タイトルで誰かはわかるはずw
――私は、人間で言うところの、ありふれた幸せな家庭に生まれた。
家庭環境は普通では無かったけれど。豪奢な屋敷に、格好いい執事、綺麗なメイド。上品で穏やかな、おそらくはどこかのお嬢様だったであろう母親と、厳格でありながら時折優しさを垣間見せるお父様。何よりも、とても頼りになるお姉様がいた。
でも、どうやら私は男の子に生まれる事を望まれていたらしい。たまにお父様が、『スカーレット家の跡継ぎが……』と言っていたからだ。
家督を継ぐ者は、大抵が男子だ。例外として女子がなる時もあるが、それはあくまで最終手段でしかない。普通は男子が望まれる。
それでも両親、姉、使用人は私を愛してくれていた。お父様からは厳しい言葉、お母様には絵本や歌、お姉様とは一緒に遊んだりし、使用人からは勉強などの習い事を教わった。
極々普通の、大金持ちのような生活を送っているという点を除けば、大体は幸せな人間の生活とそう変わらない日々を過ごしていた。
けれど、私たちは人間ではない。人々の血を吸い、それを糧に生きる『
当然それらは隠す必要がある。人間の数は最早吸血鬼とは比べ物にならないほどに増えた。もしバレれば、かなりの面倒事になると、誰もが口を揃えて言っていた。
私もお姉様もそれには素直に従った。好奇心はあったが、家族の危険には変えられない。だから外に出るなどといった無謀な事とは無縁に、安全に生きた。
――私が生まれてから五年程経ったあの時、あの瞬間までは。
「あなた! しっかりして!」
「お父様、返事をして!」
目の前に倒れ伏しているお父様がいた。そのお父様のすぐ近くには、お父様から飛び散った返り血を浴びている人間の男が――『
この『吸血鬼狩り』の目には、私たちに対する抑えようも無い憎悪があった。私たちが何かしたわけではない。ただ、『私たちという存在』を憎んでいるようだった。
そのためにこんな辺境にある屋敷に訪れ、潜入したのだろう。私には理解できない。そこまでの憎悪を持つ理由が無かったからだ。
しかしこの時、『吸血鬼は人間から恐れられ、嫌われている』、その言葉が真実だったと、頭ではなく、感覚で悟った。
「奥方様とお嬢様方は早くお逃げに! 私たちが足止めをします!」
周りのメイドたちが、どこから取り出したのかわからない武器を持つ。どれもが小型のナイフや剣、槌といった物から、絶対に戦闘には向かないであろう物を持っていた者もいた。
こうした理由は、狭い屋内で大きな武器を振り回せば壁にぶつかってしまうからだ。あの時の私にはそうした訳がわからなかった。だが、それでもあの男には勝てないとわかる。
この屋敷でお父様より強い者はいない。しかしあの男はそのお父様を倒した。それにあの男を出迎えたはずの執事たちの姿も見えない。つまりは、そういう事だ。
次々に斬られていくメイドたち。たまにコッソリとお菓子や、珍しい料理をつまみ食いさせてくれた者、今から一年くらい前までは一緒に寝ていた者、遊んだ時に服を汚し過ぎて怒った者や、怪我をして泣いてしまった時に慰めてくれたメイドたちが、地に伏していく。
「――――――!!」
「――――――――――――――――!?」
お母様やお姉様が何かを叫んでいるが、私には何も聞こえなかった。ただただ、目の前で斬られていくメイドたちを視界に映すだけだ。
逃げろ――そう言われたお母様は私を抱きしめながらお姉様の手を握り締めるだけで、逃げようとはしない。その視線からお父様の方を見ているのがわかった。夫を見捨てて自分だけ逃げる事などできない――そんなところだろう。
今思えば、甘すぎる判断だとわかる。メイドたちは命を賭している。それなのにお母様は逃げる事もせずに、ただ子供のように何も選択しない。
それでも当時の私は、周りの景色を見ているだけ――正確には、頭の中にある光景が浮かび上がっていて、目の前の光景に注意できなかったのだ。
『―――――――――!』
『―――――――』
『―――――――――――――――――――!?』
『――――――――――――?』
『―――――――――――!!!』
様々な声が入り混じる場所。怒声、悲鳴、誰かを呼ぶ叫び声。だがどれもが一貫して同じモノを宿していた――恐怖だ。
彼らの視線を辿ると、そこには誰かがいた。顔は何かに邪魔をされて見えない。かろうじて少女だとわかるだけで、全体像もはっきりしない、あやふやな幻影を見ているかのようだった。なのに何故か、見覚えがあるような気がした。
少女の周りには、血と、それを流す人――人『だった』何かが、大量にあった。血に染まり、それ以外の色を見つける事の方が難しい、血の大地。
我先にと逃げる人々の中心で、自らの手でこの惨劇を生み出した少女は、しかし泣いているように思えた。
そして少女は――
プツリ、と映像が途切れる。まるで見ていた写真が、そこから途切れたかのような、不自然な終わり方だった。
私は、意識を明確にする。目の前には、全てのメイドを斬り捨て、私たちを睨みつける男が立っていた。
「――ッ、ヒ」
私の口から、声にならない悲鳴が漏れる。今の今まで意識がはっきりしていないせいで、この瞬間ようやく、私は死に対する恐怖を実感した。
「……二人とも、逃げなさい」
「お母様!?」
「ごめんなさいね、レミリア……フランを、貴方の妹を、守りなさい」
