カリカリカリ、と静かに文字を書く音が響く。それは重要な書類を書いている訳ではなく、単なる趣味だ。書き方は乱雑で、書いた本人以外には何と読むのか、そもそもどこから読めばいいのかさえわからない。
これが彼女なりの暗号文だとわかるのは、一部を教えてもらった紫苑と、暇つぶしに解読していた輝夜と、鈴仙くらいのものだ。アリスは専門外だと端から覚えるつもりはなかった。
書き記す暇潰しに思い返すのはアリスの言葉。
『今回は腕を噛まれて大怪我をして、全身に火傷を負っていました』
「……久しぶりに紫苑が負傷した、か」
アリスの口ぶりから察するに、紫苑は負わなくてもいい怪我をした可能性が高い。腕の傷は囮として差し出したにしても、『全身に火傷』というのが不自然だ。
紫苑の実力をよく理解しているからこそ考えられることだが、紫苑が攻撃を避けられなかったとは考えにくい。腕は先の考えでいいだろう。
だが、全身火傷。これはどんな過程を作ったとしてもおかしい。まず『全身』に怪我を負わせるには一定以上の条件が必要だ。
まず『本人が動けない』状況にあること。痛みで反射的に腕を引いたり暴れたりする人間が、全身に火傷を負うなんてそれくらいしかありえない。炎でやられた可能性は低い。紫苑なら高速で体を動かせば風圧で消し飛ばせるだろう。
次に『庇うという動作すらしないこと』だ。例え動けない状況を作られたとしても、腕を動かしたりすることくらいはできる。それで顔を庇うのが普通だろうに、それさえしなかったというのは流石におかしい。腕が動かせなくとも、足なりなんなりいくらでも方法はある。
そもそもこれらは一般人を前にした条件だ。大前提として、紫苑の身体能力は高い。『動けない』という状況に持っていくのはかなり辛いだろう。
(その気になれば黒陽を使えばいいんだし……熱湯っていうならなおのこと)
そう、気になるのはその一点。液体を防ぐのなら、黒曜の形状変化で自分を覆う盾を作れば事足りる。全ての前提条件が狂わせられる程に便利な能力。
つまり、紫苑が全身に火傷を負ったというのなら。
――紫苑自身が、
ピタリと動きが止まる。
(紫苑が、自分から負傷した? 何故? ……傷つくことに躊躇いはなくても、傷つこうとする意思は持ってなかったはずなのに)
何かが、おかしい。
このまま放っておくと取り返しのつかない自体に陥る気がする。急に不安になったので纏めていた内容を乱雑に書き記すと、ファイルに突っ込んで棚に放り込む。
そして顔にかけていたメガネを外すと、永琳は立ち上がる。
最後に一応薬品のチェック。不必要な物を置いたままにしておいたせいで騒動になった事が過去にあった――主にてゐの悪戯に使われた――ためで、それからはこうして危ない物はなるべく隠すようにしていた。
チェックが終わると、永琳は部屋を出て玄関へ向かい、外へ出る。
と、その時。ちょうど遠くから人影が歩いてきた。そのシルエットには見覚えがあり、同時に永遠亭に来るのは珍しい人物だった。
上白沢慧音。
それが永琳の前にいる者の名だ。
「慧音? 珍しいこともあるものね。用件は――ああ、その手か。アリスなら中にいるからあがってちょうだい」
「……私はまだ何も告げていないのだが」
相変わらずの先見の明に呆れつつ、だがしかし実際その通りだったので言われたまま家へと入らせてもらう。
その手には彼女に似合わぬ包帯が巻かれており、しかも血が滲んでいた。永琳の勘違いでなければ怪我をしてそこまで経っておらず、また深い傷だろうと察する。
「ところで、その傷は? 何かに挟まれたのかしら」
「ああ、これか。……そう、だな。永琳には話しておくべきだろうか」
何かを躊躇するように視界を動かし、何度か口を動かして。
彼女は、永琳の思考を止めるような言葉を口にした。
瞬間、彼女の脳がこれ以上ないほどに活発化する。そして、これから行かなければならない場所を突き止める。
