ようやく雨が降ってきた。
その日は朝から空に厚い雲が一面を覆っていて、外に出たら雨に濡らされるなと家に篭っていた。しかしそんな僕を嘲笑うかのように、結局夕時まで土を濡らすことはなかった。
時計は20時28分。まだ春には程遠い寒さで、部屋の隅に置いてある石油ストーブも現役だ。暦の上では春というのが今と昔の違いをひしひしと実感させてくれる。備蓄は十分だが、本来今日晴れていたならば街へ出て、新鮮な魚で煮付けでも拵えようと思っていた。家から一番近い街へは50分程かかる。そこそこ大きな港街で各地の新鮮な魚が比較的安値で手に入る。この時期だとサワラやニシン、そろそろタラが出回る頃だろうか。あれこれと考えても仕方がないので、夕食は在り合わせのものでシチューを鍋一杯に作ってやった。
「風が出てきたな」
誰に語りかけるでもなく溢した言葉は大きな風の音に掻き消された。 さっきまでポツポツと屋根を打っていた雨はほんの束の間で、現在では草木を腐らす勢いで水を注いでいる。力強い滴が窓ガラスを横から叩きつける。どっしりと構えているはずの一軒家が、まるで風で揺さぶられているようだ。周りに何も無いためか、阻まれることなく自然のちからが自宅を襲っているのだろう。
ストーブの中に見える炎が、小さく強く震えている。炎というのは不思議で体感的にも視覚的にも暖かさを伝達してくれる。しかしやはり冷気のが強いらしく身体の震えを誤魔化すことができなかった。渋々背中を丸めながらクローゼットからコートを引っ張り出してきた。去年の春先に三割引で売っていた地味な灰色のコートだ。僕は袖を通さず羽織るように被った。もちろん安物であるため、裏地が薄く、ほとんど防寒を意味をなしていなかった。
「悪くないな」
環境はお世辞にも良いとは言えないだろうが、僕はこうしているのが好きだった。耳を澄ますと不規則に屋根を叩く雨、今にも壊れそうに窓を殴り付ける風。木造の家独特の檜の香りやさっきまで食卓に並んでいたシチューの残り香り。すきま風が全身の神経を緊張させる。僕が街から離れて自然に囲まれているこの家に住んでいる理由の一つでもあった。
僕は小さく縮こまりながら喧しい夜を堪能していた。
ドンドンドン
初めは風がぶつかる音だと思っていた。しかしどうやら誰かが戸を叩く音だということに気づいた。風や雨にしてはやけに規則的で、ドサッと荷を降ろすような音も聞こえてきたからだ。驚いて壁時計を確認すると、いつの間にか針は22時を回っていた。カーテンを閉めているから定かではないが、街灯などの光はないから外は真っ暗なはずだ。加えてこの悪天候だ。余程の用事でもない限り訪ねてくるなんて馬鹿な真似はしないだろう。聞き間違いだと信じたかったが、何度も律儀に3回にノックされている。
僕は元より非科学的なものを信じていない。幽霊だとか、魔法だとか、神様仏様だとか。嫌いと言うわけではなく、実際に見てみなければ実感できないたちなのだ。そのため、よく街の人たちには頭が固いとからかわれるが、これこそそういった性格なので仕様がない。今更治せと言われても先天的なものであるから不可能だ。そもそも考えを変えるつもりも毛頭ないが。そのため扉の前に居るのはニンゲンであると確信しているのだが、実はそのニンゲンが一番恐ろしい。扉を開いた途端、自分のお腹をナイフで開かれてしまうかもしれない。最悪開けなくとも扉越しに散弾が飛んでくるかもしれない。…まあここいらは平和で大きな事件なんて殆ど起きたことがないから杞憂ではあるだろうが。それでは一体自分に何用なのだろうか。考えていても答えは出ない。僕は羽織っていたコートに袖を通して、スリッパを鳴らしながら玄関へと向かう。
玄関の扉は今では珍しいかんぬきで施錠してあった。わざわざこうしたのではなく、この家も造られた時からのものである。古いといっても築六十年そこらではあるが。こういった古さも含めて僕はこの家を好んでいるのだが、この時ばかりはインターフォンや除き穴でも作っておけばよかったと後悔している。
