忠義の士 完全版   作:康頼

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第一話

 烈士 豈に甘んじて二主に従えんや 張君が忠勇

 死してなお生けるが如し 高明なること

 正に天辺の月の如く 夜々

 光を流してラク城を照らす

 

 益州蜀郡、金雁橋の傍に立てられた墓にそう記された英傑がいた。

 

 張任。

 

 益州の牧であった劉璋に仕えた忠義の士である。

 時代の流れに呑みこまれた彼の生涯をここに記す。

 

 

 

 

 ・ ・ ・ ・ ・

 

 

 

 

 私の家は貧しかった。

 華やかな都から遠く離れた寒村に生まれ、父と母と三人で細々と命を繋ぐような暮らしだったが、それでも私は幸せだと感じていた。

 狩りの名手とされた父のおかげで私達家族だけではなく、村の人々も飢えを凌ぐことができ、私は父のその姿を誇り、その父を支える優しい母を敬った。

 私も何れ、父や母のような立派な人間になろう。 幼い私は、そう言って小さな誓いを立てた。

 しかし、その生活は突如として終わりを告げることとなる。

 衰退の一途を辿っていた漢王朝を討つべしと、黄巾という者達が大陸全土に現れた。

 大義を抱き、立ち上がったとされた黄巾は、その身を賊へと変えた。

 飢えを凌ぐために立ち上がった黄巾賊は、同じ民達から食料を奪い、そして死と憎しみを広げた。

 そして、それは私が住む益州も例外ではなく、飢饉と暴力の波が訪れていた。

 黄巾賊に追われてきた荊州の人々が村の周辺に寝床を求めて集まってきたのである。

 彼らも必死に生きようとした結果なのだろう、だが私の村だけでギリギリ食いつないでいた状況で、彼らに与えられるものはなかった。

 飢えは憎悪を生み出し、殺意を向けさせる。

 反感を持った荊州の住民と私の村は真っ二つに分かれ、激しい抗争の末、死者を出した。

 人の死は、さらなる死を呼び込み、そして招かざる客を呼び込んだ。

 荊州から更なる略奪を行うために、荊州から逃れるように賊達が現れたのである。

 互いに消耗した状況ではその脅威に打つ手はなく、私の村の人々も、荊州から移り住んだ人々も、満遍なく賊達の餌食となった。

 隣近所で悲鳴が上がり、血と腐った肉の匂いが、辺りに異臭を放ち始める。

 呻き声と啜り声が辺りに響き渡るこの村の惨状は、まさに地獄と言うべきだろう。

 その地獄が私の家でも例外はなく、勇敢で狩りの名手だった父は賊達に命を奪われ、優しかった母も私を庇い、凶刃の前に倒れた。

 父や母の死を前にして、いずれ、私も死ぬのだろうと子供ながらに死を悟った。

 生きる意志すら失った、生きる術を持たない私が、母を天へと見送ったその日の夜。

 突然、村中に足音が響き渡った。

 ———夜盗だろうか? もし、そうだったなら私もようやく先に旅立った家族の元へ行くことができるだろう。

 生を諦め、ただその時を持つ私の耳に、段々と近づいてくる足音が響いた。

 できれば、苦しむことなく、一息にあの世へと送ってほしいものだ———そう願った私の思いは———覆ることとなる。

 

 「童、まだ死んでおらんようじゃな」

 

 突然、話しかけられた女性の声に、私は閉じていた瞼を開いた。

 その時の光景を、私は一生涯忘れることができないだろう。

 そこには、この世のものとは思えないほどの天女がいた。

 空のような青い髪を束ね、快活そうに笑う天女は、痩せこけて骨と皮の醜い姿の私に手を差し伸ばしたのである。

 気付いた時には、私はその手を握りしめ、大粒の涙を流していた。

 思えば、様々な感情が込み上げてきたのだろう。

 助かったことの安堵感、父や母のような暖かさ———そして、家族の元へ行けなくなったことに対する裏切り。

 だが、それでも私は生きることにした。

 最後に母が言った『生きろ』という言葉、そして今この場で私に手を差し伸べてくれた———劉焉様の理想を聞かされたからである。

 ———餓えることのない大地を作り上げたい。

 まだ、十にも満たない何も知らない私に対し、劉焉様は熱心に語ってくれた。

 餓えることのない世界———もしも、そんな世の中になるのなら、私のような苦しみを覚える人間はいなくなるのではないか?

