比企谷八幡がイチャイチャするのはまちがっている。   作:暁英琉

27 / 34
俺の抱き枕が作られるとか普通に考えておかしい。

 大学食堂に併設されたカフェ。そこに俺が腰掛けているという絵は、自分で言うのもなんだが大変似合わないものだろう。俺はどこぞの雪の同級生のように絵になるような見てくれではないのだ。

 まあそれでも、授業がないときには割とここで過ごすことが多い。昼休みには他の学生たちが雪崩れ込んできてうっとうしいことこの上ないが、それ以外の時間は程よく空いている。ドリンクを傍らに置いて読書や勉強に勤しんでもいいし、愛しのVitaちゃんと戯れてもいい。邪魔するものは誰もいない。

 そう、普段ならば。

 

「……なんか今、邪魔者扱いされた気がする」

 

「別に……つうか、なんでいるんだよ――海老名さん」

 

 向かいの席に座る眼鏡女子、海老名姫菜は自分のカップ――確かレモンティを頼んでいたはずだ――を両手で包むように持ちながら口を尖らせている。そこはかとなくうざい顔だ。

 俺と奉仕部の関係も一応のエンディングを迎え、比企谷八幡はさしたる障害もなく総武高校を卒業。志望校であった私立大学の文学部に入学した。大学生活というものは予想していたよりも幾分忙しいものではあったが、もうすぐ丸二年にもなる今となっては気になるほどの苦労もない。想定の範囲内というやつ。

 そんな中で唯一と言っていい誤算が、目の前にいる高校時代の同級生だ。まさか数少ない知り合いと同じ大学、同じ学部になるとは思わなかった。一年の必修科目の授業でばったり遭遇して、あまりの驚きに丸一日無視してしまったのはいい思い出だ。なぜか小町にそのことをチクられていて、一晩中お説教食らったけど。

 

「いいじゃん、ゼミまで時間あるわけだし」

 

 その上、一切話し合ってもいないのにゼミまで同じになるとはどういうことなのか。うちのゼミ――というか教授――は学部の中でも三本の指に入るほど人気で、毎回高倍率らしいのに。これが千葉有数の進学校の力か。違うか、違うな。

 まあ、今は運命のいたずらなどどうでもいい。そもそも俺や海老名さんの興味や学力が被っただけの必然に過ぎないのだ。決して運命などではない。

 今重要なのは――

 

「どうでもいいけど……要件は分かりやすく明確に言ってくれよ?」

 

 彼女が何かを隠している、ということだ。

 

「あ、バレた?」

 

「そりゃあもう」

 

 分かるに決まっている。だって今の海老名さんがまとう雰囲気には覚えがあるから。修学旅行前、奉仕部で見せたものと同じ雰囲気だ。

 

「面倒事じゃなければなんでもいいけどよ。もう恋愛云々の助力を請われるのは勘弁……」

 

「あはは……ごめん」

 

「別に、もう済んだことだし」

 

 あれは俺にとっても海老名さんにとっても黒歴史だ。いっそのこと修学旅行の記憶を跡形もなく消し去ってしまいたいほどの。今も自分で話題に出しておいて自分でダメージ受けちゃったしね!

 まあ、だからこそ彼女の口から俺に対して恋愛事に対する相談がなされるはずもない。分かってはいるのだが、それでも警戒してしまった。ほんと、自分の中であれはかなりの傷になっているようだ。

 

「そういうのじゃないんだけど……うーん」

 

 何やら言いにくそうだ。普段は俺に対してずばずばといろんな意味で言いたい放題なこの腐女子がここまで言い淀むとは、一体どんな面倒事をよこしてこようというのか。いや、マジでなに頼もうとしてるの。俺の平穏な大学生活を脅かすようなことはやめてくれよ?

 冬も真っ只中だというのに、空調の効いた屋内なのも相まって嫌な汗が頬を伝ったように錯覚する。

 そんな俺の心境を知ってか知らずか、たまに唸りながらたっぷりと時間をかけて俯いていた同級生は不意にパッと顔を上げる。その目が真剣そのもので、思わず息を飲んだ。

 

「ヒキタニくんさ、大晦日って……暇?」

 

「大晦日?」

 

 大晦日。言うまでもなく一年最後の日のことである。友人と過ごしたり、家族と過ごしたり、テレビの特番を見て過ごしたり、あるいは外でカウントダウンイベントなんてものに参加したり。普通に考えると暇とは言えそうにない日だ。

 

「俺を誰だと思ってんだ。百人中百人が忙しい日でも予定を作らない男だぞ」

 

 近場の大学に進学したので実家暮らしではあるが、今年は小町の受験もあるということで、どうせ家でも年越しそばを食べるくらいである。うちの両親は相も変わらず社畜で、年越し前に帰ってこられればいい方とか言ってたしね!

