※Orangestar様から許可は得ています
※アスノヨゾラ哨戒班の小説です。
ㅤㅤㅤㅤㅤ1
毎日、夢を見る。
どこまでも空気が透き通った青い空。
過去にも未来にも決して同じ形を象る事のない白い雲が、青にゆっくり漂う気持ちのいい夏空。
落ちてゆく太陽に照らされる茜色の夕焼け空。
数多の星が点々と輝く、静寂に包まれた幻想的な星空。
そんな、後にも先にも決して見る事のない一度限りの空を、自由自在に飛び回る夢。
背中には成長に伴い大きくなる、夏雲の様に真っ白な翼が生えている。
空の民。人々は、風の魔法と翼を携える彼らの事をそう呼ぶ。
空を飛ぶ術を持たない
道具の力を借りて空を飛ぶ手段を手に入れた。
だが、空の民の『飛翔』は地人の『飛行』とは違う。
そこには制限なんてものはない。
好きな時に、好きなように旋回し、好きなように滑降し、好きな場所へと自分の翼で羽ばたくことが出来るのだ。
楽しく無いわけが無い。
風を切る心地よさ。天上から見下ろす景色のなんと美しい事か。
仮の翼には為し得ない。他の多種多様な種族にも出来ない。
この世界で空の民にだけ与えられた権利。
「――――でも、僕はそれを持っていない」
視界が唐突にひっくり返った。
空を掻いていた大きな白い翼は、まるで
そう、頭から真っ逆さまに落ちているのだ。
翼が無ければ空を飛ぶことが出来ない。
主に飛翔の際、補助として使う『風の魔法』も所詮は『補助』でしかない。
そもそも空の民は、風の魔法にそれ以上を求めない。
だからこれからもずっとそう在り続けるだろう。
冷たい空気が、自由落下するしかない身体へ無情に叩きつけられる。
さっきとは打って変わった寒さの中、どうする事も出来ずに目を瞑る。
これが現実。
翼を持たずして生まれてきた故の運命。
空を飛べない空の民。
それを果たして空の民と呼んでいいのかは定かではない。
ただ、風の魔法を使えることが空の民である事を端的に伝えてくる。
地面が近づく。
恐怖はもう芽生えない。
これは何度も見ている『現実の夢』であって、現実ではないから。
それを理解して、何度も何度も落ち続けてきたから。
今更何も慌てることはない。
ただ出来る事なら、明日なんてもう来なければいいのに。あのまま、空を飛ぶ夢を見続けられれば良かったのに。
肉がひしゃげる鈍い音が聞こえた時には、見慣れた天井が視界に映っていた。
「……、」
今日も未来も変わらない。
翼を持たない明日は……現実は、無情にやってくる。
生を受けて一二年。依然、少年の背中は殺風景なままだった。
ㅤㅤㅤㅤㅤ2
空の民が暮らすのは、直径七~八メートルほどの大きな円形のテントである。
三本の柱とそれが支える細かな骨組みを持ち、天井の中心部分から放射状に屋根・壁の役割を持つ布を垂らす様にできている。
移動時には布を畳み、折り畳み式の骨組みをまとめて、風の魔法を使って運んでいた。
部屋割りなんてものは存在しない。そもそも一部屋しかないため、家族全員で同じ場所で寝るのだ。
仰向けに寝ていた身体を起こして辺りを見渡す。
誰もいない。皆既に布団を畳んで、外に出ているらしい。
これには少し安心した。
起きる直前だけは悪夢を見ていたのだから、もしかすれば辛い顔をしているかもしれない。家族に余計な心配をかけるのは嫌だと思うのは普通の事だろう。
汗を掻いた身体が気持ち悪い。とはいえ、いつもの事である。慣れた手付きで風の魔法を行使。汗ばむ身体に涼しい風を送り込む。
――翼が無いうえに、風の魔法を使う力さえなかったら、心はポッキリ折れてしまっていただろう。
風の魔法の使い道は飛翔の補助だけではない。今の様に風を送り込んで涼んだり、重たい者を持ち運ぶときに活用したりと様々だ。
これすら使えなければ、それはもう空の民とは言えない。
「……いや。もしそうなら、仮の翼も持たない僕は、一体なんなんだろうな」
呟いた後で、気分が酷く落ち込んでいる事に気が付いた。
両の手の平で頬を叩く。
「よし」
立ち上がり、家族と同じように布団を畳んで端にまとめた。寝間着から普段着へと着替えて、入口に掛けられた布をくぐる。
外へ出て真っ先に視界に入るのは広大な草原だった。高く大きく育った木々が立ち聳え、短い草が生い茂る。人の手が一切加えられていない、どこまでも続く自然がそこにあった。
彼等空の民が、地の民達の暮らす『街』で共に生活しないのには理由がある。
単純に、翼を持ち、風の魔法を扱える空の民は、いい値で売れるからだ。
人身売買。
そんなものが街の中で行われている以上、安易に地の民達と暮らす事は出来ない。常に、攫われるかもしれないという危険に身を竦めなければいけないからだ。
他にも様々な幻想的種族は存在するが、中でも彼等は別格だった。
勿論、白い翼を目いっぱい広げて飛ぶ姿を、ただ「綺麗だ」と言う地人だっている。だが、地の民の全てがそのような綺麗な思想を持っている訳じゃないのだ。
それらが理由で、彼らは大自然の中を生きていた。
丘と森を背に広がる緑の中には、いくつもの、白いテントが張られている。
その全てが行動を共にする空の民達のものだ。
背中に白い翼を生やした彼らは、それぞれが朝食の準備を進めていた。
……と言っても、もう食べている家もあるので、起きるのが遅すぎた気もする。
「お兄ちゃん、起きるの遅いよ!」
声をかけてきたのは一歳年下の妹だった。
まだ一一歳だというのに、両親の手伝いをそつなくこなす彼女はとても立派だった。
背中に生える純白の翼も綺麗に手入れされていて、少しの淀みもない。
「ごめん。父さんは?」
「今日も森を見に行ってるよ。この場所には来たばかりだしね。本当はお兄ちゃんの事も連れて行きたかったみたいだけど、起きてこないんだもん。一人で行っちゃった」
