「霊夢、動きを止めるからそこを狙えッ」
「あんたまた無茶するつもりじゃ――」
言うが早いか、紫苑は霊夢の静止を聞かずに片腕を差し出す。
「い、ッ――!」
鋭い犬歯で噛み付かれた腕が骨ごと持っていかれる。一瞬止まる紫苑と、人狼のリーダー。双方を狙い霊夢と、若い人狼が殺到する。
けれど紫苑と目の前の敵が留まる謂れはない。紫苑は手に纏わせた黒陽を。人狼はその鋭い爪を互いにぶつけ合う。本来なら紫苑の腕では耐え切れないそれも今は無視。とかく拮抗状態を維持し続けなければ意味がない。
「ったく、後二十秒耐えなさい!」
「無茶、言うねぇ!」
篭手を纏わせた手を斜めに逸らして爪を避ける。同時に噛み付かれた腕から牙を引き抜くと同時に、
「そら、これ食いたんだろう!?」
最早死に体の腕を、人狼の口内に突っ込んだ。
「――ッ!」
喉奥を突かれた苦しみから嗚咽を漏らす人狼。しかしそれさえも紫苑に突っ込まれた腕が原因でできない。
紫苑を見る目に憎悪が宿る。だが紫苑はそれに怯えるでもなく、ただ笑ってみせた。
思ったことは一つ。
――ああ、懐かしい。
本当に、混じりっけ無しの憎悪を浴びるのは久しぶりだった。里の人達が見る目には確かに憎悪があったけれど、それだって怯えの成分は多い。
殺し合う中で宿る殺意の宿った憎悪は、一つも無かった。それは仕方ないことだろう。彼らは本気の殺し合いなんて経験したことなどないのだろうから。
そういう意味では紫苑は今この状況に場違いな安堵を抱いていた。気を遣わなくていい。ただただ当滅すればいい。
……思考しなくていいというのは、存外気が楽だった。
痛みはあるけれど、それも単なるスパイスにしかならない。紫苑にとってこの程度の痛みは慣れたもの。
だから、容赦はしない。黒陽の能力、形状変化で篭手を纏う腕を変更し、同時に指先の部分を鋭い切っ先へと変える。もちろん喉奥を突かれた状態で、だ。当然の如く瞬時に伸びた指先が槍の如く人狼の喉に五つの穴を作り上げる。
「――――ッ!??」
喉が引き攣る。それでも未だ死なない人狼が紫苑を殺そうと両腕を伸ばしてくる。
「……遅い」
その前に、紫苑の手のひらが人狼の胸元に触れた。
――発勁、鎧通し。
ドン、と衝撃がそのまま心臓にぶち当たる。破裂させることはできなかったようだが、それでも心停止状態には陥る。
呼吸ができず、心臓も動かない。生命力が急激に停止するのは当然だった。
ふっ、と体から力が抜け、瞳から光りが失われる。だが死ぬ寸前、最後に残った灯火が、リーダーとしてのプライドが、ただ死ぬのを許さない。
後ろではなく、前のめりに倒れこむ人狼。喉を刺突している紫苑は当然人狼の前にいる。更に最後の最後で口を閉た。無理矢理口と喉に力を入れているのか、腕を引き抜いて逃げるという手段は使えない。為すすべもなく潰されるしかなかった。
人狼は筋肉質で、重い。いくら力があろうと耐久力は人間の子供のそれしかない紫苑は腹を圧迫され、小さく息を吐き出した。
リーダーを殺された怒りからか、周辺にいた人狼が紫苑目掛けて殺到する。少なくとも紫苑がここから抜け出るよりも先に頭を潰される方が早いだろう。
「十分だろ、時間稼ぎ」
そう、紫苑がたった一人であったのなら。
「閉じなさい!」
唐突に全ての人狼が動きを止める。いや、止めさせられる。全身を覆う見えない壁が、彼らが動くことを許さない。どれだけ叩いても、吠えても、壊れない。
「集まれ!」
ふ、と人狼の足が地面から離れる。宙に放り投げられた人狼達はジタバタともがくが、悪あがきにすらなっていない。少しずつ少しずつ、全ての人狼が集まっていく。折り重なり、やがて小さな小さな月か、星のような球体になる。
それを見て紫苑はうわぁ……と思ってしまった。人狼は人の体に狼の特徴を兼ね備えている。つまり、毛が生えている。
そして当たり前だが、毛布を何枚も重ねれば熱くなるように。
あれだけの人狼が無理矢理一箇所に集められれば、中心部は地獄のような暑さを発生させていることだろう。
