カルネ村へ向かう道、アッバルは既にこの旅に飽きていた。会話に参加できないうえ、これでもバジリスクゆえ体力が有り余っているというのに幾度も聞かれるこの言葉――疲れたら言うんだよ、休憩を取るからね。アインズはその見た目から体力がありそうに見えるのも当然だろうが、似たような身長のナーベラルには言わずにアッバルばかりに言うとはどういうことだ。差別的な扱いではないか。
ナーベラルに手を引かれて歩きながら、何度目になるかもう分からないが、この世の無情を嘆く。せめてノーマル目だけでも設定しておけば良かった、と。そうすれば仮面の下から景色を楽しむなどの気分転換が出来たはずだったのに。
『アインズさん、何か片手で手遊びできるような物持っていらっしゃいます?』
視界が利かないので景色も楽しめないし、戦力外扱いですから仕事もないし。ただ歩き続けるのにダレてきました、と正直な気持ちを〈伝言〉したところ、アインズはそれはそうでしょうと笑って頷いた。アインズはこの狐のお面のような縁日の景品が確かいくつかあったはず、と考え、ある物を思い出した。荷物袋から取り出したような体を装ってソレを取り出すと、アッバルの空いた手に握らせる。アッバルの手に乗せられたのは祭りや駄菓子屋で人気がある懐かしのおもちゃで、一般的にはペーパーローリング棒や伸びるカメレオン棒と呼ばれている。数年前の縁日にくじ引きで当てたまま忘れ去っていた物だ。捨てるのももったいなくて持ったままでいたのだが、今になって役に立つとは当時のアインズに知るよしもなかった。
『確かに手遊びには向いてるかもしれませんけど……なんでこんなの持っていらっしゃったんですか?』
『くじ引きの景品だったんですが、捨てるのがもったいなくて……』
『ああ、分かります』
それは上位賞のフィギュアが欲しくて五回引いた600円のくじが、五回ともH賞の絵付きガラスコップだった時の気持ちに似ている。ガラスコップの柄だけならくじの全種類コンプリートだぜ、などと考えて自分を慰めるものの、やり場のない虚しさと自らのくじ運のなさに対する悲しみに沈んでしまうのはどうしようもない。三年後にオークションかな、などと頭の端で計算している自分を発見してさらに凹み、とりあえず仕舞っておいて気付けばクロゼットの奥で五年放置していたり。似たようなことを一度は経験したことがある者は多いはずだ。
ペーパーローリング棒は伸びたり戻ったりする様を楽しむものであるが、視界がないとはいえ、手元に全ての紙が巻き戻った時の軽い衝撃や伸ばした際の手を引かれるような遠心力は感じられる。ある程度大人になると幼い頃に遊んだ色々なものが懐かしく恋しく感じられるもので、アッバルはこの単純なおもちゃを振り続けた。心の中で「伸びろ如意棒」と唱える程には楽しんでいる。このペーパーローリング棒しかり、ヨーヨーやベーゴマしかり、子供のおもちゃには所詮単純なものだからと馬鹿に出来ない面白さがあるのだ。
アッバルがペーパーローリング棒をしゅるしゅると伸ばしては戻し、伸ばしては戻しを繰り返していると、戦士のペテルが堅い声を発した。ここらから危険地帯となってくる、気をつけてくれ、と。その言葉にアッバルの手も止まる――周囲の全員が仕事をしている中で遊ぶ居心地の悪さに気づいたのだ。これだから最近の若者は云々と言われるのだ、と。遊ぶのをやめて腰のベルトにペーパーローリング棒を差し、ナーベラルと繋いだ手に力を少し込める。何故かナーベラルに頭を撫でられた。
気を張るアインズやナーベラルに対し、ルクルットが落ち着けと口にする。自分を信用してくれ、体力を無駄に使うな、と。口説き文句が混じっていなければもっと男らしかったろうに。
「バァル様の耳にお前の汚い声を聞かせるな、
「ナーベさんの冷たい一言頂きました!」
ルクレットの嬉しそうな声が上がる。ナーベラルはルクルットを扱き下ろしに扱き下ろしているし、他の漆黒の剣メンバーもルクレットを庇ったり叱ったりする様子がない。つまりルクルットはそういう役割を負っているということだ。互いに納得済みであろうことは彼らの態度から分かるから、ルクルットならばその負担の大きい役回りを任せるに足る、というメンバーの無言の信頼が窺える。なにせルクルットのようなメンバーの在不在はパーティーの雰囲気に大きく関わる。よくある漫画や小説のテンプレートな性格設定で考えれば分かりやすいだろう、