お母様は翼を生やし、前へと飛びだす。だがお母様は、メイドたちに比べれば強いが、それでもお父様には勝てない。
自棄になっただけだ。もう逃げられないと、全員ここで死ぬとわかっているはず。もしメイドたちが足止めをしていた間に逃げていれば話は別だっただろう。
だがそんな事はありえない。
(嫌……嫌……お父様も、お母様も、メイドたちも……お姉様も、殺されるなんて)
当時の私は、それを受け入れられるはずが無かった。
だから、かもしれない。
「私が……私が助けてみせる!」
そんなバカな事を、考えてしまったのは。
「フラン、何を!?」
後ろでお姉様が息を呑んでいるのがわかる。それでも私は止まれない。どの道、皆ここで死んでしまうのだ。
だけど私は、自分で死ぬなんて思ってもいなかった。幼すぎせいで、『死の概念』をきちんと理解していなかったせいだろう。
「フラン!?」
私が前に出たのだと知ったお母様は、眼を見開いて硬直した。
それを見逃すような甘い男では無い。『吸血鬼狩り』は銀で作られた剣を、お母様の心臓のある場所に貫こうとした。
(ダメ、ダメ、こんなのダメ! 私のせいでお母様が殺されちゃう。そしたらもう、あの陽だまりみたいな優しい笑顔が見られない。今までの幸せな日々も、もう得られない。だけど私には、何もできない!)
通ってしまう。お母様の胸に、銀の剣が刺さってしまう。いくら吸血鬼といえども、銀で、それも心臓を貫かれれば、死んでしまう。
「お母様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
私は、叫んだ。この不条理な現実に対して。どうしようもない理不尽に対して。
それと同時に、私の中から何かがゴッソリと抜けて行くのを感じた。
パキィィィン! と、金属が割れるような音が聞こえる。
「……!?」
男が硬直し、眼を見開いた。自身が持っていた剣が、唐突に『壊れれば』当然かもしれない。
咄嗟に周囲を見渡した男は、私の方を見詰める。その眼に見つめられた私は、その眼に宿った憎悪に恐怖した。
「う……ぁ、ぁ……」
ジリジリと後ずさる。だけど男は止まらない。予備のモノだと思われる銀の剣を取り出し、私に向かって走り出そうとした。
「フラン!」
叫びながらお母様が私と男の間に入る。
「どけ、邪魔だ!」
「娘たちだけは、やらせない!」
お母様は『レーヴァテイン』を取り出す。お母様はお父様とは違って戦いの心得などほとんど知らない。それでも吸血鬼の端くれとして、相応の力は持っていた。
けれど男はその更に上を行く。
懐から銀のナイフを取り出し、牽制として放つ。そのいくつかは私とお姉様に向かっていた。絶対に避けるわけにはいかないお母様はレーヴァテインを使って銀のナイフを融かす。
それは致命的な隙だった。男は今度こそ走り出し、お母様と――私を同時に斬り捨てようと、剣を振りかぶる。
「フランだけは、レミリアだけは殺させない!」
無駄だとわかっていても、お母様は私を抱きしめ、自分の体を盾にしようとした。でも私の瞳には映っていた。
振り上げられる剣。剣の輝きによって反射している光。男の瞳。私たちを心底から憎む、憎悪を宿した瞳。どこかで見た事のあるモノだった。
私の――違う、『私たち』の命を奪う、その輝きと、それを持つ人間たちの姿が、目の前の男と重なった。
ドクン、と心臓が跳ねた。そこからドクッ、ドクッ、ドクッと、遊び終えて疲れた時以上に動き出す。
全てがスローモーションになっていく世界。この現象が何なのかわからないまま、私はこう呟いていた。
「……壊れちゃえ」
ただ、それだけ。それだけで男の剣が、腕が、そして体が壊れていく。驚愕した表情を張り付かせたまま、男は死んだ。
一瞬。お父様でさえ殺せなかった男を、私は一瞬で殺してしまった。
私を抱きしめているお母様も、気絶しておらず、傷を押さえていたメイドも――そしてお姉様も含めて、誰もが驚愕を宿した顔をしていた。
「フラ、ン……?」
お母様の呆然とした声が周囲に響く。それほどまでに静まり返っていたのだ。
私はお母様に叫んだ。
「お母様、無――」
「私の妻から離れろ、この化け物!」
「え……」
聞き覚えのある声。だけどその声から、ありえない言葉が放たれていた。
「お、お父様……?」
「私は貴様のような化け物の父親ではない!」
目を覚まし、傷を押さえていたお父様のその瞳には、私に対して向けられた恐怖があった。
「なんなんだ、その力は。そんなありえない力が、吸血鬼に宿るはずが無い! 如何に『スカーレット』の吸血鬼であっても、真祖や、それに近しい者たちにはどうしても劣る」
それを告げられたお母様やメイドたちの顔色が変わる。そしてすぐさま、恐怖を宿した。
「どうして、こんな――」
「私たちはこんな危険なモノと一緒にいたの!?」
「そんなことより奥方様、早くその化け物から離れてください!」
いつも私に笑顔を向けてくれたメイドたちが、少しずつ私から離れて行く。立ち上がる事すらできずに、お母様も離れて行った。
「お、お母さ――」
「触らないで! この化け物!」
伸ばした手は、あっさりと拒絶された。
誰もが私を化け物と言う。私を拒絶しようとする。
そんな事は一度も無かった。
「なんで……」
どうして、どうして、どうして、どうして、どうしてどうしてどうしてどうして!