 

「だよねー。さすがヒキタニくんだー」

 

「全然褒めてねえよな、それ」

 

 や、一応弁明させてほしい。さっきも言ったように、予定を作らなかったから暇なのである。予定ができなかったわけではない。そもそも今の俺は高校の時ほどぼっちではないのだ。ゼミの同期とつるむことも多いし、学部にも友人……とまではいかないまでも知り合いは多い。

 ……まあ、家で小町の邪魔をしないようにひっそり過ごすのと同期でバカ騒ぎするのとを天秤にかけて、面倒くさくて前者を選んだ部分が少なからずあるし、なんならその知り合いたちだって大抵は目の前の海老名さんづてで知り合った面々なのだが。だって初対面で話すのとか怖いし、あと怖い。

 詰まるところ、俺の大晦日は空いているのである。

 

「そんなヒキタニくんの大晦日お昼の時間をお譲りしてほしいんだけど」

 

「なんでへりくだったの……つうか、昼間は海老名さんの予定が空いてないだろ」

 

 口調が変になった彼女にツッコミを入れながら、脳内のカレンダーを確認してみる。

 大晦日、十二月三十一日、今年最後の日。その日は海老名さんにとって重要な日であるはずだ。大事な戦いの日であるはずだ。戦場は国際展示場。

 そう、コミックマーケット冬の陣、その最終日である。他二日と比較すると参加者が単純に十万人は増えると聞くイベントの開催時間に海老名さんがそこを離れるわけがな――

 

「あ、まさか……」

 

「そう、そのまさかです。ヒキタニくんには……コミケでうちのスペースの売り子をやってほしいのです」

 

「やだよ他当たれよ」

 

 自分でもびっくりするくらい即答で拒否してしまった。や、確かに、俺もコミケというものには興味がある。これでもオタクに片足くらいは突っ込んでいる身。興味がないわけがない。今まで近場でありながら行かなかったのは、単純に早朝起きて数時間並ぶとかいう苦行が嫌だっただけだし、売り子ということはサークル参加であろうから、その点は随分と楽ができる提案だろう。

 しかし、いやしかし。一見魅力的な提案に見えて、これがとんでもない罠なのは確定的に明らかなのである。

 だって――

 

「海老名さんのスペースに男とか……ありえんでしょ」

 

 この女のスペースは十中八九腐女子向けのBL島なのだから。腐ったお姉さま方がひしめくホモ空間に男を放り込もうとか、どういう精神してるんですかね。やだよ「え、あの人腐男子?」みたいな目で見られるの。いや、偏見かもしれないけどさ。

 

「そこをなんとか! いつも売り子お願いしてるネット友達が当日仕事で不参加なんだよぉ……」

 

「うわぁ、社畜怖い……」

 

 ここにも大晦日まで仕事に明け暮れる人がいたとは、うちの両親のアイデンティティが死んでしまう。そんな面倒なアイデンティティはさっさとくたばればいいと思います。

 じゃあ別に俺以外でも――と口にしようとして、考え直す。その質問が愚問にもほどがあるからだ。

 そもそも俺にこの話が来る時点で、状況は逼迫しているのである。

 

「ネットの知り合いもだいたい三日目にサークル参加してるし、そもそも今までずっと同じ子に売り子してもらってから、今更他の人に頼みづらいというか……」

 

「ネットも面倒だなぁ……」

 

 普通ならここで大学のオタク友達は? なんて尋ねるところかもしれないが、ここでリアルの話をしないのがなんとも俺たちらしい。そもそも大学でも――恐らく牽制のため――腐女子であることをひけらかしている彼女であるが、リアルの同士というものを意図的に作らないようにしているきらいがある。漫画サークルにも入っていないし、彼女が友人と定義している同級生はほとんどが葉山や三浦あたりを彷彿とさせるリア充ばかりだ。

