比企谷八幡がイチャイチャするのはまちがっている。   作:暁英琉

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俺が年上のお姉さんに惹かれることなんてない

「お兄ちゃん。小町明日、塾行ってくるからね。休みだからってあんまりぐうたらしてたらダメだよ?」

 

 金曜の夜。マイラブリーエンジェルコマチエルの口からそんな言葉が出てきた。まあ、こいつも後一月弱で公立高校受験だからな。休みの日も勉強に集中して、お兄ちゃんと同じ高校に行こうとしているのは、八幡的にポイント高い。

 しかし、お兄ちゃんが休みのたびに家でぐうたらすること確定みたいに言わないで……いやまあ、家で勉強かゲームか読書かアニメ見てるかしかしていない気もするけど。しかし、明日はちょっと勝手が違う。

 

「いや、小町。お兄ちゃんも明日用事があるから朝からいないぞ」

 

「……へ?」

 

 あの、小町さん? 確かにお兄ちゃんが休日に用事があることは少ないかもしれないけど、そんなアリアハン周辺でバラモスゾンビが出たみたいな顔して固まられるとさすがのお兄ちゃんのメンタルにも大ダメージなんだけど。むしろ小町の一挙手一投足に俺のHPが削れるまである。

 

「明日は白露さんを東京の方に案内する約束してるんだよ。さすがに帰りが遅くなるから休日に行くことになったんだよ」

 

 そう、初日にさらっと交わされた約束は当然無効とはならず、明日は白露さんお待ちかね秋葉原観光の日なのだ。ここ最近平日は毎日帰りが遅いので、小町には白露さんの事は伝えてある。まあ、案内する場所とか小町からアドバイスをもらっている部分も多いしな。

 なので小町の理解も早い。即硬直解除して「ふむー」とかわいらしく顎に手を当てる。それ白露さんもやってたけど流行ってんの? そして、にっこりと笑うと「なるほど、白露さんとデートかー」って……いやいやなんかおかしい。

 

「小町、前も言ったがこれは日本に不慣れな帰国子女殿を案内するという依頼だ。決してデートではない」

 

「えー?」

 

 なんか小町からこいつ何言ってるのかにゃー? みたいな目で見られた。お兄ちゃんなにも間違っていないと思うのだけれど。ちょっと小町ちゃん理不尽よ?

 

「お兄ちゃん、昨日はどこ行った?」

 

「カラオケだな」

 

 日本のカラオケボックスはすごいと聞いていたらしい白露さんが目を輝かせていたので、誠に遺憾ながら案内した。二人でカラオケとか初めてでメッチャ緊張して、普通にアニソン入れてしまった! と思ったけど、よくよく考えたら白露さんはオタクだったからセーフだった。

 

「その前は?」

 

「本屋巡り」

 

 本が好きらしい白露さんのために総武高周辺と進学先の大学周辺の書店を案内して回ったのだ。白露さんのメインジャンルはミステリーのようだが、その他にもいろいろ読むらしい。イタリアではライトノベルをほとんど手に入れられないため、ライトノベルコーナーでは一層目を輝かせていた。もうなんか瞳の中に星が瞬くレベル。

 さらに、途中で見てみたクイズ系の棚の時はやばかった。適当に冊子を取って開いたかと思ったらスラスラと解き始めて、あっという間に一冊読了してしまった。

 

「私これでもハルノに天才少女って呼ばれてたから!」

 

 とは彼女の弁。なるほど。雪ノ下さんのお墨付きなら間違いなく天才に違いない。あの人をして天才と言わしめるなら、それは世界レベルの本物の天才であろう。ていうか、この人のドヤ顔かわいすぎない?

 そういえば、Twitterとかで回ってくる「これが解けたらIQ120以上!」とかって絶対嘘だよな。めちゃくちゃ簡単だし。なーんてことを考えていると、小町が露骨にため息をついて来てお兄ちゃんのライフを削ってきた。

 

「お兄ちゃん、それ完全にデートじゃん」

 

「馬鹿言うなよ。依頼の上で多少遊ぶことがあるだけだろ」

 

 あくまで大前提にあるのは白露さんが日本に慣れるという雪ノ下さんからの依頼だ。それがなければ、俺と白露さんはこうして出かけることはおろか、まず出会いもしなかったのだから。

 

「はあ、まあお兄ちゃんが楽しそうだからいいけどね。あ、今の小町的にポイント高い!」

 

「……え?」

 

 俺の口から洩れた声は小町には聞こえなかったようで、「おやすみー」とリビングを出ていく。残されたのは俺一人。

 固まっていた身体を弛緩させ、ソファにズブズブと沈み込む。そっと頬に指を這わすが、そんなことで自分の今の表情が分かるわけもない。そもそも今の俺の顔は驚きの表情が貼り付けられているはずだった。

「楽しそう……か……」

 伊達に十五年、同じ家に住んでいるだけに、小町の言葉には説得力がある。だから、きっと俺は楽しそうにしていたのだろう。しかし、なぜそんな表情をしていたのか、俺には分からなかった。

 何度も自問自答を繰り返しても答えは出ず、もやもやした気持ちのまま、俺は眠りについた。

 

 

 意識が落ちる直前、なぜか鮮明に白露さんの笑顔が浮かんできていた。

 

 

     ***

 

 

「うわぁっ、ここがアキィバなんだね!」

 

 翌日、千葉駅で待ち合わせた俺たちは電車で秋葉原に来ていた。改札口を抜けて、大量のアニメ広告によってカオスな印象を受ける街中を目にした途端、白露さんのテンションは最高潮に達していた。しかし、本当になんで「アキバ」だけ舌巻くんだろうか。

