永琳が言い終えると――いや、言い終える前に、シオンの視線は尖る。それは鋭く、何よりその奥の感情を悟らせない。
それでも聞かなければならないのだ。わからないことほど恐ろしいモノは無い。シオンの能力は強大なのだから、なおのこと。
だが、シオンが話したくないのも理解できる。
情報とは一種の『武器』だ。もたらされた内容から効果・制限・弱点を把握し、そこを突けば状況を優位にできる。そうでなくとも『知っているかもしれない』だけで脅しになるのだ。持っていないせいで不利になったとしても、持っていて損にはならない。
そして、こと戦闘ではそれが顕著に表れる。もちろん事前情報が間違っていれば話は別だが、もし合っていれば相手の戦い方をある程度想像できるし、そうできれば精神的優位に立てる。それに相手の隙を突いて攻撃もできるのだ。加えてわざわざ戦闘中に相手の能力を把握しないで済むのだから、余計な怪我を負わずに済む。それを知っていて自身の力を好き好んで話したいはずがない。
当然、もし話してもらえるのなら相応の礼はするつもりだ。能力の正確な把握ができれば、より精細な力の伸ばし方を教えることができる。他者に話すつもりも無いから、知るのは永琳一人である。
しかし、永琳は無理矢理聞き出すつもりはなかった。師匠命令を使うことはできるが、仮にそうすれば、その瞬間シオンは永琳を見切るだろう。元々誰かの下につくのを極端に嫌う人間だ。
正確には――信頼できない相手の下につきたくないだけだろうが。
どちらにしろ話してもらえるかはシオン次第。話してもらえなくとも永琳はシオンを放り出すつもりはないから、今まで通りの日常に戻るだけだ。
決定的とは言えないまでも、後々まで残るしこりを作って。
「…………………………」
部屋には完全に入らず、扉に背を寄せたままシオンは押し黙る。表情にも変化は無い。しかしその眼の奥は、話すか話さないかで迷っていた。
信用はしている。信頼もしている。それでも――将来敵対しないとは限らない相手。そもそも接した時間が圧倒的に少ない。尊敬できる人ではあるが、だからこそシオンは無条件に自分の全てを預けない。コレがフランやアリス辺りなら、悩まなくてもすむのだろうか。
そんな思考の脇道に入ったことに気付いたシオンは、考えるのをやめた。考えても意味が無い、と思ったのもあるが。
どの道話さない理由は『将来敵になるかもしれない』だけなのだ。
後はもう、なるようになれ、だった。
シオンは一度右手を握ると、胸元にかかる黒陽に触れる。
「――わかった。話すよ……全部」
そして、それを球体にした。
「黒陽は星の重力を操る、形無き物質――とも言えない、異質な『ナニカ』だ。どんな原理でできていてどういう理由で存在しているのかなんてわからない。ただ一つ言えるのは、コレは適性が無ければ扱えないってことくらいだ」
「適性?」
「ああ。無理に黒陽や白夜に触れようとすると弾かれる。言わば『選定』を通過しなければ持つことさえできない。まぁ……大前提として、試練を合格しなければならないんだが」
一瞬遠い目をしてしまうシオン。正直アレはもう思い出したくも無い過去だ。
「一パーセントでもいい。適性さえあれば後はとにかく使い続ければいい。ただ、その『適性を伸ばす』のが曲者でね。……全然伸びないんだよ、コレが」
「何か問題でもあるのかしら」
「さあ? 使い続けても多少は伸びるけど、効率はかなり悪い。何かが足りないのか、それとも単純に使い方がわるいのか……理由はわからない」
それに、元居た場所では黒陽の力を使える場面なんて早々無かった。使い続けていたら、あっさり化け物――と他者に呼ばれる――の仲間行きだ。
「ちなみに適性以上の能力の使用はまずできない。当然と言えば当然だが」
「そう……例外はあるの?」
「ある」
即答でシオンは断言する。
球体に戻した黒陽に干渉し、周囲の重力を歪めていくつもの重力球を生み出す。が、その代償がシオンを襲う。
「……ッ。こんな、感じに……自分自身に、負荷をかければ……使える力も、増える。やりすぎると、あっさり潰されて死ぬけど、ね」
ギリギリと骨が、肉が、内臓が引き締められるのを自覚しながらシオンは話す。だがやはり辛いのか、話し終えたと同時に重力球を消した。
その様子を見ていた永琳は、かなり渋い表情で言う。
「あまり使わない方がいいわよ、その方法。体が出来上がっていない今のあなたじゃたかが知れているし」
