美樹さやかはある場所へとたどり着いていた。
そこは癒やしを与えてくれ、そしてときめきを抱かせてくれる大切な場所だ。
いつも通り大きく深呼吸を一回行い、ノックも無しにゆっくりと部屋へと入っていく。
学校帰りに訪れるこの部屋は相変わらず夕陽で染まっていた。
「やっほー。元気にしてる?」
美樹さやかは鹿目まどから4人の運命を大きく歪ませたあの日以来、毎日のように上条恭介の病室へと足を運んでいた。
放課後CDショップに足を運び、病室を訪れる…
それが美樹さやかにとっての日常であり、替えがたいものであったためだ。
自信のできる最高の笑顔だと思える表情を作り、今日も元気よく訪問した。
「…やぁ、さやか。今日も元気がいいね。」
というのにベッドの上の上条恭介の表情はさえないもので、声にも張りがない。
当然美樹さやかはすぐさま上条恭介の異変に気がつく。
そこはあくまで親友の様な口調で、美樹さやかはすぐさま容態をうかがった。
「ん? どうしたの、恭介? なんか元気ないじゃない?」
「実は今日朝から検査したんだ…この左腕の。」
上条恭介は包帯をぐるぐる巻きした自身の左腕を見下ろす。
左腕は宿主の視線を受けてもピクリとも動きはしない。
「このごろ頑張ってリハビリしてた、って美人の看護婦さんから聞いてるわよ~。もしかしなくても恭介もそうまみたいなチャラ男になっちゃったり…」
「…リハビリはちゃんとするものだろ。あと瀬津君ってそんな人じゃない気がするけど? さやかの話を聞く限りだけどね。」
「そうまほど八方美人な男はいない…って話がずれた。恭介はリハビリ頑張ってたから、きっといい結果がもらえるんじゃないかな。」
美樹さやかはベッド脇に置かれた丸椅子に座ると、少し高く設定されたベッドに座る上条恭介を覗き込むようにほほ笑みを見せた。
柔らかな表情に釣られて力なく口角が上がる。
「今回ばかりは不安でしょうがないんだ。もう入院して1年が経つけど、この腕はピクリとも動いてくれない。このごろは検査のたびに結果を怖がるようになったよ。…いつ最終通達が来るんだろう…って。」
「恭介…」
「両親も早く家に帰ってきてほしいからか、自宅でのリハビリを勧めてくるようになったし。もしかしたら両親から次で最後にしてください、とか言われてるんじゃないかと思うと親すら信じられなくなってきて…」
馬鹿だよね…と上条恭介は苦笑いを浮かべた。
悲しげな笑みは乾いた笑い声とともに病室の空気を重くしていく。
それを一人両肩で感じる美樹さやかも暗い雰囲気に負けじと花が咲いたような笑顔を作る。
「恭介本人がそんな暗くなっちゃ、おじさんもおばさんも困っちゃうの恭介が一番良く知ってるでしょ? おじさん達は恭介が望むこと全てしてあげたいと思ってるはずだよ。それこそ世界中の名医とコンタクト取って、『恭介! 明日からドイツに行くぞ!』とか突然言い出しちゃうかも?」
「ぷっ! それってもしかして父さんの真似? 随分可愛らしい父さんだ。」
「あははっ…やっぱり可笑しかった?」
美樹さやかの低くダンディズムを表現しようとした声色はどうやら上条恭介の笑いのツボに入ったようで、病室だというのに大きな笑い声をあげ、暫くしてもくすくすと瞳に涙を浮かべながら思い出し笑いを繰り返していた。
楽しそうに笑う上条恭介に、美樹さやかも頬を真っ赤にしながらもベッドの下で小さくガッツポーズを結んでいた。
(せめて…私がいる時だけでも笑顔でいてほしいよ。その笑顔を作るためならなんだって…)
上条恭介の白い左腕も紅く染まる夕暮れの病室。
笑う上条恭介の動きに合わせてしか動かない左腕。
そしてそれを眺めある言葉を思い出す美樹さやか。
近付く心の雨雲に、当然のことながら美樹さやかは気付かない。
『僕は君達の願い事を何でも一つ叶えてあげる。』
第16話 虹色の蝶
物語は10日程進む。
美樹さやかは心に溜まったもやもやを吐き出すように深呼吸を繰り返した。
一つ…二つ…
一向に晴れることのない気持ちに笑顔という蓋をすることにした。
今はこの心情を表に出す所ではない、と口をキュッと結ぶ。
「おっはー! 私がいなくて寂しくしてたかな? 恭介君?」
そして勢い良く上条恭介の個人病室に、片手をピンと上げながら足を踏み入れた。
その姿はいつもの元気な少女そのものだ。
少なくとも少女の不安を感じさせる要素は見当たらない。
全ては部屋で哀しげな表情を浮かべているだろう幼なじみの為…
「…」
「えっ?」
しかしその思いも虚しく、上条恭介はちらりと美樹さやかを一瞥するとすぐさま窓の外の景色に目を移す。
何一つ返事を紡ぐことはなかった。
「ど、どうしたの!? 恭介っ!?」
「…別にどうもしないよ。」
体調が優れないのかと、美樹さやかは急いでベッド脇まで行き文字通り顔色を伺う。
同年代の男の子と比べ些か白い肌ではあるが、血色も悪くなく体調は悪くは無さそうに見える。
…しかし表情には怒気と絶望、そして無気力といった感情が渦巻いているような冷たく歪んだものになっていた。
イヤホンから流れる音楽に感情が高まっている様子など全く感じられない。
美樹さやかは自然と上条恭介を心配するような表情になってしまう。