「それは悪い事をしたかな」
この場所には数日前に来たばかりだった。
両親や人集の長は「久しぶりに良い土地に出会えた」と喜んでいたから、きっといい場所なんだろう。物心ついてからの移動が二度目の身としては、具合がよく分からないが。
用意されたテーブルには食器類と朝食が盛りつけられている。ここに、父が採ってくるだろう山菜の類を添えれば完成だ。
そうこうしている内に父は帰ってきて、母含めて四人で朝食をとる。卓上では他愛のない話が繰り広げられる。
誰一人として、翼のない家族の一員に負の視線も言葉も向けない。
それが日常。生まれて、物心がついて、今に至るまでずっと変わらない。
普通に接してくれる掛け替えのない家族だ。皆のおかげで、今も生きていられる。
翼が無いための劣等感。
同じ空の民が飛翔するのを、自分は地に足を付けて見上げるだけ。
何度死のうと思ったか分からない。
ただその度に、家族を思い出して踏みとどまってきた。
「いつもありがとう」
思い出しながら、隣で皿を洗う妹にそう告げる。
それを聞いた彼女は、眩しい笑顔を浮かべていつもの様に返してきた。
「どういたしまして、お兄ちゃん」
空の民のスケジュールは緩慢だ。言ってしまえば、特にやることが無いのだ。強いて言えば、家畜の見張りや森での食料調達が『やること』に値する。
それらを終えれば、それぞれが自由に何かをする。
とはいっても、空の民――特に子供――は空を飛んで散策して遊んだりしかすることが無いのだが。
それが出来ない者は何をするか。
出来る事なんて余計に無い。
「……いい場所発見」
簡単な家事を済ませて森の中を歩いていると、景色が開けた場所を見つけ出した。
家が並ぶ草原の、崖を挟んで反対方向。少し距離は離れているが、ここまで来てよかったと思えるくらいの絶景ポイントだった。
地上何一〇メートルも上にある丘の上。眼下に広がるのは、綺麗な湖や草原、林などの広大な自。もっと遠くに目を凝らせば、原生生物の群れだって見ることが出来た。
「ディアーの群れだ」
眼が良い為よく見える。
人の身体の一.五倍ほどの全長を持つ、四足歩行の茶色い原生生物。頭からは二本のうねった角が生えていて、首は少しだけ細長い。
「ここ、夜に来たら絶景だろうなあ」
夜になったらもう一度この場所に来ようと、密かに決意する。
両手は、無意識に風の魔法を纏っていた。鍛えておいて損はないという事で、毎日使って練習しているのだ。
最初は微風を生み出す事しか出来なかったこれも、今では草花を倒すくらいの威力は出せる様になった。
意識して旋風を作り出したり、支点を掌ではない場所にして使ったり等、適当なバリエーションで練習する。
そんな時だった。
頭上からいくつかの声が響いて耳に届く。
「よぉ『羽無し』」
歳の差がほとんど感じられない、子供の声。
翼を持たないが故に他の子供達から付けられた蔑称に、静かに頭上を見上げる。
視界に入るのは、青い空を飛ぶ三つの人影。
その全てが背中から純白の翼を生やし、それを羽ばたかせながら見下ろしてきていた。
三人に共通しているのは、顔に浮かべる嘲笑。空の民で唯一翼を持たない者に向ける嘲りの視線だ。
「……なに」
距離はそれなりに離れてはいるが、声は届いた。風の魔法を作用させているからだ。
突きつけられた蔑称に、表情を崩すことなく静かに応答する。
もう言われ慣れていた。
人集から追い出されたり、あからさまな差別を受けることはない。翼が無い事を笑い話にされることもない。
――大人からは。
だが、十代前半の子供は違う。言ってしまえば、そういう年頃なのだった。仲間外れを笑いものにし、ハブられ者に仕立て上げる。娯楽の少ない環境だ。『類を見ない羽無し』は、子供たちにとって格好の
物心ついて少し経った時には言われ続けていたのだ。
嫌でも慣れる。もっと小さかった頃は家を出たくないくらいまで追い詰められたが、今はもうそんな事はない。
負の感情はもう……湧き上がらない。
「いや? こんな天気のいい日に空を飛べない気分はどうなんだろってなー?」
「おいおい、天気のいい日も悪い日もアイツは空飛べねえんだって」
「天気なんて関係ねー」
キャッキャとまだ少し高い声で笑う三人。心の底から楽しそうだった。
不快だが的を得ている言葉。これを『いじめ』と言うかは知らないが、反論も抵抗もする気が起きないので関係無い。
――ただ、鬱陶しいだけ。
言わせるだけ言わせて、こちらが面白い反応さえしなければ、すぐに飽きていなくなる。
きっと、今回も。
最初以降無視して景色を眺めていると、頭上から舌打ちが聞こえてきた。
「チッ。つまんねーの」
三人組のリーダー格の少年はそう言うと、唾でも吐き捨てそうな様子で翼を羽ばたかせた。勢いよくこの場を去っていく少年に続いて、他の二人も滑空していく。
それを眺めながら、小さく溜め息ついた。
空を飛ぶ三人の姿はすでに小さい。十年以上翼を携えているのだから、その扱いにも慣れているのだろう。飛翔速度も相当のものだった。
「……ただ、鬱陶しいだけ。全然、気にしてなんかいないさ」
自分に言い聞かせるように。口に出る言葉とは裏腹に、脳裏にちらつくのは毎日のように見るあの夢のことだった。
ㅤㅤㅤㅤㅤ3
夢を見るのは、未練があるからなのではないか? 散々明日を嫌い、もうこれ以上先に進みたくない、そんなことを思いながらも、毎日のように『空を飛ぶ』夢を見るのは、まだ心のどこかで空を飛ぶことを願っているからなんじゃないのか? 翼をもたないことを馬鹿にされ、蔑まれ、罵倒され。それでも表情を変えず、気にしていないと答える。そんなのは、嘘なんじゃないか?
