執務室の新人提督   作:カツカレーカツカレーライス抜き

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旗艦の理由

 常の通りの朝であった。壁に備え付けられた時計の針はいつもの数字を指しており、カーテンから漏れる光も、冬の朝特有の冷たい空気も普段通りだ。

 であるから、彼――提督は常の通り確固たる意思を持って暖かな掛け布団と毛布を払おうとして間抜けな声を出した。

 

「……あれ?」

 

 いつも通りの朝であった。常の執務室であった。

 ただ、提督の声だけは、自身が聞いても枯れた物であった。

 

 

 

 

 

「風邪ですね……」

 

「そ、そんな……」

 

 提督の口元から離された体温計を確かめながら告げたのは、この鎮守府の参謀にして事実上の提督、大淀であった。告げられて口元を覆うのは提督の秘書艦、初霜である。

 そんな二人に寝かしつけられている提督はと言えば、赤い顔で少々荒い息遣いでこそあるが、気配そのものは普段のものであった。

 むしろそんな提督を見つめる大淀と初霜の方が余裕がない様子だ。

 

「て、提督……? 今日はお休みにするとして、何か必要な物はありませんか?」

 

「どこか痛くありませんか? 痒いところとかありませんか? 姫級200くらい刈って生贄にしておきますか?」

 

 いったいぜんたい、深海棲艦を200も狩ってなんの生贄にするつもりであるのか提督にはさっぱりであったが、それを問い質すだけの元気も勇気も余裕も彼にはない。世の中には彼程度の若造が触れてはいけない物などごまんとあるのだ。

 故に彼は、初霜の手によって額に添えられた濡れタオルを指差し出来うる限り常の調子で口を動かした。

 

「初霜さん、タオルをまた冷やして貰えるかな?」

 

「は、はい!」

 

 提督の調子は常のままであるが、それでも声は常のままではない。枯れた声音は割れた硝子をこすり合わせたかのようで、それがまた初霜と大淀に余裕を失わせる。そして同時に、彼女達にこうも思わせるのだ。

 

 ――このままでは駄目だ。

 

 自身達がここに居るという、それ自体が、と言う意味でだ。

 彼女達の提督は少しばかり個性的な性格でこそあるが、人格は破綻していない。破綻していないどころか、人間性だけで言えば極めて善良だ。故に、提督は傍に艦娘が居る限り自身の病状を省みず気を使うだろう。

 それが大淀や、初霜といった比較的近しい艦娘であっても、だ。

 

 例え余裕がなくとも二人にもその程度は理解できる。理解できるからこそ、初霜は提督のタオルを冷やした後またそれをそっと額に戻し、大淀と目を合わせた後、共に提督へ深々と一礼して室内から退室した。

 

 執務室の扉から離れ、その扉の向こうに居る提督を幻視しつつ、二人は言葉を交わす。

 

「最初に発見した時から、様子はどうですか?」

 

「……最初はまだ顔色も良かったのですけれど」

 

 第一発見者、秘書艦初霜は大淀の質問に肩を落として応じる。提督の体調不良が進行したのは、彼自身が自覚した事で体力面が目に見えて落ちた事が原因で、初霜には一切落ち度は無い。それでも常から提督の一番近くにいる初霜であるから、今日までの日常の中で見落としがあったのではないかと思いもするのだ。

 それこそ、あと一つ何事かあればその大きな瞳から涙を零してしまいそうな秘書艦の姿に、大淀は小さな同僚の肩へと優しく手を置いた。

 

「今は、提督の介抱です。貴女がそんな調子では、提督がまた気を使ってしまいますよ?」

 

 大淀の言葉に、初霜は顔を上げて頷いた。その通りだと思ったからだ。

 

「……では、私たちの仕事をしましょう」

 

 そう言った大淀はこの鎮守府の参謀で、それに頷き返す初霜はあの提督の秘書艦だ。だからこそ現状必要な作戦と人材を彼女達は用意しなければならない。

 