「悪いわね、慧音。あなたのその傷――治すのは、後にさせてもらうわ」
「ふむ、その顔を見るによほどのことか。あいわかった、私としてもあなたが行くべきところに興味がある。同行させてもらおう」
行き先は、紫苑がいるだろう八雲邸――。
一方で、紫苑から書類を受け取った紫はというと。
その理路整然とした内容は、紫が舌を巻くほどわかりやすい。最初の頃からある程度できてはいたが、最近になってこのレベルに進化した。
(流石としか言えないわね。文武両道才色兼備。アレだけの才が溢れていてどれか一つだけに特化していないなんて、冗談にもほどがあるわ)
本当に、何と言えばいいのかわからないくらいに。
褒めるべきなのか。だが、褒めたところで彼は喜ぶのだろうか。そもそも紫という、ある意味で憎い相手から褒め言葉を言われて皮肉だと捉えられないだろうか。
(なんでこんな悩みを……なんて、バカみたいね)
わかっていたからだ、と紫は思う。
紫苑のことを体のいい『道具』として扱おうとして。実際に扱ってみて。
ただ、耐えられなくなっただけだ。健気に頑張ってくれる少年に、申し訳なくなってしまった。元々紫とて、必要がないのならあんなに仕事を押し付けたくはない。
全ては幻想郷のために――そうして自分を偽って、何かを犠牲にして幻想郷を守ってきた。だから、今回も。一人の少年の人生を食い潰して、もっと先の、それこそ百年先の幻想郷のために役立てようとした。
結果は、無理だったが。
だからこそ、紫は紫苑から『八雲』の名を剥奪した。
良くも悪くも『八雲』は目立つ。敵味方が凄まじく別れるこの名前は、名乗るだけで相応の危険を持つ。管理者故の権限を持つメリットよりも、命を狙われるデメリットの方が目立つくらいに。
『紫苑』の名を奪わず、『八雲』の性を返上してもらったのはそのためだ。
(藍にも言われたし、せめてある程度くらいは、仕事を忘れて紫苑の好きなように過ごしてもらえれば――……)
その分、紫苑のやっていた仕事は一気に紫と藍に降りかかるが。
(藍は紫苑がやっていた外回りの仕事を引き継いでもらって――橙は、本当に簡単な仕事を手伝ってもらいましょうか。里の問題は私が対処しておけばいいだろうし)
そんな事を考えていた、その時だった。
キン、という音がして。
紫の背後の壁が、崩れ落ちた。
「な――!?」
気配も音も無く、紫の背後を取った誰かが白刃を煌めかせる。
咄嗟に境界を操って即席の盾を作る。境界を通った刃は、その盾――正確にはどこかへと通じる穴――へ触れ、目視できなくなった。
そしてそこまで確認してからやっと、紫は自らを襲った相手を見、驚愕した。
「八意……永琳? なぜ、あなたが?」
「黙りなさい」
冷たく、凍えた声。端的に告げられたその言葉が、永琳の心情を表していた。
「ッ、待ちなさい、私はあなたと敵対するつもりは」
「
境界から腕を引き抜くと、そのままスッ――と、静かに紫の盾を
「な――?」
――一体何をしたの!?
『境界を引き裂く』という、文字通りありえない剣、技……?
(違う、アレは――アレは……!?)
メス。手術をするとき、患者を切開するときに使う道具。
そんな武器とさえいない得物で、永琳は紫の盾を突き破ったのだ。驚嘆に値する。驚きに硬直している紫に、永琳は左手を突き込んだ。そのまま紫の美麗な顔を抉ろうとしたそれは、とっさに手首を掴んだことで動きを止める。
だが安堵する間もなく、右手を閃かせて隠し持っていたメスを投げる。上半身を仰け反らせて避けたが、前髪を数本、持ってかれた。
瞬時に永琳は横蹴りを振るう。後転しつつカウンターでサマーソルトキックをしたが、逆手に回転させたメスで足を切り裂かれかけた。
そのまま数歩距離を取るが、所詮は家の中だ。取れる距離などたかがしれている。すぐ後ろに壁がある事を知覚しながら、永琳への対応を考える。
考えた、が――。
(対応策が、ほとんど無い……!)
