アネモネの空   作:碓氷 修夜

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後編

あの雨の日から5日が経った。

僕の生活は大きく変化した。一日のリズムこそ変わりないものの、あの日から家には彼女が寝泊まりしている。 彼女の怪我も大したことはなく、翌日には出血も止まっており、元気に走り回るなんて造作もなかった。 朝食を一緒に食べ、他愛もない会話に花を咲かせ、昼食を摂ってから外で遊び、辺りが暗くなるまで駆け回ったりもしていた。そのまま夕食、あとは倒れるように眠るだけだった。

2日もすれば家の周囲にあった水溜まりも乾いていたが、どちらも街へ行くという話題は口に出さなかった。僕としてはこのまま彼女にここに居て欲しいためであるが、彼女がどうしてここに居座るのかは分からなかった。しかし、いざ口に出してしまうと彼女がどこかへ行ってしまいそうで怖かったのだ。

この家に一人で住むようになってから12年が経っただろうか。これまでなんとか殆ど誰の助けも借りず生きていたつもりでいたが、心の何処かでは人恋しさがあったのかもしれない。月に一度、街から叔父が様子を見に来るが、半ば追い返すように帰してしまう。叔父は悪い人ではないのだが、叔父の顔を見ると思い出したくないことまで思い出してしまいそうになるからだ。

その点彼女は僕について"何も"知らない。彼女も問うてくることはないし、こちらから話すつもりもない。彼女が話し手で僕が聞き手に回る頻度が多いためでもある。

今日も朝食を摂ると、何をするかについて話し合った。

 

「さて今日は何をしようか。昨日はゼンマイ山に行ったし」

 

このゼンマイ山というのは家から20分程行った所で、ゼンマイに限らず多くの山菜が採れる高さ100メートル程の小さな山だった。ちなみにゼンマイ山というのも僕が勝手に呼んでいる名前で、実際正式な名称があるのだろうが知るところではない。ゼンマイの時期には少し早いが脚を運んだのには訳があった。まず一つとして彼女に見せたかったというのがある。自然が好きだと言ってくれた彼女にはどうしても連れてきたかったのだ。実際少し登ると、辺りが一望出来る。景観もよく、彼女も楽しんでくれていたようだった。二つ目に先日の大雨で山の様子が気掛かりだったためでもあった。雨で山の一部が削られていないか、風で木々が崩されていないかどうか確かめたかったからだ。しかしそんなのは杞憂で、木の一本も抜かれることなく生え揃っていた。

 

「昨日も楽しかったです。そう言えば裏の物置には何が入っているんですか?」

 

「物置?ああ、色々だよ。スコップやら肥料やら…。あ、遊び道具なんかも入ってたかな」

 

「遊び道具ですか?」

 

「ああ、埃を被ってるだろうけどね。よし、ちょっと見に行こう」

 

僕は椅子からおもむろに立ち上がると、玄関でスリッパから靴へ履き替える。靴べらが不要な程に履き慣れている運動靴だ。重いかんぬきを開けて外へ出る。彼女も後に続き、赤いコートを来て靴を履き替える。この赤いコートは遠目からでも一目で彼女だと分かり、ゼンマイ山の中でも一際目立っていた。

 

「そこは花壇ですか?」

 

彼女が外の階段脇にある煉瓦で囲われた部分を指して言う。

 

「そうだよ。去年も種を撒いてあるからね、春になったらそりゃもう綺麗な花が咲くよ」

 

「どんなのがあるんですか?」

 

「チューリップやツツジ、アネモネなんかも咲くかな」

 

「アネモネ?」

 

「あれ、知らない?ピンクや白、紫なんかの色があるんだけど、うちのは真っ赤でね。君の着ているコートみたいに鮮やかなんだ」

 

「へえ、見てみたいです」

 

「芽は出ているから花が咲くまでにそう遅くはならないと思うけどね」

 

花壇の土からは小さいけれど力強く新芽が顔を覗かせ始めている。こちらも先日の大雨で多少荒らされたが、開花には問題ないようだった。

そのまま裏手へ回ると畑の傍に物置がぽつんと置かれている。鍵は掛けていないのでそのまま横へ押し引く。中には専ら農具が保管されていたが、上の段には埃を被ったグローブと木製のバットが無造作に置かれていた。グローブは3つあり、一つにはがっちりとボールが握られていた。

 

「ああ、あった。野球が出来るかな」

 

「二人で出来ますか?」

 

「キャッチボールくらいなら出来るだろうさ」

 

そこまで口を開いたところで、急に顔をしかめる。

 