「提督が気を使わない――或いはそれに最も近い艦娘に現状を報告して……」

 

「手伝ってもらいましょう」

 

 皆に知らせようとは二人ともしなかった。当然である。体力の落ちた提督の下に、100人以上の艦娘が押しかければどうなるか等口にするまでもない。勿論、皆が皆そういった行動をとる訳でもないだろうが、士気が下がってしまうのは明白だ。金剛などは悲壮な相でお百度参りを始めるだろうし、夕立辺りは憤怒の形相で願掛けをして姫級100匹程刈り出すだろうし、山城ならば無表情で姫級200匹程儀式の生贄にしてしまう事だろう。なんの儀式であるかは分からないが。

 

 兎にも角にもそんな事になるのは誰から見ても明白なのだ。個性豊かな鎮守府で、色彩艶やかなる艦娘達であるから、その混乱の度合いも実に深刻である。

 

 大淀でさえ、許されるなら執務室の扉の前で一日待機したい程なのだ。それほどに、彼女達にとってあの少々可笑しな提督は大きな存在なのだ。

 であるから、彼の身体を冒す病魔の速やかなる駆除を彼女達は行わなければ成らない。その為に必要な作戦はまだ判然としないでも、提督の傍に置けるだろう人材の確保は早急に行うべきなのだ。

 

「初霜さん、心当たりは?」

 

 大淀は鎮守府の運営となれば人後に落ちない艦娘であるが、こういった際の細やかな判断は初霜には敵わない。いや、こういった事で在れば常に提督の傍に居る初霜以上の適任はいない。彼女は提督の初期からの秘書艦なのだ。

 初霜は少しばかり顔を俯かせ、瞼を閉じ落ち着いて、それでいて迅速に脳内で検索をかけた。朝、昼、晩。すべての提督の言動、表情、それらと接する艦娘達を思い出し、やがてゆっくりと顔を上げて目を開いた。

 そして、告げた。

 

「大淀さんは山城さんと内密におかゆやスポーツドリンク等の準備をお願いします」

 

「……なるほど、そうですね。では初霜さんは?」

 

「私は、他の三人を特別作戦という名目で集めてきます」

 

 現状においてすべき事は決まった。二人は頷き、そしてすぐ動いた。

 同時に、まったく同時に執務室の扉を見て、速やかに。

 

 

 

 

 

 頭が熱く、体は寒い。毛布と布団が邪魔に思えて、それでもこれが無ければ体調は更に崩れる。朦朧とする意識の中でも、そんなところだけは冷静なのか、と提督は頭を動かそうとしてそれをやめた。いや、止めたというよりも出来なかった、と言うべきか。

 少しでも頭を動かすとそれだけで首や頭に痛みが走るのだ。彼にとっては久方ぶりの風邪で、あぁ風邪とはこういった物だった、と溜息をつかせた。

 その溜息のせいだろう。少しばかり動いた為か、額にあった”冷たい”濡れタオルが僅かにずれた。それを直す事にも億劫な彼は、それでもそろそろ瞼を覆おうかというタオルに流石に手を動かそうとして――

 

「あれ……?」

 

 動きを止めた。

 瞼を覆う一歩前で、その何故か冷たいタオルが額に戻ったのだ。さて、それは何故なのだ、と提督はゆっくりと目を開けた。

 

「あら? ごめんなさい提督。起こしてしまったかしら?」

 

 少し小さな声で、申し訳なそうな相と声音で提督の艦娘、足柄がいた。提督は何か言おうとしたが、足柄は自身の口元に人指し指を立ててそれを遮る。

 作戦行動外となれば赤いジャージ姿で過ごす足柄の、珍しいスーツ姿に提督は目を細めた。

 

「仕方ないじゃない。だって特別作戦って呼ばれたんだもの。いつもの格好じゃ駄目でしょ?」

 