「だ、ろうね……」
シオンは否定しない。誰よりその事をわかっているのは、シオンだからだ。この方法は、あまりに体を酷使しすぎる。多用すればボロボロになった体はいずれ崩れるだろう。
ようやく一息吐いたシオンは、少し悩みながら言う。
「実を言うと、もう一つあるんだけど」
この方法は、かなり不気味だ。同時に狂気の技でもある。だが、今更か――と、シオンは諦めて話し始める。
「黒陽と『同一化』すれば、扱える力は増える」
「同一化――まさか!?」
ガタリ、と音を立てながら永琳は立ち上がる。シオンの言を理解し、そしてそれを行わなければならなかった状況を想像し、それを行ったシオンの心境を思い……静かに席についた。今ここでシオンを詰問しても、意味が無いと思ったからだ。
永琳の取り乱しに少し気分を暗くしながら、シオンは黒陽を持ち上げ、眼帯を外すと――
埋め込んだシオンの体に変化が起きる。左半身、その肘から先と膝から先が黒に染まり、獣の手足となった。
コレこそが『同一化』。自分自身の体に黒陽を埋め込み、強制的に適性を上げるもう一つの方法。しかしそれを行うには、自分の『体に埋め込む』ことが条件。
つまり、
狂気の行動だとシオンが自分自身思い、永琳が驚いたのは、これが理由。
シオンの今は無き左目には、黒曜石のような黒色が存在する。だが、それは不気味でしかない。黒陽は全てを飲み込むような怖気を他者に感じさせる。そんなモノが左目にある。見ている側からすれば、それを視界に入れたくもないほど。
紅魔館で話した能力の情報は、制限や弱点を強調した。そうすることで『この能力はそう簡単に使えないのか』と相手に誤認させられるからだ。あの時点では、シオンは彼女達を『信用』はできても『信頼』まではできていなかったのが理由の一つ。
本音は――こんなことを、彼女達には話せなかった、いや話したくなかったから。こんな狂人のやることを話して、引かれたくは無かったから。当時はそんなことまでは考えていなかったが。
だが、シオンは知らない。紅魔館で同一化した時に宿ったモノは『
「この状態なら、多少は工夫できる。例えば――」
実のところ、黒陽には致命的な問題がある。周囲の重力に干渉して重力球を作る――そこまではいい。だが、それを『剣』や『槍』あるいは『矢』といった形にはできないのだ。
コレは単純に、重力に干渉している
しかし、今なら。黒陽と同一化している今なら――話は別。
シオンは左目にある黒陽と意識を合わせ、
傍目から見ると単に重力球を生み出したようにしか見えないが、中身は全くの別物。
今までの重力球は『重さで押し潰す』のなら、今の重力球は『引きずり込んで圧縮』する。前者は体が頑丈なら防御したり回避するのは容易だが、後者はそれ自体が周囲のモノを引き寄せる力場を生み出す。防御すれば体が挽肉になるし、回避しようとしても足を取られる。空中に浮いていれば踏ん張ることすらできない。防御方法としては、圧縮すら跳ね除ける頑丈な体、あるいは大きく迂回するか、飛び道具か何かで跳ね返すか。どれもかなり難しい方法だ。
「――とまあ、こんな感じか? 俺の知識じゃ何も思いつかん。『重力』とか言われてもスケールが大きすぎて想像つかないんだよな……」
しかも適性以上の力は使えないのだから、下手に強大な力は使えない。中途半端な知識は身を滅ぼす種となるから、覚えたら即実践、とはいかないのだ。
今の今まで黙って見ていた永琳は、何となく思ったことを言う。
「シオン、その黒陽には形が無い……のよね?」
「ん? ああ、無いよ。完全な無形だな。この球体状態が最も力を使わないからそうしているだけで、別に他意は無いし」
「そうなの? だったらその黒陽自体を無数の剣にするとか――」
「それは無理だ」
「絶対に?」
「絶対に」
頷きも付け加えて断言する。
「残念な事に、黒陽から分離した瞬間俺の影響下から離れてね。球状に戻るんだよ」
黒陽を左目から外し、長めの棒にすると、両端に刃を作る。そして真ん中あたりで二つに分けるが、即座に片方は重力球になり、片方しか残らなかった。
「こうなるから、無意味だ」
もし形を整えられるのなら、他者に黒陽を渡したりできるのだが、そんな生易しくは無い。『絶対に壊れず刃こぼりもせず無限に使える武器』――それこそある種理想の武器、その最終地点の一つとも言えるが、他者に使えないのなら意味は無い。そもそも触れられないから関係無いが。
