杜若あいり、20歳。
城南大学経済学部に通う女子大生である。将来の夢は、アパレルデザイナーだ。
人生で何度浴衣を着る機会があるだろうか。
そんなことを考えると、あいりは不思議と高鳴る自分の心情を冷静に俯瞰することができた。
幸い、母親が着付けができる人だったのが助かった。殺す気で帯を締めてくれとお願いしたら、本当に殺されそうになったのはいいとして。
下駄を履き、巾着袋を下げて家を出る。
歩きにくいが、まあ高いヒールに比べたらこんなものだろう、という程度だ。
すぐに慣れた。このときしか履かないのに、奮発していいものを買ったかいがあったというわけだ。
昼間の太陽は燦々と輝いており、自分を本気で殺そうとしているのではないかというほどに殺人的である。
この日、二度目の死を覚悟したあいり。
浴衣って結構暑いわね……。あいりは巾着袋からハンカチを取り出し、額に当てながら歩く。
からんころんと鳴る足音が涼しげであったが、しかしその程度では暑さを和らげることはできなかった。
待ち合わせを夕方にすればよかったわ。
あいりは早くも後悔していた。
コンクリートの道を砂漠さながらに歩くあいりは、ようやく駅に到着した。
普段、徒歩五分の距離だが、今だけ19時間ぐらいに思えてしまった。
なによりもクーラーと水がほしい。
そんな文明崩壊後の気持ちを味わいながら、赤羽駅内に入る。
待ち合わせの時間二十分前。ずいぶんと早く到着してしまった。
が、あいりより先に来ている娘がいた。
「やっほー、あいりちゃんー」
「早いわね、美卯……。ってあんた、その恰好で歩いてきたの……?」
「そうだよー」
美卯の浴衣はゴスロリ浴衣と呼ばれるものだ。フリルがたくさんついており、袖のところが花魁のように膨らんでいる。その上ミニスカだ。
ライブかコンサートのアイドルでしか見たことのないような代物だが、当然のように美卯は似合っていた。
さらにぺたんと折れた犬耳をつけており、属性のデコレーションケーキに胸焼きを起こしそうである。
「あんたのファッションセンスって、ときどきすごく羨ましくなるときがあるわ」
「そうかなー?」
あいりは少し想像してみた。自分が美卯の恰好をして犬耳をつけている姿である。駄目だ。その場で喉をかきむしって死んでしまいそうだ。
「ヒナは?」
「まだ来てないよー」
そうだ、彼女は待ち合わせの5分前きっちりに現れる。
遅くも早くもならない。電波時計で計測したかのように、確実に5分前なのだ。
「でも、あいりちゃんも早いね」
「……まあね」
まあ認めるのはやぶさかではない。
自分もこの日を楽しみにしていたのだ、ということを。
本日は大宮西口前夏祭りの日であり。
あの忌まわしき『突発性胸キュン症候群』が収束したその、打ち上げの日であった。
電波時計さながらの精度で現れた友人・藤井ヒナとともに電車に乗り、三人娘は大宮へと向かった。
あとのメンバーとは現地合流である。
やはりというか、大宮へと向かう電車の中には華々しい浴衣を着た女の子たちがあふれていた。
その中でぶっちぎりで目立っているのは当然のようにゴスロリ浴衣の美卯なのだが、次に目立っているのは藤井ヒナであった。
「はー、きょうすっごく楽しみだね!」
ウキウキと両手を振り回すヒナ――電車内で人に迷惑をかけない程度にだ――は、桜色の生地に紅色の花が彩られている浴衣を着込んでいた。
相変わらず、感嘆のため息が漏れそうなほどにセンスがいい。
アップにまとめた黒髪は、自分の茶髪とくらべても圧倒的に浴衣に似合っていたし、その辺りもポイント高いわねー、とあいりは冷静に思う。
