執務室の新人提督   作:カツカレーカツカレーライス抜き

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第68話

 きらきらと、きらきらと輝いていた。

 昨夜から降り続けた雪は鎮守府にも町同様の白化粧を施し、窓の外の世界を見慣れぬ風景へと変えていた。

 街路樹の枝をたわませる雪も、舗装された道を覆う雪も、各施設の屋根に積もる雪も、皆太陽に照らされてきらきらと輝いている。

 その輝きが余りに眩しいので、提督は目を閉じて息を吐いた。

 

 目が閉ざされた事で鋭敏になった聴覚が、訓練場で遊んでいる駆逐艦娘達の声を拾い上げた。

 

「それー! 綾波覚悟っぽいー!」

 

「雪合戦なら、綾波負けませんよー」

 

「寒い……部屋に戻って……コタツに篭って、ねる……」

 

「そうかい? 僕はどうにも、無性に走り回りたい気分だけれど」

 

「雪だるま……作りたいかもですね」

 

「そうですね……隅で一緒に作りましょうか?」

 

 夕立、綾波、初雪、時雨、高波、浜風の声だ。

 史実の武勲や功労に感じ入り、時間が許す限り育て上げてきた提督にとっての駆逐艦のエース達だ。それぞれ個性を感じさせる言葉に、提督は頬を緩めて足を動かした。

 

 散歩。

 ただそれだけの事だ。ここに来てすぐには出来なかった、ごく当たり前の事である。

 雪化粧に染められた街路樹を見ながら提督が歩いていると、次に加賀と扶桑の声が聞こえてきた。

 

「あら……あんな所に時雨が……加賀、少し拝んできても良いかしら?」

 

「やめなさい、扶桑。いえ、本当にやめて」

 

 訓練場の隅にある、提督からは物置を挟んで見えない休憩所からの声だ。きっと何事かあって、いや、もしかしたら何事もなく二人して休憩所でホット缶片手に些細な事、或いは重要な事を語り合って居たのだろう。

 提督は物置の向こうに居る、見えぬ二人になんとなく一礼してから訓練場から離れていった。

 

 歩く歩く、ただ歩く。

 提督は一人、ただ歩く。

 

 特にどこか目的がある散歩ではない。目的も目標も無い、そんなただただ普通の散歩だ。

 が、今日は常の散歩とは少しだけ違う。雪が太陽光を反射して目が痛いのである。似合わぬサングラスをするくらいなら、と提督は空を見上げた。太陽そのものが存在する空であるが、幾分ましである。

 

 提督が目を細めて空を見ていると、そこに一つの小さな飛行機雲が生まれた。

 生み出したのは、小さな烈風改である。

 なんとなく、本当になんとなくだが提督はそれに向かって手を振った。それに気付いたのか。烈風改はくるりと提督の頭上で一回転して港の方角に去っていった。

 

 龍驤の艦載機だ。誰にも聞かずとも提督には分かる。そんな事だけは分かるのだ。

 どんな時でも、常に第一艦隊に座しあらゆる敵を粉砕してきた殊勲艦の羽があれであると、彼だけは分かるのだ。

 

 暫し大空に消え行く小さな飛行機雲に見入っていたからだろう。提督は冬の刺すような寒さを感じて黒い外套の襟をかき合せ一つ小さく震えた。

 周囲を見回し、目当てのものを見つけるとそれに足を向けた。

 

「暁はレディなんだから、コーヒーくらい平気よ!」

 

 そんな声を聞いた。

 提督の視線の先にあるのは、道におかれた普通の自動販売機である。そこで売られているのは、季節に合わせた缶の飲料だ。

 今は冬であるから、そこにあるのは当然ホット缶ばかりである。自身もまたそれを欲する提督は、聞こえてきた暁の声に苦笑を浮かべて自動販売機へと近づいて行く。と、もう一度提督の耳に声が届いた。ただし、その声は暁の物ではない。自動販売機の向こうから響いたのは、もう一人の声だ。

 

「凄いですね。雪風はコーヒーが全く飲めません!」

 

 何故か自信満々、といった雪風の言葉に、提督は苦笑をさらに深めた。

 提督は知っている。暁は確かにコーヒーを口にするが、それはコーヒージュースとも言えるような甘い奴だけだ。提督好みの水出しのブラックではない。

 その辺りを少しばかり突いて、暁を慌てさせて見ようか、という悪戯心が提督の胸に芽生えた。少しばかり足を速めて自動販売機へと歩み寄り、そっと正面に回った。

 