もちろんそれは時間をかければかけるほどそうなり、いずれは自分達が発生させる熱だけで脱水症状を起こし、死ぬだろう。とはいえ霊夢とてそこまで鬼ではない。ひと思いに楽にさせるつもりだ。
本音はあんなのにそこまで時間を使うのが勿体無いだけだが。
「粉、砕」
ギュッと可愛らしい動作で、だが紡がれる言の葉は物騒にして手を握る。ギシギシと球体を描く結界が圧縮し、圧縮し、圧縮し――潰れた。
何かが潰れる、とても嫌な音が聞こえる。それはまるで、足でゴキブリを潰したと思ったらそれが一匹ではなく、数匹分だった時のような――あるいはそれを更に数倍にしたかのような、そんな音が。
紫苑の頭上。潰れた人狼から溢れ出た赤い紅い血の色――それがプールのようにチャプチャプと揺れている。恐らく水圧で肉も、骨も、内蔵も何もかもが潰れきった。
普通なら嫌悪を感じるべきなのかもしれない。でも、
――ああ。
(ホント、綺麗だよな……)
倒れる紫苑の目に映す、ただ一色だけの――少なくともそう見えるだけだが――その赤さ。惹きつけられる色。それがどんどん大きく……大きく、なって――?
「あ、やば術式が」
なんて、とても嫌な言葉が聞こえてきた。
パシンと結界が消え去る。当然ゆらゆらと揺蕩っていた血は雨、否滝の如く降り落ちる。
……紫苑の、真上に。
咄嗟に黒陽で盾を作ろうとして。でも、やめた。なんとなく、頭を冷やしたくなったのだ。
実際のところ、凄まじい程の熱さが襲いかかってきたが。おしくらまんじゅうのように敷き詰められて人狼が熱し、圧縮した時の摩擦か何かで更に加速。外側だけは適温だがそれでも熱い。少なくとも人肌で耐えられる温度を越えていた。
目を、口を閉じる。最低限守るべきところは守って、他は全てこの熱湯に晒す。熱くて熱くてたまらないのに、どうしてか避けようとは思わなかった。
何秒経ったのか。ふいに紫苑に叩きつけられていた血の滝が終わりを告げる。動く腕を上げてみると、真っ赤に染まった肌が見える。これは恐らく、人狼の血と、焼けた肌が合わさった結果だろう。そういえば無性に背中が熱いと、視線を横に移すと、背中に広がる血の海が。まるで紫苑からぶちまけられたような参上。
パタリと腕から力を抜く。なんとなくバカらしくなってきて、焼けた喉でくぐもった笑い声をあげる。
遠くから霊夢がかけよってくるのが見える。何かを大声で叫んでいるのが見えた。でも、焼けた耳には何を言っているのかわからない。目にも影響を受けていて、読唇術が不完全だった。
霊夢は血の海に入る手前で顔をしかめると、それでも躊躇せずに足を踏み入れる。熱いだろうに我慢して、紫苑のすぐ傍まで近寄った。
そのまま上半身だけを折り曲げて、巫女服が血に濡れないよう器用に紫苑の手を掴んだ。
掴まれた腕が酷く痛むが、耐えられないほどじゃない。声を出さない紫苑の代わりなのか、霊夢の方が、
「何、この酷い感触……本当に、紫苑の肌なの?」
なんて言葉を発した。
巫女服が濡れないよう気をつけていたはずなのに、霊夢は紫苑の腕を引っ張ると肩を貸す体勢に変えた。服は耐火、耐水性なので胴体は問題ないが、それ以外――特に血を吸い取った髪からは血がポタポタと垂れ落ち、白いはずの髪が一時的に真紅に染まっていた。
ほとんど意識が無い状態で、紫苑は考える。
どうして自分はアレに対処しようとしなかったのか――と。
そんな事を人知れず悩みながら連れて行かれたのは、紫苑と霊夢が戦っていた場所から結構離れたところだった。
そこにいた人物は、膝をつき、両手を胸の前で握り締め、眩く輝く金髪を揺らしながら頭を垂れていた。その目と鼻の先にあるのは、一本の白い剣。
紫苑の持つ、空間に作用する剣、白夜。それをもって霊夢が作るよりも遥かに強度が高く、またそれを維持する時間もその場から引き抜かない限りは続くという、紫苑の持つ結界術式の中でも郡を抜く力。
