比企谷八幡がイチャイチャするのはまちがっている。   作:暁英琉

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比企谷君に抱きつきたい!

「はあ……」

 

 どうしてもため息が漏れてしまう。頭の中を占めるイライラが身体の中に靄を作り出し、それを体外に出そうとため息をつくのだが、靄はなくなるどころか薄まりすらしない。

 

「はあ……」

 

 意味のないことだとは分かっていても、ため息をやめることはできずにまたついてしまう。それもこれも全部あの捻くれた後輩、比企谷君のせいだ。

 あの日、彼が抱きついてきた時に感じた危機感を払拭するために、再び彼を抱きつかせようと二人でデートをしたが、どれだけ誘惑しても今までの彼同様に理性の化物で回避されてしまった。その上、他の女の子には抱きついたり抱きしめたりしちゃって……。

 結局目的未達成のまま二回のデートは終わってしまい、私だけ比企谷君に抱きつかれなくなったという事実だけが残った。元々の目的が抱きつかれた時に平常心を保つことだったから、抱きつかれないのなら何の問題もないのではと思うのだが、それはなにか逃げているようで納得できない。

 それにしても、抱きつき癖があったというだけでも驚きなのに、デートに行ってみて私の知らなかった比企谷君の一面をいろいろと見せられた。苦手そうな映画でも案外しっかり見て感想を言ってくるし、ファッションには興味なさそうなのに、私の服を選ばせてみるとなかなかにいいチョイスをしたりする。カラオケはイケメンボイスでかっこよ……まあまあいい感じだった。そんな一面を見せるくらいならもう一度抱きついて私の修行につきあってもらいたいものだ。

 

「はあ……」

 

 しかし、次はどういう作戦を取るべきか。弄って恥ずかしがらせる作戦もダメだったし、お姉さんオーラで攻めるのもダメ。ていうか、抱きつくどころか落ちもしてくれない。こんな美人なお姉さんにあそこまでさせておいてむしろ警戒するなんて彼くらいだ。傍から見ている分には面白いのに、いざ対峙するとここまで厄介とは……。

 思わず机に突っ伏しそうになった時、くしゃっという音が手元で響く。目をやるとB5サイズのザラ用紙。はて、こんなものさっきまであったかしら。思わず首をかしげたが、その紙の内容を確認して思わず固まってしまう。

 

「雪ノ下さん、今日こそは勝ちますわよ!」

 

 今は先週と同じく小テストで終わる講義の最中だった。少し離れた所から聞こえてくる文子ちゃんの声によると、また勝負をすることになっているらしい。つまり手元にあるのは小テストプリント。

 やばい。

 何がやばいって、プリントの内容どころか講義すらまったく聞いていなかった。プリントが配られてどれくらい経っているのかもわからない。

 所詮は学生同士の戯れの勝負。それでも、たとえその程度のものでも敗北は“雪ノ下陽乃”が許しはしない。

 

「くそっ……」

 

 ついつい淑女にあるまじき悪態をつきながら、プリントに目を通した。

 

 

 

 まあ、ハンデがあったとしても勝つのが雪ノ下陽乃なわけで。

 特にテキストに書いてある内容以外の問題じゃなかったから、速攻で解いて提出した。正直、後少し気付くのが遅れていたら危なかったかもしれないが、過ぎたことを考えても仕方ない。

 まったく、こうなってしまったのも全部比企谷君のせいだ。これは早急になんとかしなくてはならない。しかし、一体私と他の子達で何が違うのだろうか。今まで散々警戒させてしまったから? いや、それなら最初から抱きつかないはずだ。分からない。

 

「しかたない……」

 

 分からないなら、調べるしかない。

 

 

     ***

 

 

 というわけで翌日の金曜日。講義と実験を自習休講することに決めた私は朝から総武高校に来ていた。相手のことを調査するなら伝聞なんかの二次情報よりも直接見聞きした一次情報の方が正確だ。まあただ、私みたいな美人がそのまま入ったりしたら人目を引いてしまって非常に面倒くさい。比企谷君達にばれてしまえば私の得たい情報は得られなくなってしまうだろう。

 そういうわけで、昔来ていた制服に身を包み、地味な眼鏡をつけている。これで目立たない総武高校生のでき上がりだ。登校する生徒の波に乗って校門をくぐる。……とりあえず、私に気を向けている生徒はいない。そのまま校舎に吸い込まれる彼らから抜け出して人気のない校舎裏に身を隠す。ここでまずは比企谷君を待ち伏せることにする。

 

「……きた」

 

