オーバーロード二次「+α」   作:千野 敏行

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七話

 転移して最初に刺激された五感は嗅覚だった。緑と土、パン、人の匂い……に混じる、汗と糞尿、血、鉄の臭い。そして次に視覚、日の出すぐの冴え冴えと青い光が満ちる空と、浮かぶ雲。アッバルは空に気をとられ、モモンガのマントから滑り落ちる。青い、青い空だ。写真や映像の中でしか見たことのなかった青空が広がっている。

 美しい空を地面に腹ばいになって見上げつつ、アッバルはほうとため息を吐いた。そして吸い込んだ空気の爽やかさにとまどう。アッバルは清浄機を通した空気しか知らないし、屋外で深呼吸するなど初めてだ。先程はとっさにモモンガのマントにしがみついてしまったが、通常なら人工心肺を着けなければ外界に外出などできない。口許を覆うマスクは、汚染された大気に触れないためのコートは、化学物質を屋内に持ち込まないためのシャワーは……ここではいらないのか。

 

 ユグドラシルで、また転移してからナザリックで見た映像で、知ったつもりでいた「自然」というものは、彼女の予想を遥かに超えていた。

 早朝とはいえ地下のナザリックよりもぬるい気温、ひんやりと彼女の腹へ冷たさを送りくる大地。風は麦畑や木々を音を立てて薙ぎ、辞書の音声でしか聴いたことのない小鳥の歌声が響く。……屋外へ出て、アッバルは異世界転移の素晴らしさを知った。この世の誰よりも幸福な存在になったような気分だ。写真も映像も伝えきることのできない自然との一体感のなんと心地良いことか。見よ、この広い空を。遠く遠く、どこまでも飛んで行けるようだ。空はアッバルが空を駆ける一員となるのを待ってくれている。

 言葉が出ない。彼女の親は自然学者であり、地球上でもまだ自然が残っている地域と自宅とを行ったり来たりしている。アッバルも父親に着いてそこへ行ったことがあるが、まだマシとは言えマスクやコートはやはり不可欠であったし、室内へ入る際は消毒のシャワーを全身に浴びた。地球に残る無惨な自然の姿を知っているからこそ、彼女はこの尊さが苦しいほど良く分かるのだ。本来の姿はこうなのだ、人類が滅ぼしていった、大地を覆うはずのものはこれなのだ。――胸が震え、魂は歓喜した。心の底から湧き上がる自然へ讃歌が両目からこぼれ落ちる。この感動を表現しきる言葉を、残念ながら彼女は持っていなかったのだ。モモンガとこの胸の高まりを共有したく思い、アッバルは彼女の友を見上げる。

 

 だが。自然の美しさに圧倒されていたアッバルに対し、モモンガにはそんな暇などなかった。敵対する相手、全身鎧の男へ手を伸ばしたと思えば、十位階ある魔法の上から二つ目――第九位階の即死魔法〈心臓掌握〉を発動させる。第五位階までの魔法も使い勝手が良い特定のもの以外は覚えてさえいないアッバルだ、〈心臓掌握〉が物騒なハートキャッチ魔法であることしか記憶しておらず、その魔法の難しさ、集束された魔力の濃さ、恐ろしさなど全く知らない。男が心臓を握り潰されて死のうが、四肢を引き千切られて死のうが、どちらも同じく結果が死であるではないか。それよりその死体を食べちゃ駄目か聞かなくては、とさえ考えている。アッバルの思考は一気に食欲に傾いた。

 死体(にく)をくれないものか訊ねようと口を開けかけたアッバルが見たのは、少女らを助けようと歩き出すモモンガの姿だった。もしや、ここからラノベ展開が始まるのか。わくわくとしながら口を閉じ、邪魔にならないように気配を消す。

 

「女子供は追い回せるのに、毛色が変わった相手は無理か?」

 

 モモンガが少女らを背に庇う姿はまるで、ゲームや漫画のヒーローのよう。素晴らしい装備に身を固め、伝説の武器を持ち、虐げられた貧しい者を救うモモンガ。救世主と名乗ってもおかしくない。

 だが、少女らはさっきに増して恐怖の汗をかいているようだ。アッバルは首を傾げる。助けに来たことは明白、何故彼女らは恐怖を感じるのだろう。ヒーローの登場なのだから安堵して当然のはずだ。窮地を救われたヒロインは主人公に惚れるものではなかったのだろうか? 私たちを救ってくれて恰好良い、素敵な方ね、滅茶苦茶に抱いて!と。十分なハーレムメンバー入り要素だと思うのだが。

 

 なにやら魔法の実験をするらしいモモンガを横目に、アッバルは少女たちをじろじろと観察する。年上の方はクラスで一番の美少女、友人に頼み込まれて学祭のミス高コンテストに出て優勝か準優勝するレベルといったところか。年下の方は愛嬌のある顔だ。少なくとも、こうもり傘でやって来ては去っていくしかめっ面の家庭教師の小説がどうしてこうなった、と嘆きたくなるような運命映画に出てくる子役の五万倍は可愛い。