対処を思索している最中、また3回のノックをされた。
「どちら様ですか」
反射的に返事をしてしまった。自分の言葉に自分で驚いている。一瞬風の音に飲まれて相手に聞こえなければなんて思考が巡ったが、どうやら相手の耳に届いてしまっていたようだ。しかし相手もまさか応答が貰えると思っていなかったのか「あ…あ……」と何か声には出そうとしているのが聞こえるが、言葉が出てこない様子だ。一瞬の沈黙の後、相手が漸く言葉を紡ぎ始めた。
「えっと…私は各地を観光して回っているのですけれど、突然雨に降られてしまって。街の方に戻ろうとしたんですけど、道が水没してしまっていて。雨宿りしようにもここら辺は何もなくて、それでちょうどこの家を見つけたんです。宜しければ一晩泊めて欲しいんですけど、それでも迷惑でしたら玄関前でもいいので雨宿りさせてくれませんか」
僕は相手の話に耳を傾けていた。怪しい所はないか。しかし、話を聞く限りでは偽りはないようだった。大雨が降ると絶対と言っていいほど、街へ続く道が水浸しになる。雨の日に買い物に行かない理由の大半はこれだった。街に居る間に道が水没するともう帰れなくなるので、何度か宿を用意してもらったことがある。街の人は気を遣って宿泊代はタダでいいよと言ってくれるのだが、申し訳なささとやはり自宅でないと落ち着けないので宿代を払い、極力雨の日には出歩かないようにしていた。
街と僕の家を繋ぐ道が雨で水没することは街の人達ももちろん周知の事実であるので、訪問者はここいらの人ではないのだろう。でも何故だか信用しきれなかった。不信感と同時に呆れも現れていた。たとえ嘘を吐いていたとしてもよくこの悪天候の中を来たなという呆れを通り越して感心さえしていた。その頃からだろうか。訪問者の顔を一目見てやろうと思ったのは。物好きな人の顔を拝んでからでも追い返すのは遅くないと。
――そうして僕はかんぬきを上げて重い扉を押し開けた。
――――――――――――――――――――――――――――――――
"彼女"は震えていた。今はストーブの前に椅子を持ってきてそこに座らせている。風呂が沸くまでひとまず暖をとってもらうことにしたからだ。雨露を拭うために渡した黄色い綿のタオルは、綺麗な黒髪の上に乗っかっている。ハンガーに掛けた赤色のコートから雫がこぼれ、床に敷いた新聞が滲んでいく。後で飲もうと思いストーブの上で温めていたホットミルクをすすりながら、彼女は左右に揺れる炎をぼんやりと見つめていた。
扉を開けると、びしょ濡れの彼女がいた。彼女はとても驚いた表情をしていたが、僕はその容姿に目を奪われた。肩甲骨の辺りまでサラリと流れている黒髪は、風に吹き乱されてくしゃくしゃにされていた。そして服の上からでも漂ってくる魅惑的な体つき、珠のように滑らかな色白い肌。うっかり触れれば壊れてしまいそうな、そんな儚げな雰囲気を醸し出していた。赤色のコートは雨に晒されて、より暗い赤に染められてしまっている。そしてパンツは濃いめのジーンズを穿いているが、左のふくらはぎから足首にかけて赤く血が滲んでいる。もう一歩も歩けないといった様子で、大きな白いリュックサックを床に置き、玄関脇の柱に体重を預けていた。
僕は数秒前までの自分を殴ってやりたい気持ちで一杯だった。彼女の言葉を信じずに、あまつさえ追い返そうとしていたからだ。 分からなかったから仕方がないなんて言い訳をしている自分が居ることにも腹が立つ。
そうして僕は彼女を家へ引き入れた。
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「風呂沸かしたからどーぞ」
彼女は慌てた様子で被っていたタオルを取り、ありがとうございますと頭を下げてからリュックをあさり始める。中から袋のようなものを取り出してヨタヨタとリビングを出ていく。やはり痛むのだろうか。なるべく右に重心を傾けて左足はびっこを引いている。
