比企谷八幡がイチャイチャするのはまちがっている。   作:暁英琉

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出席からまた彼の横顔を

「ふあ……ねみぃ……」

 

 春の暖かな陽光を浴びていると、思わず大口を開けて欠伸なんて漏らしてしまう。微妙に覚醒しきってしない身体で自転車を漕ぎながら、大学の正門をくぐっていく。

 総武高校を卒業した俺は、当初の予定通り私立大学の文系に進学することができた。通い慣れたこのキャンパスとの付き合いも今年で六年目だ。

 ……え? 医学部でもないのに六年もいるとかヒッキー留年したのかって? ハハハ、馬鹿を言っちゃいけない。留年なんてあの由比ヶ浜だってしていないのに、成績はそこそこ優秀な俺がするわけないだろう。や、数学系の単位はちょっと危うかったけど。なんで文学部なのに数学の単位なんてあるんだよ、詐欺か。

 四年の学部課程を修了した俺は――就職ではなく大学院への進学を選んだ。今の俺の肩書は大学院二年生というわけだ。

 大学院という組織は、どちらかと言えば研究機関としての色の方が強い。確かに講義もあるし教育機関としての様相もあるが学部時代に比べて必要な単位数自体かなり少ないし、講義室で教授の講義を聞く時間よりも研究室に籠って論文やレポート――理系なら実験もかもしれんが――をつらつらと書き連ねる時間の方が多いのだ。極論を言ってしまえば研究室に行かずに家で書くことだってできるのだが、そこは研究室の方が集中しやすかったりするから一長一短。

 で、今日は研究室でレポートを書くわけでも、はたまた講義を受けに来たわけでもない。まあ、研究室には顔を出すことになるだろうが、ちょっと教授と話してすぐに帰る。絶対に帰る。すぐに飲みに誘う教授とか飲みサーより性質が悪いんだから。奢ってもらえるから経済的ではあるが。

 ……話が逸れた。ではなぜキャンパスに来たのかと言えば、端的に言えばアルバイトというやつだ。

 駐輪場に愛車を止めて学部棟に足を踏み入れる。事務の職員から必要なプリントを受け取り朝一番の時間でまだ学生もまばらな廊下を通り抜けると、増築したように色の違う壁が目に入ってきた。正しくはその壁を擁する建物自体が独立した建築物なのだが、ピッタリとくっついているせいで増築したようにしか見えない。

 観音開きの扉を片方だけ開けて中に入る。電気が付いておらずシン、と静まり返った室内は窓という窓全てのカーテンが開けられているにも関わらず外より三度は温度が低く、思わず身震いしてしまった。室温が低いのはこの部屋自体通常の講義室の三倍は広いからかもしれない。

 扇状に備え付けられた席にはチラホラと生徒の姿がある。ざっと人数を確認してから指定の位置、左最前列に腰を下ろして机上に先ほど受け取ったプリントを広げた。

 

「少し早いですが、来てる人たちは出席取りに来ていいですよ」

 

 本を読んだりスマホを弄ったり、静かながら思い思いに過ごしていた学生たちは俺の言葉を聞くと作業の小休止とばかりに席を立って近づいてくる。その手に持っているのは一世代前のスマホ程度のサイズをした顔写真入りのカード。

 いわゆる学生証というやつである。

 手渡された学生証の写真と本人を確認して名前の記載された名簿にチェックを入れ、学生証を返すと次の学生証を受け取る。そうしているうちに段々人が増えてきて、俺の前に列が形成されていくのだ。まるで大手サークルみたい。列形成手伝ってくれるスタッフさんはいないけど。

 あくまで仕事のいったんではあるがこれが俺のバイト、ティーチングアシスタント、TAというものである。名前の通り教授のサポートをする仕事だ。

 デジタル化の進んだ今日、出席を取るのだってその例外ではない。実際この講義室にも学生証を当てるだけで出席登録ができるタッチ型のカードリーダーが用意してある。

 しかしまあ悲しいかな、その出席登録をする教授は俺たちより一回り二回りお年をめした方々なわけで、特に文系教授ともなればアナログの方がいいという人も多いのだ。カードをタッチするだけという手軽さから、代弁をしたり出席だけして帰る学生が後を絶たないのも原因の一つではあると思うが。

 この講義の教授もそんなアナログ派の一人で、しかもいちいち本人確認をさせるほどの徹底振りだ。当然ながら代弁は一切存在しない。……まあ、それをTAにやらせるのはどうなの? とも思うのだが、教授は今大量の配布用プリント運んでるから、多少はね。

 代弁は一切存在しないが、いかんせん時間を要するのが玉に瑕だ。かと言って適当にやるわけにもいかないというジレンマ。できる限り作業を単純化しつつ、かつ決して流れ作業にならないよう捌く感覚が去年一年で身についてしまった。もう俺も出席取り熟練者である。適当にやってばれたら面倒だからね!

