夢の深淵。幻想の奥。
その果てで、私は見ていた。
ずっと。
ずっと。
ずっと。
訪れたかもしれなかった未来。
その最中で、笑っているその人を。
私は必要ないのだろう。
あの人は、笑っている。
私の身の内に封じたものが、蘇らないことを祈る。
この力を使えば、あの人は終わってしまう。
だから、私は孤独でいよう。
あの人の歩んだ道を、否定させたくないから。
他ならぬ、あの人の手で。
マスター。
あなたは、私の誇りです。
――――◇ ◇ ◇――――
「もう、どないしたん?」
隣を歩く女性――八神はやてが、頬を膨らませながらそんなことを言う。ファイムは、いえ、と首を振った。
「少し、ボーっとしていて」
「もう、久し振りのにデートなんやで? 上の空とかやめてーな」
言いつつ、はやてが腕を絡ませてくる。ファイムは苦笑した。
「すみません、はやてさん。そうですね……随分と、久し振りです」
久し振り。そうだ。ずっと忙しかったのだ。それもようやく一段落が着き、こうしてはやてと共に歩いている。
そう、そのはずだ。一体自分は何に呆けていたのか。
「うん。お互い、ずっと忙しかったもんなぁ……」
「あの戦いもようやく片付きましたしね」
ふと漏れたファイムの言葉。それに対し、はやてが首を傾げる。
「『あの戦い』って? 戦い、なんて呼べるほど大きい事件はJS事件以来起こってへんやろ?」
「えっ、あれ……?」
ファイムは左手で頭に触れる。なんだろう。とても、とても大事なことがあったはずなのに。
戦い――その言葉が、妙に引っかかる。
だが、思い出せない。思い出すことが……できない。
「……何だろう、これ」
「ファイムくん、まだ疲れてるみたいやね。んー……ほな、元気が出るおまじない、してあげる」
はやてが悪戯っぽく微笑む。それからは、一瞬だった。
――唇に、柔らかい感触。
驚き、目を見開いた先で。はやてが――誰よりも大切な人が、笑っていた。
「どうや? 元気、出た?」
「……はやてさんには敵いませんね」
ファイムは苦笑。本当に、この人は。
――どうしようもないくらい、愛しさを募らせてくれる。
はやてはファイムの前に歩み出ると、楽しそうに微笑んだ。
「だって、幸せやもん」
本当に、幸せそうに。
思わず見惚れてしまうくらいに、美しく。
「世界はまだ、昏い部分も多くて。わたしたちがやらなアカンことはたくさんあるけど……それでも、わたしは幸せやから」
はやてが、ゆっくりと、確かめるように歩いてくる。
その足取りは優しく、そして、力強い。
「シグナムも、ヴィータも、シャマルも、ザフィーラも、リィンもみんな元気で。なのはちゃんやフェイトちゃんたちも元気で。――ファイムくんと、こうして想いを通じ合わせることができて」
はやての手が、ファイムの胸に優しく触れる。……その手は、震えていた。
「本当に、本当に良かったよ。右腕も治って、こうして、一緒にいられて」
顔を伏せ、震える声ではやてはそう言った。ファイムは震える体で右腕を持ち上げ、そして、驚愕する。
――治っている。
重い機械の腕――戦闘機人の腕ではなく、血の通った温かい腕に。腕だけではない。右足もだ。この感覚は、そう、久しく忘れていた生身の感触。
いや――そうだ。そうだった。
治った、じゃない。治してもらったのだ。
ロストロギア……名前を思い出せないが、はやてが必死になって探し出してくれたそれによって、体を取り戻したのだ。
自分は。ファイム・ララウェイは。
生きて、いるのだ。
生きて――いられる。
「ありがとう、はやてさん」
震える両手で、はやてを抱き締める。この人のおかげで、前を向けた。そして、生きていられる。
どれほど感謝しても、し足りない。
「本当に、ありがとう」
はやてが、ゆっくりと手を回してくれる。
「お礼を言うのは、違うよ。わたしは、わたしがそうしたいから。あなたに生きていて欲しいから、こうしてるんや。一緒に生きていきたい。命ある限り、ずっと、ずっと。――生きていって、くれますか?」
はやての問いかけ。ファイムは、当然ですよ、と声を絞り出した。
