ほむらちゃんの横顔に汗が見えた時、ちょっとだけ驚いた。汗なんてかかない人だと思っていたからだ。
そこは太陽の下で、下校時間だった。わたしの隣にはさやかちゃんが、その隣に杏子ちゃんが、一番横にマミさんが居て、もう片方の隣にはほむらちゃんが居る。
照りつける太陽がかなり眩しくて、顔を上げるのが少し辛かった。今年の見滝原は猛暑らしくて、ただそこに居るだけで暑さに参ってしまいそうだった。
「あづいー……」
さやかちゃんが頭に手を当てて、汗を拭った。この熱い夏の季節に、学校の制服はシャツだけでも厳しかった。
一つくらい雲があっても良いのに、と思うくらいの快晴で、ちょっとだけ頭が痛い。久しぶりの暑さは、体を重たくする。
「あづー……あっついー……」
さっきから、さやかちゃんは暑いしか言っていない気がする。というか、わたし達全員の気持ちは、暑いで一致していた。
正直、かなり暑い。平気そうな顔をしているのはマミさんだけで、そのマミさんだって汗は隠せていない。
ただ、声に出しているのはさやかちゃんだけだった。さっきまでは我慢できていたけど、無理だったみたいだ。
腕を天に伸ばして、さやかちゃんはうんざりした表情で声をあげた。
「もう、あっつーい!!」
「うるせぇー……」
げんなりした顔の杏子ちゃんが、溜息を一つ出した。少し前まで元気だったけど、さやかちゃんと追いかけあってすっかり暑さに負けたみたいだった。
杏子ちゃんはワイシャツのボタンの上と下を半分開けていて、うっとうしそうにしていた。
「でも、暑いんだって……」
「分かってるって、あたしだって叫びたいんだ。でも叫んだら暑くなるから嫌なんだよ」
「ふぅーん……叫んだって暑いままだけどね、いや、むしろ声に出す分もっと暑いわ。声に出さないとやってられないんだけどね」
炎天下の中で足を進めていると、げんなりするのは確かで、さやかちゃんは空元気で誤魔化していた。
呻きながら、でも少しふざけながら歩くさやかちゃんを見ていると、少しだけ楽しくて元気が出てくる。ただ、太陽の光が当たりすぎて、顔は上げられない。
「本当に暑いよね。わたしも、ちょっと頭が痛くなって来ちゃった」
「あ、まどかも? あたしもだよ。早く家に帰ってアイスとか食べながら涼みたいね。学校も、もっと涼しいなら良いのに」
「……そうなると、冬がとても寒くなるわね」
ほむらちゃんが呟いた。実は、わたし達の中で一番元気が無いのは、ほむらちゃんだ。黒の長い髪は今も綺麗だけど、熱を吸い取って熱そうだった。
何となく、その黒い髪に手を近づけてみると、確かに熱い。気配に気づいたほむらちゃんが、わたしに向かって首を傾げてくる。
「何?」
「いや、ほむらちゃんって髪が黒いから、さ」
「ああ、そういう事。そうね、確かに熱がこもりやすい髪だから、夏場は暑くなるわ」
軽く掻きあげようとして、ほむらちゃんは顔をしかめた。
「……熱いわね」
髪に入れていた手を途中で引き抜くと、ほむらちゃんは耳元に軽く手を触れて、それから落ち着いた雰囲気で乱れた髪を直した。
ほむらちゃんは、マミさんの次に制服をきちんと着ているけど、暑くないんだろうか。
「熱がこもるって言うとさ、服もきつい。こういう時は男子が羨ましいっていうかさ……蒸れるんだよね、べたついちゃってさ」
少しの間だけ、さやかちゃんが何を言っているのか分からなかった。ただ、何となく分かる気がした。
「あ……うん、そうかも。暑いよね」
「いや、スカートの分涼しいかもしれねえぞ」
「まあ、そうかもしれないけど……こっちがさ、こればっかりは外して歩くのも無理だし」
シャツの胸元をひらひらと揺らせながら、さやかちゃんは元気そうな小学生の下校を見つけていた。
わたし達より四つは下くらいの子達が、元気に駆け回っている。汗はかいているけど、辛そうじゃない。それを見て、さやかちゃんが息を吐いた。
「小さい頃に戻りたくなるよね、ほんと。あの頃は暑さなんて気にもならなかったのに」
「今より薄着で良かったしな。制服とか、本当に冗談かってくらい熱いぜ」
「本当に。正直、外に出る時は薄手のシャツ一枚で十分だわ。それでも暑いくらいだし」
手で扇ぎながら、さやかちゃんはマミさんへ視線を送った。
わたし達の中だと、マミさんはそこまで辛そうではなくて、むしろ平気そうだ。
「マミさんは。大丈夫なんですか?」
「そうね。そこまで辛くは無いけれど……でも、蒸れて気持ち悪いのはちょっと、辛いわ」
マミさんがほんのりと面倒そうな顔をしていた。
そこで、さやかちゃんと杏子ちゃんが目を合わせる。なんだか、困った風だった。
「マミはほら……アレだからな」
「ああ、うん。マミさんならそうだよね。夏場は暑くって当たり前か」
さやかちゃんの目がマミさんに向かうと、何だかわざとらしく咳払いをして、誤魔化した笑いと一緒に話し出した。
「そういえば、マミさんの部屋って結構窓が多いし、直射日光がきつくないですか?」
「ええ、エアコン無しじゃちょっと辛いわ」
「マミの家はまだ新しいマンションだからな。断熱がちゃんとしてるから、まあ死ぬ程じゃないさ」
杏子ちゃんは懐からチョコレート菓子の袋を取り出して、「溶けてる」と残念そうに言った。
「それ、貰ってもいい?」
「食うのか? 溶けてるぞ」
「ああ、平気平気。食べられるよ」
袋を手にとって、チョコレートに触らない様に一つ口に流し入れた。溶けたチョコレートは暑かったのか、さやかちゃんの顔がちょっとだけ嫌そうになる。
ただ、甘くて美味しかったからか、すぐに機嫌良くなって、杏子ちゃんに袋を返す時は、残念そうにしていた。
「……もう一つ食う?」
「うん」
すぐに返事をして、さやかちゃんは袋からもう一つを食べた。
それを見たほむらちゃんが、とても気だるそうにしていた。わたしが近づくと、何とか顔を向けてくれるけど、どこか疲れはてている様にも見える。
「二人とも……元気ね」
「あはは……」
呆れている、んじゃなくて、疲れている様に見えた。
体力はある筈だから、多分、心の方が暑さでダメになっているんじゃないかと思う。
それを見ていたのはわたしだけじゃなくて、マミさんもだった。ほむらちゃんの顔を見ながら、心配そうにしていた。
「ここまで熱いと、うっかり倒れちゃいそうね。水分補給はきちんとしないと……佐倉さんは大丈夫?」
「んあー……ああ? まあ、倒れるほどじゃねえよ。水もちゃんと飲んだしな」
そうは言っても、杏子ちゃんはものすごく暑そうだ。髪の色が赤だからか、わたし達より何だか熱を帯びている気がする。
「しっかし、まあ、見事なくらい暑いよな。あたしよりまどかとほむらは大丈夫かよ」
「え、大丈夫だけど……どうして?」
「いや、あたし達より体力無さそうだからな」
バカにしているのとは、少し違った。杏子ちゃんは本当に心配してくれている。
わたしは大丈夫だけど、ほむらちゃんはどうだろう。顔を見てみると、その時だけは平然としていて、どこか強がっていた。
その表情で分かってくれて、杏子ちゃんは「そうか」と呟いて、鞄を持ち直す。
「あっちぃー……今度の休みに、どこか涼しい所に行きてえなぁ」
「海?」
わたしの些細な一言で、みんなが良い反応をした。海、そうか海か、海、なんて言って、足を止めている。
「海かぁ。そういや、全然行ってないな」
「あたしは去年行ったけどね、夏休み中だったから人が多すぎてさ、むしろ他より暑かったかも」
「まだ夏休み前だし、今なら大丈夫じゃないかな」
それでもお休みの日だとどうだろう。そう思ったけど、夏休みに入った後よりはまだ少ない気がする。
そう考えている間に、マミさんとさやかちゃんが真剣に海へ行く相談をはじめていた。