 学生証を確認、本人を確認、名簿にチェック、学生証を返却。それを何度も繰り返していく。傍から見たらまったく無駄のない動きに惚れ惚れすること間違いなしだ。ねえな。そもそもTAなんて注目されるわけがない。

 俺もそうだったが、大学生というやつはだいたい講義開始三分前くらいに一番多く来る。雪ノ下がいたら「彼らは五分前行動もできないのかしら」なんて悪態をつきそう――というか実際についたことがあるらしい――だが、たとえ遅刻したとしても大抵の教授は何も言わないのだから仕方のないことかもしれない。逆に遅刻したらめっちゃ怒る人もいるけどな! そういう教授の講義は大抵不人気だったりする。大学生マジ自堕落。

 そんなわけでさらに長くなった列を淡々と捌いていく。

 時間内に済ませなければいけないのは少々骨だが、案外この作業は楽しい。名前というのは所詮自分の意志とは無関係につけられた記号に過ぎない。しかしそれが数十人も集まれば見ているだけで面白いものだ。俺の名前である“八幡”のように珍しい名前を見つけると親がどんな意図でつけたのか気になるところだし、かっこいい苗字を見つけると年甲斐もなくワクワクしてしまう。“~寺”系の苗字の安定したかっこよさよ。寺が付くだけでかっこいいとか逆説的に寺がかっこいい存在ってことでは? あ、仏門に下る気はないです。

 

「あの……ぇ」

 

「あ、すみません。学生証を……」

 

 いかんいかん、余計なことに思考を割いていたせいで仕事が疎かになっていた。あわてて学生証を受け取り、顔写真と本人を見比べる。

 綺麗な女子だ。目鼻立ちが整っているのもあるが、長くつやのある黒髪がそれを何倍も引き立てている。少々目つきがきつい印象を受けなくもないが、クールビューティと考えればむしろプラス評価になるだろう。高校時代はさぞおモテになったか、雪ノ下のように高嶺の花として遠巻きから眺められる対象になっていたに違いな――

 

「つる、み……るみ……?」

 

 思考が凍ったように止まる。学生証に記載された、見覚えのある名前を知らず口に出してしまっていた。

 学生証とそれを手渡した女子学生――思い返してみると、さっきからずっと表情を強張らせている――の間を、視線が二度、三度と往復する。

 改めて見れば、確かに面影がある。まともな交流は千葉村とクリスマスイベントの二回だけだというのに、もう七年も八年も前だというのに、目元、口元、様々なところから名残を感じ取ることができた。

 同姓同名の別人なんて考えられようがない。間違いなく目の前にいるのは、俺の知っている鶴見留美に違いなかった。

 

「ぁ……えっと……」

 

 ただそれに気づいたからと言って……なんと声をかければいいのか分からない。

 そもそも関わったのは二回だけ、しかも一回目は彼女の周囲をめちゃくちゃにした主犯だ。主犯のくせに自分の手は汚さなかった卑怯者だ。

 そんな俺が、今更なんて話しかければいいのか。

 それに……。

 

「はち…………比企谷先輩」

 

「え、あ、ああ。学生証な」

 

 耳に馴染まない呼ばれ方をして手を差し出された。半ば反射的に返したカードを受け取った彼女は財布にしまいながら部屋の反対側、右側の席の方に歩いていく。

 

「……はあ」

 

 途中まで見送ると無意識に息をつき、出欠確認の続きに入る。

 その息がどんな意味を持っていたのか、自分でもわからなかった。

 

 

 

「それに対して近代日本文学における最も顕著な傾向は――」

 

 開始のチャイムから少し遅れて入ってきた教授が講義を始めると、基本的に俺がやらなくてはいけないことはない。講義内容なんて数年前に受けたものと同じだし、たまに手伝いがある以外は読書や論文作成など自由に過ごすことができる。これでバイト代もらえるとかぼろい仕事ですわ。時給は少ないけどな。