まあいい、ヒナは可愛いのだ。非常に精神が安定している今のあいりは、それを自然な気持ちで認めることができた。
その言葉を口にしたらヒナがトロヒナになってしまうために言い出したりはしないが。
「そうだねー、まずなんの屋台に行くー?」
「えへへ、わたしはわたあめがいいなあ」
美卯とヒナは牧歌的にキャッキャウフフしている。
子供っぽいわねー、なんて今までのあいりだったら鼻で笑い飛ばしていたかもしれない。
だが、あいりはその輪に入って、微笑んだ。
「あたしは断然、イカ焼きだわ」
浴衣を着た三人娘は、夏祭りへの期待を胸に膨らませ続けていた。
駅を降りた辺りには、まめの木と呼ばれるオブジェクトが鎮座する。
待ち合わせスポットとしては定番中の定番であり、さすがに夏祭りが開催される本日は待ち合わせに臨む男女が山ほどいて、人ごみをかき分けなければ見つけられないほどの人口密度であったのだが、そのふたりはあからさまに目立っていた。
「ういっす」
「こんにちは、アイリ」
茶良畑著葎須と野々ローズマリー。どちらもあいりの友人だ。同じサークルのメンバーでもある。
そしてさらに先日の戦いをともに乗り越えた戦友でもある。
『うぃ~っ!』
茶良畑とヒナがこつんと手を打ち合わせる。このふたりはとある事情によってものすさまじく意気投合したのだ。
今ではLINEも交換し、あいりの幼少期の写真や、今の大学のあいりの写真などを交換しあっているらしい。気味が悪いのでやめてほしい。
そんな茶良畑はメンズナックルに出てくるような浴衣を着ていて、これがもう抜群に似合っていた。似合いすぎて背景に『――男は黒に染まれ』の一文が浮き出ているような気さえする。
一方、ローズマリーはいつものようにメイド服を着込んでいた。長袖にロングスカート。今年の夏の地獄の熱気に溶かされそうな恰好だが、ローズマリーは汗ひとつかいていない。
そんなふたりと初対面なのは、住吉美卯だ。
「初めまして、いつもあいりちゃんがお世話になっております」
ゴスロリ浴衣というファンキーな服装にもかかわらず、美卯は丁寧に頭を下げた。友達思いの少女なのである。
茶良畑とローズマリーもそれぞれ頭を下げる。
この辺り、美卯は服装に似合わず柔和で温和な性格をしているので、あいりとしても非常に安心して見ていられる。
「それじゃあ、いきましょ」
あいりは一同を促す。
「はーい」「はーい!」
美卯とヒナが笑顔で手を挙げる姿を見て、「まるで引率の先生になった気分だわ」とあいりは思った。
まだ夕方だが、大宮西口前ではすでに祭りが始まっていた。歩行者天国となった大通りには、たくさんの屋台が立ち並んでいる。それとともに人口密度も大したものだ。
「暑いわ」
あいりが一番最初に買ったのは自動販売機の水であった。Suicaが使えたので助かった。
一方、ヒナと美卯はきゃーきゃー言いながら屋台へと駆け寄っている。ローズマリーも物珍しそうにその後に続いていた。
「杜若さん、大丈夫っすかぁ?」
「平気よ。ファッションは気合と根性よ」
「パねェ」
そのどちらも尽きかけているのはいいとして、あいりもふらふらとヒナや美卯に近づいてゆく。
夏祭りだ。まあそれなりに活気があるし、賑わっていて盛り上がっている。
屋台の呼び込みなどに声をかけられればそちらに視線を向けて、親子連れが水風船を買っている様子に和んだりもする。
あいりはその陽気にモロにあてられた。もともと影響されやすいのだ。
「なんか楽しくなってきたわ」
「まじっすか、パねェ」
なにやら居心地悪そうにしている茶良畑を引き連れ、あいりも屋台をめぐることにした。
今のご時世、なかなかイカ焼きの屋台は見つからなかったにしろ、唐揚げ屋やケバブ、ホルモン屋など、色々と変わった店が多くて目に楽しめた。
