執務室の新人提督   作:カツカレーカツカレーライス抜き

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第29話

 ドアを開けて、大井は顔を顰めた。

 大井が今扉を開けて入った部屋は、提督の座す執務室である。外へ出るようになっても、結局提督は執務室に篭りがちで余りここから出ない。出ないどころか――

 

「あぁもう提督……また布団を跳ね除けて」

 

 未だこの部屋で寝起きしている。鎮守府のトップが、である。一部艦娘達はやはり提督らしく私室を用意するべきだと提案したが、提督は提督で苦笑一つで首を横に振った。

 たったそれだけで皆がそれ以上何も言わなくなったのは、なるほど、提督こそがトップであると尚更大井に思わせた事でもあった。

 布団を跳ね除けた提督に歩み寄りつつ、大井は目を細める。

 

 ――あぁ、これは初霜、こっちは……山城。あとは金剛、この卵焼きのにおいは瑞鳳ね。

 

 鼻を微かに鳴らしながら大井は溜息を吐いた。室内に在る、提督以外の匂いだ。大井はこの執務室が好きだ。ここには提督の匂いが、温もりが一番色濃く在る。だが、同時にこうやって異物も混じるのが大井には酷く不安でもあった。

 この部屋は誰も拒みはしない。誰が来ようとも鍵も無い執務室は常に誰でも受け入れる。

 それがまるで執務室の主の様で、大井はそれが不安だった。彼女は夜中、そう、今執務室の窓から仄かに光る月の、星の灯りの下でしか提督と会わない。いや、会ってすらいない。

 眠っている提督の顔をデジカメにおさめ、少しばかり触れ、冷蔵庫の中身を補充するだけの片思いだ。

 

 負担になりたくない、素直になれない。だから大井は提督が起きている時間と、たまに在る出撃前の挨拶以外で執務室に入らない。

 

 ――どうせ私は、皆と違って提督と話が弾む事もないし……

 

 そう胸中で呟いてから、大井は背後へ振り返った。そこにあるのは執務室の扉である。ただ、大井が実際に見ているのは、その扉の向こうだ。

 

 ――あの人も、提督と話が弾むタイプじゃないと思うけれど。

 

 雑な気配の消し方をしている、提督からとある指輪を渡された航空戦艦を思い浮かべ大井はまた小さく溜息を吐いた。手に在る手提げ鞄からデジカメを取り出し、大井は提督の枕元に両膝をついた。室内にいるもう一つの気配に気付かず、安らかな相で眠る提督の顔を一枚、二枚、三枚、百枚とおさめ、大井は跳ね除けられた掛け布団をゆっくりと提督にかけた。

 

 ――あぁ、よかった。提督、今日もお元気そうね。

 

 かつて、提督が苦しんでいた夜があった。ただ静かに眺め、写真におさめるだけだった仄暗い夜の独りよがりな逢瀬が、あの夜から変わった。

 大井が触れた事で、提督の相から苦しみが抜けたのだ。大井にとって、それは救いであり免罪符であった。自身が居る事で提督が救われるなら、それは大井にとっても救いだ。自身がそこに在る事で提督が安らかになれるのなら、この夜の片思いは必要な事なのだと信じられる。

 

 大井は提督の頬に手を当て、ゆっくりと撫でた。安らかにあった提督の相が、その白魚の如き指に撫でられ更に穏やかになっていく。

 少なくとも、大井はそう感じた。それが大井の相を提督よりも穏やかにしていく。慈しみに満ちた相のまま、大井は提督の髪を撫でようとしてそれを遮られた。

 遮ったのは、言うまでもないだろう。室内には二人しか居ないのだ。

 

 ――え?

 

 提督だ。提督の手が、大井の手を掴んでいた。いや、それは掴むと言うよりは包み込んでいた、だろうか。未だ眠る提督の体は弛緩したままで、そこに力など込められていない。優しく、羽毛のような軽さだった。

 

 ――……え?

 

 それが不味かった。与えるだけで、与えられない大井の触れ合いだったのだ。この夜までは。提督からしたら寝たままの、意識もしてない仕草だとしても、それをどう受け取るかは大井の心に任せるしかない。

 大井は自身の、提督の手に包み込まれた手を見て、暫しじっと佇み……慌てて立ち上がり手提げ鞄を手にして去っていった。

 月と星だけの頼りない光では、その時大井の相が如何な物であったか判然と出来ないが、態々いう必要も無いだろう。

 

 大井が去ってからも執務室の傍にあった雑な気配は暫く佇み、一度室内を確かめてからその気配を夜の闇にとかして消えていった。白い着物を僅かに揺らしながら。

 

 さて、執務室である。提督は、少しばかり口を動かした後緩やかに目を開け始めた。掛けなおされたとも知らぬ掛け布団を緩慢にのけ、ゾンビの如く上半身を起こした。提督は開ききっていない目で周囲を見回し、壁にある時計へ寝ぼけ眼を向けた。

 

「……あれ?」

 

 提督が常に起床する時間ではない。眠っていた間に喉は潤いを失い呟いた声は枯れていた。自身の声と喉に水分が足りないと頭では理解出来ず、体の求めるまま提督は小さな冷蔵庫へよたよたと歩み寄っていく。

 あけた冷蔵庫から溢れ出たオレンジ色の明かりに、寝起きの細い目を更に細め、手探りでお茶を取り出す。冷蔵庫横にあるコップを手に取り、そこへお茶を注いで一気に仰いだ。

 

 ――寝直そうか?

