海老名ちゃんの日常 作:グリコプリンマン
――コーポ吉田。
築十年ほどの、新しくもなく、しかし決して古くもない。郊外でよく目にする都内のアパート。その103号室に海老名菜々は住んでいた。
荒矢田高校に通うため、秋田から越してきた彼女は少し呆けた顔で台所に立っていた。平成生まれの女子高生にしては珍しく、家事全般を得意とする菜々は注意力を散漫にしながらも手際よく食材を並べる。
「……はぁ」
虚しく響き渡る溜息。
一人暮らしの彼女に、その訳を聞く人はいない。
――トントントン。
リズミカルに、丁寧に洗った食材が切り分けられていく。人参、ジャガイモ、玉ねぎ。チョコレートが端に置かれているのは隠し味の為だ。母から教わった通り、牛肉と野菜を予め炒めておくことも忘れない。
「……はぁ」
再び溜息を一つ。
玉ねぎが飴色に変わったのを見計らい、几帳面に量り取った分量の水を鍋へと入れ、菜々は顔をあげた。丁寧に蓋をして、沸騰するまでの間だけ火を強める。自炊、というモノに慣れた彼女は一連の動作をほとんど身体で覚えていた。
視線は真上。
宙を彷徨わせるのではなく、しっかりと真上へ顔ごと向けられていた。
頬は僅かに紅く染まり、口は小さく開いてしまっている。
――恋する乙女。
その表現が綺麗に当てはまる。
海老名菜々は生まれて初めて、異性に恋をしていた。しかし、彼女にまだその自覚は無い。
「お兄さん……」
菜々は切なげに呟く。
――今、お兄さんはなにしてるんだろう?
丁度、真上の階に住む想い人の顔を浮かべ、切なげに吐息を漏らす。
優しいあの人は、まだ仕事から帰っていないのだろうか。色々と大変そうだし、もしかしたら残業せざるを得ない状況にあるのかも……。
ぐつぐつと音を立て始めた鍋にお玉を入れ、浮かんできた灰汁を丁寧に取っていく。料理も好きだが、同時に食べることも大好きな彼女らしく、作るものを美味しくする工夫は怠らない。
彼女は火を弱火へと戻し、換気扇を少し強めに設定した後、リビングへと戻った。
リビング、と言っても一人暮らしのアパートらしく、部屋は一つしか無い。菜々はゆっくりとベッドに腰を下し、仰向けに転がった。一般的なそれよりも、はるかにボリュームのある彼女の双丘が重力に逆らって一際存在感を放った。
幸か不幸か、彼女は自身が持つその武器の魅力をまだ知らない。
「カレー、持っていたら喜んでくれるかな?」
小さく呟いた。
料理とは意外に大変なもので、一人分作る、という事が難しいメニューも多く存在する。菜々が今日作ったカレーもその一例で、一晩分だけ作るというのはかなり面倒なのだ。
もちろん、彼女も例に漏れず、今日の晩と次の日の朝食べることを考えても、少し多すぎる量のカレーを作ってしまっていた。
「……味見して、美味しかったら食べて貰いにいこう。うぅ~、恥ずかしいよぉ~」
一瞬、覚悟を決めたような表情を浮かべたと思えば、途端に情けない声を上げながら頬に手を当てごそごそと転げまわる。
恋、という経験が一度もない彼女は、浮つく自分の気持ちをまだ正しく理解できていなかった。今はまだ、『憧れ』の段階にいる菜々は、しばらく自問自答を繰り返した後、立ち上がる。
そして、全身鏡に自分の身体を写す。
荒矢田高校の制服。別段何の変哲もない姿を念入りにチェックしていた。
海老名菜々は美少女である。
上の階に住む、想い人の妹。そして上京して初めて出来た友人の、土間うまると比べると確かに劣りはする。が、彼女は十分に魅力的な少女だ。
生来のおっとりとした優しい性格のよく表れた、少し垂れた目尻。白い肌。
母ゆずりの栗色の髪もよく手入れされているらしく、艶やかに輝いていた。僅かにウェーブのかかったそれを耳よりも僅かに高い位置で結い、纏めるツーサイドアップ風の髪型。彼女の同世代で、世間一般で流行っているそれと比べて少し幼い選択ではあるが、素朴さと可憐さを持ち合わせる菜々らしいヘアスタイルとも言える。
何よりも特徴的なのは、服を着ていてもよく目立つ、胸のサイズだ。