だが、正真正銘の馬鹿か阿呆ならば冒険者にはなれない。ルクルットはあえて身の内の阿呆として振る舞うことで、パーティーメンバーのコミュニケーションを円滑にし、全体の雰囲気を良くしているのだ。つまりルクルットはかなり計算をしてこのように振る舞っている……机に向かう勉強とは違った意味で頭が良い人間だ。
自らも計算高い自覚のあるアッバルは、ルクルットの有り様に好感を持った。同病相憐れむではないが、ありのままの自分を晒け出すことが滅多にない者同士の同感と言おうか、同情と言おうか、彼に仲間意識を覚えたのだ。もちろん尊敬してもいる。ルクレットがパーティーの和のためならば自分の恋心も利用するという考えを持っているのか、それとも漆黒の剣とアインズらの関係をより円滑なものにするために気持ちを偽っているのか、アッバルには判断がつかないけれど。
「なぁー。やっぱ、ナーベちゃんとモモンさんは恋人関係なの?」
後者か。アッバルはルクルットの軽すぎる詮索の言葉にそう考える。
「こ、っこいびと! 何を言うのですか! アルベド様という方が! アッバル様……バァル様もいらっしゃるのに!」
何故か引き合いに出され、アッバルは困惑した。待て、それではアッバルがアインズの子供か愛人のように聞こえる。「アルベド様という愛し合う奥様が! 二人の間にはアッバル様とバァル様もいらっしゃるのに!」もしくは「アルベド様という正妻が! 妾にアッバル様とバァル様もいらっしゃるのに!」とか。
アインズがナーベラルを叱るももう遅い。アインズが嗜めるとルクルットは謝罪を口にした。
「……あー。失敬。ちょっとからかうつもりでした。あー、モモンさんに相手がいて、既にアッバルって子とバァルちゃんが……あー、子持ちでしたか」
『……私、アッバルさんと親子に見えるほど年齢離れてませんよね?』
『もちろんです。血縁としても兄と妹とか叔父と姪とかそんなんです』
二人の内心は置いておいて、残念なことにアインズとアッバルの二人で頭を捻った兄妹設定は崩壊した。客観的に、二人には親子ほどの年齢差があると思われていると分かったからだ。いけない……これでは本当に拝親子になってしまう。口が利けるようになればアインズに「ちゃーん」と呼び掛けるべきなのか。ちゃーん、腹へった。
『設定練り直しますか?』
『……もう少しこの世界の情報を得てから考えましょう』
『ですね』
――とりあえず、親子という設定は決まりだ。
それから半日近く過ぎたろう、ンフィーレアは日が沈む前に馬の足を止めた。竃の用意など野営の準備は明るいうちにしなければならない、アインズらと違って人間は暗闇をはっきりと見通せないのだ。
自然が破壊し尽くされた現代においてキャンプファイヤーは贅沢であり、また屋外で火を囲み踊るなどという行為は危険だとされた。よって二十二世紀現在における小学校の修学旅行最終日は、樹脂製の木に蝋燭を灯すキャンプファイヤーならぬキャンプキャンドルがメジャーだ。本物の焚き火を初めて見たアインズが感動している横で、音だけしか楽しめないアッバルが嘆くのも当然のことと言えた。
燃える枝の水分がシュワシュワと沸騰し、時折指の骨が折れるのに似たパキリという高い響き、コウゴウという空気が焦げる音。赤や橙、紅、紫と複雑に輝く炎。ぼろ布に濁った油を染み込ませた着火剤はとうに燃え尽き、今は太い薪を中心に細い枝が炎をあげている。
片道たった二日や三日の旅路だ、携帯食料を気前良く使った結果、豆などの乾燥野菜と干し肉がたっぷり入ったスープと分厚く切った黒パンが夕飯になった。黒パンはオート麦や雑穀を練り込んでいて、かなり腹に重いものとなっている。
信仰する宗教の戒律がどうのと言い訳をして漆黒の剣メンバーと離れて食事を始めたアインズらだが、アインズは骨ゆえ食べられないし、ナーベラルも不要と言ってアッバルに譲った。アッバルは八本足の蛇に戻るや、誰が見てもご機嫌と分かる調子で夕飯を食べ始めた。ひよこ豆、大豆、人参にキノコも入っている。ああ、これぞ野菜のマリアージュ――野菜の重婚は罪ではない、美味なのだ。ただし付け合わせのパンが硬いうえ不味いのが残念だが。