 

 粗末な作りの家の影から現れた騎士が、モモンガの魔法〈龍雷〉に打たれて白熱灯のように白く輝いた。しかしそれも一瞬のこと、焼け過ぎて炭になっただろう肉の臭いが周囲に漂う。これも肉は肉だが、アッバルにはこれを食べたいという気持ちになれない。彼女はグルメではないが、賞味期限がとっくに切れた物を好んで食べるような嗜好を持ち合わせてはいないのだ。腹を壊すと分かっていて食べるという冒険心など持たなくとも構わないだろう。

 バーベキューに使えない炭と化した騎士は地に倒れ伏し、また、他に騎士がいる気配もない。緊急の危険は去ったようだ……というのに何故だろう? 年下の方が、モモンガを恐れて年上の少女にしがみつく力を強くする。それに応えるように年上の少女もきつく年下を抱き締める。ゲームや小説ならとっくに目がハートになりモモンガにときめいているはずなのだが、彼女たちからは脂汗の臭いしかしない。

 アッバルは原因を求めてモモンガを見上げた。見ずとも力ある存在と分かる強者の気配、財力と武力を備えていることが明らかな装備、そして呪文一つで騎士を屠った姿はそれの証明。王子や位の高い貴族に助けられた村娘の構造と全く同じではないか。何故モモンガを怖がるのだろう。

 

 騎士たちが弱くて気が緩んだのか、モモンガの緊張が弛緩している。強者の気配が緩んだ今なら話しかけやすいはずだ、頑張れ、ラブストーリーは突然始まるし、恋のチャンスの神様も前髪しかないのだ。期を逃すなどもったいない、アッバルなら気合いで頬をリンゴに染め、モモンガへおずおずと近寄るだろう。そして、助けてくださって有り難うございます魔法使いの方、とかいう台詞を上目使いしながら口にするだろう。アッバルは自分の身が愛しい、金と力を兼ね備えた男を堕とす努力を絶やすべきではないと考えている。

 だがモモンガは再びキリリと気を張った。エロゲなら選択肢を選ぶまで待っていてくれるが、現実にはそんな優しさなどない。スーパー話しかけやすいタイムは一分もなかった。

 

 こちらを振り返ったモモンガをしっかりと見たアッバルは、その瞬間、自分の思考回路のおかしさに気付く。何故骨の怪物であるモモンガに忌避感を持たないのだろう、何故自分の体が八本足の蛇であることに違和感がないのだろう。アッバルはつい数日前まで人間だったというのに、八本ある足を自在に動かして地を走ることができる。視線の低さを当然と思える。人間を前にすると食料だと思える。さっきもそれを疑問に思ったはずだ、どうしてすぐに忘れたのか。まるであの考えがその場の思い付きでしかない馬鹿らしいアイデアだったかのように、アッバルの思考の表層からすぐに消えてしまったのは何故だ。

 いや、とアッバルは自分の疑問に答えた。もし人間らしい思考回路と常識が残っていたならば、アッバルはとっくに死んでいただろう。絶望のオーラで気が狂っていただろう。ナザリックの怪物たちを見ては泣き叫び、逃げ惑い、救いがないことに絶望して舌を噛んでいただろう。なにせアッバルはただ蛇が好きなだけであって、異形種の見た目を好んでいたわけではないのだ。そう、だから、これはトリップ特典という奴に違いない。ただ体に合わせた常識を身に付けたに過ぎず、そしてそれは必要なことだった。

 

 もしかしなくとも、モモンガもモンスターとしての思考に染まったに違いない。モモンガは優しく親切で、伝言で交わした会話も今までと変わらない、ちょっとチキンなところのあるお兄さんだ。だが騎士たちによる村人の殺戮を放置しようとしたり、騎士たちをああも簡単に殺したり、今も平気そうだったり……仲間以外への親切心というもの、共感というものがほとんどなくなってしまったのだろう。しかし、人間の心を捨てたことは悪いことばかりでもない。異世界転移はかなりの精神的苦痛になったろうし、眠れないことや食事できないこともストレスになる。自分の姿への絶望など計り知れない。この思考の補正はモモンガやアッバルの心を守っているのだ。

 人の心を捨ててしまったのは残念だが、仕方のないことだ。アッバルはそう結論を出した。

 

 モモンガが心臓を潰した騎士の死体を見下ろし、アッバルの知らない魔法を解放した。化学工場で火事が起きた時に上がる煙のような、どす黒い霧が空中から沸き上がる。煙は死体を捕食せんばかりに覆い被さり……一瞬膨れ上がると死体へ溶け込んでいく。死体が下手くそな操り人形のような動きで起き上がると、少女たちから短い掠れた悲鳴が上がった。

 兜の隙間から、吐瀉のごとく闇色のゲルが溢れ出す。ゲルは全身鎧をまんべんなく包み込み、完成したのは漆黒の騎士だ。身長は二回りも大きくなり、胸板の厚さなど先程までの倍はある。動脈のように走る赤い線が脈打つ漆黒の全身鎧に、人間であった時のアッバルとほぼ同じ高さのタワーシールドと、波打つ刀身が美しいフランベルジェを装備している。アッバルも必死に頑張れば倒せそうだ。あくまで必死に頑張ればだが。

