東方狂界歴   作:シルヴィ

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闇との契約

 闇が満ちる――それよりも前に戻る。

 慧音の前から去った紫苑は、幻想郷中を巡り回っていた。花畑に、湖に、竹林に、森に、山に、空に、三途の川に。

 白夜の力を持って、短距離を転移しては一人だけを求めて探している。

 花畑では幽香に、湖では精霊に、竹林では妖怪に、森では魔法使いに、山では鬼に、三途の川では死神に。尽く行く先々で遊び感覚で襲われたが、即座に消える紫苑を前に、追跡するのは諦めたようだ。

 それでも求めた人物を見つけられない。移動速度は普段と比べ物にならないほど速いので、里から出てまだ一刻も経っていないだろうが。単に移動するだけなら四半刻といらないが、気配探知をしながらだと少し手間がかかる。

 一度諦め、どこかの坂道に降りる。辺りには木々が生え、獣道ですらないその場所は視線から隠れるには十分だった。

 一つ溜め息を吐いて心を落ち着かせる。慧音に自殺を止められたあと、心は凪のように穏やかなままだ。

 決めたからだろう。そうと定めれば真っ直ぐ進めるのが自分の長所で、短所だと、紫苑はよく理解していた。

 ぐうぅ~……と気の抜けた音がする。お腹が鳴った音だ。そういえば今日は朝昼とずっと何も食べていない。燃費が悪く常に栄養を必要とする紫苑は、必ず三食を、しかも相当量食べなければいけないのだから仕方が無かった。

