第97管理外世界『地球』。
魔法文明は存在せず、代わりに高度な科学文明が世界を覆っている世界だ。
基本的にこの世界に住む者は魔力ゼロであるのだが、ごく稀に生まれてくる魔力持ちはほぼ例外なく凄まじい力を有しているという特徴があり、その代表的な例として高町なのはや八神はやて、ギル・グレアムという管理局のエースの名が挙げられる。
そんな世界の、『海鳴』と呼ばれる街にファイムとはやては降り立った。
「ここが、はやてさんの育った場所ですか」
「うん。……ここ数年は、来れてへんかったけど」
「いい所ですね。空気が優しい」
ファイムは微笑む。海から流れてくる潮風が気持ちよく、どこか優しい。
きっと、この空気はここに住む人たちが作り上げたものだろう。
……心地良い。
心の底から、そう思う。
「参りましょうか。荷物、お持ちしますよ」
はやての荷物が入ったスーツケースを、ファイムは手に取る。さすがに女性。荷物が多く、中々に重い。
ちなみにファイムははやての荷物の半分以下の荷物、それこそ必要最低限のものしか持ってきていないので、ほとんど荷物はないと言ってもいい。
「あ、ありがとうな。……それと、ファイムくん」
「なんでしょうか?」
「……今のわたしは、『機動六課部隊長八神はやて』やない。ただの『八神はやて』や。敬語は、いらんよ」
どこか自虐的なその言葉。ファイムは、頷く。
「うん、わかったよ。はやてさん」
「……なんか、違和感あるね」
「それは、仕方ないよ。いつも敬語だから」
ファイムは笑い、はやても微笑む。
ただ、どことなく。
どことなく、雰囲気に違和感があった。
◇ ◇ ◇
「宿って、ここなん?」
「エイミィさんに協力してもらって。……ええと、ダメだったかな?」
「ううん。懐かしいな、って思っただけやよ」
そう言って、はやては頭を振った。目の前にあるのは、かつてはやてが住んでいた場所。
守護騎士たちと出会い、過ごした家だった。
「勝手知ったる我が家、ってわけじゃないけど……知らないところよりは、って思って」
「うん。ありがとう」
「どういたしまして」
違和感。明確にはわからないそれを二人は感じながら、しかし、無視していた。
それでもいいと、今は思う。
「荷物を置いてから、どこに行く?」
「せやなぁ……久し振りやから、行きたいとこはいっぱい……ああ、あそこがええかな?」
それぞれが寝泊まりする部屋に荷物を置きながら、はやては思い出したようにそんな言葉を紡ぐ。
「ファイムくん、甘いの大丈夫やんな?」
「むしろ大好きだけど……」
「凄い美味しいお店があってなぁ。折角やし、そこに行こ?」
はやてが、ファイムの手を引く。
「喫茶『翠屋』。ミッド地上でも中々お目にかかれへん、凄いお店や」
◇ ◇ ◇
一言で言うと、はやての言葉は何一つ間違っていなかった。
……美味しい。
素直に、そんな言葉が漏れた。なんだろう。ここまで美味しいものは食べたことがない。
ただ……。
「高町って……」
「うん。なのはちゃんの実家やよ? 正確には、ご両親がやってるんやけど」
「成程」
ファイムは納得しながら、ケーキを口に入れる。
……凄く美味しい。
それが伝わったのだろう。はやては、ふふっ、と微笑むと、ケーキの一欠片をファイムに差し出した。
「はい、あーん」
「……はやてさん?」
「ええやん、少しくらい」
笑っているが、笑顔に少し、悪戯っぽいものが混ざっていた。
ファイムは、全く、と言いながら逆らわない。
「美味しい?」
「はい……じゃなくて、うん。美味しい」
「あはは、敬語、抜けてないんやね?」