ンフィーレアらに蛇としての姿が見えないようにとアインズのあぐらの上に陣取り、数時間前の小鬼や人食い大鬼の血の匂いや
満腹にはほど遠いものの満足を得られ、アッバルはふぅと息を吐いた。ナーベラルに甲斐甲斐しく口許を拭われる。ナーベラルの視線は優しく、ペットや幼い子供を見るような目をしている。アッバルは「そうだろう、いまの私はとっても可愛いだろう」と鶏冠をその手に擦り付ける。実はですねナーベラルさん、可愛いペットの蛇ちゃんは野菜スープも好物になったんですよ、いまさっき。
この世界の食料は豊かだ。収穫量が多いといったことではない、味のことだ。人工の光と滅菌処理の下に育った野菜と雨晒し風晒しの野菜では味の濃さや野菜自身の強さが全く違い、例えばスープに入っていたキノコは肉厚で柔らかくジューシーだった。美食漫画ならば、豊満な肉体も悩ましい美女が頬を艶やかに染めて「おっほおおおおぉ!」と叫ぶリアクションが起きるだろうほどの濃厚さ。――食べやすさを追求したがゆえに消されていった、それぞれの野菜独特の苦味やえぐみが、二十二世紀の人間の味覚にパンチを繰り出した。考えるな、ただ舌で感じろ、これが自然の食べ物だ。アッバルはそれが涙が出るほど嬉しくて、しかしアインズのことを思って涙を引っ込めた。骨になってしまったアインズにはスープも何も食べられない。
アッバルはスープやパンを美味しいとも不味いとも言わず、アインズを見上げ口を開く。
「やっぱり主食がほしいです、二三人くらい」
「アッバルさんったら食いしん坊ですね……。漆黒の剣を食べるわけにはいかないので我慢してくださいね」
「誠に遺憾である。断固として私はこの理不尽と戦う所存である。賃金あげろー有休をもっと寄越せー」
「交渉は組合を通じてください」
ナーベラルにも漆黒の剣にも通じないだろう、二十二世紀を生きる者同士だからこそ分かる冗談を交わす。アインズは一人ではない。アッバルも一人ではない。だから、アインズが食べられないならアッバルは味を言葉にしない。これはアインズに嫌われたらNPCに殺されるかもしれないからなどではなく、アインズがアッバルの友人だからだ。この世界においてたった一人の同胞、大切にしたいと思うのも当然のことだ。
アッバルは顎を反らして空を見上げた。
「あ、モモンガさん。見てくださいよこの星空。素敵ですね」
アインズも兜越しに夜空を見上げた。
暗い冥いカンヴァスの上に散った白墨。檜舞台から覗く奈落の底のような――突き落されそうな闇に散らばる、人の数より多い宝石。アインズもアッバルも、水面に映る月を欲しがる子供のようにその空に見入る。日が落ちて気温がぐんと下がった世界に、火のパチパチという音と落ち着いた人の声。静かではないが、静かだ。アインズの手にアッバルの呼吸が感じられる。膨らんでは萎み、膨らんでは萎む小さい腹。夜空の星よりも輝く命はいま、アインズの手の中に確かに存在している。
アインズがこの世界で初めて手に入れたものはアッバルだ。守るべき同胞であり頼れる仲間であり、それ以上に、心の支えだ。年下の、それも社会人になっていないような子供に愚痴を言いたくない――だから、愚痴を言える間柄というわけではない。しかし彼女の存在は、アインズがたった一人の異邦人ではないことを教えてくれる。アインズの心の柔らかいところを守ってくれている。同じ空を、同じ感動を分かち合える仲間として。
「なんと言えば良いのか、言葉が見つかりませんね。美しい、では足りない」
「ですです」
手の中の命の輝きも、この星空も。失ってしまったがゆえ、知らなかったがゆえ、美しく……そして圧倒される。
ザァ、と空に映る葉の影が揺れた。風の帯が遠ざかり、背の高い草の茂る野原を掻き分け進むような葉や枝の擦れる音も、アインズらとすれ違い去っていった。ざわめきは誰かが泣きながら駆け抜けていく音だ、その後ろを追いたくなる。涙を零し走る誰かを知るため、波に乗る様に風に乗って未知の先へ。
また漆黒の剣らと合流するため、アッバルは人間の姿を取る。暗いも明るいも分らぬ視界と減った腕、失せた口。代わりに手の器用さが上がったとはいえ、人の姿を取るとデメリットが目立つ。アインズとナーベラルに手を取られて立ちあがり、アッバルは焚火の方へ踏み出す。
誤解が更に深まり、けして埋められぬ渓谷と化しているなど知らぬまま。