自問自答しても、答えなんてものは出てこない。
身体はひたすら「諦めた」「気にしていない」と声を出すだけ。
――そもそも、答えなんて関係ないのだ。
もし心の奥底で、まだ空を飛ぶことを諦めていないのだとしても、それを為す為の『翼』は存在しないのだから。
風の魔法だけでは空は飛べない。
チグハグな心情なんて意味がない。どうせ無理なのだ。感情では、現実は塗りつぶせない。
それなら。
これ以上希望を抱えて、無駄に傷つくくらいなら、そんな願いは無くなればいいのに。
――それでもあの夢は、そんな思いを嘲笑うかのように毎晩訪れるのだ。
ㅤㅤㅤㅤㅤ4
出会いは突然やって来る。
何も変わらない毎日を、普通に過ごしていたある日、空の民の小規模な一団がこの集落に合流した。
というのも、いつか見つけた丘で景色を眺めている時に彼等を見つけて案内したのだ。
人数はギリギリ両手で数えられる九人で、三家族。
どうやら数年に一度の拠点移動の最中だったらしい。
随分と小さな一団だが、特段アクシデントがあって人が減った訳ではないようだ。
子供を持たない夫婦。一人娘を持つ三人家族。息子持ちの夫婦と、その妻の妹を合わせた四人家族の三家庭だ。
「いやぁ、実はかなり長い間移動を続けていまして、そろそろどこかに拠点を据えようと思っていたんですよ」
「ほう、そうだったのですか。こちらとしても、あまり人数が多ければ困るところでしたが、九人程度でしたら歓迎しますよ」
話しているのはそれぞれの一団の長。
合流した一団はかれこれ三週間ほど移動を続けていたらしい。そろそろ居を構えようとしていた所を見つけた訳だ。
空の民は地人に狙われやすい。人数が少ない一団は格好の的だ。そんな現実を理解していたのだろう。
控えめに合併を提案する彼らを、集落の長は快く受け入れた。
人数が少ないのも危険だが、多すぎるのも同様にして危険だ。
移動の際に何かあれば足手まといになるし、情報が行き渡らなくなる事もある。
とはいえ、相手の一団は両手で数えられるだけ。受け入れるデメリットはそう無いと判断したのだろう。
連れてきた当事者として近くに立ち、握手する二人を眺めている時だった。
相手リーダーの奥に立つ八人。その陰から、一人の少女がぴょこんと顔を出した。
年の頃は同じくらいだろうか。薄らと銀色にも見える白い髪が特徴的な、活発そうな少女。白いワンピースを風で揺らしながら、しばらくこっちを見てきた少女は、やがてニっと破顔した。
……よく分からない女の子だった。
茜色だった空が青黒く色を染めていき、やがて雲一つない星の海を目一杯に広げた。灯りに困らないほどの明るさ。綺麗な満月の光に負けじと、星は眩く輝いて存在を主張する。
空気が澄んでいるからだろう、その姿は眼に鮮明と映った。
緩やかな風を浴びながら、向かう場所はいつもの如く件の丘。
あの日あの場所を見つけてから、ほとんど毎晩あの場所へと赴いている。どうせ布団に潜ってもすぐには寝れないのだ。他にやることだって無い為、消去法的にもこの場所に来ることが最適だった。
勿論、消去法なんてしなくとも、毎日でも来たくなるだけの魅力はあるが。
歩き慣れた山道を登り、開けた光景を視界に収めてほぅと一息つく。
何度も通っているので最適化した道にはなっているが、それでもやはり疲れる。
樹のカーテンが徐々に薄くなり、明るさが届くのを感じながら、その場所にたどり着いた。
「いつ来ても絶景だ」
黒いグラデーションに彩られた森や草原。星の光を反射して神秘的な輝きを映す湖。地平線の奥まで続く星の空。何をとっても「綺麗だ」としか言いようのない光景が広がっていた。
今度は感嘆の吐息を漏らしながら、崖の縁に腰を掛ける。
崩れて真っ逆さまに落ちる可能性もあるが、その時はその時だ。
そんな考えが出来るのは、何度か本気で死のうとしているからだろう。死ぬことは怖くない。でも、死んで家族を悲しませるのは怖いから、気を付ける。
それからは、ぼーっと景色を眺めていた。何も考えず、静かに。
すると不意に、視界の上の方に謎の小さな移動物体が入り込んできた。
小さい。物体そのものが小さいのではなく、距離が離れている故の小ささ。
なんとなく、それが空の民なのだろうと思った。
目を凝らしながら小さく呟く。
「誰だろう……」
持ち前の眼の良さにより、その飛行物体が空の民だということはまず分かった。
暗い空の中でそれがはっきりと分かるのは、対象が真っ白い衣服を身に纏っているからだろう。
滑降を始める白い影。顔は見えないが、その様子はとても楽しそうに見えた。翻るワンピース。健康的な肌色の太ももの奥に眠るのは薄いピンク色のパンツ……。
「あれは……あの時の?」
リーダー同士が話している時に見た少女を思い出しながら呟く。
その直後だった。
不意に空を飛んでいた件の少女が、下へと視線を向けてきた。今になって、崖に腰を掛ける存在に気が付いたようだ。パンツをガン見――視線を持ち上げていたため、ばっちりと目が合ってしまう。
「――!」
視線が交錯して少し経った後。
ようやく、このアングルでは自分のパンツが安易に覗かれてしまう事に気が付いたのだろう。バッとワンピースのスカート部分を手で押さえる少女。
視線がばっちり合うくらいには上を見上げていたので、勘違いされてもおかしくはない。
尚、勘違いというのは『パンツを覗くために見上げていたのではない』という点であり、覗いていたことに関しては否定できない。
心の中で「もう遅いけど……」と呟きながら、形式的に視線を逸らす。
この状況から無かった事にするのは至難の業なので、甘んじて何らかの罰を受けようと決意した。
チラりと横目で少女の様子を確かめる。
丁度、こちらに向かって降りて来るところだった。
スカートがめくれない様、ゆっくりと羽ばたいて降下してくる。その表情を確認しないのは、単に目を合わせるのが憚られたからだ。
……いや、よくよく考えれば別に悪い事はしていないのでは、と気が付く。
ここに来るのはいつもの事で、家族に聞けばそれを証明してくれる。