「敬語の方が使うので、どうしても……」
ファイムは苦笑する。はやては、じゃあ、と言葉を紡いだ。
「ファイムくんが敬語を使わない相手って、誰なん?」
「ええと、リンネとリューイとミリアムとエリオとキャロとソラ……くらいかな?」
「……少ないね」
「……言ってて僕もそう思った」
ファイムは頷く。それなりに話す相手はいるが、みんな敬語で話してしまう。なんと寂しい交友関係か。
そんな風にファイムが自己分析していると、せやけど、とはやてが言葉を紡いだ。
「今は、わたしも敬語やないね」
「……うん。その通りだ」
ファイムは微笑む。微笑みながら、思う。
――やはり、違う。
いつもの彼女とは、決定的に何かが違う。
そんな風に、ファイムが内心で呟いた時。
カランコロン。
来店を示す音が響き渡った。ファイムがなんとなしにそちらを見ると、はやてが、あっ、と言葉を漏らした。
店内に入ってきたのは、二人の女性。
一人は金髪の快活な印象の女性で、もう一人は青い髪の大人しそうな女性だ。
その二人も、はやてを見て、あっ、と声を上げる。
「はやて?」
「はやてちゃん?」
二人は驚いた表情で、こちらへ歩いてくる。はやては、久し振りや、と立ち上がった。
「電話では話してたけど、こうして会うんは久し振りやね。二人とも、元気にしてた?」
「勿論よ。まあ、仕事は忙しいけど……」
「はやてちゃんこそ、元気にしてた?」
女性陣が盛り上がり始め、ファイムは微笑む。気を利かせ、マスターである高町士郎がコーヒーを出してくれた。ファイムは、ありがとうございます、と頭を下げ、それに対し士郎は構わない、とでも言いたげに首を振った。
そして、ファイムがコーヒーを一口飲んだ辺りで女性陣の話も終わり、ファイムに視線が集中した。
「あ、紹介するな。わたしの同僚で……」
「ファイム・ララウェイと申します」
ファイムは立ち上がり、礼儀正しく頭を下げる。二人も、頭を下げてきた。
「アリサ・バニングスです」
「月村すずかです。はやてちゃんとは、二人とも小学校からの幼なじみで」
「そうなんですか」
はやての隣へと移動しつつ、ファイムは言う。二人は頷いた。
「だから魔法についても知ってるわよ」
「何度か協力もしてるしね」
「それはまた」
ファイムは驚く。管理外世界の住人が魔法を知っている……問題なのだろうが、普通に驚くに留めておいた。どうせ許可は出ているのだろう。地球はその特殊性から色々と融通が利くのだ。
「というか、はやて。こんな彼氏どこで見つけてきたのよ?」
「ホントだよはやてちゃん」
ごほっ、という音がファイムの隣から聞こえてきた。ファイムは、大丈夫ですか、とはやての背をさする。
はやては、ありがとう、と言いながら真っ赤になった顔で首を振った。
「か、彼氏って……ファイムくんは彼氏と違うよ!?」
「えー、真っ赤になって否定しても説得力ないわよ?」
「うんうん。ですよね? ララウェイさん」
「あ、ファイムでいいですよ。というかはやてさん、僕は彼氏じゃなかったんですね?」
「ファイムくん!?」
はやては更に顔を真っ赤にする。
そうしてしばらく笑った後、ファイムは立ち上がった。
「僕がいては、積もる話もしにくいでしょう? 先に出ますね。ごゆっくり」
お札を数枚出し、ファイムは言う。
「えっ、ファイムくん。そんな……」
「まあまあ、たまにはいいじゃないですか」
微笑みながらファイムは言い、そして、アリサとすずかにだけ聞こえるよう、言葉を紡いだ。
「……はやてさんを、お願いします」
そして、アリサとすずかが何かを言う前に、ファイムは店を出た。