お手上げとばかりに両手を上にあげる。
「こんなところだ。これ以上は何も無いよ。黒陽は俺の精神状態に影響するから、よっぽどぶっトンだ状態にならない限りは取り返しのつかない状況にはなりにくい――つっても、安心できるわけない、か」
ここに来てから精神状態が危うくなることが何度かあったのを考えると、保証できるはずもなかった。
――狂気の果てに得た強さ。それは一体、何のためにあるのだろうか。
しかし永琳は頭を振ると、視線を少し強くして言う。
「いえ、大丈夫よ。話してくれてありがとう、シオン」
「そうか。なら、戻っても大丈夫か?」
「ああ、ちょっと待って。一度こっちに来てくれないかしら?」
「……? まぁ、いいけど」
疑問符を浮かべつつ永琳に近寄った瞬間、
「……ごめんなさいね」
「え――」
トン、と首筋を叩かれる。
余計な力は無く自然に。入れる角度を整えられたため受け流すことさえできず――だからこそ、シオンは前に倒れるしかなかった。
「永、琳……?」
そんな呟きを、残して。
倒れ込んで来たシオンを永琳は抱きしめる。その顔には憂いが宿り――そして、どうしようもないほどに剣を睨んでいた。永琳にその自覚は無い。ただ、自分の顔が険しくなっているのは、何となく理解できていた。
気絶しても剣を手放さないシオンの右手に触れ、黒陽を持とうとし、
「――!?」
掌に、電流が走る。いや、電流では無いのかもしれない。どの道永琳には関係が無い。ありえないほどの重みを発する黒陽を持ち上げようとした永琳は、掌から手全体に、手首、肘と、どんどん痛みが体を伝って行くのを悟る。
それでも剣を手放さず、左手でシオンを抱きしめるのもやめない。
痛みは既に心臓にまで達している。まるで素手で心臓を握り締められているかのような錯覚は、常人であれば狂うほどの気持ち悪さ。しかし永琳にとっては、まだ『我慢できる』程度の痛み。
シオンの体を持ち上げ、手で足裏を持ち、腕全体で下半身を固定し、上半身を自身の上半身で受け止める。身長に差がある二人だが、今だけは、シオンの髪が永琳の横顔に触れていた。
反面黒陽は引き摺るしかない。重過ぎるのだ、あまりにも。一歩踏み出すのすら苦痛、という言葉ですら表現できないほどの負担を永琳に与える。
「この剣は――
能力を持つ剣は多々存在する。重力を操る剣だってあるだろう。
だが、もしも――もしも永琳の予想が正しければ。
「人間は、決して
永琳の予想は誰にもわからない。永琳自身さえ、今はまだわかっていない。
腕の中の重みは、決して軽くない。助ける義理は無い。だが――弟子と言い切った、この難儀な性格の少年を振り解けるほど、永琳は冷酷では無い。
「せめて、この幻想郷では――」
この願いは叶えられないかもしれない。いや、その可能性が高い。
しかし、ここは幻想郷。『どんな存在でも受け入れる』場所。だから、この『人だったと認めて欲しい』と人知れず泣く少年に、ほんの少しの
シオンにとって、黒陽と白夜は数ある武器の一つでしかない。どんな名剣であろうと。どんなに凄まじい能力を持とうと。人を殺すための武器であるのに変わりはない。
だから、シオンは適性を上げて能力の幅を増やしていても、それに頼ろうとはしない。頼りたくは無いのだ。
だってそうしていたら、もしこの二つが無くなったとき、シオンは戦えなくなってしまうから。
だけど、とシオンは思う。なぜ、この剣からは妙な感じがするのだろうか、と。
理由は無い。ただ感じるだけ。でも――それが、どことなくシオンは親近感のような、よくわからないものを思わせ、この二つの武器、特に黒陽を使う理由となった。
それでもやはり黒陽を使う場面は少ない。武器として使うのはいいのだが、普段小さな剣状のアクセサリーにしているため、人の目がある場所では大きさは変えられない。そのため幻想郷とは違い、シオンは通常の武器を多用していた。精々が自分の重力に干渉して、バレないように移動速度を加速させたくらいだ。
恐らくコレが原因だろう。黒陽を手に入れてから三年という月日が流れているのにも関わらず、白夜とほぼ適正値が変わらないのは。
ここに来てから多少使ったが、やはりダメだ。全然力を使いこなせていない。もっと強くなりたい。もっと強くなって、いつか――。
――……俺は強くなって、何がしたいんだ?