「ああ、駄目だ。右手用のグローブがない」

 

僕は彼女を振り返りつつ告げる。ここ何日か彼女を見ていたから分かるが、彼女は左利きなのである。ボールを投げるのは左手、つまりボールを捕らえる右手用のグローブは置いていなかったのだ。

 

「大丈夫ですよ、右手で投げますから」

 

「あ、じゃあバッターやる?」

 

「バッターですか?」

 

そうだ、それがいいとグローブ、バット、ボールをそれぞれ一つずつ取り出して戸を閉める。そのまま家の横の広いスペースへ移動して彼女にバットを手渡す。後ろが壁になっているからキャッチャーが居なくても、そこまで苦労する必要はないはずだ。

 

「思いっきり振っていいからね」

 

「あ、はい!」

 

僕は軽くオーバースローで投球する。彼女はバットを言われた通りに力強くスイングするがかなりタイミングが遅れて空振りをする。それだけではあまり運動神経が良くないのかと思われるが、それ以前の問題を発見した。

 

「逆、逆。左手が上」

 

彼女は言われるがままに手を持ち変える。どうやら彼女は野球をしたことがないようだった。

 

「野球初めて?」

 

「はい…知ってはいたんですけど…」

 

思えば半ば強制的に野球を始めてしまったことを思い出す。

 

「ごめん。違う遊びする?」

 

「いえ、もう一回お願いします!」

 

彼女は後ろに転がったボールをこちらに投げ返しながらこう告げた。どうやら負けず嫌いな一面もあるようだ。

僕は彼女へ配慮して今度は下投げをして球速を遅くする。今度こそタイミングは合っていたものの、ボールの下を空振りした。ボールは壁に当たって彼女のすぐ足元に転がる。彼女は拾い上げると、もう一度僕へ投げて寄越す。何も語りはしないが構えの体勢に入っていることから、当たるまで続けるつもりだろう。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

彼女は元より運動神経が良いみたいで何球か投げる頃にはバットへ当てることが出来るようになっていた。そして先程ようやく芯に辺り、ボールは僕の頭の上を越えていった。木製であるため景気良い音は鳴らないが、それでも確実にボールを捉えていた。

僕の30メートル程後ろに落ちると、低い草が生えているためか殆どバウンドすることなくその場に留まった。

 

「やったー!!」

 

彼女はバットを投げ捨てる勢いで全身で喜びを表現している。僕はボールを拾いに行って戻ってくると、彼女はまた打者の構えをとっていた。どうやら野球にはまってくれたみたいだ(果たしてこれを野球と呼べるか分からないが)。僕がオーバースローに投げ変えても、時折特大なアーチを放っていた。その度にボールを拾いに行くのには骨が折れたが、彼女が楽しんでくれているのならどうということはない。

 

昼近くになると彼女もかなり上達していた。しかし、殆ど休みなくバットを振り続けていたためか相当疲れている。バットを握ったまま床へ下ろすと「ちょっと休憩」と言ってしゃがみこんでしまった。

 

「何か飲み物持ってくるよ」

 

「すみません…」

 

彼女からバットを預かると道具一式を家の壁に立て掛けて、家の中へ入った。

靴を脱ぎながらぼんやりと考える。こんなに疲れるまで遊んだのはいつぶりだろうか。野球道具を持ち出したのは最後からどれくらい経っただろうか。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

あれはいつだったか。あの日は日射しが強く、女の人に嫌々キャップを被せられた。僕は真新しいバットを抱えて、靴の踵を踏みつけながら家の横へ走って行った。後から男の人が苦笑いしながら歩いてくる。それから踵を踏むなと叱られ、渋々その場に座り込んで靴を履き直す。急いで立ち上がるとキャップのつばを後ろに持ってきてそのままバットを構えた。女の人は外の階段の手すりに寄り掛かりながらこちらを眺めている。男の人は下投げでゆっくりとボールを投げたが、僕の振るバットは空を切るばかりだった。10球もしないうちに嫌になってその場に再度座り込んだ。そんな僕を見兼ねて男の人は最後までしっかりとボールを見るんだ、バットを振る時に目を瞑るんじゃない、なんてアドバイスをしてくれた。それから何十球投げてもらったかは覚えていない。ようやくボールに当たったが少し掠めただけだった。男の人がお前は運動神経無いな、なんて苦笑いして見ていた女の人を呼び寄せた。それからは三人でキャッチボールをした。けれども女の人は小さい僕よりも下手くそで男の人に投げるボールはバウンドしたりとんでもない方向に飛んでいった。僕は笑いながらそれを見ていた。

 