 足柄は濡れたタオルで提督の目下を優しく拭いながら小さな声で応じる。山城ほどではないとしても、彼女もまた提督の思考をなんとなく見て取る艦娘であった。

 恥ずかしさを覚えながらも、提督は足柄のされるがままだ。足柄の態度は病人相手にしても甘すぎる物だが、それでも確りと線引きされた態度であるからだ。

 

 足柄の姿は献身的で、そこに下心は無い。普段残念な言動で知られる重巡洋艦娘であるが、彼女は決して愚かではない。

 何より提督の心を一番解きほぐしているのは、傍にあって提督の顔を拭う足柄の匂いであった。

 風邪で鼻が馬鹿になろうと、顔を拭うほど傍に来れば僅かでも鼻腔をくすぐるものだ。それは提督にとって好ましいものであったのだ。

 と、その好ましい香りが更に強くなった。

 

「あ、司令。おかゆとスポーツドリンクありますけど、どうされますか?」

 

 そっと音も無く、足柄の横から現われたのは比叡だ。常の活発な気配はそこになく、足柄同様静かで仄かに在る。問いかける声さえ幽かで、普段にはない妙な色気がそこにあった。

 提督はその色気に気付かぬ振りをして、比叡が口にした内容を反芻し目を瞬かせた。スポーツドリンクというのは彼にも分かるのだが、どうにももう一つが引っ掛かったのだ。

 その提督に疑問に応えたのは、当の比叡ではなく別の艦娘であった。

 

「大丈夫大丈夫、比叡が作ったおかゆじゃないよー?」

 

 比叡や足柄達とは反対側から顔を出した那珂である。こちらも比叡と同じく、普段の様子は鳴りを潜め、まるで姉の神通の様な穏やかさで佇んでいる。流石に口調はいつもの那珂そのものだが、そうであってこその彼女であるからそこは仕方ないところなのだろう。

 

 提督はなるほどと胸中で呟き、那珂の手にあるおかゆと、比叡の手にあるスポーツドリンクを交互に見やり、己の欲求はどちらかと暫し考えた後比叡を見た。

 提督の傍に居る三人にはそれだけで分かるようで、那珂は提督にかけられたタオルをとって掛け布団と毛布をそっと払い、足柄が提督の背に手を回し上半身を起こす手助けをする。

 比叡は提督用のコップにスポーツドリンクを注ぎ、それを静々と提督の口元に運んだ。

 

 鎮守府の主、更には病人相手にしても至れり尽くせりの足柄達に、提督は世の富豪達はなるほど欲深であると苦笑を零した。

 これほどに愛されるというハーレムの中にあって尚富豪を続けられるというなら、それは欲がどこまでも深くなければ無理だと思ったのだ。満足しない事が何よりの秘訣なのだろうが、提督如きではこの時点でもう大満足で、むしろ怖いくらいである。ただの元会社員、一般人の感性ではこの辺りが限界という事だろう。

 後、その限界をとことん拡張されるという過酷な運命が提督を待っている訳だが、それはまた別の話と言う奴である。

 

 提督が喉を潤すと、丁度良いといったところで比叡が口元からコップを離した。提督は意識もせず口を開いて礼を言おうとしたが、比叡も足柄と同じ様に自身の口元に人差し指を立てて微笑んだ。

 だから提督は、また目を細めて頷いた。

 

 そっと再び上半身を敷布団に戻され、那珂に布団と毛布をかけられる。足柄は冷やしたタオルを提督の額に優しく当て、そして比叡は穏やかに呟いた。

 

「今はゆっくり休んでください、司令」

 

 提督はゆっくりと頷いて、瞼を閉じた。

 足柄も、那珂も、比叡も。優しい香りであったから逆らえなかった。

 

 

 

 

 

 次に提督の目が覚めると、そこは仄かに暗い部屋であった。カーテンに遮られた窓からは月明かりが漏れ、今の大まかな時間を提督に知らせる。

 再び目を閉じようとした提督は、しかしそれが出来なかった。

 

 くぅ。

 