ここで永琳の不老不死という部分が引っかかった。
まず殺しても殺してもキリがない。首を切ろうが全身を消滅させようが、『死』という事象が彼女に存在しない以上、無駄にしかならない。
そして拘束も無意味だ。手錠を使ったのなら自分の手首を捩じ切ればいいし、紫の力で空間の境界を操ったとしても、その部位をちぎってしまえば簡単に抜けられる。あくまで『境界』を操る以上スッポリと彼女を覆うような――それこそ
どうあがいても隙間ができ、そしてその隙間から永琳は反撃してくる。
対応策は、一つだけ。
(彼女が感知できない場所に、ひたすら逃げ続けることくらいしか、方法がないッ)
そして『天才』たる彼女から逃げ切るのは、無理だ。
だから紫に逃げるという選択肢を選ぶことはできない。というより、ここで逃げればもう話し合いというなの交渉すらできなくなりそうな気がした。
そうするために、紫がしたことは単純だった。
纏っていた妖力を霧散させ、さり気なく開いていた鉄扇をしまう。
『武装解除』、それが永琳を交渉の席につかせるために考えうる手段だった。
「まず、最低限の説明をしてちょうだい。あなたが私を狙う理由は、基本的にないはずよ」
取りうる選択肢としては下の下だ。襲ってきた相手に悠長な説明を求めるなど、舐め腐っているとしか思えない。
それでも紫が選んだのは、相手が永琳だからだ。理性的で、メリットデメリットを計算できるだけの頭脳を持ち、それを選べるだけの我慢強さを持つ。もしこれで感情的なら、紫がそういった瞬間堪忍袋の緒が切れていただろう。
事実、永琳は溜め息を吐き出すとメスを懐に入れ、一人の人物を呼んだ。
「慧音、入ってきてちょうだい」
「やれやれ、気は済んだのか? 私は二人の争いに巻き込まれるなんてゴメンだぞ。戦闘能力は生憎とあまりないのでな」
「全く済んではいないけれど、状況確認くらいするわ。情報が欲しいもの」
恐らく玄関から入ってきたのだろう、靴を脱ぎ、きちんとスリッパを履いてきた慧音が呆れたように言う。対する永琳の返答は冷めたもので、下手な言葉を返そうものなら即座に首を掻っ切られそうだった。
「……まずは、座りましょうか」
話が長引くと判断した紫は、倒れた椅子とテーブルを戻すとそこに座り、仕草で二人にも座るように進める。
「それで? 私が殺されかけたのは、どうしてなのかしら」
「慧音、お願いするわ」
「了解した。まず、そうだな。私のところに血相変えた子がきたところから始めようか――
その日、私は珍しく里の店で何かを相伴に与ろうと外に出ていた。
基本的に自活している私は朝昼晩を全て自分の手でご飯を作っているし、何より平日の昼は授業があるからなおのことだ。だから、その日は本当に珍しかったのだ。
だからだろう、私を見つけたあの子が、ほっと安堵した吐息を出したのは。
「先生、やっと見つけた!」
「どうした? そんなに慌てて。何か怖いものでも見つけたのか?」
「怖い……確かに、ある意味怖かったけど」
要領を得ない言葉に訝しむ。
覚えている限り、この子は紫苑以外には優しかったはず。紫苑につっけんどんなのはまぁ、幼い子の可愛い嫉妬、と言えばわかるだろうか?
