比企谷八幡がイチャイチャするのはまちがっている。   作:暁英琉

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彼がその感覚に戸惑うのなら

 放課後の部室。夏至を過ぎてもまだまだ昼は長く、キラキラとした西日が室内に注ぎ込んで、開いている本を明るく照らす。葉山君や戸塚君が引退した運動部はまだ熱心に練習に打ち込んでいるようで、グラウンドやテニスコートの方からかすかに声が聞こえてくる。

 

「「…………」」

 

 そんな中、部室はいつものように静かだ。聞こえてくるのは黒板の上にかけられた時計がカチ、カチ、と時を進める音と時々ページをめくる音。それに思い出したようにカップや湯呑が動く音だけ。

 高校三年の二学期も始まって、同級生たちも段々と受験モードに移行していく中、奉仕部は……というか私と比企谷くんは特に変わらない。自慢ではないが私の成績は人にそうそう文句をつけられるものでもないし、比企谷くんだって、受験に関しては特に問題はないだろう。

 今部室にいるのは私たち二人だけ。今年無事に入学した小町さんは一色さんと一緒に生徒会の手伝いをしているし、由比ヶ浜さんは……絶賛補習中だ。二学期明けの実力考査でひどい点数を取ったようで――最後まで点数は見せてくれなかったけれど――平塚先生を始め赤点教科の先生たちが強化プログラムを組むことにしたらしい。テスト前には私もちゃんと教えたつもりなんだけれど、毎回点数は芳しくないのよね。何がいけないのかしら。私のテスト対策プログラムは完璧なはずなのに。

 まあ私も教師というわけではないし、これ以上は平塚先生たち本職の方々にお任せするとしましょう。

 それより今は――別に気になるところがあった。

 

「…………」

 

 気づいていないとでも思っているのだろうか。本を読みながら湯呑に入れた紅茶をすする比企谷くんは、チラチラと私を盗み見ていた。口にしているはずの紅茶も、ほとんど減っているようには見えない。本のページも進んでいないのはないだろうか。

 たぶん、数日前からずっと。

 比企谷くんの様子がおかしい。私と由比ヶ浜さんが気づいたのは先週の頃だったのだけれど、妙に落ち着きなくソワソワしているし、本は読んでいるふりで全然進んでいなくて紅茶も全然飲んでくれない。帰る頃に丸々残っていることに気が付いて慌てて一気飲みをした結果、咽てしまうまでがここ数日録画された映像のように繰り返されていた。

 そして、部活が終わるまでの間ずっと、チラチラを私たちを盗み見てくるのだ。最初は早々に指摘して問いただそうかとも考えたが、いつもの捻くれて飄々としている姿からは想像もできない小さな背中に、口を噤まざるを得なかった。

 それに、時折見せる泣きそうに歪んだ表情。まるであの日の彼を思い出させるようなそれに、安易に問いただそうとする考えは押しとどめられてしまう。

 なにかまた、私たちに大事なことを隠しているのではないだろうか。一人で悩んでいるのではないだろうか。その悩みは私たちが相談に乗ってなんとかできるようなこと?

 もしどうにもできないことだったら。そう考えると……怖い。

 そう思っていたけれど……。

 

「ぁ……っ!」

 

 そんな泣く一歩手前のような、辛そうな顔を見せられたら、“怖い”よりも“なんとかしてあげたい”という気持ちが勝ってしまった。

 

「比企谷くん」

 

「…………っ」

 

 私と目が合って、さっと顔を逸らした彼の名前を呼ぶと、猫背に丸まった身体がビクンと大きく跳ねた。

 しばらく比企谷くんの反応を待っていると、ゴキュッと大きく喉を鳴らした彼はいつもと同じようにやる気のない目を私に向けてきた。あくまで“同じように見せようと努力した目”だったけれど。

 

「……なんだよ」

 

 ぶっきらぼうに尋ねてきた声が震えているように感じて、また喉の奥が詰まってしまう。けれど勇気を出して……問いかける。

 

「何か……あったのかしら……?」

 

「――――――」

 

 一瞬の間。ピシッと固まってしまった彼は錆びた機械のようにギギギと音が響きそうなほど鈍い動作で廊下の方を向いて――

 

「……別に何も」

 