男女問わず、彼女の顔よりも胸にまず目を向けてしまうことが頻繁にある。
「――うん。大丈夫、かな」
ひとしきり自身の姿を確認し、納得した彼女は台所へ戻る。
菜々は市販のルーを数種類、組み合わせて隠し味とともによく煮立った鍋の中へ落とした。すぐに固形だったそれらは溶けていき、代わりに食欲をそそる良い香りが漂い始めた。
ぐぅ。
うわぁ。また、鳴っちゃった……。
菜々は慌ててお腹を抑え、自分が部屋に一人でいることを思い出し安堵の表情を浮かべる。
スレンダーな(勿論、胸部は例外ではあるが)彼女は、外見に合わずかなりの健啖家である。そのせいか、空腹になるとすぐにお腹の音が鳴ってしまう癖があるようで、菜々はすこしばかりその事を気にしていた。
ルーが溶けきってから数分、とろみがつくまで煮込んだカレーを小皿に救って味見。
「んっ! 美味しい」
これなら、お兄さんもうまるちゃんも喜んでくれそう。
溢れるような笑顔で、菜々は頷いた。
料理がうまく出来た喜びか、それとも、想い人に会いにいける理由が出来た喜びか。彼女はいそいそと自分が朝食べる分をタッパに取り、二つある冷蔵庫のうちの一つに入れた。
そして、上階に住む友人に電話をかけようとした。
その時。
バタバタっと騒がしい足音が響く。
あぁ。お兄さんが帰ってきたんだなぁ。
にこりと笑って、菜々はスマホを置いた。
容姿端麗かつ品行方正、成績優秀・スポーツ万能で知られる土間うまる。菜々は、そんな友人が、自分の兄の帰宅を心待ちにしていることを知っていた。そして、彼が家につく度に上の階がにわかに騒がしくなることも経験上理解している。
彼女は、想い人。土間大平が夕飯を買ってきてしまっていた場合のことを考えて、鍋を持たずに外へ出た。わずかに緊張で身体が強張るものの、足取りは軽い。
自分が恋している、という自覚は無いままに感情に任せて進む。少し汚れたコンクリートの階段を弾むように登った。
201号室。
何度かお邪魔したことのある部屋の前で、一度立ち止まり、深呼吸。
中からは大平のいつもと変わらぬ声が響いていた。
だ、大丈夫。服はおかしいところ無かったし、それにちょっとだけカレーをつまんできたからお腹も鳴らないし。脳内でシュミレーションを行い、自分自身を納得させるため拳を握って大きく頷く。
菜々はおそるおそるインターホンに指をかけ――押し込んだ。
ピーンポーン。
どこか間の抜けた音がドア越しに聞こえる。
と、同時に菜々の身体が極度の緊張から固まった。
先ほどまでの浮かれた気持ちはどこへやら、今度は恥ずかしさに支配されてしまう。
お、お兄さんがでてくるよぉ~。
自分から訪ねてきたのに、自分からインターホンを押したのに、持ち前の内気さ故か小刻みに震える菜々。今日び、ここまで草食系な女子高生は珍しいだろう。そこも、彼女の魅力ではあるのだが。
「はーい!」
人の良さそうな、男にしては少し高めの返事が返ってくる。
バタバタと慌ただしく響く足音。
ガチャリ。
すぐに、菜々の意中の男性が姿を現した。
仕事から帰ってすぐだったからだろうか。
紺色のスーツに身を包み、ネクタイは几帳面にも緩めることなくしめられている。
横長の、四角い黒縁レンズのメガネを掛けた青年は、菜々に気付いてにこりと笑顔を浮かべた。目元に疲れは伺えるものの、それを表情に出さず妹の友達に優しく接する彼を見れば、誰でも大平が世間一般で言う好青年であることはよく分かるだろう。
レンズ越しに届く視線は穏やかで、まっすぐに菜々の眼へと向けられている。
「えっと、何か……って、海老名ちゃん! こんばんは。どうかした?」
「あ! あ、あ、あ、あの……お、お兄さん! こ、こんばんは」
「うん。こんばんは。うまるに用事?」
何の変哲もない、黒髪のショートカット。癖毛のせいか、頭頂部の髪がピンと跳ねてアンテナのように立っている。容姿は端麗、とまでは言わないが、ある程度整った目鼻立ちをしていた。
しかし、当然、見とれるほどのものではない。