 ちなみに白露さんの今日の恰好はいつものクリーム色のコートに白を基調としたカジュアルなデザインのトップス。紺色のショートパンツから伸びる足が相変わらず眩しい。対して俺はいつもの小町プレゼンツ……ではなく、この間白露さんに買ってもらった一色……間違った一式を身に纏っていた。軽いダメージの入ったジーンズに上は数枚のシャツとアウターを重ね着していて、明らかにいつもの俺ではない。出かけるときに小町に見せてみたら、「お兄ちゃん! そんな恰好したら、もう目をつぶってるだけでタダのイケメンだよ!」と褒めてくれた。いや、そこはもう目とか関係なしに褒めてほしかった。微妙にお兄ちゃんうれしくない。

 

「どこ行こうか? とらのあな? メロンブックス? まんだらけ?」

 

「……同人ショップに行きたいのは理解しました」

 

 思わず苦笑が漏れてしまう。多少テンションに押されぎみにはなるが、別に嫌というわけではない。この人の笑顔はどこか幼さを感じさせるもので、つい年上であることを忘れてしまいそうになる。そんな無邪気な雰囲気が俺にマイナスの感情を起こさせないのかもしれない。

 

「じゃ、とりあえずとらのあなに行きますか」

 

「おー!」

 

 その後、午前中いっぱい同人ショップを巡ることになった。ネットが普及したとは言っても、海外から同人誌の取り寄せをするのは面倒くさいらしく、あまり読んだことはなかったらしい。目をキラキラ輝かせた白露さんがテンションあがりすぎて危うく成人向けコーナーに特攻しようとした時は焦ったが、それでも悪くない時間だったと思う。

 まあ、その結果……俺の両手にはずっしりと大量の同人誌、同人グッズの入った袋がか変えられているわけなのだが。

 

「ごめんね、ハチマン。やっぱり私も半分持つよ」

 

「いえ、大丈夫ですから」

 

 女性に重い物を持たせるなと小町に躾けられているので、この荷物を渡すわけにはいかない。多少重いが普通に運べるし、白露さんに海老名さん的趣味はなかったから持っていても精神力を削られることもない。

 

「えへへ、ハチマンは優しいね!」

 

「……そんなことないですよ」

 

 まったく。優しいって言えばいいと思わないで欲しい。そんなことで俺が舞い上がるとでも思っているのだろうか。めちゃくちゃ舞い上がるけど。あれ? 俺ってチョロすぎ?

 

「そろそろお昼かー、どこで食べる?」

 

「そうですね。いうて俺もアキバはそんなに来ないんで店とかは分からないんですけど」

 

 そもそも電気街発祥の秋葉原に白露さんに似合うような店があるのだろうか。たまに来ても、チェーン店のファーストフードしか食ったことがないから全然わからない。

 

「ふむー、そうだなー……あっ! あれとかいいんじゃない?」

 

「ん? どれです……か……?」

 

 白露さんの指差した先に目を向けて、強制ストップモーション。俺、ストップモーションうますぎだろ。これならプロ狙える。……ではなく!

 

「あそこ、ですか?」

 

 俺たちの目線の先にはカラフルな外装にいわゆる萌えキャラの女の子の看板。そして、派手な色のメイド服を着た呼び子さんが甲高い猫なで声で客引きしていた。

 いわゆるメイドカフェ。川……川……川中? の弟、川崎大志の依頼の時に一度訪れたことはあるが、そうか、この人オタクだからこういうのに興味あるんだな。

 

「「「いらっしゃいませ、ご主人様! お嬢様!」」」

 

 おうふ……。

 店内に入ってみるといわゆるメルヘンな感じの内装に、色とりどりのメイド服に身を包んだ女の子たちから恥ずかしいお出迎えを受けてしまった。なんでメイドカフェのメイド服ってカラフルなのが多いんだろうか。なんかそういう系のお店に見えてしまって仕方がない。

 丸テーブルに案内されてメニューを開いてみる。そういえば、サキサキの時は何も頼まなかったなと思いつつ目を落とすと、『萌え萌え❤』とか『つん★でれ❤』とか『ろりっこ』とかの単語が見えて少し頭が痛くなった。いや、そういうお店なんだけどさ。

 それ以上に気になるのが……。

 

「「「「「……………………」」」」」

 

 周囲のお客の視線。まあ、メイドカフェという性質上男性の比率が高い、というかほぼ男性なわけで。偏見だが、得てしてこういうところに来る男性とは女の子に免疫がなかったり――材木座参照――、女の子に飢えていたりするもの――材木座参照――なのだろう。男性客の視線が軒並み俺たちに集中している。帽子を被ったままとはいえ、女性であることは明らかだからな。スタイルいいし。

 メイドカフェ側からしたらちょっとした営業妨害状態。ていうか、男性客が俺と目があった瞬間ため息ついて視線そらすんだけど。「なんでこんな奴がリア充してんだよ」とか思っているのだろうが、そもそも俺はリア充ではないし、だからと言ってそんな露骨にため息つかれていい気がするわけでもないんですか?