 それだけ答えて黙りこんでしまった。

 ――嘘よ。

 反射的にそう口に出そうになるのをグッとこらえる。私だって伊達に一年以上同じ部活で一緒に過ごしてない。小町さんほどではないにしても、比企谷くんのことはある程度分かるようになった……つもりだ。

 だけど、否定できない。いつか心だけがバラバラになりながら形だけの部活を続けていた時、事情を尋ねた小町さんですら比企谷くんと喧嘩をしたと言っていたことを思い出す。彼は深く悩むほど自分一人でなんとかしようとするタイプの人間だ。自分の殻の中に閉じこもる人間だ。あの時は小町さんや平塚先生がその殻にヒビを入れてくれたけれど、私にそんな芸当ができるとは……思えない。

 なにが学年一位か。なにが天才的な頭脳か。す……気になっている異性が悩んでいるのに、その力にもなれないなんて。あまりにも無力で、小さくて……。

 

「……雪ノ下?」

 

「へ……?」

 

 比企谷くんの声に伏せていた頭を上げる。急に視線を動かして焦点が合っていないのか、若干ぼやけた視界の中の彼はいつもの力ない目を困ったように歪めていて――

 

「なんでお前が泣くんだよ」

 

「ぇ……え……?」

 

 反射的に目元に手を添えると生温かい温度に触れた。それが涙だと自覚した途端、うっすらとぼやけていただけだった視界がぐにゃりと歪む。熱い雫が後から後から溢れだしてきて、次第に喉を押し上げる嗚咽を抑えることができなくなり、また頭を垂れてしまった。

 

「ぁ、あの……ゆきの、した……」

 

 嗚咽に鳴る喉が鼓膜を直接震わせる中、比企谷くんの戸惑う声が聞こえてきて――余計に情けなさが涙に変わっていく。

 最悪だ。なんとかしたいと思った相手を逆に心配させてしまうなんて、本末転倒もいいところだ。私はこんなにも弱かったのだろうか。少しは成長したつもりでも、結局自分一人ではなにもできないのだろうか。

 流れた涙の分身体が縮んでしまうように背中が丸まって、膝に置かれた自分の手には青筋が立ちそうなほどギュッと力がこもる。

 頭の中はぐちゃぐちゃになって何も考えられなくなって。

 そのまま……そのまま……。

 

「っ……」

 

 ぽすっと頭の上に何かが乗せられた。温かくて大きい何かはゆっくりと頭の上をスライドしてきて、それだけで沈み込もうとしていた心が掬い上げられる。

 そっと顔を上げると、いつの間にか自分の席を立ち、いつもは由比ヶ浜さんが使っている椅子に腰を落ち着けた比企谷くんがこちらに腕を伸ばしていて。つまり今私の頭を撫でているのは彼の手なわけで。

 少し角ばった私のものよりも一回りほど大きいその手に撫でられると、不思議と心が落ち着いてきて、ミルクを中途半端に混ぜたコーヒーのようにぐちゃぐちゃに波打っていた頭の中もゆっくりと元の形に戻っていく。これだけ心地いいのだから、小町さんだけでなく一色さんまでも比企谷くんに撫でてもらって頬を綻ばすのも無理はないだろう。

 

「すまん……だめだな。迷惑かけないようにって思ったときに限ってお前を泣かしちまう」

 

 私を直視せずに、少しずらした視線で眉を歪めた彼の呟きに、徐々に涙が収まってきた目をすっと細める。きっと思い出しているのはクリスマス前のあの出来事だ。

 お互い同じように悩んでいるのがおかしくて頬を濡らしたまま笑ってしまうと、一瞬キョトンとした彼も息をつきながら苦笑を浮かべた。

 私が彼の力になれるか分からない。相変わらず私はできないことが多くて、臆病な人間だから。

 けど、だけれども……。

 

「なあ、雪ノ下……相談があるんだけど」

 

 きっと、彼の相談を聞くくらいはできるはずだ。

 

 

 

「胸が……痛む?」

 

 彼からの相談は、予想の斜め上な上に、深刻そうなものだった。

 

「時々、なんだが……こう、心臓がきゅーっと締め付けられるような感じになるんだ」

 

「…………」

 