「僕は、ずっと一人で生きてきた。ずっと、そうして生きていくんだろうと思ってた。大人になった姿なんて想像もできなくて。ずっとずっと戦い続けたその先に、ボロ雑巾のようになって死ぬんだって。――だけど」
目を閉じれば、浮かぶものがある。
最愛の人と、笑いながら歩く自分の姿。
――そんなものを想像できる日が来るなんて、思ってもいなかった。
「あなたとなら。あなたと共になら、生きていける。生きていきたい」
それだけでいい。もう、たった――それだけで。
生きていくことができると、知ったから。
「――愛しています。あなたを」
誓うように。
謡うように。
そう――告げた。
嗚呼、と思う。
こんなにも。これほどまでに。
世界は――美しい。
◇ ◇ ◇
はやてと共にしばらく歩いて辿り着いたのは、一軒の大きな家屋だった。非常に綺麗な建物で、新築だということが一目でわかる。
「……完成してたんですね」
「うん。ファイムくんが腕と足と目を治してる間にな。――今日は、開店前にお祝いや」
嬉しそうにはやてが言い、ファイムの手を引いて中に入る。そうしてから目に飛び込んできた光景に、ファイムは驚きを覚えた。
「えーと……一言で言います」
「うん?」
はやてが楽しそうに首を傾げる。ファイムは、大きく息を吸い込み、ゆっくりと言葉を吐き出した。
「皆さん、仕事は?」
そこにいたのは、管理局を支える歴戦の魔導師たち。
高町なのはにフェイト・T・ハラオウン。なのはの娘であるヴィヴィオや、ヴォルケンリッター。元機動六課のストライカーたち。リューイとミリアムもいるし、ナカジマ一家に加えて聖王教会所属のセイン、オットー、ディード。ヴィヴィオの学友であるリオにコロナ。覇王の血を引くアインハルトもいる上、八神家の弟子であるミウラの姿も見られる。
更にファイムが驚いたのは、ユーノ・スクライアの姿があることだ。多忙な彼がここにいることには驚きを禁じ得ない。他にもクロノ・ハラオウン提督の妻であるエイミィや、その子供。アルフもいる。よくよく見れば、機動六課時代のメンバーのほとんどが集結していた。
そして。
「あー、仕事ならクロすけに押し付けた」
ガチャガチャと音を響かせながらビンケースを運んでいる男……カグラ・ランバード。彼はこのメンバーの中で民間協力者でありながら大臣待遇を受けるユーノを除けば一番高い階級の人間だ。多忙なはずだが……。
「クロノの野郎はキレてたけどな。知るかっつーの。俺の結婚十周年の祝いも兼ねてんだ。ま、たまにはな」
ケースを床に置きながら、楽しそうに笑うカグラ。そこへ、鈴を転がしたような声が響いた。
「――たまにはって、カグラくんはいつもクロノさんに仕事押し付けてるじゃない」
現れたのは、一人の女性。随分と若い容姿をした女性だ。
面識はほとんどない。ただ、ファイムにはその女性の名が一瞬でわかった。
――トモエ・ランバード。
「トモエさんすみません。ありがとうございます」
「いいんですよ、なのはさん。好きでやってることですし」
「ごめんねー、トモエちゃん。任せちゃってさ」
「エイミィさんはお子さんの相手をしなければなりませんしね」
微笑むトモエ。その雰囲気はどこまでも柔和で、優しさに満ちている。
「まー、いいじゃねぇか。――俺たちもようやく、親になるんだからよ」
優しくトモエの頭を撫で、カグラが言う。作業をしていた全員が、驚いてこちらを振り返った。
そして、代表するようにゲンヤ・ナカジマが言葉を紡ぐ。
「そうか……ようやくか。おめぇさんたちも、親になるんだな」
「おう。おやっさん、アドバイス頼むぜ」
「はい。……十年。ようやく授かった子宝です」
自身のお腹に優しく手を当て、トモエは微笑む。ゲンヤは、そうかい、と頷いた。
「子を育てるってのは、並大抵のことじゃねぇやな。……おめぇさんたちに、覚悟はあるか?」
「今更だぜ、おやっさん。覚悟なんてのは、ずっと前から決めてるよ」
「私一人ならば、きっと絶対という言葉は紡げませんでした。けれど、私の隣にはカグラくんがいます。彼と一緒なら……この子と合わせて三人なら、私たちは大丈夫です」