 

 と提督は思ってみたが、どうにも何か足りなくて眠れない、と首を小さく横に振り、出した物をのろのろと片付けていく。壁にある電灯のスイッチを手探りで押し室内を明るくすると、提督は目を閉じて瞼を揉んだ。

 

 ――どうしたものか。

 

 と寝ぼけた顔でぼうっと考え始めた提督の耳に、ノックの音が飛び込んできた。特に何も意識せず、提督はそれに応じた。

 

「はいはい、あいてますよー……」

 

「なんや君、えらい時間におきとるねー」

 

 入ってきたのは髪を下ろし、愛らしい熊さんプリントの寝巻きを着た龍驤であった。手には懐中電灯がある。その懐中電灯を見るとはなしに見ていた提督は、ぼうっとしたまま首を傾げた。

 提督の視線と仕草で気付いたのか、龍驤は手に在る懐中電灯を振りながら笑った。

 

「まぁ、一応見回りってやつやねぇ。うちの鎮守府には必要ないかもしれへんけど、せやからって怠ける訳にもいかへんやろ?」

 

「せやな」

 

 特に考えも無く提督は返した。完全に条件反射である。

 ここは鎮守府、艦娘とそれを指揮する提督が座す陸へと続く海と空を守る一つの小さな世界である。幾ら平穏であるからといって、これからもその平穏が続くと勝手に思い込んで自滅するわけにはいかないのだ。ゆえに、龍驤などの索敵に優れた者が夜の警邏を行うのである。とはいえ

 

「でもおとうさんしんぱいだなー」

 

「おう、誰がお父さんやねん」

 

 提督の軽口に、龍驤は手の甲で何も無い場所を打った。いわゆるツッコミのポーズである。

 夜の警邏は大いに結構だが、その警邏に龍驤の様な……少女然とした艦娘までもが参加している事に提督は心配したのである。口調こそ軽かったが、根にあるのは心からの心配だ。

 それを感じられない龍驤ではない。彼女は提督に満面の笑みを向けて胸元からぶら下がっている物を取り出し、提督へ見せた。ホイッスルである。

 

「まぁ、安心してって。何事かあったらこれで皆を起こすって寸法や」

 

「ほほぅ……で、皆って?」

 

「せやなぁ……一水戦の皆はすぐ来るし、二水戦もまぁ、すぐくるなぁ……あと川内、那珂、山城、大井、妙高も即参上って感じやろか? ちょっと遅れて長良、球磨、矢矧、北上、木曾、高雄やね」

 

「夜戦火力ぱないっすね」

 

 名の挙がった艦娘達が艤装つけて砲雷戦を開始したら鎮守府が一つなくなるのではないだろうか、と寝ぼけた頭で考える提督に、龍驤は笑みを浮かべたまま頷いた。

 

「まぁうちは、珍しい時間に灯りついとるなーって来ただけやから、提督はよ寝ーよ?」

 

「んー……なんか、ねれそうなねれなさそうなー……」

 

 提督は寝癖のついた頭をふらふらと振りながら応じる。そこには常以上に無防備な提督がいる。龍驤は提督に近づき、寝癖のついた頭をそっと撫でた。

 

「君は、うちらのまとめ役っていう大事な仕事があるんやから、しっかりやすまなあかんねんで?」

 

「でもおとうさんしんぱいだなー」

 

「誰がお父さんやねん」

 

 寝ぼけた提督の言葉に今度は龍驤も突っ込みのポーズもとらず、彼女は自身の胸に提督の頭を抱き寄せた。先ほどの大井同様、慈愛に満ちた相で龍驤は寝癖を撫でる。

 

「まぁ……お父さんでもえぇけどね。うちらは、君がおるから頑張れるん。せやから、君はいつもの君でいたらえぇねん。しっかり寝て、しっかり食べて、しっかり働いて、しっかり生きてや」

 

「……ん」

 

 提督の耳に、人の心音が心地よく木霊する。人の心音は人を癒す。そこにある他者の温もりが、生きてある互いを繋げるからだ。求めれば分かる。抱きしめれば知る。どうしてこの人と一つになれのだろうと、心音を一つにしようと人は強く他者を抱きしめる。

 このときの提督も、それであった。寝ぼけているからだろう。彼は何の迷いも無く龍驤を抱きしめた。

 

「……ちょっと痛いで?」

 

「……ん」

 

 提督は龍驤の腕の中でゆっくりと頷き、やがて動かなくなった。龍驤は眠りにおちた提督の背を優しく何度か叩き、扉に目を向け口を開いた。

 

「悪いけど、暫くこうしとく。君もしっかり休みや」

 