もちろん、その間紫苑は空間を操れなくなるが、それを差し置いてなお、『誰かを守る』これ一点だけはどんなものより信じられる。
それに守られている人物は当然、戦闘力が低く、だが狙われる優先順位が高い。
その人の名は、アリス。
二つ名を『永久の癒し手』という、彼女。霊夢が紫苑を連れてきたのは、彼女に紫苑の傷を治してもらうためだった。
「ほら紫苑、起きなさい! あんたしかこの結界解除できないんだから!」
髪を引っつかんでグラグラ揺らす霊夢に情けなんて言葉はない。仮にも怪我人相手だというのにこれだ。
しかし、このままほったらかしていても怪我は治らないとわかっているからこその行動でもあった。彼女を責めるのはお門違いだろう。
暴れていれば当然アリスも気づく。怒鳴り声に近い叫び声に振り向くと、そこには紫苑を揺らしまくる霊夢と、ぐったりと倒れこむ火傷と左腕を噛まれひん曲がった紫苑の姿。
「な――何やってるのですか霊夢!? 怪我人にそんな対応をしてはいけません!」
「このままこいつが起きなきゃあんたはそこから出られない。出られなかったら治療を受けられない。不可抗力よ!」
「根本的に間違っていますッ。怪我人を治すのに怪我人に無茶をさせたら本末転倒でしょう!」
幻想郷で相応の時を過ごしたからか。過剰なまでの礼儀正しさは消え、それでも育ちの良さを窺わせる品の良さを残しながら、アリスは怒る。
永琳と共に怪我人や病人を治療して回っているからか、アリスはこういったことにはとても厳しい。その迫力に押された霊夢がつい謝ってしまうほどだ。
まあ、そこまでの感情を抱くほど『永』琳と共に治療し続けたからこそ『永久』なんていうだいそれた二つ名を皆から与えられたのだ。当然の帰結だった。
だが霊夢とアリス、二人の少女が耳元で騒げば、当然そのすぐ傍にいる紫苑にも届く。
「う、ぁ……。……あ?」
呻き声をあげながら何度か目をまたたかせる。耳に届く二人の少女の声。それが脳に届く前か後か、紫苑は手を伸ばして結界を解除していた。
無理に手を伸ばしたからか、紫苑の体が揺れて崩れ落ちる。受け身も取らず顔から落ちていったせいで嫌な音が辺りに響いた。
焦った表情で霊夢が紫苑を回転させて仰向けにし、アリスが紫苑の容態を見る。
「……火傷は酷いですが、比較的軽傷です。腕の傷も……後遺症なく治るでしょう」
「そう。それなら特に問題ないかしら」
「はい。ただ、一つ気になるのは、この熱さ。一体何をどうやったらこんなことに? まだ煙を纏ってますよ」
「あー……」
ポリポリと頬を掻く霊夢の脳裏に浮かんだのは、ボコボコと泡立ち煙が立ち上る血の池地獄に倒れた紫苑の姿。
圧倒的な鉄の臭いと、それ以上の肌を突き刺す熱気。今でも肺が息苦しいと錯覚するような場所に倒れていたのに、紫苑はたったそれだけの火傷しか負っていなかった。
昔から何かがおかしい。そう霊夢は思う。
でも、と頭を降り、感じた疑問を頭から追い払う。今大事なのは、紫苑の謎ではない。紫苑の傷を癒すことだ。
「ちょっと、熱湯を被っただけよ」
「熱湯って……まぁ、一応納得はしました」
こんなに赤いのも、熱いのも。
なんとなく察したアリスはそう答えると、早速と紫苑の治療に取り掛かる。
アリスが使う『回復魔法』は人の持つ自然回復力を相応に早めるというもの。リスクとして患者がある程度以上の栄養分を補給していないと、肉体の急速回復についていけず、逆に自壊する恐れがあることと、やりすぎると寿命をガリガリと削ること。
付け加えれば、紫苑の場合のみ凄まじくコントロールが難しい。本人の事情が事情のため霊夢には言っていないが、紫苑の体は新陳代謝が高すぎて自然回復を早めるとあっさり自壊する。そのため常の患者に比べより繊細になる必要があった。
心臓に手を置くアリス。心臓は全ての血管の中心点。そこに魔力を流し込んで、全身に魔法の作用をかけていく。全身を巡った魔力はやがてアリスの手元へ返り、その魔力の大きさで今かけている魔法のかかり具合を把握していく。