 そんな壮大で純粋な願いに、私は心を打たれ、劉焉様に頭を下げて願ったのだ。

 

 

 そんな出会いから、日々は流れるように過ぎていった。

 貧しい生活から十分な食事にありつける生活へと変わったおかげなのか、私の身体は筍のように伸びていき、身長も力も段々とついていくことが実感できた。

 頑強な身体に生んでくれた亡き両親に感謝を覚えながら、私は武芸に励むことにした。

 それは亡き父の姿に影響されたこともあるが、劉焉様の役に立ちたいという気持ちが強く、幸いにも厳顔殿という英傑が近くにいたため、私は最高の環境で武芸に励むことができた。

 だが、武のみでは劉焉様の大望を追うことができない。

 日々努力を重ねる劉焉様を見てそう思った私は、屋敷の蔵に眠っていた書物を読み込み、片っ端から知識を取り入れることにした。

 六韜や三略といった写しの兵書を厳顔殿から貸していただき、礼記や老子などの経書も厳顔殿と劉焉様の親友である黄忠殿に教えを願った。

 生兵法にしてはならぬと、厳顔殿に無理やり戦場に連れていかれ、後で黄忠殿に怒られたのはいい思い出である。

 

 本当に幸せだったのだ……その時が来るまで。

 私が十四の時。

 季節は山々に白い雪が積もる頃であった。

 突然、劉焉様が屋敷で倒れられたのである。

 血を吐き、気を失った劉焉様を寝所で見つけた時、私の顔は血の気を失っていただろう。

 そして、本当に驚くべきことはその夜、医師に告げられたことであった。

 ———もう、長くないかもしれない。

 その言葉に、私の足元に積み上げてきたモノが崩れ去った気がした。

 それだけではない。

 前を照らす光も私を後ろから支える手も全て消失したのである。

 だんだんと顔色が悪く、やせ細る劉焉様を見るのは辛かった。

 粥すら自分の手で食べられなくなった劉焉様の口元にレンゲを運んだ時は、思わず涙が出そうになった。

 

 「ふふふ、これではあの時と逆になってしもうたの……童」

 

 そう言って笑う劉焉様の笑みに力はなく、逝ってしまった母の最期の笑みに似ていた。

 その時、私は劉焉様は本当に死ぬのだと理解した。

 いや、理解してしまった。

 

 「泣くな……男がそう涙を見せるものではないわ……」

 

 いつの間にか頬を流れた私の涙の痕を拭うようにして、劉焉様は言った。

 

 「娘を頼む」と。

 

 こうして劉焉様は、私の初陣を見ることなくこの世を去った。

 その後、時代は流れ、涼州の雄の一人である董卓による専横により乱世へと突入する。

 

 この暴挙に、諸侯達は乱世への名乗りを上げるために連合軍を結成した。

 この際、益州の太守であり、劉焉様の娘である劉璋様にも檄文は送られていた。

 高沛や楊懐といった血気盛んな武将達は、この動乱に乗じて中華へ参戦すべしと息巻いていたが、劉璋様はまだ幼く、益州の統治は不安定だった。

 

 「功に目を眩むのは馬鹿の所業じゃ」

 

 重鎮である厳顔殿の重みのある言葉により結論が決まり、益州軍はこの度の遠征を見送った。

 その後、連合軍が董卓軍を打ち破り、群雄割拠の時代が訪れたのである。

 その中で数ある群雄から台頭してきたのは、大宦官・曹騰の孫である曹操であった。

 幼き頃から類まれない才覚を発揮していた曹操は、まだ若年と言えるその歳で、自ら戦場の陣頭に立ち、兵を指揮するその姿は、まさに英雄の名に相応しいものだろう。

 北の雄とされる公孫賛を破った華北の英傑、袁紹を破ったことにより、中華の半分を支配することになった曹操に次いで軍勢を膨らませたのは、英雄孫武の血を引くと言われる孫策であった。

 江東の虎の異名を持つ孫堅に匹敵する武才で、敵陣を切り裂く姿は、古の英雄――項羽のようで、対する将を震えあがらせる言われていた。

 

 一方、中華の情勢が変わる中、益州での私の日々は特に大きな変化はなかった。

 南蛮の異民族を相手取り、ただ劉璋様に尽くす日々。

 それが私が劉焉様に頼まれた役割だと思っていた。

 だが、私はそのことを考える余り、大切なことを見落としていたのだ。

 私と厳顔殿が、各地を転々と戦っているその隙をついて、幼き劉璋様に近づく者達の存在に気づくことができなかった。

 劉焉様に拾われ息子同然に育てられた私や劉焉様の好敵手であり長年の親友であった厳顔殿は、どうやら彼らから疎まれていたらしく、私は厳顔殿と一緒に、益州の僻地に飛ばされ、ただ益州を狙う外敵と刃を交え続けた。