私はお姉様を、お父様を、お母様を、メイドたちを……家族を助けたかっただけなのに!
それなのになんで私を化け物と呼ぶの! 拒絶するの! なんで!?
私の心の中は、それだけで埋まって行った。
「――ァ――」
気が付けば、私の両目から、雫が流れていた。だけど、それは全く無意味な事だった。
「泣けば同情するとでも思っているのか? 全員、今すぐこいつを殺せ!」
「「「「「っは!」」」」」
全員が傷を押さえ、苦痛に顔を歪めながら、それでも私に向かって武器を構える。
「……あ、は、はは……」
結局、無駄だった。何をしても意味なんて無かった。全員が死ぬか、それとも私一人だけが殺されるか。それだけの話だったのだ。
もう、乾いた笑みしか浮かばない。私にはたった一人の味方すらいない。独り……私は、独りなんだ。
そう自覚すると、何もする気が起きなくなった。自分の身を守る事も、逃げる事すら。
(今ここで殺されても、私は……)
おそらく、ただそれを受け入れるだけだろう。
そして私に、一斉に武器が向けられて――
「やめてください、お父様!」
そこで、お姉様が私の体を抱きしめてきた。
「お姉、様……?」
「フランは、フランドールは私の妹であり、お父様とお母様の娘ではありませんか! それなのに何故こんな真似を!?」
「黙れ! お前はまだその化け物の力を知らないからそう言える! 知れば、絶対にお前も私と同じ行動をする! 絶対に、だ!」
お父様が怒鳴るたびに、お姉様の体がビクリと震える。
姉とは言っても、お姉様は私とそう変わらない年齢だ。怒られる事は多々あれど、親に逆らうなど今までしてこなかったお姉様が、本当の意味でお父様に怒られたのは初めてだ。恐怖に怯えてしまうのが当然なのだ。
「それでも、例えフランが化け物のような力があったとしても! この子が私のたった一人の大切な妹であるのには変わりありません! お父様がフランを殺すと言うのであれば……私ごと、フランを殺してください!」
お姉様の絶叫に、全員の武器がブレる。
今ここでお姉様と私を殺せば、スカーレット家の血筋を持つものは、お父様だけになる。あの男に居場所がバレてしまった以上、ここから逃げなくてはならない。そして逃げている途中で今回のような事がまたあれば、今度こそスカーレット家は、終わる。
それがわからないお父様では無い。お姉様がいれば、最悪お父様が囮となってお母様とお姉様を逃がす事ができる。そうすれば、お姉様がスカーレット家の血筋を繋ぐ事ができる。
だけどここで私を殺せば、お姉様は絶対にお父様を許さない。無理矢理にでも連れて行く事は可能だろうが、私を殺さずに連れて行くのと、殺して無理矢理連れて行くのと。どちらが楽かなど言うまでもないだろう。
「…………いいだろう。
「……! あ、ありがとうございます!」
お姉様は素直に喜んでいたが、私にはわかった。お父様は、私を使い捨てにするつもりだと。
私の力は強大だ。妖力の大きさも、そして自分自身でもわからない力もある。
それを使えば、ここから逃げる事など容易だろう。そして逃げ終えたその時こそ、私を殺すつもりなのだ。
実際お父様は、私を絶対に殺さないなどと言っていない。
「連れて行け。ただし、決して油断はするな」
「「「「「かしこまりました!」」」」」
お父様が私たちに背を向けて去って行く。それを見届けたお姉様は安堵の溜息を吐くと、私の体を離した。
「よかったわね、フラン」
「……うん、そうだね」
「どうしたの? 何か痛いところがあるの?」
「なんでもないよ。大丈夫」
「そう……ならいいのだけれど」
余程顔色が悪かったのだろう。お姉様が眉を寄せた顔で私を見る。
でも、言える訳が無かった。お父様を助けた事を、後悔していたなんて……。
それからはあっという間だった。
生きていた執事たちとメイドたちが荷物を纏め、吸血鬼が住んでいた痕跡を消し、いくつかある隠された屋敷を目指して、その場から逃げ去る。
途中で追手が来たようだが、それもあの男に比べればあまり強い敵では無かったため、あっさりと殺せたようだ。
代わりに、私の目の前に、刻一刻と死が迫ってきていた。だけど、私には現実感が無かった。昨日までは幸せだった。こんな日々が続くのだと、そう無邪気に信じていた。
でもそれは、儚い幻想だった。
「……外に出ろ」
私がいた場所の扉が開けられ、そこからお父様の姿が見える。その手には、既にスピア・ザ・グングニルがあった。
「……はい」
余計な事はしない。下手な事をすれば、痛みが長引くだけだ。体では無い、心の痛みが。
お父様に連れられて、私は歩く。でも変だった。殺すのであれば、わざわざ屋敷の中に連れて行く必要は無いはずなのだが……。
そんな疑問を覚えたまま、私はお父様に着いていく。そして、『あの場所』に辿り着いた。
「中に入れ」
「え……」
「聡すぎるのも考え物だな。移動している途中、レミリアに泣いて懇願された。だからお前を殺しはしない。だがお前ほどの力を持った化け物を野放しにできるほど、私は優しくない。だから今ここで選べ」
お父様は、私に対して残酷な選択を突き付ける。
「――今ここで死ぬか……牢獄に入り、一生をここで生きるか」
そう言われて、私が選んだのは――
暗い部屋で、私は独りだ。
結局私は部屋の中に入るのを選んだ。なんでだろう、そう思った。
今更生き延びようなんて思ってもいなかったのに。生き延びても、そこに幸せなんてあるはずがないとわかっていたはずなのに。
(どうして……私は、なんで生き延びようとしたの?)