 提督と龍驤しかいない室内だ。しかし龍驤のそれは独り言にしては大きすぎ、誰かに向けられた言葉であるのは明白である。が、やはりその室内には、扉の向こうの廊下にも気配は無い。

 いや、無かった筈だ。だというのに、執務室の扉は開かれた。

 

「じゃあ、あとはお任せしますね?」

 

「悪いね……わがまま言うてもて」

 

「いいえ、龍驤さんですから」

 

 心底から申し訳ないと語る相の龍驤に、阿武隈はそう返してまた扉を閉じた。と、途端に気配は消えた。龍驤であるからこそ、辛うじて察知できるような気配だ。

 

「いやー……多分これわかるんいうたら、あとは鳳翔さんくらいやなー」

 

 ぽつりと呟いて、龍驤はまた提督の背を叩いた。

 

「まぁ、この調子やったら起きてもなんも覚えてへんやろうし……お互い幸せやからええやんなー?」

 

 自己主張する提督の寝癖を軽く指で弾いて、龍驤は華の様に笑った。

 

 

 

 

 

 

「あれー……」

 

 布団を跳ね除け、提督は腕を組んで首を傾げた。

 昨夜、へんな時間に起きたような気がするのだが、その様子がどこにも無いからだ。先ほどまで布団にくるまっていたし、室内を見渡してもそういった気配は感じられない。常の、いつもの寝起きの彼の世界だ。

 

「……なんか、二人くらいの女に抱きついたようなないような……」

 

 流石に女性だけの職場で駄目になってきたか、と頭を悩ませる提督の耳にどたどたと足音が届き始めた。提督は室内の時計に目を向け、いつもより少しばかり早い時間だと確かめた。

 となると、この廊下を走る足音は当然朝一番に顔を見せる秘書艦初霜ではなく、偶に初霜と変わる大淀や加賀でもないと、未だすっきりしない提督の頭でも理解できた。

 さて、足音は通り過ぎるのか、それとも扉の前で止まってノックするのか、と扉を見つめる提督の目に、勢い良く人影が飛び込んできた。

 

「おー……ノックなしかー」

 

「提督! てーへんだ! てーへんだ!!」

 

「おうどうしたハチ」

 

「球磨だクマー!」

 

 お金をぽんぽん悪人に投げ飛ばす岡っ引きのテンプレを崩しつつ、朝の早くからノックも無しに執務室に飛び込んできた軽巡四天王が一人球磨が吼える。

 

「そんなこっちゃどうでもいいクマ!」

 

「どうしたんだい球磨さんや。軽巡洋艦娘四天王の名が泣いちゃうよ?」

 

「四天王……?」

 

 提督の言葉に、球磨は自分と並ぶ熟練度の同艦種娘達を脳裏に思い浮かべた。球磨の脳裏によぎったのは、神通、長良、阿武隈、矢矧である。

 

「五人いるクマ! 四天王じゃないクマー!」

 

「肥前のクマさんとこも四天王だけど五人クマ?」

 

「クマー?」

 

「クマー」

 

 え、それマジ? といった相で首を傾げる球磨に、提督はうんマジ、と頷き返した。

 ちなみに、龍造寺四天王という実在した五人の戦国武将たちである。

 

「そうなのかクマー」

 

「クマー」

 

 球磨はふわりと笑い、提督は寝ぼけたまま頷く。と、球磨が目を瞬かせながら暫し考え込み始め、少しばかりの後手を勢い良く振り始めた。

 

「肥前だか肥後だが蝦夷だかのクマはどうでもいいクマー!」

 

「いや、蝦夷の熊害事件は洒落にならないの多いんだぞ球磨さん」

 

 寝ぼけていても変に的確なツッコミを入れる辺り、この提督はぶれない。そんな提督に球磨は大きな声で続ける。

 

「なんかうちの妹がめっさキラキラしとる! 朝のはよからめっさキラキラしとる!!」

「えーっと、どの妹さん?」

 

「大井だクマー! 大井がめっさキラキラしとるクマー!!」

 

 龍驤張りのなかなかこなれた関西弁で口を動かす球磨に、提督は首を傾げた。キラキラといわれても、寝ぼけた提督からすればあぁ、絶好調なのか、と思うだけだ。

 今日の編成を提督は脳裏に描き、あぁ、と頷く。

 

「じゃあ、今日は大井さんMVPとりまくるかもねー」

 

「そんな問題じゃないクマー!?」

 

 妹の事が心配らしい球磨と、寝ぼけたまま意味不明な事を返す提督しかいない室内に、もう一つ影が入ってくる。

 

「なんや君ら、朝の早くからちょっとうるさいでー」

 

「あぁ龍じょ――うわめっさキラキラしとる!」

 

 提督と球磨の前に現れた龍驤は、確かにキラキラとしていた。肌や瞳が常より輝いており、あふれ出すオーラがそう見せるのである。

 だから提督はゆっくりと頷き。

 

「あぁ、龍驤さんもMVPとりまくるかもねー」

 

「そんな問題じゃないクマー!?」

 

 球磨に突っ込まれた。


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