 昼食後だったらさぞいい睡眠導入曲になるであろう講義をBGMに、図書館で借りたハードカバーの文字列に視線を這わせていく。同じ研究室の同期に勧められた本だが、なかなか面白い。え、他人と交流できるとかお前八幡の偽物なんじゃないかって? さすがに今は多少のコミュニケーションくらい取るわ。うちの研究室の人間なんて大抵文学馬鹿ばっかりだから本の話となれば周りが引くくらい話弾むから。……引いちゃうんだよね、周りは。

 しかし残念なことに、今はいくら頑張ってもパルプに記載された痛快活劇な文字列に集中出来そうにはなかった。

 

「…………」

 

 自然と息をひそめながら目だけを動かす。盗み見るのは講義室の反対側、前から数えたほうが少しだけ早い席に座っている長い黒髪。

 板書に集中しているのかずっと俯いたままの彼女の表情は、垂れ下がった前髪に隠れて分からない。しかし時折垣間見える大人びた輪郭が、時の経過を確かに教えてくれていた。俺の肩程度しかなかった身長も、十センチは伸びたのではないだろうか。

 ……考えてみれば当然か。あの時は小学生だったもんな。

 中学、高校を経て大学生になった。俺が院生になっていることを考えれば至極自然なことだが、実際にその姿を目にすると不思議な気分だ。得をしたような、損をしたような、そんな変な気分。懐かしい存在と再会できたという気持ちはもちろんのこと、どうせなら中学校や高校の頃の姿も見たかったな、なんて妙な欲も顔を覗かせてしまう。

 

「……いやいや」

 

 実際に当時遭遇したとしても周りからやばい目で見られることは必至だっただろうけど。っていうか、中学高校の姿も見たかったって考えてること自体やばいのではないだろうか。なんというか、そこはかとない変態臭。

 まあほら、これだけ歳の離れた関係は俺の人生でもあいつと川崎の妹くらいのもんだからな。親戚のおじさんみたいな心境なのだろう。俺まだ二十代だけど。

 あくまで数奇な偶然が重なった結果。この再会にさしたる意味なんてないのだろう。人によっちゃこんな再会を運命と宣う人間もいるだろうが、比企谷八幡の思考からすればそんなものは勘違いに違いない。そもそもちょっと顔見知り程度の俺みたいなやつから声をかけられたら、あいつも迷惑だろうしな。

 

「…………」

 

 そうは思いつつも――講義の声を聞き流しながらついつい彼女を見つめてしまうのだった。

 

 

     ***

 

 

 マズい。状況は非常にマズい。

 私、鶴見留美は切羽詰まっていた。

 まるでそこしか選択肢がなかったとでも言うように総武高校に通った私は、特に大きな障害もなく大学に進学できた。

 学歴社会を生きる私の生活はとてもスムーズ、何の問題も存在しない――と思っていたら大間違い。大学生活初っ端から想定外のアクシデントに遭遇してしまった。

 まさか八ま……比企谷先輩と、五歳も歳の離れた顔馴染みと学内で再会するなんて誰が想像できようか。講義の出欠を取っているのを見つけたときは、あまりのことに文字通り固まってしまった。比企谷先輩マジメデューサ。

 交流らしい交流をしたのは小学校最後の夏と冬の二回だけ。それでも忘れられないちょっとやる気がなさげな、達観した瞳を見たら、それがあの人だと確信するのはすぐだった。

 かと言って、一ヶ月経った今でもまともに会話することすらできていないんだけど。

 

「はい、学生証返しますね」

 

「は、はい……」

 

 出欠確認のために渡していた学生を受け取り、そそくさと空いている席、意図的に少し離れたところに逃げ込んだ。ルーズリーフと筆記用具を取り出しながら、ちら、ちらと前の席にいる彼を盗み見る。

 は……比企谷先輩と会うのは週に二回。もうそろそろ十回は会ってると思うけど、ただ短い返事をするだけでも緊張してしまう。私ってこんなタイプだったっけ。もっとずけずけ物事を言う方だったと自負してるんだけど。……それはそれでどうなの?