「マミさん、今週の休みは空いてますか?」
「ええ、大丈夫よ。佐倉さんは、確か予定は無かったわね」
「まあな。ほむらも……いやまあ、予定は無いよな」
「それ、どういう意味かしら」
「そういう意味さ」
杏子ちゃんが肩を軽く竦めて、ああ、と呟く。
「そういえば、手持ちはずっと昔の水着しかないな。さやか、貸してくれるか?」
「前に使ったので良かったら、いいよ。とびきり可愛いのを貸してあげる」
「い、いや、そういうのは良いから、普通ので頼む」
恥ずかしそうに避けようとしているけど、最後にはスゴく可愛い水着を渡される様に思った。
「楽しみだね、ほむらちゃん……ほむらちゃん?」
少し楽しみにしながら話を振ろうとすると、ほむらちゃんが何だか落ち込んでいる。
「……」
「どうしたのほむらちゃん?」
「……水着を、持ってないの」
とても残念そうな一言だった。
「そうなの? ……買いに行く?」
「いえ、手持ちは生活費だから、あまり出費が多いのはちょっと……学校ので良ければ、それで行っても良いけれど。遊びに行くなら、ちょっと変ね」
だから買えない、と言って、ほむらちゃんはまた落ち込んだ。暑さで疲れているのも有ってか、とても悲しそうに見えた。
思わず手を握ると、ほむらちゃんが顔を上げる。手の感触は少し熱かったけど、汗のべたつきは感じない。不思議に思いながら、今は気にしないことにした。
「気になるなら、わたしのを貸すよ?」
「……貸してくれるの?」
「うん。借りていって? ほむらちゃんになら、いいよ」
「ありがとう。それなら、ぜひ借りたいけど……サイズは大丈夫かしら」
「大丈夫だと思うけど、ちょっと細めのを選ばないとダメかな。多分、わたしの方が太いし」
軽くお腹を撫でて、ほむらちゃんと見比べた。制服があるから、完全に分かる訳じゃないけど、やっぱりわたしの方が太い気がする。
そんなわたしの気持ちに気づいているのかいないのか、ほむらちゃんは普段とは違う、薄く目映い笑みを見せた。
「ありがとう」
手を握り返されて、ほむらちゃんの手が奥の方では冷たい事に気づく。だけど、それを言葉にする前に、手はわたしから離れて行った。
「じゃあ、今週の日曜日ね。うん、問題なし? ……じゃ、決定で!」
暑い中、さやかちゃんは元気に手を叩いた。体が暑そうだったけど、元気で吹き飛ばしていた。
「あ、まどかは無理なダイエットとかするんじゃないよ? 次の休みまでに痩せておこうとか」
「お、思ってないよ?」
「本当? まどかってそういうの全然自信無いし、あたし達に見られる前にちょっとでも痩せたいとか」
「考えてない、考えてないって」
一つも考えていないと言えば嘘になるけど、それに気づかれるのも恥ずかしいから、何とか隠した。
さやかちゃんの楽しそうな視線を逃れて、目を逸らす。そんな時、ほむらちゃんがわたしの肩を軽く叩いて、小さく頷いた。
「心配しなくても大丈夫でしょう? ダイエットなんてしなくても、まどかは十分細いわよ、ね?」
「……う、うん」
助け船を出してくれたのは嬉しいけれど、ほむらちゃんみたいに確信に満ちた瞳で見つめられるのも、少し居心地が悪かった。
今後、ほむらちゃんにどうやったら細くなれるのか聞いてみよう、そう、ひっそりと誓った。
+
自転車から降りて荷物をカゴから取り出すと、海の香りと風が顔を撫でた。
その日の天気も、海へ行くと決めた日と同じで快晴だった。ただ、通学路よりは涼しく、居心地も悪くない。
「自転車で行ける距離にあって良かったわ」
「うん」
ほむらちゃんは穏やかな表情のまま、海を眺めている。その横顔に汗の一つも無いことが見て取れた。
自転車で結構走ったのに汗の一つも浮かべていない。ほむらちゃんは、太陽の光を少し眩しそうに受け入れていた。
「行きましょうか。少し遅れてしまったわ」
「そうだね。急がなきゃ」
小走りに駐輪場を抜けると、階段の下には海が広がっていた。
マミさんとさやかちゃんが浜辺の入り口でこちらに手を振っていて、杏子ちゃんは折り畳みの小さなパラソルを立てている。すぐ側には着替えられる場所があって、自動販売機も立っていた。
みんなへの挨拶もそこそこにして、辺りを見回した。
「思ったより人が少ないね」
「まあ、良かったじゃねえか。人だらけで逆に暑いよりはマシさ」
パラソルを張り終えた杏子ちゃんが戻ってきた。一足先に水着姿となっていて、普段より少しだけ落ち着きがない。
とてもかわいい水着姿だと思った。いつもより、ちょっと幼く見える。
そんなわたしの目に気づいて、杏子ちゃんは背中を向けた。
「ジ、ジロジロ見るなよ」
「あはは、ごめんなさい。でも、かわいいと思う」
「それが恥ずかしいんだよ、まったく」
杏子ちゃんが小さく溜息を吐いた。
楽しい気分になりながら、わたしは空を軽く見上げた。雲は無いけど、照りつける暑さはずっと楽になっている。
「良い天気で良かったね。太陽の方も、今日はちょっとだけ大人しいかな。うん、タイミングが良かったみたい」
「ええ、本当に良かったわ」
ほむらちゃんが相槌を打ってくれた。
それを合図にしたのか、さやかちゃんが大きく手を叩き、水着の入った袋を手に取った。
「それじゃあ、さっそく着替えよっか。杏子、荷物見ておいてくれる?」
「ああ」
「わたしも残るね」
手を挙げて告げると、さやかちゃんは察してくれたらしく、「わかった」と言ってそのまま更衣室に入っていった。
その場に残ったほむらちゃんが足を止めて、首を傾げている。
「まどかは、着替えないの?」
「えへへ、実は中に着て来ちゃったんだ」
服を脱いで水着を見せると、ほむらちゃんは納得してくれた。
それから軽く微笑んで、わたしの目を見て頷いた。
「いいわね。とっても似合ってる」
「ありがとっ、って、あ、ごめん、この服を一緒にしまって貰ってもいい?」
「ええ、任せて」
その場でわたしが脱いだ服を受け取って、ほむらちゃんは大事そうに服を抱く。そこまで大切にしなくても、と思うくらい丁寧に持って、「着替えるわね」と更衣室へ歩いていった。
残った杏子ちゃんとわたしは、一度向き合った。杏子ちゃんが足下の袋に手を伸ばして、中から日焼け止めのクリームを取り出した。
「あいつらが戻ってくる前に日焼け止め、使っておくか?」
「そうしようかな。首筋とか、日焼けすると痛いんだよね」
「ああ、そうだったっけ」
先に杏子ちゃんがたっぷりクリームを取って、体に付けた。
わたしもチューブから多めに絞って、首や、日焼けしたくない場所に塗る。クリームの効果なのか、すっきりする様な冷たさを感じた。
「これって冷たいんだね」
「みたいだな」
気になる場所に塗り終えた所で、さやかちゃんが戻ってきた。
水着姿のさやかちゃんはわたしの姿を見て、楽しそうに笑いかけてきた。
「まどか、可愛い水着持ってたんだね」
「うん、前に一回買ったんだけど、着る機会が無くて」
「へぇー。でも、うん、まどからしいと思う」
「そうかな……ありがと」
わたしがお礼を言うと、さやかちゃんは手を振った。一番水着を着こなしていて、一番に堂々としているのが、さやかちゃんだ。
遅れてほむらちゃんが更衣室から戻ってくる。わたしの貸した水着をきちんと着ていて、足早にこちらへ向かっていた。
「結局、ほむらは着れたんだ?」
「大丈夫よ。サイズも問題無かったわ」
「体型は同じだったのか?」
「ええ」
「……同じだったと言えば同じだったよね」
わたしには少しきつい水着だったのに、というのは、わたしとほむらちゃんの秘密だった。
目配せをして頷き合っていると、マミさんが左右を見回しながら歩いてくる。さやかちゃんがその姿をじっと見つめると、マミさんは目を逸らした。
