鹿目まどかはぼんやりと夜の街を歩いていた。
行き先は自宅。
ただ足取りが重く、思うように身体は進んでくれない。
そのため門限ギリギリの時間に家に着く予定となっていた。
普段ならば日の出ている時間には帰れるのだが、今日に限って帰宅時間は比較的遅い時間である。
授業が終わり、放課後になり、それでも席を立たずぼんやりと外を眺めていたらこんなに遅くなってしまっていた。
いつもなら親友の美樹さやかや志筑仁美と3人で帰路につく筈なのだが、今日に限っては美樹さやかも1人そそくさと帰り、また志筑仁美も別の友達と連れ立って教室を出て行った。
それもあってか教室を出るタイミングを失い、結局日が暮れる時間まで1人教室で過ごし、結果帰宅時間はかなり遅いものとなっていた。
ビル群から漏れる室内灯と街灯が夜の町を無機質に彩っている。
それがまた妙なリアリティを帯びていて、鹿目まどかには不自然に感じた。
(前までは夜が不安じゃ無かったのに…今じゃ脚が上手く動いてくれないよ…)
新月の今日は夜空さえ心許ない。
夜を照らす金色の光が無いからだろう、と鹿目まどかはすんなりと納得する。
それはこの街にも言えたこと、だったから…
駅へと足を早める人達も焦るようにこの街から離れようとし、この街を歩く若者も渇いた笑い声をあげるばかり。
本能的に何か不安になっているのかもしれない。
鹿目まどかは活気を無くしていく街をぼんやりと眺めていく。
自身が生まれ育った街がこんなにも色褪せて見えるのは初めてのことだ。
「…って、あれ?」
芸術的に見せようと彩られたイルミネーションが照らす駅前の大通り。
ぼんやりと歩き続けていた鹿目まどかは、いつの間にか帰り道ではない方向へと足を進めていることに気が付いた。
どう考えても遠回りであり、勿論買い物などの用事もないのにだ。
まるで何かに引かれるように、幾何学的な模様のイルミネーションが映し出されているこの場所へと辿り着いた。
何をしているんだろう…と1人頭を傾げて、今度こそ自宅へ帰ろうと右足を踏み出し、そこで見知った人影を視界の端で捉えた。
「…仁美ちゃん?」
見間違えるはずのない特徴的な深緑色でウェーブのかかったサラサラな長髪。
そして自身も着ている見滝原中学の制服。
間違えなく鹿目まどかの眼が捉えたのはクラスメイトの姿だった。
「仁美ちゃん? こんな時間にどうしたの?」
「あら? 鹿目さん。良いところで出会えましたね。」
「えっ?」
「ちょうど良いですわ。私に付いて来てください。ほらっ。」
「えっ? えっ?」
挨拶もそこそこに戸惑う鹿目まどかの右腕をしっかりと掴み、有無を言わさず志筑仁美は歩き出した。
鹿目まどかは友人の普段とは違う雰囲気に頭を傾げた。
普段の志筑仁美は確かに不思議な所があるが、お家柄に相応しい礼儀正しい女の子である。
決して人の腕を突然掴むような乱暴でもなく、腕白に人を引きずり回す事もない。
それが鹿目まどかの目の前にいる志筑仁美なのだ。
腕を引く力は弱まるどころか、握りつぶさんとばかりに強まっていく。
「仁美ちゃん!? どうしたの!?」
「どうもしませんわ、鹿目さん。ただ今から鹿目さんも素晴らしき世界にご招待して差し上げようかと思いまして。」
「素晴らしき…世界…?」
志筑仁美は少しばかり掌の力を緩め鹿目まどかに笑顔で振り向く。
その表情は何かを企むような悪意のあるものではなく、憧れの人に出会えるかのような高揚によく似たものだった。
普段とは違う親友は何かに興奮しているため、今日のような態度なのかもしれない。
鹿目まどかは少し安心して志筑仁美について行く。
この時…前を進む志筑仁美が振り返ったこの時、鹿目まどかは志筑仁美の首もとに鈍く輝く蝶のイラストに気付くことが出来なかった。
第17話 海が笑う夜
足早に志筑仁美は市街地を歩いていく。
鹿目まどかも置いて行かれないよう小走りも交えつつ付いていく。
2人はどんどんと人気のない路地を曲がっていく。
街灯の数も減り、先の見えない夜が広がっていた。
鹿目まどかは数分歩いてようやく違和感に気が付いていた。
最初志筑仁美の様子を見た時はアイドルのコンサートでもあって、生でアイドルを見ることができる高揚感に浸っていたのだろう、と考えていた。
しかし歩けば歩くほどその気配は薄れていく。
アイドルのコンサートだというのなら人混みであったり、熱気、眩しいくらいの照明などがあるはずだ。
それとは対照的な街の風景。
それだけでも鹿目まどかは小さな疑問を抱くことができた。
それだけではない。
前をいく志筑仁美も終始無言を貫き始める。