とかく、そんな子が慌てている。そうわかった私の心に暗澹としたものが降りかかる。
まさか、何かあったのか。そんな思考が私の中を過ぎった時、意を決したように顔をあげた子が言う。
「紫苑の様子が、おかしいんだ」
「紫苑、の?」
ありえない、と一笑に伏そうとした寸前、この子の眼に黙らされる。嘘やハッタリなんかじゃない、本気でそう言っていて。
――本気で、心配している人間の眼だった。
「……………………」
「なんていうか、心ここに非ずっていうか、ボーッとしてたっていうか。とにかくなにか、なんていうか、ええと」
思わず黙り込んだ私に、疑われていると思ったのか、口早にそう言ってくる。どんどん焦燥をあらわにする顔にトンと手を置いた。
「せ、先生?」
「四の五の言うつもりはない。――紫苑は今、どこに?」
「! あ、あっちに行きました!」
「わかった、すぐに行こう。……教えてくれて、ありがとう。恋敵を心配するとは、やはり君は優しいな」
「か、からかわないでくださいッ。それより早く行ってくださいよ!」
だから紫苑も、君に突っかかられても嫌いにはならないのだろう。なんて言葉を口にする前に、真っ赤になった顔で否定された。
……やれやれ、心配しているその眼が何より雄弁に語っていると言うのに。
ともあれこのままからかっているのも本末転倒だろう。
私は服を整え、足を引っ掛けないよう準備して、走り出す。
「先生、頼みます! 紫苑の悩みをなんとかしてやってください!」
本当に、私の生徒は優しい子が多くて仕方がない。口元が緩み、嬉しさを滲ませながら私は返した。
「当然だ、私は『子供』の先生だからな!」
なんだかんだ忘れがちだが、紫苑はまだまだ小さな子供にすぎない。
大人である私達が教え、導き、紫苑が間違った道を進まないよう、示さなければならないのだから。
――そして。
私がたどり着いたその時、紫苑は両目から血を流して、真っ赤に染まった両手を見ていた。とても尋常とは言えない様子で、かなり焦ったのを今でも思い返せる。
それでも止まらなかったから、間に合ったのだろう。
歪で、禍々しく象られたナイフを逆手に持つ紫苑。それを躊躇せず、自らの喉元を穿ち貫こうとした、その寸前。
……私の手が刃を掴み、その矛先を無理矢理変えた。
加えて紫苑の体を横に引っ張ったのが功を奏したのだろう。それでも首筋から血が伝っていたのだから、もし引っ張らなかったらと考えるとゾッとする。
「ッ!」
冷静になった今になって、ようやっと手のひらの痛みを近くする。ギザギザに曲がるナイフを素手で掴んだせいで、凄まじく痛い。指が落ちていないだけマシ、なのだろうか。辺りに散らばった鮮血が、傷の深さを窺わせる。
ほっと一息つきながら、何故こうしたのかを考える。そもそもナイフを掴む必要があったのかと考え、しかしこれは必要なことだったと思い直す。
紫苑の身体能力は、半端な半妖でしかない私を遥かに越す。せめて満月の――
腕を掴んで止めるなんてできない。かといって、あのギリギリの状況で手首を掴んで切っ先を逸らそうとすれば間に合わない。
だから、ナイフを掴むしかなかった。掴んで、即座に変えるしか。
これで失敗していたらと思うが……考えるべきことではないのだろう。
思考を止め、そっと紫苑を見下ろす。紫苑は自分の行動を理解していないかのように、また永琳に抱き止められていることさえわかっていないかのように、光の無い眼を湛えていた。
「わかってたのに。『道具』だって。使い捨てられるだけだって」
「おい、紫苑……?」
「意味なんて、無いのに。そうあることなんて望んでなかったのに。どうして俺は」
「紫苑、落ち着け!」
ボソボソと呟く紫苑の言葉を聞いていられなくなって、慧音は叫ぶ。それでも、その声は紫苑には届かない。自傷行為のように自分を傷つける言葉を吐くだけだ。
「頑張っても、褒めてくれない。一言も、くれない。俺のことを、見てくれない。『家族』ってなんだっけ? あんなのが『家族』なの?」
なんだ。
一体、何が起こってるんだ。
「なんで――なんで、なんでなんでッ。期待なんて、したんだ俺はッッ。もう――になるのは無理だから、代償行為に求めたのか!? そんなの違うのに! 所詮、俺はッ」