一応、家に上げた時に消毒はした。傷口も多少深く裂かれてはいたものの、そこまで大きな怪我ではないようだった。彼女に聞いたら風で飛んできた枝に引っ掻かれたと言っていたが、事実であるかどうかはイマイチ分からない。包帯は風呂を上がった後に巻くということになったのでさっきまでは左足だけ捲っていた。スラリと伸びた生足を眺めていたのは傷のせいであったと思いたい。
ふと視線を下ろす。彼女の座っていた木製の椅子の隣に薬箱が半開きで置いてある。この薬箱を引っ張り出すのも一体何時振りだろうか。一昨年の夏の初めに裏の畑の除草作業中、虫に刺されてかゆみ止めを取り出したのが最後だと記憶している。かゆみ止めは結局中に戻さず、僕の腰より少し高い背丈の棚の上に乱雑に転がっている。開けたにも関わらず、いまだに頭に埃を纏っている箱を見下ろしながらそんなことを考えていた。
「えっと…すいません、これはどうしたら」
風呂に向かったはずの彼女の声で振り返る。どうやら扉を開く音さえも聞こえないほど、自分の世界に浸っていたようだ。彼女はなるべく負傷した左足に負担を掛けないように右手をドア枠に寄り掛かって、左手にはさっき渡した黄色いタオルが握られている。
「洗濯かごに入れといて。あと洗いたい服も一緒にいいよ。あ、着替えはどうしよう」
困った。流石に女物の衣服なんて持ち合わせている訳がない。僕のを貸そうにも彼女には大きすぎてしまうだろう。
「あ、着替えあります」
「濡れちゃってない?」
「えっと、さっき確認したら大丈夫でした」
「じゃあそれでいいか」
「えっと…あの!」
彼女は何か言いかけたが、そのまま下を向いて黙り込んでしまった。垂れた前髪で表情を窺うことはできないが、口を酸素不足の金魚のようにぱくぱくと動かしている。心なしかタオルを握る手に力が加わったようだ。僕はもじもじとしている彼女から事態を察した。
「お手洗いは風呂場の手前左」
「そうじゃなくて!えっと…あの…」
彼女は大声を上げたと思いきや、またもや下を向いて黙り込んでしまった。トイレではなかったか。他人への気遣いはよく出来ていると自負しているつもりではあったのだが。しかしそれでは何故彼女は黙殺しているのだろうか。いくら考えても理由が浮かばない。僕は大人しく彼女の動向を窺うことにした。
時間にして3分も経っていないが、初対面でさらに異性となるとこれ程までに居心地の悪いものかと左手を首の後ろに持ってくる。今までこれ以上自宅で息の詰まる経験したことはなかった。不思議と心臓の脈も忙しくなる。「えっと…」と彼女が口を開いた瞬間、心臓が一瞬止まったかのように感じるほど緊張していたらしい。
彼女は何か決心が着いたのか、顔を上げて僕を一点に見つめて、大声で言い放った。
「覗かないでくださいね!!」
そのまま足を怪我しているとは思えない速さでリビングを去りつつ、バタン!と扉を勢いよく閉める。僕は口をぽかんとだらしなく開いたまま呆然としていた。遠くから風呂場の扉が開閉されたと思わしき音でようやく口を閉じることができた。
糸が切れた人形のようににフラフラとさっきまで彼女が居た椅子に倒れるように座る。濡れていたのかお尻に染み込む感覚があるが、今はそんなこと気にしている余裕はなかった。元より下心なんてものは無かった。いや、正確に言うと、風呂を覗く行為なんて頭に無かった。下心が全く無かったかと問われれば、それは嘘になる。
そもそも彼女を家に上げた理由はなんだろうか。彼女を不審に思った罪悪感か。一刻も早く怪我の治療をしようとした切迫感か。可哀想だと思ったミゼラブルか。確かに"一瞬"はそう思っていた。しかしどうだろう。そんな気持ちは正直どうでもいい(どうでもいいというのは失礼に当たるかもしれないが)。今はむしろ彼女に興味を持って欲しいとすら感じている。