 

回想に集中し過ぎて、足元に気が回っていなかったのか絨毯の少し捲れた所で思いっきり蹴躓いた。手のひらをついたので最悪転倒は免れた。彼女が見ていたら大笑いものだったが、幸いなことに外で待っていて情けない姿を晒すことはなかった。しかし恥ずかしいことには違いなく、急いで立ち上がろうとしたが、ソファの下に何か落ちているのを発見した。手を伸ばすとギリギリそれを掴むことが出来た。引っ張り出すと、それはテレビのリモコンだった。思えば彼女が来てから一度もテレビを点けていなかった。普段からそれほどテレビを利用する方ではないが、何もないときはあまりにも静か過ぎるので意味もなく点けていた。それでも特に見たい番組などはないから環境音の代わりとなっていたが。しかし最近では彼女が居るから賑やかで、テレビの出番はなかったのだ。

僕は折角見つかったのだからと電源を入れる。リモコンを引っ張り出した際にくっついてきた埃や絨毯の捲れたのを足で戻す。リモコンを机に置いて飲み物を取り出すためにキッチンの奥にある冷蔵庫へと向かう。冷蔵庫の戸には赤磁石がいくつかくっついているが、とりわけメモを挟んでいるわけではなく、疎らに置かれていた。僕は冷蔵庫からミネラルウォータのボトルを二本取り出すと乱暴に戸を閉める。そのままリビングを通過して玄関の外で待っている彼女へ渡しに行く。そんな他意もない行動。けれども、両手が塞がったままリビングのテレビの前で僕は足を止めた。"あるニュース"が僕の平常心を欠いたためであった。画面にはスタジオと中継で見覚えのある風景が映し出されている。

 

『――続いてのニュースです。先日……街で発生した強盗殺人事件について警察が捜査範囲を拡大して依然犯人の行方を追っています。殺害されたのはこの家に住む家族3人とみられていますが、凶器の刃物による刺傷によって損傷が激しく、身元確認が急がれています。目撃者による犯人の特徴は"赤いコート"を着た"黒髪で長髪"の女性。現在も逃走中です。現場には被害者ともみ合った際に負傷したと思われる犯人の血液も残されており、DNA鑑定も視野に入れて犯人の逮捕を目指しています。それでは続いてのニュースです――』

 

僕は叩きつけるようにリモコンの電源ボタンを押した。ドクンと鼓動が強く打つのを感じる。運動して火照っていたはずの身体が震えているのは汗で冷えた影響だけではないだろう。両手に持っていたボトルをゆっくりと机の上に置く。

――違う。彼女ではない。

そう自分に言い聞かせる。彼女がそんなことをするはずがない。だってさっきまで一緒にあそんでいたし、そんな凶悪な奴ならとっくの昔に僕も殺されていてもおかしくない。

 

――一体彼女の何を知っている?

必死に落ち着きを取り戻そうとしている自分に汚い自分が問い掛ける。彼女は僕のことを全然知らないが、僕も彼女のことについて全く分からないのではないか。

 

――何故彼女はここを去ろうとしない?

街への道がもう乾いていることは、薄々彼女だって気がついているはずだ。だったら何故帰らない。いや、"帰れない"のではないか。街は警察が血眼になって捜している。ここにはまだ警察立ち寄る気配はない。もしかするとこんな辺鄙な所には捜査の手が回らないのかもしれない。

 

次第に彼女を疑い始めている頭を振ってマイナスの思考を払拭する。急に頭を振ったことにより目眩がしてヨロヨロと近くにあった棚に腕をつく。ついた衝撃で棚が揺れ立て掛けてあった彼女の白いリュックサックがパタンと倒れる。口が開いていたのか数枚の写真が零れ出てしまった。慌ててしゃがみこみ、写真を拾い上げる。拾い上げると海辺の景色やそびえ立つ大きな岩なんかの風景の一部が撮られていた。彼女が旅をしていた際に撮影したであろう写真だった。"半分は"。

残り半分はスナップ写真のようで街の雑踏が収められている。それだけなら特に気に留めることもない。しかし"ある人"に赤いペンで丸が付けてある。

 

 

僕だ。

遠目のものからいつ撮ったのかも分からないくらい近くで写してあるものもある。僕は背筋が凍るというのはこういうことを言うのだと知った。彼女は以前から僕を知っていた。つまり雨の日に訪ねて来たのは偶然ではなく、意図的であったのか。

