何本もの転がったビール缶を見て、橘は顔をしかめて鼻を覆った。
ちゃぶ台の上の銀色の灰皿には大量のタバコの吸殻が山になっており、まるで
中年オヤジが住んでいる部屋と言われても納得できそうな部屋だ。
この部屋が見た目十二歳である、担任の小萌の部屋であると誰が信じるであろうか。
散らかったゴミなどを片付けてスペースを確保し、橘は上条から事情を聞いた。
小萌先生は何も言わずに部屋を開けてくれていた。
「――ふん、それであんな小さい子が狙われてるってわけか」
橘が小萌先生の部屋についたときには、少女――インデックスの傷は完治していた。
数時間程度で治るような傷ではない。刃物のような物で切り裂かれた傷は、普通は病院送りに
なるようなレベルの傷だったと橘は記憶している。
その傷を完治させたのは他でもない小萌先生らしい。
インデックスの頭の中にある十万三千冊の中から、治癒を行う魔術を行った……とか。
「魔術師が言うには、最低二人はいるってことだな」
上条から聞いた話を整理すれば、インデックスを傷つけたのはステイルではない。
カンザキという人物による怪我。だとすれば刃物を持っている人物だろう。
「刃物ってことは魔術じゃない可能性もある。右手を過信しすぎるなよ?」
「流石に刃物を掴むほどバカじゃありませんよ!?」
「どうだか……っと、寮から必要なものとか持ってくるけど、何かあるか?」
インデックスが目を覚ましたのを見て橘は腰を上げる。
ふたりで話したいこともあるだろう。話によれば突然襲撃されたようだし。
「……補習の課題持ってきてくれ」
「了解」
上条から部屋の鍵を受け取って橘は小萌の部屋を後にした。
――――――――――
数百メートル離れた雑居ビルの屋上で、ステイルは双眼鏡から目を離した。
「――彼女は?」
「生きているよ。……恐らく魔術を使ったんだろう」
腰まで届く長い黒髪を乱雑にポニーテールにまとめ、腰には長さ2メートル以上もの日本刀が
収まっていた。彼女はステイル同様まともな格好ではなかった。
白い半袖のTシャツにジーンズ。ここまで聞けばなんらおかしなことはない。
ただ、ジーンズの左脚の部分だけがばっさりと斬られ、Tシャツも少し縛られてワザとヘソが
見えるようにしてある。
「それで神裂。アイツ等の事は?」
「二人共、魔術や異能者の類ではないようです」
「冗談はよしてくれ」
片や魔女狩りの王を打ち消し、片や炎や風を起こした者がただの高校生とは信じがたい。
「ただの高校生に僕の魔女狩りの王が破られるわけがない。……情報の意図的な封鎖、かな」
髪裂が調べた情報では、どちらも『ただのケンカっ早いダメ学生』となっていることだ。
「上層部には話を通してある。住民が何人か消えようと関係ない」
「……ステイル、あなたのルーンは致命的な欠点を指摘されたと聞きましたが」
「その点は補強済みだ。何重にも重ねて結界を刻む」
風で吹き飛ばされても問題ないよう、今回は様々な位置にルーンを張り巡らせる。
――楽しそうだよね」
不意に、ステイルは思わず呟いた。
数百メートル先では、上条とインデックスが何やら騒がしく喚いていた。
「あの子はいつだって楽しそうに生きている」
懺悔するかのように、ステイルは言葉を紡いだ。
「――僕たちは、一体いつまでアレを引き裂き続ければ良いのかな」
「……複雑な気持ちですか? かつてあの場所にいた貴方としては」
「……何時ものことだよ」
ステイルはいつもの通りに答えた。いつもの通りに。
――――――――――
炎の魔術師に襲撃されてから三日が立った。
インデックスも普段通り歩けるようになり、今では洗面器を抱えて銭湯まで向かっているほどだ。
「……なんで俺もついてきたんだろ」
「しょーがないだろ? 俺たちの部屋が立ち入り禁止になっちまったんだし」
呟いた橘の小言を上条が拾い、振り返った。
あの魔術師の炎のせいで、橘と上条の階は悲惨なことになっていた。結局上条から頼まれた補習の課題も取れずじまいだ。
まぁ、小萌先生が余りを持っていたのでそれをやっているらしいが……。
インデックスが鼻歌を歌いながらウキウキと歩みを進める。
微笑ましい姿を後ろで橘と上条は見ていた。
「とうま、とうま!」
「……なんだよ?」