強い瞳。その瞳はすでに、『母』としての強さを宿していた。
若き身なれど。彼女もまた、一人の母なのだ。
ゲンヤは、そうか、と呟き、微笑む。
「なら、俺に言えることはねぇやな。……困ったら、いつでも頼りな。さあ、祝いだ」
ボトルを取り出し、その蓋を開けながら、ゲンヤは言う。
カグラも頷き、声を張り上げた。
「さあ、好きなだけ飲むぞ。喫茶『翠屋』開店記念、俺とトモエの結婚十周年、ファイムの全快祝い――そして、俺たちの出産前祝いだ!!」
全員がグラスを掲げ、唱和する。
「「「「「乾杯ッ!!」」」」」
その、幸福だけに満たされた空間で。
ファイムもまた、笑っていた。
三年前、模擬戦の後に行われた酒宴の最中、彼は立ち去った。
――居場所などない。
そう、呟いて。
けれど、今の彼は笑っている。
幸福に満ちた顔で。
笑うことが、できている。
それが、真実。
それだけが――真実だった。
◇ ◇ ◇
喫茶『翠屋』――管理局が誇る『エース・オブ・エース』、高町なのはの故郷である第97管理外世界『地球』に存在するその店をクラナガンに出店すると決まったのは、つい最近だった。
元々、高町なのはは文字通り飛べなくなるまで空で戦い続けるつもりだった。彼女の主治医でもある八神シャマルがどれだけ止めても、その意志を曲げる気は彼女にはなく、周囲も半ばあきらめているような状態だったのだ。
しかし、彼女には世界を守るよりも大切なものができた。
最愛の娘――高町ヴィヴィオだ。
血の繋がらない親子。しかし、どんな家族よりも確かな絆を持つ二人。なのははせめて娘が一人前になるまでは側にいようと、今は危険な任務から退いている。それは同時に、数多の傷を負ってきた不屈のエースにとってひと時の休息となっていた。
そして、もう一人。高町なのはとは別に、その傷ついた翼を休める者がいる。
「……よう、ファイム。どうした、ベランダになんか出て?」
「少し、酔いを醒まそうかと思いまして」
一人佇んでいたところへ、カグラが声をかけてきた。ファイムは微笑み、水の入ったグラスを軽く持ち上げる。カグラは、成程、と言葉を紡いだ。
「三年前みたいに『居場所がない』なんて言わねぇんだな」
「言いませんよ。――あの時と今とじゃ、随分と違いますから」
振り返り、ファイムは室内を見る。そこでは、リューイとスバルが大食い対決を繰り広げ、周囲の人間が囃し立てている様子が見て取れる。
ほんの、日常の一コマ。それが、何より美しく見える。
「昔は、僕なんかがこんな気持ちになれるなんて思いませんでした。――生きたい、生きていきたい、なんて」
「……なんか、なんて卑下する必要はねぇよ。お前はよくやってきた。ボロボロになるまで突っ走って、傷だらけになっても歯ぁ食い縛って耐えて。血を流しても、涙の一つも零さないで」
ファイムの隣へと歩み寄りながら、カグラが言う。
「お前は、よくやってるよ。いや、やってきた。二十歳にも届かないようなガキが、たった一人で地獄を歩いてきたんだ。お前は本当に、よくやってる」
「――それでも、救えなかったものがたくさんあるんです。本当に、どうしてなんでしょうね?」
星空。都会の光のせいであまり見えないそれを見上げながら、ファイムは呟く。
「どうしてこんなにも、世界はままならないんだろう――?」
生きたい。生きていきたい。そう思うのだが、しかし、それは許されないことだ。
強引に進み続けてきた。そのせいで傷ついた体には、最早時間が残されていない。
いつだって、そうだ。
いつだって、気付くのがこんなにも遅い。
水を飲み干すファイム。そのファイムに、カグラが問いかけた。
「……ファイム。お前、奇跡って信じるか?」
「……いきなり何を?」
ファイムは首を傾げる。カグラは言葉を続けた。
「奇跡ってのは、人にとっては救いでな。あれは信仰のきっかけとして起こるもんだ。お前は神様なんて信じちゃいねぇだろう?」
「いたとしても、関係ありませんから」