 校門の方に視線を向けていると、気だるそうに自転車を漕いで比企谷君が登校してきた。校門で自転車から降りると猫背になりながら駐輪場に自転車を止める。校舎に向かう彼の目は相変わらず暗く淀んでいて、何もする気がないオーラが半端ない。あれが抱きついているときだけはキラキラ輝くんだよなぁ。

 そのまま比企谷君は昇降口に消えようとしたので、私も中に潜入しようと身を乗り出した。

 

「はちまーん!」

 

 が、珍しい彼の名前を呼ぶ声に慌てて再び身をひそめる。まさか彼の下の名前を呼ぶ人間が校内にいるとは思わなかった。留美ちゃんは小学生なのでまあいいとして、文化祭とかで悪目立ちした高校内で比企谷君と親しい子が雪乃ちゃん達以外にいるとは。件の生徒の姿を確認するためにもう一度校舎裏から顔を覗かせる。

 

「おお、戸塚か。おっす」

 

「うん、おっす」

 

 戸塚と呼ばれた子は非常に整った顔をしていた。ジャージに身を包んでいるところをみるに朝練のある部活動生だろう。こんな寒い中、朝から外で練習なんてずいぶん熱心な“女の子”だ。にこにこと人のよさそうな笑顔をしているし、さぞ男子にモテるんだろうな。

 

「今日はやけに明るいな、なにかいいことでもあったのか?」

 

 にっこにこしている戸塚ちゃんに比企谷君が尋ねると、彼女はきょとんとした後に――かわいい――ぱあっと表情をほころばせる――かわいい――。

 

「今日は朝から八幡に会えたからね! いいことがありそうだなって思ったら嬉しくなっちゃって」

 

 戸塚さんの言葉に比企谷君がクンッと息を飲む。あ、はるのんその表情知ってるよ。それ比企谷君が抱きつく時の表情だよ。

 

「戸塚!」

 

「おっと。ふふ、八幡に抱きつかれちゃった」

 

 私の予想通り、比企谷君はあのいろんな感情をないまぜにした表情をしたまま彼女に抱きついた。お互いの肩に顎が乗る対等……というべきだろうか、そんなハグだ。というか、そんな校舎の入り口近くで抱きついたら周りが騒ぎたて……。

 

「なに?朝から美少年同士が抱きついてる!」

 

「と、戸塚たんが……あぁ、けど俺よりも断然イケメンじゃねえか!」

 

「ホモ乙」

 

「ハチトツ!? ハチトツだというの!? キマシタワー!」

 

 ……うん、騒ぎたてられてはいるけどなんか全然悪い感じじゃないね。抱きついている時の比企谷君は別人みたいに目が輝いているからなあ。なんか赤い噴水が拭き出ているけれど、あの水源って隼人の友達の眼鏡ちゃんでは……救急車呼んだ方がいいんじゃないかな。

 というか、さっきから美少年同士だとか、ホモだとか聞こえるんだけど……え、男の子なの? まっさか、あんなかわいい子が男の子なわけ……あっ、はるのんレーダーが男って言っている。そっか、男子だったのか。

 

「八幡、そろそろ時間だよ。教室いこ?」

 

「……もう少しだけ」

 

「もう、しょうがないなぁ」

 

 うん、男の子同士だよね? そうなんだよね? 私は今、人類の神秘を垣間見ているのかもしれない。

 その後もしばらくハグしていた二人だったけれど、予鈴のチャイムが鳴ると名残惜しそうに――本当に男の子同士だよね!?――離れて、教室へ向かっていった。

 

 

     ***

 

 

「ふむ、授業中はそもそも抱きつく要素なんてないか」

 

 さすがに教室に忍び込むわけにもいかないので、木陰から双眼鏡と読唇術を駆使して観察していたが、文系の授業の時は真面目に聞いているし、理系の授業の時は机に突っ伏して寝ていた。捨てているとは聞いていたけれど、さすがに教科書も出さずに寝るのはどうなのよ。休み時間も基本的に本を読んでいるか寝ているだけで、誰とも交流しない。こうしてみるとぼっちみたいだ。

 

「あ、次は体育なのか」

 

 三時間目が終わると、女子はバッグを手にとってぞろぞろと退室していく。女子が全員になくなると、男子達は各々体操服に着替え始める。比企谷君の身体にはちょっと興味あるけれど、有象無象の身体を見るのはちょっと生理的に受け付けないな……。

 

 

 あ、戸塚君の身体はちょっと興味あるかも。

 

 

 

 今日の体育は男女ともにマラソンのようだ。皆面倒くさそうにグラウンドにやってくると、準備体操をした後に各々グラウンドを走りはじめる。皆だいぶ流しているようで、まるで覇気は感じない。そりゃあこんな寒い中ただ走るとか気乗りするはずがないよね。なんで持久走大会を冬にやるのだろうか。やるならせめて春にやればいいのに。