が、菜々にはあたかも彼が絶世の美少年のように思えていた。
恋というフィルターを通して見るせいか、彼の笑顔が一段と輝いて見える。
――お、お兄さんが。お兄さんがぁっ。
支離滅裂な思考が頭のなかを駆け巡り、回路がショートを始めた。
頬は隠し切れないほど紅く染まり、頭からはしゅうしゅうと湯気が出てきそうだ。
しかし、その事に対して。大平が、あぁ、海老名ちゃんは恥ずかしがり屋さんなんだな。という感想しか持てないのは双方にとって良いことなのか、それとも悪いことなのか。
しばし挙動不審に陥っていた菜々は、やっとのことで平静を取戻し、本題を口にする。
「あのっ、カレー、作りすぎちゃったので……良ければうまるちゃんと食べてくれたら、って。い、いえ! 晩御飯の準備がもう終わってるなら良いんですけど!」
自分にも、相手にも悲がないにもかかわらず、ぱたぱたと顔の前で手を振りながらしどろもどろになる菜々。折角整えた髪型も、少し乱れてしまっている。
大平は、そんな菜々の様子を不思議に思いながらも彼女の意図を理解して、再び笑顔を浮かべた。
「ぜひ、いただくよ。これから晩御飯を作るのは大変だなって思ってたところなんだ」
「そ、そうですかっ」
ぱぁっ。
そんな効果音が付きそうなほど、素直に表情を輝かせる菜々。
「うん。海老名ちゃんの料理なら、俺が作るより美味しいだろうし、楽しみだよ」
「ふえぇ!? え、えっと、そのっ……。うぅ。私なんか、お兄さんと比べたら……あの」
「うまるも喜ぶと思うよ。アイツも俺も、カレー好きだしさ」
菜々の喜ぶ言葉を、嫌味なく本心から並べる大平。職場の同僚が彼を、さわやかで色んな女性に好かれている。と、評するのも頷ける。
彼女は恥ずかしさが臨界点に達したのか、林檎のように真っ赤になった頬に手を当て、彼に背を向けてしまった。そしてそのまま、それでは取ってきますね、と言い残して自分の部屋に戻ろうとする。
が、そんな彼女を大平が引き止めた。
「あ、まって、海老名ちゃん」
「ひ、ひゃいっ!」
「海老名ちゃんは晩御飯食べたの?」
「い、いえ、まだですが」
土間家に差し入れることで頭が一杯だった菜々は、当然まだ晩御飯を食べていない。味見がてら、お腹の虫が鳴らない程度に入れてきただけだ。彼女はしどろもどろになりながら正直に答えながらも、どうしてそんな事きかれたんだろう、と首を傾げた。
大平たちに自分の作った料理を食べてもらう。
普通の恋する乙女なら、それを上手いこと恋仲に発展するための道具に使うものだが、彼女にその発想は全くない。ただ、純粋に一言二言大平と話が出来れば、むしろ顔を一目見るだけでも満腹なのだ。
そんな、欲のない菜々に、恋愛の神様は手を差し伸べる。
「そっか、なら、三人で食べよう? 俺、サラダくらいなら作るよ。うまるも、そのほうが喜ぶと思うから」
お兄さん、一体、何を言って……。
つまり、うまるちゃんのお家で晩御飯一緒に食べないかってこと?
そそそそ、そんな!? う、嬉しいですけどっ。でもでも。ふわぁあ……。
普通、一瞬で理解できるような提案も、思考が茹で上がった菜々には理解するだけでも困難を極めるらしい。やっと、大平の意図する提案を正しく受け取った彼女はおずおずと問いかけた。
「い、いいんですか?」
「もちろん!」
大平は、迷いなく微笑む。
菜々は今日一番の笑顔を浮かべて、返事を返した。
「は、はいっ!」
タタタタと、彼女は跳ねるように部屋へと戻る。
菜々はまだ正しく理解していない。自分の胸が高鳴る理由を。大平の笑顔に、自身の目が奪われてしまう訳も。
そして、大平も理解していない。彼女の態度の裏にある、本当の気持ちを。
しかし、焦ることはない。
――彼女たちの恋は、始まったばかりだ。
勢いで書き上げました。
海老名ちゃんは可愛いですね。
更新は不定期です。
かなり気ままにやっていくつもりなので、要望などあればぜひ。
書いて欲しいシチュエーションなどあればご連絡くださいね。
では、また次回。
続けば、ですが。
それでは、失礼致します。