 趣味にリアルのしがらみを入れたくないのか。理由は定かではないが、とても「ホモ本の売り子やってください!」とは言えそうにない。

 つまり、ここが最終防衛ライン。俺もダメとなれば、当日彼女は一人でえっちらほっちらサークル運営をこなさなくてはならないわけだ。海老名さんのサークルの人気とかよく知らないが、たぶん一人では大変なのだろう。

 いやーけどなー、やっぱりBLサークルはなぁ……。

 

「往復の移動費と、マッカン一ケース出すから!」

 

「やはりコミケか、いつ出発する? 私も同行しよう」

 

「頼んでいてなんだけど、手のひら返しが鮮やかすぎるよ……」

 

 うん、自分でもそう思う。いや、しかし、これはしょうがないではないか。ほぼほぼ無料でコミケの雰囲気が楽しめる上に、マッカンまでついてくるともなれば、少しくらい好奇の目で見られたっておつりがくるというもの。確かに視線は攻撃力を持っているが、ぼっちは視線を受け流すアビリティも持っているから頑張ればノーダメ攻略も可能だし、これを参加しない手はないだろう。

 

「ま、別にコスプレするわけでもないし、売り子の顔なんて誰も見ないだろ」

 

「えっ、あっ、うん……そ、そうだね」

 

 え、何その反応。実際はめちゃくちゃジロジロ見られたりするのか?

 

「いや、そういうわけじゃないんだけど。ヒキタニくんは例外というか、実質コスプレというか……」

 

「すまん、話が見えてこないんだけど……」

 

 実質コスプレとか意味が分からん。あれか? 目が腐ってるからコスプレみたいなもんとか言いたいのか? いや、雪ノ下ならともかく――あいつも最近はじゃれ合い以外でそんなこと言わなくなったが――海老名さんがそんなことは言わんだろ。

 であれば、一体どういう――

 

「今回の配布物、はやはち本と…………ヒキタニくん抱き枕カバーなんだよね……」

 

「はあぁ!?」

 

 

     ***

 

 

 その日、海老名姫菜は荒れていた。もうあれに荒れていた。冬コミの新刊であるはやはち本――という名の一次創作――の原稿が完全に止まってしまったからだ。

 どうも納得がいかない。しかし〆切が間近に迫っているのもまた事実なわけで、このまま放置していては「進捗駄目です」から「何の成果も、得られませんでしたあああああ!」となるのは必至。

 しかしやはり納得がいかず、原稿に線を引いては消し、引いては消しを繰り返す。溜まっていくのはストレスだけ。

 

「ああああああ、もう駄目だ! 息抜きしよう息抜き!」

 

 とうとうストレスがキャパシティを大きく振り切り、乱暴にマウスを操作して新規キャンバスを開く。絵の息抜きに絵を描くというのもおかしな話のように思えるが、絵描きとは割とそういうものだろう。文字書きも小説の息抜きに小説書いたりするもの。

 さらさらと、気の向くままに筆を走らせていく。溜まった鬱憤をすべて吐き出すように殴り描いていけば、常ではありえないほど短時間で線画と言っていいレベルにまでイラストは形になっていた。いやほんといつもの十倍は早い。ストレスドーピングの恐ろしさを感じる。

 

「なんか、抱き枕っぽいな。ヒキタニくん抱き枕……需要マシマシなんじゃない?」

 

 沸き立った創作意欲のままに抱き枕の裏面となるイラストも描いていく。

 

「ただ脱がせてデレさせるなんてヒキタニくんじゃないな。ちょっと反抗的に、けど誘い受けオーラ満載で!」

 

 途中から入ったアルコールも相まって、加速度的に作業は進んでいった……と思う。正直、酔いのせいで完成した頃の記憶は朧げなのだ。なんとか完成した瞬間に「完全受注生産で冬コミ配布する」と投稿サイトにアップした記憶だけは残っていた。

 そして外から沁み込んでくる寒さに目覚めたあくる日――

 

「え、これ本当にわたしが描いた……?」

 

 寝ぼけ眼で発した第一声がこれだった。クオリティがいつもの倍は高く、一瞬リアルのヒキタニくんの写真を張り付けてしまったかと錯覚してしまうほど。いや、普通に考えてあり得ないのだけれど。残念ながら、ヒキタニくんがシーツの上で半脱ぎになって誘ってくる写真は持ち合わせていない。