 だらだらと走る生徒たちの中、比企谷君もやる気なさげに走っている。むしろ一番やる気ないオーラを発していて、浮いているまであった。一定のリズムで黙々走り続ける姿は……地味。面白くない。

 

「テニスとかだったら面白かったのに……」

 

 愚痴を漏らしても仕方ない。授業が終わるまで休憩しとこうかなと視線を外すと聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 

「ひっ、ヒッキー……っ」

 

 視線をグラウンドに戻すと、やはりガハマちゃんだ。私よりも大きいのではないかと思われる二つのあれをぽよんぽよんさせて、息切れしながら比企谷君に追いつこうとしている。

 気だるげに走っているとはいえ、その速度は特に運動もしていない彼女にはきついのだろう。さらに声も出していればなおさらでどんどん足元がおぼつかなくなっていく。

 

「ヒッキ……先、行くなし……うわっ」

 

 そして案の定、足をもつれさせて転んでしまった。前のめりに倒れたけれど、胸部のエアバッグが正常に作動して、地面とキスをすることはなかった。……うん、やっぱりあれ私より大きいよね。

 

「いたた……」

 

「なにやってんだよ、お前」

 

 うずくまったままのガハマちゃんにさすがに比企谷君が歩み寄る。呆れたように溜息をついているけれど、その表情は若干焦っているようだ。もっと素直に心配すればいいのに……比企谷君だし無理か。

 

「だってヒッキー止まってくれないし……いたあ……っ」

 

 立ち上がろうとしたガハマちゃんは顔を歪めて再びペタンとお尻を地面につけた。足首をさすっているところを見ると捻ってしまったのだろうか。それを見て比企谷君は頭をバリバリとかいて、もう一度小さくため息をついた。

 

「ったく、しょうがねえな」

 

 先生の元へ向かって二、三言話すと、戻ってきてガハマちゃんに背を向けてしゃがみこんだ。

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………いや、保健室まで連れてくから乗れよ」

 

「え!? あ、うん……」

 

 比企谷君……声にするのは恥ずかしいんだろうけれど、さすがにおんぶするならおんぶするって言わないと伝わらないよ。

 おずおずと彼の背中にガハマちゃんが身体を預けたのを確認すると、よっと持ちあげて足早に保健室に向かっていった。あんまりもたもたしていると周りからの視線がどんどん集中しちゃいそうだもんね。実際隼人の友達の「っべー」の子が「ヒキタニ君、女の子おんぶするとかマジかっこよくね? マジリスペクトっしょ!」とか言って騒ぎ始めている。あ、彼の近くで相槌うっている子のガハマちゃんに向ける視線がいやらしい。あの子絶対童貞だ。

 童貞君の行動もちょっと気になるけれど、今日来た目的は比企谷君だ。彼を追って、私も校庭を後にした。

 

 

 

「すみませーん。……あれ? 先生いねえのか」

 

 保険医がいないことを確認するとガハマちゃんを椅子に下ろして医療棚からシップと包帯、消毒液などを取り出す。どうやら膝を擦りむいてしまったらしい。消毒液をガーゼに沁み込ませると、かすかに鼻をつく匂いが室内に広がった。

 

「……ていうか、狭い……」

 

 思わず声が漏れてしまいハッと口元を抑えたけれど、どうやら二人には聞こえていなかったみたい。ほっと胸を撫で下ろして隙間から様子をうかがう。

 私がどこにいるかというと、入口近くに設置された掃除用具入れの中である。いやだって隠れられるところないし、何か起こりそうだから読唇術よりも直に聞きたいしで仕方がなかったんだよね。雪ノ下の女は目的のために手段は選ばない! けど、ベッドの下の床に寝そべって隠れるのはいやです。

 というか、なんで掃除用具入れって隙間空いているんだろうね。スマイルが閉じこもるためかな? いじめ用じゃんそれ!

 

「沁みると思うけど、我慢しろよ」

 

「うん……いたっ」

 

 消毒液の沁み込んだガーゼが傷口に触れると、ガハマちゃんの顔が痛みに歪む。「大丈夫か?」と声をかけつつ消毒を終えると、新しいガーゼを当ててテープで固定する。剥がれないように軽く包帯を巻くと次に捻ったらしい足首の方に手を伸ばす。

 

「どこらへんが痛いんだ?」

 

「えっと……つっ、そこっ」

 

「ん、ここか」

 

 手慣れた手つきで湿布を貼るとそこにも包帯を巻いた。湿布だけだと、靴下を脱ぐときなんかに一緒に剥がれたりするからそういうのを考慮したのだろうか。

 

「こんなもんだろ」

 

「あ、ありがと……」

 

「別に、おかげで堂々とマラソン、サボれたからな」

 

 腰に手を当ててドヤ顔をする比企谷君だけれど、ガハマちゃんから視線を外した彼の耳は真っ赤に染まっていた。相変わらず素直な好意に弱いんだな。本当にどうして私に抱きつかないのか。……私のは素直な好意ではないというの!? やだ比企谷君酷い!