「マミさんのは意外に控えめですねー。スタイル良いんだから、もっと凄いのを着れば良いんじゃないですか?」
「それは、ちょっと恥ずかしくて。最近は忙しかったから、海にも行かなかったし……」
「太ったのか?」
「ち、違うわよ? ただ、あんまり慣れてないから……」
マミさんは咳払いをして、息を深く吸った。かなり落ち着いてきたのか、もう恥ずかしそうな雰囲気は消えている。
「それにしても、佐倉さんはとても可愛い水着を貸して貰ったのね」
「ち、違うぞ。あたしはこういうのは嫌だって言ったのに、さやかが無理矢理だな」
「えぇー、結構楽しそうだったでしょ」
笑いながらも日焼け止めを受け取って、さやかちゃんは全身に塗り始めた。
効果はすぐに現れたらしくて、気持ちよさそうに息を吸っている。
「くぅぅ、これ冷たくて気持ちいぃー……スッキリするわぁ」
「だよね、本当に効果あるのかなぁ……」
「きちんとした製品だから、大丈夫だと思うわよ?」
「あ、マミさんもどうぞ」
「ありがとう、使わせて貰うわね」
マミさんは日焼け止めクリームを片手に乗せると、肌の出ている部分にきちんと塗っていた。私達よりも丁寧で、肌に気を使っているのが分かった。
やっぱり、綺麗な人はそれなりに努力をしていて、綺麗になっているんだろうな、と思う。
さやかちゃんはそこまで深く努力はしていないのを知っていて、ほむらちゃんは分からない。なら、杏子ちゃんはどうだろう。
「どうした?」
「え、いや、何もないよ?」
勘の鋭い杏子ちゃんがわたしの目に気づいた。
でも、首を振って返すと気にせず視線を外してくれて、ほむらちゃんと話し込んでいる。
「いいよな、ほむらは普通の水着でよ。恥ずかしくなくてさ」
「確かに恥ずかしさはそれほどないけど……見せる為に着ているんじゃないから、あまり見ないで」
「へいへい、ほむらこそあたしの水着はあんまり見るなよ」
「見ないわよ、特に興味も無いし」
杏子ちゃんに顔を向けないまま、ほむらちゃんは平坦な声で返事をしていた。その間にも、日焼け止めを塗るのは忘れていない。
それはわたし達の使った物とは違うメーカーの製品で、いつの間にか取り出していた。
「それは?」
「肌があまり強くないから、こういう商品を使って守っているの」
パッケージを見ると、確かに肌の弱い人の為の製品だと分かった。色白のほむらちゃんが持っていると、とても説得力がある。
「ほむらちゃんって、やっぱり肌が弱いんだね」
「そう? まどか、どうして分かるの?」
「いや、だって肌白いから……」
ほむらちゃんは無自覚だったらしく、言われて少し遅れてから「ああ」と小さく呟いた。
「あまり日焼けのする環境に居なかったからかしら」
「確かに、ほむらと太陽って似合わないもんね」
聴き方によっては微妙にヒドい言葉だと思ったけど、本人は気にせず、わたしをじっと見ている。
どうしたのかと思っていると、ほむらちゃんは無造作にこちらへと手を伸ばしてきた。言いたい事が何となく分かって、わたしも同じ様にした。
「うん、やっぱりほむらちゃんの方が白いんだね」
「……の、様ね」
お互いの腕を並べれば、色合いの違いはすぐに分かる。
でも、最初から分かっていたから、そんなに変だとも思わなかった。ほむらちゃんは、少し残念そうだったけど。
「さやかは随分と堂々としてるじゃねえか」
「まぁねー。海って結構好きなんだ」
さやかちゃんが海と、海辺にいるわたし達以外の人を眺めた。休日だからか、家族連れが多くて、次に友達の様な人達、一番少ないのが恋人同士だと分かる人達だ。
想像よりは少なくて、海に行く分にはそんなに難しくもない。ただ、広がって遊ぶには、やっぱり狭く感じる。
「流石に動き回るのは無理そうだねー。あんまり前に泳ぐと足の着かない所まで行っちゃいそうだし」
「でも、いいんじゃねえか? こういうのは雰囲気だろ、雰囲気。あたしとしては、気分が涼しいだけで十分だぜ」
杏子ちゃんは袋からスナック菓子を取ってきて、その中から何枚か摘んで食べる。杏子ちゃんの言う通り、気持ちは涼しくなっていた。
「そうかも。いや、最初からビーチバレーとかはやるつもりも無かったけどね」
「でも、いざ海に行くとやろうかな、なんて気持ちになるのよ。久しぶりに来たからかしら、意外とテンションが上がるわね」
機嫌の良さそうな様子のマミさんが、小さく伸びをする。海に入る前の準備運動みたいな物だったのか、深呼吸をしていた。
釣られる様に、わたし達も簡単な準備運動をした。海は待ってくれていて、時間もまだまだ有る。急いで行く事もない。
ただ、それでもさやかちゃんは待ちきれなさそうに足を踏み出していた。
「さぁーて、とりあえず行ってみよっか。あ、杏子とほむらは泳げたっけ?」
「大丈夫だ。ほむらはどうなんだ?」
「問題ないわ」
堂々と答えると、ほむらちゃんはくるりとわたしに目を向けた。
「まどかは、平気?」
「うん。普通くらいには泳げるよ」
普通くらいには、だけど。そう言うと、ほむらちゃんは微笑んだ。心配してくれたのかもしれない。
そんなわたし達を余所に、杏子ちゃんが空になったお菓子の袋を畳んで、袋から取り出した別のビニール袋へ戻していた。
「ゴミはこいつに頼むぜ」
「お、用意良いじゃん」
「まあな、ちゃんと持って帰らないとダメだろ」
「そうだけど、なんか杏子が言うとうさんくさい」
不満そうな顔になった杏子ちゃんが、さやかちゃんを睨む。ただ、鼻を鳴らすと、口元に元気で楽しそうな笑顔を溢れさせた。
「あたしの事より、早く行こうぜ。こんな格好だってのに、ちょっと暑くなってきた」
「だね。マミさん! 早く行きましょう!」
「二人とも、足下には気をつけなきゃダメよ?」
「はーい!」
さやかちゃんと杏子ちゃんが、二人揃って飛び出していった。
その背中を追いかけながら、マミさんは見守る様な目をしている。そして、わたし達が出遅れたのに気づいて、手招きをしてくれた。
「ほむらちゃん、もう行っても大丈夫?」
「もちろんよ。まどかの好きな時に」
ほむらちゃんと頷き合い、一緒に並んで海へ向かって歩く。ビーチサンダルが砂浜を踏んで、いい音を鳴らせた。
一番早く海に足を着けた杏子ちゃんが感動した風な声をあげている。それを聞いていると、もっと早く近づきたくなった。
「おお、こりゃ海水の感じだな」
「海水の感じって……いや、分かるけど」
「でも、海水って感じだろ? こう、何か違うんだよな。悪くないぜ」
杏子ちゃんは足を浮かせて海水を軽く持ち上げると、一気に蹴り上げた。海水は少し離れた所まで飛んで、水滴の様に落ちていった。
それを見たさやかちゃんが同じ様に水を蹴り飛ばした。ただ、杏子ちゃんより短い距離しか飛ばなかった。
「意外に、これって難しいんだね」
「ああ、コツがあるのさ、コツがな。ま、それよりちょっと先まで行ってみようぜ。流石にここじゃ海に入ってる気がしねえ」
「賛成っ、とりあえず腰の所までは行かないとね」
「泳いで行くか?」
「いやぁ、歩いていこう。その方が楽しいと思う」
二人はゆっくりと海の中へ入っていった。その足取りは素早くて、競争している様にも見える。
腰の下くらいまで海水に浸らせて、ただ歩いているだけでも楽しい。そんなさやかちゃん達の空気が、こちらまで伝わってくる。
自然と、わたしの足も早くなった。早く海に入りたくなって、少しだけほむらちゃんより前を歩く事になる。
「わっ……」
流れてきた海水が足の先に触れた。そこで、ためらわずに踏み入れる。
足が海水に着くと、どこか、形にできない感動が押し寄せた。久しぶりに来た海だけど、どうしてそこまで嬉しいのかは分からない。