 そしてキャプションに掲載していた受注受付用のメールアドレスには――二百件あまりの問い合わせメールが届いていたのだ。

 エイプリルフールでもない十二月半ば。今更「酒の勢いで言った冗談なんです!」なんて言えるはずもなく……。

 

「抱き枕……出すか」

 

 斯くして、同人作家「ウミヒナ」の冬コミ頒布物が急遽増えたのであった。

 

 

     ***

 

 

 一つ言わせてほしい。

 ――オタクってほんとアホ。

 なんで一般男子の抱き枕に二百も需要がつくのか。いや、正しくは海老名さんのオリジナル漫画「捻くれ者のハチくん」シリーズの主人公、ハチの抱き枕なのだが。それはそれで、生ものを勝手に同人にするとか海老名さん鬼畜すぎやしませんかね。葉山が知ったら卒倒しそう。今回の本、俺と葉山のエロBL本――無事〆切には間に合ったらしい――だし。

 つうかこのハチとかいう俺の分身、アホみたいに俺そっくりなんだが。そりゃあ俺がコミケで、それも海老名さんのスペースにいたらコスプレ扱いされるよ。私服でコスプレ扱いとかもう訳分からん。

 前言撤回だ。こんな売り子に赴くだけで確定公開処刑を食らう場所に誰が進んで参加するものか。落ちたサークルの方々に申し訳ないから渋々頒布は認めるが、売り子なんて絶対にやらん。新刊に加えて二百件の抱き枕配布対応なんて一人じゃ無理? 知るかよ、俺はこれ以上巻き込まれたくないんだ!

 そう、思っていたのだが。

 

「…………」

 

 年の瀬大晦日、午前八時。俺は今、ビッグサイトの中にいます。

 言うまでもないかもしれないが、結局断れませんでした。いや、違うぞ。拒否権がなかったとかでは決してないんだ。それだけは真実を伝えたかった。

 

『打ち上げの時に、この間ゼミで行ったお店奢るから』

 

 それが決定打であった。うちのゼミ、二ヶ月に一回くらいの頻度で食事会がある。その店は毎回教授が決めてくるのだが、めちゃくちゃ美味い代わりにめちゃくちゃ高いのだ。忘年会で行った件の店なんて、一人一万五千円もかかった。バイトをしていなければ小遣いが死んでいたレベル。

 あんな店、行きたいと思っても気軽に行けるものではない。低時給のバイトで小遣いを捻出している身からすれば、かなり美味しい提案だ。しかも移動費とサクチケとマッカンケースがついてくる。大盤振る舞いすぎてやばい。

 まあ、それで折れてしまったわけであるが――正直既に心が折れそう。二段階で折れるとか、俺の心ぼろ雑巾じゃん。

 

「「わあ、本当にできてる」」

 

 文字に起こすと全く同じなのだが、実際の声色は正反対なものだったりする。

 その原因が今しがた段ボールから出てきた頒布物。綺麗に折り畳まれてビニールにしまわれたそれを海老名さんが広げると、俺そっくりの男性が半脱ぎになっている全身イラストが二枚プリントされていた。

 およそ八時間で実質二万くらい。バイトより断然ボロいと思っていたが、全然そんなことなかった。精神的ダメージがやばい。なぜ俺は自分の抱き枕カバーなんて眺めているんだ。つうか似すぎなんだけど、ここのサークル主の画力舐めてたわ。

 その上葉山似の男と絡んでるエロBL本まであるとか、たぶん阿鼻地獄の方が優しそうなくらい地獄。

 いやしかし、ここでやっぱやめた帰るとはさすがにできない。プロぼっちと言えど、そこまで人間腐ってはいないのだ。

 とりあえず本の表紙が描かれたポスターをスタンドに貼り付け――

 

「え、あれってハチ? ハチじゃない?」

 

「わ、ほんとだ。生きてる……」

 

「生きてるよ……」

 

「目が腐ってるところまで再現してる……はあぁぁぁぁ、神秘。尊い」

 

 まじで帰っていいですか。たぶん初めてこの目のこと褒められたけど全然嬉しくない。

 つうかちょっと待て。抱き枕カバー二百件の時点でもしやと思っていたが……このシリーズ人気ジャンルなのでは……。

 