 そんな彼に「うわっ、ヒッキーサイテー」と苦笑しながらも、ガハマちゃんはもう一度お礼を言った。それを見て居心地悪そうに彼は頭を掻く。

 

「ヒッキー、お礼させてよ!」

 

「いや別に……」

 

「私がしたいだけだから、はい!」

 

「……っ」

 

 そう言いつつ両手を広げるガハマちゃんに比企谷君は思わず息を飲む。お礼で比企谷君にそのポーズをするということは、抱きついてこいということだろうか。そんな彼女を見て固まっていた比企谷君はキョロキョロと周りを確認してから――

 

「じゃあ……ちょっとだけ……」

 

 ゆっくりと彼女に抱きついた。私や留美ちゃんに抱きついたときのような感情任せのものではなく、ワレモノに触るように優しいハグ。豊満な胸に顔をうずめると、とろんと目尻が下がった。

 

「ふふ、ヒッキーかわいい」

 

「……うっさい」

 

 悪態をつく声はいつもと変わらないけれど、とろんとした表情でそんなことを言われたってかわいいだけだ。実際ガハマちゃんも嫌な顔一つせずに比企谷君の頭を撫でている。撫でる度に自己主張の激しい一房がピコンと元の形に戻ろうとする。

 

「ヒッキーのアホ毛全然なくならないねー」

 

「やめろ……それがなくなったら俺のアイデンティティもなくなる」

 

 よくわからないことをぽしょりと呟きながら、比企谷君はズブズブとガハマちゃんの身体に沈み込む。比企谷君アホ毛にどれだけこだわりがあるのだろうか。そういえば、小町ちゃんにもアホ毛あるけど、あれって遺伝するものなの? 人類の神秘を感じる。

 その後もニコニコしながら比企谷君を撫で続けていたガハマちゃんだけれど、ふと時計を見て「あっ」と声を上げた。

 

「ヒッキー、もう結構時間経ってるよ。そろそろ戻らないと怒られるんじゃない?」

 

 隙間から時計を見ると、ここに来てからもう二十分ほどが経っていた。怪我の手当て程度にしては長いと思われるだろう。しかし、チラッと目線を上げた比企谷君はもう一度ポスッと顔をうずめる。

 

「……もう少しだけ……」

 

 なにその駄々のこね方。中学校の時に寝ぼけた雪乃ちゃんがぼんやりとした眼で「もうちょっと寝かせて」って言った時もかわいかったけれど、それを上回る勢いで今の比企谷君もかわいい。ガハマちゃんも「しょうがないなぁ」と再び撫でることを再開し始めた。

 

 

 比企谷君がようやく離れたのは授業終了五分前で、ガハマちゃんは比企谷君の肩を借りて出て行った。よ、ようやくこの狭い空間から出られる……。

 

 

     ***

 

 

 四時間目の授業も終わったので学校は昼休みに入る。昼休みになると比企谷君がテニスコートの見える特別棟の陰で一人購買部のパンを食べることは既にリサーチ済みなので、先回りをしていた。

 

「さむ……もうちょっと着こんでくればよかったかな」

 

 海から流れ込んでくる風は真冬ということもあってかなり冷たい。どうしてこんな寒空の中、わざわざ外で食べるんだろう。教室が嫌なんだろうけれど、もっと別のところもあるんじゃないかな。

 

「みんなー、早く練習するよー!」

 

「部長食うの早すぎっすよ」

 

「うひぃ、さっむ!」

 

 どうやらテニス部が昼練を始めるようだ。こんな寒い中昼練なんて頑張っているんだな。うちのテニス部ってそんなにやる気なかった気がするけれど、いつの間にやる気を出したんだろ。

 そう思っていると、彼らの中に聞き覚えのある声が混じっていることに気がついた。聞き覚えがあるというか、今朝がっつりとしっかりと聞いた声。見ると予想通り、戸塚君がコートで練習を始めていた。どうやら彼が今の部長のようだ。

 

「ううぅ、寒いっすよぉ……」

 

「動けばあったかくなるでしょ! 来週は練習試合もあるんだからがんばろう!」

 

 あんな女の子みたいにかわいい子に部長が務まるのかと思ったけれど、存外に部を引っ張っているようだ。昼練を提案したのも彼なのだろうか。そういえば、比企谷君と仲よさそうだったよね、彼。なんか比企谷君も見たことないくらい楽しそうに話していたし。……はっ、まさか比企谷君にそういう趣味が! ……戸塚君なら仕方がないかも?