たまたま上を見上げれば彼女がいて、たまたま目についてしまっただけ。不慮の事故。誰も悪くない……いや、無理だな、と俯いて溜息をつく。
「こんな所で何してるの?」
悲観的になっているところに掛けられた声は、パンチラを責めるものではなかった。
俯けていた顔を持ち上げる。手を伸ばせば届く距離に、少女の顔があった。
近くで見ればより綺麗な白銀の髪。肩に触れるくらいのそれは、夜風に吹かれて幻想的に靡いている。交差した視線の奥にあるのは、透き通った青色の瞳。歳相応に活発そうな顔つきはとても整っていた。
間違いない、あの『よく分からない女の子』だ。
てっきり何か小言でも言われるかと思っていた為、思わずきょとんとした顔をしてしまう。
「ふふふっ。なぁに? その変な顔は」
クスクスと笑う白い少女。
さっきの事はなかった事にしてくれるのだろうか? それならありがたい。彼女が許してくれるというのだから、もう気にする事はないだろう。
気を取り直し、表情を少し引き締め、言う。
「お気に入り。結構前にこの場所を見つけて以来、毎晩来てるんだ」
「へえ、そうなんだ。そういえばあたし達の事を見つけてくれた時も君、ここにいたっけ」
「うん。特にやることもないし、暇になったらいつもここまでくるんだ」
「よく飽きないね……と思ったけれど、確かにすごいや」
少女は振り向きながらそう言って、感嘆の吐息を漏らした。まあ、ごく当たり前な反応だろう。ドヤ顔が浮かびそうなのを堪えながら、彼女の視線を追う。やはり、絶景だ。
「毎日ここに来たくなる気分も分かる気がする」
「そうでしょ?」
「空も凄く綺麗だし。もしかしたら今まで見てきた夜空の中で一番綺麗かも。空気が澄んでいるからかな?」
「確かにここら辺の空気は綺麗だね。もうかれこれ半年近く毎日来てるから、一番かと言われれば分からないけど。天気が悪くない限り、大体こんな感じだから」
強いて言えばタイミングだ。季節によって星の見え方は変わってくる。他にも、日によって眩い
となると、彼女は幸せだろう。
あれがある日に夜空を眺めれば、もっと驚き見蕩れるはずから。
「ふーん。でもあたしのパンツを見た事には変わりないよ?」
「え?」
「いやだからさ、君、さっきあたしのパンツ見たでしょ?」
「……、」
「もしかしたら、毎日来てるから見えてしまったのはただの事故、だとか。空を見るのも習慣だから、偶然視界に女の子のパンツが入ってしまっても仕方ない、とか言うかもしれないと思ったからさ」
「い、いや……」
「今日の事は覚えておくね」
どうかこの夜景の事だけであって欲しいと思う心は、形を保てず見るも無残に爆散した。
一体この先どんな目に合うのだろうか。なんとなく、彼女に対して優位に立つことは出来ないだろうと魂が叫んでいる。
流石にそこまで酷い事を要求される事はないだろうとは思うが……。
一周回って真顔になった後、静かに夜景を眺めてると、少はがおもむろに口を開いた。
「ねえ。君ってさ、どうして翼が無いの?」
それはとても、今更な質問だった。
空の民と共に過ごしている以上、翼は人と話すときに必ず視覚する日常の一部だ。事実、今日合流した一団の人達も、翼を持たない姿を見て様々な反応を取っていた。
そこまで考えて、思い出す。
――彼女は、そんな初対面の僕に笑顔で手を振ってくる様な変わり者だったんだ、と。
気づけば口は軽くなっていた。彼女からは、いつも嫌味を浴びせてくる子供達から感じる様な雰囲気を覚えない。ただ純粋に、疑問に思ったから聞いているのだろう。
「そうは聞かれても、大したことじゃないよ。いわゆる、奇形児っていうやつだ。事故で無くしたとかそういう訳じゃない、生まれた時から備わっていなかったんだ。あるのは、風の魔法だけ。だから、僕は正真正銘空の民だよ」
「奇形児……そんなの聞いたことないよ」
「僕だって僕以外の事例は聞いたことないさ。だから史上初、僕が一人目って訳だ」
皮肉な笑いが浮かんでいたのかもしれない。
引き攣った様に頬が持ち上がるのを感じながら少女を見ると、彼女は眉を寄せて「そっか」と一言呟いた。
その顔を見て、胸の辺りに突き刺さるような痛みを覚えた。
なんでそんな声で、顔で見てくるのだ。
空を飛べないことは今に始まったことじゃない。
それもこれも全て受け入れていた。
なのに、どうして、そんな悲しそうな顔を向けてくるんだ。
両親や妹からは向けられたこともあった。最近ではもう全くないが。
でも、赤の他人にそんな目で見られる筋合いはないはずだ。
蔑みの目で見られることはあっても、同情の目で見られるのは納得がいかない。
――空を飛べないのは、翼をもたないのは『僕』だけだ。その感情を知ったような顔をされるのは、気に入らない。
「(……はは、最低だ)」
小さな声が口から漏れる。
反吐が出そうだった。
受け入れたと言いつつも勝手に捻くれて、何も悪くない少女に悪感情を向ける。
どこに好ましい点があるのだろうか。そんなものは何処にもない。
血が滲みそうな程強く唇を噛む。
すると突然、隣に立つ少女はこう言った。
「ねえ、一緒に飛んでみない?」
「……え?」
思わず、意味が分からないという顔を浮かべてしまう。それくらいに、彼女の言っている言葉は理解できなかった。
見ればわかるはずだ。
翼が無いってことは、空を飛べないという事だ。彼女は、一体何を見て「一緒に飛ぼう」なんて提案をしたのだろうか。
飛べない事分かってて言っているのか? と怒ってもおかしくなかったが、どちらかと言えば呆然としてしまった。
「なぁにさっきみたいな顔してるの?」
朗らかに笑う少女。彼女からは、やはり悪意の欠片も感じられない。
困った。苦笑を浮かべながら言う。
「僕は空は飛べないよ。見れば分かる通り翼はないんだし」
言葉を受け、少女は一瞬きょとんとした顔を浮かべ、
「……そっか。だがしかーし、あたしには君を飛ばせる力があるのです!」
「はい?」
「ふふん。実はあたし、他の人よりも魔法力が強いんだよね。だから風の魔法の出力だって強いのです!」
自慢するように小柄な胸を張る少女。