 と男にしては愛らしい腹の虫の鳴き声が為だ。

 風邪であっても、スポーツドリンクしか口にしていないとあっては空腹にもなる。まして窓から見える月を思えば、ほぼ一日食べていないのだ。腹が鳴るのも当然である。

 流石に一日眠れば少しは調子も戻るようで、幾分ましになった身体を動かして提督は布団と毛布を払い上半身を起こした。が、それは一人だけで行った行為ではない。

 まだ明るかった頃に足柄が提督を助けたように、今もまた誰かが提督を助けたのだ。

 ではそれが誰かであると言えば、

 

「……提督、おかゆですか?」

 

 仄暗い室内でひっそりと提督に寄り添う山城である。

 幽かな暗闇の世界に同化した様なその姿は幽鬼にも似て、見る角度を一つ変えれば全身が粟立つ景色にも見えただろう。しかし、この提督に限って言えばそれは日常の一風景だ。

 ましてそれが、足柄や那珂、比叡以上に言葉を必要としない山城であるから、驚くに値しない。

 

「いたの? ……ですか? なんか酷くないですか、それ」

 

 提督の視線から言いたい事を完璧に察した山城に、提督は首を横に振って小さく笑った。喉が本調子ではないから、それは本当に小さな笑みであったが。

 山城はそんな提督から少し離れ、またすぐ傍に戻ってくる。手には湯気が上るおかゆが入った小さな土鍋があった。

 提督は目を瞬かせ、山城を見た。山城は提督の視線に気付きながらも、おかゆをレンゲですくって、ふーふー、とそれを冷ます。

 そしてある程度冷ますと、レンゲを提督の口元に運んだ。

 提督は、本当にハーレムの王は偉大なのだなぁ、等と思いながらそれに口をつけ、山城の言葉に耳を傾けていた。

 

「なんとなく。なんとなくですけど。……そろそろ起きるんじゃないかなって思っただけです。えぇ、比叡達と仲良くお喋りしていた誰かさんは、私の事なんて気付きもせずにまた眠ったから、夜にはお腹が空くんじゃないかなって、なんとなく準備していただけですけれど」

 

 声音こそ恨みつらみの篭った物であるが、提督に甲斐甲斐しくおかゆを運ぶ姿は尽くす女その物だ。そうやって、提督は山城の言葉を耳にしながら食事を続けた。

 二人だけの暗い執務室であるから、風邪以外の理由で赤い顔も、朱に染まった頬と耳も気にせず、二人は傍にあってただただ過ごした。

 

 空になった土鍋を置き、山城が提督の背に手を回す。そっと提督は布団に戻され、布団と毛布をかけられた。幾分ましになったとは言え提督はまだ風邪だ。本調子には程遠い。特効薬も無い風邪であるから、彼が出来ることは眠って体力を養う事だけだ。

 それ以外に出来る事など、僅かである。その僅かの為、提督は山城に目を向けた。慈しみを過分に含んだ瞳で提督を見下ろしていた山城の瞳とぶつかるのは、当然の結果であった。

 

「……お礼とか良いですから、早くいつもの提督に戻ってください」

 

 山城の冷たい手のひらが、提督の瞼を覆った。だから山城は知らない。目を合わせれば何でも分かる彼女も、知らない。遮ってしまったのだから。

 

 ――優しい匂いがする。

 

 提督は、石鹸の匂いが好きだ。たったそれだけの事であるが、それは提督以外誰も知らない事である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 後、提督が風邪で寝込んでいた事が発覚すると、初霜や大淀の予想通り鎮守府は大いに荒れた。金剛は提督の無病息災を願って四国八十八箇所巡礼に行こうとして妙高にギロチンチョップで止められ、夕立は提督の無事故無違反を願って姫級200匹程刈ろうとしたところで霧島に先を越され、山城は密かに提督と添い寝した事を思い出しながら時たま思い出し笑いをして気味悪がられていた。

 

 おかしな鎮守府の、案外日常通りの、そんな風景である。


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