多く帰ってくるならかけすぎであり。
ほとんど帰ってこないならかけたりない。
そういった具合でアリスは回復魔法を扱っていた。ちなみにかかりやすい人とかかりにくい人には個人差があり、紫苑の場合はかかり『やすすぎる』。それがアリスに負担をかける一つの理由でもあった。
焦ると紫苑を殺してしまうとわかっているので、慎重に。
まず影響が大きすぎる火傷を排除。書類仕事と外回りをすることが多い以上、動かしにくいというのは大きなハンデになるだろう。
ピンク色の肌が白色に戻ると、荒れていた吐息が急速に和らぐ。内心でホッと一息つくが、すぐに腕に手当に戻る。だが流石にこれだけ大きな傷となると、腕の骨を元に戻し、なおかつ表面上の傷を治すのが限界だった。というより、ここまで癒せたのが予想外だ。
紫苑は消化器官も良い、良すぎるので、かなりの量の栄養を貯め込める。しかもそれで太らないほど燃費が悪いので、アリスの能力とはとにかく相性がいい。何せ回復魔法を万全に受ける栄養の補給を事前に大量に行った上で行動できるのだから。
「ここまでです。腕の傷は表面上治ってるように見えるだけなので、数日は安静にしておかないとダメですね」
「へぇ。見たとこ完全に治ってるようにしか見えないのにね」
基本的に外敵が現れたときは紫苑、霊夢、アリスの三人で行動している。近接を紫苑、中距離が霊夢で、後方待機する医療要員。
が、今までアリスの出番が必要だったところはほとんど無い。規模が小さいというのもあったけれど、何より紫苑がそこまでの無茶をしなかったというのもある。
ふと霊夢は夜空に浮かぶ月を見る。此度の人狼はいきなり発生したと言っても過言ではないほど数が多かった。その上今日は満月ではない。だからこそそこまで強くはなかったが、数の暴力がもし里に襲いかかれば――と考えてしまう。
「……帰りましょう。鈴仙に怒られてしまうから」
鈴仙の過保護っぷりは里の誰もが知っている。アリスを危地に連れて行く紫苑と、ついでに霊夢を嫌って――あくまでその部分を嫌っているだけだ、他はそうでもない――いる。
これ以上嫌われる理由を作るほど、霊夢は子供ではなかった。
……未だ十に満たぬということを、里にいる人は覚えているから子供扱いされるのが当然なのだが。
そして紫苑を背負い、里へ帰る。
「それでは私はこれで。紫苑のこと、頼みますね」
「最低限の責任は果たすわよ。気にしないでさっさと行きなさい」
あんたが遅れれば遅れるだけしわ寄せがこっちにくるんだから、という本音は飲み込み、
「鈴仙が心配してるでしょうから、安心させてあげなさいよ」
という建前を発しておく。
「はい。それでは今日もお疲れ様でした」
ペコリと軽く頭を下げて、アリスは里へ入っていく。遠目に里の人達から何か誘われているのが見えた。
「私も行きますか」
そう呟き、霊夢は八雲邸へと飛んだ。
八雲邸が見えた瞬間、霊夢は知らず溜息を吐き出す。流石に軽いと言えど自分と同じかそれ以上の人間を運ぶのは疲れる。
八雲邸に降り立つと、霊夢がまず目指したのは紫苑の部屋。そこまで行けば後は布団を敷いて紫苑を眠らせればそれでいい。帰って寝れる。
後は紫苑次第、と寝ぼけた頭で用意し、横に置く。ついでに額から流れる髪を払い除けてやる。どことなく苦しそうだった紫苑の表情が和らいだ気がして、ちょっと嬉しかったのは内緒だ。
――この時気づけた可能性を持てたのは、霊夢だけだった。
人狼の攻撃を避けられたのに避けなかった、その理由。薄ぼんやりとした思考の中で思い描いたちょっとした願望。
――気づいていれば、結果は変わったかもしれない。
歯車が狂い始めた、その瞬間の出来事。
紫苑の朝は早い。
朝日が出る前、大体三時から四時には起き、朝食の準備をする。その合間に暇ができれば書類などを再確認及び修正し、紫に提出。そこから再び書類仕事に戻るか、あるいは何か小さな異変が起こればその対処に出向く。一週間にニ、三日は寺子屋で授業もしたりする。