ただしやはり腕の力を緩めようとはせず、歩く速さも早歩き、というより競歩を行っているかのように速い。
歩き続け30分。
とっくに門限を過ぎている時刻、だが鹿目まどかは時間を確認する暇もなく無理やり引っ張られている。
そこでようやく志筑仁美の脚がピタリと止まった。
「さぁ、鹿目さん。ここがパーティーの会場です。どうぞ入って。」
「えっ…ここって…」
志筑仁美が空いている方の手で目の前の建物を差す。
コンクリートで固められた真四角の建物。
雨で汚れが流れたのか、壁には染みのような汚れがこびり付いている。
灯りの付いていない入り口をよく見ると、煤けた字で『桜井工場』と書かれた看板が辛うじて掛かっていた。
トタン屋根は蜘蛛の巣が張り巡り、少しの風で吹き飛ばされかねない程に脆い作りだ。
一言で言えば廃工場。
そこに志筑仁美は嬉しそうに足を踏み入れていく。
鹿目まどかを1人置いてぎしぎしと悲鳴を上げるドアノブを回し、そして何も恐れることなく工場内へと姿を消した。
「仁美ちゃん…」
その不気味な様相に鹿目まどかは一瞬躊躇うも、後を追うように恐る恐る廃工場へと入っていった。
工場の中は予想通りの光景が広がっていて、誰かが持ち込んだであろうランプが部屋の真ん中で薄暗く灯るだけの真っ暗な部屋。
作動している機械もなければ何かを製造していた痕跡すら既に見当たらない。
しかしそんな光景とは合致しないほどの人の数に、鹿目まどかは口を開けただ呆然としてしまう。
工場ということもありバスケットボールのコート程の広さに10人弱の老若男女が無気力に佇んでいた。
ぼろぼろで埃っぽく、鼻につく匂いを充満させている工場に、しかも中学生の鹿目まどかにとってはかなり遅い時間に、だ。
志筑仁美もその輪に入り、ベレット帽を深く被った年配の男性と愉しげに会話をしている。
しかし志筑仁美の表情とは裏腹に話す年配の男性は無表情を貫いていた。
鹿目まどかは志筑仁美の愉しげな表情とは裏腹に、重たく粘り気さえ感じられそうな雰囲気に身体を竦ませていた。
「…そうだよ、俺は。俺はこんな小さな町工場でさえ守れない屑だよ。」
「えっ?」
突如志筑仁美以外の声が工場内に微かに響く。
鹿目まどかは音源に目を向けるとそこには無精ひげを生やした、自身の父親と同い年くらいの男性がこの世の終わりだというような表情で木箱に腰をおろしている。
疲れ切った表情の男性は縛られているかのようにその場から微動だにしない。
しばらく男の愚痴とも懺悔ともいえないような語りを鹿目まどかは遠くから怯えるように見ていた。
足が竦み逃げ道もいつの間にかシャッターを閉められなくなっている。
そういった状況が何もできずただその男性を眺めることしかさせなくさせていた。
するとこれまた自身の母親と同い年くらいの一人の女性がバケツを持って工場のど真ん中、つまり未だぼそぼそと語り続ける男性の近くへと近づいていき、そして切れかけた電球の光が当たる工場の中央に至るとバケツを勢いよく音を立てるように置いた。
何をするのか皆目見当つかない鹿目まどかを置いて、工場内の人々が何かを期待するような目でそれを見ている。
女性は手提げ袋に入れていた洗剤のような容器が二つを取り出した。
塩素系漂白剤と酸性洗剤…
女性が持っていたのは家庭に溢れるありふれたもの。
身の回りを綺麗にするために使われる一般的なものだ。
しかしそれをみて鹿目まどかの表情は大きく歪んでいった。
『いいか、まどか。この手の物には扱いを間違えるととんでもないことになるものもある。あたしら家族全員あの世行きだ。絶対間違えるなよ。』
思い出すのは鹿目詢子が家族全員を守るために教えてくれた一つのこと。
混ぜるな危険、と書かれた洗剤容器を詳しく説明しながら危険性を享受してくれた。
酸性系と塩素系を混ぜることで生まれる気体、塩素ガス。
塩素ガスは人体に悪影響をもたらし、最悪の場合死に至らしめる。
過去にたくさんの事例があるほど凶悪な組み合わせなのだ。
それを密室の工場内で行えば結果は目に見えているだろう。
…常人の行うことではない。
そこで鹿目まどかはようやく志筑仁美、そしてその他の人々に共通する一つの異変に気付いた。
首筋に妖しく光る小さなタトゥーのようなもの。
見覚えのないそれは魔女の口付けと呼ばれるもので、魔女の生み出した禍の種。
人間の精神に深く浸食していき、これによる原因不明の自殺や殺人を引き起こすものとなっている。
残念ながらその存在まで鹿目まどかは把握はしていなかったが、明らかに異変だということだけはすぐ理解できた。
(これってもしかして魔女の仕業!?)