 そこに、誰も居ない。

 

 少女二人分の温度や香りは確かにその場に残っていたが、二人の姿はなかった。

 提督は小さく首を横に振ると、外套から財布を取り出し、冷たくなった指先で小銭を不器用に掴んで自動販売機のコイン投入口に入れた。

 提督はどのボタンを押すかで少しまごついた。彼好みのブラックが無いのだ。あっても微糖までである。

 

 人体としてのエネルギー源である糖分を摂取する事を考えれば、確かにラインナップはそれでも良いだろう。が、コーヒーや紅茶といった嗜好品は、もっと幅を広げるべきだ、と提督はため息をつき、選んだ微糖のコーヒーを取り出し口から取り出して、外套のポケットに入れた。暫くの間は、これがカイロ代わりであるからだ。

 今度大淀にラインナップの見直しを相談しよう、と一つ頷き、提督は自動販売機に背を向けて、また散歩を始めた。

 

 歩く歩く、ただ歩く。

 提督は一人、ただ歩く。

 

 鎮守府と同じ様に、赤レンガ造りの倉庫群を提督が眺めていると、どこかから音が響き始めた。それなりに入り組んだ場所であるから、音一つにしても反響が激しく、それがどこから響くものであるのか提督にはさっぱりであった。

 が、次に耳に届いたものは、提督にとってさっぱりではなかった。

 

「長良さん……! 遅れていますよ!」

 

「この……! 負けないよ! 負けないんだから!」

 

 倉庫群の中で響き渡る軽快な足音と、その主達の吐息と声だ。

 神通、長良である。

 

「司令官の為にも……! 今回の勝負は貰うよ!」

 

「負けません……! 提督……私に力を!」

 

 ただの長距離の走りこみ一つにしても、身体能力が伯仲した両者の間には何か余人にとって理解し難い勝負的な何かがあるようで、司令官の為と叫ぶ長良も、祈るように提督と口にした神通も、恐ろしいほどに真剣であった。

 無論、提督からは二人の顔色など全く見えない。彼が知る情報は倉庫の隙間で跳ね返り続けている彼女達の声と足音だけだ。

 それでもやはり、それはきっと真剣なのだと提督には思えた。

 

 外套のポケットの中で、少々温くなった缶コーヒーを弄ってから提督は頭をかいた。

 その間にも、足音は遠ざかっていく。音が不規則に響き渡る様な場所でも、去っていく音は徐々に小さくなっていくものだ。

 そして、風だけが提督の耳を撫でるようになった。

 温くなった缶コーヒーをポケットから取り出し、プルトップを開けようかと考えた提督は、しかし思いなおした。

 まだ少しばかり、その温もりが必要だと思ったからだ。

 

 なんとはなしに見ていた倉庫群から目を離し、踵を返した提督は見慣れた影を幻視した。長く艶やかな黒髪、その髪によって隠された片目、そして独特な制服をまとった少女の姿だ。

 提督は暫し立ち止まり、目を瞬かせてその姿があっただろう場所を凝視した。

 だが、そこに人の姿などない。故の幻視だ。

 提督は小さく首を横に振って、ポケットから缶コーヒーを取り出してプルトップを開け――飲み干した。

 

 僅かばかりの温もりも、消えた。それでも、それでも。

 歩く歩く、ただ歩く。

 提督は一人、ただ歩く。

 

 どこをどう歩いたのか、提督にも判然としない物であるが、面白いものでその足は正確に鎮守府の中心部、提督の私室兼仕事部屋がある司令棟の廊下の上にあった。

 最近、どうにか提督にとって見慣れた鎮守府、となった場所であるが雪に彩られた鎮守府は常とは違った物で、散歩も寒さをのぞけば提督にとってはなかなかに乙な物であった。

 それは今歩く廊下も同じであるようで、白がのぞく窓の景色は、廊下に飾られた絵画のようで提督はそれを一つ一つ眺めながら、ゆっくりゆっくりと歩いていた。

 

 が、そこで一つ絵画が抜けた。

 いや、空気の交換の為に窓が開けられていただけであるが、提督には絵画が一つ抜けたように見えたのである。閉じようか、閉じまいか、と足を止めて考える提督の耳に、窓の向こうから声が届いた。

 

「明石さーん、司令官は普段酒保でどんな物を買うんですカー? 青葉気になっちゃいます」

 

「もう……お客様の事だから教えませんよ」

 