わからない。どれだけ考えてもわからなかった。
考えて、考えて、考え続けて……そして、ふと気づいた。
私が何故、生き残ろうと思ったのは。
(私は……お姉様と会いたいんだ)
子供ゆえの無知。だからこそ姉が自分を庇ったのだという事は理解している。それでも、嬉しかった。味方なんていない状況で、それでも自分を殺さないでと懇願してくれた。
(それが、嬉しかったんだ)
そう思いながら、フランは涙を流す。
悲しみの涙と……嬉しさから来る涙を。
それから何日が経っただろう。一つわかるのは、お父様は本当に私を殺す気が無い、という事くらいだった。
一日に三回、きちんと料理が運ばれてくる。それを運んでくるメイドたちは皆私を見て怯えていたが、運んでくれるだけありがたいと思った。殺されないだけマシだと。
だけど、それも長くは続かなかった。
「フラン! 大丈夫!?」
「……お姉様?」
私が独りその場に丸まってうずくまっていたところに、今までに見た事がないくらい血相を変えたお姉様が飛び込んできた。
「どうしたの?」
「理由は聞かないで! 今すぐここから逃げるわよ!」
有無を言わさず私の手を取ったお姉様は、地下牢から私を連れだす。
数日前にお父様の背中を追って通った道を、お姉様の手に引かれながら走る。
「お姉様、何があったの!?」
「……この前フランが殺したあの吸血鬼狩りの男。あの男の仲間が報復に来たと、そうお父様は言っていたの。……その言葉のどこまでが信じられるかは、わからないけれど」
そちらが勝手に来て私たちを殺そうとしたくせに、身勝手よね、そうお姉様は吐き捨てた。でもそれよりも驚いたのは、お姉様がお父様を信じていないとでも言いたげな発言をした事だ。
「お姉様、お父様を信じてないの……?」
「……どれだけ私がお願いしても、お父様はフランを外に出してくれなかった。だから、ね」
怒っているような、悲しそうな……複雑な表情を浮かべているお姉様。
だけど私にはわかった。お姉様がどれだけの回数、お父様にお願いしたのか。一度や二度なんかじゃない。おそらく数百以上……それだけ願っても、お姉様の願いは叶わなかった。
「ありがとう」
「……! でも、私は結局、フランを助けられなくて……」
「ううん、違うの。お姉様が私を助けようとしてくれた事。ただそれだけで、私は救われる」
家族同然の執事とメイドも、血を分けた両親でさえも、私を化け物だと叫んだ。味方は、お姉様だけだった。
それでもいい。独りじゃない、そう実感できるから。
この手の温もりがあれば、生きて行ける。この時はまだ、そう信じていられた。
「ここからどうやって逃げれば……それに逃げた後も問題ね、どうしようかしら」
右手の親指をガジガジと齧りながらボヤくお姉様。マナーが悪いが、私も何かに当たっていないとやるせないくらいの思いを秘めていた。
「でも、大丈夫よ」
「え?」
「何があっても、貴方だけは守ってみせる。だって私は、フランの姉なのだから」
地下から廊下に出たお姉様は、様子を窺いなら少しずつ移動し始める。その間にも、どこからか怒声と叫び声が聞こえてきた。
だけど、ここから見える攻撃を考えるに、いるのは吸血鬼狩り専門だけでなく、退魔の術をその身で学び、心身を鍛え上げたエクソシストもいた。
おそらく執事たちとメイドたちの相手をするためだろう。
だが何より恐ろしいのは、その鬼気迫る表情だ。あの男は、組織内でかなりの尊敬を集めていたのだろう。そうでなければ、あの人数が、あんな顔をするわけがない。
「……逃げるには、まずアイツらに気付かれないようにしなきゃね」
お姉様は一つの部屋に入ると、そこは服が詰め込まれた部屋だった。
「やっぱり、あの短期間では屋敷から持って来た荷物を整理できなかったようね」
お姉様はゴソゴソと荷物を引っ張り出す。そこから、エクソシストたちが着ているのとよく似たローブを引っ張り出した。
「本当は、黒色の、目立ちにくいローブを選びたいのだけれど……それだと逆に目立ちかねないわね」
周囲に埋もれず、且つ目立たないような色合いのローブを選んだお姉様は、それを私に着せてくる。
「いいフラン。私たちは絶対に正体がバレてはいけないの。戦い方を知らない私たちは、奴等に見つかれば、殺される」
「わかってる。でもいいの? お姉様一人なら、もっと安全に逃げられるのに……」