そんなときである。ふと通りを歩いている人に見知った顔を見つけた。
薄荷ラム。背の高い女性で、あいりの友人である。
思わず手を挙げて呼び止めようとしたのもつかの間。彼女は男連れであった。合コンで知り合った武井くんである。
ラムはいつものように素っ気ない恰好をしているが、なにげに手首にアクセサリーなんてつけちゃっている。恐らく浮かれているのだろう。
ふたりっきりで夏祭りデートだ。楽しくて仕方がない時期だろう。
「いいわねー」
ぼそっとつぶやく。まるで自分がずいぶんと老け込んでしまったような気がした。
まあいい、自分はどうせドキドキメーターマイナス5の女だ。
今さら焦ったりはしない。
「イカ焼きどこかしらねー」
それから完全に陽が沈むまでの三時間余り、非常に濃密な時間が流れた。
ヒナ、ローズマリー、茶良畑が射的で延々と勝負を繰り広げたり。
あいりが輪投げをするさまを、角度を変えながら写メを撮り続けるヒナにあてられて、茶良畑までが悪ノリをしたり。
美卯の結婚生活というものにローズマリーが興味津々で、さまざまな突っ込んだ話を聞き、そして逆に美卯ののろけでげっそりとしたり。
発見したイカ焼きをその場で購入し、行儀悪く立ち食いをしたり。
そう思ったら少し通りをいった先に明らかにクオリティの高い真・イカ焼きの屋台があって(しかも100円安かった)あいりが二本目をチャレンジし、食べきれなくてみんなに手伝ってもらったり。
水ヨーヨーやお面を買ってみたり。
出し物としてアイドルのパフォーマンスがあったのを見物したり。
パレードを見物したり。
あいりは楽しい時間を過ごした。
そう、楽しかったのである。
まるで子供の頃に戻ったような気持ちで、あいりははしゃいでいた。
このときばかりは自分の才能のなさだとか、天才と凡人の差だとか、前期でことごとく落とした単位だとか、そういったことを忘れることができた。
いや嘘だ。ほとんどは頭にアオカビのようにこびりついていたが、目を背けることができた。
そして、夜である。
ようやく涼しくなった頃、あいりたちは一卓を囲んでいた。
茶良畑はバイトがあり、抜けることになった。
ローズマリーもまた、独り暮らしの自宅で最近飼育し出した二匹のカニ(名前はズバラドテッチとノルルコテヒェンと言うらしい)の面倒を見るために帰宅していった。
というわけで、ヒナと美卯とあいりの三人だけである。
浴衣を着た華々しい娘たちが顔を突き合わせて、屋台で買ったものに舌鼓を打っているのだ。ひっきりなしに声をかけられて(そのたびにヒナがついていきそうになったが)あいりと美卯が撃退をしていった。
ぼんぼりやちょうちんの薄明りは非日常感を醸し出し、ここはまるで夏祭りという名の幻想世界であるかのようだった。
「いやー、たまにはこういうのもいいわねえ」
「そうだねえ、焼きそばおいしいねえ」
「ねー、ねー」
まるで自分が真人間になったような気さえする。藤井ヒナという女傑が大宮西口前の真人間平均値を大幅に引き下げているとはいえ、そんな気がしたのだ。
なんといっても自分たちはあの『突発性胸キュン症候群』を止めたのだ。そういった自負もあった。
あらゆる辛苦から解放された気分で焼きもろこしにかじりついていると、だ。
そんな折、声をかけられた。
「あれ、美卯ちゃん、ヒナさん、あいりさん?」
『???』
三人同時に振り向く。するとそこには、ねじり鉢巻きにはっぴを着た一人の少年が立っていた。
ぶっちゃけて言うと、佐原健二であった。
「わー、けんじくんー、久しぶりだねー」
まずヒナが両手をぱたぱたと振りながら挨拶をする。