 空腹を紛らわせるために思考してみる。取り留めの無い、ここ半年の出来事を。

 そういえば、とふと思い出す。

 彼女と出会ったのは――この場所みたいな、獣道だったと。

 「お肉、み~つーけたーっ」

 「!?」

 背後から聞こえた(おぞ)ましい言葉。

 バッと振り返ると、目の前にかつて見た金と黒が目に見えた。その色がブレると同時に、左肩に激痛が走る。

 「ぃ、っぅ……」

 グチャ、という音がした。それはきっと、自分の肩が食いちぎられた音。感じるのは、彼女の口から漏れる咀嚼音。

 それでも声を押し留め、左手で彼女の頭を、右手で背中を抱きしめる。

 そのことに疑問を思い浮かべたのか、彼女は肉を飲み込むと、

 「……? 逃げないのかー?」

 とても不思議そうに、そんなことを言った。

 まぁ、確かにと紫苑は思う。『生きたまま食べられる』という恐怖を感じれば、逃げたくなるのが生き物の性だろう、と。

 そう考えていたが、彼女はその疑問を放り捨てて、食事に入ろうとしたらしい。また肩を噛み千切ろうとしてきたので、

 「今の貴女じゃ、話は出来そうにないね」

 頭に回していた左手を、そのまま結ばれていたリボンに移し、引っ張った。

 特異な術式が刻まれていたのだろう、触れた瞬間反発し、解こうとしたら手を焼かれた。消し炭になる前に無理矢理リボンを外したけれど、ギリギリだったらしい。

 カッと閃光のような光りが迸る。目も開けられない光度だ。チカチカとする眼を堪え、前を見ると、

 「……いつまで抱きしめるつもりなの?」

 先の幼子とは違う、成熟した少女の声が響いた。なんとなくからかう声音に、紫苑もからかうように返した。

 「なら、貴女はいつまで抱きしめられてくれる?」

 「あら、残念。私はそんな安い女じゃないの」

 彼女はスルリと身を翻し、艶やかに笑った。

 「それで。わざわざ闇の化身に会いに来たのは、どういう理由かしらね」

 「どうして貴女に会いに来たと? 殺しにきたのかもしれないよ」

 「見敵必殺をしてない時点でありえないと言わせてもらいましょう。そもそも、戦闘能力という点で劣る子供から、知性をかざして戦える大人にする意味が無いわ」

 矛盾しすぎね、と彼女は言う。殺すのなら子供の方がやりやすいのに、と。

 「ま、そうだね。俺は別に殺し合いに来たんじゃない。貴女に――正確には、貴女の能力に用があってきたんだ」

 「私の能力……? 『これ』のこと?」

 掲げた右手に、忌避感を宿らせる『闇』が纏う。ぐねぐねと動き回るそれは、本能的に『近づきたくない』と思わせた。

 「人間が闇に触れるのは正気の沙汰とは言えないわね。気が狂って死ぬのがオチよ? 何に利用したいのかは知らないけど、対価もなしに、力だけ渡すのもゴメンだし。興が削がれたから見逃してあげるわ。さっさと帰って眠りなさい」

 「……」

 その言葉に紫苑は沈黙を返す。それを答えと受け取ったのか、彼女は背を向けてその場から去ろうとした。

 けれど、言葉だけで諦めるほど、紫苑の想いは軽くない。

 「対価を渡せば、力を貸してくれるのか?」

 「……。……? ……正気?」

 最初は理解できないと固まり、次いで言葉を理解しようとし、最後にありえないと言わんばかりの顔を向けてくる。

 「答えてくれ。貸してくれるのか、くれないのか」

 自然と眼が鋭くなっていくのを感じる。ともすれば殺しかねない目だ。それだけ本気なのだと理解したのか、溜め息をしたあと、

 「……話くらい聞いてあげるから、まずはその肩を治しなさい。死ぬわよ? その出血量」

 指差した先には、ルーミアに噛み付かれた肩の傷があった。臓器には届かないまでも、抉り取られた傷痕は深い。今もダラダラと血を流している。

 そういえば……と、紫苑は今の服装を見る。今日は戦闘するつもりじゃなかったから、服装は普段着を着用していた。姉特製の服は、厳重管理して部屋に置いたままだ。

 能力を発動させ、アリスとなる。どことなく体は丸みを帯び、女性らしくなる。一応性別は男のままだが、初見ではわからないだろうレベルだ。

 漏れ出た魔力が燐光し、紫苑を照らす。そのまま肩口に集まると、まるで逆再生のように傷口が治っていく。完全に治りきったそこは、しかし剥き出しの肌が見える。そのことに途方もない色気を感じることだろう。

 ――本来なら、だが。

 「あなた、それは」

 「タダで治るほど甘い能力じゃないよ、これは」

 紫苑の肌は、カサついていた。髪にも常の艶が失せている。何日にも渡って十分な水分を摂らずにいた結果、潤いをなくしてしまったかのよう。

 朝昼と食事をとらず、その上で肉体の成分を回復に回す力を使った結果だ。死ななくなったとはいえ、もしこれが女性なら死にたくなるほど落ち込んだかもしれない。

 紫苑は特に気にしないが。

 「対価を求めるんだろう。俺が渡せるのはそう多くない。精々、()()()()()()()()()か、()()()()()()()()()()()()()()|か、くらいだな」

 「……!?」

 腹芸をしたことがないのか、素直に驚きをあらわにする。紫苑は既に彼女のリボンに刻まれた術式を見て取っていた。

 まずあの封印、実は『そこまで効果が高くない』。どちらかというと封印を解除したり、()()()解除することに対して効果が高い。

 大体封印に二、防御に三、残り六に全てを割り振っている。

 その六は、『再封印』だ。仮に何らかの事故が起こって封印が解除されても、一定時間内にまた封印を施される仕組み。しかもそれは極めて早く行われる上に、術式を読み取ったりするのを防がれるために解除するのも厳しい。