自らもローブを着こんだお姉様はこちらに近づき、私の手を握り締めてくる。
「そんな事はもう言わないで。守ると言ったでしょう。私は貴方の、姉なのだから」
反論は許さないと、眼に力を込めるお姉様。私はもう、反論しなかった。
「……それじゃ、行きましょう。大丈夫。何があっても、私が守るから」
そして私たちは部屋から飛び出し、エクソシストに紛れて逃げ出した。
「ハァ、ハァ、ハァ……フラン、足元に気を付けて!」
「フッ、ッ、お姉、様……」
屋敷を逃げ出し、周囲にある森の中に入るまでは上手くいった。だけどそこで、私たちが逃げ出した仲間だと勘違いしたエクソシストに追われるハメになっていた。
しかも追手は一人二人ではない。十人以上の手練れが私たちを追って来ていた。
「私はもういいから、お姉様だけでも、逃げて! 私が囮になれば、お姉様は……」
「黙りなさい! そんな事ができるわけないでしょう! 大切な妹を一人置いて逃げ出す事なんて……!」
しかし、絶対に逃げられない事は私でもわかっている。自分たちが居た屋敷の周囲なら、ある程度はわかっている。だがここは全くわからない。今走っているこの獣道さえも、逃げるために正解の道なのかはわからない。
(どうすればいいの……。せめてお姉様だけでも……)
(フランだけは助けないと。死ぬ瞬間に後悔する事になっても、フランだけは!)
私が考えている事は、お姉様が考えている事とほとんど同じだったのには気付かなかった。
「見つけたぞ!」
「ッ、もう来たの!?」
後ろを振り向き、遠目にエクソシストの姿を見つけたお姉様。そして、そのエクソシストが持っている銃口が、こちらを向いた。
「まずい! 伏せて!」
「きゃ!?」
腕を引っ張られて倒れ込む私と、引っ張った事で倒れてしまったお姉様。だけど、この行動は正しかった。もしも引っ張られなかったら、私は体を撃ち抜かれて死んでいただろうから。
私たちが倒れている間に、周りをエクソシストに囲まれてしまった。コレでは絶対に逃げる事など不可能だ。
「何故逃げた? 我々はあの方の仇を取りに来たというのに!」
ローブで全身を覆っているが、その声から女性のものだとわかる。持っていた剣を私たちに向けながら、詰問する。
私たちが何も言わないでいると、女性は苛立ったように私たちに近づいてきた。
「……そろそろ何か言ったらどうだ? 何か理由があるのであれば、情状酌量の余地を考えてやっても――」
そこで運悪く、強風が吹く。エクソシストたちはとっさに頭を押さえる事でフードが脱げるのを防げたが、私たちはできなかった。
「さっさとこちらの質問に……ッ、貴様らは!?」
バレて、しまった。フードが脱げても私たちの翼は見えないが、吸血鬼の牙や血のような紅い目は隠しきれない。
「っく!」
お姉様は私の体を抱きしめる。まるで、少しでも私の体が彼女らの手によって傷つかないようにさせるために。
だけど、お姉様に抱きしめられている私にはわかる。お姉様が、小さく震えている事に。そんなお姉様のお洋服の裾を、ギュッと握り締める。
お姉様は視線を逸らす事無く、そして力無く笑い返してきた。
力の無い幼い吸血鬼。その小さな姿は、人間と何も変わりない。だけど、そんな事は相手には関係ないのだろう。
私たちに向けられた視線は、先程よりも鋭くなっていたのだから。
「……童のような姿をした者をこの手で斬るのは気が引ける。それでも、私たちは貴様ら姉妹を殺す。ここで貴様らを逃せば、決して遠くない未来、貴様らに殺されてしまうであろう我らが子供たちのために」
それを合図に、周囲のエクソシストはその武器を私たちに向ける。
「恨んでくれて構わない。だが……我らのために、ここで死んでくれ!」
私とお姉様に向けられる武器。
同時に、わけのわからない光景がフラッシュバックした。
武器、武器、武器。私を殺そうと取り囲んでいる武器の大群。それを持った人々。恐怖と憎悪に塗れた顔。
そんな見た事も無い光景が、目の前の、剣を振りかぶっている人たちと重なる。
瞬間、フランの中にある『ナニカ』がズレた。
「ダメ……イヤ、やめて。私に、私に……」
「フラン? フラン、どうしたの!?」
私の体がガタガタと震えているのに気付いたお姉様が、私に叫んでいる。周りのエクソシストたちも、私たちの異常に気づき、二の足を踏んでいた。
「ッ、臆するな! どうせ何も出来ん!」