「まあ、もう三年くらいコミケで出してるし。元の部数が少ないのもあるけど、毎回完売してるからね」

 

「高校時代からかよ……」

 

 そうか、もう三年も俺の痴態(創作)は世に出回っていたのか……。大丈夫かな。今日帰ったら首括ろうとしないから、俺。

 まあただ……。

 いそいそと設営を手伝いながら周囲を見渡してみる。どのサークルもせっせと自分のスペースを着飾らせ、テーブルの上に創作物を広げていく。イベントでしか会わないのだろう。表情を綻ばせながら会話を弾ませている人たちもいる。

 自分が普段一切関わらないジャンルだとか関係なく、彼女を含めた誰もが楽しんでいるのが伝わってきて――まあ、手伝いを引き受けて正解だったかなと思わないでもない。

 

「ん? どうしたのハチくん」

 

「……いや、なんでも」

 

 そんなこと、おくびにも出すつもりはないのだが。

 

「よし、設営もあらかた終わったし、ちょっと近くのサークルに挨拶してくるから留守番よろしくね!」

 

「え、あ、ちょ……」

 

 制止する暇もなくスペースを抜け出した海老名さんは、早歩きともダッシュともつかない絶妙な速度でサークル参加者の波に消えてしまう。

 となると、後に残されるのは男一人なわけで。

 …………。

 ………………。

 え、俺これ今絶賛羞恥プレイでは? やめてよ、八幡そんな特殊性僻持ち合わせてないよ!

 いや、落ちつけ八幡。こういう時こそクールになるんだ。アイアムプロぼっち。視線無効アビリティは習得済み。

 

「おはようございますー。あのウミヒナ先生は――えっ!? ハチくんが生きてる!?」

 

「~~~~~~」

 

 ウミヒナ先生早く帰ってきて! 音速で帰ってきて!

 顔を見られるのすら耐えられなくて、俯きながらLINEにヘルプを送ることしかできなかった。

 

 

     ***

 

 

「お疲れ様ー」

 

「お疲れしました……」

 

 アルコールの入ったグラス同士が触れ合って、小気味いい音を響かせる。もっとも、そんな音を鳴らした二人の表情はまるで違うわけだが。具体的に言えば、満足と満身創痍。

 

「もうコミケ行きたくない……」

 

「いや、ごめんて。そんなに落ち込まないでよ」

 

 別に落ち込んでいるわけではない。灼熱極まる夏コミではないから熱中症になることもなかったし、なにか失態をやらかして海老名さんに迷惑をかけることもなかった。新刊も抱き枕カバーも午後二時前には全て捌けて、予定より拘束時間も短かった。

 ただね、ただね……。

 

「あんなに話しかけられるのはコミュ障には辛い……」

 

 事あるごとに声をかけられるのほんとなんなの。ひょっとして海老名さんより話しかけられたんじゃないかってレベル。おかしいよね、俺私服で参加してる売り子なのに。

 挙句の果てに写真を取るためにコスプレスペースに誘われたときはリアルに泣きそうになってしまった。しどろもどろになりながら断ったらそれはそれで受けがよかったようで、海老名さんに被害はなかったけど。

 

「まあ、涙目になってるヒキタニくん結構可愛かった。ごちそうさまです。次のクオリティが上がりますわ」

 

「鬼かよ……」

 

 つうか、次も俺で描くのか。また俺のねつ造黒歴史が増えるのか。

 

「まあまあ、さすがに売り子頼むことはもうないと思うからさ」

 

「そうしてくれると助かる……」

 

 まあ、言っても無駄だと思って諦めてるけど。

 

「けど、海老名さん結構有名なんだな。昼前に挨拶来た人、小町がよくサイト見てる人だったし」

 

 運ばれてきた料理に舌鼓を打ちつつ、昼間のことを思い出す。海老名さんが口にした名前に聞き覚えがあって、交換で出された本の表紙を確認したら、小町がしょっちゅう投稿サイトで見ている絵柄だったので驚いた。あいつ受験生だけど、あの人の更新だけは通知で確認できるようにしてるからな。しょっちゅうランキングに乗る人らしいし。

 

「有名というか……ハチシリーズを向こうが読んでくれてて知り合ったんだけどね」

 