 だから、あのリボンにこめられた術式が摩耗するのはまずないだろう。普段消費される力の量が少ないのだから当然だ。この術式を考えた相手はかなり頭がいい。

 まぁ、簡単に封印が解除されるので、一長一短ではあるが。

 「それで、どうする? 何か要望があれば聞くけど」

 「……なら、いくつか質問させてもらうわ。紫苑、死体をあげるといったけれど、それはつまり途中で死ぬつもり? それに、封印解除なんてできるの?」

 「ふむ。なんで俺の名前を知ってるのかについて教えてもらいたいとこだけど。まず、死ぬつもりだよ。封印の解除は解析が終われば簡単に解ける」

 「そんなカサカサの死体なんて貰っても、ね」

 「途中で栄養補給しようか? この体で無茶はできない。慧音には俺が何をするのか大体はわかってるだろうけど、情報が拡散するまでまだ時間はあるし」

 そう。実は紫苑にはあまり余裕がない。ここに来る前に慧音とあったやり取りで、紫苑を止めるだろう誰かが来る。

 「……私、いざこざに巻き込まれて死ぬなんてゴメンよ?」

 「戦闘になっても貴女の命は保証する。死にかけた回数は多いから、絶対に死ぬってギリギリの境界線はわかるしね」

 「栄養補給する時間はあるのかしら」

 「慧音にはバレてるけど、紫に直接会いに行く可能性は低いしなぁ。紫は俺の性格を中途半端に知ったかぶってるから、慧音の言葉を否定するだろうし。だったら『それも有り得る』と考えてくれる師匠のところに行くだろう。紫のところに行くのはその後だ」

 「八意永琳、か。彼女の住まいは迷いの竹林だから、運が良くてもたどり着くまでに結構時間がかかるわね。そこからトンボ帰りしても、ってこと」

 「そういうこと。里の人は俺に対していい感情を抱いてないから、魔理沙とか誰かがいない限り誰にも言わないだろうし。何より彼らは基本的に戦闘能力なんて無いし――と、これはどうでもいいか。とにかく、情報拡散はまずありえない」

 それ故に、紅魔館や山、最悪どこかの川で釣りでもすれば、食事にはありつける。どうとでもなるだろう。まあ、あくまで『そうなる可能性が高い』だけで、話を聞いた霊夢とかが紫苑を追いかけているかもしれない。楽観視はできなかった