 ただ目の前の敵を倒すだけ。

 その時の私には、それ以外を考えることができず、成都に戻ることができるのは数年に一度というくらいになってしまった。

 それがいけなかったのかもしれない。

 私のことを兄のように慕ってくれた劉璋様は、いつのまにか私を憎むようになっていた。

 恐らく悟ってしまったのかもしれない。

 私が無意識のうちに劉璋様を劉焉様に重ねてしまっていたことに。

 私がその過ちにようやく気がついた時には既に遅かった。

 益州の入り口となる永安に拠点に就いた厳顔殿とすら離されることになった私は、成都より遥か南方の地の平定を命じられた。 

 私はその命に逆らうことができず、ただ異民の地に乗り込んだ。

 そこでの日々は地獄だった。

 慣れない環境に吐き気を覚え、凶暴な異民族と戦う日々。

 多くの仲間が死に、それ以上に多くの人を傷つけた。

 常にそこでは人の命が尽き、誰かとの別れが待っていた。

 いつしか私は、劉焉様との思い出すら思い出せなくなってしまっていた。

 

 そんな日々が二年程経った頃――突然、私は成都へと呼び戻されることになる。

 副将に軍を任せ、単騎で成都へ戻った私を待っていたのは、見慣れた臣下達の姿はなく、震え怯える劉璋様の姿のみであった。

 劉備軍の襲来。

 彼女達は、曹操と孫策に対抗すべく、この蜀の地を奪いに来たのだった。

 法正殿に呉懿という重臣達まで劉備軍につき、高沛に楊懐などといった多くの武将達は戦場でその命を散っていた。

 何より、私が耳を疑ったのは、あの厳顔殿も劉備の元へ降ったという事実であった。

 この危機的状況に、私は自分自身の馬鹿さ加減に苛立ちと不甲斐なさを覚えたが、目の前にいる劉璋様の怯える姿に我に帰った。

 ———まだ負けたわけではない。

 私は、残された兵を率いて雒城(らくじょう)に籠ったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 ・ ・ ・ ・ ・

 

 

 

 

 

 

 

 「雒城(らくじょう)の守将、張任を生け捕りにしてくれだって?」

 「左様、あやつの才はきっと劉……桃香様の道に援けになるだろう」

 

 天の御遣いと呼ばれる北郷一刀に、降将厳顔――桔梗は頭を下げて頼みこんだ。

 桔梗は張任を幼い頃から知っていた。

 幼馴染で親友であった劉焉に拾われて、息子同然に育てられた張任の聡明さを、桔梗は人知れず期待を抱いていたものである。

 事実、張任は初陣で見事賊軍を殲滅するほどの統率力を持ち、張任自身も賊軍大将の首を挙げるほどの武力すら持ち合わせている。

 勤勉で驕らない性格で、努力を怠らず、献身に益州のために尽くすその姿に、益州の民からも好かれていた。

 何より張任をここで死なせるわけにはいかなかった。

 劉焉の願い、そして張任の願いの為に……

 

 「しかし張任さんは、現在雒城に籠っています。 いくら私達が大軍を率いているとはいえ、あの守勢を打ち砕くのはなかなか困難かと」

 

 天然の城壁に囲まれた益州は、外に出るのは難しく、中に攻め入るのも困難な地である。

 いくら伏龍と呼ばれる天下名高き軍略家である諸葛亮――朱里の智謀ですらそうやすやすと抜けるものではなかった。

 

 「なら挑発してやったらいいのだ。 泗水関で愛紗が華雄をやっつけた時みたいに」

 「そ、それは難しいと思います。 張任さんは思慮の深い方だと噂で聞いていますから、無策で出てくるはずがないかと」

 

 董卓討伐の際に泗水関の守将、華雄を挑発で誘き出し、関羽が斬ったときの挑発作戦を、張飛――鈴々が提案するが、もう一人の軍師鳳統――雛里が苦言を挙げた。

 その意見には、張任と馴染み深い桔梗も納得した。

 

 「じゃろうな。 アヤツは確かに武人の誇りを持っているが、それに囚われることはあるまい。 現に我々が城を抜いてしまえば成都は目前じゃ。 そんな愚行をするはずがない」

 

 張任は冷静に戦場を見ることができる戦略眼も備えているため、不用意な行動を取ることはない。

 個人の誇りと益州の大事を見れば、どう行動するかぐらいは簡単に判断ができる。

 