 

「あの……」

 

 まあ、気にしても仕方がないとメニュー表に目を落とすと、ふりふりしたものが視界の端に揺れて、かわいらしい声が降ってきた。顔を上げるとメイドさんが白露さんに声をかけているようだ。

 

「ん? なにかな?」

 

「実は当店ではメイドの無料体験ができるんですが、よろしければお嬢様もやってみませんか?」

 

 ほむ。そういえば、入口の所のポスターにそんな貼り紙があった気がする。サキサキの件で行った店もそうだが、メイド体験ができる店は多いのだろうか。まあ、メイド服に憧れる女性もいるだろうし、女性客の確保にも繋がるのかもしれない。

 

「わあ! ハチマン、メイド体験だって!」

 

 そして、ここにも興味を持った女性が一人。そういえば、さっきメイド物の同人誌を何冊か買っていた気がするし、昼食にここを選ぶくらいだし、やっぱり好きなのだろう。いや、単純に物珍しいのかもしれないけれど。

 

「ハチマン……やってみてもいいかな?」

 

「俺に聞く必要ないですよ」

 

 なにその質問。やってみてくださいっていうのが正解なのだろうか。なにそれ、彼女じゃない女性のメイド服姿みたいとかヒッキーマジキモいじゃん。いや、そんなこと言わんけど。

 しかしまあ、多少興味はあるわけで。

 

「まあ、いいんじゃないですか?」

 

 それとなく了承すると、ぱあっと顔を輝かせる。そんな表情をしないでほしい、ドキッとして顔が熱くなっちゃうから。そんな俺の動揺には気付かなかったようで、白露さんはメイドさんと一緒に奥に引っ込んでしまった。いや、ついでに俺の注文とかも取ってくれると嬉しかったんだけど……。

 仕方がないからこっちから呼ぶか。

 

「すみませーん」

 

「なにかご用でしょうか、ご主人様!」

 

 …………。

 え、白露さん戻ってくるまで一人とか辛くない!?

 

 

 

 なんとかキョドらないように――たぶんキョドってた――注文を終えると、念のために持ってきていた本を取り出す。いや、本当に持って来ていてよかった。なにも持ってきていなかったら待ち時間の間ずっとメルヘンな店内とかカラフルなフリフリとかいかにもなおっさん達を視界に入れることになっていた。なにそれ地獄?

 こんなことなら白露さんをメイド体験に行かせるんじゃなかった。白露さんとの会話があればこの待ち時間もどれだけ気が楽だったか。いや、どれだけ楽しかったか。

 

「…………いやいや」

 

 何を言っているんだ。どうも昨日から少しおかしいな。確かに楽しくないと言えば嘘になるが、この場合“気が楽”の方が俺らしいだろう。いつもの理性の化物の俺が頭の中でそう結論づけるが、どこか説得力が感じられない。“楽しい”の方が正しいのだと、何者かが頭の中で囁く。

 本当にらしくない。これじゃあまるで……。

 

「……ないない」

 

 軽く頭を振って無理やり思考を中断させる。再び本の文字列に目線を落とそうとすると、視界の端でさすがに見慣れてきたカラフルなフリフリが揺れた。

 

「お、お待たせしました、ご主人様」

 

「あぁ、どう……も……」

 

 いや、どもってしまったのは俺のせいではない。俺は悪くない。

 少し恥ずかしそうだが新人さんなのかな、とか思いながら本を閉じて顔を上げると、モノトーンのシックなメイド服を見にまとった白露さんが立っていた。その手には俺の注文したオムライス。どうやら着替えのついでに運んできたらしい。

 

「…………」

 

「あ、あの……そんなにじっくり見られると……恥ずかしい……」

 

「あ、いや……その……」

 

 言えない……。あまりにも似合いすぎていて、かわいすぎて言葉を失っていたなんて。そんなことを知られたら恥ずかしさで死んでしまいそうだ。

 

「それで……どう……かな?」

 

「え、ぅ……それは……」

 

 目が泳ぎ過ぎて視界がぐわんぐわんぶれる。落ちつけ比企谷八幡。相手の服装を褒めるなんてこの一年で何度もやってきたじゃないか。いつもどおり触りだけ褒めて、「知らんけど」とか入れれば完璧だ。よし!

 

「その……綺麗……です……」

 

「そ、そっか……ありがとね」

 

 誰だお前は。てめえ捻デレじゃねえじゃねえか。自分で捻デレって認めちゃった死にたい。いやそのあれだ。こんな期待の混じった目で見られたら素直になっちゃうじゃん。

 その時、店内の視線が再び俺たちに集中しているのに気付いた。さっきよりも明らかに鋭く、まるで鋭利な刃物のように突き刺さる。なぜ、と思ったが、答えは簡単だった。

 メイド服を着るという事は、頭には当然フリルのついたカチューシャを付けるわけで、そうなると当然帽子はかぶれない。つまり、さっきまで若干隠れていた白露さんの顔がしっかりと表に出ているわけで、その美貌を晒すことになっていた。

 無遠慮な視線が、四方八方から注がれる。その光景に……なぜか胸の辺りがもやもやした。

 なんだろうか。上手く自分で表現できない。ただなんというか、白露さんのこの姿をここにいる輩達に晒すのは……すごく……。

 

「ハチマン? どうしたの?」

 

「っ……。な、何でもないですよ」

 

 不思議そうな白露さんの声に思考を止める。上手く表現できないことを考えても仕方ないだろう。

 

「じゃ、オムライスどうぞ!」

 

 少しずつ慣れてきたのか、いつもの明るい表情でオムライスを差し出してくる。メイドカフェってあくまでメイドさんを愛でる場所だから、料理はそこまで期待していなかったが、トロトロの卵が食欲をそそる。思わずごくりと喉を鳴らす。

 

「ケチャップかけてあげるね!」

 

 一緒に持ってきたケチャップの蓋を開けて逆さにする。そして、器用に「ハチマン♡」とケチャップ文字を書いてきた。なにそれくっそ恥ずかしいんですけど。ていうか、俺の目の前に置かれたオムライスに文字を書いているからいろいろ近い。というかちょうど目の高さに白露さんの豊満なあれがあって終始目のやり場に困った。

 そして、白露さんはスプーンで一口オムライスを掬うと。

 

「さ、ハチマンあーん」

 

 ……待って。

 何でナチュラルにあーんとかしているの? 何も言わずにスプーンで掬ったから止めることすらできなかったよ?