 「他に質問は?」

 「なら、そうね。そもそもあなたは一体何がしたいの?」

 「何をしたいのかは……『幻想郷のため』、としか言えないな」

 「幻想郷のために、自分の命を投げ捨てるつもり」

 「そうなるね。自殺しようかとも思ったんだけど、それじゃ余りに『勿体無い』だろ? だから折角だし、この世界を少しでもよくしようかと思ってね」

 ……本気だと、思った。

 『闇』を操る彼女は、紫苑が本気でそう思っているのだと、嫌でも理解させられる。

 「その結果としてこの世界が壊れるとかは? 私、外で生きていけるとは思えないの」

 「少なくとも直接的に壊れることはないねぇ。俺が、じゃなくて、起こした後に他人が壊した、とかだとどうともいえない。そこまでは範囲外だ」

 淀みなく、紫苑は答える。今のところ紫苑は嘘を言っていない。つまり、今のところ自身に得がある条件を引き出せる。

 しかし甘い話には相応に裏があるというもの。

 「……未練はないの?」

 「無いね。これっぽっちも」

 「――――――――――」

 だから、最後にそう聞いた。

 なのに、紫苑の答えは早かった。戸惑いもなく、悩みもせず、当然と言いたげに。それで、やっとわかった。

 ――この人、そもそも生きるつもりが、ない。

 死ぬつもり、じゃない。死ぬ気、なのだ。だから有利な条件を与えていく。死ぬのだから、相当に無理な条件でもなければ突っぱねるつもりはないのだろう。

 「この世界に来て、少なくとも半年以上は経っているわよね。誰かともっと一緒にいたい、だとか。そういう思いはないのかしら」

 「……さっきからそれどこ情報? 俺貴女と会った覚えがまず無いんだけど?」

 顔をしかめる紫苑だが、話が逸れたと思ったのか、一度咳をして軌道を修正する。

 「少なくとも、そういえるほどではないな。友と思える人はいるけど、彼女達は俺がいなくても大丈夫だろう。恋してる人もいない。家族も――いない」

 悲しそうに、笑う。ひび割れたようなその顔にその笑みは、まるで今にも崩れてバラバラになってしまいそうだ。

 「なら、目的は? 目標を持ってないの」

 「……この世界には、ないな」

 紫苑の目的・目標は、二つだけだ。

 一つは、家族と一回だけでいい、もう一度会いたいという願い。

 一つは、誰よりも愛する姉を殺した人間を、殺すこと。

 だがそれは、どちらも叶わない。この幻想郷から元の世界には、戻れないから。それを再度自覚し直した心がジクジクと痛みを発する。

 俯く紫苑に、何となく察した彼女は心の中で思う。

 (全部本心、か。なら協力してもデメリットはほとんどなさそうね。問題点は、無いとは言えないけど)

 自覚していないだけで、紫苑に未練はある。それを発芽するための種は植えられている。けれどそれが芽を出す前に、大地(シオン)栄養(こころ)()ってしまった。

 協力している間にその種が芽吹くかもしれないが、それはそれだ。

 色々と考えた結果、決めた。

 協力することと――求める対価を。

 「わかったわ。私のチカラを、あなたに貸してあげる」

 「本当か? ありがとう」

 「早とちりしないの。対価は、あなたの『心』を見せなさい。それが許容できなきゃ、この話はご破産なんだから」

 そっぽを向く。けれど、紫苑は既に彼女を見ていない。

 「俺の、『心』を見せる? それが一体何の役に立つんだ?」

 「ハァ……さっきも言ったとおり、私は『闇を操る程度の能力』を持った妖怪。つまり、人の持つ悲しみ、怒り、憎しみ、絶望――そういった負の感情に安らぎを思えるの。逆の感情はお断りだけどね」

 肩を竦め、続ける。

 「私は光の中で生きられない。今も木の間から差す太陽の光がとってもイヤだもの。だから、求めるの。あなたの中にある、想像もできない負の感情を」

 彼女の眼が、紫苑からにじみ出る『黒』を見抜いている。

 彼女の耳が、紫苑が叫ぶ声にならぬ声を聴いている。

 彼女の心が、紫苑の想いを感じ取っている。

 そして――その全てに、ずっと傍にいたい安心感を、覚えている。

 「『闇』が私の生きる場所。だから、きっと、あなたの魂の内は、とても、とーっても楽しそうなのよねぇ……」

 このとき、紫苑は一瞬だけ彼女を『怖い』と感じた。どれだけ悲しみと怒りと憎しみと絶望に身を浸していても、口が裂けたその笑みを。

 人形のように可憐なその容姿を、恐れた。

 「貴女は本当に、俺の情報(こと)をよく知ってるんだな」

 「子供の私は面倒くさがりだけど、好奇心も相応でね? 里の人からよくあなたの(かげぐち)を聞いていたのよ。陰険な感情は、見ていてとても心地よかったわ」

 誰にも理解されない彼女はきっと、誰からも受け入れられない。だから彼女は封じられた。だから彼女を求める人はいなかった。

 だからなのか。

 「それじゃ、短い間だけど、よろしく」

 「ええ。気持ちのいい時間を私にちょうだい?」

 紫苑の手にとった彼女は、とても面白そうに、笑っていた。

 闇の化身と、白の化身。二人は混じり合い、ひとつになり。

 そして、その後――世界は闇に包まれた。

 

 

 

 

 

 「この『闇』の発生源は特定できるの?」

 「私よりもむしろあなたの方が便利だと思うわよ。『境界』を使ってこれが濃い場所と薄い場所を見つけていけば、答えはわかるでしょう」

 もちろん、濃い場所が紫苑のいる方向だ。

 「永琳、私はどうすればいい? 戦闘力という点で私は二人に遠く及ばない。ついていっても足でまといになるだけだ」

 「できれば、戦闘力があって、紫苑と戦うことに躊躇がなくて、でも紫苑を殺そうとしないくらいに温厚な相手がいれば、それでいいのだけれど」

 「そんな都合の相手がいると思うの?」

 「だったら『鬼』でも連れてくる? 喜び勇んで紫苑を『潰し』に行くわよ」

 紫の突っ込みくらい予測済みだ。かといって霊夢や魔理沙は躊躇うだろう。フランなど論外だ。戦う前から負けるのが目に見える。永琳だから――彼の師匠だからわかる。今の紫苑は、例え誰だろうと容赦しない。フラン達なら殺さないだろうが、傷つけることくらいは許容する。