 講義が始まってからも気が付くといつもの席に座る横顔に目が行ってしまう。目どころか意識そのものが持っていかれて、正直講義内容なんて一切耳に入ってこない。俯いて垂れ下がった前髪の隙間から見ているからあの人には気づかれていない……と思うし、たぶん先生からは必死に板書を取っているように見えるだろう。……板書どころかプリントに印すらつけていないから、後で友達に見せてもらわなくちゃいけないんだけどね。

 不真面目極まりない授業態度だけど、仕方ないよね。だってあの人がいるんだから。

 どうすればいいのか分からなかった、まだ幼かった私にきっかけと勇気をくれたあの人が、もう会えないかもって思っていたあの人がまた同じ空間にいるんだから。

 捻くれてて、遠回りで、分かりづらかったけど、あの優しさのおかげで今の私がある。それは紛れもない事実だから。平静を保てないのも仕方のないことだった。

 また前髪の隙間から覗き見る。私とは正反対にあの人は落ち着いていて、分厚い本を広げながらルーズリーフにカリカリとペンを走らせていた。授業のレポートだろうか。それとも修士論文ってやつ? いずれにしても、ペンが止まっている時間の方が少ない。

 集中している横顔。隣で一緒に折り紙を折ったあの時も見た、いつもより少しだけ真剣さが窺える瞳に喉の奥がク、と小さく鳴った。あの頃より少し大人びた姿に、また釘付けになってしまう。

 どれくらい見ていただろう。机に前のめり気味になっていた背中を背もたれに浅く預けた彼は開いていた本に手を伸ばして――

 

「っ――!」

 

 思わずより深く、机に齧りつきそうなほど深く顔を隠した。

 彼が一瞬、こっちを見たような気がしたから。

 見てたこと、ばれちゃったかな。いや、この距離なら前髪に隠れた目の動きまでは分からないはず。たぶん、恐らく、きっと……。

 そもそも、そもそもとして、私のことなんて気にしていないのかもしれない。初めて私に気づいた時こそ驚いたみたいだけど、今では他の人たちと同じように話してくるし……そもそも話すのだって出欠の時だけだし。

 だからこっちを見たなんて気のせい。仮に見てたとしても、たぶん授業の監督とかそういうのだ。そう、きっとそう。

 だから、茹だってしまいそうな頬の熱さを冷まさないと。このままじゃ変になってしまいそうだ。

 

「あー、今日はこれくらいにしておこうか」

 

「ぁ……」

 

 結局、今日の講義内容も何一つ頭に入ってこなかった。

 

 

 

「あっ」

 

「お、っと」

 

 ばったり。そう表現するのが適切な遭遇だった。

 夕方まであった今日最後の講義を終えて帰ろうとしていると、T字路になっている廊下の角から八……比企谷先輩が出てきたのだ。食パンを咥えて走っていたらラブコメが始まっていたことだろう。いや、そんなベタなラブコメ、今時漫画の世界だってあるか怪しいけど。

 

「おお、わりいな。今帰りか?」

 

「は、はい」

 

 彼は大きめの鞄を肩にかけて、コピーしたものらしいA3サイズの紙の束を抱えていた。相当な枚数あるようで、今にも零れ落ちてしまいそうだ。

 そんな姿を見たら、手伝えないだろうかとつい思ってしまった。

 

「あの……半分持ちましょうか?」

 

「え、マジで? 助かる。アホ共にまとめてコピー頼まれちまって、割とやばかったんだ」

 

 抱えられていた束を半分程度受け持つ。軽くなった自分の紙束を軽く整えた比企谷先輩が歩き出したので、その後ろをおずおずと付いていく。目的地は普段私が行かない区画にある会議室のようだ。

 

「定例報告会の資料でな」

 

「報告会……」

 

 自分の抱えた一番上のプリントに目を落とすと……なるほど、確かに印刷内容はレジュメのようだ。グラフなんかの図もいくつかあるけど私の知らない単語も書き連ねられていて、即座に内容を理解できそうにはなかった。

 ――すごいな、大学院生ってこんなのも作るのか。

 そう思いもしたけれど、口には出さなかった。出していいものか分からなかった。

 

「…………」

 

「…………」

 

 そうなると会話は途切れてしまうわけで、ただ黙々と廊下を歩くだけになってしまう。雑談をしながら通り過ぎる人たちの声もどこか遠くから聞こえているみたいだ。

 後ろを歩きながら顔を上げてみると、すぐ目の前には猫背気味の背中がある。あの頃よりも身長は近づいたはずだけど、やっぱり頭の先まで見るには見上げることになるし、むしろ背中は余計に大きく感じた。