僕は駄目だと分かっているが、彼女のリュックサックに手を伸ばした。自分でも震えているのが目視できる。元よりチャックは開いている。それなのにリュックサックの蓋を開くだけでかなりもたついている。気づくと野球をしていた時よりも汗だくで、頬を伝ってきた汗のが顎に溜まり、露となって長袖の布地を濡らす。

 

「どうしたんですかー?」

 

外から彼女の声が飛んでくる。咄嗟にリュックサックから手を離した。口から心臓が出そうになり声を上げかけたが、なんとか飲み込むことが出来た。

 

「い、今行くからちょっと待ってて!」

 

声が上ずり震えているが、応答出来ただけ拍手喝采ものだ。都合がいいことに彼女は家の中へ入ってくる気配はない。僕はもう一度リュックサックへと手を伸ばす。ゆっくりと中身を物色する。着替えや裁縫道具、タオルなどが大半を占めていた。時折彼女の香りが漂ってくるが、今では悪い意味で心拍を速めるだけだった。すると、底の方で何か固いものが手に当たった。ゆっくりとそれを掴む。全身の毛が逆立つのを感じつつ、ロボットのように握った状態のまま腕を手前へ引く。リュックサックの内側から戻す腕が外気で冷やされる。手首まで引いた所で右肩に重しが乗っかったが如く動かなくなる。直感的に危険を察知していたのかもしれない。しかし僕は彼女への疑いを払拭するためと、単純な好奇心によって握ったものを外へ引っ張り出した。

 

取り出したものは――カバーのついた包丁だった――。

 

『凶器の刃物による刺傷によって――』

 

ニュースキャスターの淡々とした口調が頭の中で延々と反響している。疑いが確信に変わった瞬間、僕はあまりの震えで握力が無くなり、手に持っていた包丁を床に落とした。カバーがついているため金属音こそはしなかったが、ゴトンと鈍い音を立てた。僕は頭が真っ白になり、何も考えられなくなった――。

 

 

 

――気がつくと、玄関の扉を閉め、かんぬきまでしっかりと掛けていた。

 

施錠の音に気づいたようで、彼女が扉の前まで来たのが足音で分かる。木の板がコツコツと靴で叩かれ、扉一枚を隔てて足音が消える。

 

「ちょっと、どうして閉めちゃうんですか?」

 

彼女は何ら普段と変わらない調子で僕に問い掛けてきた。僕の心臓は高速で脈打ち、立っているだけで疲労感さえ覚える程だ。口を開くが音が出ない。喉が詰まったみたいで僅かに空気の出し入れは可能なものの息が苦しくなる。頑張って酸素を取り入れようとして呼吸が荒くなり、過呼吸気味になり余計事態は悪化する。

 

ドンドンドン!

 

目の前から急に聞こえた音に驚いて、短く悲鳴を上げ尻餅をつく。

 

「開けてくださいよ。そういう悪ふざけは止めてくださいよ」

 

「黙れ!!」

 

喉の奥に詰まっていたものを全て吐き出す。まるで自分の声がいつまでも反響しているように、辺りを静けさが襲った。

 

「ど、どうしたんですか、急に大声上げて…」

 

なんとかして沈黙を破りたかったのだろう、彼女がおどおどした声色で言う。僕は一度深呼吸をすると、彼女を問い詰めようと立ち上がる。

 

「僕は見たんだ」

 

「な、何をですか…?」

 

しらばっくれるつもりか。僕は次第に身体に熱が篭るのを感じる。苛立ちなのか、大声を上げてアドレナリンが分泌されているのかは分からない。

 

「ニュースを。街では大変な騒ぎになっているらしいな」

 

「へえ…そうなんですか。迷惑を掛けたとは思いますが…」

 

先程の熱は苛立ちというか怒りであったことを再認識する。

 

「迷惑を掛けたなんて程度の問題じゃないだろ!」

 

「何怒ってるんですか。確かに迷惑を掛けたとは思いますが、そんな息巻くようなことではないじゃないですか」

 

彼女の言葉を聞く度に僕の神経を逆撫でる。憤りと同時に人を殺めておいてこれ程までに落ち着き払っていることに恐怖すら覚えた。

 

「そして次の標的は僕なのか!?僕を盗撮してまで!」

 

「!!見たんですか、写真!」

 

「見たさ!わざとじゃないぞ、ぶつかった拍子に偶然見ただけだ。君は僕をどうするつもりだったんだ?何故僕なんだ!」

 

堰を切ったように質問をぶつける。扉越しで彼女の様子は確認出来ないが、明らかに動揺しているのが分かる。落ち着かずその場でウロウロ体勢を変えて床の板がギシギシと軋んでいる。

 

「えっと…それは……」

 