隊長であろう、先程私たちに詰問をした女性が、自らの部下に叱咤激励をする。それを合図に全員に、私たちに対する殺意が宿る。
だけど、躊躇してしまった時点で、彼女たちは選択を間違えた。
「かかれ!」
前衛は武器を振りかぶり、後衛は魔法の術式を発動させる。その瞬間、私の中にあるモノが本格的にズレてしまった。
「――私に、近づかないでええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇッッッ!!!」
叫んだ瞬間、私の意識は遠のいた。
「う、うぅ……」
呻き声をあげているお姉様の声で、私の意識は明瞭となった。そのまま眼を前方に向け……そして、驚愕した。
「なに、コレ……」
惨殺された死体が、そこにあった。まともな死体がほとんど無い。彼女らが持っていた武器は粉々。全身が千切れているものや、中にはそもそも原型すら留めていない、服の切れ端であろうモノがついた肉の塊すらあった。
「コレを……私がやったの?」
わからないはずがない。あの時私の中から力が発動されたのを肌で理解していたのだから。
「どうして……これじゃ私、本当に、お父様が言っていた通り……」
化け物なんじゃ、そう言いそうになった。だけど、言えなかった。言ってしまえば、もう目を逸らす事ができないから。
「フラ、ン……」
「! お姉様!?」
私の体を中心にして力が発動したおかげか、私のすぐ傍にいたお姉様は無事だった。でも、力の余波を受けたせいか、少し衰弱していた。
「一体、何が……」
手を側頭部に置いて頭を振るお姉様。それで意識がはっきりとしたのか、私と同じように辺りを見渡し……絶句する。
そのまま、視線を私に向けてきた。
「コレを……フランが?」
「…………………………………」
否定しない私を見て、お姉様は目を閉じる。
それが怖かった。もしお姉様が私を見て化物だと言ったら、きっと私は正気を保てなくなる。そんな予感があった。
「……フラン、一度屋敷へ戻りましょう」
「え?」
「このまま逃げても、先立つものが無ければすぐに殺されてしまう。だったら危険だとわかっていても一度戻って、宝石か何かを用意しなければ」
「ちょ、ちょっと待って……!」
「何かしら?」
「お姉様は私の事が怖くないの!? だって、この惨劇を作ったのは私で、私は化けも――」
「それ以上は言わないで!」
「!?」
「例え貴方が何であろうと、貴方が私の妹だという事実は変わらないの! だから、そんなバカな事を……自分が化け物だなんて事を、言わないで」
「お姉様……私は……」
抑えきれなかった。お姉様に拒絶されるかもしれないという恐怖が無くなって。それで、私は。
「う、うぅ……私は……う、ぁ……」
口元を押さえつけて、声を潜める。そうしなければ、大声で叫び出しそうだった。
「……今は、泣きなさい」
そう言って私を抱きしめるお姉様の腕の中で、私は小さく泣いた。
真赤になって充血した眼のまま、私はお姉様に手を引かれて歩く。
「お姉様……道、わかるの?」
「一応、ね。ところどころにあった、それこそ目印とも言えないようなものを目印として覚えておいたから。多分そろそろ……ほら」
目の前にあった木を避けると、そこには私たちがいた屋敷があった。でも……
「ねえお姉様。物音が全然聞こえないんだけど」
「そんなはずは……まさか!」
「お、お姉様!?」
私の手を握り締めたまま唐突に走り出すお姉様。私も走るが、少しだけバランスを崩したせいで転びかけてしまった。
「どうしたの!?」
「いいから着いてきて!」
そのまま駆け出す事数十秒。私たちは、屋敷の入口に辿り着いた。
「こんな……」
私には、目の前のが光景が信じられなかった。足元にある地面が、土の色を残さずに真赤に染まっていたのだから。だけど、何故か死体は無い。
「ここで大量の人が、お父様たちの手によって死んだのね。妖怪は殺されれば、その存在を残さず消してしまうから……」
妖怪はあくまで人々の『噂』、あるいは何らかの伝承によって語り継がれたものが形となって生まれてくる。逆に言えば、元は存在していない。だから死んでしまえばそのまま消滅し、生きていたという事すら無くなってしまう。
「でも妙ね。死体すらないなんて」
「うん……。? あれ、この臭い……」
「どうしたの?」
「えっと、なんとなくだけど……何かが焦げた臭いがしない?」