インデックスがくいくいと上条の袖を引っ張って呼びかける。
それに上条は呆れたように答えた。二人を見てると兄妹みたいに見える。
「……あ?」
不意に橘が止まった。
その様子に気づかずに、上条とインデックスは進んでいく。
違和感。気味の悪い違和感が橘を襲った。
この違和感は二度目だ。確か――。
二人が角を曲がったのに気づき、慌てて橘は二人を追った。
「――あ、インデックス!」
追いつけば、そこには上条しかいない。
「上条! インデックスは?」
「……先に銭湯に行っちまった」
「……何やってんだよ。人多いんだし、見失ったら――」
そこで二人は顔を見合わせた。
現在は午後8時ジャスト。まだ人が眠るような時間帯ではない。
廃墟のように静まり返ってしまっている。
「……そういや誰かとすれ違ったか?」
上条の問いに答えようとしたとき、橘は自分の目を疑った。
いつの間にか、二人の数十メートル先に一人の女性が立っている。
気付かなかったわけではない。確かに人を探すために視線を彷徨わせていた。
女が立っている場所に視界を外したのは一瞬だ。一瞬外しただけでまるでそこにずっと
いたかのようにたっていた。
「――ステイルが人払いの刻印を刻んでいるだけですよ」
ヤバイと頭の中で警報が鳴る。
数日前に相対した魔術師とは桁が違う。
本能が負けを悟ってしまっている。
「気をつけろよ、上条。インデックスを切った奴と見ていい」
腰にある2メートルもの刀がそれを裏付けていた。
「神裂火織と申します。……できれば、もうひとつの名は語りたくないのですが」
「もう一つ……?」
「アイツと同じか。魔法名だろ」
魔法名――殺し名。
彼女がそれを名乗れば、瞬く間に肉片になってしまうような、そんなプレッシャーに襲われる。
「魔法名を名乗る前に――彼女を保護したいのですが」
無表情のまま、神裂は言った。それが橘は怖かった。
何も感情を感じない。まるで機械を相手にしているかのようだ。
「……嫌だ、と言ったら?」
上条の言葉に橘はハッとした。
上条は――全力でインデックスを守るつもりだ。
それが負け戦になろうとも、相手がどれほど強大でも、勝つつもりだ。
「仕方がありません。……名乗ってから、彼女を保護するまで」
その言葉の後に、ドンという大きな衝撃が地震のように足元を伝わって震えた。
視界の隅、闇に覆われた夜空の向こう側。なぜかオレンジ色に焼けている。
巨大な炎が燃え盛っていた。
「インデックス……!!」
わかる。自分が何をすればいいのか。
上条は反射的に体を動かした。
インデックスを助けるべく、爆発地点へと。
その隙を神裂火織が見逃すわけがない。
「――『
幾つもの斬撃が、上条に振りそそぐその瞬間。
円形の盾がそれを防ぐ。
あっという間にバキバキと崩れ始めるのを、橘は必死に食い止める。
「――行けよ! 彼女を守れんのはお前だけだ!」
「っ……だけど!」
僅かに上条は躊躇した。
友人をここに、一人だけで残していいのか?
それが原因で死んだら――?
「やってから後悔しろ! インデックスを助けてから応援に来い!
それまで持ちこたえてやるから!!」
盾が甲高い音を立てて割るのと同時に、上条は走り出した。
それを見届け、橘は相対する。
「――随分悠長だな。話してる間にでも一撃でもやればよかったんじゃないか?」
それほど二人には隙があった。
「……そんな卑怯なことはしませんよ。貴方たちが強ければ話は別でしょうが」
つまり、隙なんて狙わなくても勝てると彼女は言いたいのだろう。
正論だと思う。逆に、橘が隙を狙っても勝てるかどうか……なんとか一撃当たればいいほうだろう。
「慢心はよくないと思うけどな……破道の四、『
橘の指先から、一条の光線が放たれる。
人体なら容易く貫通するその光線を――彼女は虫を払うようにして振り払った。
そして瞬きをした瞬間、既に彼女は目前にいた。防御もする暇もなく、腹に膝蹴りを叩き込まれる。
「ぐっ……!!」
女性の脚力ではない。成人男性以上の力だ。
何度も咳をして唾を拭う。
――見えなかった。
油断はしていなかった。全神経を集中させていたはずだ。
いつでも反撃するつもりだった……なのに反応できなかった。
そして、最初の一撃以降彼女は刀を抜いてすらいない。
ここまで差があったというのか?