背中に気配を感じると、そこにはやっぱりほむらちゃんがいた。わたしがはしゃいだ姿を和やかに見ていて、その瞳は大人びていた。
「海に来るの、そんなに久しぶりだったの?」
「いや、うん。そうだけど、何だか凄く嬉しくって」
「そう。だったら、ほら」
ほむらちゃんはわたしより先を歩いて、待っていてくれたマミさんの側で立ち止まった。
腰の辺りまで海水に浸かっていると、不思議な浮遊感がある様な気がする。そのまま体が浮かんでしまいそうで、気分がいい。
「こうやって歩いてるだけでも、結構楽しいね」
「確かに、プールとはまた違った魅力があるわ」
ほむらちゃんは腰まで浸かった海水に手を入れて、軽く手を振った。飛び散った海水はわたしの所には届かず、関係ない方向へと消える。
杏子ちゃん達はもう少し離れた、胸の下くらいの深さで遊んでいる。
わたし達が見ている中、杏子ちゃんが海に素早く潜ると、一気に後ろへ回ってさやかちゃんを突き飛ばした。
顔から海水に落ちて、さやかちゃんがすぐに頭を上げた。海水が口の中に入って、気持ち悪そうだ。
「う、しょっぱい。もう、杏子!」
「へへ、成功だな」
「この、お返しだー!」
さやかちゃんが杏子ちゃんの両肩を掴んで、一気に沈めた。
途中までは杏子ちゃんも頑張って顔を上げようとしたけど、すぐにさやかちゃんを海の中で捕まえて、一緒に海へ潜り込んだ。
二人とも海の中に沈んで、それを見たマミさんが困った様な顔で、でも、とても楽しそうに笑っていた。
わたしも二人に混ざろうとして、海の中のさやかちゃんに足を引っ張られた。ただ、わたしが転ける前にほむらちゃんがすかさず後ろへ回って支えてくれる。
「あ、ありがと」
「気にしないで」
ほむらちゃんは後ろから近づいてきた杏子ちゃんをわたしごと避けた。
反対側からさやかちゃんも襲いかかったけど、ほむらちゃんは身体を少し横へ逸らして避け、自分の髪を撫でる。
浮き上がってきた二人が、同じ様に口元を押さえた。海水を少し飲んでしまったらしい。
「失敗失敗、ほむらを何とか沈めてやろうと思ったのに」
「流石に引っかからないわよ」
どこか呆れた様子のほむらちゃんを見ていると、イタズラがしたくなる。
ほむらちゃんの背中は隙だらけだった。ただ、ほむらちゃんが怒らないかと思うと、手を伸ばすだけで実際には動けない。
迷っているわたしに、さやかちゃんと杏子ちゃんが頷いた気がする。ほむらちゃんの意識を二人が集めてくれている間に、やるべきなのかも。
ちょっとだけ潜って足を掴み、引っ張った。さやかちゃん達の時とは違って、ほむらちゃんはあっさりと沈んだ。
海の中でわたしと目が合った。一瞬だけ、ほむらちゃんはひどく驚いた様子だったけど、次の瞬間には落ち着いて、わたしを海の上に持ち上げた。
「う……ん、まどか?」
「えへへ、引っかかった」
笑いかけると、ほむらちゃんはやっぱり驚いた風な顔をしていた。
怒っているという感じではない。そこで安心すると、唇に染み込んだ海水の味を思い出した。
「やっぱりしょっぱいね。うぅ、海水が目にしみる」
「ええ」
わたしの言葉に同調していたけど、ほむらちゃんは特に苦しそうでもなく、海水の味も気に留めていないのが分かる。
さやかちゃんと杏子ちゃん、それにマミさんがわたし達の様子を見て、愉快そうに笑っている。
そんな笑い声を聞くと、ほむらちゃんは少し迷った後で、「まったく」と言って肩を竦める。嫌がっているのではなさそうだった。
「ほむらって隙が無い様で意外と隙が多いよねー」
「油断したわ。あなた達に気を取られるなんて」
「あたしらはともかく、まどかの事は無警戒だもんなぁ」
本当に失敗したと思っているのか、ほむらちゃんは目元を押さえた。その意外で珍しい表情に、杏子ちゃん達がまた笑う。
ほむらちゃんの滅多に見れない顔を引き出せて、嬉しかった。そこまで無防備な信頼を利用したのは、ちょっとだけ、ちょっとだけ居心地が悪かったけど。
ほんの少しの居心地の悪さを胸にして、海に入っている他の人達を観察する。家族の人達が多くて、浮き輪をつけた子と親御さんが一緒にいた。
「……わたし達と同じくらいの年の人って、あんまり居ないんだね」
思った事を口に出すと、ほむらちゃんが反応する。
「時々居るようだけど、そうね、少ないと思う」
「わりと意外だよねー。マミさんの知り合いは居ますか?」
マミさんはしばらく周囲を見回すと、小さく首を振った。
「いいえ。見滝原中学から来たのは私達だけみたい」
「なんか意外だ。他にも居るかと思ったんだけどな」
「だよね。まだ海に行きたいっていう人も少ないのかな」
「夏休みに入ったら凄い事になるでしょ。やっぱり、休み前に来て正解だったね」
だねー、なんて返しつつ、近くで遊んでいる子供のはしゃぎ声を耳にした。少しだけ、懐かしい光景に思えた。
マミさんも同じ様な気分なのか、わたしと同じで小さい子を眺めている。ずっと昔に置いてきた物を思い返す様な、そんな表情で。
「ま、いいや。さて、まずは何するよ?」
「このまま適当に遊んでてもいいんだけど、何か目標でも作る?」
どこか浸る様な気持ちでいたけれど、明るい声が届いて我に返った。さやかちゃんと杏子ちゃん、二人は今が楽しいと全身から気持ちを溢れさせていて、こちらまで気持ちが盛り上がってくる。
海の水はほんのり暖かく、それでいて最終的には冷たい。身体が冷えない程度の冷たさは、身体を動かすにもちょうどいい。
そんなにも居心地がいいからか、さやかちゃん達はただ話しているだけなのに、どんどんと調子が上がっていった。
横で聞いているだけでも、少し無茶なんじゃないかな、という方向に話が行きかけた所で、マミさんがもっと穏やかな内容に変えた。
流石に分かっていたんだと思うけど、さやかちゃん達は軽く謝って、それから笑い出す。
釣られて楽しさが溢れてくると、不意にほむらちゃんがわたしの手を握った。いや、さっきから握っていたのに気づかなかっただけだ。
「まったく、あの二人は元気なんだから……」
「あはは、でも、二人とも仲良しで見ていて嬉しいかも。こう、なんだかこっちまで気持ちが明るくなってくるって言うかさ」
「分からないではないけど、そうね、まあ、分かるわ」
満更でもなかったのか、ほむらちゃんは小さく頷いた。特に、杏子ちゃんをじっと見つめている気がする。
「友達と海に来るなんて、いつぶりだったかな」
「ええ、本当に……」
水に濡れたほむらちゃんの髪が顔に張り付いていて、いつもより髪が纏まって見える。目元にまで髪が来ているからか、少し嫌そうだ。
そんな髪で隠れた左耳に、紫の光が見えた。
「あれ、ほむらちゃん。右、あ、左耳に……」
「汚れでもあった?」
髪を軽く持ち上げると、そこには飾り一つない普通の耳があるだけだった。
紫の光なんて有る筈もなくて、ただ、ほむらちゃんの肌の色だけが分かる。
「ん、ごめん。気のせいだったみたい」
「そう? それならいいわ」
髪を元に戻すと、ほむらちゃんは少しだけ鬱陶しそうに前髪を分けた。
海水が髪を伝って目に入っているみたいで、しきりに目元をこすっている。
「ほむらちゃん、あんまり目を海水でこするのは良くないと思うよ?」
「そうね、確かに……少し目が痛むわ」
「大丈夫?」
「自分の身体の弱さに涙が出てくるくらいには大丈夫よ」
冗談を言えるくらいには、大丈夫らしい。
ほむらちゃんが冗談を言うのは本当に珍しくて、驚かされてしまう。
リラックスしているのか、ほむらちゃんの口元はかなり緩んでいた。目元だって穏やかそうに整えられていて、機嫌も良さそうだ。海が楽しいのか、空いている手で海水に触れては離れている。