魔法力の強さ。これの強弱が何によって変動するのかは未だハッキリとされていない。勿論、毎日繰り返し使う事で魔法力が上昇することは分かっているが、それだけとも限らない。先天的に強力な魔法力を持つ者も、過去に何人といた。
つまり彼女もその一人なのだろう。
風の魔法は飛翔の補助。
この少女はそれを駆使して、自分以外に人一人を飛ばせようとしているのだ。
「勿論、風の魔法だけで飛ばせる事は出来ないから、あたしが抱える事になるんだけどね」
少女はてへっ、と舌を出しながら額に手を置いておどけてみせる。
確かにそれなら、人一人抱えても空を飛べるかもしれない。
だが、しかし……。
「な、なんかそれは少し恥ずかしいというか……」
「んん、恥ずかしがってるの?」
ニヒヒと笑って顔を覗き込んでくる少女。顔を見られないよう、背けて俯く。
女の子に抱えられて空を飛ぶ、というのは、年頃の男の子にとってハードルが高すぎるというかなんというかだった。
勿論、夢でしか体験したことのない『空』を味わってみたいという感情も大きいが……、
「悩んでいても前には進めない。迷ったらやればいいんだよ」
その言葉に引き寄せられるように、ゆっくりと少女へと顔を向けた。彼女は満面の笑みを浮かべてじっとこちらを見ている。その瞳は、くだらない迷いを吹き飛ばす様な透明感を持っていた。
「――そうだね。分かった」
気が付けば、そんな言葉が口をついていた。
彼女の言葉、そして透き通った瞳からは、そうさせる力を感じた。
女の子に抱えられるからなんだ。
大したことじゃない。
それに、夜故に辺りは真っ暗だ。誰かに見られる可能性だってほとんどない。
「僕を空に連れてって欲しい」
彼女の青い瞳を真っ直ぐに見つめて言う。
すると彼女は、嬉しそうに笑って手を伸ばしてきた。
「そうこなくっちゃ」
彼女の手を握る。その直後、腰の周りに大きな浮遊感を感じた。ビクリを身を竦ませて視線を落とすと、臀部が地面から浮かび上がっているのが見える。
風の魔法の力だ。
確かに彼女の魔法力は強大だった。
「よっと」
感心する間もなく、少女によって身体を抱きかかえられる。直後、背中に感じる柔らかい感触。着やせするタイプなのか、ワンピースのせいなのか、思っていたよりも大きい。
続けて、ふんわりとした甘い香りが鼻腔をつく。
地に足がつかない不安感と浮遊感は、少女の身体と腕によって支えられた。
そして次の瞬間、一気に上昇する。
「う、うぉぉおお!!?」
凄まじい勢いで、冷たい風が風が頬へと叩きつけてきた。靡く髪の毛が鬱陶しい。ただ、同じように靡く白い髪から漂う甘い香りは心地よかった。
目を開けていられない。普段空を飛んでいる人たちは、皆このような感覚を得ているのだろうか。はたまた、自分が慣れていないだけなのか。疑問に思うもそんな余裕はなく、ひたすら強く少女に縋り付く。
「――っ」
突如、身体を襲う膨大な浮遊感を覚え、更に強く少女にしがみ付いた。急上昇していた少女が突如速度を緩めて、慣性で投げ出されそうになったのだ。
落ちたら確実に死ぬ。
風の魔法でも、多少速度は軽減できるだろうがそれだけだ。
必死にしがみつき、落ち着くのを待って、やがてゆっくりと瞼を持ち上げる。
「おぉぉ……っ!」
思わず、感嘆の声が口を出た。言葉に表すのが難しいくらいの絶景だった。
かつて見た事のない、壮大な世界。
見る角度が違うだけでこうも変わるのか。
すべてが小さく見える。小さな明かりを灯す集落も、星の輝きを反射させて輝く湖も、その近くで群れるディアー達も。何もかもが、小さな存在に見えた。
上を見上げれば、星空を透かせる薄い雲がとても近かった。手を伸ばせば触れるのではと錯覚できるほどの距離。実際、あと少し高度を上昇すれば雲を突っ切ることも可能だろう。
それをしないのは、単に空気が薄いし寒いからだった。
少女はゆっくりと飛びながら言う。
「どう? 初めて空を舞う感想は」
「……最高だ」
「ふふふっ、そっかそっか。そうでしょう?」
ほぼ無意識に口から出る素直な言葉を聞き、少女は楽しげに笑った。
無意識というのは、眼下に広がる絶景を目に焼き付けるのに精一杯だったからだ。後にも先にも見る事がないかもしれないのだ。一生忘れないように、いつでも思い出せるように刻み込んでおかなければ。
ジッと絶景を眺めていると、やがて遠い所から響くように少女の声が意識に割り込んでくる。
「――い……おーい! 生きてるかー? ……もうっ!」
「イテっ!?」
額に強烈な痛みを覚えて、景色から意識を引き戻す。どうやら、少女にデコピンされたらしかった。
痛む額を片手で押さえつつ尋ねる。
「な、なに?」
「なにじゃないよ。あたしが声かけてるのに全然反応しないしさー!」
「あ、ご、ごめん……景色を見るのに精一杯で」
「ふーん。君はデート中に彼女よりも物色を優先する人なんだ。お姉さんガッカリだよ」
「デートっ!? いや、別に、そういう訳じゃないけど……ていうか、お姉さん?」
「うん。君、いくつ?」
「僕は一二歳だけど……」
「ほらやっぱり。あたし一四歳だし」
言葉に詰まった。彼女の言う事が信じられず、きょとんとした顔をしてしまう。
きっと、目を丸くしたおかしな表情をしているだろう、そう思った。
理由は簡単。
少女の容姿や口調があまり年上の様に感じなかったからだ。綺麗な姿だという事は一目瞭然だが、その中には多分に幼さが含まれている。口調については言うまでもない。およそ同じ年齢くらいだと思っていた。
「し、信じられな――」
「――なんか言った?」
口をついた言葉に、即答で脅される。
表情には満面の笑顔が浮かんでいるのに、背後には般若が浮かんでいるように見えた。
これ以上言うのはいけない。静かに唇を一文字に結ぶ。
それでよろしいとばかりに頷く少女。
彼女は視線を星空へと向けて、口を開いた。
「綺麗でしょ」
「――うん。とても。今までで最強だ」
「ふふふっ。なぁに、最強って。強いの?」
「強いさ」
気付けば互いに微笑みを浮かべて、そんなやり取りを行っていた。だが、両の視線は夜景へと向けられたまま動かない。
「寒くない?」