アリサが、はぁ、とため息を吐く。
「はやて。アンタの彼氏、とんでもないわね」
「うん。凄く冷静で、客観的だよ」
冷徹過ぎるほどに。
自分ではダメだと、受け入れてしまう程に。
アリサとすずかは、そう感じた。
はやては、彼氏やないよ、と弱々しく首を左右に振った。
「わたしなんかが、そんなこと思ったらアカン」
「……はやてちゃん」
すずかが気遣わしげな声をあげる。アリサは、しかし、敢えてはやてに問いかけた。
「はやて、あんた……何かあったの?」
◇ ◇ ◇
「行くのかい?」
背後から声をかけられ、ファイムは振り返った。
――高町士郎。
かの『エース・オブ・エース』高町なのはの父親であり、先程、気を利かせてファイムにコーヒーを出してくれた人物だ。
「ええと、マスターさん……ですよね? 先程はありがとうございました」
「気にしなくていい。ほんのサービスだ」
士郎は笑いながらそう言うと、店のほうを見た。ここからは店内が見えないが、はやてたちがいるはずの場所を。
「はやてちゃんは、うちの娘の親友でね。小さい頃から知っている。そんな彼女がキミのような青年を連れてきたものだから、驚いてね」
「僕はただの部下ですよ」
ファイムは苦笑。だが、士郎は首を横に振った。
「『ただの』ではないだろう? キミたちの距離感は男女のそれではないが、友人以上のものはあると感じるよ」
「……何者ですか?」
「ただの人の親で、喫茶店のマスターだよ。だから、少しだけ気になってね」
――ゾクリ。
士郎の目で見据えられた瞬間、ファイムは悪寒を感じた。士郎は笑みを消し、ファイムに問いかける。
「……キミは、何故そんなにも覚悟をしているんだい?」
「なにを」
「目を見ればわかるよ。キミは、死を受け入れている。いや、受け入れようとしているのかな。少しだけ揺れている……といったところかい?」
士郎は、キミはいくつになる、とファイムに問いかけた。ファイムは、自らの年齢を口にする。士郎は、ふむ、と頷いた。
「こちらの世界でも、『裏』ではキミと同じ年齢でキミのような目をした人間はいる。かつては僕もそうだったくらいだ。だからこそ、一つだけ言わせてもらうよ」
「なんでしょうか?」
「自分自身を守れない人間に、誰かを守ることはできない。……情けない話だけど、僕は自分自身が死にかけて、初めてそれを理解したんだ。僕のせいで家族には本当に迷惑をかけてしまってね」
士郎は苦笑。そして、だからと言葉を紡いだ。
「お節介と理解してても、言っておきたくてね。キミが命を捨てて彼女を守っても、彼女は決して喜びはしない」
「ご忠告、感謝します」
三年前に言われた言葉を、再び聞くことになるとは思わなかった。
いや、違う。
きっと、何度も聞くことになるほどに、定着した事実なのだろう。
――だけど。
わかっているけど。
もう、それしか道はないのもまた事実なのだ。
「それでも、それしかないんです」
まだ、決められやしないけど。
きっと、ファイム・ララウェイは、その道を選ぶことになるだろうから。
◇ ◇ ◇
「……そんなことが」
話を聞き、すずかは言葉を失っていた。はやては、うん、と頷く。
「ずっと、償いをしてきたつもりやった。せやけど、わからんようになってしもて……」
はやては、俯きながら言う。
償いのために管理局へと入り。
そこで夢を見つけた。
……だけど。
その全てが、否定された。
だから、わからない。
わからなく、なってしまった。
「はやて」
あまりにも弱々しい姿のはやて。そのはやてに、アリサは言った。
「歯を食いしばりなさい」
――パシン!!