本当は紫苑も人間ということで、異変の対処は藍に、人里の衝突は紫苑に、ということになっていたのだが、紫苑は里の人々から恐れられていたし、何より『常識』というものが人よりズレているので妖怪の藍よりもアテにならない。
それが理由で、紫苑と藍はそれぞれの役割をチェンジした。適材適所、というものである。
「紫、今月の里の食料事情だ。足りないものと多すぎるものを纏めておいたから、多少改善しておくことをすすめる」
「そうみたいね。夏と冬では植えるものが違うから、こういった細かいところに気を付けないと私達がやらなきゃいけないことが増えるものね。里の人達にも伝えておくわ。それじゃ紫苑、次は里の人口データを作ってちょうだい。家屋がどれだけ足りてるか足りてないかを知りたいの。夏からどれだけ増減しているのかも纏めておいて」
「わかった。明日か明後日には提出できると思う」
このように、紫苑が与えられた問題を纏めて報告書にして紫に渡し、そこに書かれた欠点を紫が改善していく。そしてまた次の問題を与えられる。
こうなった原因は、紫達がこの三年間、幻想郷で暗躍していた蛍達にかかりきりになっていたせいだ。本来やらなければいけないことを、本当に重要なもの以外後回しにしていたせいである。その負担が一気に紫と、藍と、紫苑に降りかかっているのだ。
とはいえ、沙璃亜のおかげで幻想郷を覆う術式は大分安定し、消費する力も減ったため紫が睡眠を必要とする時間は大幅に少なくなった。これで紫が寝ていたら、紫苑と藍の二人は火の車になるだろう。
紫苑は少し違和感を覚える腕をグルグルと回して、里へと向かった。
里の人口データを集めろ、と言われた紫苑であるが、これは紫苑が適任だからこそ与えられた仕事だ。本当なら戸籍でも作ればいいのだろうが、それを管理するのは手間がかかる。かといって人口を知らなければ里の人間がどれだけ増え、また減っているのかがわからない。
故に、完全記憶能力で人を完全に覚えられる紫苑が適任だった。気配探知で人を探り、その人独特の気配を覚えておく。
赤子、子供、少年少女、大人の男女、老人老婆。それを一人一人、正の字を利用して把握していく。
自分の姿は晒さない。怖がられているのがわかっているのだから、敢えて仕事のしにくい状況を作りたくはない。大人しく屋根の上にいるのが賢明だ。
いかに紫苑が完全記憶能力を持とうと、『記憶する』のと『思い出そうとする』のは全く別の機能だ。同じ人間を数えていないか、数え間違いが無いかをすり合わせるのは膨大な時間がかかる。それに里の外へ出ている人の事も考えなければならない。
朝早く出たはずなのに、もう夜になっているのはそのせいなのだろう。手元にある書類をなんとなく見つめる。帰ったらこのデータを正式な書類にし、前回作ったデータを元に人口推移を纏めなければならない。
もちろんそれが全てではないが、ある程度の期間毎に纏めれば、いつ人が増えていつ人が減りやすいのか、指標にはなる。紫としてはそれで十分なのだろう。
今までできなかったことを、試せるのだから。
陽が完全に沈み、空に煌びやかな光りが灯る。なのに、紫苑はそれを綺麗だと思えなかった。それからまた数時間。
夜闇の中、凍える風を体に当たらせながら、紫苑は家へと帰っていった。
「紫苑、おかえり。夕御飯は温め直しておいたから、必ず食べてくれ」
「ああ、ありがとう藍。……そっちの仕事は?」
「相変わらずだ。結界の管理は大雑把で済むようになったのが救いといえば救いだな。多少のイザコザはともかく、やれ商品のアイディアを盗んだやれこの畑は自分の畑まで侵害しているだと面倒くさいことばかりで頭が痛いよ」
「人間というのは面倒な生き物だからな。面倒なことばかり起きるのは仕方がないさ」
「紫苑が言うべき言葉ではないな、それは」
笑う藍に、紫苑も皮肉気だが笑みを浮かべる。