 それは私の心持ちのせいか、私が成長したようにこの人も成長したせいか、それともその両方か。

 それを知るのはなんだか気恥ずかしくて、やっぱりなにも話さない。

 

「ここだ。鍵開けるからちょっと待ってろ」

 

 歩みが止まった背中にぶつかりそうになるのをすんでのところで踏みとどまると、取りづらそうにシャツのポケットから鍵を取り出した彼は引き戸の鍵を開けて中に入っていく。その後を追って恐る恐る中に入ると、コの字型に長机が並べられた会議室の冷えた空気が頬を撫でた。

 誰もいないのに感じる厳かな空気。場違いなところにいる居心地の悪さを感じて、運んでいた資料の束を机に置くとそそくさと外に出てしまう。

 

「ふう……」

 

 扉一枚の隔たりを抜けただけでも気持ちは和らぐもので、ため息とともに少しだけ身体の固さが抜ける。ちょっと後ろを見てみると、資料を分け終えたらしい比企谷先輩が出てくるところだった。

 

「サンキューな」

 

「いえ……」

 

 荷物運びのお手伝いは完遂。つまり、私がこの人と一緒にいる理由もなくなってしまった。このままお別れして、それで終わり。

 けど、それは分かっているけど……。

 

「…………」

 

 まだ――離れたく、ない。

 せっかく二人っきりで話すことのできる機会なのに、何も話せてない。そうじゃなくても……もっと一緒にいたい。ここで今日は終わり、なんてしたくない。

 一度湧き上がってしまった気持ちは抑えようがなくて、かと言ってその気持ちを素直に伝えることもできなくて、ただただ足が縫い付けられたように立ち尽くすだけ。

 

「あー……」

 

 バリバリと頭を掻く音に俯いていた顔を上げると、困ったように眉をハの字に歪めた顔と目が合った。私の視線に気づいた彼は小さく息を飲むと、つ、と首を明後日の方に向けて、また「あー」と意味のない音を漏らす。

 やっぱり、迷惑……だよね。早く帰らないと。重い足を一歩踏み出してこの場を離れようとして――

 

「この後、その……暇か?」

 

「ぇ……?」

 

 耳が拾った意味のある音に、右足が踵を中途半端に上げた状態で止まった。傍から見たら情けない姿勢だと思うけどそれを気にする余裕も残ってなくて、首をそっぽに逸らしながら目だけをこっちに向けてくる彼をじっと見つめてしまう。

 

「や、手伝ってもらったしな。奢るから、一緒に飯でも……どうかと、思ったんだが……」

 

 意味を理解するのにいつもの三倍はかかったと思う。ほっぺたをほんのりと赤らめた彼からの食事のお誘いだとようやく気づいて、けど驚きのあまりすぐに返事をすることすらできなくて思わず呆けてしまった。

 だって、ほら、高校の時は小学校の友達なんて誤差だとか、一人でなんでもできるとかドヤ顔してたぼっちの塊みたいなあの人が誘ってくるなんて、想像もしていなかったから。

 返事を返さない私に、彼の表情が段々「しまった」というものに変わっていく。気恥ずかしそうに――ひょっとしたら落ち込むように……?――視線を誰もいない廊下の奥に投げた彼に、私も「しまった」と表情筋を歪めてしまう。

 お互いしまったしまったでもうカオス。正直悪いの私なんだけど。

 

「すまん、迷惑だったな。忘れて――」

 

「行く! ぁ……行き、ます……」

 

 ここを逃したら次いつこんな機会に遭遇できるか分かったものではない。むしろ八ま……比企谷先輩ならもう二の轍は踏むまいって一生誘ってこないまである。……本当に普通にありそうだ。それは困るの!