 青葉と明石の声だ。

 窓の下を、歩きながら会話を交わしているのだろう。なんとなく、二人がどんな相で言葉を交し合っているのか想像できた提督は、足を動かして窓へと近づいていった。

 

「じゃあじゃあ、青葉が知ってる司令官の特別な情報と交換でどうでしょう……?」

 

「――……お、おおおおお客様の事だから、お、おしえま……せん……けど……でも……」

 

 顧客の情報管理は基本だろう、等と胸中で明石に突っ込みつつも、提督は開いていた窓へと辿りつき明石と青葉が居るであろう窓の下に目を向けた。

 そこにあるのは雪に塗られた白い舗道だ。提督がため息をついて目を動かすと、二人の声は曲がり角の向こうから聞こえてきた。どうにも、提督が顔を出したのは二人が通り過ぎた後であったらしい。

 

 窓を閉めて、提督は軽く首の後ろを叩いた。

 今日は誰にも出会わないからだ。

 常であれば提督が歩けば必ず誰かに出会う。出会えば言葉を交わし、時にはスキンシップもとられる。そのまま一緒に散歩することも在れば、一緒に遊ぶ事もある。

 というのに、今日に関してはここまで誰とも出会っていない。なまじ声をきいてしまった分、何か言葉に出来ない寂しさが提督の胸にはあった。

 

 ふと、提督は顔を上げた。

 寝ている間に良く鼻にする、なんとも安心できる香りを感じたからだ。

 周囲を見回し、提督はやはり誰の気配もない事に苦笑を零して肩を落した。寂しさは紛れない。

 

 それでも、足は動く。

 ただただ動く。その提督の小さな領域、執務室へと。

 

 提督が去って暫しの後。

 廊下の角から、提督の背をじっと見つめる大井の姿があった。

 

 歩く歩く、ただ歩く。

 提督は一人、ただ歩く。

 

 そして気付けば、提督は自室の扉の前に立っていた。

 ドアノブをじっと、彼の艦娘達が見れば蒼白になるだろう、きつい目つきで凝視して、だ。

 提督にとって、この扉とドアノブこそが、すべての隔たりであった。大きな溝であり、深い境界線である。

 たったこの板一枚、金属部品一つによって提督は狭い世界の中で暫しの間息をしていたのだ。

 その癖。

 

 ドアノブに手を伸ばし。その冷たい感触に目を細めて提督はゆっくりとドアノブを回した。

 

 簡単に。どうしようもないほど、簡単に開くのだ。何かしらの理由があっての事だろうが、提督にとっては忌々しい扉で在る。それでも提督にとって日常の風景の一部であるのがまた、提督には忌々しいのだ。

 そんな顔で部屋に入ったからだろう。

 

「提督、お帰りなさ――ひっ」

 

 執務室を掃除していた山城が、小さな悲鳴を上げた。手に在ったはたきを落して、自身の体を抱きしめ、目には涙が溜まっていた。本気で怯えてるのだ。

 提督はそんな山城を見て、何故山城が部屋に居るのかよりも、自身が山城にそんな顔をさせたのだと察し、自身の頬を数度強く叩いて常の相に戻した。

 そして、まだどこか怯えた様子で提督を見る山城へと歩み寄り、声をかけた。

 

「ごめん、山城さん。ちょっと良くない事を考えていて……怖がらせて申し訳ない」

 

「い……いえ、いいの……だ、大丈夫……」

 

 大丈夫、と声にする山城であるが、その相は到底提督からすれば信じられる物ではない。声は震え、涙はもう頬を伝ってとめどなく流れてしまっている。

 さて、こういう時はどうする物であったか、と提督が考えるより先に、彼の体は動いてしまっていた。ここ最近になって彼の身に自然とついてしまった、第一旗艦が怯えだした時に宥める為に行っていた動作である。

 

 抱きしめて、背を叩く。

 それだけだ。

 

 大丈夫だとも言わない。安心しろとも言わない。

 提督のそれは、ただそれだけだ。それだけであった筈なのに。

 提督は山城の髪の香りを感じながら、執務室の窓から見える白い風景を見て呟いた。

 

「山城さん……今日は月が綺麗だろうね」

 

 世間話だ。冷たい夜の月は、玲瓏たる姿で浮かぶだろう、と呟いただけである。迂闊である。迂闊すぎるとしか言い様が無い。

 提督に抱かれて背を叩かれていた山城は、おずおずと提督の背に手を回し、やがて離すまいと提督をかき抱いた。

 相は見えない。姿さえも、提督と抱き合って半分ほどしか見えない。それでも、その姿は誰が見ても乙女であった。

 