「だめっ!」
洗剤を混ぜようとする女性の元へと駆け寄り腕を伸ばす。
…が、それは親友の手によって防がれる。
「邪魔をしてはいけません。あれは神聖な儀式ですのよ。」
「だってあれあぶないんだよ!? ここにいる人たちみんな死んじゃうよ!」
「そう。私たちはこれからみんなで素晴らしい世界に旅に出ますの。それがどんなに素敵なことか分かりませんか? 生きてる身体なんて邪魔なだけですわ。…鹿目さん、あなたもすぐ分かりますから。」
満面の笑顔で鹿目まどかを止める志筑仁美。
そして同士がまた一人増えた、と迎え入れるように周りの人々は拍手で鹿目まどかを包み込む。
先ほどまで無気力な表情を浮かべていた人たちがみんな笑顔を鹿目まどかに向けている。
それが逆に恐怖心を抱かせる。
志筑仁美に掴まれた左腕が痛い。
笑顔を向ける志筑仁美だが、逃がさないようにと力強く手首を握りしめている。
か弱い鹿目まどかには十分すぎる拘束。
その間にも女性は洗剤を混ぜる行為を止めない。
酸性洗剤をバケツの中に入れ終え、そして後は塩素系漂白剤を入れるだけ。
待ちわびる志筑仁美は我慢できず、歪んだ笑みを浮かばせてしまう。
他の人々も今か今かとざわめき始めた。
鹿目まどかにかかる注目も少しばかり薄まる。
「止めてっ!」
ここぞとばかりに親友の腕を振り払い、洗剤の入ったバケツを勢い任せに掴む。
そして勢いそのままに身体を捻り、バケツを放り投げた。
バケツは工場の窓ガラスを叩き割って外へと姿を消す。
工場内にはガシャンという窓ガラスの最期の声が響き渡り、続いて鹿目まどかの過呼吸のような短い息遣いが木霊した。
鹿目まどかは落ち着いた所で再度ホッと一息を入れる。
酸性洗剤の入ったバケツは中身ごと外に放り出した。
この工場内には塩素系漂白剤しかない。
窓ガラスも割れたので少しは換気も出来るだろう。
これでここにいる人々の安全は保証された。
…と考えていた鹿目まどかは直ぐに絶望を味わう。
顔を上げた鹿目まどかに向かってくる老若男女。
そこには志筑仁美の姿も含まれていた。
決して命を救った鹿目まどかを讃えるために近付いている訳ではない。
目は虚ろで口はだらしなく開かれ、更に鹿目まどかを捕まえようと人々の両腕は鹿目まどかに向かい力無く上げられていた。
それはまさにゾンビの群。
明確な死が消失したことによるパニック状態。
魔女の口づけで操られた人々の行動を邪魔したことによる敵対視。
操られる人々は本能のまま鹿目まどかを殺そうと行動する。
明確な殺意が鹿目まどかを追い詰めていく。
「やめっ…、止めてっ!」
恐怖から逃げるよう鹿目まどかは走り出す。
…が狭い工場のためすぐさま壁に進路を塞がれる。
退路を断たれ、はっきりと浮かぶ死のイメージ。
汗をかくことすら許されない恐怖。
人々が『死ね』と呟いているかのような錯覚にさえ陥る。
震える脚で必死に身体を支え逃げ道を模索するも、操られた人々が反対側の壁には行かせないよう身体を壁代わりに塞いでいる。
既に鹿目まどかにとっての安全なスペースは壁際の一角しか与えられていない。
壁づたいに角へと逃げて…、いや追い詰められていく鹿目まどか。
必死に人壁の隙間を探すもか弱い鹿目まどかでは簡単に捕まってしまうような隙間しかない。
緊張は最高潮に達し、はちきれんばかりの感情を耐えるのも厳しくなっている。
そんな時鹿目まどかの腕を掴む感触が突如として襲いかかる。
「きゃっ!?」
力強く身体を引かれ、抵抗無く足は引かれるがままに動いた。
鹿目まどかはそのまま壁際にひっそりと存在していたドアに引きずり込まれた。
鹿目まどかがドアを通り過ぎるとすぐさまドアの鍵が閉められる。
「まどか、もう大丈夫だぞ。」
鹿目まどかは魔女の口づけに罹った人に捕まったと勘違いしていた。
もう駄目だ、と諦め、ギュッと瞳は閉じられていた。
だから目を開けた時、正面にいる人物に驚きを隠せない。
「せ、瀬津君っ!」
「驚いたな。どうしてまどかがここにいんだ?」
心底不思議そうに瀬津そうまは頭を傾げていた。