 そんな思いのまま、思わず食い気味に返事をしてしまった私にたじろいだ彼は「それじゃあ行くか」と来た道を歩き始める。

 

「早く行くぞー」

 

「は、はいっ」

 

 これから一緒にご飯、二人っきりでご飯。改めてそう認識すると、じわりじわりと顔が熱くなってきて――

 けれど、さっきまで踏み出すことすら困難だった足は、いつもより軽くすら感じた。

 

 

     ***

 

 

 

 どこに行くのか聞かされることなくついていく中、ずっと過度な期待はしないように努めていた。だって見るからに食事とか気にしなさそうだし、そもそも学生の夕食なんて定食屋とかラーメン屋とかが精々だろう。……うん、ラーメン好きって聞いたことがあるし、たぶんラーメンだよね。間違いない。

 そう思っていたのに。

 

「ん、どうした?」

 

「いえ……」

 

 曲名も分からないお洒落な曲――ジャズ、かな? たぶんジャズってやつ――が響く落ち着いた雰囲気の店内。通された個室のテーブルは主張をしない控えめな意匠が施されたもので、自然の木目と合わさって品の良さを醸し出していた。

 お洒落な洋風居酒屋に連れてこられるなんて、誰が予想できるだろうか。金髪のイケメンさんならさらっとこういうところに連れてくるのも分かるけど、何度も言うけど相手はあのプロぼっちって堂々と言っちゃうような人だよ? ちょっとこのクイズは難易度高すぎた。

 まあ、何が言いたいかというと――

 

「鶴見は何飲む? あ、さすがに酒は駄目な」

 

「え、と……」

 

 予想の斜め上どころか真上からのダイレクトアタックを受けた私は、ガッチガチに緊張してしまっていたのだ。とりあえず無難に烏龍茶を選ぶと、慣れた様子で注文してくれる。

 

「比企谷先輩って……」

 

「ん?」

 

 おだて上手な子なら、ここで「こんなお洒落なお店知ってるんですね~。連れてきてもらえてうれしいです~」とかさらりと言ってしまえるんだろうけど、緊張以前に私にはそんなこと到底できない。そんな受け答えは由比ヶ浜って人とかあの栗色の生徒会長さんみたいな人の特権だ。

 

「一人でこういうところ来るんですね。一人居酒屋ってハードル高い」

 

「いや、研究室の連中とかと極稀に来るだけだから」

 

 だからつい、そんな憎まれ口を漏らしてしまった。ガクンと首を落とす勢いで俯いた彼の言い分によると、一人居酒屋は未経験のようだ。たぶん一人バーよりハードル高いよね、一人居酒屋。

 他の人にしたならたぶんそれ以降呼ばれることはなくなるであろう会話。

 

「お前変わんねえな」

 

 けれどそう、これが私たちのスタンダードだ。好きなように言い合える。何年経とうがそれは変わらないみたいで、喉を鳴らす彼につられて私も少し笑ってしまった。さっきまで緊張で固まっていたはずなのに、それを認識できただけで身体から程よく力が抜けていく。案外私の身体は単純なのかもしれない。

 

「じゃあ変わらないついでに、呼び方も敬語も前のままにしてくれ」

 

「……いいの?」

 

 小学生だったあの頃ならまだしも、もう私も大学生だ。さすがに顔見知りとはいえ、いや顔見知りだからこそ敬語じゃなくてはという強迫観念めいたものがあったんだけど。

 

「いいんだよ。なんか鶴見に“先輩”って呼ばれるのはムズムズする」

 

 口元をもごつかせる彼はどこか七年前の表情を感じさせて。

 当時の彼より自分が年上になったからだろうか――なんだか、かわいく見えてしまった。

 

「それじゃあその……八、幡」

 

「……なんかそれはそれでムズムズするな」

 

「えぇ……」

 

 ポリポリと頬を掻く彼に、呆れながらもつい笑ってしまう。八幡が不機嫌そうに眉をひそめたけど、恨み言の一つも口にするまでに頼んだ飲み物を店員さんが持ってきて、くっと表情を取り繕った。なんかちょっと勝った気持ちになって店員さんに気づかれないようにまた浅く喉を震わせる。

 昔に戻って、ちょっと笑って、だいぶ気が緩くなってきて……そうするとふと私も注文したいことがあるのを思い出す。

 

「じゃあ鶴見……どうした?」

 

「八幡も、昔みたいに呼んでよ」

 

「昔……ルミルミ? いてっ」

 

 あ、思わず蹴っちゃった。そんなに力入れてないしセーフ……だよね?