本当に珍しい物が見れた。
「まどか?」
ほむらちゃんがわたしの視線に気づき、顔を向けた。
「えっ」
「いえ、美樹さん達、もう決まったみたいよ」
いつの間にか、さやかちゃん達が少しずつ移動しながら、こちらへ手を振っている。
さらに、その先ではマミさんがわたし達を呼んでいた。他の人がそれほど使っていない、広く遊べるスペースを見つけてくれたみたいだ。
マミさんの腰より上くらいの浅さで、うっかり溺れてしまう事も無さそうだった。
「まどかー、早く来てー!」
「うん!」
海で遊ぶ風に上手く気持ちを切り替える事ができた。結局は何をして遊ぶのかも知らないけど、きっと何でも楽しいだろう。
海の中だから、あまり早くは動けない。それでも楽しい気分が足を早めてくれて、思ったよりも自分が上手く歩いていると実感する。
海の水が自分と一緒に歩いてくれているみたいだ。とても水の中だとは思えないくらい軽やかな足取りに、自分でも驚いてしまった。
+
どれくらい遊んだだろう。まだ少ししか遊んでいない気もするけれど、きっと実際には何時間も過ぎているんだろうな、と思う。
さやかちゃんと杏子ちゃんが追いかけ合う中、わたしとほむらちゃんは二人に近づいたり、話しかけたり、追いかける所に加わったり、そんな風にして遊んでいた。
杏子ちゃんが捕まえてきたよく分からない生き物をさやかちゃんに見せたり、それでさやかちゃんが逃げたり、端からそれを眺めていたほむらちゃんが不意に満面の笑顔になって周りを驚かせたり、色々な事があった。
気分は楽しいまま、ほんのりとした疲れだけが背中に来る。それも、伸びを一つすれば吹き飛んでしまうくらいの物だ。
心の軽やかなまま顔を上げ、少しマミさんの所に行こうかなと思う。
その時、何か柔らかいものが足を通りすぎて、ちょっとした寒気が走った。思わず口から驚きの声があがり、ほむらちゃんが首を傾げる。
「な、なんか今足に触った!」
「ん……」
ほむらちゃんが水の中を眺めた。
わたしにはよく見えないけど、ほむらちゃんはまるで海水の中が全て分かっているかの様だ。
しばらく見つめ続けて、やがてほむらちゃんが息を吐いた。
「足を見せてくれる?」
「うん」
ちょっと力を入れると足が持ち上がる。そこには、特に変な腫れは無い。前にうっかり角で打ちつけた痣が有ったり、靴下の痕はあるけど、それだけだった。
「良かった、クラゲではないわね」
「……何だったの?」
「小さな魚よ、ええ、魚」
どこかごまかす様な口振りだったから、何となく、魚じゃなかったんだろうな、と感じた。でも、クラゲではないのは嘘じゃないと思う。
自分の足を眺めると、靴下焼けが目立っているのが分かってしまう。そっとほむらちゃんへ視線を送ると、制服でほんのりと部分日焼けをしていた。
さやかちゃんと杏子ちゃん、それにマミさんも確認してみれば、それぞれ日焼けの度合いに違いがある。
「よかった」
「?」
「え、あ、いや。何でもないよ。うん」
自分が一番目立つ日焼けをしていないのに安心していたとは、恥ずかしくて言えない。
ほむらちゃんには、この気持ちはきっと分からないだろう。何とか聞き流してくれたから、良かったけど。
「おっと、隙あり!」
「無いわ」
杏子ちゃんが海水をかけようとすると、ほむらちゃんはわたしの両肩を抱いて横へ避けた。それから足で水を飛ばして、近づいてきていたさやかちゃんの顔に直撃させる。
「ぶっ……! なんであたし!?」
「近かったからよ」
堂々と言いつつも、ほむらちゃんの口元が仄かに笑っている。とても、少しだけ楽しそうに見て取れた。
さやかちゃんが持ってきていた水鉄砲をほむらちゃんに撃ったけど、やっぱり避けてしまう。
「よし、まどかー!」
「え」
「ほらっ!」
わたしの顔に海水が飛んできて、ちょうど戻ってきていたほむらちゃんの後頭部に直撃した。
思ったよりも勢いが強かったからか、前髪にまで届いた。髪から滴り落ちる海水で髪が降りて、目元がまるで見えなくなる。
「……」
黙ったまま、ほむらちゃんは勢い良く振り返り、水の抵抗を無視してさやかちゃんの懐まで近づき、水鉄砲を奪い取る。
さやかちゃんの戸惑った顔に、海水が叩きつけられた。
ほむらちゃんがちょっと怖い笑顔になり、水鉄砲を奪い返そうとしたさやかちゃんが飛びかかった。
「やったなこのぉ!」
「やったわよっ」
水鉄砲を取られない様に上手く腕を揺らせ、さやかちゃんの手を軽やかに避け続けた。
さやかちゃんは頑張っているけど、ほむらちゃんがほとんど水に入っていない様な動きをするので、追いつけない。
「それ、あたしのなんだけどな」
横で見ていた杏子ちゃんが小さく呟いた。
すると、ほむらちゃんはくるりと身を翻し、一瞬水の中に落ちる様に潜ると、現れた時には杏子ちゃんの側に居た。
「なら、あなたに返すわ」
「お、おう……」少し困惑してから、杏子ちゃんは笑った。「よし、ありがとな。よしよし、さやかにもお返ししてやらないと」
とてもいい笑顔の杏子ちゃんに見つめられて、さやかちゃんがじり、と後ろへ逃げた。
その背中に水鉄砲が撃たれる所を、ほむらちゃんがじっと見ている。怖い笑顔ではなく、愉快そうにしている。少なくとも、そう見えた。
「みんな!」
マミさんがわたし達を呼んでいる。
水鉄砲を持っていた杏子ちゃんも、潜って水を回避したさやかちゃんも、わたしとほむらちゃんも一斉にマミさんへ視線を集中させた。
そんな視線の数々に気圧されず、マミさんは砂浜に一歩踏み出した。
「そろそろいい時間だし、何か食べましょう? みんなの分も持ってきたの」
「確か、ここって食べるのはいいんでしたっけ?」
「ええ。そこの看板に書いてあったのよ」
マミさんは砂浜に上がり、余裕たっぷりの微笑みで私達を呼んだ。
そういう風にされると、すぐに戻ろうという気持ちになる。どんな先生よりもマミさんの言葉には従いたくなる色があって、足は自然と砂浜へ戻っていた。
きっと杏子ちゃんやさやかちゃんも同じだろう。今までのはしゃぐ気持ちはそのままに、晴れやかな顔のままで足が向かっているんだ。
砂浜から足を踏み出すと、マミさんが迎え入れる様にしてタオルを差し出してくれる。最初から準備していたかの様で、とてもさっきまで海に居たとは思えない。
「い、いつの間に……」
「あなた達が私から目を離した時に、ちょっと戻ったの。お腹が空いている頃かと思って。飲み物も用意はしてあるけど、保存していた物だから風味が飛んでしまっているかもね」
わたし達のパラソルへ戻ると、ブルーシートの上に大きな水筒が二つと、大きめのお弁当箱みたいな物が乗せられていた。
「こっちが紅茶で、こっちがコーヒー。どっちも結構甘い味に調整したんだけれど、どちらを飲む?」
「私はコーヒーでお願いします」
ほむらちゃんが真っ先に告げると、紙コップを手に持った。マミさんが一瞬戸惑うくらいの素早さで、気づいた時にはコーヒーを注いでいる。
コーヒーを一口飲むと、ほむらちゃんは僅かに目尻を下げて、気分の良さそうな息を吐いた。よく見なければ分からないくらいだけど、それは、美味しかったという反応で間違いない。
そんな顔を見ていれば、わたしだって飲みたくなる。紅茶の方も気になったけれど、後で飲めばいいかと決めた。
「じゃあ、わたしもコーヒーでお願いします」
「いいわ。甘く作ったつもりだけど、苦かったらミルクもお砂糖も用意してあるから、遠慮しなくていいのよ」
「大丈夫です、苦かったら耐えられませんから、我慢せずに言います」
ちょっとした冗談めかして言ったからか、マミさんが笑ってくれた。