美卯は先日の事件によって絶交中なので、ただ笑顔で微笑んでいた。
そしてあいりである。
「あー…………」
指でこめかみをとんとんと叩き、思い出したくない記憶を探る。するとそこにはひとりの少年の顔が浮かんできた。
「いたわね、あんたみたいなやつ」
「あいりさん相変わらずひどいよね!」
しかし、そう叫ぶ健二はあまり嫌そうではなかった。
あいりは頬をかく。
「なんというか、ちょっとしたぷち同窓会みたいになっているわねー」
「えへへ、そうだね。けんじくんはひとりで来たの?」
「ううん、先輩のお手伝いでね。よかったら見て行ってよ、そこで屋台やっているんだ」
健二はちょいちょいと親指で屋台を指す。そこには焼きそばののぼりが立っていた。
三人は手元を見下ろし、そして食べかけの焼きそばを見つけて、同時に首をひねった。
『焼きそばはもういいかなあ……』
「タイミング悪いなあ!」
健二は頭を抱えて叫んだ。今度は本気のトーンであった。
が、彼は諦めずに再びやってきて、今度は飲み物を三つ置いてった。
サービスとのことだ。なんだかんだで気のいい男なのである。美卯は最後まで目を合わせなかったが。
しかし置いていった飲み物が問題だった。それはシュワシュワと泡の立ちのぼるビールだったのである。
「……これ……」
「紛れもないね」
「ビールだねー」
口々につぶやく一同。あいりが「うおい」と健二の肩を掴んだ。
「ちょっとあんた! なにしてんのよ! こっちには未成年も混じっているのよ!」
この中では藤井ヒナだけが(3月3日生まれのため)現在はまだ19歳だ。
余談ではあるが、藤井ヒナは国際連合UNによって一部の権限を超法規的措置により免除されており、19歳で飲酒しようが日本国の法律違反になることはないのだが、それはあいりの知る由ではない。
ともあれ、健二はきょとんとあいりを見返す。
「え? 別にそれぐらい。ていうかもしかしてあいりさん、まだお酒飲んだことないの?」
「は、はあ!?」
きょとんとした健二の言葉に、あいりは目を剥いた。
お酒を飲んだことがあるかどうか、で言えばだ。
ない。
だいたい大学デビューなんてしなかったし、サークル勧誘に連れられたこともなかったし、悪い友達だっていなかった。なんだかんだ真面目なあいりは、法律に逆らってまでお酒を飲みたいとも思わなかったのである。
別にビビっているわけではない。だが、今まで一度もやったことがないのに、それを今挑戦するのは気が引けるだけだ。
「ってなんで飲んでいるのよ、美卯!」
「えー?」
一息でビールの半分を飲み干して、美卯(成人済)は可愛らしく小首を傾げた。
「美卯だって、別にお酒ぐらい飲むよー。だーりんとワインを晩酌するのが、日課だもん」
「こ、こいつ……」
いつの間にか大人になっているわね、とビビる。美卯は話すたびに新たな発見がある幼馴染だ。
一方、ヒナだ。
「まさかヒナ、あんたも……って別にあんたがなにしていても驚かないわね。お酒強いの?」
「うーん、普通かなあ? でも」
ヒナはビールを一口飲んだあとにテーブルに戻し、頬を緩めて笑う。
「せっかく健二くんがくれたものだし、残すのももったいないし」
「あいつの顔面にぶちまけてやればよかったのよ」
健二を取り逃がしたあいりは、再び席につく。
言いながらもまあ、興味はあった。
ごくりと生唾を飲み込む。
自分の幼馴染がこうも平然とお酒を飲んでいるのだ。
なぜ自分が意固地になっているのかもわからなくなってきた
そうだ、二十歳になったのだから、法律上は許されている行為なのだ。
イマドキの女子大生さながら、あいりはノリに身を任せる。