「…何聞いてるの?」
「亜麻色の髪の乙女。」
「あぁっ! ドビュッシー? 素敵な曲だよね。」
何を話していいか困った美樹さやかは、ひとまず上条恭介と自分の共通の話題である音楽の話を振る。
幸い何か音楽を聴いているようなので話を始めやすい話題ではあった。
…しかし上条恭介はぶっきらぼうに答え、その後再び黙りこくってしまう。
「あっ、あたしってさ、こんなだからクラシックなんて聞く柄じゃないだろ、ってみんなが思うみたいでさ。たまに曲名をビシッと当てたらすっごい驚かれるんだよね。意外過ぎて尊敬されたりしてさぁ…恭介が教えてくれたから。でなきゃあたし、こういう音楽聴く機会なんて一生なかったろうし…」
それでも美樹さやかは話を膨らませようと言葉を紡いだ。
音楽の話題だったからか、自然と上条恭介に感謝をするような話になってしまう。
そこでようやく上条恭介は再び重たい口を開いた。
「…さやかはさぁ。」
「なに?」
「…さやかは僕をいじめてるのかい?」
「えっ?」
右手で両耳のイヤホンを引っ張り出し、ベッドの上へと投げ出す。
そして窓の外を眺めていた顔を美樹さやかへと向けた。
「なんで今でも音楽なんて聞かせるんだ。嫌がらせのつもりなのか?」
「だっ、だって恭介、音楽好きだから…」
「もう聞きたくなんかないんだよ! 自分で弾けもしない曲、ただ聞いてるだけなんて! 僕は! 僕は…」
ぎりっ、と美樹さやかにも聞こえるほどの歯ぎしりが病室内に響いた。
自由に動く右手ははち切れんばかりの感情を表すように、力強く拳を形成していた。
もしも爪が丁寧に整えられていなかったら、手のひらを自身の爪が破いていただろう。
「…そうだよね。君は僕と違って歩けるし、学校にも行ける。ヴァイオリンも弾ける…そして僕にはそれが出来ない…」
「ちょっ…そんなこと思ってない…」
「そんなはずないだろ! …じゃなきゃいつも僕に渡すCDは何なんだよ!」
感情に任せて腕を振りかぶり、ベッド脇の机に置かれていたCDプレイヤーを叩き割る。
…動かなくなった自身の左手をハンマーのように振りかぶって。
CDプレイヤーの破片は飛び散り、そして強く握られた上条恭介の左手首からは真っ赤な液体が零れ落ちていた。
きゃっ!? と短く悲鳴をあげる美樹さやかを気にすることもなく、上条恭介は自身の動かない腕を包帯ごとかきむしり始める。
「ダメっ!」
「五月蝿い! こんな腕いらないんだ! ヴァイオリンが弾けない…こんな腕なんて…」
ぽたりぽたりと血液がベッドのシーツを朱に染めていく。
それを見て少し落ち着いたのか、俯き顔を逸らした。
美樹さやかの制服にも、上条恭介の暴走を止める際に彼の血液がこびり付いていた。
必死に引っ掻く腕を止めていた為、息も絶え絶えになるほどに体力を消耗していた。
…もしくは、体力よりも精神力を消耗していたからこそのものかもしれない。
「…さやかは僕の腕が動かないこと知っているよね?」
「…幼なじみだから。」
「それなのに…幼なじみなのに、君がヴァイオリンのCDを持ってくる度に傷ついてたのには気付かないんだね。」
「恭介…」
血が溢れ出す右手を一瞥すると、苛立たしげに左腕の外れかけた包帯で血を拭き取る。
「僕はもうヴァイオリンを弾くことが出来ないのに、こんなもの聞いても苦痛でしかないのに…」
嗚咽を堪えるように深呼吸を繰り返しながら、上条恭介は言葉を紡いだ。
右腕で両目を覆いながら、力無く起きていた上半身をベッドに委ねる。
覆いきれていない口元もぐちゃぐちゃに歪んでいる。
「…もう僕がヴァイオリンを弾く為には奇跡でも起きなきゃ有り得ないのに…そんなことあるはず無いのに…」
「…よ。」
「…えっ?」
上条恭介は幼なじみの一言に思わず顔を見上げる。
その一言は両親や医師が放つ建て前ばかりの言葉でなく、心からの一言だったから。
歪む視界で眺めた幼なじみの表情は、言葉に込めた意志と同じように真摯な瞳で上条恭介を見つめていた。
「あるんだよ…恭介。奇跡も魔法もあるんだよ。」
(どうして私のじゃなくて恭介の腕なの…)
左手を開いては閉じる簡単な動き。
それを呆気なく出来てしまう自分に腹が立つ。
爪が手の平に強く食い込むように握り拳を作る。
血が上った頭でも正常に痛みを感じ、それがまた頭を熱くする。
(私は恭介に笑っていてほしい…笑顔を向けてほしい…)
病室のとある空き部屋。
上条恭介と同じタイプの広い個室の部屋に美樹さやかは1人立っていた。
その瞳は1つ決心したように確固たる何かを秘めている。
そしてその思いは一匹の奇獣に注がれていた。
(私が魔法少女になれば恭介は…そして私と恭介は…)
「準備はいいかい? 美樹さやか。」
美樹さやかは口を堅く結び、力強く頷く。
「それじゃあ、美樹さやか。君の願いを何でも一つ叶えてあげる。さぁ、願いを紡ぐんだ。」
触角のような何かが美樹さやかへと近付いていく。
逃げ出さないよう…そして願いをはっきりとイメージ出来るようにギュッと瞼を閉じた。
そして奇跡は叶えられた。
これが美樹さやかの人生を大きく歪める決定打となる。
しかしまだ美樹さやかは知らない。
奇跡を叶える意味と、そしてその代償を…