 

「……予想以上の寒さね」

 

 あれ? 今の声は雪乃ちゃん? 後方に振り返ると、私のキューティシスター雪乃ちゃんがやってきた。手にはお弁当を持っていて、その隣には――

 

「だからお前は部室で食えばいいじゃねえか」

 

 私が待っていた比企谷君がいた。二人で昼食とか青春ラブコメですかな? なんかすでに比企谷君が追い返しにかかっていてお姉さん的にポイント低いけれど。

 

「足を怪我した由比ヶ浜さんをわざわざ部室まで呼ぶわけにはいかないでしょう? 今日は三浦さんたちと食べるのが彼女のためだわ」

 

「いや、だからお前は部室で食べればいいだろ」

 

「今日は部室で食べる気分ではないのよ。 ……その、あなたが来るのなら別に部室でもいいのだけれど」

 

「俺は飯を食いながら戸塚の舞を見るっていう日課があるから、いくらゆるゆり空間じゃなくても部室では食わん」

 

 ああ、やっぱりこんな寒い中ここで食べるのは戸塚君を見るためなんだ。小町ちゃん、あなたのお兄ちゃんは特殊な性癖を持っている可能性が微粒子レベルで存在しています。というか、ゆるゆり空間って何? 奉仕部で何が行われているの?

 

「なら、私も同じ場所で食べるのなら問題ないでしょう?」

 

「はあ、勝手にしろよ」

 

 結局二人で食べることにしたようで、揃って階段に腰をおろす。さりげなく雪乃ちゃんのところにハンカチを敷く比企谷君、あざとい。雪乃ちゃんはお弁当を膝に置き、比企谷君は購買部で買ったパンとマックスコーヒーの缶をいそいそと取り出した。

 

「ひょっとしてあなた、いつもそれだけしか食べないのかしら」

 

「俺は燃費がいいからな。そんなに食べなくてもいいんだよ」

 

 確かに男子高校生で総菜パン二個の昼食と言うのはいささか少ない気もする。まあ、運動部ってわけでもないからそんなものなのかもしれないけれど。

 比企谷君の言葉に納得したらしい雪乃ちゃんは、自分のお弁当に箸を伸ばす――ことはなく、じぃっと比企谷君を、正確には比企谷君の持っているパンを見つめていた。

 

「……なんだよ」

 

「いえ、それってパンに……焼きそばが挟まっているのかしら……?」

 

「え、まさかお前……焼きそばパンをご存じない?」

 

 比企谷君の表情が驚愕に染まる。ああ、そういえば私も初めて焼きそばパンを食べたのはここの購買だった気がする。雪乃ちゃん購買使わなさそうだから、本当に知らないまであるね。

 

「前に由比ヶ浜さんが焼きそばパンなるものの話をしていた気がするけれど、それがその焼きそばパンなのね。炭水化物に炭水化物を挟んでおいしいのかしら?」

 

「うまいぞ? ラーメンにチャーハン付けたりするし、関西人なんてタコ焼きおかずに飯食ったり、お好み焼きおかずに飯食ったりしてるんだから日本人には普通なんじゃねえの?」

 

「……それは、私が一般的な日本人とは価値観が違うという意味かしら」

 

 むすっとわずかに顔を歪めた雪乃ちゃんに、「んなこと言ってねえだろ」と困惑しながら焼きそばパンに齧りつく。雪乃ちゃんは自分のお弁当に箸を向けて……向けるだけ向けて未だにチラチラと彼に視線を送っていた。視線に敏感な彼がそれに気付かないはずもない。

 

「……なに? 食いたいの?」

 

「べ、別に食べたいわけではないのだけれど、あなたがどうしてもと言うのなら、そうね。庶民の味というものも理解しておいて損はないでしょうし、さすがにあのラーメンよりはカロリーも高そうには見えないから、食べてあげてもいいわ」

 

 庶民……雪乃ちゃん庶民って、若干キャラがブレてるよ。雪ノ下家が王族である可能性が浮上してきたけれど、比企谷君は「なんで上から目線なんだよ」と苦笑するだけだった。

 

「じゃあ、一口食うか? ……あー、けど、中に入ってるのが焼きそばだからちぎると悲惨なことになりそうだな」

 

 確かに、焼きそばパンという食べ物は分けることに向いていない。高校時代にクラスメイトがラップにくるまれた状態で定規で切り分けていたけれど、さすがに今そんなものは持っていないだろう。

 

「あら、そんなことなら問題ないじゃない」

 

「え?」

 