 山城が、小さく何かを呟いた。か細く、消え入るような声だ。

 すぐ傍に、本当にすぐ傍に居る提督にさえ判然としない声であるから、提督は小さく首をかしげて山城に問おうとした。

 が、それは出来なかった。

 

「提督、そろそろクリスマス会場に」

 

「お、大淀さん……! 今は駄目です――!」

 

 大淀と初霜が、扉の開いたままだった執務室に入ってきたからだ。

 その瞬間、山城は提督から腕を解いて俯き、その顔を両手で覆った。ただし、提督から一切離れていない。提督に寄り添い、離れまいとしているのである。

 対して提督は、第一旗艦と抱き合っていた姿を見られたためか、僅かに頬を朱に染めて気まずそうな相で咳払いをしていた。

 

 大淀としてはそれだけで事情は理解できる。出来るがしかし、それを納得するかはまた別である。大淀は今自身の隣に立っている初霜に目を移した。

 大淀の瞳に映る初霜は、珍しく慌てふためいていた。当然だ。

 自身の提督と第一旗艦の愛在る抱擁――と初霜には見えていた――に見入り、護衛役の本来の仕事を忘れていたのであるから慌てもする。

 

 大淀は小さく咳を払い、背を伸ばして提督に目を向けた。

 

「提督、クリスマス会場の下見の時間です。宜しいでしょうか?」

 

「あぁうん、そういやそんな予定だったね……」

 

 散歩の前には覚えていたが、帰ってきた時にはそんな予定は提督の頭の中からさっぱりと消えていた。当然である。提督にとって特に縁がないイベントだからだ。

 実家に居た時などは提督もクリスマスを楽しみにしていた。ケーキも出れば御馳走も出る。プレゼントだって貰えたのだ。

 だが、成人し実家を出て一人暮らしを始めるとクリスマスもただの寒い冬の一日である。

 外に出歩けば筆舌に尽くし難い苦痛に苛まれ、部屋で篭れば自身の境遇に涙が出そうになる、そんな寒いただの一日だ。

 

 それでも、彼女達と出会ってからはまだマシであった。ゲームの中、ディスプレイの遮られた世界であるが、提督にとっては有意義な時間であった。

 そして今年は、何の因果か生身で彼女達と過ごすのである。

 提督としても思う事は少なくない。少なくは無いのだが……

 

「やっぱりクリスマス中止は無し?」

 

 毎年恒例、サンタがどうこうされているコラや画像を脳裏に浮かべながら提督は口にした。

 とんと縁がないイベントであるから、提督にとってはすごし方が分からないのだ。一人であればなんとでも時間を潰せるのだが、家族友人以外の誰かと、となると提督には全く経験が無い。

 

「ほら、ああいうのはリア充のイベントであって僕には縁遠い物であるからして、今からでも鎮守府中にサンタがどうこうなった画像とかを張りまくる」

 

 もう提案ではなく断言であった。このまま放っておくと、提督は本気でやらかしただろう。

 それを見る大淀と初霜の目は、呆れの色を強く宿していた。それもその筈だ。

 提督はクリスマスがリアルが充実した者達のイベントであると口にしたのである。であれば、提督は参加資格を充分満たしている。

 

 大淀と初霜は、顔を合わせて頷いた。

 

「行きますよ提督」

 

「動かないなら、また檻に入れて台車で運びますからね」

 

 大淀と初霜が、それぞれ提督の手を引いて執務室から連れ出そうとする。

 山城は提督との距離を維持したまま、未だ顔を手で覆ったまま器用に提督についていく。

 提督はされるがままだ。第一旗艦に、秘書艦に、もっとも古い付き合いの任務娘が相手だ。提督にできることは、大人しくついていくだけである。

 

 であるから。

 提督は誰も居なくなった扉が開けられたままの執務室に振り返って――肩をすくめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうでもいい話であるが。

 いや。

 どうでも良くは無い話だが。

 

 クリスマス当日。由良達のダンスが終わり、皆が興奮したその会場で、山城、大淀、初霜の連名で山城と提督の正式な結婚が発表された。

 

 一番驚いたのは――提督である。




「私、死んでもいいわ 」

 小さな小さなその声は、多分誰にも届きはしないけれど――それでも、山城は想いを告げたのだ。

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