「言えるわけないよな!僕も聞きたくなんてない!」

 

「待ってください!!」

 

彼女は悲痛な声を上げた。しかし僕は、そんなこと気にせず言い放つ。普段の自分からは到底信じられないような言葉。口から出たのは他人だけを傷つける言葉。

 

 

「この殺人鬼!!」

 

彼女が扉を叩きながら何か叫んでいるが、僕はリビングまで戻り、窓のカーテンを閉じると耳を塞いで壁に寄り掛かって座り込んだ。耳を閉じているのにも関わらず、彼女の声が直接脳内に響くが如くグワングワンと頭を揺さぶる。扉を叩く音もさっきの比ではないほど強く殴り付けられている。そう簡単に破られる訳はないのだが、今すぐにでも殺人鬼が家に押し入ってくるのではないかと焦燥する。ただ、今は何も考えたくないので縮こまったまま自分の声で音を掻き消そうと尽力する。

 

「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい」

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

僕は買い物帰り、街の市場からの近道である路地を選んだ。地元の人もあまり利用しない路地だ。と言うのもここには多くの浮浪者が寝泊まりするために身を寄せているからだ。お世辞にも治安が良いとは言えなかった。時々初めて見る顔には物を乞われることもあったが、相手にしないことに決めていた。僕自身そんなに余裕があるわけでもない。むしろここの人達の仲間になっていてもおかしくはなかった。物乞いをしてきた人は"ベテラン"の人達に僕は対象から外せと教えてくれていたらしく、次回から話し掛けられることはなかった。ただその日は僕から相手に話し掛けたのだった。十ばかりの女の子が居たからだ。浮浪者は自分よりはるかに歳上の人ばかりで歳下を見たのは初めてであった。それに浮浪者にしては清潔感があったのだ。

 

「こんなところでどうしたの?」

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

気がつくと夕方になっていた。カーテンの隙間から西日が溢れて顔に当たっている。目を閉じて座っているうちにいつの間にか眠ってしまっていたようだった。昔の夢を見ていた気がする、ずっと前の。

立ち上がり、身体の固まった節々を弛緩するように伸びをする。そしてようやく、自分が縮こまって震えていた理由を思い出した。

 

(彼女は!?)

 

玄関の方へ目をやるがもうノックの音は止んでいる。もう帰ってしまったのだろうか。彼女を心配する感情が芽生えそうになった瞬間、頭を振って割りきろうとする。

 

(彼女と一緒に居たら、何時自分も殺されるかも分からない)

 

ふと視線を落とすと彼女の白いリュックサックが倒れている。傍には僕が取り出した写真と包丁が転がっている。写真の赤い丸と凶器を見るだけで鳥肌ものだ。そういえば、彼女は荷物を持たずに去ってしまったのか。そもそも急に締め出してしまったから、荷造りの猶予なんてなかったのか。殺人鬼の彼女であるが荷物さえ渡さずに追いやってしまったのは少し罪悪感が残る。しかし渡せば勿論凶器が彼女に渡ってしまうことになるので、これで良かったと思っている自分もいることは確かだった。

 

その時外から板の軋む音が聞こえた。彼女が居る。咄嗟に僕はそう思った。彼女であるかどうかは限らないし、そもそも自然と軋んだだけかもしれない。しかし僕は外に彼女が潜んでいる可能性しか想定出来なかった。恐る恐る窓の側に寄る。警官が部屋に突入するが如く半身になり、カーテンの隙間から外の様子を窺う。けれども、範囲内には人影は見当たらない。思い切ってカーテンを少し捲る。それでも人の気配はない。傾き始めた夕陽に目を潰され、顔をしかめながらカーテンを戻す。

どうやら人は居ないようだが僕は納得出来なかった。実は死角で彼女が息を潜めているのではないか。一抹の不安がある限り、安心して夜眠ることは出来ない。さっきまで居眠りしていたのがあり得ないと自己嫌悪する。僕はどうするか散々悩んだが、実際に外へ出て確認することに決めた。不安を覚えすぎて、思考がおかしくなっていたのかもしれない。常人なら家の中に留まり続けるだろうが、僕は意地でも確かめなければ胸を撫で下ろすことが出来ないと考えが固まってしまっていた。