 どうしたものかと決めあぐねている比企谷君に近づくと、手元の焼きそばパンに小さく齧りついた。

 

「おま……っ」

 

 雪乃ちゃんの小さい一口ではパンの胴部分に齧りついても中央の焼きそばまで届かない。パンと焼きそばを同時に食べようとすれば、必然的に比企谷君が食べた部分と重なることになるわけで、つまりそれは間接キスなわけで。

 

「ん……まあ、なかなかおいしいのではないかしら。アレンジ次第でもっとおしゃれな味にもできるかもしれないわね。……どうしたのかしら?」

 

「どうしたってお前……」

 

 きょとんとした顔をしているけれど、雪乃ちゃんの頬はさっきよりも明らかに朱を帯びていて、本人も相当恥ずかしがっているのが見てとれる。しかし、それ以上に動揺している比企谷君は残念ながらその様子に気づくことはなかったようで「どうすんだよこれ……」と二人が齧った焼きそばパンを眺めている。比企谷君純情だから、間接キスとかそういうのに敏感なんだろうな。

 

「あら、まさか私が食べた程度で食べられないなんて言うんじゃないでしょうね。家畜だって餌はちゃんと食べるものよ、家畜谷君?」

 

「っ……ああもう、分かったよ」

 

 顔を真っ赤にしながら比企谷君は意を決したように大口を開けて、残りの焼きそばパンに食い付いた。

 

 

 

「……疲れた」

 

 パンをマッカンで流し込みながらなんとか食べ終えた比企谷君は肩で息をしていた。食事しただけで疲れるなんて、かわいそう……。

 マッカンの残りを飲み干して息をつくと、くあっと欠伸を噛みしめた。しょぼしょぼと目を擦る姿はいかにも眠そうだ。

 

「あら、今日は数学があったはずなのに眠いのかしら、惰眠谷君」

 

「んあ? あー、まあ数学は寝たんだが、昨日本読んでたら寝るのが遅くなってな。体育もあったし、飯食ったらやたら眠くって」

 

 数学で寝ることは確定なんだね。満腹中枢を刺激されたことで眠気がピークに達しているようで、比企谷君は何度も小さく欠伸を繰り返してぼーっとテニスコートの方を眺めていた。

 

「そんなに眠いのなら、休み時間の間寝ていたらどうなのかしら」

 

「そうだな、教室は葉山達がうるさいけど、早めに戻って寝るかな」

 

 面倒臭そうに頭を掻いて立ち上がろうとする比企谷君を雪乃ちゃんが制止する。あれ? なんで止めちゃうの? 寝た方がいいって言ったの雪乃ちゃんだよね?

 

「別にここで寝ればいいのではないかしら?」

 

「え、地面で寝ろと?」

 

 何それ鬼畜!? こ、これはいじめの現場なのでは……。大変、お母さんに頼んでこの事実をもみ消してもらわなくちゃ。

 そう思っていたけれど、雪乃ちゃんは小声で否定する。そして比企谷君の腕を掴むと、ぐいっと引き寄せた。

 

「うぉっ!?」

 

 あれは……合気道! 力の流れに流されて体勢を崩した比企谷君はそのままポスっと頭を雪乃ちゃんの膝の上に不時着させる。まさか膝枕をするためにわざわざ合気道を使ったというの!? そういうための武道じゃない上に回りくどいよ雪乃ちゃん!

 

「こうすればいいでしょう?」

 

「お前……これは……」

 

「あら、あなたに拒否権なんてもの、あると思っているのかしら?」

 

 そう言って笑う雪乃ちゃんの頬はさっき以上に赤くて、その表情には不安の色が見え隠れしている。雪乃ちゃんの表情をじっと見つめていた比企谷君は小さく息を吐くと起きあがろうとしていた頭を再び膝に沈めた。

 

「……じゃ、お言葉に甘えて」

 

「最初から素直にそうしていればいいのよ」

 

 声はいつも通りなのに、雪乃ちゃんの表情は通常の三割増しくらいで明るい。比企谷君は既に瞼をおろしているのでこの表情の雪乃ちゃんを拝めていないだろう。何あの子、天使かな? 妹でした。

 テニス部の練習している声に混じって、かすかに彼の寝息が聞こえてくる。目が輝くだけでイケメンになってしまう比企谷君は、つまり目を閉じるとイケメンになってしまうわけで、穏やかな寝顔のイケメンを優しい表情の美少女が膝枕している光景は驚くほど絵になっていた。絵になりすぎていて、写真にして大賞に送れば最優秀賞をもらえてしまうレベル。

 

「うおっと」

 

 二人を眺めていると、風向きが変わった。さっきまでの臨海部から吹き込んできていた風が、まるで帰っていくかのように陸側から流れていく。

 