「大丈夫だよ。これ、君が風の魔法を使ってくれてるからでしょ?」
「大当たりです。ふふん、あたしは気配りがちゃんとできる女の子だからね」
自慢げに胸を張るから、背中に押し付けられる感触が一層強くなった。
そんな些事には気が付かないとばかりに、少女は言葉を続ける。
「あたし達の身体よりも大きなディアーが、ここから見ればあんなに小さく見えるんだよ」
「正直、びっくりした。空から見る景色がこれほどだなんて。あの大きな湖だって手の平で握れそうだ」
言いながら手を伸ばし、それをゆっくりと握りしめる。拳を握って尚すっぽりと隠れる湖。距離感の違いと分かっていても、素直な昂揚感が湧き上がってくる。
「うん。小さいんだ。あたしたちも、あの湖も、全てがこの世界にとっては小さい」
――そんな彼女の言葉も、風に消えそうなくらいに小さかった。だから、最初から最後までを、完璧に聞き取る事もまた出来なかった。
今、なんて言ったの? そう聞こうとする前に、少女は口を開く。
「ねえ。君、毎晩この場所に来てるんだよね?」
「え? そうだけど……」
「じゃあ、明日からもこの場所で待ち合わせしようか!」
大きな翼を羽ばたかせながら、少女はそう言った。待ち合わせ。つまり、明日以降もこの場所で会おう、ということなのだろう。
「な、なんで……?」
「ふふふっ。いや、君が随分と空を気に入ったみたいだから、あたしが明日以降も飛んであげようと思ってね」
「ホントに!?」
その提案に、思わず少女の顔の至近距離まで接近してしまった。
願ってもない提案だ。
こんな事今日限りだと思っていた矢先に、そんなこと言われれば食いつかないわけがない。
少女は突然目の前まで迫った顔に驚いた顔をしていたが、やがてにへらっと笑って頷いた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
言って、お互い顔を見合って、やがて声を出して笑った。
――こうして少女との、毎晩この場所で待ち合わせして、空を飛ぶ関係が作られた。
ㅤㅤㅤㅤㅤ5
あれから三年の時が経過した。
少女とはほとんど毎晩――天候が悪かったり、どちらかが体調を崩したりした日は待ち合わせが無かった――件の丘で合流し、星の輝く夜空を眺めて笑いあった。
風の魔法もかなり上達した。少女との飛翔の際、補助として手を貸すようになってから、使用頻度も増え、上達スピードも上がったのだ。
幸せな日々だった。それはもう、かつてないほどに。
だが、そんな日常は終わりを迎えようとしていた。
その話を聞いたのはつい先日の事だった。いつものようにあの場所で合流。彼女の力を借りて空を飛び、夜景を眺めている時。あの少女は唐突に言ったのだ。
「明日、この集落を離れる……か……」
小さな声が口をついた。当時言われた直後は実感がわかなかったが、前日になってみると嫌でもわかってくる。少女の家を含めた五家族は着々とこの集落を離れる準備を進めていた。
彼女がこの場所を離れる。あの丘で待ち合わせて、一緒に空を飛ぶ事が出来るのは、今日で最後。
胸に浮かぶのは寂寥。明るい性格を持つ彼女と一緒にいるのはとても楽しかった。翼が無い事で欠けていた心が満たされていく思いだった。
「それも……今日で終わり」
呟いて見上げる空は、全てを包み込むような青に広がっていた。
時間は何事もないように過ぎていく。いつもと変わらない。父の手伝いをし、夕食を取り、空に闇が差していく。少し違うのは、うまく頭が働かなくてぼーっとしていた事くらいだ。
偶然、昼間に少女と会った時に言われた。
「今日は
どうして突然に、と思ったが、聞いても教えてくれない事は三年の付き合いで理解している。余計なことは聞かず、素直に頷くと、少女は満足そうな顔をして自分のテントへと戻っていった。
その後ろ姿を思い出しつつ、家族に「ちょっと出てくる」と言ってテントを出た。
毎晩少女と会っている事は家族に知られている。気が付いたのは二年前だが、それ以降は何かとからかってくるので鬱陶しかった。
「あの女の子とはどういう関係なの? うふふ」とは母の言である。特に大した関係ではないと言っても信じてもらえない為、素直に関係性を白状。すると途端に、テンションを緩めて微笑んでくるのだから、何ともむず痒かった。
父は何も言わないし、妹は口を尖らせて怒ってるんだか笑っているのか分からない表情で見て来るだけ。よく分からなかった。
だから、家族は今更何処に行くのかも尋ねてこない。もう寝る頃だからか、適当な相槌が返ってくるだけだった。
「さて、どうやって暇をつぶそうかな」
呟きながら、集落の外に向かって歩いていく。
ここら辺の地理はもう頭の中にインプットされている。三年も住んでいるのだから当然だ。
見慣れた道をゆっくりとした歩幅で歩く。そんな中、頭に浮かぶのはあの少女の事だった。
明るくて活発で、笑顔の絶えない女の子だった。何かと思いつけばすぐに行動に移そうとし、笑顔でそれを楽しむ。
「僕も巻き込んで、ね」
彼女との交流は夜の空を飛ぶ事だけに留まらなかった。風の魔法で彼女の補助が出来るようになってからは、移動できる距離も長くなった。集落の場所を忘れないようにしながら、限界を見極め、空を渡る旅をした。
最初のころはあの丘の近くしか見た事はなかったが、遠く離れた場所へ行っても同じくらいの絶景が広がっていた。大きな湖の静かな水面に映った、金色の丸い月は、今でも忘れられない。
限界まで高度を上昇してみた事もあった。夕暮れ時だったため夜に比べれば寒くはなかったが、念のために風の魔法の膜を張って。
雲を突き抜けて見た光景も、胸がいっぱいになる様な美しさだった。下を見れば、茜色に染められた雲海が広がり、眩い光を放つオレンジ色の太陽が雲平線の向こうからこちらを照らしてくる。
一人で見ても素晴らしかっただろう。
でも、少女と二人、笑いながらあの光景を見れたのは、何よりの思い出だった。
「楽しかったんだ」
――とても、楽しかった。
いつも元気なあの女の子に手を引っ張られ、彼女の考える楽しい事を一緒にするのが。灰色掛かっていた日々に、いつの間にか色が差していた。