…そう、僕は彼女に好かれたいと思っているのだ。
扉を開いた瞬間 ――時間として1秒にも満たなかった――空間が止まったようだった。
雨はここではないどこか遠くで聞こえ、風は僕の髪や服を乱暴に揺らして通り抜ける。世界には彼女の苦しそうな吐息と二つの鼓動だけが響いていたように感じた。
弁明しておくと、僕は彼女の顔に惹かれたわけではない。いや、もちろん十分すぎるほどの顔立ちはしているが。僕は彼女のオーラ…もとい独特の雰囲気に魅了されたのだ。
彼女はどこか神秘的な雰囲気を漂わせている。声をかけてしまうと汚してしまいそうなほど澄んでいるが、どこか儚げな部分もあった。花に例えるならば、そう、アネモネのような……。
――――――――――――――――――――――――――――――――
「お風呂ありがとうございました。あ、お風呂だけじゃなくて…」
「いいよ、気にしないで」
風呂から上がったばかり彼女からは湯気が立っていて、顔の血色良くなり少し赤くなっていた。服は桃色の寝間着に変わっていたが、まだ少し濡れているのか肌にぴったりとくっついていて、身体のラインが強調されている。自前のバスタオルなのだろうかライトグリーンのタオルで髪先に溜まっている滴を拭っていた。
髪を拭いていた手を止めるとばつの悪そうに僕に問い掛けてきた。言いづらそうにしているが、彼女の二つ目はしっかりと僕の姿を捉えている。
「親切にしてもらっておいて今さらなんですけど、えっと…どうして見ず知らずの私を助けてくれたんですか?」
僕は彼女の視線に耐えられず、言葉を濁しながら天井に目を泳がせる。言えるわけがなかった。一目惚れでした好きです、なんて言った暁には警察の御厄介になることだろう。地元紙にはなんともつまらない記事が一面を飾ることになるだろうか。僕は頭をフル回転させてどうにか言い訳を考える。彼女は何も言わずにこちらの応答を待っている。
「…なんとなく…かな」
「えっ…と…なんとなく…ですか?」
必死に考えた結果がこれだ。つくづく自分の語彙力の貧困さに泣きたくなる。気の利いた一言でも聞かせてやれば、いやそれはそれで引かれそうだと回答後も頭の中では数多の文字がぐるぐると渦巻いていた。彼女も予想外の回答にただ僕の言葉を反復しただけだった。
「なんとなくだけど…放っておけない、というか君を見捨てるなんてことはできなくて…。足も怪我してたし…」
「優しいんですね」
頭の渦巻きから拾い上げて紡いだ言葉はなんとも滅茶苦茶で稚拙なものだった。本心も混じってはいるが、取り繕った言葉には違いない。そこに彼女の笑顔がナイフのように鋭く突き刺さった。一体どのような気持ちで僕の言葉を聞いて、どうして笑顔を見せているのだろうか。到底僕には分からない域の話である。
「ありがとうございます。雨でほんとどうしようもなくなってしまっていたので…」
「雨が降るとあの道は通れなくなるからね。観光して回ってるって言ってたけど、ここらは何もないでしょ?」
「そんなことないですよ。自然が沢山あって空気も良いじゃないですか」
彼女が目をキラキラさせて語るのをとても嬉しく感じた。僕はこの自然が好きでここに住んでいるから、まるで自分が褒められているようでくすぐったささえも覚えるほどだった。彼女は話しを続けた。
「観光って言いましたけど、実際は"旅"をしているようなもんなんです」
「旅?」と思わず聞き返した。観光も旅行も言葉は違えど、そう大差ないように思えたからだ。彼女は全然違いますよなんて笑いながら説明をしてくれた。観光はプランを立てて名所を廻って、宿に泊まることだと言った。しかし彼女の言う"旅"はどこに行くかは決めず、本能のままに各地へ赴き、宿が見つからなければ最悪野宿をするのだという。
「…そう私は区別してます」
「へえ、じゃあこれまで色々な場所に行ったんだ」
「…と言っても最近始めたばかりでまだそんなに多くはないですけど」