アリサの平手打ちが、はやてを打った。すずかが、アリサちゃん、と諌めるような言葉を紡ぐが、アリサはそれを手で制した。
「久し振りに会って、元気がないと思ったら……そんなことで悩んでんの?」
「そんな、こと?」
はやてが顔を上げる。アリサは頷いた。
「要するに、否定されたから怖くなったってことでしょ? 甘えてんじゃないわよ」
「なっ、なんやて? どういう意味や?」
はやてが立ち上がる。アリサも立ち上がりながら、ふん、と鼻を鳴らした。
「わかってるくせに。……『弱虫』、って言ってるのよあたしは」
「…………ッ!!」
反射的に、はやては手を振り上げ、思い切りアリサに叩きつけた。だが、振り下ろした手はアリサに掴まれてしまう。あっさりと、いとも簡単に。
「はやてあんた、弱くなったんじゃない? いくらなんでも、このくらいで怒るほど器も小さくなかったわよね?」
「何が……アリサちゃんに何がわかるんや!」
はやては、頭を振りながら喚く。
「やってきたことが! 全部無駄って! 否定されて! どうしようもなくて! わたしは、どうしたらええんや!」
「わかるわけがないでしょあんたの気持ちなんか!」
アリサも、思い切りはやてに怒鳴りつける。
「いっつも一人で抱え込んでて! わかるわけないでしょうが! あたしたちこそ何なのよ!? アンタの友達じゃないの!? アンタが苦しい時にアンタから頼ってもらえないアタシたちの気持ちがアンタにわかるの!?」
「アリサちゃん! はやてちゃん!」
今にも掴み合いの喧嘩が始まりそうだったのを、すずかが止めた。その中でも、アリサははやてに言葉を紡ぎ続ける。
「アンタはそんなに弱くないでしょ!? なによ! 一度や二度否定されたくらいで! だったらあたしたちが肯定してやるわよ! アンタは正しいって!」
アリサの叫びの中には怒りの他に、悲しみが込められているようだった。
「何度でも! 何度でもよ! 大体、あんたは自分で決めたんでしょ!? 選んだんでしょ!? だったら一度躓いたくらいで悩んでんじゃないわよ! 進みなさいよ!」
「…………ッ!! それが……!!」
はやては、泣きそうな顔で叫ぶ。
「それができたら、こんなことになってへん!!」
「だったら変えなさいよ! 今すぐ!」
「簡単に言わんといて!」
二人は睨み合う。そして、あまりにも真っ直ぐに自分へと向けられているアリサの目に耐えられなくなり、はやては二人に背を向けた。その背中に、すずかが声をかける。
「はやてちゃん。はやてちゃんを心配してる人は、たくさんいるよ。でも、その中で一番心配してくれてるのは、悔しいけど、ファイムさんだと思う」
はやての足が、止まった。
すずかは、言葉を続ける。
「ファイムさんは、私たちに頼んだんだよ? 自分じゃダメだって、悔しいはずなのに、辛いはずなのに、そう判断して。だから、はやてちゃん」
はやての背に、すずかの言葉が突き刺さる。
「選ばなくちゃ、ダメだよ?」
はやては、答えず。
――店を、後にした。
◇ ◇ ◇
はやてが家に帰ると、ファイムが料理をしながら待っていてくれた。
しばらくして、料理が並んでから、二人は食事を始める。
ファイムは、何も聞いてこなかった。
何かがあっただろうことは、わかっているはずだ。アリサにはたかれて腫れてしまった頬を冷やすために氷嚢をくれたし、大丈夫ですか、と心配もしてくれた。
けれど、何があったかは聞いてこない。
――ありがたかった。
そっとしておいてくれることが、何より。
静かな食事が続き、それも終わる。
ファイムがいいですよ、と言うのではやてはファイムが片付けをしている間、ソファーに座っていた。
そうしてしばらく経ち、ファイムが戻ってきた時。
――はやての瞳から、一筋の涙が零れた。
「…………」
ファイムは無言でハンカチを差し出す。その手を、はやては両手で握り締めた。
「…………わたし、アリサちゃんと喧嘩してしもたんよ」
はやては、ポツリと呟いた。
「わたしを心配してくれたのに。それやのにわたしは、八つ当たりみたいに怒鳴りつけて。酷いこと、してしもた」
「…………」
「アリサちゃんにな、『弱虫』って言われてん。凄いなぁ、アリサちゃんは。的を得てるんやもん」