ガリ、と、頭を丸めてうずくまる、防御の姿勢。そのまま私なぞ――いや、里の皆が見ていることなど知らないように、紫苑は叫んだ。
「
「な――」
そんなの違う、と言おうとした。
きみは色んな人から好かれ、愛されてるだろうと、伝えたかった。
だけど、そんな言葉が届かないと、わかってしまう。そもそも紫苑は誰かの言葉を求めようとしているのではない。
抑えきれない感情の赴くがまま、叫んでいるに過ぎないのだ。
「そう、だよ……壊すしか、能がない人外が、求められるなんて。そんな
眼から血を流して泣いている紫苑は、狂ってしまった子供のようだった。ストレスが原因で眼から涙を流すことはあるけれど。
紫苑のそれは、その範疇を超えている。
私は、紫苑が強いと思っていた。精神的に成熟し、あらゆる事柄に冷静に対処し、行動できるだけの胆力があると。
そんなのは思い違いだと、理解させられた。
精神的に成熟したのは、そういなければならなかったから。
あらゆる事柄に冷静に対処できるのは、そうできるだけの経験があるから。
行動できるだけの胆力は、実行しなければならない状況が幾重もあったから。
人は経験しなければ成長せず、不可逆なのだ。そのことをわかっていたのに察することができなかったのは、紫苑がそれと悟らせないように振舞っていたからだ。
恐れ、憎まれても、笑っていたのは、吐き出せる感情の行き場なく、また紫苑がそれに耐えられるように『なってしまった』だけに過ぎないのだと、今更になって理解する。
否。紫苑からのサインはいくらでもあった。永琳からも、そう言われていたのに。
ただ私が、おざなりの対応をしていただけなのだ。
「でも、約、束……自殺、なんて、いけないよね」
自己嫌悪に――死のうとする子供を前に説得材料を持たない自分に苛立っていたとき、紫苑が呟いた。
一瞬、死ぬのをやめてくれるのか、と思った。
「もし死ぬのなら――」
だから、遅れた。
紫苑の眼に、仄暗い光りが宿っていたのを。
「『幻想郷のために、死ぬべきだよね』」
強迫観念のような、言葉。
いつの間に持っていたのか、紫苑の右手に白い剣が握られていた。それで目の前の空間を叩き割り、どこかへ繋げる穴を作る。
「ッ、待て、紫苑!」
グイと左腕を引っ張り留まらせようとする私を、どのような体術を使ってかあっさりとすり抜けていく紫苑。
そのままどこかへ消えていこうとする彼を見送るしかないのか――そう、思っていた時だ。
「忘れてた」
私の方を振り返った紫苑が、『金色の髪』を靡かせながら私の手を取り、魔力を流す。
「ありがとう、慧音。それと――さよなら」
最後に儚い笑みを浮かべると、紫苑は私の前から消え去る。
もう一度手を伸ばし、追いすがろうとしたけれど、その背中はもう見えない。――その時にはもう、痛みは、大分薄れていた。
――これが事の顛末だ。なにか、聞きたいことがあれば言ってくれ。可能な限り答えよう」
そう言って締めくくると、紫は言葉もないと唖然としていた。無理もないか、と慧音は思う。紫苑の言動から紫に問題があるのは察していたが、本人はそのつもりなど微塵も無かったのだろう。
いじめと同じだ。本人に自覚は無くとも、いじめられた方はそう思わない原理と。
まあ、そんな言葉は隣にいる『鬼』には通用しないのだろうけれど。
「……紫、一つだけ聞かせてちょうだい」
鬼の如き殺気を撒き散ら――すことなく、自らの内にしまい込む永琳。だからこそ恐ろしいと感じる。
それが解き放たれたとき、どうなってしまうのかが。
「あなたは、一度でも紫苑を褒めたことがある?」
「え……」
「答えてちょうだい」
鋭い眼で詰問する永琳。その姿はどこか紫苑を思わせる。微かに滲ませる雰囲気が、よく似ているのだ。
「無い、わ」
「なんだと?」
「一度も、無いの。なんて言えばいいのか、わからなくて。一度も言えてないのよ」
今度は慧音が唖然とさせられる立場だった。『家族』となった人間に、一度も? そう思わせられる慧音に、だが永琳は違う反応を見せた。
「やっぱり、あなたは所詮『妖怪の』賢者なのね」
「それは、どういう意味かしら。何かの皮肉?」
「いいえ。ただあなたはどこまでいっても妖怪で、人間の、傷ついた紫苑の心が全く理解できていない!」
段々とヒートアップしたのか、普段の冷静さをかなぐり捨てた永琳が叫ぶ。