「……いいわ、いいわよ、いいじゃない」
紙コップに入れられたビールを見下ろす。
飲むなら冷えているうちだ。この温度なら刻一刻と生ぬるくなってゆくのだ。
コップを空にした美卯が微笑みながら尋ねてくる。
「無理して飲まなくていいよ、あいりちゃん。美卯がもらおうか?」
「大丈夫よ。これぐらい飲まなければ大人になれないわ」
「ビールを飲んでも大人にはなれないよ、あいりちゃん」
美卯の優しく見えて冷徹なツッコミが痛い。
ヒナはぎゅっと拳を握っていた。
「大丈夫だよ、あいりちゃん。あいりちゃんにとってはビールなんて大したことないよ! 所詮ただの液体だよ! あいりちゃんに勝てっこないよ! 人間の尊厳と肝臓の力を見せつけてやるんだよ!」
「そこまで大きな話はしていないわ!」
叫び、あいりは紙コップに口をつけた。
麦色の飲み物が口内に滑り込んでくる。
直後、あいりは思いっきりしかめっ面をした。
――苦い。
なにこれ、苦い。すごい苦いし、おいしくない。
なんで大人はこんなものありがたがって飲むのかしら。意味が分からないわ。
だがまあ、飲めないこともない。我慢して嚥下する。
ここでまずいと叫ぶのは、おいしそうに飲んでいる美卯に対しても失礼な気がしたのだ。
すると内側からぽかぽかと熱がこみあげてきた。
「なんか熱くなってきたわ!」
「脱ぐ!?」
「脱がないわ」
やたらと嬉しそうに尋ねてきたヒナを一刀両断し、さらに飲む。
だんだんと舌に味が馴染んできた気はする。
別にそこまでまずいこともないわね、と思えてきた。
こういう飲み物もあるのか。なんだか新感覚だ。
「ちょっと気に入ってきたわ!」
「そう? 間接キスする!?」
「しないわ」
身を乗り出してきたヒナの頬を手のひらで押し返し、さらに飲む。
妙に癖になってきた。
「結構おいしいわ」
「ほんと? よかったぁ、今度だーりんと三人で飲もうよ。うちにおいしいベルギービールいっぱいあるんだよ。それ飲みながら、ひたすら美卯とだーりんを見ててよ」
「絶対嫌よ。どういうシチュエーションなのよ」
「だったらわたしとふたりで飲もうよ、ね、ね? 夜景が見えるホテルを借りるから! 最高のロケーションでふたりで夏の思い出を作ろ、あいりちゃん!」
「そっちはそっちで嫌よ」
なんだかこのふたりに絡まれていると、妙に酒が進むような気がしてきた。
これが飲まなきゃやっていられない、というやつだろうか。飲むたびに、少しずつストレスが和らいでゆくのを感じた。
あいりはがつんとテーブルに紙コップを叩きつける。
「だいたいあんたたち、あたしの人生をもてあそびすぎよ!」
『えっ?』
美卯とヒナがきょとんとした。
あいりはしかし気づかず、気にせず、告げる。
「なんなのよ! 結婚したり、乙女ゲー作ってたり! なんなのよあんたたちは! めちゃめちゃ人生楽しみすぎよ!」
「いいことでしょ!?」
「そうね、いいことだわ!」
美卯の叫びに、あいりは断固うなずいた。
お気づきだろうか。
――あいりは酔い始めていた。
それをこの場で気づき始めていたのは、藤井ヒナただひとり……というわけではなく、当然のように美卯も気づいていた。
アイコンタクトで打ち合わせる。
(あいりちゃん酔ってきたみたいだけど、どうしようヒナちゃん。もう帰る?)
オタサーの姫たる美卯によるアイコンタクトだ。
その能力はまさしくテレパスの領域に達していた。
目と目と合わせれば、己の考えを伝達することなどたやすいことだ。
ヒナは美卯を見ていなかった。
あいりをガン見であった。
(あいりちゃんが、酔ってる……酔ってる、あいりちゃん……! 酔ってる、酔ってる……! お持ち帰り……!)