 

「あの、白露さん……」

 

「あーん」

 

「いやその……」

 

「ご主人様、あーん」

 

 無理です、勝てません。こっちが折れないといつまでもやってきそう。そうなるとせっかくの美味しそうなオムライスが冷めてしまうわけで、そんなオムライス食べたくないわけで。

 

「あ、あーん」

 

 慎重にスプーンに口を運ぶ。トロトロの卵やケチャップライスが味覚神経を刺激してくるが、残念なことに俺の脳はドキドキしっぱなしでまともな味覚情報を処理できなかった。ごめん、店の人。きっと美味しいはずなのに。

 

「どう?」

 

「あ……悪くないです」

 

「ふふっ、なにそれ」

 

 だってしょうがないじゃん。うまいか分からないんだから。

 俺の反応を楽しそうに見ていた白露さんはふとテーブルを見て、あっ、と声を上げた。

 

「そういえば、私のご飯頼んでなかったね」

 

「あー……」

 

 彼女が何を食べたいのか分からなかったので、とりあえず自分の分だけ頼んでしまった。こんなことならオムライス二つ頼んでおけばよかっただろうか。

 

「すみません……」

 

「仕方ないよ。注文する前に着替えに行っちゃったし」

 

 不甲斐ないところを見せてしまい申し訳なく思っていると、それじゃあとスプーンの柄を俺に差し出してくる。自分で食べろってことかな?

 

「ハチマンがそのオムライス食べさせて、あーん」

 

「ひえ!?」

 

 もうなんかこの人実は計算づくで俺を弄んでいるのではないだろうか。周りの視線が増したし。しかし、雪ノ下さんなら絶対計算づくなのだが、この人は多分天然なんだろうなと納得してしまう。いや、天然の方が性質が悪い。

 

「あーん」

 

「あの……」

 

「あーん」

 

 あ、これさっきの逆パターンだ。知らなかったのか? 白露さんからは逃げられない。いや、というかスプーン一つしかないんですけど。既に俺が使ったスプーンなんですけど。

 

「ハチマン、口疲れる」

 

「……はあ、あ、あーん」

 

 大丈夫だ八幡。きっと間接キスなんてイタリアじゃ普通のことなんだ。イタリアってそういうの緩そうだよな、偏見だけど。だから、ちょっと俺が神経質になっているだけなんだ。

 差し出したスプーンをぱくっと含まれる。伝わる振動がどこか生々しくて、思わず少し震えてしまった。俺の使ったスプーンを含んだ彼女の口元に釘付けになってしまう。微妙な唇の動きに鼓動が早まる。

 

「へへー、おいしいね!」

 

 にこやかにほほ笑むその頬がほんのり色づいているのを見て、胸のもやもやが濃度を増す。

 

 

 あぁ……もう。

 本当にままならない。

 

 

     ***

 

 

「お兄ちゃん、電話ー」

 

 秋葉原から帰宅して自室で休憩していると、小町に呼ばれた。あの後、ゲーセンなどで夕方まで時間を潰したが、正直俺は上の空だったと思う。いや、上の空は少し違うな。少しイライラしていただろうか。別に白露さんにというわけではなく、主に白露さんに向けられる視線に。

 ゲーセンでダンエボをしたときに彼女帽子を外すと、ただでさえ集まっていた視線がなお無遠慮なものになった。その視線を感じて、白露さんの踊る姿に見惚れながらも、どこかイライラしている自分がいて……自分のことなのに、なぜそうなっているのかが全く分からなかった。

 階段を下りてリビングに入ると、小町から無言で受話器を渡された。わざわざ家に電話してくるなんて誰だろうか。

 

「はい」

 

『ひゃっはろー! あ、切っちゃ駄目だよ?』

 

 あっぶねえ。「ひゃっは」の時点で受話器下ろしきるところだった。ていうか、前は携帯にかけてこなかったっけ? あ、着信拒否にしてるわ。

 

『着信拒否』

 

「解除しておきます」

 

 何この人マジ怖い。魔王怖い、逆らわんとこ。

 

「それで、なんの用ですか?」

 

 この人が用もなく俺に電話してくるとは思えない。その予想の通りなのか、電話越しに含みのある笑い声が聞こえてきた。

 

『いやー、今日友音とデートに行ったみたいだから、どうだったかなーって』

 

「デートじゃなくて案内ですよ、依頼の」

 

 デートとは恋愛感情のある男女が行うものだ。白露さんから俺に対してそんな感情があるわけが……あれ? 何かが引っかかる。

 

『それは、理性の化物として?』

 

「は? 何を言って……」

 

『君の本当の気持ちはどこ?』

 

「っ…………」

 

 息が詰まる。口は開いたが、喉から音は発せられなかった。この人に真面目に付き合っても意味がないのだ。適当にはぐらかせばいいだけ。それなのに、なにも言えない。

 

「……なんの……こと……」

 

 ようやく絞り出した声は、ひどくか細い上に途切れ途切れで、情けなくて仕方がなかった。そんな俺に嘲笑が向けられると思っていたが、返ってきた声はいつもより低めで、どこか諭すようなものだった。

 

『君のその理性の化物はお姉さん好きだけど、理性で頭ごなしにすべて否定するんじゃなくて、少しくらい、自分に素直になってもいいんじゃない?』

 

「……今日はやけにお節介が過ぎますね」

 

 今まで俺の周りをひっかきまわしながら、雪ノ下を誘導するようなことをしたことはあったが、こんな直接諭そうとしてくることなんてなかった。ましてや俺を相手にそんなことをしてくるなんて。

 

『まあ、お姉さんとしては友音ももう一人の妹みたいなもんだからね。あの子も雪乃ちゃんみたいに下卑た視線や欲望に晒されてきたからね』

 