「そんなことないわ。私は仲介人をやったこともあるのよ?」
「それはあくまで仕事上の話でしょう。あなたは精神的に弱った子を看たことは? その子と接する上で大事なことを知ってるの? 知らないでしょう! そんな暇など無いのだからッ」
吐き捨てるように言い、永琳は続ける。
「もし知ってるのなら、紫苑の対応がそんな杜撰にはならないッ。あの子は『家族』というものに人一倍憧れてるのよ。幼い頃に失って、ほんの少しだけ残った記憶が
過去を美化するのは、何も紫苑に限った話ではない。誰でもすることだ。ちゃんと覚えている人とそうでない人に差異ができるのはそのせいなのだから。
紫苑の場合はそれが顕著だった。紫苑の完全記憶能力は生まれ持ってのものではない。実験の結果だ。
そして過酷な実験を受けたせいで精神的に摩耗した紫苑が、家族の記憶に縋ったとしても――なんら不思議ではない。
そのせいで異様に美化されたのだ。行き過ぎといっても過言ではないほどに。
「いっそ『憧憬』とさえ言っていいくらいに無意識に渇望していたのよ、紫苑は。そして憧れというのは――
家族が欲しいと願った紫苑は、同時に諦めてもいた。そんなのありえないと、端から切り捨てていた。
そんなとき、降ってわいた『八雲』になりなさいという言葉。ありえないとわかっていても、期待するのを、希望を持つのを捨てきれなかった紫苑を、誰が責められよう。
むしろ子供の紫苑がそれを望んだとて、微笑ましいとしか言えないはずなのに。
「でも……紫苑はそんなことを一度も」
「言えるわけないでしょう。あの子は一度だって頼んだことがないのだから」
叫んで落ち着いたのか、深呼吸する永琳。
「私の見た限り、紫苑は一度だって甘えたことがない。何かをしてほしいときには必ず何がしかの対価を、報酬を渡していた。それは多分、紫苑にとって仕事上仕方なくそうしただけで、しなくていいならしなかった行動でしょうね……」
意気消沈する永琳を、慧音は複雑な目で見る。永琳と慧音、立場は違えど弟子に教える師匠と、子供を導く先生。その二人が紫苑に対して結局何もできなかった。
もっと幼い時に学ぶ甘え方、そして頼り方。それを教えられなかったことを。
「……ごめんなさい、紫。あなたを責めても仕方がないとわかっているの。紫苑のケースは複雑すぎるから、専門的な人でも対処は難しいもの」
それこそ、紫苑を一途に思うフランでもなければ。
「いえ、思い返せば私の対応が悪すぎただけよ。今なら紫苑がどうして死のうとしたのか、わかるから」
言って、紫は己が告げた言葉を二人に言う。
「確かに、その対応は普通に考えれば間違ってはいないが……」
「紫苑に限って言えば、とんでもない悪手ね……」
「もうちょっと、藍の言葉に耳を傾けるべきだったわ……」
三人の知恵者は同時に溜め息を吐く。頭がいいだなんだと持て囃されようと、他人の心はわからない。それを思い知らされる。
それでも落ち込んでばかりはいられない。賢いからこそ三人はすぐに紫苑の対処をしようと顔を上げる。
その、瞬間。
ゾクリ――……。
『!??』
背筋を撫でる、凍りつくような悪寒。
同時に視界を覆う『黒』が見えた。
「なんだこれは!?」
「落ち着いて、これは多分攻撃的なものじゃない。もっと別の何かよ」
「永琳の言うとおりね。これは『闇』よ」
「闇だと? そんなものを司るのは、一人しか――ッ、そうか」
どう考えても、心当たりがそれしかない。だが、なぜここで彼女が行動するのか。三人は立ち上がり、外を見た。
永琳が壊した壁の外。
そこから見える太陽が――黒く塗り潰されていた。
「『彼女』一人だけの力では無理ね。どう見てもこれは」
その先の言葉を、永琳は言わなかった。
幻想郷を救ったのは、霊夢と、フラン。そして紫苑。
だが今回幻想郷を襲うのは、先の事件の立役者、紫苑だった。
えー、というわけで実は死んでなかったり。
紛らわしい表現ですいません。でもこれも物語を引き立たせるスパイスってことで! 感想の返信遅れたのは下手になんか言うと死んでないと悟られそうだったので。
今年はちょっと進学とか課題とか色々あるので、更新が週二になる可能性が高くなります(それ言うならゲームやらなんやらするなって話ですけど)
終わらせる気はあるんです。見捨てないで読んでください……ッ!