ハートのアホ毛がうにょうにょと動いている。なにを考えているか、丸わかりであった。
ほどほどにしよう。美卯は苦笑を浮かべながらビールを飲み干す。
それはそうと、あいりだ。
「ちょっと気に入ってきたわ!」
「うんうん、もう一杯買ってくる!?」
「そうね! いただくわ!」
ヒナがきゅるんと立ち上がり、ハートの残滓を振り撒きながら屋台へと向かう。
彼女がいなくなった途端だ。あいりは地獄の釜のようなため息をついた。
「ヒナは、ほんとに変わらないわね……」
「そ、そうだねー」
「三人がこんな風になっちゃうとは、あの頃は思わなかったわねー」
「う、うん」
あいりはテーブルに頬杖をついて、美卯を見やる。
「ミウミウは大学出たらどうするの?」
「んー、まだ特に決めていないかなあ。専業主婦になるのもいいけど、就職も楽しそうだなあ、って」
「就職が楽しそう、ねえ……。いいわねえ、あんたは」
「う、うん」
やばい。このままだとなにかやばいことになりそうだ。ミウミウとか言い出しているし。嬉しいけど。
美卯は慌てて話題を変えることにした。
「ねえ、あいりちゃんはそろそろ誰かいい人はいるの?」
「はああああああああああああああ!?」
夜叉のような顔をされた。
それが彼女の異名『邪神』の本当の姿であると、美卯は本能的に理解する。
「あんた、それ、本気で言ってんの……?」
「う、ううん、もちろん冗談かなーって!」
「どうせあたしはドキドキメーターマイナス5よ……。でも別にいいじゃない、それがあたしの生きる道なのよ! あたしがこんな性格で誰かに迷惑かけたっていうの!? ええ!?」
現在進行形で美卯に迷惑をかけているのだが、それはまあ置いておこう。
「で、でも、あいりちゃんみたいな可愛くて素敵な人を放っておくなんて、男の子は見る目がないよねー、あははー」
「……そう言ってくれるのは、ミウミウだけだわ」
「そ、そんなことないと思うけど。美卯が男子だったらあいりちゃんと結婚してたかもー」
「本当に? それ本当に? こんな前期で単位を落としまくって才能もなくて今だって小学校からの幼馴染に酒飲んでぐだぐだ絡んでいるような女が? 本当に好きになるの?」
自覚はあったらしい。
美卯は優しげな笑みを浮かべて、あいりの頭を撫でる。
「うん、大丈夫だよ、あいりちゃん。あいりちゃんのいいところも、美卯はいっぱい知っているもん。平気だよ、あいりちゃん。あいりちゃんはとっても優しくて、かっこよくて、いつでも美卯を守ってくれていたんだもん。大好きだよ」
「み、美卯……」
あいりの目にじわっと涙が浮かぶ。
「あたし、美卯と結婚するわ……」
「うん、ごめんねあいりちゃん、美卯もう結婚しているんだ。たぶんだーりんが鬼籍に入っちゃうと思うから、そのあとだったらいいよ」
「その気持ちだけで十分だわ……」
美卯はよしよしとあいりの頭を撫でる。
そこに両手にビールを持ったヒナが満面の笑みで戻ってきた。
どうやら話を聞いていたらしい。まああいりの大声なら聞こえるだろうが。
「だったらあいりちゃん! わたしと渋谷区に行く!? ねえ、行く!?」
「嫌よ、あんた絶対に浮気するでしょう」
「そんなのしな……。まあ、うん、大丈夫だよ、わたしの心はあいりちゃんのものだよ」
「うっさいわ!」
あいりはヒナの手からビールをひったくるようにして奪う。(そして手のひらに500円玉を押しつけた。律儀なのである)
「だいたいあんた、そこ座りなさいよ! 前々から山ほど言いたいことがあったのよ!」
「えっ、なになに!? まさか、そんな、つまりそういうこと……!? ついにわたしの王子様、現れちゃうの……?」