「それは。……本当ね。多分、お母様のレーヴァテインで死体を焼かれたんじゃ」
確かにお母様のレーヴァテインであれば不可能ではない。だが、本当にそうならば、何故血が蒸発していないのだろうか。
周囲を警戒しながら歩き出す私とお姉様。
屋敷の扉に辿り着いて、ほっとした瞬間――お姉様が、倒れた。
「お姉様!?」
「フラン……逃げなさい……!」
よくよく見ると、お姉様の体から血が流れている。しかも再生しない。銀で撃たれた。
後ろを振り向くと、エクソシストが立っていた。
「どうして……」
「あの血で俺たちが死んだと勘違いしたよな? アレは吸血鬼を相手にする時に使う手段の一つでな。アレだけの血があれば、俺たちが死んだと勘違いするだろう?」
「でも、あの血は本物。吸血鬼を相手に、贋物が通用するはずが……」
「全部本物さ。民間人たちの協力によって集めたものを、な」
「どうしてそこまで! なんで私たちの生活を邪魔するの!」
「……お前たちは俺たちの血を吸う。そのせいで死んだ人間は数多い。吸血鬼という存在は……いや、妖怪という存在は、人間にとって害悪だ。それ故に殺す」
「……!」
「言いたい事はそれだけか? ならばここで、死ね!」
地を蹴りこちらに向かってくるエクソシストたちに、私は言う。
「私とお姉様に、近づくな」
地面にヒビが入り、その範囲は拡大していく。だけど私とお姉様には影響が無い。
「な、なんだコレは……!」
「話すつもりは無い。……ここで、死ね」
先程エクソシストが言っていた言葉をそっくりそのまま返す。
次の一瞬で――敵の姿は、存在すら残さず消え去った。
あのあとお姉様はすぐに目を覚まし、妖力を用いて傷を塞いだ。
でも、私の方に深刻な問題があった。
「力が……収まらない……!」
「フラン、気をしっかりともって! 力を集中させて、ゆっくりと消していくの!」
「さっきからやってるけど……全然、できない……」
それどころか、内側からどんどん溢れて来て、止める事が不可能に近い。
……体が、熱い。焼けちゃう、かも。
「ハァッ、ハァッ……お姉様、熱い。熱いの……内側から燃え尽きててしまいそう」
体がどんどん熱くなり、それに比例して周囲に漏れる力も酷くなっていく。
お姉様は逡巡するように目を閉じて。しばらくして、唇を噛み締め、切った。
「フラン、今から言う事をよく聞いて」
「何……お姉様……」
「私は貴方を、地下牢に入れる」
「どうして……!?」
「腹ただしい事に、お父様は貴方の力を一時的に封じる術を持っていたの。それがあの地下牢にあって……あの地下牢に行けば、貴方の力は一時的に収まる。でも、それがいつまで保つかわからないし、何より貴方自身がその力を操れなければ、一生出せなくなってしまう」
「一生? それって……」
「ごめんなさい。だけど、今の私にはこれしかないの。恨んでくれて構わないわ。私は貴方にそれだけの業を背負わせるのだから」
霞んだ視界で、お姉様の目の縁に雫が溜まっているのが見え、そして私の意識は闇に沈んだ。
次に目が覚めた時、既に私は暗い場所にいた。
あの地下牢だ。また私は……ここで、独りになった。
「ここでって、何? 私はお父様に連れられて……それで」
わからない。どこかおかしいような気がするけど、記憶が無い以上、何も無いのだろう。
「……私はいつまでここにいればいいんだろう」
私は暗い場所で独り、目を閉じる。
数日後、久しぶりに扉が開いた。
「フラン、体調は大丈夫?」
「いきなりどうしたの?」
「え?」
「私はここから一歩も出てないけど、これでも吸血鬼。病気に何てならないよ?」
「……そう」
お姉様は一瞬だけ顔を歪めると、急いで扉から出て行ってしまった。
「……そろそろ血を飲まないと、体が耐え切れないかも」
吸血鬼は、血さえ飲めば人間が摂る食事のほとんどを必要としない。あくまでも味を楽しむ程度の嗜好品だ。だけど血がなければ徐々に衰弱し、死んでしまう。
そんな時だった。扉が開き、男が部屋に放り込まれたのは。
小さく悲鳴を漏らし、ガタガタと震えるその男は、人間だった。
「……誰?」
「ッヒ!? く、来るな、この化け物!」
「……!」
その言葉は、私が今最も聞きたくない言葉だった。
何の関係も無い赤の他人に化け物扱いされる。それが嫌だった。だけど事実だ。私は人間からすれば、化け物にすぎない。
――離れろ、この化け物!
