
その視線は、魔法の森の奥へと向けられている。あっちは確か、私が逃げてきた方角。つまり、私の家がある方だ。
やがて、茂みから一体の人形が顔を覗かせた。
「上海!?」
一目散に、私の胸へと飛び込んでくる上海。それを受け止めてやる。重み自体はたいしてないので、簡単に受け止めることができた。
「上海が来たってことは、母さんにバレたかな」
「親御さんですか? それではそろそろ私は戻りましょうか」
「えっ、花梨帰るのか?」
胸に上海、頭に祈里を乗せたまま聞く。
「はい。後処理もあるので、いい頃合なんですよ」
「そっか。今日は本当にありがとな、おかげで――」
礼を言おうとした口を、花梨の人差し指で塞がれる。声にならない息が漏れる。
「別にいいんですよ、それが私の仕事ですから。それでは、私はこれで」
そっと離れる花梨の指。
そのままふわりと宙へ浮く彼女の体。母さんが飛ぶ所を見ていたから驚きはしないが、それでも彼女の力というものを実感する。
それでも、私は花梨とここで終わりだなんて嫌だった。だから私は、花梨に声を投げかける。
「今度また! 神社に行くから! そしたら、私の人形劇を見てくれないか!?」
もう花梨の体はかなりの高度へと達していた。それでも私の声はしっかり届いたようだ。
こちらへ視線を向け、彼女は綺麗に微笑んだ。
「ええ、楽しみに待ってます! 絶対、来てくださいね!!」
大きく頷く。それが最後。
もう振り返ることなく、花梨は空を駆けその姿を消した。
木々から覗く青空を見上げて思う。我ながら、何とも無茶な約束をしたものだ。自衛の術を持たない私が外へ出るなど、母さんが許すわけがない。それでも、私は彼女と約束したのだ。ならば、やるべきことはハッキリしている。
――新しい魔法の取得。
それは新たな目標だった。
祈里を動かすことに成功して数年、私の中にはそれに代わる何かがずっと欠けていた。だが、それは新たな目標として見つかった。
自衛の魔法を覚え、彼女に会いに行く。
これが、私の新しい目標。母さんと仲直りをするための、見つからなかった答え。
遠くから、足音が近づいてくる。それは一直線にこちらへと向かって来ていた。
母さんから逃げる必要は――もう無い。
◇ ◇ ◇ ◇
結論から言うと、すごい怒られた。それから痛いくらいに抱きしめられた。
体中をまさぐられ、怪我が無いか探す母さん。妖怪落ちの人間に襲われたことをなぜ知っていたのか聞きはしない。魔法は万能なのである。
一通りのやり取りの後、母さんに私は決意を告げた。
「私は祈里を使って戦わない。大切な家族を危険に晒すことは、やっぱりできない」
それが私の変わらない思い。それは死を感じた後も変わらない。きっとこの先、あんな状況に陥ったとしても、私は祈里を使いはしないだろう。
「でも、私は自衛の術を習得したい。母さんがいなくても、自由に”外”に行けるように。だから、少し時間がかかるけど……他の魔法を覚えようと思うんだ」
そう、それが私の答え。
祈里を戦わせはしない。代わりに、私自身が戦う。
自分の命は自分で守る。そのために、そろそろ他の魔法を習得する。魔法の才能の無い私が決めた、新たな目標。
「……それは、なんのため?」
「また会いたい友達ができたんだ。いや、まだ友達じゃないな」
だって、私はまだ彼女のことを全然知らない。私の命を救ってくれた強くてカッコイイ彼女のことを、もっと知りたいから。
「友達になりたい子がいる。その子に会いにいくために、私は魔法を覚えるんだ」
母さんが付いてきてくれたら確かに問題はない。だが、それではいけないのだ。
私自身が努力することに意味がある。私だけで行くからこそ意味がある。たとえそれが、どれだけ時が掛かることだとしても。
「……そう、分かったわ」
そう言って溜め息を吐く母さん。
そんな母に心の中で謝罪する。母さんが私を心配してくれているのは分かっている。それでも、これだけは譲れない大切なことなのだ。
「家にある魔道書から、貴女に使えそうな魔道書を見繕ってあげるわ。それだけなら、説明下手な私でも手伝えるでしょう」
「あれ、自覚あったんだ」
「友人から何度も指摘されてきたからね」
その友人という人が気になったが、深くは聞かない。
母さんの友好関係をあまり知らないことに、私は今更ながら気がついた。私が見てきたのは、自宅で鍛錬や家事に精を出す母さんだけだったから。
「じゃあ帰りましょう。とりあえず今日は休みなさい。修行は明日からね」
「うん」
差し伸べられた手を握る。二人並んで見た空は、夕日の色に染まっていた。
こうして、私の忘れられない一日は幕を下ろす。進むべき道は、ハッキリと見えていた。