はやての瞳から、大粒の涙が溢れてくる。
もう、止まらない。
「わたしは、アリサちゃんから逃げたんや。……卑怯者やな、わたしは。償うことからも逃げて。こんなんで、許されるわけがない」
その時、ファイムは反射的に動いていた。
ただ、目の前の人があまりにも弱々しくて。
耐えることが、できなかったから。
「……ファイム、くん?」
ファイムに抱き締められながら、はやては呆然と呟いた。ファイムは、僕が、と言葉を紡ぐ。
「僕が許します」
かつて、あなたは僕を救ってくれた。
その言葉を返す時が、今なのだろう。
「たとえ世界の全てが許してくれなくても。世界の全てが敵であろうと。僕はあなたを許します」
はやてを抱き締める腕に、力が込められる。
「あなたが望んでくれるのならば、僕はいつまでも側にいる」
――この時だった。
ファイム・ララウェイが、自分の命の使い方を決めてしまったのは。
世界でもなく。
管理局でもなく。
たとえ、今までの自分を否定する結末になってしまっても。
目の前の人のために。
八神はやてのために。
そう……決めてしまったのは。
「はやてさん。辛いなら、もう、いいんじゃないですか?」
「えっ……?」
「あなたは、14年間も戦い続けてきました。もう、いいじゃないですか。そろそろ、自分のことを考えましょう」
ファイムは、はやてを真っ直ぐに見つめる。
「誰にでも幸せになる権利があると教えてくれたのは、あなただ。はやてさんにも、幸せになる権利はある。いや、幸せにならなければならない」
ずっと苦しんできた彼女だからこそ。
幸せになる、権利があるのだ。
「目の前に突きつけられた現実は、とても辛かったんでしょう? それでも笑おうとしたのでしょう? 自分よりも他人の幸せを祈ったのでしょう? そういう人は、幸せにならなければならないのです」
そうで、なければ。
あまりにも世界は、残酷過ぎる。
「選ぶのはあなただ、はやてさん。だけど、あなたが望むのならば、たとえ何があろうと僕はあなたの側にいる。あなたを救うと、この魂に誓う」
こちらは決断した。
あとは、目の前の人が決めること。
選ぶことを許されなかった彼女が、選ぶこと。
「あなたは、どうする?」
◇ ◇ ◇
深夜。八神はやては、目を覚ました。
ただ、なんとなく目を覚ましてしまった。
「…………」
目を擦りながら、はやてはぼんやりとする頭で考える。
どうするのか。
ファイムに告げられたその問いかけにはしかし、はやてには答えられなかった。
どうするのか、がわからず。
どうしたらいいのかさえ、わからない。
「…………はぁ」
ため息。本当に自分は弱くなってしまったのだと、はやては思った。
足音静かに、はやては部屋を出る。そして、一階のリビングに着いた時、話し声が聞こえてきた。
はやてが気配を殺して覗き込むと、話をしているのはファイム。そして声から察するに、通信の相手はカグラのようだった。
「すみません。ご迷惑をおかけします」
『ただでさえ抱えまくってんだ。今更一つ二つ増えたとこで問題ねぇよ。ただ、限度は二週間だ。はやての嬢ちゃんはともかく、お前が管理外世界にいるのを誤魔化すのはそれが限度だぞ』
「心得ています。二週間のうちには、別の世界へ飛びますよ」
『それでいい。ただ……ファイムよ。お前、何がしたい?』
「何の話です?」
『この状況で、話題が他にあんのか? 嬢ちゃんだよ』
「…………」
『お前ならわかるはずだ。折られた心ってのは、そう簡単には戻らねぇ。嬢ちゃんが立ち上がるにしても、何ヶ月って時間がかかるくらいわかるだろうよ?』
「立ち上がる必要など、ありませんよ。何なら、逃げ出したっていいと僕は思います」
『ほぉ? どういう意味だ?』
カグラが問いかけている。その問いかけは、茶化すような空気を含みながら、真剣なものだった。
そして、はやても思う。
逃げていいとは、いかなる意味かと。
「はやてさんの経歴を見た時、最初に感じたのは『理不尽』でした。彼女は選ぶ権利さえなく、ただただ、利用された。はやてさんにそれを言えば、おそらく彼女はそれを否定するでしょう。だからこそ、理不尽なのです」
『成程、確かに理不尽かもな。ただ選ばれた。それだけで罪人呼ばわりされんだからよ』