苦笑しながらこう語る。それでも各地を廻るなんて自分には考えられなかった。生まれてから今まで殆ど家と港街にしか足を伸ばしたことはない。だからこそ彼女は様々な経験をしているから大人びて見えるのだろうか。旅行したことがないことを彼女に伝えると、勿体無いですよと言われてしまった。
「どうにも両親の造ったこの家から離れられなくてね」
「愛着があるんですね」
ただ引きこもっているだけだと笑って伝えると、彼女も笑顔で応えた。彼女の話はとても新鮮で、頭の中の想像がどんどん膨らんでいった。それでも想像だけでは補えなくなってきて、出不精の僕でさえ直ぐにでも家を飛び出したくなるほどだった。そのくらい彼女の話は興味深いものだったのである。時折僕自身の話題も挟んだ。一転して何の面白味もない話であったが、彼女のはうんうんと頷きや質問を入れつつ真剣に耳を傾けていた。
壁掛けの時計がボーンと詰まった音を響かせ日を跨いだことを告げる。それでもなお、僕達は遅くまで話に花を咲かせることになった。
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午前9時。早起きで普段遅くても7時に起床する僕にとってかなり遅い目覚めだった。というのも昨晩はなかなか話題が途切れず、結局午前3時を回ってから就寝したためであった。部屋の換気をするために窓を開けると既に雨は止んでいて、少し強いくらいの風が吹いているだけであった。陽はもうてっぺんの方まで昇っていて、あちこちに出来た水溜まりを溶かそうとしている。
僕はベッドから下りて部屋の扉を開ける。開いた僅かな隙間から鼻孔をくすぐるような芳ばしい香りに気づいた。それに伴うように、お腹が空腹を表すように虫が鳴く。余程お腹が空いていたと見える。空腹で脇腹がキリキリ痛むほどだ。
階段を降りていくとキッチンから軽快な音が聞こえてくる。足音に気づいて彼女がこちらを振り返った。左手にはフライ返しを握っている。
「おはようございます」
「おはよう、料理しているの?」
「はい、勝手に使ってしまってすみません」
彼女はばつの悪そうに答えた。
「いや、構わないよ。好きに使ってくれて。何作っているの?」
彼女の手元を覗くとフライパンにベーコンと目玉焼きが2つずつ焼かれている。視覚、聴覚、嗅覚と様々な感覚から食欲をそそる。口元をキュッと締めておかないと涎が垂れてきそうになる。
「朝食を。二人分作りましたのでいかがですか?」
「ありがとう。頂くよ」
調理は彼女に任せて、僕は一足先に食卓の椅子に座る。テレビを点けようとリモコンを探したが見つからない。僕はそんなに管理の良い方ではないのでよく物を紛失する。余程大事な物でない限りは見つかるまで待とう、という精神なので取り急ぎ探したりはしない。捨てたりしていなければ家の中にあるはずだからだ。見つかる頃にはもう不要になっていたりもするが。
テレビが見られないので、他のことに集中する。まず始めにキッチンで調理をしている彼女の後ろ姿を眺める。昨日と同じ桃色の寝間着を着ているが、加えて今朝は黄色のエプロンをしている。頭には青い三角巾を被っていて、肩甲骨辺りまで流れていた髪は頭の後ろで留められている。手つきも慣れたもので、一切無駄がない。旅先で自炊なんかもしていたのだろう。
凝視していたためにこちらを振り返った彼女と目が合ってしまった。彼女はもう少しで出来ますよと言うと調理に戻ってしまったが、僕はこっぱずかしくなり窓の外へ視線を移した。
起床して直ぐに外の景色を確認したが、あちこちに大きな水溜まりが出来ていて、風で波立っている。昔からここら辺は水捌けが悪く、一旦水溜まりが出来ると3、4日は乾かないこともある。ただ、街への道はすぐに水没するものの、乾くのも早く、翌日には通行出来るほどだった。おそらくもう通れるようになっているだろう。
(帰ってしまうのかな?)