カグラに視線を向けず、ファイムは答える。神様がいたとしても、その祝福は自分には向けられない。
「神様に愛されるほど、清廉潔白な人生を歩んできた記憶はありません」
殺してきたし、奪ってきた。誰かを救うために、誰かを踏み躙ってきた。
全てを救うことなど、できやしなかったから。
そんな力、持っていなかったから。
しかし、カグラは、ゆっくりとその言葉を紡いだ。
まるで、神様の使いのように。
「――そうでもない。ファイム。奇跡はな、誰にでも一度は起こる」
「どんな、奇跡が?」
「生きていい。それだけだ」
言って、カグラは記録用のデバイスを取り出した。データ保存のためだけのその装置をファイムに投げ渡し、カグラは言った。
「お前が守ってきた世界は、今、目の前にある。あの世界でなら、生きていい」
目の前に広がる世界。
大切な人たちが笑い合う、温かい世界。
その世界でなら。
ファイム・ララウェイが命懸けで守った世界でなら――
「俺が許してやるよ。いや、俺だけじゃねぇ。世界が許す。お前はこの世界でなら、生きていい」
「…………」
「リハビリやら治療やら、それなりに大変だろうが。――生きていけるぞ、今のお前は。そろそろ、幸せになってもいいんじゃねぇか?」
カグラがそう言い残して立ち去っていく。ファイムは、苦笑した。
「……奇跡、か」
たった一度の、優しくて、残酷な奇跡。
この世界で、僕は、生きていける。
生きていけるかも、しれないのだ。
◇ ◇ ◇
深夜。騒ぎ過ぎて疲れてしまった面々。ファイムは、一人で月を見上げていた。
草木も眠る時の中、静かな音が世界を包む。
「……眠らないのか?」
不意に、その背中に声がかけられた。振り返ると、目に映ったのはシグナムの姿。ファイムは、少し、と言葉を紡ぐ。
「眠れないんです」
「そうか。……隣に座っても構わんか?」
「ええ。どうぞ一献」
ファイムは微笑み、シグナムにお猪口に注いだ日本酒を渡す。シグナムはそれを受け取ると、一息で飲み干した。
沈黙。心地良ささえ感じるそれがしばらく流れた後、シグナムが言葉を紡いだ。
「ララウェイ。ランバード殿から聞いたが……お前は、本当に管理局から去る気か?」
「――流石に、限界ですから」
苦笑を漏らす。そう、ファイムは管理局から去るつもりだった。もう決めたことだ。元々は死ぬまで戦うつもりだったが、事情が変わった。
生きられると、知ったから。
生きていくと、約束したから。
「僕の命は戦力のあてになるほどに残っていません。僕が戦えていた理由はそこだけですから」
「残酷な話だな。限界、ということか?」
「いえ……限界が延びたからこそ、ですね。本当は、戦場で死ぬつもりだったんです。孤独に、刃に抱かれて死んでいくものだと。そうしなければならないと」
「自己陶酔だな。そんなもので救われる者などいない」
「それでも、それが僕のけじめというか。最後の贖罪だと思っていたんです。多くの人を殺してきました。多くの命を踏み躙ってきました。救った分だけ、壊してきました。それしか知らなかったから」
ファイムは、一口、日本酒を口に運ぶ。舌が痺れるような辛さが、口の中に広がった。
そうしてから、夜空を見上げ、呟くように言う。
「僕の始まりは、善意でも悪意でもないんです。ただの渇望。殺すことでしか生きられなかったから。生きていくために殺してきた。だから、僕は」
お猪口を床に置き、ファイムは言う。
そうしてから、ゆっくりと、その言葉を紡いだ。
「――僕は。ファイム・ララウェイは、どうしようもないほどに間違いました。善意も悪意もなかった世界で。ただ純粋な渇望しかなかった世界で、悪意を許容しました。僕は弱かったから。善意で悪意を打倒できるほどの力なんて望めなかった。
そのために命を捧げてきました。天秤を傾けないよう、殺意には殺意を返し続けてきました。絶対に誰かが傷つくと、泣かせると、そうわかっていてもそれを選びました。
後悔はしました。絶望もしました。だけど、立ち止まることだけはできませんでした。立ち止まった時は、悪意の刃に抱かれて死ぬ時。悪意を以て誰かを救おうとした僕は、そのために犠牲にした誰かの悪意でしか死んではならなかったんです。