 海外といえど人間の本質は変わらない。白露さんのような美少女には当然男の羨望や下心、女の妬みという感情に晒されてきたのだろう。

 

『そんな環境だったからかな。あの子は恋愛に関して特に拒絶的だったんだ。告白してくる男子は彼女の容姿や日本人っていう特異性で寄ってきただけだから。友音本人も友達しての“好き”はあっても、恋愛対象としての“好き”は、少なくとも私と出会ってからは持ったことがなかったよ』

 

 まるで光に集る羽虫のよう。そう雪ノ下さんは続けた。ひどい言い方だが実際そうなのだろう。多すぎる羽虫は光すら遮る。雪ノ下雪乃が世界そのものを変えようという考えを持つことになったように、雪ノ下陽乃が全てを掌の上で転がそうとするように、白露友音は自分の世界から恋愛というものを切り捨てた。

 

『けどね、私が比企谷君の話をした時は違ったんだ』

 

「は?」

 

『交通事故の話や静ちゃんから聞いた千葉村の話、文化祭のことやクリスマスのことをね。そしたら友音、君の話のときはビデオチャット越しでも分かるくらい目を輝かせるんだよ。だから、あの子が日本に戻ってきたら君に会わせようって思ったんだ』

 

 なるほど。だから俺個人に依頼をしてきたのか。大事な妹分のために、実の妹に対して切り札の一つを切ってまで。しかし……。

 

「前に雪ノ下さん、俺は雪ノ下のものとか言っていませんでしたか?」

 

 自分を物扱いされるのは少々癪だが、雪ノ下さんは確かにそう言った。それを他の人間に渡してしまうようなことをしていいのだろうか。完全に自分を物認識してていやだわ。俺の問いに「確かにそうだけど」と雪ノ下さんは続ける。

 

『だって、何も進まないのに待っていて、なんてかわいそうじゃない』

 

 

     ***

 

 

 電話を終えて、ベッドに倒れ込む。雪ノ下さんとの会話が頭の中でリフレインし、その合間に白露さんの顔がちらつく。その度に胸のもやもやがどんどん増していき、呼吸ができなくなるほど苦しくなる。

 この胸の苦しさがなんなのか分からない。いや、そうじゃない。分からないふりをしていた。程度は違えど、俺はこの感情を抱いたことがあるから。

 

「好き……なんだろうな……」

 

 ぼそりとつぶやいた言葉はすんなりと腑に落ちた。しかし、胸の苦しさはその程度を更に増して、心臓を押しつぶすほどきりきりと締め付けてくる。

 二週間。まだ会ってたった二週間だ。そんな短い時間で抱いた感情なんて、勘違いに決まっている。

 

 

 ――結局本当に人を好きになったことがないんだろうな。君も、僕も。

 

 

 いつだったか葉山に言われた言葉が浮かぶ。人の感情を読むことに劣っている俺は、自分の感情を読むことすら不得手であるようだ。今まで抱いたことのある恋愛感情が、今抱いているこの感情が、本当に“好き”というものなのか自信が持てない。

 

『比企谷君も私のお気に入りだからね。自分の気持ちに素直に生きてほしいな』

 

 無茶言わないでくださいよ、雪ノ下さん。俺に素直になれなんてハードルが高すぎる。それに……。

 

「俺なんかが白露さんの中に入り込めるわけがないんだ……」

 

 俺みたいなちっぽけな人間が、恋愛感情を持てない彼女を変えられるわけがない。俺なんかを、彼女がそういう対象として見るわけがないんだ。

 だから、この勘違いはそもそも外にさらけ出されることはない。さらけ出さなければ、理性で抑えつけてしまえば、それでいいんだ。

 魔王をして理性の化物と言わしめたそれで、湧き上がる感情を握りつぶす。

 

 

 胸のもやもやは消えてくれた。

 けれど……そこはどこか寒気がするほど空っぽになってしまった。

 

 

     ***

 

 

「今日も楽しかったね、ハチマン!」

 

「そうっすね」

 

 あの日以降も依頼は続いていた。もうすでに千葉の主要スポットは回りきっており、最早普通にデー……遊んでいるのだが、白露さんから依頼完了の旨は伝えられていない。俺も、その点に関して突っ込んだことはない。俺はこの関係が続くことに甘えているのだ。自分の浅ましさに反吐が出る。

 そろそろ駅に着く。今日の関係もここで終わり。変化がなかったことに、依頼終了を言い渡されなかったことに安堵していると、白露さんから声をかけられた。

 

「ねえ、ハチマン」

 

「? なんですか?」

 

 一瞬どきりとしてしまったがおくびにも出さない。俺の予想していたものとは違うようで、いつもの明るい笑顔で白露さんは俺を見ていた。たたっと駆けると俺の目の前に回り込んでくる。

 

「はい! ハッピーバレンタイン!」

 

「……あぁ」

 

 そういえば、今日は二月十四日。バレンタインデーだったか。いつもは心の中でリア充を呪いながら小町がくれるチョコを食べるのだが、今年はそもそも存在を忘れていた。

 

「イタリアだと男性からプレゼントするんだけど、日本式に則ってみたよ!」

 

「ありがとうございます」

 

 握りつぶしたはずの感情が溢れだす。空っぽだったはずの胸はすぐにいっぱいになり、また苦しくなってきた。丁寧に包装されたそれを、何とか平静を装って受け取る。愚かしいことに、それだけで鼓動が高まってしまう。本当に男って奴は単純だ。

 

「ひひー、頑張って作ってみたんだよ。イタリアの伝統のお菓子でバーチ・ディ・ダーマって言うの。日本語だと……貴婦人のキス、だったかな?」

 

