異変が終わって数時間。闇が晴れ里の者達も大手を振って歩けるようになった頃のこと。あの事に関わらなかった者達はまだ知らない、幕間のような時間。
幽香を送り出した以外に何もできなかった――少なくとも彼女はそう考えている――と、寺子屋でただ祈ることしかできなかった慧音は今、どうしようのない理不尽に対して、抑えようのない怒りを抱いていた。
「――異変が終わったと聞けたのはいい。私も安心できたからな。だが、何故、何故に……」
ふるふると震えた体。最初紫達が来た時にはどうなったのかと慌て、次いで安堵に変わった彼女は、最後にその怒りを爆発させた。
「私が『汐』を預からなければいけないという話になっているのだ!?」
それを説明するには、異変が終わった直後にまで遡る必要がある――。
「…………………………」
「…………………………」
ジーッと紫と汐と名乗った幼児が見つめ合う。ニコリともせず、どころか表情一つ変えずに顔を合わせるその光景はいっそシュールだった。
「なんか、気が抜けたわ。私は帰らせてもらおうかしら」
「お疲れ様、と言えばいいのかしら。後で対価について聞かせてもらうわよ」
「もちろん。それが目的で手伝ったのだもの、踏み倒されたら敵わないわ」
くすくすくす、と笑みを残して、幽香は立ち去っていく。彼女を汚していた土も煙も、血でさえもう影も形も残っていない。来た時と同じように、いつの間にかいなくなっているだけだ。
永琳は汐を見る。色素が戻り、顔から鋭さが取れた彼に紫苑の面影はほとんどない。
――元々の彼は、あんな感じだったのかしらね。
必要だったから、ああなっただけで。それを思うと、疲れたという心情も理解できる。永琳とて何年も生きることに疲れを抱く時があるのだから。
とはいえ放っておく事はできない。汐という人間は紫苑と似て非なる存在。しかし根本的には同一だ。つまり、白夜と黒陽、更には魂魄同一という異形の力を使うことさえ可能かもしれない。それを何も知らないままに振るえば、恐ろしい結果となるだろう。
保護者が必要だ。何も知らない彼に知識を教えることが――違う。
人として大事な感情を教えられる、先生が。
汐が邪気のない笑みを浮かべ、紫の服を引っ張った。紫が数秒呆けると、慌てて汐に何かを問いている。不思議そうにした汐は、
「……お母さんの友達じゃ、ないの?」
小首を傾げてそう聞いた。
その言葉から察するに、紫と永琳を自身の母の知人と判断したらしい。確かに汐の年齢を考えれば、母親の年代は自分達の外見とそう大差ない。当然といえば当然の帰結か。
「友達、ではないわね。私達はあなたとよく似た人を知ってるだけだから」
「おれと、よく似た人?」
「ええそうよ。私が鈍かったせいで、傷つけてしまったけれど」
苦笑を浮かべる紫は、永琳から見れば彼女こそが傷ついているように見える。しかし、それを口に出すつもりはサラサラなかった。
それを言っていいのは、紫苑ただ一人だけなのだから。
そんな事を考えていると、汐の瞳が一瞬鈍く光ったような気がした。
「大丈夫だよ」
「え?」
「きっと、その人もわかってくれる。笑って許してくれる。だから、そんな笑顔をしないでくれると、嬉しい……? かな?」
汐自身よくわかっていないように告げる。ただ浮かんだ言葉を並べているだけで、彼は言葉の意味までは考えていないのだ。
――だけど、今のは……。
勝手に発動した能力。だとすると、もしかしたら汐は随分と小さい頃から異能の力を使っていたのかもしれない。
その後、汐を両手で目隠しし、紫の能力で屋敷に戻る。汐は一瞬で変わった景色に呆然と口を開けて、紫にどんな手品!? 種はあるの!? と尋ねていた。
自身の力を手品と言われてどこか引きつった笑みを浮かべていた紫は、ふと近寄ってくる気配に気づいた。
「橙、出迎えご苦労様」
「いえ、とんでもございません。それより紫苑さんはどこ、に――……?」
キョトン、とした目で紫の服の裾を引っ張っている紫苑とよく似た少年を見やる。
――この子は一体?
――あなたお探しの紫苑あらため汐よ?