「だからこそ、僕は今ここで、はやてさんに選んでもらおうと思っています」
ファイムは、強く、はっきりとした口調で。
しかしどこか優しさを含んだ言葉を口にした。
「戦うのか、否か。管理局に留まるのか、否かを」
はやての体が震えた。カグラは、お前、と彼にしては珍しく驚いた声を漏らす。
『流石にそれは無茶だぞ、ファイム。嬢ちゃん程の力を持つ奴が、他人の干渉を受けないなんてことはできやしねぇ』
「わかっています。何も今回で全てを決めろというわけではありません。ただ、今どうするかを選択して頂ければいい。昔ははやてさんがいなければシステムを保てなかった『ヴォルケンリッター』も、今は自力でシステムを保つことが可能と聞きました。……これは、彼らの総意でもあります」
シグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラ。
八神はやての誇る四人の騎士が、この状況を望んだというのか。
「はやてさんは優しい。だからきっと、他人がいては考えを出せないと、そう彼らは判断しました。だから僕は、何も強制せず、ただ、待ちます」
『気の遠くなるような話だな』
「……もしも、はやてさんが管理局から去ることを選んでも、おそらくそれは果たせません。それは致し方ない事実です。だから、僕がいるんです」
キィン、と、ファイムの足下に魔法陣が展開された。カグラとはやては同時に驚き、そして、カグラは声を僅かに荒げた。
『お前、魔力を封印されてんじゃなかったのか?』
「僕自身の魔力は封じられましたが、命があります。ロストロギアも」
魔法陣が消え、光が消える。
はやての位置からは、ファイムの表情は伺えない。だから、彼がどんな顔をしてそんな言葉を紡いだのか、わからなかった。
それに、もう一つ。
……命が、ある?
どういう意味か。いや……わかっている。
八神はやては、薄々、感づいている。
ただ……。
「確か、魔法を使わなければ十年でしたよね? ならば、騙し騙し使えば五年くらいは保つかもしれません」
『……テメェ、正気か?』
「正気ですよ。……その時なら、きっと、はやてさんは選べるのではないかと思うんです」
ファイムが笑ったのが、はやてにはわかった。
ただ、はやては、泣きたくなった。
「今は、きっと多くのことがはやてさんを縛っています。けれど、五年の時間をかけて切り離して、最後に僕自身もいなくなれば。はやてさんは誰の影響も受けずに自分自身で選ぶことができると思うんです」
『……暴論で、極論で、理想論だ。そんなものは。論理も矛盾してる。切り離すったって、どうするつもりだ? 親友たちや『ヴォルケンリッター』は場合によっては協力してくれるだろうさ。だが、管理局はそうはいかねぇぞ』
「逃げますよ。どこまででも。元々僕は敗北者であり罪人です。逃げることに躊躇いはない」
『たった二人でか?』
「覚悟はあります。いや、定まりました。……はやてさんが望んでくれるのならば」
その言葉はあまりにも強く。
同時に、悲しい。
「僕は世界さえも敵に回すとそう決めた」
悲しく。
悲しく。
そして、切ない。
『お前、やっぱり馬鹿だな』
カグラは、乾いた声でそう言った。
「僕はただはやてさんに、たった一度でいいから選び直す機会を用意したかったんです」
それが、彼女にできる恩返しで。
贈り物だと、男は言った。
『……っとに。眩しいくらいに大馬鹿野郎だよな』
カグラは、笑い。
ファイムは、何も言わず。
はやては……泣いていた。
◇ ◇ ◇
深夜。自らの寝室でぼんやりと月を見ていたファイムは、誰かの気配を感じた。
いや……誰か、というのは無粋が過ぎる。ここには、二人しかいない。
良い意味でも、悪い意味でも二人きりの世界。それが、ここだ。
「ファイムくん」
月明かりに照らされた彼女は、神々しくて。美しくて。
目を、奪われた。
「八神はやては、あなたが好きです」
その言葉を飲み込むのに、時間がかかった。
彼女は、言葉を続ける。
その瞳から、涙を流しながら。
「愛しています」
パサッ、と、はやての足下に服が落ちた。
上着を、はやてが脱いだのだ。
お願いします、とはやては言った。
「わたしを、抱いてください」