「仕方ないよ、根本的に他人というものを信じてないんだから、俺は。人となりを見れば信じるのは簡単なんだけどね」
「あれだけの人数は厳しいか。まぁ、仕方ないだろう。ご飯を食べたらどうするんだ? 風呂に入って寝たほうがいいだろう。この時間だし」
「いや、風呂はいい。軽く水で濡らしたタオルで体を拭ければ十分だ。今日はあまり動いてないしな」
そう言うと、藍はどこか不安げに言った。
「そうか? なら、後で温めたタオルを渡そう。この季節に冷水で濡らしたタオルは体に悪いからな」
「わざわざすまない」
「いや構わないよ。それより、だな」
ん゛ん゛、と咳をする。その仕草と、若干赤くなった頬が、少し恥ずかしいという心情を顕わにしていた。
「あー、その、だ。……紫苑、疲れてないか? 無理、していないか? 頼りにならないかもしれないが、私とてお前がやっていた仕事をしていた身だ。手伝えることもある」
「……?」
「……ダメだな。やはりストレートに伝えよう」
よくわからない、と小首を傾げる紫苑の小さな頭に、藍は自身の手を乗せ、撫でた。
「頼ってくれ、紫苑。そんなに頑張らなくてもいい。子供のお前は、大人の私に寄りかかって構わないな。そ、それだけだ。ではな、私は寝る!」
最後は早口で言い切り、おやすみと背を向けて去っていく藍。
「……頼、る……?」
まるで聞いたことのない言葉を言われたかのように、目を丸くして呟く紫苑。そしてそのまま、気づけば口にしていた。
「頼る、って」
驚くべき一言を。
「
それからまた数日が経った。
一昨日出された難しい問題をどうにかこうにかクリアし、後は書類にして纏めればいいという段階。できれば紫が戻ってくる前に終わらせたいと、黙々と書き連ねる。
橙もそれを察してくれたのか、昼食を作るのを代わってくれた。ありがたいと思いながら手を進める。
ほぼ書類が作成し終わり、後は結論を書くだけ。その時紫が帰ってきた。まだ門前にいると察したので急いで書き終える。紙数枚を順に並べ、揃える。
それを持って紫苑は玄関前へと急いだ。
ちょうど紫が玄関を開ける音が聞こえる。
「おかえり、紫。書類は纏まったから、後で確認してくれないか」
「あら、そう? まさかこの短時間で終わるなんて」
そして書類を受け取った紫が、最初の一枚目にザッと目を通す。そしてさも今思いついたというように、口を開いた。
「そうだわ、紫苑。ちょっとあなたに言うことがあるのだけれど」
「ん、なんだ。次にやることか?」
「いえ、あなたから、
「……え?」
軽く告げられた、その言葉。
「それで、そこから」
「すまない紫。ちょっと里に行きたいから、話は帰ってからにしてくれ」
「え、しお――?」
逃げるように――いや、逃げた。
紫の言葉から。その先を聞きたくないと、逃げ出した。白夜で空間を切り裂き、ついでに周辺一帯に干渉して追いかけられないようにした上で。
紫苑は、逃げた。
里へ降り立った紫苑は、フラフラと歩き出す。行き先は無い。ただ、紫の前にいたくなかっただけだ。なら何故里へ来たのか。それさえわからない。
ふと、衆目を集めている気がする。それだけなら気にする理由はない。里に入れば、大なり小なり恐れと、怯えと、怒りと、憎悪と。およそ友好的でない視線を多分に含んだ眼を向けられるのだから。唯一友好的なのは、寺子屋で授業を教えている子供達くらいだろう。
精神年齢が上だからか、尊敬を集めてる気がするし――なんて、半ばどうでもいい思考を展開する。
彼ら彼女らが今紫苑を見ている眼に宿るのは、『驚愕』と『困惑』と、少数だが嘲笑もあった。
どうしてなのか、その理由を突き詰める前に、紫苑の体が後ろから吹き飛ばされた。
「おいおい、どうしたんだよ? いつもはあっさり避けるのに。やっぱお前にフランさんは相応しくないなぁ?」
そんな声が聞こえる。
この声には聞き覚えがあった。フランに熱をあげている少年の中で、本気で惚れている奴だ。そして、妙に紫苑を目の敵にしている。