橙は汐を見、紫を見、そして汐を見て、
「え……えええええええええええええええええええええええええええええええッッ!??」
ピーン! と耳と尻尾が真っ直ぐに伸びるほど、驚いた。
「こ、これが紫苑さん? ていうか汐君になってますよ!? 一体何がどうなったらこんな事になって」
「う、うるさい……」
「ああすいませんすいません!? え、あれ、紫様は異変の解決に臨んだのであって、新たな異変を起こしに行ったのではありませんよね。どうしてこうなって?」
思考回路がオーバーヒート寸前にまで慌てた橙は、ついにボヒュン! と頭が火を噴いた。フラフラと揺れ動いて行くと、ありえません……とだけ言って、どこかに消えた。
「えっと……面白い、お姉ちゃん……だね?」
どこか形容し難いと言いたげな汐の顔に、そんな扱いを受けた橙にそっと涙した。
居間に案内された汐は、どこかボーッとした様子でテーブルに触れている。それから不思議そうに色々な物に目線を移し、また不思議そうな顔をする。
「どうしたのかしら」
「え、あ、うん。なんか、見覚えがないのに見た事があるような気がして、不思議で」
そしてその事から、あくまでも封印は不完全なのだと察せられる。『紫苑』という人物を描いた
その辺を刺激すればまた別の結果になるかもしれない。とはいえ下手に紫苑の記憶を思い出させれば人格崩壊までまっしぐらだ。慎重になってしかるべきだろう。
そもそも不思議なのは、どうして記憶だけでなく肉体まで幼児化しているのか。紫苑の操る物はあくまで『魂そのもの』であって、他の部分――肉体操作など――は副次効果にすぎない。つまりどうしたって『魂を増減できない』事になる。
記憶を封じるだけなら魂の奥底に放り込めばいいかもしれないが、肉体の情報を一体どこに持っていったのか。疑問は尽きない。
そんな考察をしていると、不意にくいっと小さな力で服を引っ張られた。
「お姉さんは、あの人とどういう関係なの?」
「あの人――ああ、紫のこと。そうね、古い友人、が表現として一番近いかしら。親友と言うには私達は色々打算と目的がすれ違いすぎてるし」
よくわかっていなさそうな汐の額をコツンと殴り、
「大人には色々あるってことよ」
「むっ、子供にだってわかることがあるんだからな!」
頬を膨らませる汐はぷいっと視線を逸らすと、自分以上の大きさの椅子を引っ張りその上へと乗った。足を揺らさせるその姿に落ち着きはない。
と、ぐぐぅ~……と、気の抜けるような音が聞こえた。
「~~~~~~!!」
瞬間顔を真っ赤にする汐。お腹を押さえて俯く姿につい喉奥で笑ってしまった。
「子供にもわかることがある……だったかしら」
「う、うるさい! お腹が空いたら大人だって鳴るだろ!」
笑みを絶やさない永琳に犬歯を向ける汐を横目に台所へ移動する。何故か途中まで炊いてあったご飯を炊き直しておき、熱々のそれを断熱用の魔力と調味料である塩でコーティングした両手で掴んで握る。汐の味覚がわからないので味付けは薄味、普通、濃い目と分けておく。
ピシッと綺麗な三角でできたお握りに海苔をペタと貼り付け完成。数もそこそこ作ったから汐のお腹を埋めるのには十分だろう。ダメならまた作ればいいだけだ。
手を洗って清めると、お盆を持って居間に戻る。机の上に乗せた両腕の中に顔を埋めていた汐は永琳が戻るとパッと顔を上げた。
「それ、お握り? 作ってくれたの!?」
「味は保証しないわよ。右から薄い、普通、濃いって感じね」
説明を終える前に汐はお握りを手に取ってパクパクと食べ始める。その遠慮の無さは流石子供と言うべきか。
永琳も小腹が空いていたのでいくつか頂戴しておく。米も塩も海苔もいい物なのか、シンプル故の素材の味わい。
お腹が膨れた塩は小さくけぽっ、とげっぷすると、ニッコリ笑って、
「ありがとね、お姉さん」
米粒をつけたまま、そう言った。
「そういうのは米粒を取ってからいいなさいな」
「え、嘘? どこについてるの」
「ああもう、動かないで。私が取るわよ」
顔を押さえて近づくと、汐が呆けた顔に変わっていく。薄ぼんやりとした目にどうしてなのかと思ったが、そういえば汐は今普通の子供なのだ。
「……見惚れているの?」
「――え」
夢から覚めた、と意識を現実に引き戻す。ニヤニヤと彼の顔を見ると、恥ずかしそうに、悔しそうに歯軋りしていた。
「何やってるのよ、あなた達」
その一部始終を見ていた紫が呆れと共に姿を現す。そのまま喜び、笑い、恥じ、怒り、落ち込みとどんどん表情を変えていく汐に振り回された、楽しくも疲れる一日。