だけど、僕の悪意から生まれたものは、やっぱり悪意だ。そこに終わりはないんです。誰かを救うために誰かを踏み躙ってきた。正義のために、誰かのささやかな願いさえ握り潰してきました。だからもう、僕は僕自身の幸せを願うことは許されない」
ずっとそう思ってきたし、それはこれからも変わらない。
行き着くところは、いつだって自分の幸福を否定するという極致。
だけど、それでも、生きたいと思ってしまう。
何という、
浅ましき矛盾――……
「……難儀な話だな。お前が幸せになることに、誰も異議を唱えはせんだろう。むしろ、祝福さえしてくれるはずだ」
「許せないのは僕自身ですよ。僕は生きたいとは言いますが、幸せになりたいとは言いません。言えるはずがない。そんなこと、僕自身が許しはしない」
「身勝手だな。自分を誤魔化すことぐらい、容易いだろうに」
「容易いですよ。だから、はやてさんの言葉を受け入れました。あの人が許すと言ってくれたから、僕はこうして生きようと思っています。けれど、そんな自分自身を許せない僕がいるんです。僕の悪意が、僕の幸せを許容しない。世界と正義のために、僕は悪意を以てでも立ち塞がるものを悉く叩き潰すと決めてきました」
「その悪意で救えたものがあるのなら、それはそれで一つの正義だろう?」
「そうかもしれませんし、世間はそう定義してくれています。けれど、さっきも言ったように悪意からは悪意しか紡げない。たとえ、ボクが幸せを願っても、いつか僕は決定的に間違える。はやてさんを巻き込んで、世界を巻き込んで、徹底的な悪意で僕は僕自身を殺す。
だから――シグナムさん。お願いがあるんです」
ファイムは、真剣な瞳でシグナムを見据える。
「僕は、あの人の幸せだけを願います。それこそが僕の幸福です。八神はやてが笑っていてくれること。それだけが僕の幸福の定義です。けれど、僕は僕の幸福を許容できない。だから、僕が決定的に間違った時、僕を止めてくれませんか? 誰よりも大切なあの人に悪意を向けた時、僕を止めてはもらえませんか?」
「……何故、それを私に頼む。ランバード殿やリューイ。ソラもいるだろう? 言いたくはないが、私は加減というものを知らん。それも悪意が主はやてに向けられるというのなら尚更だ。そんな私に止めろというのは、まるで」
「――いいんですよ、それで。シグナムさんなら、悪意でも善意でもない愛情で僕を止めてくれる。はやてさんを想うあなたの気持ちで、僕を殺してくれる。それなら、悪意は続かない」
「……お為ごかしは無駄のようだ」
「そういうさっぱりしたところ、好きですよ」
「ふん。お前はどうしようもないほどに愚かだな。そもそも、私が断った時はどうするつもりだった?」
「その時はその時です。それに、僕がそうなることをこうして事前に話しておけば、結局あなたは僕を殺してくれるでしょう?」
「…………本当に、いっそ憎らしいほどに賢しいな。貴様は」
深々とため息を吐き、シグナムは言う。ファイムは微笑んだ。
「褒め言葉として受け取っておきます」
「……主はやてをどうするつもりだ、貴様は?」
「言ったはずですよ。僕の願いはあの人の幸福。それが為された時に不安がありますが、それはあの人の不安ではなく僕の不安。大切な人です。本当に、誰よりも」
「……いいだろう」
ファイムの言葉の本気を感じ取り、シグナムは言う。
「お前が自らの幸福を許容できず、主はやてに――世界に悪意を向けた時、我が刃は一切の躊躇も迷いもなくお前の首を貰い受ける。その一撃によってお前の悪意を粉砕すると約束しよう。
我が名、烈火の将シグナムの名において誓う。
悪意に対し、善意ではなく。
悪意に対し、悪意でもなく。
お前が望む、私のうちに宿る主はやての幸福を願う愛情を以て、貴様を斬ろう」
「――ありがとうございます」
盃を渡す。シグナムはそれを受け取ると、続いてファイムの杯にも酒を注いだ。
「ただし、代わりに誓え。私はお前の願いを聞き入れる。代わりに、お前もまた、私に誓え。