もちろん、苦かったら本当に調整して貰うつもりだ。苦いよりは、甘い方が絶対に好きだから。
でも、まずいのはあり得ない。そんな確信があって、実際に飲んでみた時も、思ったより甘くておいしい、という感想だった。
気づけば、マミさんは少しわたしに顔を近づけて、首を傾げていた。
「どうだった?」
「あまくて、美味しかったです。あの、マミさんはコーヒーも作れるんですね、凄いです」
「いえ、これはその、恥ずかしいけど、お店で買ってきたのを自分なりに調整しただけなの。あっ、紅茶は自分で淹れたわよ? 鹿目さん、紅茶も飲んでみてくれないかしら」
「はい、あ、でも先にコーヒーを全部飲みますね」
コーヒーを一気に飲み干すと、少しだけ苦みを感じた。でも、それは飲めない様な辛い苦さではなくて、甘みの中に少しだけ含まれた残り香の様な物だった。
「紅茶をおねがいしまーす」
「はい、どうぞ」
空になった紙コップに紅茶がそそぎ込まれた。透き通る様な紅茶の色合いが、とても美味しそうに見える。飲まなくても、きっと美味しいと思えるくらいだ。
その色の中にある味を考えながら飲んでみると、想像よりも良い香りが口の中に広がった。まだ身体に残っていた海水の匂いが、紅茶に塗りつぶされている様だ。
「おーい、あたしらの分もくれよー」
「はいはい、そんなに慌てないの」
杏子ちゃん達の紙コップにも紅茶を注ぎ、最後にマミさん自身の分を入れている。
ほむらちゃん以外はコーヒーを選んでいない。そう思っていると、ほむらちゃんはコーヒーの入った水筒を手にとって、お代わりを貰っていた。
「ほむら、あんたってコーヒーは苦い方が好きなんじゃなかったか?」
「そうでもないわよ。確かに、眠気覚ましにはいいけど……別に、甘いのが嫌いという訳ではないわ」
「ほむらちゃん、紅茶も飲んでみる?」
「ええ、でも、新しく出す紙コップがもったいないと思うの」
「んっと、それなら……わたしの飲みかけでよかったら、使う?」
「飲ませてくれるの? ありがとう、助かるわ」
飲みかけの紅茶に口をつけると、ほむらちゃんは「美味しい」とだけ言って返してくれる。
「さてっ、そろそろ食べ物も広げましょうか」
マミさんが箱を真ん中に置いた。
箱を開けると、サンドイッチやそれ以外のパン、飲み物とデザートも人数分用意されていた。他にも、フライドポテトやおにぎりも有って、わたし達が全員で食べる量が揃っていた。
「これ、マミさんの手作りですか?」
「そうね……確かに、殆どは私の手作りよ」
想像した通りの答えに、箱の中の食べ物を一通り見回した。
運んでいる最中に揺れたからか、少し崩れていたけれど、とても手作りとは思えないくらい丁寧に盛りつけられている。マミさんがどれだけ今日を楽しみにしていたのか、これだけでも伝わってくる。
「意外と、軽い飯ばっかりなんだな」
「佐倉さんはもっと重い物が欲しかったの? 作ろうかとも思ったんだけど、海で遊んだ後で本格的な物は食べにくいかと思って。でも、おにぎりの具は色々と考えてみたの。きっと美味しいわよ」
「中身はなんだ?」
「それは内緒。でも、佐倉さんの苦手な物は入ってないわ」
マミさんがとても楽しそうにおにぎりを指さす。形のしっかりした、綺麗な三角のおにぎり。その中に、どうしてか型くずれした物が含まれている。
その中から、杏子ちゃんは一番形の悪いおにぎりに手を伸ばした。迷わず手に取って口へ運んだ時に、マミさんが少しだけ真剣な顔をした。
「んー……チーズか?」
一気に半分食べてから、杏子ちゃんは中身を確認した。のぞき込んでみると、そこには確かに黄色がかった白の、かなり溶けたチーズが混ぜられている。
美味しいのかは分からないけど、杏子ちゃんは特に嫌な顔をしていない。きっと、そんなに悪い味じゃないんだろう。
「ええ、チーズを混ぜてみた、らしいわ」
「らしいって、マミが作ったんじゃねえのか?」
「知り合いの子がね、手伝ってくれたの。私一人じゃ大変だろうからって」
それを聞いた杏子ちゃんが、小さく首を傾げた。
「そいつは誘わなかったのか?」
「小学生だから、他が全員中学生だったらちょっと行きづらいって断られちゃったわ」
ちょっとだけ残念そうなマミさんの態度から、本当は連れて来たかったんだと分かる。どんな子かも知らないから、何となく頭の中で想像するしかない。
そんな中、視界の端でほむらちゃんが自分のおにぎりを確保しているのが見えた。具が分からずに少しだけ迷って二つくらい取ると、ビニールの包みを剥がして、丁寧に両手で掴むと一口だけ食べた。
具まで食べられたのかも分からないくらいの小さな一口の後で、ほむらちゃんはおにぎりの中を見ている。わたしの所からは、赤い身の魚が目立っている。
「これは……シャケね」
「ええ、定番の鮭。バターで焼いたから、ちょっと違う味だと思うけれど、どうかしら?」
「そうね、確かに深みのある味だと思う」
もう一口で鮭の身まで食べて、ほむらちゃんはコーヒーを飲んだ。おにぎりとコーヒーは合わない気もするけど、ほむらちゃんは問題に思っていなさそうだ。
わたしの微妙な感想が伝わってしまったのか、ほむらちゃんはわたしの目を見て、こくんと首を傾ける。
「な、なんでもないよ?」
「そう? 別に構わないけど……まどかは、食べないの?」
「え、ううんっ、食べるよ。もちろん食べる」
マミさんが箱をわたしとさやかちゃんの方向へ持ってきてくれた。残りもまだまだ沢山あって、選ぶにしても迷うくらいだ。
「鹿目さんも美樹さんも、好きな物を食べていいのよ?」
「はーい。んと……さやかちゃん、なにを食べる?」
「そうだねー、じゃあ、あたしはこのサンドイッチを貰おっか」
「わたしはー……この、卵焼きかな」
色合いが少しずつ違う五つの卵焼きから、焼き加減がちょうど良さそうな中間くらいの色をした物を選んだ。
マミさんは箱と一緒に備え付けられていたプラスチックのお皿を取り出してくれて、わたしの選んだ卵焼きをそこに乗せ、手渡してくれる。
「どうぞ。ちょっとした自信作なの」
「ありがとうございますっ、味わって食べますね!」
お皿の上の卵焼きを、一緒に渡されたお箸で半分に切って口にした。
そんなに味は濃くなくて、卵焼きらしい卵焼きの味がする。でも、焼き加減は本当にきちんとしていて、嫌な風味は何一つない。
目が輝きそうになる。同じ物を自分が作れるかと少し考えて、落ち込みそうになるくらいだ。
そんなわたしの感想を、マミさんは表情から読み取ってくれる。ただ静かに顔を見つめて、機嫌良く受け入れてくれた。
「マミさんも、自分の食べるのを取らないと」
「そうね。このままだと私の分が無くなっちゃいそう」
杏子ちゃんとさやかちゃんが食べている所を、マミさんは少し困った風な、楽しそうな顔で眺めていた。
ただ、自分の食べる物が減ってきているのに気づくと、お皿を取って控えめな量を盛りつけた。
「それだけしか食べねえのか?」
「ええ。私はそこまで食べるタイプじゃないの」
「嘘吐くなよ、結構食うだろ……やっぱ、増えたのか?」
「増えてはいないわよ……増えては」
マミさんは本当に嫌そうな顔で杏子ちゃんの追求から逃れようとした。
見た感じでは、マミさんの体型は今まで通りで、特に変わっているとは思わない。杏子ちゃんには細かな違いが分かるのかもしれない。
「そういえば、さやかは最近どうだっけ。太ったか?」
「いや、太ってないけど。そりゃ人並みには気にするからさ」
食べている横でそんな話を聞いていると、量を減らそうかと思えてくる。何とも言えない食べにくさがあって、こっそり戻そうかと真剣に思った。