「これは、キツいわね」
「私も、幻想郷の管理があるから、何日もこんな事できないわよ」
汐にバレないよう荒い息を整える二人。子供のポテンシャルを甘く見ていた二人は、盛大に汐に振り回された結果、大いに疲れていた。
というより、良くも悪くも童心に帰ったせいか、心が疲弊していた。
けれどそれは、落ち込みだした汐によって気にしていられなくなる。今にも泣きそうな顔で堪えている汐は、遂にその場でうずくまってしまった。
「汐、どうしたの。何か痛いところでもできたの?」
永琳が膝を折り曲げ汐と目を合わせる。数度躊躇うように顔を上下させた汐は、本当に小さな声で言った。
「お父さんと、お母さん……迎えに来ない。もう帰らないとダメなのに」
ギュッと両手を握って、寂しい心を抑え込む。いつもならもう家にいるはずの時間はとっくに過ぎていて、太陽は後少しで沈んでしまいそうだった。
『子供』などという時代はとっくの昔に過ぎていた二人は忘れていた。この年齢の、しかも外の子供なら、大人が一緒にいるのは当然だ。特に家族に異様な憧れを向けていた汐の家族なら、恐らくかなり家族仲はいいはず。
だからこそ伝えにくい。彼の家族は絶対に迎えに来れないのだと、言うのは。
「あなたのご両親は忙しいの。しばらくあなたを迎えに来るのは難しいわ。でも、彼らはあなたを愛しているから、きっといつか会えるわ」
漏れたのは別の、嘘で塗り固められた言葉。
また、汐の瞳が鈍く光る。一瞬眉をひそめたが、すぐに柔らかくなった。けれど、泣きそうな瞳は消えるどころか更に増していく。
――嘘と本当を、識別してるのね。
永琳の言葉の中にある嘘を読み取り、だがその本心を察してくれた。だからこそ、わかってしまったのだ。
家族とは会えない、その現実を。
「ならっ、それまでに……お父さんとお母さんを驚かせるくらい、すっごくならないとね」
なのに、この子は耐える。瞳からこぼれそうな雫を落とさないよう、歪になった顔で、無理矢理笑みを浮かべて。
心に抱えていた不安の出し方を知らなくて、だから我が儘を言うように二人を振り回し続けていたのに。本当に相手を困らせることは決してしない。
これではダメだ。いつかきっとパンクしてしまう。紫苑のように、この子も。
「紫、汐を預ける場所、決めたわ」
いいや、最初から決まっていたのかもしれない。子供好きで、何人もの生徒を導き育て上げた一人の教師。彼女に汐を託すのを。
「八意慧音に、汐を預かってもらう」
――そして冒頭に戻る、というわけだ。
一応全ての理由を聴き終えた慧音の怒りはだいぶおさまっており、少なくとも説明する前よりはマシになっている。
頭が痛い、と額に触れると、
「汐はどうすると言ってるんだ?」
「私達の推薦なら、と。あれで随分賢い子だもの、私達に迷惑をかけまいとでも思ってるんでしょうね」
「養育費はどうする。私は寺子屋をほぼ無償で開いているんだ。私のところで育てるには無理があるぞ」
「その辺は紫が『紫苑に渡すべき報酬を彼に渡しましょう。汐は、彼なのだから』と言っていたから大丈夫。後はあなたが決めてちょうだい」
うぐ、と反論を尽く潰される慧音。元々口で永琳に勝てるとは思っていない。単に自分のいないところで勝手に決められた意趣返しと、もう一つ。
「私の『仕事』を邪魔される、ということはないだろうか」
「必要ならこちらで手伝いましょう。それでも無理?」
悩みに悩む。子供は好きだ。育てるのだって本当は嫌ではない。それでも自分が育てられるのかという不安はある。
寺子屋で他人の子供に教えるのと、常に自分が傍に寄り添っているのでは、違うのだから。そういった不安が慧音にはあった。
「……引き受けよう。汐の子育ては、私がやる」
けれど、彼女は子供が好きな自分の気持ちを、信じることに決めた。
そして今、
「きょ、今日からここでお世話になります、雨宮汐、です。上白沢慧音お姉さんで、合っていますか?」
予想外なくらい小さくて素直な童子が、そこにいた。初めて会う人だからかガチガチと緊張で体は強ばっていて、落ち着きがない。
まるでどこにでもいる子供だな、と思っていると、そこでおかしな事に気づく。
――逆を言えば、私は紫苑を普通じゃないと認識していた?
泣く時には泣くし、怒る時には怒る。嬉しければ笑う、そんな人だと認識していたはずなのに、心は全く別の反応を示していた。
(これではダメだ、汐は紫苑とは違うと聞いていただろう! そうだ、間違えるな私。この子は今日初めて会うのだと認識しろ!)