お前はお前のまま歩み続けろ。主はやてのためだけに生き続けろ。
善意だろうと悪意だろうと一向に構わん。お前の全ては無駄ではなく、歩んできた道もまた、無駄ではない。我らヴォルケンリッター、主を想う忠節の騎士。お前は我らに肩を並べると私は定義する。応えてみせろ。主はやての幸福だけを願い、生き抜いてみろ。
――見届けてやる。お前の生き様と死に様を」
「はい」
ファイムは頷く。一切の迷いもない返答だった。
死さえも許容した青年。だからこそ、ファイムはここまで来てしまった。
――二人は盃を合わせ、一気に飲み干す。
そして――シグナムが、大きくため息を吐いた。
「全く……誓い一つでここまで気が重くなるとは。私も老いたな」
「僕もシグナムさんを巻き込んだことを少し後悔してるんですよ? こんなことを背負わせて、って」
「馬鹿者。お前はお前の心配と、主はやての心配をすればいい」
そして、シグナムが立ち上がり。
ファイムは、目を閉じた。
◇ ◇ ◇
幸福の定義。それが、僕にはわからない。
そう、告げた時。その人は、こう言った。
「笑ってたら、幸せやよ。大切な人と一緒に」
そうなんだろう。幸福とは。
こんなにも近くに。無造作に。
手を伸ばせば届くところに、それはある。
「たった一つの冴えたやり方を目指して、人は進んでいく。けれど、いつもそう上手くはいかへん。だからわたしたちは探し続けるんや。幸福を探して、一歩ずつ」
強い人だ。本当に。
愛する相手に選んだことを、誇りに思う。
「なぁ、ファイムくん。――今、幸せ?」
陽だまりの中、その人が、優しく問いかけてくる。
――既視感。
見たことのある光景だ。
そう、何度も見てきた。
夢の最中で。願いの果てで。
幻想の――終着点に。
「うん。幸せだよ」
隣に、この人がいて。
守るために、戦って。
嗚呼。本当に。
美しい。
輝いている。
世界はこんなにも、美しい――……
「ありがとう」
大切な人の、頬に触れる。掌に感じる温かさ。
「あなたのおかげで、僕は。はじめて、幸せって言葉の意味を知ることができた。生きることができた」
嗚呼。そうだ。
これは、僕が望んだもの。
「僕が何を守りたいのか。何を為すべきなのか。今はもう、はっきりとわかる。だから、もう、大丈夫」
「……ファイム、くん?」
「あなたは幻想だけれど。それでも、僕が愛する大切な人に変わりはない。こんな言葉に意味はないかもしれないけれど。それでも、伝えたいんだ。――幸せに、なってください」
もう、十分だ。
夢から、醒める時が来た。
心地良い夢は、もう、終わりにしよう。
「さあ、行こう。――リンネ」
僕の戦場は、残酷な現実だから。
「――残酷な未来へ」
世界が砕ける。
砕けていく。
砕けていく。
砕けていく。
そして――……
「この世界は、現実です」
「……そうだね。この世界は、あり得た可能性のあった世界。数多の奇跡が起こり、『ファイム・ララウェイが誰から見ても幸せになった世界』だ。それは僕の居場所じゃない。あそこには、僕じゃない僕がいる」
壊れた世界。
乞われた世界。
現れたのは、たった二人だけの世界。
「後悔、しますよ。マスターは、この世界で幸福に生きられたのに」
「その代わり、キミは一人ぼっちだ。――リンネ」
視線の先にいるのは、一人の女性。金色の髪を纏う、泣きじゃくる美しい女性。
――リンネクロウズ。ファイムのデバイスが、人の姿を模したもの。
ここはファイムの世界。彼が思い描く彼女の姿が、具現となる。
深い、底なしの闇。それこそが、ファイムの――……
「キミは、ファイム・ララウェイの戦いの象徴だ。管理局に入る前から共にあった、戦うために手にした力だ。だからこそ、キミはあの世界にいられなかった」
「……私がいれば、マスターは戦いから逃れられません。だから、私は」
「うん。そうだね。だけど、それでいいんだ。キミと一緒に歩いてきた道が、僕の道。それ以外の可能性は、僕にとってただの物語。空想の果てにあるもの。僕の現実は、ここにしかない」