 説明してくれる彼女の頬は見間違えようのないくらい朱に色づいていて。湧いてくる「ひょっとして」を理性が必死に塗りつぶす。あり得ないのだ、勘違いなのだと思考を切り捨てようとする。

 

「あの、あのねハチマン……」

 

 あぁ……。

 だめだ。そんな表情をされたら駄目なんだ。そんな表情をされたら勘違いだと自分ごまかせなくなる。俺はその感情を受け止める覚悟も、資格もないのだから。何もない俺では、こんな素晴らしい人の隣に立つことも、この人と向かい合う事も許されない。

 だから、だからこそ、逃げるしかない。いつも通り、卑屈に、卑劣に、最低に。こんなことしかできない自分を殴り倒したくなるのを必死に抑える。

 

「ハチマン……私……」

 

「白露さん」

 

 ぴくっと。白露さんが震える。彼女の表情を見ないように静かに、静かに声を紡ぐ。見てしまえば、決心が揺らいでしまいそうだから。

 

「白露さんがもし、俺に特別な感情を抱いていると思っているのなら、それは勘違いです。知り合ってまだ半月ほどの相手に向けた恋愛感情が、本物なわけがない。それに、俺にはそんな感情を向けてもらえる資格なんてない。俺といたらきっと白露さんは幸せにはなれない。だから……っ」

 

 だんだんと感情が抑えきれなくなり、思わず顔を上げてしまった。

 彼女は今にも泣きそうな顔をしていた。そんな顔をして欲しくない。あなたにはいつも笑ってもらいたいと思っているのに、この表情に、俺がしてしまったんだ。そう思うと、続きの言葉は出なくなってしまった。

 

「すみません……」

 

 何とか一言絞り出して、踵を返す。これ以上声が出そうになかったから、口だけで「さようなら」と言って、走り出した。

 

 

 最低だ。最低だ。

 最低の気分だ。自分の首を加減なく握りつぶしたくなる。

 

 

 無我夢中で走って、気がつくと家についていた。びっくりした顔の小町も無視して、二階の自室に直行する。扉を閉めて、そのままベッドに倒れ込んだ。

 

「……くそっ」

 

 本当にクソだ。なにがこんな自分が大好きだ、だ。こんな自分、こんな自分なんて好きでいられるはずがない。大っ嫌いだ。

 拳に込められる力を増やすとカサリとかすかな音が鳴った。見ると、さっきもらったバレンタインのプレゼントだ。どうやら大事に大事に離さず持ってきたらしい。ベッドに腰掛けて、丁寧に包装を外す。袋の中にチョコをサンドしたクッキーが入っている。一つを手にとって口に含む。サクサクでしっとりとしたアーモンドクッキーとチョコレートの程良い甘さが口の中に広がる。

 

「…………」

 

 もう一つ取り出して、おもむろにサンドしているクッキーを別けた。それはまるで俺と彼女の今の関係のようで。

 

 

 甘いはずのバーチ・ディ・ダーマは、狂おしいほどの苦みを口の中に広がらせた。

 

 

 

 次の日、白露さんから依頼完了の旨が奉仕部に伝えられ、由比ヶ浜から俺も聞いた。二人が何か聞いてきたが全て無視した。いや、違う。全く耳に入らなかったという方が正しい。

 ただ依頼が解決しただけ、むしろいいことのはずだ。これからはまた今までのように放課後は紅茶を湯のみで飲みながらだらだらと本を読む生活が始まるのだ。なんて優雅なんだろうか。

 それなのに。

 あぁ、それなのに。

 本を開いても心に響くはずの文章は全く頭にも心にも入ってこず。

 絶品なはずの雪ノ下の紅茶を飲んでもどこか味気なかった。

 

 

 口の中には、常に苦々しい何かが残っていたのだ。

 

 

     ***

 

 

 半月ほどの時間が流れて、今日は卒業式。小学校のような無駄に面倒くさい卒業生の言葉や在校生の言葉はないが、数回のリハーサルがあった。俺はそれを全てサボったわけだが。

 平塚先生からなにか小言を言われた気がするが、正直覚えていない。どこか寂しそうに、もしくは悲しそうな顔をする先生に意味がわからなかったが、どうでもよかった。

 まあ、さすがに本番は出席するわけだが、起立や礼などのタイミングは前のやつなんかを参考にすればいいから何の問題もなかった。卒業生の各クラス代表への卒業証書授与や、校長や教育委員会からのありがたくもない長話を終えて、生徒の答辞、送辞に入っている。

 送辞は生徒会長の一色。生徒会選挙の時に比べれば幾分堂々とした態度で多少は生徒会長として板についてきたことをうかがわせた。いや、妙にきりっとしている一色の姿はちょっと笑いそうになってしまうのだが……何か今睨まれた気がしたが気のせいだろう。

 答辞は前生徒会長のめぐり先輩だ。相変わらずのほわほわオーラで、厳粛なはずの空気が少し和らぐ。推薦がもらえて三学期は余裕のあったらしいめぐり先輩はよく一色の手伝いをしていた。俺の責任で余計な手間をかけさせてしまったと思うと少々申し訳ない。めぐり先輩なら気にしなくていいと言ってくれるだろうが。

 その後も式はつつがなく進んでいき、卒業生の退場になる。卒業生が退場しきるまで在校生は手を叩き続けるのだが、これがなかなかにしんどい。教師陣が生徒の上腕筋を鍛えようと画策しているのではないかというくらいしんどくて、途中で適当にやったりちゃんと叩いたりを繰り返す。

 これで卒業式も終わりだという、そんな油断もあったのだろう。

 

「……ぁ」

 

 今まで意識的に視線を逸らしていた3-Cの列をうっかり見てしまった。

 

「っ……!」

 