「ん……」

 

 その風の変化に雪乃ちゃんの膝の上の比企谷君はぶるりと震えて、暖を取ろうとしたのか腰にしがみついた。下腹部に顔を押し付けてもぞもぞと動いて熱を吸収しようとしている。

 

「ひぁっ……」

 

「ぁ……ごめん、嫌だった、よな……」

 

 驚いた声を上げた雪乃ちゃんに、申し訳なさそうに謝って離れようとする。彼の表情はうかがえないが、おそらくこの幼くすら感じる声からして甘えモードになっていることだろう。その証拠に、雪乃ちゃんは比企谷君の腕に手を添えて小さくかぶりを振った。

 

「別に、嫌ではないわ。ちょっと驚いてしまっただけで。……だから、もう少し寝ていていいのよ」

 

「ん……」

 

 雪乃ちゃんの言葉に安心したように再び眠りにつく。その光景はやはり絵になって、どこか羨ましかった。「ずるい」とどろりとした感情がまた身体の奥から湧いてくる。前は何に対しての「ずるい」なのかわからなかったこの感情はおぼろげに形を作ろうとしていた。けれど、その焦点がなかなか合わない。そのことが、さらに私の中にもやもやを募らせていった。

 

「せんぱ~い! ……あれ? 雪ノ下せんぱ……って、先輩達一体何してるんですか!」

 

 キャピキャピとした声に意識を引き戻された。どうやら、いろはちゃんがやってきたようだ。そうだよね。そうやって慌てるのが普通の反応だよね。最近私の常識が本当に常識なのか不安になっていたところだったもの。

 

「あら、一色さん。別に大したことはしていないわ。この寝不足谷君が眠そうだったから、私の膝を提供しているだけよ」

 

 いけしゃあしゃあとのたまう雪乃ちゃんについつい頭を抑えてしまう。生徒会長という立場でもあるいろはちゃんはうつむいてふるふると肩を震わせている。

 

「……ずるい」

 

 ん?

 

「ずるいですよ雪ノ下先輩! 私も甘えん坊なせんぱいに膝枕したいです!」

 

 あの……あの子生徒会長だよね? 生徒会長が学校の風紀乱しにかかっているんだけれど。風紀委員仕事して! そういえばこの学校の風紀委員って見たことない!

 いろはちゃんはトトトッと二人に近づくと雪乃ちゃんとは反対側に座り、比企谷君の膝枕役を変わろうとする。睡眠を邪魔された彼は状況が飲み込めていないようで、混乱しながら二人になすがままにされていた。傍から見れば修羅場にも見える光景。だけれど、当の本人達はどこか楽しそうで――

 

「…………っ」

 

 私は静かに総武高校を後にした。

 

 

     ***

 

 

 結局、比企谷君が私に抱きついてくるヒントはなにも見つけることは出来なかった。男の子――かわいいけれど――にも抱きついていたし、ちょっと強引に迫ったり、素直に誘ったりしても抱きつくようだ。年上は対象外なのかとも考えたけれど、月曜にめぐりにも抱きついていたみたいだし……本当にわからない。となると、今まで通りもっとデートに誘って誘惑するしかないのだろうか。でも、毎回あの嫌そうな顔されるし、そもそも誘惑と言うのも結構恥ずかしいもので……それをいなされるのはそれ以上に恥ずかしいわけだ。

 

「…………さん……」

 

 やっぱり、そもそももう私には抱きついてこないわけだし、気にしない方がいいのかな。ここまでずっとやってきてそれは逃げに見える。ここまでやって逃げるなんて、悔しいというか……。

 

「雪ノ下さん!」

 

「っ!?」

 

 名前を呼ばれて我にかえる。声の主はコートの向かい側にいる文子ちゃん……ってコート? 周囲を見渡すと、大学内にある屋内テニスコートだ。私はそのコート内に立っていて、お互いテニスウェアに身を包んでいた。……ああ、つまりはそういうことか。

 

「なにをぼーっとしていますの? 早く勝負を始めますわよ!」

 

 うざい。

 普段は息抜きに使うおもちゃが、今日はやけに煩わしく感じる。あーあ、なんでこんなのに関わっちゃったかな。今は静かに一人で考えたいって言うのに。

 本当に面倒くさい。

 けれど、自分の撒いた種だ。ストレス発散ついでに遊ぶとしよう。

 レシーブのために立ち位置をずらして、構える。高校の頃はテニス部だったらしい彼女は、まあ上手い方だろう。私は負けたことはないけれど。高い打点で放たれたサーブの軌道をとらえ、余裕を持ってサイドに打ちか――

 

「つっ……!」

 

「アウト……ですわね」

 