手に取りかけていたおにぎりを戻そうとした所で、ほむらちゃんと目が合った。ほむらちゃんは、わたしの手をじっと見つめている様だった。
もしも箱におにぎりを戻したら、怒られてしまいそうだ。
「ほむらちゃん、半分食べてくれる?」
「構わないけど、もっと食べた方が体に良いと思う。それくらいで体重は減ったり増えたりしないわ」
「ち、違うって! そういうのじゃなくて……とにかく、そういうのじゃないの!」
「そういうのじゃないのね、ええ、大丈夫よ、そういうのじゃないって、分かってるわ」
ほむらちゃんはあくまで真顔だったけど、話を聞いていたさやかちゃんが笑い出す。遅れてマミさんが小さく口を緩ませて、自作のおにぎりを食べていた。
あまり気にしなくても良い気分になってくる。こんなに楽しい時間に、食べる量を加減する方が変に思えた。
「そうそう、食べ終わった後のゴミは、この、佐倉さんの持ってきたゴミ箱に入れるのよ」
「なんだか、今日のマミさんって保護者みたいですね」
「そうなのかしら。そうじゃないつもりだけど……」
マミさんが満更でもない顔でさやかちゃんの言葉を受け入れていて、どこか照れくさそうだ。
誤魔化す様にして食事を続けながらも、自作の食べ物だからか、マミさんは時々感想を漏らしていた。これは美味しい、これは失敗だったかも、と聞いているだけで、手が伸びそうになる。
どれを食べるか考えている内に、ほむらちゃんがわたしより先に料理を取って、お皿に乗せてくれた。
「これが美味しかったわ。食べてみて」
「選んでくれたんだね。ありがとう」
貰ったお皿の上を見ると、殆どがわたしの好きな食べ物だった。ほむらちゃんに自分の好き嫌いを教えた記憶はないけど、嫌いな食べ物は一つも入っていない。
試しに一つ食べてみたけど、想像していたよりも美味しい。マミさんの頑張りが伝わってくる様だ。
味の中にある幸せを噛みしめていたのは、何もわたしだけじゃなかった。ほむらちゃんもまた、目をそっと瞑って、よく見なかったら分からないくらいに微笑んでいる。
とにかく静かで、ほむらちゃんだけが一人で遠くにいるのかと思うくらい、周りの声から離れている気がした。
「食べ終わったら、もう少し遊びましょうか? 今度は海の中じゃなくて、砂浜の方で」
「いいですねっ、そうしましょう!」
「さやかはどっちでも楽しめるからなぁ。まあ、あたしも文句は無いんだけどね。まどかもそれでいいか?」
「えっ、うん、大丈夫だよ。でも、砂浜って結構熱いから、ちゃんとサンダルを履かないとね」
「おうっ……って、そういえば脱いでたな、あたし」
杏子ちゃんが放り出していたビーチサンダルを履き直していると、ほむらちゃんが何も喋らない事に気づいたのか、顔を覗き込んだ。
「ほむらー?」
一瞬だけ、ほむらちゃんは目を見開いた。ただ、目の前の杏子ちゃんから心を隠す様にして、その感情はすぐに消えていった。
「それ、食わないのか?」
「いいえ、もちろん食べるわ……ちょっと、考えごとをしていただけよ」
ほむらちゃんが何事もなかった様に食べ始めると、杏子ちゃんはそれきり興味を失ったのか、ほむらちゃんから目を離した。
「おーい、ほむら?」
「何……?」
「はい、口あけてー」
静かに一人で食べている風なほむらちゃんに、さやかちゃんがお箸で唐揚げを掴んで口へ運んでいった。
嫌そうに顔を背けたほむらちゃんだけど、わたしと目が合うと、渋々といった体で口を開け、遠慮なく放り込まれた唐揚げを静かに食べる。
飲み込んだタイミングを見計らって、さやかちゃんは悪戯っぽく尋ねた。
「どうよ? あたしはこの味が気に入ってるんだけど」
「……結構、酸っぱいわ。レモンの絞り過ぎじゃないかしら」
「えー? そっかなぁ」
さやかちゃんのお皿の上には、絞り終えたレモンの身が何個か置いてある。数の少ない唐揚げに全部絞れば、それは酸っぱくもなるだろう。
それでも半信半疑で自分の唐揚げを食べると、さやかちゃんは一瞬で口を押さえた。
「うわ、すっぱ! ちょ、ちょっと、このレモン滅茶苦茶酸っぱくないですか!?」
「大人ぶってたっぷり絞るからだ、バーカ」
「唐揚げにレモンってそんなに大人かしら……?」
さやかちゃんが悶絶していて、それを杏子ちゃんは面白がっていた。
そこまで酸っぱい唐揚げを食べて大丈夫だったのか、ほむらちゃんの様子を覗いたけど、顔にはあまり出ていない。ただ、しきりにコーヒーを飲んでいて、何かを耐える様に何度もシートを叩いていた。
表情をよく観察しようとすると、流石に気づかれてしまって、ほむらちゃんはわたしに目を合わせる。そして、少しだけ恥ずかしそうに目線を下げた。
+
お昼も食べ終わって、砂浜でも沢山遊んで、気づけばもうすっかり時間も過ぎていた。
時計を確認すると、そろそろ帰らなきゃいけない頃だ。周りの海水浴に来ていた人達は、もう半分くらい帰っていた。
「もうこんな時間かぁ……」
近くで売っていたアイスを全員で食べながら、空気の涼しさを実感する。
全員、スイカやメロンの様な爽やかな味のアイスを選んでいた。チョコレートでも良かったけど、最終的には、もっと涼しい物が食べたくなった。
「時間ってすぐに過ぎる物ね」
「そうだなぁ。さっきまで、海に入ってたつもりなんだけどな」
よほど美味しかったのか、杏子ちゃんはアイスの棒だけを時々舐めていた。ちょっとだけ疲れた様子で、さっきまでより声に張りがない。
「足がちょっと痛いかも。遊び過ぎかなぁ」
「それ、サンダル無しで走ったからだろ?」
「あはは、まあね。気分良くなっちゃってさ、気づいたらもう裸足だったの」
さやかちゃんの足は砂まみれで、傷は無いけど少し赤くなっている。
人の事を言えない。遊びすぎて砂だらけなのは、わたしやマミさんだって同じだ。杏子ちゃんとほむらちゃんは、近場で足を綺麗にしてきたのか、あれだけ遊んだのに汚れていない。
「また来れるといいわね」
「ですねー。マミさんって高校はどこにするんですか?」
「色々とあるけど、入試の結果次第かしら。見滝原を離れるつもりは無いから、また来れるわよ」
「あたしもそろそろ真面目に進路を考えないとダメなのかねぇ」
「杏子は適当でも大丈夫でしょ。適当にやっていけるって」
「って、言ってもなぁ……まあ、色々と考える所くらいあるさ。色々とな」
ほんの少しの真剣さを顔に宿して、杏子ちゃんがアイスの棒をゴミ袋に捨てる。
「じゃあ、次に海へ来た時はマミも高校生かぁ」
「そんなに変わる物でもないわよ、きっと」
杏子ちゃんはどこか遠くを見ると、ふいに笑った。どうして笑ったのかは、誰にも分からなかったと思う。
そんな表情を正面から見つめて、マミさんが思いついた風に杏子ちゃんの両頬を摘んだ。
「おいっ、何すんだよ」
「ごめんなさい、ちょっとやってみたくなっちゃって、つい」
杏子ちゃんの頭を心の底から幸せそうに叩くと、マミさんは立ち上がった。
「さてっ」
マミさんが立ち上がった時、何かがわたしの肩に乗る感触があった。
横を見ると、ほむらちゃんの頬がわたしの肩に乗っている。
少しの間の事で、すぐに離れていったけど、様子がおかしいのは顔を見れば分かる。ほむらちゃんの目は殆ど開いていなくて、頭が何度も揺れていた。
「ほむらちゃん?」
「ああ、ええ。ちょっとだけ、眠くて」
わたしの声で何とか目を開けたけど、ほむらちゃんは目をこすって、眠たげな欠伸をしている。
見たことがないくらいに無防備で、今にも眠ってしまいそうだった。
「暁美さんも眠そうだし、そろそろ帰りましょうか」
マミさんはその表情を少し意外そうに、それ以上に微笑ましそうに眺めて、どこからかバスタオルを取り出した。