だから、と手を差し出す。
「行こう。リンネ。僕たちの未来へ」
「……マスターは、馬鹿です」
涙を拭いながら、リンネは言う。
「アホです。間抜けです。どうしようもないくらいに、不器用です」
「……うん」
「けれど――」
リンネが、ファイムの手を掴む。
「――それでこそ、我が主」
二人が光に包まれる。その最中、ファイムが言葉を紡いだ。
「ごめんね。こんなマスターで。……最後まで、付き合ってくれる?」
「あなたと私は一心同体。あなたが望むのならば、地獄の底でもお供しましょう」
そうして、二人は旅立つ。
戦場へ。
――最後の、戦いへと。
◇ ◇ ◇
巨大な閃光が、視界を覆った。肌を刺す、冷たい気配。漂う血の匂い。
――そうだ。ここが、戦場だ。
「……ファイムくん?」
不意に、はやてが言葉を紡いだ。ファイムは、微笑む。
「ただいま、はやてさん」
そして青年は、敵である女性に視線を向けた。そこに佇む最強の存在は、鋭い殺気を纏いながらこちらを睨んでいる。
「……『夢幻抱擁』から帰還しましたか。あの場所は完全なる場所。囚われた者の幸福の具現が再現されます。あなたは、幸福の全てを否定したのですか?」
テンリュウ・シンドウ。思えば、幾度となくぶつかり合い、幾度となく負けた相手。
きっと、これが最後の戦い。
「幸福を否定し、未来も否定されたこの場所へ帰ってきたあなたに何が残るのです? 望める未来など知れています。あなたに待つのは残酷な終焉のみ。何故、戻ってきたのです?」
「……確かにあの場所は心地良い。僕だけじゃなくて、みんなも幸福だった」
トモエが生きていたように。きっと、誰もが幸福な世界なのだ。
けれど、違う。それは、違うのだ。
「後悔も絶望もしてきた。だけど、僕はここにいる。僕はここまで歩いてきた。僕の歩んできた道を、否定はさせない」
それだけは。
その道を歩んできたことだけが。
たったそれだけが、誇りだから。
「それで? どうするというのです? あなたでは私には勝てない。それはもう論ずるに値するほどのことですらないはずですが」
「……それでも、戦う。守りたい人がいるんだ。幸せになってもらいたい人がいるんだ。諦められない。諦めてたまるか。僕の未来は望めなくても、大切な人の未来を諦めるわけにはいかない」
ファイムが魔力を纏う。風が吹き、背中には堕天の翼が宿る。
「僕の世界は、はやてさんが笑っている世界だ。その世界のために戦う。それだけでいい。それだけで、僕は。僕は――――ッ!!」
吠えるファイム。テンリュウがゆっくりと口を開いた。
「……その覚悟、心に強く抱きなさい。そして、祈るのです。強く、強く。決して折れぬように。そして」
テンリュウの姿が、消える。
「――その想いを抱いたまま、散りなさい」
激突。凄まじい衝撃がファイムを襲う。壁に叩き付けられ、あまりの衝撃に壁が陥没する。呻き声さえ上げられない。意識が飛ぶのを必死で堪える。
(耐えろ……耐えろ耐えろ耐えろ!!)
カートリッジをロード。陥没した壁を蹴り飛ばし、テンリュウに向かって拳を突き出す。だが、簡単に避けられ、同時にカウンターを合わせられる。
蹴りが腹部に減り込み、骨が軋む。それでも、歯を食い縛ってその場にとどまる。
――止まるな。前を見ろ。
瞳を閉じず、前を見続けろ。
「夢魔龍閃」
血飛沫。大きく左腕が切り裂かれる。
停止は死。退こう進もうが、そこは必死の戦場。
ならば、進め。歩を前へ。
「……まだ、向かってきますか」
諦観が人を殺す。そうだ。ずっとそれだけを抱いてきたではないか。
諦めない。それだけを。ただ、それだけを。
「ファイムくん!!」
叫び声。駄目だ。泣かせている。それではダメなのだ。
前へ。前へ。
骨が折れた。――知るものか。
右の拳はまだ握れる。ナイトメア――杖は、半ば以上感覚を失った左腕で、まだ持っている。
「――遅い」
見えない。少しも。傷が多過ぎて、痛みさえ感じない。
けれど。それでも。
諦めを踏破しろ。ただただ、前へと進め。
――勝機は一瞬。その一瞬に全てを懸けろ!!