 一瞬、死にそうになった。

 何その「きゅーっ」て表現。戸塚くんならともかく、一般的な男子高校生が使う表現ではないわよ……。前から思っていたのだけれど、比企谷くんって微妙に乙女っぽいところあるわよね。海老名さんが妄想してしまうのはこのせいかしら。

 あ、というか今はそんなことで悶えている場合ではなかった。

 胸が、というか彼の説明を聞く限り、心臓が痛むことがある……ということ。真っ先に思い浮かぶのは何かの病気の可能性だ。いやしかし、あまり外に出歩かない性質とは言っても、比企谷くんは十分に健常者だ。というか、彼の場合心臓病を発症する前に糖尿病を発症しそうね。

 ここは、もう少し情報を集めてみましょうか。

 

「どういうときに痛くなるのかしら? 例えば運動の後とか、特定のものを口にした後とか」

 

 アレルギーなどの可能性も考慮した質問に、彼は首を捻りながら考え始める。やがて、「教室で」とか「家で」とかポツリポツリと単語が口から漏れ出してきた。その言葉を拾っていくが、今のところ何か共通点があるようには思えない。

 

「あと……部室で、お前を見てるとき……とか……」

 

「へ?」

 

「あー……そう考えてみると、教室でも家でもお前のこと考えてる時に痛くなってる、気がする」

 

 それって……。

 人間は精神状態で体調を崩すこともある。緊張から頭痛や腹痛を訴える人がいい例だろう。ひょっとしたら、比企谷くんもその方向性なのかもしれない。

 けどそれって……それってひょっとして……。

 痛みは痛みでも、切ない痛みというものなのでは……。

 

「なあ、これやっぱり病院に行った方がいいと思うか?」

 

「え? えっと……」

 

 心配そうに普段あまり変わらない表情を悩ましげに歪めた彼に、私はさらに戸惑うことになってしまう。

 

「今もな、さっきからずっときゅーって痛むんだよ」

 

 さっきから……ずっと?

 

「ズキズキではなくて?」

 

「ああ、きゅーって感じ」

 

「私を見てると?」

 

「ああ。見てるとっていうか、話しててもずっと」

 

 ……これは遠回しな告白なのだろうか? 普段からかわれる立場の彼が、ここぞとばかりに私をからかっているのでは……。

 そう邪推しようとしてみるが、目の前で私に告白まがいのことをしている彼の目は真剣……というか、真面目に心配そうにしていて……いや、と内心首を振った。

 ――結局、本当に人を好きになったことがないんだろうな。……君も、俺も。

 最終学年に上がる頃、葉山くんがそれとなく教えてくれた言葉。過去に何度か告白をしたことのある比企谷くんでも、たぶん本当の意味での恋はしたことがないのだろうと、どこか自虐を孕んだ声が脳内を流れた。

 もし、もしも葉山くんの予想が正しいのだとしたら。

 比企谷くんは今、本当に……自分の感情に気づいていないということになる。自分の心が分からなくなっているということになる。

 そこまで分かりやすく身体が反応を示しているというのに、私が好きになった人は相変わらず面倒くさい性格をしている。まあ、そこが魅力の一つなのだけれど。

 さて、それはともかくとして、どういうアドバイスをするべきなのだろうか。どうやら原因は私のようなのけれど、本人が自覚していないと告白をしても彼らしくのらりくらりとかわそうとしてくるだろう。それはなんというか、単純に嫌ね。

 

「……私も医学にそこまで精通しているわけではないのだけれど、おそらくそれは病院に行く必要がないものね」

 

「そう、なのか?」

 

「ええ」

 

 とりあえず、放っておくと本当に病院に直行しそうな彼に釘を刺しておく。というか、彼は病院に行ってどう説明するつもりだったのかしら。生憎、「私のことを考えると心臓が痛む」なんて私も巻き込んで赤面になりそうな症状説明を心臓外科の医師に暴露させる趣味はないしね。

 

「比企谷くん。今も心臓が痛むのよね?」

 

「ああ」

 

「じゃあ……」

 

 自分でも少し弾んだのが分かる声を上げながら、私はそっと――自分の手を彼の手の甲に乗せた。彼の指が少しだけ曲がって固まり、身体がビクッと跳ねるのを感じたが、手は離さない。

 

「こうすると……どう?」

 

「え、や……その……」

 

