じいちゃんが死んだ。
悟が無表情に伝えると、百合がはっと胸を押さえて俯いた。
生命は生まれた瞬間から死に始めている。
多くの人が考えた。とわに生きることが出来たならばと。しかしかなえたものは、ついに存在しなかったという。
お悔やみ申し上げます。
百合が平素の小僧呼ばわりはせずに直立不動で頭を下げた。
昔のことだった。悟少年の祖父はある日体調を崩し亡くなってしまった。
老人というものは体力が衰えているもの。一度体調を崩せば外部はもちろん体内の日和見菌たちも活発に動き宿主を食い尽くす。病院に運ばれることを祖父は嫌い家の床で休息することを選んだ。
ある日。
駆けつけた一族は永遠の眠りについた祖父の姿を目撃することになる。
「あやつも逝ったか……」
「………」
葬式当日。
この日に限り、百合はふもとまで降りてきていた。普段、おりてくることないというのに。
降りられるのだという意外性があった。
悟は、どうやら百合はこの世界の住民ではないということを悟らせる出来事に何度も遭っていた。
平然と空を歩き、枯れた花を元通りにして見せたり、からすとしゃべって見せたこともあったのだ。
―――まさかカラスが普通に日本語をしゃべりだすとは想像できなかったのだが。
百合は、黒い喪服を身にまとっていた。清楚な銀のネックレスを首から提げて。
柔らかそうな表情はなかった。悲しみもなかった。何一つ感情を映さない瞳で屋敷の方を見ていた。
大人たちが深刻そうな顔立ちで話し合っている。
悟は大人たちの間に混じって話をしているのが耐えられなかった。会う人にやれ残念だ惜しい人をなくされただの言われるのだ。腹が立った。うんざりしていた。屋敷を飛び出してきたのも無理はなかった。親戚の子供たちが無邪気に庭で遊んでいた。つながりの薄い親戚の子供だろう。彼ら彼女らにとって祖父の死は遠い対岸の出来事でしかないのだ。
不思議と涙が出ることはなかったが、祖父にはもう会えないのだという気持ちで心が埋め尽くされて言葉にならなかった。
百合は着物の裾を払うと、庭の切り株に腰掛けた。習うように悟も切り株に腰掛ける。
「昔のことだがな……お前のじいちゃんは私と会っていたぞ」
「……そうなの」
唐突に語り始めた百合を前に悟はぼーっと屋敷を見つめていた。
同じように暑い夏の日だった。
医者が言っていた。今年の気温は高かった。気温が体力を消耗させたことも一因でしょうと。
悟にはもはやどうでもいいことだった。死んだのだ。ほかにどう語れと言うのか。
『王手』
『あっ』
ふと、思い出したことがあった。
将棋板を前に得意げな顔をする祖父が居た。自分は、つたない将棋の腕で挑みかかっていた。あの手この手で攻めてもふわりふわりと受け流されていつの間にか王が身動き取れなくなっている。
何度挑んでも同じことだった。
悟の王は包囲されて行き場を無くし、祖父の王は高みで優雅に指揮を執っているのだ。
降参といわんばかりに腕を組む悟に祖父が笑い声をあげた。
『まだまだ。腕をあげてこいよ』
『絶対に負かしてやる!』
『待ってるとも』
それっきり、何度挑んでも勝てなかった。
勝てないまま、死んでしまった。卑怯だと思った。しわくちゃな笑顔はもう見られないのだ。
蝉が鳴いている。
屋敷から離れた庭で二人が座っていた。
百合が優雅に扇子で顔を仰いでいるが、しかし、額に汗の一滴さえ滲んでいない涼しい顔である。
ひい、ふう、みい、と数を数えつつ指を折り、語り始める。
「もう60年も昔のことになるかな。
お前と同じようにあいつも迷い込んできた。
思うがあいつは小僧が妾と会っていたことに気がついていたのではとな」
「おじいちゃんと、どんな仲だったの」
言うなり百合は口元を悪戯に歪めて肩を揺らし始めた。
「あやつに言わせれば恋仲だったが、くっくっく……なあに片思いというやつだな。しまいには結婚しなければ死ぬとまで豪語したが、ならやってみろと催促したところべそをかき出す始末だったぞ」
「こいなか?」
首を傾げる悟に対し百合がふーむと己の喉を撫でて空を仰いだ。
「あいつは妾を好いておった……ではわからんか。好きだった」
「お姉ちゃんは、なんて答えたの」
「私ではあなたに釣り合わないわ。謹んでお断り申し上げます――――なーんて答えるわけがなかろう。
やだ。とだけ言っておいたが」
愉快そうに笑う顔立ちに悲しみの表情はなかった。
やだ。