 

「この村を襲っている騎士を殺せ」

 

 モモンガが指差したのはウェルダンの死体。

 

「オオオァァァアアアアアア――!!」

 

 モモンガの作った漆黒の騎士が咆哮を上げる。撒き散らされる殺気、周囲の迷惑など考えもしないのだろう。空腹なチーターか、それとも貴族の狩りに慣れた猟犬か、漆黒の騎士は獲物を求めて走り出した。金属同士が擦れる音はすぐに小さくなっていく。

 

「いなくなっちゃったよ……。盾が守るべき者を置いていってどうするよ。いや命令したのは俺だけどさぁ……」

 

 アッバルの存在に未だ気付いていないらしいモモンガが小声で愚痴を溢した。どうやらあの漆黒の騎士は自立して雑魚を狩る召喚モンスターではなく、単なる盾役だったらしい。盾のくせにアッバルよりも恵まれた装備なのが憎たらしい。

 アッバルはそろそろ自分に気づいてもらうべく、モモンガを見上げ口を開いた。

 

 

 

 タイミングを逃し、口を半開きにしたまま困っていたアッバルを拾い上げたのはアルベドだった。外の世界がどのような物なのか……もしやするとナザリックの面々でも太刀打ちのできないモンスターや種族がいるかもしれない。だというのに、ナザリック大地下墳墓強さ番付の最下位を這うアッバルが外へ出てどうするのだ。外は危険が一杯なのだから出てはいけない、と誰かが注意していなかったのだろうか? いや、アッバルはまだ子供だ、注意されていたとしても忘れていたかもしれない。全く子供というものは、目の前のことに夢中になると保護者ら大人が言い聞かせたことなどすっかり忘れてしまうのだから。

 

 その時、アルベドに天啓が下った。腕の中のアッバルを見下ろせば、彼女は居心地の良い定位置を求めてもぞもぞと動いている。――子供。そう、子供だ。子供とはなんだ? 自分とモモンガ、いや先程モモンガはアインズ・ウール・ゴウンを名乗ったからアインズ・ウール・ゴウンだ、彼との愛の結晶のことだ。アルベドの頭は高速回転し始める。そうとも、このアッバルは子供だ。アインズ・ウール・ゴウンとアルベドの子供のようなものだ。つまり予行演習だったのだ。アッバルを強く立派な子に育て上げれば、アインズ・ウール・ゴウンはアルベドの手を握り、こう言うに違いない。「アルベドよ。お前ほど私の子を宿し育てるに適した女はいない。これからは私の妻として、公私ともに私を支えてほしい」と。

 アルベドは胸をときめかせ、自身の輝かしい未来……アインズ・ウール・ゴウンとの甘い結婚生活へ夢を膨らます。予行演習! 正式に妻となる前でも、アッバルの母として、つまりアインズ・ウール・ゴウンの妻として一緒に子育てが出来る!

 

 アインズ・ウール・ゴウンがアルベドが拾い上げたもの――アッバルに目を止めた。そして続く無言。もしやすると〈伝言〉を使っているのかもしれない。無言だというのに、アインズ・ウール・ゴウンが額を押さえるような動作をしたためだ。

 アインズ・ウール・ゴウンは頭を軽く振り、長嘆息した。

 

「食べて良いのは騎士のだけですよ」

「了解しました!」

 

 話し合いは終わったらしい。どうやらアッバルはご飯(ひと)が欲しくて着いてきたようで、ふにふにのお腹が思い出したように地鳴りを発し始めた。子にご飯を与えるのも親の役目、これは頑張らねばなるまいとアルベドは拳を握る。アッバルはまだまだ幼いバジリスク、子育ての道は長い。だが、アインズ・ウール・ゴウンとの甘い日々はそれから永遠に続くのだ。

 

「アッバル様、私のことはどうぞ母とお思いになって下さいね」

「ぇ? あ、はい。……はい?」

 

 言質を取った。アルベドの顔は兜の下で笑み崩れ、口からはくふくふと含み笑いの声が漏れる。アルベドは誓った。きっとアインズ・ウール・ゴウンの気に入る成果を出してみせる、と。そのためには……先ずはアッバルへの給餌か。

 アルベドはアッバルをぎゅうと抱き締める。腕の中のバジリスクはただのバジリスクではない、アルベドの夢を実現するための手段であり、アインズ・ウール・ゴウンとの共通の話題であり、将来への布石であるのだ。愛しく思えないはずがない。

 

 村への行きしな、アルベドが大活躍したのは当然の帰結と言えた。




12日の活動報告にリリカルアッバルという出落ちネタ有。
こちらはPixiv様投稿分より加筆部分がございまして、こちらが今後の統一版です。今後の展開に関わる部分のため、後でPixiv様の七話を修正する予定です。

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