……諦めてはダメだ。上条は俺を信じてコイツの相手を任せてくれた。
絶対に勝たなくてはならない。」
「……無駄なあがきはやめてください」
「うるせェよ……」
口の中に溜まった血を吐き出しながら、橘は笑った。
「まだ俺は攻撃すらしてねぇんだ……無駄なあがきかどうかはそれをみて確かめろ!」
神裂から距離をとり、両手を突き出す。その様子を神裂は黙って見ていた。
ステイルから聞いた情報によれば、突風と炎を生み出したと聞く。
炎はそれほどでもなく、風も目くらましに使える程度だ。
彼が何かする前に、七閃で動けない程度に追い込む。
「――縛道の六十三。『
金色の鎖が橘の手のひらから飛び出し、それは凄まじい速度で神裂の胴体に巻きつく。
「っ……!?」
油断はしない。彼女は異常な膂力を持っている。鎖条鎖縛ですら数秒で破られるだろう。
現に鎖が悲鳴をあげてヒビが入っていた。
「……聖人である私を拘束するとは、中々の技術ですね」
神裂の呟きに皮肉でもいう余裕はない。
すぐさまに詠唱を始めなければ、生み出した隙が無駄になる。
「――
神裂の動きが止まった。
彼が詠唱を始めてから、魔力のようなものを纏い始めている。
魔術師ではなかったはずだ。なのに、これは――。
「
鎖の隙間を縫うように、神裂の胴体に六つの帯状の光が突き刺さる。
痛みはなく、血も出ていない。ただ、拘束力が更に高まったことだけはわかる。
「こんな魔術は……見たことが……!」
「――破道の七十三! 『
轟音と共に、神裂のいた地点を中心に蒼い爆炎が巻き起こる。
あたりを熱風と土煙が巻き起こり、橘は顔を両手で覆った。
――手加減はしなかった。持てる限りの全力を尽くした。
恐らくは戦闘不能の状態までは追い込むことができたはずだ。
額から垂れた汗を拭って、橘はため息を吐いて目を閉じた。
「……終わった」
土煙が晴れればそこには倒れた神裂火織が――。
橘の全身に激痛は走った。何が起きたかを理解する頃には、壁に背中を叩きつけられ呼吸が止まった時だ。
両腕や足の肉は少し裂かれ、ツンと血の匂いが鼻を突く。
血がポタポタと足元に垂れて視界が霞む。
「――手傷を負うとは思いませんでした」
土煙の向こうから現れたのは、頬が僅かに煤けた後しかない神裂火織だった。
もう、驚くような元気もない。
「……一般人にしては頑張った方です」
「…………っせぇよ……」
息も絶え絶えで橘は言葉をやっとの思いで絞り出す。
頑張ったじゃ駄目なんだ。生き残ったじゃ駄目なんだ……。
「もう、いいでしょう?」
か細い声だった。
「貴方が彼女にそこまでする理由はないはずです。
ロンドンでも十指にはいる魔術師に反撃できただけでも上出来です。
それだけやれば彼女も――ステイルのもとにむかった彼も恐らくあなたを責めることはしないでしょう」
確かに、二人は俺を責めないだろう。
それどころか、よくやったと気遣いの言葉でもかけてくれるんじゃないだろうか。
でも、その時――俺が負けたとき、インデックスは笑える環境にいるだろうか。
上条は、何事もなく平凡な日常を満喫できるだろうか。
――否だ。
ピクリと、人差し指が痙攣するかのように動く。
「アンタ、なんで俺をさっさと殺さないんだ? 炎の奴みてぇに、さっさと魔法名を名乗って殺せば
インデックスの保護なんて簡単だろーが……」
「…………」
「アンタみたいな優しい人がこんな事をやってる理由、何なんだよ」
意識が朦朧としながらの呟き。橘は独り言のようにつぶやいていた。
「私だって、好きでこんな事をしているわけでは……ありません」
刀を下ろし、神裂は俯いた。
「こうしないと、彼女は生きていけないんです。……死んでしまうんです」
「……ハァ?」
徐々に意識が覚醒してくる。
覚醒に伴って痛みもでてくるが、そんなことは気にしていられない。
「死ぬって、どういう、ことだよ」
「……完全記憶能力、という言葉に聞き覚えはありますか?」
完全記憶能力……。ひと目で見た全ての物を忘れず、いついかなる時でも
見たものを全て思い出すことができる。だっけか。
橘は小さく頷いた。
確か、インデックスがそれで十万三千冊の本を覚えていたはずだ。
「彼女の脳の85%以上は、十万三千冊の本に埋め尽くされてしまっているんです。
残る15%でかろうじて動かしている状態です」
「…………うん?」
「忘れることのできない彼女が生きていくためには、1年ごとにその15%を消さないといけないんです。
だから、彼女は私たちが友人だったことも忘れて――」
「ちょっと待て」
体が痛むのも忘れて橘は神裂に近づいた。
さっきの話には不自然な点がある。
「お前……馬鹿か?」
「……はい?」
キョトンとした表情で神裂は顔を上げる。
「完全記憶能力を持ってる人がインデックスだけなわけないだろ」
恐らくだが、人体についての知識なら神裂よりもステイルよりも――橘が上だ。
橘は記録術については上条以上には勉強しているし、多少はわかる。
「めんどくさいし俺もそこまで覚えてないから掻い摘んで説明するけどな」
本来、人の脳は100年以上の記憶を可能としている。
記憶三つに独立していてそれぞれ容れ物が違う。
「仮にアンタの言葉を信じるなら、他の完全記憶能力を持ってる人皆5,6歳で死んじまう。
十万三千冊の魔道書が原因で消さなくてはならないって事なら話は別だけどな」
「……現にインデックスは1年毎に頭痛に襲われて苦しみます」
「呪いとかなんじゃないか? 上条だったらそれだって治せると思うけど」
「……席を外しても?」
「……いいぞ」
凄まじい速度で神裂はその場を後にしていった。
それを見送ったあと、橘は息を吐いてその場に崩れ落ちる。
そのまま、眠るように意識を手放した。