イントネーションはまるで年頃の娘がするような可愛らしいもので、遥か昔から生きてきたという存在にしては不釣合いに思えた。
百合はしばらく笑っていたが、ため息を吐いた。
「なんでだかなぁ……泣けないのだ。
私が大昔から生きてきたことは言ったであろう?」
「うん」
「多くの人を看取ってきたよ。私は年を取らないというに、皆は年老いて死んでいく。何人も看取ってきたし、葬式にも出たさ。涙が出なくなってきたのだ。不思議なことに」
ごく当然のように悟が頷いた。
確かに奇怪な術や事象は見せられたが確固たる証拠などなかった。もしかすると自称しているだけで、実年齢20歳の娘かもしれない。けれど信じさせるだけの迫力が彼女にはあったし、信じるだけの純粋さが悟にはあったのだ。
百合が袖から一枚の写真を取り出した。白黒二色の写真には着物を身にまとった百合が恥ずかしげに微笑む横で体格のいい短髪の学生服の青年が破顔して居た。紛れもなく祖父の顔だった。皺こそないが面影が色濃く残っている。
年老いた祖父と、まったく陰りさえ見られない百合。
その写真を、百合は悟の手に握らせた。
「棺の中に入れてやってくれ。
それから……いやいい。屋敷には行かぬ。私の顔を知っているひとがいる」
「うん。僕戻るね。なんでいっしょに来ないの」
「小僧。お前のお婆ちゃんがいるであろ? 面識がある。昔のままの私があらわれたら、そうらおかしなことになりかねん」
遠くで母が悟に向かって手を振っている。こっちに来いと言っているようだった。
悟は百合に背中を押されて駆け出した。
振り返ると既に百合の姿はなかった。
写真は棺の中に入れた。
白い百合の中に囲まれた祖父は幸せそうに見えた。
リアカーを引いていく。
祖母が亡くなった。葬式後問題になったのが屋敷を誰が管理するのかということだ。
父も母も家を管理することは出来ない。職場が都会にあるのだ、いちいち田舎まで帰るわけにもいかないし、引越しすることも難しい。
屋敷と一帯の土地は不動産屋仲介の元で売りに出された。
もちろん先祖代々の墓や財産だけは別のところに移すことになっていたのだが、そうではない家財道具などは分類した後に捨てることになっていた。
分類はもう終わっていたのであとは運び出すだけだった。
悟は頭に巻いたタオルを取り、空を仰いだ。入道雲が立ち上がり今にも雨を降らそうと身構えていた。
家財道具とごみを運んで業者に引き渡すことも今回の旅の目的の一つであったのだ。
金をかけるわけにもいかない。両親は共働きしていてとても休暇はとれそうになかった。そこで悟が役割を担ったのだ。
不動産屋の看板が庭に突き刺さっていた。価格表示。電話番号。株式会社名。URL。もう、この建物は自分ら家族のものでなくなるのだという表示である。見つかるかは分からないが、もうほとんど確定したような未来である。
リヤカーをとにかく引く。車輪のすべりがよろしくない。根元が錆びているらしく、動作が最高に重いのだ。
地面に転がっていた缶を蹴っ飛ばす。ざまあみろ飲料メーカー。
「くそっ重いぞ! おまけにリヤカー錆びすぎだろ! 親父! なにがリヤカーあるからいけんだろだよ! 錆びてちゃクソ重いんだよ!」
悟は、おもわず天にののしり声を上げた。
庭の片隅にあるブルーシート前でリヤカーをとめると、中身を手作業で積み下ろしていく。
荷物を引き取るのは業者の仕事だが家から出す作業は自分でやらねばならない。
何度も往復する。
悟は部活動で鍛えられた体をしてはいたが、それでも炎天下で何度も荷物を積み降ろしては指定の場所まで運搬するという苦行は応えた。
事前に用意しておいた塩飴を口に含みつつひたすら運ぶ。
テレビ。ラジオ。古びた本の数々。換金しようにもおそらくゼロ円が精々の家財道具や収集物。ありとあらゆるものを運び出していく。換金できるもの、価値のあるものは既に運び出されている。人が死ぬということは周辺のものをいかに処理するかを考えるということでもある。詳細な段取りは全て両親が執り行ってくれた。
「アルバムかこれ?」
ふと、古びた新聞紙の間に本が差し込まれているのを見た。
休憩をかねてリヤカーのタイヤを背もたれに地面に両足を投げ出す。
ページを開くと、いの一番に女性の姿が映りこんだ。古風なセーラー服に身を包んだ黒髪の女性だった。恥ずかしそうにはにかんでいる。
「いやまさかな……こんな美人なわけないだろたぶん」