 かといって戦闘狂集団も論外だ。そもそも『魂の同一化』ができる紫苑に『紫苑からすれば弱くて、けれどそこそこに強い』相手は格好の餌だ。問答無用で取り込んで魂を強化されたらもう目も当てられない。止めることさえできなくなる。

 「……なあ、永琳。対価は厳しいが凄まじく強くてある程度融通の利く相手がいるんだ。対価の支払いについて、一任してしまっても大丈夫か?」

 「そんな相手、本当にいるの?」

 が、押し黙っていた慧音が少し悩み、そして決断した。

 「一人だけ……それなら、アテがある。もちろん絶対に連れて行けるとは言えないが、可能性はあるはずだ」

 「まぁ、足でまといにならないのなら、出すものは出すけれど」

 「その点は大丈夫だ。強さは保証する。むしろ紫より強いんじゃないか?」

 コロコロと冗談を言っているが、そこまでの好条件を持つ相手がそうそういるとは思えない。それに断られる可能性もある以上、応援は無いと思っておこう。

 しかしそう思っていることなど伝えさせない、落ち着いた声音で永琳は言う。

 「それじゃ、今すぐそこへ向かってくれる? なんなら、紫をタクシー代わりにしちゃっても構わないわよ」

 「ちょ、私の意見は?」

 「拒否権を与えるとでも思っているの?」

 とても冷たい眼で紫を見る。一応納得はしたものの、虐待と言っても過言ではない状況に紫苑を追いやった事実を、永琳は忘れていない。

 空気が悪くなったと感じたのだろう、慌てて慧音が割り込んだ。

 「な、なら私を一度里へ帰してほしい。念の為に前報酬が渡せる程度の物は持っていきたい」

 「……紫」

 「わ、わかったわよ、もう。……ほら、これで戻れるわ」

 瞳孔の形に開いた隙間から見える風景が、里だということを教えてくれる。毎度これを通る時に思う違和感を封殺して、慧音は里へ戻っていった。

 それを見送ると、永琳は紫へ目線で告げる。

 ――さっさと能力使って紫苑の居場所を探りなさい。

 慧音がいたよりも更に冷たい眼でもって紫を見る。紫苑に負い目もあったのだろう、然程反論せずに集中しだした。

 その背中を見て、胸中で溜め息。

 ――わざとではないと、わかってはいるのだけれど。

 紫には、子育ての経験が無い。

 藍と出会った時には、既に藍はあのくらいには成熟していた。橙と接したのは主に藍だし、藍の強い影響もあって責任感ある子へと成長した。

 だが、それらに紫は多く関わっていない。

 だから、藍が気づけた紫苑の不調に、紫は気付かなかった。あらゆる意味で『普通の子供』とは縁遠いことも相まって、こんなになるまで放っておいたのだろう。

 「……私は、紫苑の部屋でも見てくるわ」

 ありえないだろうけど、ヒントくらいはあるかもしれない。そう思って紫に一言告げ、返答ももらわずその場から足を遠ざけた。

 紫苑の部屋の位置取りはわかっている。今まで何度か紫の邸へ来たことはあったし、紫苑に請われて書類の纏め方を教えたことだってあった。そのためだ。

 誰もいないとわかっていた永琳はノックもせず襖を開ける。整理され、閑散とした部屋。作業机と、纏められた布団と、恐らく書類を纏めるのに使った資料を集めた棚。娯楽関係のモノは何一つとして置いていない。

 この部屋の風景を見て、これが『子供部屋』とわかる人間は、一体どれだけいるだろう。少なくとも永琳にはわからない。どう見たって、大人の作業部屋だ。

 まず資料棚を――そう思って近づいたとき、ふいに布団を見る。

 「……?」

 どことなく、違和感。

 それに命じられるがまま動き、見つめることしばし。

 ――()()()使った形跡が、無い?