 「あああ、じれったい!! 桃香様、ワタシに雒城を落とすように命じてください!!」

 

 膠着状態に陥った会議の中、降将の一人である魏延が突然立ち上がった。

 魏延――焔耶は、降った際に桃香の姿や理想に惚れ込んでしまい、旧臣にも負けずとも劣らない忠誠心が芽生えていた。

 そんな彼女に気に入られたい一心で、雒城攻めの将として名乗りを上げたのだが、その行動に上司であり師匠でもある桔梗が異を唱えた。

 

 「この馬鹿者がっ!! お主のような猪突猛進が、無策のままで張任の守る城を落とせるわけないだろうがっ!!」

 

 張任の武才にも勝る焔耶の武を疑うわけではないが、今から行われるのは城攻めである。

 攻勢よりも守勢を得意とする張任に、一直線の焔耶が勝てるはずがなかった。

 何より劉璋軍最高の戦歴を誇る桔梗ですら、張任の城を容易に落とすことはできないと断言できる。

 

 「じゃあ、張任さんにお願いしてみようか」

 

 散歩に行くような劉備――桃香の意見に、一同言葉を失うが、両軍師と桔梗には考えさせられる意見であった。

 

 「降るとは思いませんが、この硬直状態を打破するきっかけが生まれるかもしれません」

 「力攻めは、こちらの被害を生むだけですし」

 「いきなり攻撃を仕掛けることは、あの張任ならしないじゃろう」

 

 こうして、攻城戦初日の意見は決まった。

 

 

 

 

 

 

 ・ ・ ・ ・ ・ 

 

 

 

 

 

 

 最終防衛線である雒城の城壁から見る光景は、まさに絶景といってもいいだろう。

 私たちの目の前には、総勢六万ほどの劉備軍の精鋭たちが陣を組み、戦いの時を今か今かと待っていた。

 対する我々、劉璋軍は二万。

 城攻めは三倍の兵力を要するといえど、明らかにこちらと向こうでは将と兵の練度に違いがあった。

 

 「いやー、仁の旦那に仕えると退屈はしませんなぁ」

 「苦労をかけますね、貴方が南蛮軍と話をつけてくれなければ、益州は滅んでいたでしょう」

 

 ただでさえ、目下の脅威である劉備軍に、背後から南蛮軍に挟まれてしまえば、容易に益州は落とされることになっただろう。

 長年私の片腕として働いてくれる副将に、感謝と詫びの言葉を送ると、彼は強面の顔をくしゃりと笑みで崩した。

 だが、未だ脅威は残っており、南蛮軍が来ぬとも、こちらの判断を一つでも誤れば、成都への進軍を許し、益州の地は奪われてしまうだろう。

 この戦の勝機は薄く、退けることができたとして多くの兵が命を散らすことになるかもしれない。

 それでも私についてきてくれた者、劉璋様に忠義を尽くす者達がいてくれたことは嬉しかった。

 

 「まあ、それも旦那のお陰なんですが……それにしても『張』に『趙』、『劉』に『黄』。 それに『厳』ですか。 益州に籠っていても聞いたことがある化物達じゃないっすか?」

 

 あの曹操軍と渡り合った張飛や趙雲といった豪傑達、それに長沙の黄忠殿も劉備についたようである。

 そんな猛将達を相手にしながら、厳顔殿という益州一の将を相手にしなければならない。

 まさに四面楚歌。

 あの英傑、項羽の気持ちが少しだけわかった気がする。

 勿論、項羽の結末を再現するわけにはいかないのだが。

 

 「お、誰かでてきたようですぜ」

 「どうやら……厳顔殿と」

 

 見慣れた銀髪の美女の隣には、桃色の髪をした少女がいた。

 見たことはないが、遠目でも分かってしまう。

 天から彼女だけに光が当てられたような感覚に、発する空気は何処か甘く、そして眼を放すことのできない存在。

 あれが、三雄の一人とされる劉備なのだろう。

 まるでこの世のすべてを包みこみような雰囲気を持つ彼女は、まさに君主の器と呼ぶに相応しいだろう。

 そして、彼女が掲げる理想は、遠い昔に劉焉様が語った理想に似通ってもいた。

 

 「張任さーん。 少しお話しませんかぁー」

 

 気の抜けるような声が辺りに響いた。

 戦場を感じさせない邪気のない言葉は、劉璋兵達の血走った眼を困惑の目へと変えていく。

 才覚では他の二人に劣ると言われる劉備。

 だが実際、こうして対峙してみると、彼女こそ中華一の曲者かもしれない。

 彼女の評価を一段挙げていると、隣の副将が提案を挙げた。

 