黄色に赤や青、桃色に紫の線が入ったバスタオルは、見た限りだと既製品ではなくて、マミさんの手作りに思える。
そろそろ帰る時間なのは分かっていたので、名残惜しさはあっても、誰もダメとは言わなかった。一番に早く体を拭き始めたマミさんが、一番に残念そうに見えるくらいだ。
「ほむらちゃん? 行かないと」
「ええ……」
荷物をマミさんに任せて、脱衣所に入った。海の近くに着替えられる場所があって、本当に良かった。
ほむらちゃんは何とか持ち直したのか、普通に返事をしてくれる。どこか挙動がぼんやりしていたけど、わたしの服と自分の服を取り出して、バスタオルで体を拭いている。
わたしも着替えようと思っていた所で、さやかちゃんが着替えながら近づいてきた。
「まどか、あんたタオルは?」
「……あ」
言われるまで気づかなかったけど、確かにわたしは服を持ってきたけど、タオルは用意していなかった。
さやかちゃんの手持ちを借りるかどうか迷った時、ほむらちゃんが迷わず自分のバスタオルを差し出してくれる。
「わたしのを使って、いいのよ」
「ありがとう、ほむらちゃん、大丈夫?」
「何も問題は無いわ……眠いけど、それだけ」
よく見ると、髪があまり拭けていなかったり、海水が残っている印象はあったけど、ほむらちゃんは寝ぼけていて、特に違和感も無い様子だった。
「使わせて貰うね」
「ええ、役に立てて良かったわ」
ほむらちゃんは嬉しそうに頷き、少し体を揺らせた。
ただ、周りがもう着替えている事に気づくと、ゆっくりとした動きで服を広げている。
その調子で家に帰るのかと思ったけど、自転車だからきっと平気だろう。
そんな事を考えている内に、もう全員が着替え終わって、袋に水着を片づけた。来年はきっと、違う水着で来ると思った。
「帰ってちゃんとシャワーで海水を流さないと、あまり肌に良くないから、気をつけるのよ」
「はーい」
マミさんの注意を聞きながら、荷物を纏める。
杏子ちゃんがシートの片づけをしていたので、軽く手伝って、すっかり自分達の痕跡が無くなった所で、そっと額を拭って伸びをした。
「荷物は誰が持って帰るの?」
「あたしとマミさんだよ。お弁当とシートはマミさんだけど、パラソルはあたしなんだよね」
さやかちゃんはパラソルの棒を折り畳んで小脇に抱えた。どこか重そうに見えて、思わず駆け寄ってしまう。
「手伝おうか?」
「いや、大丈夫だよ」
さやかちゃんはパラソルを軽々と持ち上げていた。見た目よりも軽いらしい。
手伝えなかった事を少しだけ残念に思う自分がいる。そんな気持ちは別として、さやかちゃんが平気そうな顔をしているのは、とても安心させられた。
さやかちゃんは棒を持ったまま、もう片方の手で水着の入った袋を取ろうとした。ただ、手が届いていない。
わたしが拾って手渡すと、さやかちゃんは大きく頷きながら受け取ってくれた。
「ありがと」
「うん」
「まどか、また来ようね」
穏やかな雰囲気でそう告げられて、頷くよりも、返事をするよりも先に、顔を近づけた。
目が合うと、互いの気持ちが共有されている様な気がした。さやかちゃんには幸せな気持ちが詰まっていて、幸せを感じるだけで、心の奥まで幸福で埋め尽くされそうになった。
「約束だよ」
「ん、約束ね。今回は仁美が来れなかったし、次は仁美の予定が空いている時に、ね?」
「だよねっ、仁美ちゃんの来れる時に!」
「うんうん。あ、でも仁美と……あいつも一緒に来る、なんて事もあるのかなぁ」
「上条君の事?」
「あー、うん……あたしはともかく、まどかのかわいい水着なんて、あいつには絶対に見せてやらないよー……ってね」
さやかちゃんはにこやかで、落ち込んでいる風には見えないけど、ほんの少しだけ吹っ切れていない物を感じた。
わたしが何かを言おうとすると、杏子ちゃんが割り込んでくる。いつもの様に大胆不敵に笑う彼女は、ためらわずにさやかちゃんへ飛び込んだ。
「その時はあたしも呼べよ」
「分かってるって。あんたはどうせ何も言わなくたって付いてくるでしょ」
「まーなー」
軽く、どこか適当にも聞こえる調子だけど、杏子ちゃんはとても優しい声で、体中から温かな雰囲気を漏らしている。
さやかちゃんも気づいたのか、言葉には出さない感謝の気持ちが顔に出ていた。
そして、さやかちゃんはマミさんに話を振った。
「マミさん」
「ええ」
わたし達の真ん中に立つと、マミさんは胸の奥から溢れる様な声を出した。
「みんな、今日は楽しかったわ。次は新しい友達も連れてきて、今日よりもずっと賑やかになれる様に頑張りましょう」
わたし達が話を聞く態度に入ったからか、マミさんは一瞬だけとても恥ずかしそうな顔をして、小さな咳払いを一つする。
そこに加えて、名残惜しさを消し去る風に手を叩いた。
「じゃあ、解散っ!」
「はーい!」
みんな、ほむらちゃんは除く、みんなで手を挙げると、同じ様な足取りで自転車置き場へ歩いて向かった。
来た時と比べてると置いてある自転車の数が減っていて、サドルが熱くなっている。触れない程ではないので、乗る分には問題は無い。
ただ、横に立つほむらちゃんの頭がふわふわと揺れているのが心配になってきた。
「ほむらちゃん?」
「っ、何?」
どうやら寝ていたのか、ほむらちゃんは慌てた様子で顔を上げた。
「凄く眠そうだけど、ちゃんと帰れる?」
「あっ、いえ、問題は……ないわ。ただ、今日は本当に楽しかった、と、思っていただけで」
「そう? あの、家に帰るまで持ちそうにないなら、わたしの家で一回寝てもいいんだよ? シャワーも浴びていけばいいと思うし」
このままの調子で帰ったら、家に到着する前に壁にでも衝突してしまいそうだった。
気にせずに置いておく気持ちになれないくらい、ほむらちゃんは眠そうで、辛そうだ。目元の隈は普段の物なのか、寝不足から来る物なのか、それも分からないくらいに眠そうとしか見えない。
それでも遠慮しているのか、ほむらちゃんは頷かない。ただ、じっと見つめて返事を待っていると、やがて目元を押さえて、小さな息を吐いた。
「そう、うん。分かったわ、まどかの優しさに甘えさせて貰うわね」
「良かった。ちゃんと見ていてあげるね」
「お願いするわ。もう、眠くて眠くて」
余裕が無いのか、ほむらちゃんは自分の体調を隠しもしない。
「何かあったの?」
「いえ、その……恥ずかしい話、今日が楽しみで殆ど寝ていなかったの。実際には、期待以上に楽しかったわ」
眠そうな雰囲気は何も変わっていないけど、その声は本当に楽しそうで、幸せそうだ。
もしかすると、ほむらちゃんがわたし達の中で一番今日を楽しんだのかもしれない。
「ほむらちゃんも、また遊びに行こうね」
「……ええ、また。その時は、きっと」
何度も頷いた後で、ほむらちゃんは何かを言いかけて、口を閉じた。
寝てしまったのかと思ったけど、そうではなくて。
ほむらちゃんは真剣な目つきで空を見て、次にわたしを見て、そしてどこかを見て、最後に前を見て、そのまま自転車に乗った。
涙にも負けず
悲しみにも負けず
因果からも苦痛からも守られる
幸せな鹿目さんがいて
絶望はなく
決して苦しまず
いつも楽しく笑っている
一日にたくさんの幸せと
笑顔と少しの苦労に包まれ
あらゆることが
鹿目さんのために回り
よく理解し愛され
そして忘れられず
見滝原のどこかの
素敵な一軒家に住んでいて
朝に寝坊をしたならば
一緒に走る友がいて
昼にお弁当を忘れれば
みんなに分けてもらえて
眠れない夜があれば
悪魔が朝まで付き合って
テストの前夜にはみんなで勉強し
落ち込んだ朝には励まされ
みんなにまどかとよばれ
あがめられず
神にもならず
悪魔の愛につつまれた
そういう世界で
わたしはいきたい