兄弟と姉妹では全く違う人間だと昔思い知っただろう。そう心に刻み込んで、汐へ向き直る。
「早速ですまないが、私はここの教師をしていてな。明日の授業進行の用意なんかがあるから夜は忙しいんだ。構ってやれる時間は少なくなるが……」
「そこは永琳さんから聞いたので、大丈夫です。なるべく迷惑はかけないようにするので」
「待った」
妙に畏まった様子の汐の態度が目に映り、慧音はここから正そうと思った。
「私に対して丁寧ね言葉はいらないぞ。お前は今日からここに住む。つまり、暫定的だが家族になるんだ。甘えたければ甘えろ。迷惑など気にするな。子供の内はそれが仕事だ」
「いや、でも……いい、の?」
「構わないさ。なんだったら『お母さん』と呼んでくれても構わないぞ?」
「それは、遠慮したい、かな」
「な……に……」
あっさりと拒否された慧音は落ち込む。中々言い事を言ったのではないかと自負していたためにその傷は深い。
「だって慧音さん、子持ちの人には全然見えないくらい若いし、失礼かなって」
そういえば、と思い出す。汐は外で暮らしていた頃の紫苑だ。常識なんかもそこ準拠になっている可能性が高いので、子供を持つ世帯は二十代、という認識なのだろう。
後は子持ちだと勝手に決めつけられるのが老けていると考えられるからか。慧音はそこまで気にしたことはないが。
「ふう、先程言ったばかりだろう。迷惑をかけろと。お前が気にするのは、自分がこれからどうしたいのかという事だけだ。ただ飯喰らいは許さんぞ?」
そう茶目っ気たっぷりに言うと、やっと汐は小さな笑みを浮かべてくれた。
「それじゃ、慧音姉さんで」
「結局お母さんと呼んでくれないのか!?」
「おれのお母さんは、一人だけだから……」
そんな幕間があったとか、ないとか。
次の日、そういえば今日から全ての授業は自分一人でやる事になるのを思い出した。そもそも自分一人でやっていたため特に問題はないが、かかる負担がまた増えるのを考えるとちょっと気が重い。
と、いうより、
「今日から紫苑は来られなくなった。今日からまた私だけになる」
『ええええええええええええええええええええええええええええええッッッ!??』
こうなるのが予想できたから、頭が痛かった。
「どうしてですか先生、紫苑はクビになったんですか?」
「それとも妖怪に襲われて死んじゃったんじゃ……」
「ありえないだろ、あの紫苑だぞ!? 百回殺したって死なないような奴だぞ、そんなのありえないって」
口々に騒ぎ出す子供達。紫苑は子供達から――一部の生徒からは特に――慕われていて、よく懐いていた。
そんな人間がいなくなれば当然の反応だろう。それでも対応しなければいけないのが教師の辛いところだ。
両手を叩いて皆を沈める。
「落ち着け! 代わりに今日からお前達のクラスメイトになる人間が加わる。そら、入ってくるんだ汐」
言われておずおずと扉が開いていく。小さな体が静々と入ってきて、その顔を見た生徒全員が驚いた。
どこからどう見ても紫苑。なのに仕草と表情が全く違う。汐は黒板に『雨宮汐』と下手な字で書くと、
「今日から一緒にこの教室でお世話になります、雨宮汐です。授業には全くついていけないので参加するだけですが、遊んでくれると嬉しいな」
控えめな笑顔を浮かべてペコリと頭を下げる。眼球だけを動かした生徒は、
――これ、紫苑なのか?