目的は無い。目標はアリスに話したが、それが現実になる可能性は低い。現時点でも強くなって何かをする気は無い。
空っぽ。虚ろ。どんな形容詞でも構わない。今のシオンには、何も無かった。
――ああ。そうだ。俺は生きようとすらしない、死にたがりの人間。俺は、一体。
何のために、生きているんだろうか。
「――――――――――」
パチリ、と瞼を開く。
外から差し込み日の光に眼を細めながら、今が何時なのかを理解した。同時、体中に汗を掻いているのも。
時刻は恐らく午前十時から十一時の間。珍しく……というより、始めて寝坊した。ここまで長く寝たのはいつ以来だろうか。
そんな事を考えるが、シオンは永琳と話していたため四時以降まで起きていた。つまり、まだ六時間程度しか寝ていない計算なのだが、コレで長いとは穏やかでは無い。
汗が体を伝っていく感覚に不快を感じながら起き上がる。そこで気付いた。胸元に黒陽が無い、と。
ふいにシオンの脳裏に昨夜永琳に気絶させられた事がよぎった。アレから一体何をされたのか、全く分からないのが若干の恐怖を感じさせる。あの手の人間は少しヤバイ。特に生き甲斐とも言えるモノに対しては。
永琳のそれは研究。特に薬学だが、シオンの体はある種の研究対象として興味深いモノだろう。利用する価値は十分にある。
警戒を怠っていた、とシオンは思う。わかってはいる。気分が落ち込んでいた時に慰められたから永琳に対して甘くなっているのだと言うことは。それでも――嬉しかったのだ。
永琳はシオンの意図を全て把握している。把握してくれている。何かを言わずとも考えを察してくれるのは、シオンとしてはありがたかった。疎まれることが多いだろうその頭脳に、シオンは感謝していたのだ。
だからこそ、と。だからこそ、シオンは永琳を、信じた。信じたシオンを信じてくれると、永琳に期待した、のだろう。
が、シオンは一つ溜息を吐いて――そんな
期待とは、言い換えれば所詮押し付けでしかない。それでも無意識に思ってしまう辺り、人外ではあっても人間性を捨て切れてはいないらしい――そう思って。
シオンは立ちあがり、部屋の外へ出て行った。
永遠亭の中に感じる気配はまばらな位置にしかない。今居るのは三人だけだ。それ以外は外出したのだろう。
輝夜は日中だろうと深夜だろうと構わず部屋でゲームをしていて、ご飯と風呂以外で自室から出る事は無い。
永琳はよくわからないが、薬とこの永遠亭の維持か何かをしているのだろう。主である輝夜が何もしないため、彼女以外にここを管理する人間はいないのだ。
鈴仙は家事全般とその他厄介事を受け持つ。ある意味一番の苦労人だ。最も暇な時間が無いのは鈴仙だろう。
てゐはどちらかというと輝夜に近い。が、彼女と違って仕事はするし義理は果たす。普段永遠亭にいないのは、迷いの竹林を歩いて回っているからだ。その真意は彼女にしかわからない。
アリスはシオンとルーチンが似ている。朝起きたら軽い魔力制御。朝食を食べたら身体強化。昼食を食べたら鍛錬でできたシオンの傷を癒しつつ身体強化の維持。夜は他のことに気を配りながらかなり薄い魔力制御。ほとんど魔力に関する事しかしていないが、コレが最もアリスの修行内容として適切なのだから仕方がない。彼女はまず扱える魔力の量とそれを持続できるだけの集中力を養うべきなのだから。
シオンは逆に肉体をいじめ抜きつつ黒陽の制御をしているのだが――内容があまりにハードすぎるので割愛する。アリス曰く「いつ死んでもおかしくないと思う」ような鍛錬である。
とりあえずシオンは一番近い気配のする場所へ移動する。当然そこは、永琳の居る場所だ。
扉の前で立ち止まり、逡巡するシオン。昨夜の事が頭の中でチラついて消えない。だがそれも一秒か二秒、あるいはそれ以下の短い時間であり、すぐに扉を開けた。
「ああ、起きたのね。汗が凄いのなら、そこにタオルがあるから拭いていいわよ。黒陽については少し後にして。話は一段落してからね」