僕は玄関に向かい、扉に耳を押し付けた。聴覚を研ぎ澄まして外の様子を聞き取ろうとする。自分の心拍がかなり激しくなっている。木製の扉に耳を当てているはずなのに、自分の心臓の音だけが世界を占めている。どうやら扉の周囲には誰も居ないようだ。耳をゆっくりと離したが、信用ならないとでもいうようにもう一度耳を押し付ける。しかしやはり何の音も聴こえない。扉から少し離れると僕は大きく深呼吸をした。そしてぐっとかんぬきに手を掛ける。軽く上へあげようとしたが持ち上がらない。今まで何も考えずに開けていたかんぬきが今は鉄の塊のように重く感じる。腕の筋肉が外へ出ることに警戒信号を出しているのかもしれない。しかし僕はその警告を無視する。やっとのことで重いかんぬきを上げ、一呼吸おいてから扉を押し開ける。開いた僅かな隙間から冷たい風が肌を刺激する。彼女が訪ねてきた時もこんな感触だった。と同時に僕は妙な違和感を覚える。何に対してなのかは分からないが。

ひと一人通れるくらいまで開くと僕は一歩外に踏み出した。

 

ピチャン

 

踏み出した足が水溜まりを踏んだ。気にせずもう一方の足も外へ出す。

 

ピチャン

 

もう片方の足も水溜まりを踏みつけた。それから扉を半開きのまま家の前の階段を降りる。

 

ピチャンピチャンピチャン

 

一歩踏み出す度に水溜まりを踏みつける。階段を下り終えると左に進路を変え、家の壁に沿ってまた進み始める。歩く度にピチャンピチャンと音が鳴る。僕は前を向いたまま歩き続ける。

 

――なあ?

僕の意識の外にある自分が問い掛けてくる。耳を傾けずに足だけを動かすことに集中する。その間も気持ちの悪い音を踏みしめながら歩く。何度も何度も自分が話し掛けてくるが無視を極め込む。

 

――なあ?

うるさい、黙れ。

返事をしてしまった。汚い僕はニヤリと歯を見せて笑った様な気がした。

こいつが何を言おうとしているのかは、分かる。でも、認めたくない、信じたくない。

自己を否定しかけたたところで彼はこう告げる。

 

 

――水溜まりなんてどこにある?

 

5日前に降った大雨の形跡はとっくに無くなった。水溜まりなんて、もうない。 ならば今"踏んでいる"ものは一体何だ。下を向くな、気づくな。僕は必死に足だけを動かせばいいと念じるが、無意識が首を下に向けようとする。

駄目だ、見るんじゃない。だが、どんなに頑張っても、僕の意思とは逆らって動いている首を制御することは出来なかった。そして自分の足元の正体を見る――。

 

 

 

――真っ赤な液体で染め上げられた地面。

 

 

 

「う……あ…え……?」

 

僕は言語を忘れたかのように口から声が漏れる。言葉が浮かばない。この"赤い"ものは何だ。何故ここを濡らしている。内心では分かっている。しかし、現実を受け止めきれない自分が解答を妨害する。振り返ると玄関の扉の前から点々と赤い滲みが落ちており、家の角の先まで続いている。場所によっては何かを引きずった様な跡もある。点と点の合間には靴の底に付いた液体で僕の足跡も残っていた。僕は見てはいけないと本能では悟りながら、赤い液体の終着点へ足が進む。さっきまでは足を動かすことに専念しようとしていたが、今は直ちに歩を止め、家の中へ引き返したいと思っている。やはりどうして自分の意思に反抗するようにその進行を止めることが出来ない。

僕はまるでカラクリ仕掛けの人形のように、始めに右足を前へ出し、次に左足を前へ出し、もう一度右足を前へと歯車が回る通りに脚を動かしている。家の角に近づくと、家の壁にもべっとりと赤い液体が擦り付けられていた。ここでも僕は妙な感覚に襲われる。こめかみの辺りがチリチリと痛む。

曲がるな、この先に進んじゃいけない。居眠りから覚めてから、僕の本能は常に警告をしている。それを悉く知らないふりをして逆らい続ける。ドクンドクンと決して速くなく、決して弱くなく、心臓はあばら骨を突き破らん程強く穿つ。一歩、一歩、踏み込む毎に心の臓も確実に鼓動を大きくする。

歩みを止めた記憶はないのにたかだか20メートルに何時間もかけた感覚がする。そしてようやく曲がり角に到達すると壁に手を掛ける。赤い液体に少し触れた。まだ湿っている。手が汚れることなど気にせずにしっかりと壁に置くと、勢いよく角の向こう側を見る。

 

そこにはここまで垂れていた赤い液体とは比較にならない程、一面にぶちまけられて海のようになっていた。その中心に"何か落ちている"。

 

――何か?――落ちている?