――ありえない。冗談でもこういう事する人じゃないし。
――ていうかこれが紫苑だったら笑うしかないんだけど。
満場一致で『こいつが紫苑なのはありえない』と、否定された。ある意味正しくある意味間違っている解釈だが、汐がいじめられるのだけは無さそうだった。
一方で里の外。適当に肉を食べた少女がボヤく。
「うげっ、これ生焼きじゃん。最悪だ、酒が不味くなる」
「焼いている途中の物を適当に持ってくるから悪いんだろ? 私はそれはやめとけって言ったと思うんだけどね」
「うっさい。紫苑の奴が約束守らないのが悪いんだ」
「……私が言うのもなんだけど、鬼の戦闘欲求はどうしようもない」
額から生えた角をコンコンと叩きながら女性は言う。
彼女等は鬼の四天王の一人、伊吹萃香と星熊勇儀。周囲の鬼達からせっつかれ、紫苑を妖怪の山へ招待――もとい拉致しに来た。
一定周期で鬼達の相手となり彼らの戦闘欲求を満足させる。そのためだけに紫苑は妖怪の山へと訪れていたのだ。
里へ入りこむ二人。その姿を見て人々が怯えるのも最早慣れたもの。半年前にここへ進行しに来た記憶は新しく、彼らに与えた恐怖は拭い取れていない。
「ま、私らにとっちゃどうでもいいことだけどね」
勇儀は言うと、紫苑の気配だけを探ろうとする。しかしどれだけ探してもいない。もしや里にいないのかと思ったところで、小さな反応を見つけた。
「なんだい、そこにいたのか。隠れん坊でもしてるんならもっとうまくやれるだろうに。ほら萃香、酒見てないでさっさと行くよ!」
「ちょ、ちょっと待ってくれたっていいじゃないか。ああ、美味しそうなお酒が……」
未練タラタラな萃香を引っ張って行く勇儀。だがしかし、彼女は気付かなかった。大雑把に探ったせいで気配が少しだけ違うのを。
何より『小さい反応』という事の、意味を。
そして彼女は寺子屋へたどり着き――ほのぼのと遊んでいる汐を見た。
「あー……萃香、私の目にはアレが紫苑に見えるんだけどさ。おかしくなってないよね?」
「悪いが勇儀、私にもアレが紫苑に見える。――どうなってるんだよこれ!?」
どれだけ目を凝らしてもアハハと楽しそうに笑っている姿が消えない。ありえない、と言いたげに震える彼女らは一体紫苑をなんだと思っているのか。
「クソッ、ちょっと脅かしてやる」
萃香の能力は『密と疎を操る程度の能力』だ。それを使えば彼女は物質から精神に至るあらゆるものを萃め、疎めることができる。圧縮させればブラックホールのようなものさえ作る事が可能であり、逆に散らして大気中に霧散でもすれば、特殊な感知系の能力者でもなければ彼女を見つけることはできない。
そうして霞となった彼女は誰にも見つけられないまま汐へと近づいていく。楽しそうに笑っている汐は違和感に気づいた様子は見えない。
――そのままでいい。後は背中でも押せばいいだろ。
単なる嫌がらせだとわかっているので、萃香もそれ以上するつもりはなかった。ただちょっと脅かせればよかっただけなのだ。
そして手だけを実体化させようとした瞬間、
「――誰だ?」
細められた蛇のような目が、萃香を貫いた。
――バレ、た?
けれどすぐに汐はいつもの目に戻ると、
「あれ、なんかいたような気がしたんだけど……気のせい?」
「何やってんだよ汐。ほら、さっさといかないと駄菓子無くなっちまうぞ」
「それタンマ! 俺だって食いたいんだけど!」
そう言って駆け出していった彼に先程の面影はない。なのに、萃香は察した。
(あの目は紫苑のそれだった。って事はアイツが紫苑で間違いない。だけど、あいつの持ってる力はありえないくらい小さい。……アイツは、紫苑じゃない。別人だ)
鬼にとって重要なのは戦闘力。それが無くなった以上、もう紫苑との約定は消えた。里を襲おうが何しようが自由だ。
勇儀の元へ戻った萃香はどこか鬱屈となっている気がした。
「イタズラは、しなかったんだね」
「ああ……なあ勇儀。もういっそのこと、どこかに行かないか?」
「どういう意味だい? 私達だけってことじゃないんだろ」
「紫苑はもういない。どっかに消えちまった。アイツが消えた里を襲うのも、なんか興が乗らないんだ。だったらいっそ遠くに旅に出たほうがいいような気がしてね」
「ふ~ん、それもありってとこかね」
勇儀としてはどちらでも構わなかった。萃香とバカをやるのが彼女の楽しみだからだ。鬼達は力づくで黙らせればいい。
「さよなら、紫苑」
もう会うことはないだろう
「さよなら勇儀、それに、萃香」
風に乗って流れた声は、きっと気のせいなんだと思うことにした。
遠く遠く、川を挟んだ更なる先。
「さて、アレから数ヵ月。ここ最近彼からの反応がありませんし、そろそろ様子を見に行ったほうがいいかもしれないでしょうか」
最果ての地獄から、閻魔の王が動き出す。
先週更新できなくってすいません。ブレーカー落ちて書いた半分吹っ飛んでやる気が吹っ飛びました。意地で書き直しましたがクオリティが酷い事になってると思います。
やっと描きたいシーンがそろそろ書けると思った矢先の落とし穴。一気に書いてやるとか調子に乗って保存しなかった罰なのでしょうか。次から気をつけます。