 「あそこまで無防備なら矢で射ることも可能ですぜ?」

 

 彼の言う通り、劉備の周りには厳顔と数名の親衛隊しかいない。

 城壁にいる二千の弓兵で斉射を行えば、劉備軍の大将を討つことは容易い。

 しかし、代償として怒りに震える六万の劉備軍と戦うことになるだろう。

 そうなると、我々雒城に籠る将兵も成都に残る者も皆殺しにされてもおかしくない。

 それはこちらもあちらも望んでいない展開だろう

 ならば、私が取る手段は一つしかない。

 

 「話をしてみましょうか。 天下の英傑と云われる者と話す機会はそうはないでしょうし」

 

 それに不意討ち、騙し討ちは好きではない。

 勝つために何でもしていると、何れは破滅の道を辿ることになるだろう。

 副将を連れて、私は城壁に足をかける。

 

 「貴方が天下に名高き劉備殿でしょうか? 私はこの城の守将を務めている張任と申します」

 「初めましてー」

 

 遥か頭上から見下ろすような形に対し、気分を害すことなく笑みを浮かべる劉備。

 何故か、遥か後方にいる魏延がこちらを睨みつけているが、気にしないことにする。

 

 「さて、お互いこうして対峙しているわけですが、話すこともそう多くないでしょう。 貴女が我々に話したいことは想像はついております。 我らに降ってほしいということでしょう?」

 「はいっ! 厳顔さんから聞きました。 張任さんも皆が笑って暮せる世の中にしたいんですよね?」

 

 高圧的な態度で言うのではなく、ただ世間話をするような様子で話しかける劉備に、城壁に上っていた劉璋軍の兵士達が目を丸くさせて、城壁の下の少女に見つめる。

 恐らく、曹操や孫策なら気高いその姿勢で勧告を行うだろう。

 だが、目の前の少女にはまるで戦場を感じさせない無垢な童のように思えた。

 

 「笑って暮らせる世……概ね間違ってはいませんね」

 「なら、一緒に頑張りませんか?! 張任さんも厳顔さんも、劉璋さんも……皆、一緒に!!」

 

 力のある声だった。

 芯がある……というわけではない。

 ただ何か———暖かい何かに身体が包まれるような気がした。

 周囲にいる劉璋軍の戦意は弱まっていた。

 劉備の言っていることを理想論だと鼻で笑うことは簡単だ。

 事実、噂に聞く曹操のような人間が王として立つに相応しいだろう。

 だが、それでも人は理想を、救いを求めるのである。

 つまり、劉備という女性は———そういう存在なのだろう。

 

 「わかりました」

 「っ! じゃあっ」

 

 私の返答に、劉備は嬉しそうに眼を輝かせる。

 その姿に、私は彼女の純粋さを感じた。

 だが、その姿は私の次の言葉で曇ることとなる。

 

 「それはお受けすることはできません」

 

 冷静な口調で私は、その提案を拒否した。

 私がここで降るということは、万に一つの可能性としてありえなかった。 

 劉璋様を裏切るという選択肢は私の頭には存在しない。

 たとえ、それがこの身が砕け散ろうとも、勝ち目のない戦いだったとしても、だ。

 

 私の言葉を信じられなかったのだろう。

 一瞬、表情すら硬直していた劉備が、慌てて大声を上げる。

 

 「どうしてですかっ!? 私と張任さんは同じ望みを持っているんですよっ?! 戦う必要なんてないじゃありませんか?」

 

 同じ道、同じ思いなら共に戦える。

 劉備は本当にそう思っているのだろう。

 確かにその思いはとても美しく、私も目を奪われそうになるくらいに。

 だが、この世界はそう甘くないものだ。

 

 「戦う必要がない? では、何故この大地には戦が絶えぬのです? 何故人が戦にて命を落とすのです?」

 

 漢の初代皇帝劉邦や大陸を制覇した秦の始皇帝・嬴政の治める時代よりも遥か昔の殷の時代から、人々は争い続け血を流し続けている。

 平和を作るための戦い、だが、その戦いにも命が失われている。

 故に、甘すぎる理想の劉備に、私は益州を渡す気など毛頭なかった。

 

 「益州は先代劉焉様から受け継いだ劉璋様の地、盗人如きにやるほど安くはありませんっ!!」

 

 話すべきことも、顔を合わす理由も既に無い。 

 後は戦場で全てを決めるだけだ。

 

 最後に頭を落として落ち込む劉備に視線を向けて、私は城内へと入っていった。

 

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