お父様にも言われた。
(私は本当に、化け物なのかな……)
物思いに耽っていると、男がいきなり奇声をあげて私に覆いかぶさり、首を絞めてきた。
「ァ……なに、を……!?」
腕に体重をかけられたせいで、振り払う事ができない。
「お前を殺せば……そうすればここから出られる。そうだ。そうに違いない。だからだからだからだから――」
男の眼が見える。焦点が定まっていないらしく不自然に揺れていて、もう意識もはっきりとしていないようだった。
でも、そんな事を気にしている余裕は無かった。
「離、して……息が、できな……」
だけど、私の話を聞いてくれるもはずも無い。
何もしなければこのまま殺される。
何かをすればこの男は私が殺す事になる。
悩んでいる暇なんて無かった。一気に男の手にかかる力が強まったからだ。
「う、おあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
私はよくわかりもしない妖力を使って、下敷きにされていた腕を無理矢理動かす。
そしてその腕を、男の胸に突き刺した。
「え……あ……」
男は呆然としたように胸に突き刺さった私の腕を見て……死んだ。
人を、殺した。だけど私は何の感慨も抱かず、目の前にあるソレに注目した。
「コレが……人間の血……」
私は血を間近に見たのは、コレがはじめてだった。あの時にエクソシストの血を見たけれど、ここまでの至近距離ではなかった。
男の体を横にズラしてから腕を引き抜き、私の腕を伝っている血を舐める。そして私は、咳き込んでしまった。
「ゲホッ、ガハッ……あ、味が……濃い……!」
そう、あまりにも血がの味が濃すぎたのだ。
今まで私は血を直接飲んだ事は無かった。お父様が、生まれた直後から血を飲むと味が濃すぎて飲めないと知っていたからだ。
吸血鬼としては致命的だが、基本的に吸血鬼はその身体能力と特異な弱点を除けば、身体機能は人間とほとんど変わらない。つまり、味覚も人間の子供と同じという事だ。
だから私とお姉様は、料理に含まれていた血を少しずつ接種する事で生き延びていた。そうすれば血の味に少しずつ慣れてくるからだ。でも今の私には、味を薄める術が無い。そのまま飲むしかなかった。
「でも……飲まないと……」
何度も吐きかけながらも、私は血を飲む。
結局全部飲み干す事はできなかった。飲み終えた後は……ただひたすらに、気持ち悪かった。
同じ毎日の繰り返しだった。
一日中真暗な場所で、何をするでもなくそこに在る。たまに私に血を飲ませるために人間が連れて来られていたが、この人たちと接するのは諦めた。私を騙すためにいい人ぶった人間が裏切ってからは、期待する事すらも。
「ア、ハは……ハ、ハ」
もう、笑い方すら忘れてしまった。
終わりの見えない毎日。
暗くて、寂しくて……心が痛い。
一人だけでいい、私を受け入れてくれる人と話したい。一緒に笑って欲しい。手と手を触れ合わせて、温もりを感じたい。
でもそんなのは絶対に無理だとわかってる。誰も私とまともに話してくれない。私が何もしていなくても、相手は私を化け物だと罵って来るのだから。
しかも今の私は、人の眼を見れば何を思っているのかがわかるようになってきていた。そこまで詳しくはわからないが、それでも私をどう思っているのかくらいはわかる。
そして、ここに来た人間は全て……私の事を、ただ一人の例外も無く、化け物を見る眼で私を見ていた。そんな事が何十回とあったのだ。私が望む存在なんて、現れないに決まっている。
「独りには、もう耐えられない」
狂ってしまえば楽になれる。だから私は意識を殺す。
(本当にそんな事をして。貴方はいいの?)
「誰!?」
とっさに辺りを見渡す。でも誰の姿も見えない。当然だ。ここには、私しかいないのだから。
「幻聴……? ハ、はハ……本格的に狂ってきたんだ、私」
(幻聴じゃなければ聞き間違いでも無いわ。私は、貴方の中にいるのよ)
「そんな戯言を言わないで! 期待させるような事を言って、私を惑わせないで! 期待したところで、どうしようもないんだから……」
両耳を手で覆い、小さく丸まって頭を振る。
私は期待しないと決めたのだ。期待すれば期待するほど、裏切られた時の辛さは、筆舌にし難いほど心が傷つけられるから。
「私は……私は、もう、二度と……」
(……なら、期待しないでいいわ)
「……え?」
(私は今から、独り言を言い続ける。それを貴方が聞いてしまってもただの偶然、それ以上でもそれ以下でも無いわ)
「ちょっと待って! 一体何を……?」
私の困惑を無視して、訳の分からない声は様々な事を話し続ける。
人間たちが子供に聞かせる童話に、少し難しい摩訶不思議な物語。それとこの世界のところどころに存在する、心に響くような景色のお話。その他にも色々な事を聞いた。
はじめは聞くつもりなんて無かった。でも、気付けば彼女のお話に引き込まれ、いつしかお話をせがむまでになっていた。
「ねえ、次のお話! 次のお話を聞かせて!」
(コレはあくまで独り言よ。だからいつ話すかは私が決めるわ)
「いじわる……」
私が頬を膨らませても、彼女は何も言わない。だったらと、私は話を変えた。
「それじゃあ、そろそろ聞かせてよ。貴方のお名前は?」
(……私に名前なんて、無いわ)
「またそれ……」
彼女は決して名前を教えてくれない。もう百年以上いるはずなのに、だ。だけど私はあ、と思い直す。
(もしかして名乗らないんじゃなくて、名乗れないの?)
それならと、私はこう言った。
「だったら、私が貴方の名前を決める!」
(え? 貴方が、私の名前を?)
「そう! 貴方の名前は……『ナニカ』!」
(適当な名前ねぇ……それの由来は?)
「私は貴方が『何か』知らないから!」
(……ハァ……)
呆れが多分に混じった溜息を吐く『ナニカ』。
(仕方ないわね。もうそれでいいわよ)
「うん!」
そんなように、私の日々は過ぎて行く。
『ナニカ』がいたから私は狂わずにすんだ。だけど『ナニカ』は見えないし、触れない。少しずつ、でも確実に私の中の寂しさは蓄積されていく。
私の中にあるこの寂しさが消えるのは、これから数百年後になって私の元に現れる、白い少年が来た時だ。
それまで私は、『ナニカ』とともに在り続ける――。
前回でも書きましたが、ストック切れたのと、テスト間近ついでに提出物間近なので一旦休載させていただきます。提出物出さないと単位1貰って退学なので……。
次話はいつ出すかわかりませんが、8月の始まる前後に出すつもりです。