早口で言いながら指でタオルのある方向を指し示し、即座に手元へ戻す。そんな反応に少し戸惑いつつ、言われた通り素直にタオルで汗を拭う。
勿論服に滲み込んだ汗についてはどうしようもないが、体にある汗を拭えるだけでも大分変わるモノだ。不快感はグッと消えた。
さてどうするか、と思うが、どうしようもないのが現状だ。永琳はシオンの存在に気付いていないかのように集中しているし、かといってこのままでいるのもどうだろうか。
迷ったシオンは、結局頭の中にある、まだ読み終えていない本を思いだし始める。コレは逃げなのだろうかと一瞬思ったが、今回は仕方がないだろうと思い直す。
膨大な本の山を思い返して、それから数時間経っただろうか。正確な時間はわからないが、永琳の動きが止まったことでシオンは現実へと意識を戻す。
永琳は、険しい顔で目の前にあるナニカを睨んでいた。
「やっぱり――でもどうしてこんなモノが……」
その後も何度か呟いていたが、どれもこれも抽象的過ぎてほとんど意味がわからない。それでも何かしらの結論に至ったのか、数度頷くと今度こそ視線をシオンに戻した。
「昨日はごめんなさいね。よく眠れたかしら?」
「起きた時の汗の量を除けば、一応快適な睡眠だったな」
「あらそう? それならよかったわ」
シオンの皮肉を物ともせず、永琳はにこやかに笑う。結局毒気を抜かれることとなるシオンだった。
永琳は手元にあるそれを掴むと、シオンに投げ渡した。
「はい」
「――あ」
小さく呟きながら、投げ渡された、なぜかアクセサリーに戻っている黒陽を右手で受け止める。それを首にかけ、黒陽の輪郭をそっとなぞる。
なんとなく治まりがついたような感覚。
ああ、とシオンは理解した。
(俺は――不安、だったのか)
いつも身に着けていたモノがどこかに行ったため、身の落ち着けどころが無いような、奇妙な感覚があった。それが今、無くなったのだ。
ただの武器と思っていた黒陽は、その実シオンにとって大切なモノの一つとなっていた。それを痛感させられる。
そんなシオンを見やり、複雑な表情を浮かべる永琳。
だが即座にそんな事実は無かったとばかりに鋭い眼差しを向ける。
「さて――一晩眠って鋭気を養ったでしょうし。今日は多少、無茶をするわよ?」
「無茶?」
「ええ」
実のところ、永琳がシオンを気絶させたのは何も身勝手な理由ではない。単純に、シオンの溜まりに溜まった疲労、それを解消させようとしたのだ。かといって口頭で伝えてもそれを受け入れる可能性は低いし、何よりいつも一、二時間しか寝ていない人間を信用しろと言う方が無理だ。
まぁ、その時間を利用して黒陽を調べていたのは事実だし、否定できないが。
そして、永琳は話す。
「あなたは知識が無いから黒陽の力を使えないのでしょう? だったら、今日から全ての授業の内容を『重力』の把握に移すわ」
早速とばかりに手元の紙束を手渡す。それらはかつて永琳が纏めたレポート紛いのようなモノだった。
「……は?」
書かれている内容はかなり高度なモノ。
シオンは永琳から一般的な数学――永琳の言う一般的な数学は、他人で言うかなり深い、それこそ教授レベルのモノだが――を学んだが、その知識を持ってしても理解できない数式がいくつか見渡せる。
最初の一ページでコレだ。こんな数百枚もあるページ全てを理解するのに、一体何日かかるのだろうか。
「さ、まずは重力の基礎的な部分から学んで――」
ああ、とシオンは理解する。
永琳はあくまで自分の事を考えて呉れてはいるが――自分の欲求を満たそうとしているのだと。
その証拠に、永琳の表情は嬉々としていて、楽しそうだ。
しかし、シオンはこの授業を受けることで一気に黒陽の力を使いこなせるようになるのだが――それはまだ。誰も知らない。永琳ですらも。
知るのは、数日後の話――。
先週更新できずすいません。山場を越えて一気に気が抜けました。
後一話か二話で永遠亭は終わりかなって感じです。早く次に進めたいですね……。