――彼女は僕にとっての太陽だった。
いや、彼女の周りにいる人はみんな笑顔を浮かべていた。人を笑顔にする。彼女は皆にとってそういう存在だった。
だから。
だから。
だから――
――彼女が一人、煙を上げる『仮の翼』を助けようとしていても、何もおかしくはなかった。
ㅤㅤㅤㅤㅤ6
気付けば、少女と待ち合わせをした
急いでいつもの丘へと向かった。あの場所集落から少し離れた位置にある。集落を挟んで、その反対側へ歩いていたため、少々急がないと待ち合わせに遅れてしまうかもしれない。
最後の日に待ち合わせで遅れる。そんな酷い真似は出来ない。
どちらかと言えばインドア派だったが、持てる体力を駆使して走る。
歩き慣れた森の道を駆け抜ける。邪魔な枝を避け、開けた風景を視界に収め、足を走らせる。
「つい、た……!」
いつもの場所についてすぐ、両膝に両手を付いて乱れた息を整える。流石に、少し頑張りすぎたようだ。肺がキリキリと痛むのを堪え、額から垂れる汗を拭う。無意識に風の魔法を使うくらいには、腕が上達したらしい。
「ごめん、少し遅くなったかも」
言いながら顔を上げると、少女の姿はそこになかった。普段なら崖に腰を掛けるかして、「やっと来たー」とか言ってくるはずなのに。
「あの子が僕より後に来たことなんてないけど……」
今までの事を思い出すも、そのような事例は存在しなかった。もしかしたら、準備に疲れて眠ってしまっているかもしれない。
考えて、あの子の事だからそれはないと思うけど、と訂正する。
まだ来ていないなら仕方がない。休みがてら空を見上げて少女を待とう。そう思い、崖に腰を掛けた。
頭上に広がるのは、淡いオレンジ色が差した朝焼け空。思わず見惚れてしまうような景色だった。思い返せば、この時間帯に空を見上げた事はないのではなかろうか。きっとあの子も、そのつもりでこの時間を指定したに違いない。
青、白、オレンジ。三色で彩られる空の景色はとても目に優しい。心が落ち着くのと同時に、身体の疲れも癒されていくかのようだった。
だから、気が付くのが遅れてしまった。
心地いい景色と心地いい風に包まれて、気が緩んでいた。
――遠くの空。
大の大人数人分の全長を持つ『仮の翼』が空を飛んでいた。地人の英知の結晶。技術を駆使し、作り上げられた空飛ぶ道具。あの仮の翼には、何人かの地の民が乗っている事だろう。
だが、おかしなことが起きていた。
シルエットから立ち上る煙。
そしてそのシルエットの上で件名に翼を羽ばたかせる一つの影。
あれは――
「嘘だろ」
――間違いなく、あの少女だった。
勢いよく崖の上で立ち上がりながら、目を凝らす。目が良くてよかった。もしこの視力が無ければ、気が付く事さえできなかったかもしれないのだから。
白いワンピースに純白の翼、それらと同じ真っ白な髪の毛。間違いない。間違いない。あれは、明日この集落を出る予定の少女だ。
「なんで、どうして!?」
疑問が口をついて出た。
いや、考えれば分かる。あの少女の事だ。少し早めにこの場所へ来ていたのだろう。そして、煙を上げる仮の翼を発見した。あれは間違いなく故障している。このまま墜落すれば、乗っている地の民達は間違いなく死ぬはずだ。
だから、彼女は飛んだ。
風の魔法を駆使し、翼を羽ばたかせ、あの地の民達を助けるために飛んだのだ。
地の民達と空の民との間にある垣根なんてものは関係ない。そんなものを飛び越えて、彼女は彼らを助けに行ったのだ。
「でも、無理があるだろ!」
少女は他の人よりも風の魔法の力が強いと言った。それはあくまで、人一人を一緒に飛ばせることが出来る程度の力だ。複数人の人が乗った仮の翼を支えられる程のものではない。
でも。
だけど。
彼女はそれでも、助けに行く人だと理解できた。今まで長い間、彼女と共に過ごしてきたから。彼女がそういう人だと分かっていたから。
更に強く目を凝らす。乗っているのは――二人だけだった。少女の影と比例させて考えても、特に大きくは感じられない。
でも普通は不可能だ。今、少しでも彼女は支えられているのは、奇跡に近い。存在そのものが奇跡の様な風の魔法の力に過ぎないはずだ。
おそらく、誰か人を呼んでいる余裕さえなかったのだろう。だから少女は一人で助けにいったのだ。
そして。
遂に、力が尽きる。
「あっ」
翼から力が抜けたのが見えた。一瞬の停滞。次の瞬間には、勢いよく落下が始まっていた。あれほどの超重量があの速度で落ちるにとどまっているのは、少女が無意識に風の魔法を行使し続けているからかもしれない。だが、彼女が気を失っているのは間違いなかった。
今から助けを呼んでも間に合わない。この丘から集落まではそれなりの距離が開いている。風の魔法で遠くまで声を響かせようにも、やはり距離が足りない。そもそも普通の人達は眠りについている時間帯だ。すぐに彼女を助けるなんてことは不可能だろう。
息が乱れる。胸が苦しい。これから訪れるだろう未来を想像するだけで足が震える。
ただ、見ている事しか出来ないのか?
――ああ。だって、彼女たちを助けるための『翼』が僕にはないのだから。
ならこのまま彼女らが落ちるのを黙ってみているのか?
――仕方ないじゃないか。僕にはどうする事も出来ない。
あの子が、死んでもいいのか?
「――そんなのっ、いい訳ないだろうが!」
自問自答の末、いつになく乱れた語調でそう叫んでいた。何もかもがスローに感じる中、視界には落ちる少女しか映っていない。
死ぬ? あの子が? いつも笑顔を浮かべ、楽しそうに生きていたあの子が、今日死ぬのか? そんなものは信じられない。受け入れられない。納得がいかない。
どうしてこの身体には、翼が生えていないのだろう。どうして空を飛ぶ事が出来ないのだろう。どうして、今目の前で死んでしまうかもしれない友達を助けることが出来ないのだろう。
空を飛ぶ事なんてとうの昔に諦めていた。彼女と出会い、未練を引き摺って暗く生きるのはもうやめようと心に決めていた。
今日は彼女との別れの日。最後の空。
なのに、それなのに、これはないんじゃないか。
こんな別れが、許されていいのか?