 そう。永琳の観察眼が、これがここに置かれてからただ一度として使われていないと見抜いた。少し布団を浮かしてみると、畳が少し変色している。長期間同じ場所から動かさなかった結果だろうと思われる。

 何故、どうして、と次に気になるものへと眼を向ける。

 考えれば簡単なこと。布団で寝ていないのなら、一体紫苑はどこで寝ていたのか。答えはとても単純で、それ故に永琳の頭を抱えさせるものだった。

 ――紫苑、あなたは動物か何かなの?

 唯一かすかに凹んだ痕がある、壁。それはちょうど紫苑の背中が当たっていただろう位置。恐らく紫苑は、紫にこの部屋を与えられてから、ずっとこの壁に背を預けて寝ていたのだろう。

 そこから導き出される結論は、一つだけ。

 (紫苑、あなたは……『紫を信じていなかった』のね)

 正確には、信じきれていなかったのだろう。本来心を休めるべき家で、紫苑は体を休めれても、心までは許せなかった。

 そっと、壁の凹みに手を触れる。目を凝らさなければわからないくらい微かに滲んだ血の痕に、ちょっとだけ眉が動いた。

 しかしこれはあくまで紫苑の生活を辿ることでしかない。紫苑の居場所を探るヒントには一切ならない。

 その場から離れ、机へ向かう。考えれば資料棚は収められている量が多すぎる。元々あまり期待していない以上、紫苑の手記か何かがある可能性のある机の中を優先した。

 中には特にありふれたものしかない。筆記用具、メモ帳、絆創膏などの救急用具、めぼしいものは何もなかった。そもそも紫苑自身、あまり物を貯め込む人間ではない。これは期待できなさそうだと思ったところで、最後の引き出しを見て気づく。

 ――二重底?

 かなり巧妙に偽装されているが、ほんの少し、厚さ三ミリにも満たない空間の存在を、永琳は見抜いた。

 恐らく本当に知られたくないことなのだろう。紫苑の工夫が見て取れる。

 それでも見なくてはならない。これ以上なく明白な家探しのようで気乗りしなかったが、壊さないように二重底を取り外し、中身を取り出す。

 少なくとも取り出したときには、半分に折られた白い紙でしかなかった。ということは、開けば中身が見える。この薄い紙で裏側に何も見えないということは、色付き鉛筆やボールペンを使った可能性は低い。

 数度、息を吸って吐く。そして覚悟を決めて開き――そして、後悔した。

 バンッ! と紙を机の上に叩きつけ、激しい呼吸に見舞われる。この紙が、紫苑の内心を全て物語っていた。

 それを一瞬で理解してしまって。

 そのときの紫苑の感情を思ってしまって。

 永琳は、泣きたくなってしまいそうになった。

 書かれた、否、描かれた内容は、何の変哲もない絵だった。今まで紫苑が出会った人々が、誰もが笑顔でいて、好きなように話し、踊り、食べ、飲んでいる絵。きっと、見れば誰もがこういうのもいいなぁと、ほんわかとする絵。

 そして同時に、思ったはずだ。

 この真ん中に()()()()()()()空間は、なんだろう、と。

 ちょうど、『人一人分』の隙間。

 そして、『この絵に存在していない誰か』という、疑問。

 「紫苑、あなたは……本当にッ。……!」

 ただ一人――笑い合う絵の中にいない、少年。それはきっと、描けなかったのだ。

 この中で笑う、自分の姿を。

 その情景を、思い浮かべることができなかった。

 永琳は、思う。

 (あなたから師匠なんて呼ばれながら、私はあなたをちゃんと見れていなかった。あなたが望んだ未来へ導くことさえできなかった。今度は、間違えない。あなたが『生きていたい』と思えるような、そんな未来を!)