僕は無意識にそう考えていた。彼女は雨宿りのためにここへ居る。もう街に戻ることが出来るだろうから、昼過ぎには帰ってしまうだろう。
ぼんやりと物思いに更けっていると、美味しそうな料理が運ばれてきた。
「はい、どうぞー。目玉焼きとトーストとお肉の黒胡椒炒めです!」
「おお、美味しそう。頂きます!」
料理の乗った皿と珈琲の注がれたコップがトレーに置かれている。僕は真っ先に肉を口に入れた。味わい深い肉汁に黒胡椒のスパイシーさが良い味を出している。ものの数十秒で肉を平らげると、半熟の目玉焼きの黄身を崩して、トーストで掬って頬張る。普段食べている食事もやはり誰かに作ってもらうというのは格別美味しく感じるものだ。
「どうですか?」
「うん、おいしいよ!ベーコンなんて特に」
僕の言葉を聞いた途端彼女は苦笑いをした。左手での人差し指で頬を掻きながら話し始める。
「それ、ベーコンじゃないんです」
「あ、ごめん。何の肉?」
「だから…あの…」
歯切れ悪くゴニョゴニョと口を動かす。僕はどうしたのかと首を傾げる。
「だから"お肉"なんです」
それでも意味が分からないという表情をしていた僕に彼女はもう一度言い直す。
「何の"お肉"だかは分からないんです」
「……」
既に平らげてしまった以上どうすることもできないが、さっきまで"肉"が置かれていた空の皿を見下ろす。彼女は慌てた様子で付け加える。
「あ、別に危ないお肉とかって訳じゃなくて…。貰った時に何のお肉か聞き忘れちゃって…。でも、何度も食べているから大丈夫です!」
そういう問題ではないのだが、既に食してしまったことと先程からの空腹に耐えられず食事を続けることにした。
「街で買ったんですけど、ちょうど上の空で…」
「何か考え事でもしてたの?」
「あ、いえ!大したことではないので」
彼女は明らかに動揺を見せると、これ以上喋らないというように"肉"をぱくりと口に運ぶ。僕もそこで彼女が何を考えていたかについてそこまで興味はなかったので言及を控えた。先に食べ始めた僕は皿を全て平らげ、珈琲を何口か啜る。遅れて彼女も完食をし、既に温くなっているであろう珈琲を吹いて冷ましている。
二人とも食べている最中はほとんど無言であったが、僕はずっとさっきの不安が頭を離れなかった。彼女はあと少しで帰ってしまう。出来る限りここに留まっていてほしい。そもそも僕は他人と関わるのはあまり得意な方ではなかった。街には何人か知り合いも居るが、とりわけ会うなんてことはせずに、すれ違ったら挨拶を交わす程度である。だからこそ彼女に固執している自分自身に違和感を抱いている程だった。
「あの…」
沈黙を破ったのは彼女だった。ちょうどマグカップを傾けて口に含んでいた珈琲を思わず飲み込む。彼女は片肘をテーブルにつきながら窓の外を見ている。僕は緊張して背筋を硬直させた。
「街への道はまだ戻れないですかね」
「まだだと思うよ」
息を吐くようについた嘘。本来ならばとっくに通れるようになっていてもおかしくない道路を一言で通行止めにした。地元の人ならば一瞬でバレる嘘。しかし彼女にならば通じる嘘。嘘をついたのに不思議と心が全く痛くない。そんな自分に嫌悪を感じて指先に力がこもった。
「……。じゃあ当分の間は帰れないですね。宜しければもう何日か泊めてもらえませんか?」
彼女は笑顔で質問をした。僕にとっては思いがけない提案だった。同時に嬉しい申し出でもあった。彼女ともう何日か一緒に居られる。それだけで他の要因はどうでも良かった。
「全然構わないよ!むしろ嬉しいくらいだよ」
僕は身を乗り出しながらOKサインを出した。
――この時の僕は舞い上がっていて周りの様子になど気がついていなかった。一体街で何が起きていて、彼女の笑顔の裏で何を考えているのか。
オリジナル作品です。
小説を投稿するのは初めてになります。
色々と至らない点はございますが、お気軽にコメント等お寄せ下さいませ。