「――――」
交錯するように振り下ろされる、桜花と血桜。当たれば必死は免れない一撃。だが、ここだ。
ここを――!
「――――ッ!?」
交錯する一瞬、杖を盾にする。一瞬で断ち切られたが、その一瞬で構わない。
左腕を肩から持っていかれた。上等だ。代わりに懐へ踏み込めた。
そして。
全力の踏み込みとと共に、右の拳が振るわれる。
「一点突破ッ!!」
拳が直撃。障壁で阻まれた。だが、強引に指を差し込む。機械の腕が軋み、悲鳴を上げる。
「バーストストームッ!!」
全力の砲撃。入った。そう、直撃だ。
――轟音。凄まじい衝撃波が周囲に撒き散らされる。ファイムは、奪われた左腕の部分を押さえ、膝をついた。
全力の攻防。だが、一撃が届いた。拳が届いた。
ならば――戦える。まだ、戦える。
「ファイムくんッ!?」
慟哭のような声。大丈夫。紡ごうとした言葉は、紡げなかった。
「……死ぬ覚悟は?」
突き刺すような殺気。ファイムは、大きく深呼吸をする。
拳は届いた。ならば、戦える。手が届くのならば、最後の手段に訴える。
膝をつき、文字通り満身創痍なその姿。その姿で、ファイムは。
祈るように、言葉を紡ぐ。
「In the followed way,all are falts.(この道は、その全てが過ちだった)」
紡がれた言葉は詠唱のようであり、違う。
これは、契約の執行。概念となり、世界の一部となった彼が、紡ぐもの。
「Malice was brokenn by malice and justice was seen the end.(悪意を以て悪意を砕き、その果てに正義を見る)」
テンリュウが表情を変えた。彼女にはわかるのだ。この詠唱の意味が。
彼女が有する世界とはまた違う、ファイム・ララウェイという概念の『世界』が具現する。
「I do not accept my happiness.Therefore,I fall to hell.(私は私の幸福を認めない。故に、私は地獄へ堕ちる)」
はやては、その言葉の意味を聞いて表情を硬くする。
これは、そう。まるで、罪人の懺悔。
罪を告白し、死のうとする者のそれ。
「If allowed once again,the miracle of following the right way.(もしも許されるならば、もう一度。歩みを正す、奇跡を)」
未来を捧げて戦ってきた。その果てにここへ来た。
しかし、それでは届かない。ならばそれでいい。
「I deny me.This is my last arrival point,offering the future,the past once again.(私は私を否定する。ここが私の終焉。未来を、過去を、もう一度)」
世界と契約したあの日。ファイム・ララウェイが捧げたもの。
それは――自分自身。
彼は自分自身という『世界』を定義し、捧げ、呑み込んだ。
そうして紡がれる究極の奇跡は、たった一度の物語。
――歩んできた軌跡をやり直すための道が、提示される。
「――Last tale of lyrical.(最後の叙情詩)」
それは、幻想。
まさしく、物語。
終わりの定められた人生。確固として、その日に終わることがわかっている人生は。
きっと――人生ではなく、物語なのだろう。
ファイムの体が、光に包まれ。
そうして現れた姿に、はやてとテンリュウは驚愕する。
「ファイム、くん……?」
「……そう、ですか。自らの人生を呑み込んだのですね」
現れたのは、一人の少年。
齢七といったところか。鋭い目つきを携えたその少年は右腕と右足が機械でできており、右の瞳もまた、戦闘機人の瞳を有している。
身に纏うのは――リンネクロウズ・ナイトメア。
「僕は僕を殺して、あなたを倒す」
歩んできた道全てを捧げ。
傷だらけの最弱が、最強へと挑みかかる。