 永琳は、傍観者だった。

 多少のアドバイスをしても、当事者にはならなかった。あくまで関係者で留めた。どんな時でも実際に身を危険に晒したのは紫苑で、フランで、他の誰かだった。

 仕方がないことだったといえば、それだけだ。永琳の目的は輝夜を守ることで、そのために他のことに大きくかかずらっている余裕はない。

 ――その立場を、今だけは。

 紫苑を助けるために、それを捨てる。輝夜は何と言うだろう。怒るか笑うか呆れるか。きっと、仕方がないと言ってくれる。

 もし解雇通知を渡されたら――そのときは、紫苑に責任を取ってもらおう。

 と、聞く人が聞けば勘違いされかねないことを思ったとき、スパンと襖が開かれる。神速で紙を引き出しの中へ放り込み二重底を取り付ける。その間三秒。驚きの早業だった。

 「見つけたわよ、永琳! これ以上ないってくらいに濃い闇の深淵を!」

 「意外と早かったわね。これは、誘われてると見るべきかしら……?」

 興奮する紫とは逆に、永琳は冷静だった。誰かを連れて行くべきかと思ったが、紫の懐刀である藍は所用でいない。

 それにこのままほったらかしにしていればもっとまずい事が起きる。そう思って、永琳は誰かを連れて行くのを諦めた。

 「行きましょう、紫。紫苑を止めに」

 「ええ。会って、謝りに行くわ。そして、止めなきゃね」

 開いた隙間から覗くのは、黒い世界。中心部だからこそ影響が強く、重い。

 意を決して足を踏み入れる。

 感じたのは、『黒』だ。負の感情、その極地。精神にかかる負担が一気に増す中で、その全てを振り払って永琳は歩く。

 ちなみに紫は能力でそれらの影響を跳ね除けていたが……自分の能力だ、文句を言うのは筋違いだろう。

 草を踏みしめているはずなのに、その感触も、音もしない。『闇』以外が存在しないその空間を歩んでいく。

 このままいけば、世界はこの闇に全てを飲み込まれるのかもしれない。そんなことは、絶対に許容できなかった。

 進んでいった先に、歪な椅子に座った、白一点。

 黒と闇しか存在しない世界で、その白は途方もない違和感を放っていた。ふと、自分以外の存在に気づいたのだろう、白は二人に声をかける。

 「ああ、紫に……師匠か」

 穏やかな、声だった。

 悲しみも、怒りも、憎しみも、絶望も。何一つとして感じさせない、真っ白な声。それに言葉を返そうとして、永琳は気づく。

 ――あの、椅子。紫苑と繋がって……?

 その視線を辿ったのだろう。疑問に答えるように、紫苑は席を立った。

 グネグネと動き出した椅子が、不定形となり、『紫苑の中へ』戻っていく。トンと降り立ったときには、闇は紫苑の右半身へ集っていた。

 まるで侵食するかのように覆われる。特に右目は白い部分が完全に黒へ染まり、まるで喰種のような悍ましさ。

 そして末端部位である右手からは、ポタ、ポタ、と黒い雫が漏れる。

 「ふふ、醜い姿でゴメンね? 俺は彼女と違って完全にこの闇を扱いきれないんだ。どうしても体の方に影響が出ちゃうんだよ」

 笑う紫苑に、常の親しみはどこにもない。

 あるのはひたすらに、『コイツは誰だ』という、警鐘だけ。

 「紫苑、あなたの目的は一体何なの?」

 「幻想郷を脅かすのなら、一時的にあなたを無力化することさえ厭わないわ」

 「目的を聞いたところで仕方ないだろう、師匠。それに、紫はやっぱり幻想郷が一番か。その関心の一欠片でも……いや、どうでもいいことかな」

 二人の言葉を一笑に伏し、紫苑は自然体で構える。

 「悪いけど――消えて?」

 瞬間、永琳から血がぶちまけられた。

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