 少し下がった視点から見上げてみると、今にも泣きそうな表情をしている彼と目が合った。すぐに逸らされた彼の目が溢れだそうとする感情を抑えきれないと言わんばかりに揺れ動いているのが分かる。

 

「なんつーか……余計ひどくなったというか……もやもやしてくるっつうか……」

 

 おかしくなって笑ってしまいそうになるのを必死にこらえる。姉さんが命名した理性の化物とやらは、どうやらそうとう鈍感な化物であるらしい。そこまでの感情の奔流に浸っていながら、答えに行き着くことができないのだから。

 彼の反応を見るに、この程度では意味がないのだろう。むしろ物足りなくて仕方がないのかもしれない。

 

「それなら……」

 

 それなら……。

 

「え……?」

 

 甲に乗せていた手で手首を掴んでみる。キョトンとした声を上げた彼が状況を理解する暇を与えないように彼の身体を引き寄せて――そっと胸に抱いてみた。ちょうど彼の頭があまり過剰には自己主張をしていない私の胸に埋まる。

 

「お、おい……雪ノ下っ」

 

「静かに。……あなたも、私の背中に腕をまわしてみて……」

 

 左手を彼の後頭部に、右手を肩甲骨のあたりに添えながら囁くと、一瞬逡巡の空気を醸し出した彼が大きく息を吐いた。温かい吐息が布を通り抜けて肌にしみこんできて、むず、と身体がうずいてしまうのだが……今は我慢ね。

 ゆっくりと、まるで焦らすように彼の手が伸びてくる。まあ、彼のことだから「本当にやってもいいか」と悩んでいるだけなんでしょうけど。

 手のひらがかすかに背中に触れ、布地をシュルシュルとかすめながら腕と背中の接触面を増やしていき、やがて腰の位置で二本の腕が完全に私を拘束してきた。それだけで、温かい気持ちがじわっと溢れてきて、彼の視界に入っていないのをいいことに顔がほころんでしまう。

 

「今は……どう、かしら」

 

 胸に顔をうずめている彼は何かを求めるようにその位置を少しだけ下にずらして――

 

「今はなんか、安心する……というか、満たされる、というか……よく分かんねえ。分かんねえけど、少なくとも痛みはない……かな」

 

 戸惑いと安心を混ぜ込んだような声を漏らしながら、腰に回した腕に少しだけ力を加えてきた。

 本当におかしな人だ。そこまで行き着いておいて、あと一歩の答えに手が伸ばせないなんて。

 

「どうやらこれが胸の痛みへの特効薬のようね」

 

「たぶん……」

 

 けれどその答えは私が教えるべきではないから、後頭部をそっと撫でながら彼に気づかれないように笑ってみる。

 

「大変だわ。あなたの胸が痛くなるたびにこうしなくてはいけないわね」

 

 比企谷くんだって鈍感というわけではない。きっと今は初めての感覚に戸惑っているだけで、いつか答えへの一歩を踏み出すだろう。

 だからそれまでは、何も言わずにそばにいよう。その“いつか”まで待っていよう。辛くなったら、今みたいに少しだけ甘えさせてあげよう。

 だから……だから……。

 

「これからもよろしくね、比企谷くん」

 

「……ん」

 

 今はもう少し、このままで。




久しぶりに八雪成分オンリーの話が書きたくなって書いてみました。個人的に八雪は甘々よりもちょっと控えめな感じが好みです。変な言い方をすると、付き合った後の話はあまり書きたくないなーって感じ。もちろん悪い意味では無くですけどね。

折本デートの時に葉山が言った「結局、本当に人を好きになったことがないんだろうな。……君も、俺も」っていうセリフから、実際に八幡が明確な恋心を抱いても自分で理解できないんじゃないかなって思って書いてみました。あと、八幡に「きゅー」って言わせたかった。ポイントポイントで女子力を発揮する八幡かわいい。


ところで、ポケモンGO始めました。めっちゃ楽しいんですが、私の家は本屋も近くにないクソ田舎にあるため、あんまりレベルが上がりません。わざわざアキバに行ってフィーバーしてる某俺ガイル書き手を恨めしい目で見ながら散歩ついでに遊んでます。一日10km前後歩くようになるなんて、ポケモンの力ってすげー!
というわけで、健康のために執筆ペース落ちると思います。申し訳ない。


それでは今日はこの辺で。
ではでは。



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