なんとなく見覚えのある顔だった。祖母の顔立ちとよく似ているのだが、記憶にある祖母の容姿といえば曲がった背中と皺くちゃなこわばった顔である。爽やかな花の咲くような笑顔をたたえた細身の女性ではない。
ページを捲っていった。一枚の写真が外に滑り落ちそうになる。慌てて空中で拾うと、それはいつか見た写真と同じような構図の写真であった。
――なんとなく、捨ててはいけないものであるような気がした。
リュックサックに差し込むと、水筒を取り出す。スポーツドリンクで喉を潤し、塩飴を口に含むと、膝をたたいて立ち上がる。
直射日光で生ぬるく加熱された鉄製の取っ手を握り、往復を再開した。
荷物を全て運び出す頃には全身汗まみれとなっており、体に張り付くシャツの気持ち悪さに顔をしかめることになった。
「あとお願いしまーす!」
業者のトラックが荷物を満載して去っていくのを手を振って見送る。
振り返るとがらんどうになった荷物小屋があった。
蝉が鳴いている。太陽は既に翳り始め、空気に涼しさが宿り始めていた。日は落ちる。やがて登るだろう。地球はそうして営んできたのだ。
悟は荷物をまとめると、庭の水道を捻った。出るわけがなかった。ガス水道電気全ての契約は終了しているのである。次の契約者が家に来て手続きをするまでは使えない。
ふと井戸を見遣ったが、どうにも使う気分が起きなかった。
体を清めるにはどうするかと思考して、思い当たったことがあった。
「川あったよな? どこだっけなあ……
じいちゃんと行った川はたしか」
その昔、大きなボトルに水を詰め込む為に車で連れられて川に行った記憶があった。
頭にかかるタオルを肩に移動させると端末を弄りGPSで位置を確認。記憶を辿り、車がどう動いてどこを曲がったかを地図に当てはめて推理していく。ほど近い箇所に川が流れていた。
すぐに自転車にまたがると走り始めた。
「こいつも随分古いよなあ……ブレーキがぶっ壊れたりしませんように」
きいきいと音を上げる自転車のフレームを撫でる。倉庫の奥に死蔵されていたものである。整備こそされてはいたのだが流石にガタが来ていて中古でも売れそうになかった。作業用と移動の為に業者には持っていかないようにしておいたのだ。あとで、近所の人に譲るようにしている。
自転車をこいで坂を上る。下る。小道を反れていく。相対的に発生する風の心地よさに思わずため息が出た。
川はあった。木々に覆われていており、夕闇が迫る時刻ともなれば足元さえおぼつかない暗さになりつつある。
仕事――ようは荷物の処理は済んでいるが、まだ帰るつもりはない。屋敷の軒先で野宿でもして過ごすつもりでいた。夕闇が迫ろうが、日をまたごうが関係のないことだ。
流水の弾ける音が耳をくすぐる。
冷たい水の流れる清らかな河川が全貌をあらわした。自転車を木の幹の下にとめて、舗装されていない階段をくだっていくと、まずタオルを流水につけて汚れを落とし、絞る。シャツを脱いで岩の上に。タオルで上半身を清めると、ううむと考え込む。
「いや全裸はまずいよな……誰もこないわけじゃねーし」
子供時代ならとにかく、現在彼は大人の男である。全裸で川に入ることをはばからない年齢ではないし、万が一おまわりさんに見られたら言い訳の余地がない。
首を振ると、ズボンだけ脱いでさっと下半身を拭くだけにした。
すぐに着込むと、川から撤収していく。
「まあ一応な」
自転車に跨ると、別の方角へと目指す。
のどかな農村風景。最近では過疎がどんどんと進んできているらしい。農村と里山が共存する昔ながらの風景はもはや風化しつつあるのだなという寂しさを改めて痛感する。
太陽が地平線の間際で揺らめく頃にその場所へとつく。
墓場が並んでいた。このあたりの人間は皆一つの寺に世話になり、一箇所の墓地に埋められるのだ。祖父も祖母も例外なくここに埋まっている。おそらく、自分もここに埋まるのだろうという確信があった。
「ハハ……幽霊かなにかか? しゃれにならんぞ」
そのときである。墓場の中央に、何か人影らしきものがある。人影らしきものというのはあまりに暗く輪郭さえ掴めないからであった。
影は一掴みの光を伴っていた。朱色の、ゆらめく灯である。
悟はおおかた住民の誰かか管理者がいるのだろうとまったくの無防備に接近をし、
「久しいのう……小僧」
「百合……」
墓場の前で提灯片手に佇む女性の姿を見つけたのであった。
実体験からとった部分もあります