違うだろ。"倒れている"んだろ?"彼女"が。

 

家から出た瞬間―いや、扉を開いた瞬間か―から見ていた幻想は消え、現実が眼球から脳内へ突き刺さる。扉を開けた瞬間に抱いた違和感―あれは臭いに気づいたからだ。赤い液体―血だ。彼女を中心に四方八方へ血が伸びて、まるで花びらのように見える。この時期に咲く赤い花……。

 

血だまりの中に倒れる彼女を見ても僕は何の感情も抱いていなかった。それどころか花のことなんて考えている余裕すらある。狂気。その瘴気にあてられていたのは彼女だったのか、はたまた僕だったのか。殺人を犯して、さも平常でいた彼女は狂気だった。しかし、この惨劇を見て何の感情も得ない僕もまた狂気なのではないか。

僕は歩み寄り、血だまりを踏むことに何の躊躇もなく彼女の直ぐ傍で止まった。彼女を見下ろす。彼女はうつ伏せで倒れているため顔を見ることは出来ないが、綺麗だった黒の長髪は所々血がこびりついて固まってしまっている。彼女の着ていた赤いコートは赤黒く変色している。彼女が初めて訪ねてきた夜も雨に濡れて濃くなっていたが、ここまでではない。何分こうして立っているか分からないが、彼女はぴくりとも動かない。ここ5日間、共に過ごしていた。楽しいこと面白いこと、朝から陽が落ちるまで語り合った。それがもう喋らない。

 

――両親と同じだ。

楽しかったこと面白かったことは全て思い出の中だけのものになる。現実であって現実ではない。共有が専有になった途端、思い出はつまらない記憶の塊と成り果てる。

狂気もそうだったのかもしれない。どこからか狂気も共有していて、彼女が居なくなった今では僕が専有している、そんなふうにも考えられる。

 

 

「……げ…………で……」

 

「は……?」

 

もう動かなくなったと思っていた彼女がうめき声を上げ、僕の右足首を掴んだのだ。それまで何の感情も生まれてこなかったが、足首を掴まれた途端、身体のどこかに蓄積されていた"恐怖"がぶわあっと溢れ出てきた。

 

「わ!!」

 

思わず右足を引いて彼女の腕を振りほどいたが、バランスを崩してその場に尻餅をついて倒れてしまう。思いっきり血の上に倒れ、自分の衣服が赤く染まるが、そんなことを気にしている暇はなかった。腕を振りほどかれた彼女はほふく前進のように這ってこちらに向かってきたのだ。慌てて逃げようにも足がもつれて立ち上がれない。そのまま後ろ向きにお尻を引きずるように後退するが、彼女との距離は一定の距離を保ったままだ。むしろ力を振り絞って進む彼女の方が速いくらいで、僕はパニックに陥りすぎて下がっているのかさえ分からない。

 

「あ………ず…で……」

 

彼女は何かを唱えながら僕へ這い寄ってくる。顔も大半が血で赤くなっており、口からも血が流れ出ている。そんな状態で這い寄ってくるのは宛ら海外のゾンビ映画を彷彿とさせるものだった。彼女の存在は僕にとって恐怖でしかなく、落ち着いて会話など出来る心境ではなかった。

徐々に距離を詰められる。詰められれば詰められる程、混乱し余計に動作がおぼつかなくなってしまう。彼女が再び僕の足へ腕を伸ばした瞬間、左の後ろ手に何かぶつかり音を立てて倒れる。倒れた拍子に右手に何かが転がってきた。僕は横目でそれを確認する。

 

ボールだ。

先程彼女と遊んでいた際に使用していた道具。飲み物を取りに行くために壁に立て掛けておいたものだ。それでは左手にぶつかったのは……。

僕は左手で"それ"を掴むと、頭の前まで持ち上げ、両手でぎゅっと握り締めた。

 

「……め………んなざ…………」

 

彼女は一瞬動きを止め、何かを悟ったように目を瞑った。僕は容赦無く両手で握り締めたものを彼女に向かって降り下ろす――。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

僕はそのまま半開きの玄関の扉を転がるように通過する。右手にはまだ"バット"を握ったままだった。余程強く振り回したのか柄から10センチ程の所でバッキリと折れてしまっている。洋服は土と血でドロドロになっている。僕は肩で息をする。肺にどれだけ酸素を送っても、呼吸が整う気配が全く無い。身体に力が入らない。立つことも出来ないし、もう這いずることも出来なかった。それでもバット(柄だけしかないが)だけは放そうにも離すことが出来ない程強く握られたままである。痙攣して動かすことが不可能なだけだが。僕は糸の切れたマリオネットのようにそのまま床へ倒れ込んだ。顔は扉越しに外の風景をただぼんやりと眺めている。