事あるごとに突っかかってきて、その度に躱している。躱せなかったのは、今日が初めてのことだ。
だからだろう、自慢気に、ここぞとばかりに笑っていた。
「それがわかったら、今後フランさんに近づくのはやめ、て――」
だが、その笑みが唐突に止まる。その眼に宿るのは、今まで紫苑を見ていた人と同じ、『驚愕』と『困惑』だ。
小さな声で「いや、え、なんで……いやこいつに限ってそんなのありえないだろ、いや単なる見間違い」と、また紫苑を見る。
それを数度繰り返したあと、紫苑に近づいて腕を引っ張り身を起こさせる。そのまま紫苑の腕と足と服とを叩いた。
「あー……悪かったよ。何があったかわからないけど、元気出せ」
「…………?」
「クソッ、調子狂うな。次会った時には元のお前に戻っておけよ! 張り合いがないからな!」
言うだけ言って、走り去っていった。
何がしたかったのか、一体何が起こっているのか。そう考えて辺りを見渡して、気づいた。
――ああ、そうか。
鏡を見て、やっと気づいた。どれだけ遅いのか。
――泣いてる、のか。
他人事のように、そう思った。
フラフラ、フラフラとまた歩き出す。異様に心が空いていた。体の感覚が無くなってしまうくらい、空虚だった。
誰も話しかけてこない。いつも怒鳴りかけてくる人も、元気に笑いかけてくる人も。怯えて離れる人も。一人として、一度紫苑を見て、呆然とした顔を向けるだけだ。
一体自分のイメージがどうなっているのか気になったけれど、そんな疑問も心に空いた穴に吸い込まれて消えていく。
――わからない。
どうしてこんなに涙が出ているのか。
――わからない。
どうしてそれに気付かなかったのか。
――わからない。
どうしてこんなに――心が痛いのか。
――わから、ない。
そして、その『事実』に、眼を逸らし続けるのか。
ふと、涙を拭う。拭っても拭っても止まらないそれを、手のひらでゴシゴシと。それでも止まらないと、手を見つめて。
「――え?」
フッ、と足から力が抜ける。
『思い出した』からだ。
――ああ、そうだよな。
血に塗れて倒れる死体を。
――『いらない』なら。
『使えなくなった』人間の、最後を。
――『捨てる』しか、無いんだよな。
「は、はは……」
笑うしかなかった。努力したのに。頑張ったのに。
言われたことを守って。出せる以上の結果を出そうとして。
――たった一度も、褒めてくれなかったな。
ありがとうとさえ、言ってくれなくて。
――『家族』って、そういうものじゃないのに。
嬉しかった。偽りでもよかった。『八雲』になりなさいと、言ってくれて。
――わかってた。『道具』でしかないってことくらい。
頑張れば、『認めて』くれるんじゃないかと、期待して。でも結局、意味がなくて。
――期待したのが、間違いだったなんて、思いたくなかったから。
必死に眼を、逸らし続けた。
選んだのは自分だと、紫苑は思う。褒めて欲しいと言わなかったのは、自分だと。だから紫苑が向けるべき感情は、紫苑のみ。
ふと、頭の中に『姉さんとの約束は――』という言葉がリフレインされる。
でも、それがどうした。
簡単に『家族』を割り切れるほど、自分は大人ではなかった。
本当に本当に小さな頃にあった、『家族のかたち』。ありふれたもので、特に特別でもなくて。でも、それを無くした紫苑にとっては、とてもとても大切で。
いつしか、それが、『憧れ』になっていた。
だから求めたのかもしれない。ありふれた家族を、紫達に。でも、それは形になる前に崩れ落ちた。
だから、紫苑の感情は爆発する。
『憧れ』をそれのままにした自分の我儘を。
それに気づいてくれなかった紫に対する理不尽な怒りを。
もうどうでもいいと割り切る、捨鉢な諦めを。
ないまぜになった
「……もう、いいや」
ブチ、と首元にかけた黒陽を引っ張る。即座にギザギザに捻じ曲がった歪な短剣に形を変える。即座に回転させて逆手持ちにし、それを、思い切り手元に引っ張り。
そして――鮮血が、舞った。