 最初こそ痛そうにしていた八幡はケロリと表情を和ませると「悪い悪い」と軽く謝ってくる。いやまあ、私のことを「ルミルミ」なんて呼ぶのはこの人くらいのものだし、その呼び方でも問題はないと言えばないんだけど――やっぱり普通に名前も呼んで欲しかったから。

 そんな私の空気を察したのか改まったように椅子に座り直した八幡は、浅く拳を握った右手を口元に当てて咳ばらいをする。

 

「あー、それじゃあ……留美」

 

 気恥ずかしそうな、けれど前と変わらない音にタイムスリップしたみたいな懐かしさを感じて、なんだか心の奥が温かくなった。

 ただまあ……やっぱりあれから七年経って、私ももう大学生なわけで。

 

「なんか……恥ずかしいね」

 

「お前から言わせたんだろうが」

 

 大げさにため息をついた八幡は、けれど微笑みながら自分のグラスを差し出してきた。そっとくっつけるように自分のグラスを触れ合わせるとガラス同士がぶつかる澄んだ音が鳴る。

 少しだけ露の浮かんだグラスから喉に流れ込んでくる冷たい烏龍茶は、温かくなった心に心地よい冷たさを伝えてくれた。

 

 

 

「え、お前総武校なの?」

 

 適当に注文した食べ物を摘まみながら話をしていく上で、一番八幡が驚いたのが私の出身高校の話だった。自分の母校だとそんなに驚くものなのかな。まあ、総武校って偏差値高いもんなぁ。私も受験はだいぶ頑張ったし。

 

「うん。入学式で平塚先生見つけてびっくりしちゃった」

 

「あの人まだ総武勤務なのか。長くね?」

 

「さすがに私が二年に上がる頃に転勤になったよ。それまで色々構ったり構われちゃったけど。……愚痴とか」

 

「あっ」

 

 いや、ほんとね。私の学年では唯一の顔見知りってことで構われたんだろうけど、月二ペースで合コンとか友人の結婚式の愚痴を聞かされるのはね……なんであの人結婚できないんだろ。先生としてはいい人だと思うんだけど。

 どうやら八幡も私と同じ体験をしたことがあるようで、空気が何とも微妙なものになっちゃった。ひょっとして、私たちの間で先生の話題は禁句なのではないだろうか。ごめんね先生、バイバイ。

 

「そ、それにしても高校も一緒で大学も、学部まで一緒なんて、妙な偶然もあったもんだな」

 

「っ……」

 

 空気を変えようとして八幡が切り出した話題に、思わず喉が引きつってしまった。

 勇気が足りなくて肩が震えてしまう。適当に話を流そうかって思ってしまう。「そうだね」なんて言えばそれだけで簡単に別の話に移ることができる。

 けれど、今ここで言わなかったら一生後悔しそうで。このままズルズルと何も変わらない関係になってしまいそうで。

 

「…………偶然じゃ、ないよ」

 

「え……?」

 

 掠れる喉からなんとか絞り出した声に、間の抜けた声が重なった。

 

「八幡がここの大学に行ったって、先生から聞いた。だから、受けたの。八幡が行ったところに、行きたかったから」

 

 驚きのあまり持っていた箸が取り皿の上を転がったことも気にせずに薄く口を開けている八幡に、つらつらと真実を伝えていく。最初こそ呆けていたけど、段々とその唇が引き結ばれていって、真剣に私の声を聞いてくれる。

 

「そりゃあ高校も大学も、行っても八幡はいないけど。けどせめて、同じところに通いたいな、って」

 

 一度堰を切ってしまえば、つっかえながらも想いは止まらずに言葉にできた。

 学生として普通に生活する間も、どこかでこの人の面影を探していた。街中で偶然会えないかなとか思ったりもした。出不精な八幡に外で会える確率なんて宝くじの一等並みに低かったと思うけど、それでもいつも心のどこかで会えないかって気持ちが、会いたいって想いが燻っていた。

 そんな思いのまま八幡がいた大学に行ったら、本人がいるんだもん。びっくりして、固まっちゃって、だけどすごく嬉しくて。

 

「……俺もさ」

 

「?」

 

「俺も、留美に会えて嬉しかった。あの後どうなったかって心配な気持ちもあったし、短い間だったけど、色々話した奴だからな」

 

 別の個室からの談笑が転がる廊下に視線を投げる彼の頬がほんのり赤く染まっているのはお酒のせいだろうか。それとも恥ずかしいからだろうか。

 

「……そっか」

 

 後者だったら、ちょっと嬉しい。

 ただ――

 

「それなら、話しかけてくれればよかったのに……」

 