半開きの扉からはもう冷たい夜の風が吹き込んできて、僕の身体を撫で回す。しかし冷たさを感じることが出来ないくらいに神経が麻痺していた。リビングからは壁掛けの時計がボーンと鳴る。ジャスト0分なのだろうがそんなことはどうでもいい。今は息をするだけでも億劫だった。

今にも沈みそうな夕陽が玄関から射し込み、再び僕の両目を潰そうとするが抵抗する気力すらもう無く、黙って沈むまで光を見つめている。お陰で視界が奪われ、チカチカと残像が目に焼き付いている。

 

夕陽がゼンマイ山の方に沈むのを待たずして全身の力が抜け、漸く堅く掴んだまま放さなかったバットが手から転げ落ちる。前を向いていた頭も床へ預け、ゆっくりと目を閉じる。目蓋の裏にも光の残像がうっとおしいくらいに居座り続ける。不格好な柄がコロコロと転がっている。このままでは外へ出てしまうが、特別気に留めることはなかった。しかし、バットの柄は玄関の扉を越えることはなかった。

外へ向かって転がっていたバットは何かにぶつかって止まったのだ。僕は目を開き、ぼぅっと力なく垂れていた頭を玄関の扉へ向ける。視界に入ったのは、誰かの靴に当たって少しこちらに戻ってきたバットの柄。殺人鬼の仲間入りを果たした自分に今更何の用があるものか。徐々に視線を上げていた僕は慌てて起き上がった。目蓋の外の世界に"あの赤いコート"が飛び込んできたからだ。上体を起こしても逆光でよく見えなかった。それでも赤いコートと黒の長髪だけは見逃さなかった。そして目が潰されているのに、一際目立ったのが右手に持たれた包丁だった。夕陽が反射してギラギラと輝いている。刃には血がこびりついていた。

 

僕は非科学的なものは信じていない。だがこの時ばかりは、幽霊というものを信じていたかもしれない。

 

「おかしいと思ったんだ」

 

答えを返さない"彼女"に向かって一方的に話し続ける。

 

「僕がバットを降り下ろす瞬間、一体彼女どんな表情をしていたと思う?恐怖、絶望、憤怒?

……彼女ね、"笑って"いたんだよ。全く馬鹿な話だよね。でも、彼女らしいっちゃあらしいかな」

 

彼女が近付いてきて包丁を掲げる。それでも僕はただ動かず、彼女と同じことをした。

 

 

 

 

 

――にっこりと笑顔で―。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

朝日が昇る。雲一つ見当たらないが、今日は少し風が強い。

煉瓦で囲われた花壇には二輪の花が咲いていた。

 

真っ赤なアネモネの花。

 

やっとの思いで開いたのだろうが、風に吹かれて花びらが千切られる。真っ赤な花びらが宙へ舞う。

真っ赤な花びらは青空へ吸い込まれるようにして、やがて見えなくなった。

頭が寂しくなり、緑色だけになってしまったアネモネは、二輪寄り添うように花壇の端っこに咲いていた――。




これにて『アネモネの空』完結でございます。
前編より長くなってしまい申し訳なく思います。同時にここまでご熟読いただきありがたく思います。

そもそも今作を執筆するにあたってなのですが、意欲が湧き始めたのは春頃になります。そもそものきっかけとしては、ここのサイト様「ハーメルン」に友人が小説を投稿しており、推敲を依頼されたことにあります。初めのうちは純粋に推敲作業を行っておりましたが、文章とは不思議なもので読んでいるうちに私の創作意欲まで刺激されてしまいました。そして現在に至る訳でございます。

さて、本編についてですが、この『アネモネの空』では"僕"の視点からしか描かれておりません。一応、"彼女"目線の裏話…と言う程、大したものではありませんが考えております。しかし、筆を手に取るかは反響次第と現在は認識しております。と言うのも、敢えて描かずに読者様に考察して頂くのもまた醍醐味ではないかと考えているからです。ちょくちょく、"僕"以外の登場人物の背景について述べている部分もございますので、改めて読み直してみると新たな発見、若しくは事件の全貌が見えてくるかもしれません。

そして完全に私事ではありますが、最近普通自動車の仮免許を交付して頂きました。本免はまだなのですが、やはりこれまでに勉強、練習してきたことに対して結果が出ると嬉しいものであります。それなので宜しければ、お気軽に感想等頂けましたら、私の執筆活動の結果が顕れたと思い、嬉しく思います。

それではここらで締めさせて頂きます。

改めてご熟読ありがとうございました。
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