「いい訳ない……」
距離が離れすぎているため、彼女の表情までは見えない。ただきっと、辛い顔をしているだろうという事は分かった。彼女は自分の命まで掛けて、地の民達を助けようとしたのだ。
それが失敗に終わり、仮の翼に乗る二人と一緒に少女も死ぬ。無駄死にだ。でもきっと、彼女が辛い顔をするのはそんな陳腐な理由ではない。
二人を助けてあげたかったなぁ、と。
きっと、悲しそうな顔でそう言うのだ。
「僕は君のそんな顔は見たくない」
笑っている顔が好きだった。楽しそうなあの顔が好きだった。
それなのに、そんな顔をしたまま死ぬだなんて許されるわけがない。
誰に対しても誇れるような。まるで物語の主人公の様な彼女の頑張りを、失敗に終わらせるだなんて認められない。
いつも笑顔な彼女の最後を、悲劇で迎えるなんて許容できない。
「――今分かった。君があの時、なんて言ったのかを」
初めて少女と出会ったあの夜。
空から夜景を見下ろしていた時、聞き取る事の出来なかったあの言葉。
それは、今思い描いているものとは全く違う『言葉』だっただろうけれど。
きっと、その言葉に乗せた想いは、こう伝えたかったのだろう。
『そんなちゃっちい迷いは捨ててしまえ。悩んでいる暇があるなら前に進め』と。
拳に。地を踏みしめる足に、力が宿る。
恐怖で震える身体に喝を入れる。こんな矮小な自分に出来るのか? という迷いは全て打ち払う。
仮の翼に乗る地の民達を助けるために。
少女を救うために。
彼女が抱いた大切な想いを守るために。
前に、踏み出す。
「――ッッッ!!!」
勢いよく土を蹴った足の裏から、地面の感覚が消え去った。真下にはもう足場なんてものは存在しない。遥か下方に広がるのは闇。落ちればそのまま飲み込まれてしまいそうな暗闇だ。
巨大な浮遊感が全身を包み込む。圧倒的な死の可能性を前に、正直な体は心臓の鼓動を速める。
でも、そんなものはもう怖くない。
いつも少女と一緒に飛んでいたのだ。足場の無い無限の空へ抱く恐怖は、とうの昔になくなった。
今は比べ物にならないくらい、彼女を失う事の方が怖い。
熱い想いが胸の中を弾ける。
――僕は、君と「さよなら」がしたかったんじゃない。
もう会えないだなんてまっぴらごめんだ。話すことが出来ないなんて嫌だ。笑い顔を見れなくなるのなんて嫌なんだ。
また前の様に一緒に空を飛んで、いろんな景色を見て、いろんな話をして、思い出を共有したい。
――もっと、ずっと、君と一緒に笑っていたいんだ。
だから、翔べ。
翔べ。
翔べ。
翔べ――ッッッ!!!
ㅤㅤㅤㅤㅤ『願ったんならさ、叶えちゃえばいいんだよ』
声が聞こえた。
少女の声だった。
何があってももう一度聞きたいと願った、あの女の子の声だった。
だから。
「おォォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!」
直後、轟!! という爆音とともに、全てを押し飛ばす嵐の様な風が背後に発生した。生え聳える木々を薙ぎ倒す様な、爆発的な風力。魔法力が強い少女でも出せない力が巻き起こる。
それは『翼』だった。
唸りを上げる竜巻が四つ、左右の肩・腰に連結されている。圧倒的な威力を持つそれは、人の体一つを軽々と宙に浮かせた。
魔法。それは、『願い』によってその効果を高める奇跡の力。
膨大な願いを。
少女を助けたい、そのための翼が欲しいという、純粋で、どこまでも強い願いをその身に宿し。
『翼を持たざる』少年は、空を翔んだ。
その姿はさながら、空を穿つ矢のようだった。
身体を叩くはずの風の壁はもう感じない。肌を刺す冷たさも感じない。
風の翼を生やし、風の衣を纏った彼に、風の悪影響は及ばない。
輝くような朝焼け空の中、竜巻の翼を羽ばたき、目にも止まらぬスピードで疾駆した。
意識を失い、落ちるだけだった少女を抱きかかえる。いつも彼女がしてくれたように、後ろから優しく、力が抜けた身体支える。
今や少女のものよりも強大になった風の魔法を駆使し、仮の翼を支える。乗っている二人は気を失っているようだった。いつから気を失っているのかは気になる所だったが、それは彼女に尋ねればいいだろう。風の力を使い、ゆっくりと地面に降ろしていく。
無事仮の翼を地面に降ろし、少年は少女を抱えたまま空中を漂う。今までとは逆の立場。意識を持たない少女の身体に、なるべく負担が掛からないように気配りしながら、風の翼を羽ばたかせる。
すると、腕の中の少女がゆっくりと瞼を持ち上げた。
「――あれ」
掠れる様な小さな声。限界まで風の魔法を駆使し、翼を酷使したのだ。彼女の身体に与えられた負担は相当のものだろう。
頭に響かないように、優しい口調で少年は言う。
「目、覚めた?」
「うん。ここは?」
「空」
「仮の翼は?」
「無事だよ。今地面に降ろした」
「そっか」
本当に短い会話だった。
少女を支える少年の背中では、音もなく灰色の竜巻が旋回している。
それを見て、彼女は小さく微笑んだ。
「格好いい翼」
ゆっくりと手を伸ばし、風の翼に触れようとする少女。少年自身触ったことが無い為、そうすることで何が起きるかはわからない。念のため「危ないよ」と告げてその手を止めながら、薄く笑う。
「全部君のお陰だ」
「そんなことないよ。君が自分で、掴み取ったものだもん」
「でも僕は、君がいなかったらこうはなれなかったと思う」
思えば、少女は初めて会った時から何かをほのめかす様な事を言っていた気がした。それは、少年の心の迷いや鬱屈を見抜いていたからなのだろうか。
気配りができる女の子、とは彼女の言だが、まさにその通りだと思った。
「ふふふっ。まあ、あたしは凄いからね」
「うん。その通りだ」
言い返す言葉もなく素直に肯定する。すると少女は、ニカッと笑みを一層深くしたのだった。
そんな言葉の応酬の末、少年と少女は、昇ろうとする太陽へと視線を向ける。
まだらに動く、陰影を宿した薄い雲。水色に近い青色の空は、太陽に近くなるにつれて薄いグラデーションを彩っている。その全てを、オレンジ色の輝きが明るく照らしていた。
――きっと、この光景は忘れない。
明日も、明後日も、そのまた先も。何年経っても、今日の事は、少女と二人で見たこの朝焼け空の事は忘れない。
二人はどんな時でもこの幻想的な光景を思い出す事だろう。お互い笑いあったことを思い出して、『想い』を抱くはずだ。
そんな確信が胸を突いていた。
少女が言う。
「今日でお別れ」
「うん」
「でも『さよなら』とは言わないよ」
「うん」
「『さよなら』は、永遠のお別れみたいで好きじゃないからね」
「僕も全くの同感だ」
「だから、こういう時はきっとこう言うんだ」
「うん」
示し合せた訳じゃなかった。
事前に話していた訳じゃなかった。
でもこの時二人は、確実に心を通わせていた。
互いに顔を見合わせ、ニッと破顔して告げる。
「「またね」」
――その日、『翼を持たざる少年』は、願いを翼に変えて空を翔んだ。
――彼は忘れない。
――少女と過ごしたおよそ三年の日々を。
――彼は願う。
――君が笑う再会の夜空へ、またいつか。
ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ ~Fin~