「絶対に違うわ!」
ビールに口をつけつつ、あいりはヒナに据わった目を向ける。
「あんたは昔からあたしよりずっとファッションセンスがよかったでしょうよ!なんなのよ! その着物だって見事な柄だわ! どうせ自分で選んで買ってきたんでしょ!」
「ううん、あいりちゃんたちと夏祭りに行くのが楽しみだったから、この日のために大阪府織物染色組合にいって注染を勉強してきて、自分で染めたんだよ」
「ガッデムだわ!」
ガッデムの語源はgod damn。すなわち『神を呪う』である。
それが女神に対する冒涜として正しいものであるかどうかはさておきとして。
美卯はターゲットがヒナにうつったことを確認すると、あいりの酔っ払いぶりをスマートフォンのビデオ撮影機能を使って録画しだした。
別にYouTubeにアップして飲酒したあいりを社会的に抹殺しようと思っているのではない。ただ単に面白いからだ。
気づかずあいりは、管を巻く。
「なんなのよ、ヒナ! 結局あんたはそのまま一生誰かを好きになって、ふらふらと蜜から蜜へと飛び回る蜂みたいに楽しく暮らすんでしょ! いいわね、楽しいわね! でもあたしはそんな生き方クソくらえだわ!」
「そ、そうかな?」
「まっぴらよ! あたしにはやりたいことがあるの! これが叶った先になにがあるかなんてわからないけれど、でもあたしは自分の幸せを他人に委ねたりだなんてしないわ!」
「そっかあ、やっぱりあいりちゃんはすごいね!」
「そうなのよ! あたしはすごいのよ!」
思いっきり絡み酒に巻き込まれているヒナは、だがしかし妙に嬉しそうだ。
紙コップを両手で持ちながら、うんうんと幸せそうに相槌を打っている。
その様子を、美卯はずっと生暖かく見守っていた。
やがて夏祭りも宴の終わりを迎え、あちこちの屋台が店じまいをし始めていた。
そんな中、あいりたち三人娘は終電近くまで、益体もないことを語り合った。
将来の夢だとか、理想の恋人の話だとか、大学生活の愚痴だとか、友達の話だとか、とりとめもなく言葉を交わした。
話は尽きなかった。
「だからねヒナ、今に見てなさいよ! あたしはビッグになってやるんだから! そうしてあんたをあっと言わせてやるわよ! 心の底から敗北感を味わわせて、『あいりちゃんには絶対に勝てないなあ……』って思い知らせてやるわ! それまでニコニコと笑っているがいいわ!」
「うんうん、わかった! 待っているね!」
ヒナは最後まであいりに絡まれながらも、嬉しそうだった。
あるいはもしかしたら、藤井ヒナも酔っていたのかもしれない。
彼女は今だけは夢を見ているようなまなざしで、小学校時代からの親友が照れも気負いもなく自分と言葉を交わしてくれているその瞬間を、心から歓迎していたのかもしれなかった。
そして結局あいりは美卯が送り届けていったため、ヒナのお持ち帰り計画は失敗したのであった。
後日談である。
翌日、その動画を美卯に見せられたあいりは、大学三階の窓ガラスを割って外に飛び降りようとしたところを、そばにいた茶良畑とローズマリーにすんでのところで確保された。
どうやらバッチリと記憶にも残っていたらしく、ヒナに合わせる顔がないと床に頭を打ち付けながら己の絡み酒を悔いていた。
あいりは、もう一度『突発性胸キュン症候群』が起きて人類が滅亡すればいいとこの日、心の底から思った。
杜若あいり、20歳。
城南大学経済学部に通う女子大生である。将来の夢は、アパレルデザイナーだ。
そんな彼女がビッグになるのは、まだ遠い未来であるように思えた――。
「もうお酒なんてこりごりよー!」
おしまい。