「ガチ読者かよ……」

 

 小町、小町の好きな絵描きさんにお兄ちゃんの痴態漫画が読まれてるらしいよ……辛いよ……。

 

「なんならあの人、夏はハチシリーズの二次創作出そうかなとか言ってたよ」

 

「やめて!?」

 

 そんなことをされたら、サンプル作品が小町に読まれてしまうではないか。死ぬって。家に居づらくなって残りの大学生活を一人暮らしにしなくてはならなくなる。

 というか、二次創作が検討されるオリジナル漫画とか、プロ一歩手前では。まさかこのシリーズで商業デビューなんてことになるんじゃ……。

 ありえる。正直絵も上手いし、大学で本格的に文学研究もしてるせいか話も割と上手いのだ。絶対にないとは言い切れない。

 もしそうなったら……どうしよ。俺が拒否すれば取りやめてもらえるのかな。もうすでに黙認状態なのに今更ってなっちゃうよなぁ。

 まあ、たらればの話なんてしても仕方ない。取らぬ狸のなんとやらだ。

 今は美味い飯と美味い酒で疲れを癒すとしよう。

 コース形式の料理が運ばれてくる間も話は絶えない。正直売り子が忙しすぎてほとんど回ることはできなかったが、常日頃人間観察が趣味と豪語している俺。個性的な人や会話をつい見つけてしまうもので、そこに大学の話や海老名さんのオタク話も加われば会話は尽きない。

 

「くはっ……」

 

「どしたの、いきなり笑ったりして」

 

「や、なんでもない」

 

 高校時代の自分からすればあり得ないことだ。それが一周回っておかしく感じられて、ついつい笑いが漏れてしまった。余韻を酒と一緒に飲み下す。喉が薄くひりつくのが心地いい。

 はてさてしかしながら、そんな時間も長くは続かないのが世の常。最後の料理であるデザートが運ばれてくる。乾杯時の満身創痍はどこに行ったのか。今となっては満足感と満腹感しかない。やっぱ人の金で食う飯って……最高やな!

 なーんて屑なことを考えながらデザートスプーンに手をかけた時、ピロロン! となんとも間の抜けた音が聞こえてきて、思わず動きを止めてしまった。

 

「ありゃ、通知?」

 

 音源は海老名さんのスマホ。どうやらSNSの通知が来たようだ。片手でさらさらとスマホを操作し始める。

 なんとなく自分だけ手を付けるのは申し訳なく感じてその様子を眺めていると、彼女の目が見開かれた。素直な驚きの表情だ。

 一体何があったのだろうか。声をかけるべきか悩んでいると、唐突に顔を上げてこちらを見つめてくる。

 ただじいっと。

 

「……なんだよ」

 

「べっつにー。ヒキタニくんは人気だなって思ってさ」

 

「は? おっと」

 

 訳が分からなくて思わずスプーンを取り落としそうになっていると、目の前に彼女のスマホが突き出された。SNSの個人宛返信機能の画面には、先ほどの有名絵描きの名前と、一枚の写真が貼られている。

 

「……は」

 

 今日配布したての抱き枕に抱き着いている写真が。

 あくまでイラスト。しかし何度も言うようだがとんでもなくクオリティが高いのである。

 つまり何が言いたいかというと――

 

「わあ、自分が抱き着かれてるみたいで恥ずかしいんだ。顔、すごい赤いよ」

 

「違う。これは酒に酔っぱらってるだけだから。マジでマジで」

 

 もうコミケには絶対行かねえ。これ以上恥ずかしい思いなんてごめん被る。

 乱暴に口に放り込んだデザートのゼリーは、ほんのりと甘かった。




 八姫? のようなものでした。こう、葉山とも奉仕部とも一色とも違う感じ。書いてて楽しかったです。
 二人とも文系型っぽいだし、同じ大学の同じ学部に行くとか普通にありそう。

 ネタとしては八幡抱き枕が発売されたときから温めてはいたんですが、小町抱き枕を機に筆を取った次第。海老名さんにはハヤハチとかトツハチを全国のオタクに広めてほしいですね(他人事

■お知らせ■
 12/29(金)コミックマーケット93で小説本を出します。FGOのフランちゃん本です。詳細は活動報告に掲載しているので、興味がある方はそちらまで。

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。