 出欠の時にちょっと話す時も敬語だし、講義が終わるとすぐに出て行っちゃうんだもん。話しかけたら迷惑かなってずっと不安だった。

 つい気持ちが沈む私に「一応仕事中だしな」って苦笑しながら、彼はグラスに残っていた鮮やかな色の液体を飲み干す。ふう、と少しアルコールの匂いが混じった息を吐いて、何かを思い出すようにそっと瞑目する。

 

「それに七年ぶりだから話しかけていいのか分かんなかったし、お前めっちゃ美人になってるし」

 

「え?」

 

「あっ……」

 

 それって……。

 

「俺は何も言ってない……ちょっと酒のせいで口が軽くなった……じゃなくて、いやその…………忘れてくれ」

 

 私以上に狼狽した八幡はこっちが何か言う暇も与えないと言わんばかりに店員さんを呼んで空になったグラスの代わりや食べ物を注文していく。

 昔はちょっと情けなく見えた必死に取り繕う姿が微笑ましく見えてしまうのは私もあの頃から少しは大人になったからか、それとも「美人」なんて言ってもらえて浮かれているからか。

 

「八幡」

 

「なんだよ……」

 

「ふふ、なんでもないよ?」

 

「なんでもないようには見えないんですが……」

 

 まあいずれにしても、ちょっと忘れるのは無理そうだよ、八幡。

 

 

 

 七年もあれば富士山くらい積もる話はあるもので、だらだらと食事を摘まみながら昔話だとか大学の勉強の話だとかを縷々綿々と交わしていた。授業をまともに聞いていなかったことをポロッと漏らしたときは苦言を呈されたけど、八幡のせいって言ったら顔を赤くして黙り込んじゃって、それもまたかわいか……コホンコホン。

 

「終電、なくなっちゃったね」

 

「悪い、失念してた」

 

 その結果、気が付くと終電の時間を完全に過ぎてしまったのだ。さすがに四時間も話すとは思わなかった。自覚すると途端に喉が痛い気がしてくる。

 

「どうしたもんかな。この近くだと知り合いはいねえし……」

 

「そもそも知り合いとかいるの?」

 

「同期と飲みに行くって言ったよね?」

 

 反対方向を向いて嘆息した八幡はどうしたものかと首を捻りながらのろのろと自転車を押し始める。その横を同じ歩幅で歩くと春とはいえ少し冷たい空気にブルリと身体が震えた。

 

「……ま、悩んでもしかたねえか」

 

 腕を交差させて春用の長袖シャツの上からさすって暖を取っていると八幡が一瞬だけ立ち止まって、今度は普通の歩幅で歩きだした。いきなり三歩くらい開いた距離を慌てて追いかける。

 

「俺の部屋に行くぞ。このままぶらついてても風邪引いちまうだけだ」

 

 ――――。

 喉の奥がク――、と高い音を出した。

 だって八幡の部屋に行くなんて昼間の私は想像もしていなかったし、いつもの私なら緊張で逃げ出してしまいそうな提案だったから。

 私の中から鳴った音が聞こえたのか、八幡の頬が少し引きつって、視線が右へ左へ泳ぎ出す。

 

「ぁ……や、これは応急処置というか慈善行為というか……まあそんなもんなわけで、決して手を出すとかそんなやましいことは考えていなくてだな」

 

 けど、そんな緊張をはるかに上回る、このチャンスが到来したことへの喜びも確かにあったわけで。

 

「やましいこと……してもいいのに」

 

「え」

 

 ギョッと双眸を見開いた八幡が何か言う前にその腕に抱きつく。ほんのり赤みを帯びていた頬がみるみる真っ赤になる様子を見ながら、それ以上何も言わずに絡めた腕に力を込めた。

 ――やっぱり、忘れるのは無理だよ。絶対忘れないよ、八幡。

 

「ったく……」

 

 まあ、どうしようもなく早くなっちゃってる心臓の音のせいで、言葉にしなかったことまで、それ以上までばれちゃってるかもしれないけどね。




 久しぶりの八留書きました。

 仮に八幡が大学院に行ったらって考えたら、院二年でルミルミが大学生になるということに気づいて書いてみた話。私の八留には珍しく一年以内に再会していない話になりました。
 大学生のルミルミとか絶対美人に決まってる。ついでにスタイルも絶対いい。

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。

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