 しかも、ちょうど白露さんと目が合ってしまう。半月ぶりに見た彼女はやはり綺麗で、かわいくて。胸のもやもやが一気に増して吐いてしまいそうになる。ここを乗り切れば、ここで何もなければ俺たちの関係は終わりで、白露さんは大学で新しい出会いが待っているのだ。だから……だから……くそっ、何をイライラしているんだ。ただいつも通り、気付かなかったふりをしてぼーっとしていればいいじゃないか。

 頭を振って再び列に顔を向けて――今度こそ息が止まった。

 白露さんはずっと俺だけを見ていて、いつものように明るい笑顔を向けてくれて。いや、違う。いつものようにじゃ決してない。だって彼女は……彼女の瞳は……今にも泣きそうに揺らいでいるのだから。その瞳がまるで俺を非難しているようで。今すぐここから逃げ出したくなった。

 その後は白露さんが退場するまでただただ目で追って、気がついたら式は完全に終わっていた。

 

 

 

 式が終わると俺は逃げるように体育館を後にした。教室に向かう気もなれず、静かな場所を求めて自然と足は部室に向かっていた。鍵のことなど全く考えていなかったが、幸いなことにカギは開いていた。

 中に入るが誰もいない。平塚先生でも鍵を閉め忘れたのだろうか。フラフラと自分の席に腰を下ろすと、ほうっと息をつく。まだ胸の苦しさは収まらないが、いずれは収まるだろう。

 これでいい。これでいいはずなんだ。いいはずなのに……。

 ゆっくりと瞼を下ろすと白露さんとの思い出ばかりが浮かんでくる。まだ会って一ヶ月ちょっとしか経っていないというのに、こんなにあったのかと驚くほどの思い出の放流が俺を襲う。程度を和らげていたはずの胸の苦しみはまたどんどん程度を増す。

 愚かしくも、この時になって初めて俺は、白露さんの事が好きなのだと本気で思えた。本当に愚かだ。もう俺たちの関係は終わってしまったというのに。こんなに苦しいなら、こんなに悲しいなら――いっそのこと出会わなければよかったのに。

 

「ヒッキー!」

 

「っ……由比ヶ浜か」

 

 声をかけられて思わず瞼を開ける。いつのまにか、由比ヶ浜と雪ノ下が目の前にいた。未だにぐるぐると渦巻く思考の放流を断ち切ろうとして、雪ノ下の声に意識を持っていかれる。

 

「こんなところで何をしているのかしら、比企谷君」

 

「何って、人ごみに疲れたから休憩してるんだよ。それに、部員の俺がここにいても何ら問題はないだろ?」

 

 俺の返答に呆れたとため息をつきながら、「そういうことではないわ」と続ける。一体なんだというんだ。

 

「どうしてあなたは白露先輩の元へ行かないでこんなところにいるのかしらと聞いているのよ」

 

「……行く必要なんてないだろ。むしろ、式が終わったんだから楽にしたい」

 

「そんなに泣いてるのに?」

 

「……え?」

 

 由比ヶ浜の言葉に、頬へと手が伸びる。そこは熱い何かでじんわりと濡れていた。

 

「なん……で……」

 

「なんでって、ヒッキーが友音先輩のこと好きだからでしょ? 好きになっちゃったからでしょ?」

 

「そんなこと……」

 

「ないとは言わせないわよ。あなたが柄にもなく泣いているのが、なによりの証拠なのだから」

 

 隠し通せない。自覚するとどんどん俺の腐った瞳は涙を溢れさせ、頬へと流れ落ちる。ひょっとしたら隠す以前にすでに二人には気付かれていたのかもしれない。だから、毎日のように部室にも行かずに白露さんと出かける俺に何も言わなかったのかもしれない。けど、だけど……。

 

「もう……無理だ……。それに……俺なんかが白露さんを好きになる資格なんて……」

 

「馬鹿!」

 

「っ……!」

 

 柔らかく、温かい感触に包まれる。由比ヶ浜に抱擁されたのだと気付くのに数瞬の時を用した。俺よりも小さく、少し高い体温の身体いっぱいに俺を抱きしめてきている。

 

「ヒッキー……人を好きになるのに資格なんていらないんだよ」

 

「そのとおりよ、比企谷君。本当に好きなら、泣いてしまうほど好きだというなら、せめてそんな時くらい、自分の気持ちに正直になりなさい」

 

 そうなのだろうか。俺は彼女を好きになっていいのだろうか。自分の気持ちに正直になっていいのだろうか。自分の幸せのために選択をして、いいのだろうか。

 

「いいんだよ」

 

「由比ヶ浜……」

 

 俺を抱きしめながら、まるで子供を諭す母親のように頭を撫でてくる。気恥ずかしさよりも、どこか心地よさを感じた。

 

「ヒッキーは今までたくさん頑張ったんだから。いっぱい、いっぱい、幸せになっていいんだよ」

 

「そのとおりよ。今まで尽力していたあなたにはその分幸福を手にする権利……いえ、義務があるわ」

 

「義務……か。そうだな」

 

 思わず笑みが漏れてしまう。幸福になるのが義務とは、なんと傲慢な考えだろうか。けれど、今はそれがうれしくて仕方なかった。由比ヶ浜に離してもらって立ち上がる。

 

「行くのね」

 

「ああ」

 

 扉に手をかける。胸の苦しみは収まろうとしないけれど、さっきまでのぐるぐるとした思考は綺麗に消え去っていた。

 本当に、二人には感謝しなければならない。聡明な少女、雪ノ下雪乃と快活な少女、由比ヶ浜結衣。この二人のおかげで、俺は前に踏み出すことができるのだ。

 

「俺さ、この部活に入ってよかったよ」

 

「そんなのいまさらだし」

 

「ふふふ、そうね」

 

「ありがとな」

 

 本当に、この部活に入ることができてよかった。

 

 

     ***

 

 

 部室を飛び出したのはいいが、今白露さんはどこにいるだろうか。教室か、在校生と中庭辺りで談笑しているか、それとももう校外に出てしまっただろうか。スマホを取り出すが、今の俺たちの関係で電話を取ってくれる自信がない。

 

「せんぱ~い!」

 

「一色?」

 

 途方に暮れていると、天下のあざとい生徒会長が駆け寄ってきた。なぜか頬を膨らませているが、一体どうしたというのだろうか。

 

「こういうときはすぐ反応するんですね」

 

「?」

 

 もういいです、と鼻を鳴らした一色は真面目な顔に戻る。送辞の時は笑ってしまいそうになるなんて思ったが、やはりこういう顔もだいぶ様になっている。こいつもこいつで成長しているんだな。

 

「白露先輩のこと探してるんですよね?」

 

「……お前も気付いてたのかよ」

 

 俺の心、周りに感づかれすぎでしょ。自分でだって最近になって気付いたっていうのに。

 

「まあ、せんぱいが探しているっていうのは結衣先輩からメールが来て知ったんですけどね。体育館裏に引きとめてるんで、早く行ってあげて下さい」

 

 ……まったく。

 どいつもこいつもお人よしが過ぎる。こんな俺のためにそこまでしたって何も出ないというのに。本当にお人よしすぎて、魅力的すぎるやつらばかりだ。自分が恵まれた環境にいるのだと改めて自覚する。

 

「バシッと決めてくださいよ! 私のせいでせんぱいの黒歴史が増えたなんてことになったら、寝覚めが悪いんですから」

 

「本当にお前はいい性格してるよ。……ありがとな」

 

「ご健闘をお祈りしています!」

 

 こいつもいい表情をするようになった。小町が入学する来年総武高校は、きっと今年よりもいいものになるに違いない。こいつが生徒会長になったことはきっと間違いなんかじゃないのだ。

 

 

     ***

 

 

 体育館裏に行くと、白露さんは壁を背にして空を見ていた。そんなどうってことのない姿にすら心臓の音は高鳴った。もっと近くに行きたいという感情と、ここから逃げ出したいという感情がせめぎ合う。

 

「っ……ハチマン!」

 

 感情の衝突に立ちつくしていると、白露さんが俺に気がついた。一瞬驚いた顔をした彼女は近づいてくる。最初はいつも通り明るくしようとしたであろう表情は期待、不安、恐れ、そして思慕、いくつもの感情が混ざり合い。なんとも形容できないものになっていった。そんな表情ですら愛おしいと思っている間にどんどん距離は縮まり。

 

「ハチマン!」

 

「おっと!」

 

 抱きついてきた白露さんを多少ふらつきながらも受け止める。胸に顔をうずめた彼女の表情はうかがいしれないが、その肩は小刻みに震えていた。

 

「もう会えないかと思ってた……」

 

「……俺も、もう会わない方がいいと思ってました」

 

「そんなこと……!」

 

「でもっ」

 

 もう感情を押しとどめるのはやめだ。素直に、ただ素直に自分の思いを吐露する。

 

「白露さんと会わない半月、紅茶は味がしないし、マックスコーヒーは苦い。小説は全く頭に入ってこないし……気がつけば白露さんの事ばかり考えてしまうんです。何度勘違いだ、俺には白露さんの隣に立つ資格はないって自分を否定しても、胸のもやもやは消えてくれませんでした」

 

 彼女は小さくうん、うん、と聞いてくれた。一度気持ちを否定した俺の言葉を受け止めてくれて、それだけで彼女への愛おしさが更に増した。彼女を抱きしめる腕にそっと力を込める。

 

「白露さんの気持ちを勘違いなんて言った俺が言うのはおこがましいにもほどがあることは百も承知しています。ただ、俺は――あなたのそばにいたい。あなたを隣で支えられるような、隣に立つことを周りが認めてくれるような存在になりたいです。

 まだ時間はかかるかもしれませんが、絶対に追いつきますから、待っていてくれませんか?」

 

 ギュッと目を閉じる。俺は一度拒絶した最低野郎だ。ここで拒絶されることだってある。だから、怖い。怖くて仕方がなくて、彼女の顔を見ることができない。

 そんな俺に彼女がクスリと笑いかける気配を感じて目を開けたのと同時に――

 

「ん……っ!」

 

 唇に柔らかい感触が広がった。じわりと熱いほどの熱が流れ込み、脳に浸食してくる。ただ唇をふれ合わせるだけの行為のはずなのに、初めてのそれはマックスコーヒーよりも甘く感じた。

 どれくらいかも分からない時間をかけて、ゆっくりと互いの唇が離れる。至近距離で見た白露さんは顔全体が真っ赤になっていて思わず笑ってしまいそうになるほどかわいかった。たぶん俺も真っ赤だと思うけれど。

 

「待ってるからね?」

 

「……はい」

 

 互いの体温を確かめるように抱きしめあう。さっきまで胸に感じていた苦しさに変わって、じわりと温かい物を広がっていく。これが幸せって奴なのだろうか。それはきっと、これからこの人が教えてくれるだろう。離れ離れになってしまうけれど、その分努力を重ねよう。

 

 

 春の風に揺れる桜は、まるで俺達を祝福してくれているように見えたが、それはさすがに都合のいい解釈というものだろう。

 まあ、たまにはそういう解釈をするのも悪くないと思うのだが。




八オリ話の2話目です


理性の化物が物の一月で落ちているけれど、案外八幡ってこれくらいストレートに攻められるとあっさり沈むんじゃないかしら

ヒロインズはアピール弱いですからね

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