 私のレシーブはあらぬ方向に飛んでいってしまった。インパクトの瞬間に頭の中に比企谷君の姿がちらついたせいで、打点がずれてしまったのだ。さすがに、文子ちゃんは考え事をしながら相手できるほどやわな相手ではない。集中しなければ……ああでも、そういえば比企谷君も結構テニス上手いらしいな。割となんでもできるし、やっぱり磨けばかなり光る逸材かもしれない。

 ……って、集中と言ったそばから全く集中できていない。ちらちらと彼の影がちらついてその度に身体の動きが鈍る。それが細かいミスに繋がり、どんどん点差は開いていく。観戦にきた友達も困惑の声を上げていそうだが、視界の狭まっている私には知覚できない。

 このままだと、負ける。たとえ学生の遊びでも、雪ノ下陽乃に負けは認められない。ここで負ければ今まで築いてきたカリスマにひびが入ってしまう。それなのに、私自身の存在の危機だというのに、追い込まれれば追い込まれるほど頭は猫背の後輩の気だるそうな姿で埋め尽くされていく。どこか達観した姿に塗りつぶされていく。全力で甘えるギャップのあるあの表情に覆い尽くされていく。

 

 

 ――ずるい。

 

 

 ここ最近、ずっと心の中に渦巻いていたその言葉の意味をようやく理解できた。そうか、私は比企谷君のことが……。

 気づくと足は完全に止まっていた。もう勝負のことなんて頭の中からなくなっていたのだ。このまま負けてしまうことを悟って顔を上げると。

 

「文子……ちゃん?」

 

 文子ちゃんが目の前にいた。こんな近くにいたのに気づかないなんて、どれだけ比企谷君のことで頭がいっぱいになっていたのだろうか。

 彼女は普段は見せないような神妙な顔で私を見つめて、小さく頷く。そしてギャラリーの方に振り向くと、いつもの口調で彼女たちに声をかける。

 

「どうやら雪ノ下さんは体調を崩されていらっしゃるようですわ。それに気付かないなんて、私もまだまだのようです。私が彼女を保健室まで連れて行きますので、皆さんは授業の準備に戻ってくださいませ!」

 

 そのまま私の腕を掴むと、更衣室に引っ張っていった。更衣室に入ると、ベンチに私を座らせてその前にしゃがみこむ。その目は驚くほど真剣でまっすぐで、こういう目もできるんだと、場違いなことを考えてしまうほどだった。

 

「雪ノ下さん、私は毎度あなたに勝負を挑んでいますが、わざと負けてもらおうなんて考えたことはありませんし、そんなことをされて嬉しいとも思えませんわ」

 

「ち、違うんだよ文子ちゃん! 私、わざと負けようなんてそんな気……」

 

 そんな気があるわけがない。どんなことでも勝負である以上、負ける気でいくことなんて一度もなかった。

 

「それじゃあ、さっきの試合はなんですの? いつものあなたのような優雅さも華やかさもない。体調が悪いわけではないのでしょう? 一体どうしてそんなことになっているんですか!」

 

「そ、それは……」

 

 吐き出したい。自分の自覚した気持ちを吐き出したくてしかたがない。それなのに吐き出そうとしても吐き出そうとしても声に意味を持たせることができなくて、それでも無理やり出そうとした結果。

 

「ゆ、雪ノ下さん……?」

 

 それは涙となってあふれ出した。

 

 

 

 最後に涙を流したのは何年前だろう。少なくとも中学校以前だったと思う。久々に流した涙はなかなか止まらなくて、そんな私の背中を文子ちゃんはなにも言わずに撫でてくれていた。やさしいな。こういう一面もあったなんてちょっとびっくり。

 

「そんなの押せ押せですわ!」

 

 そして、ようやく私が今の自分の状況を話した結果がこれ。ド直球ってレベルじゃないよね、それ。

 

「雪ノ下さんはその殿方のことが好きなのでしょう? それならば自分の気持ちに素直になればいいのではなくて?」

 

「けど……私から行くのは……」

 

 どうしてもついて回る雪ノ下陽乃の肩書き。自分から男に惚れ込んでしまうなんて、どこか負けた気がしてしまう。それにやはり私はまだ、彼のあの表情を見ることで己の芯が揺らぐ感覚に恐怖があるのだ。だからあのときだって彼を拒絶して……。

 

「ぁ……」

 

 そこまで考えて、ようやく気付くことができた。きっと彼はあのとき、私が突き飛ばしてしまったことで抱きついてこなくなったのだ。彼は優しいから、人が本当に嫌がることはしないから。

 なんだ、私のせいじゃないか。それなのに、雪ノ下陽乃のプライドのせいで彼から向かってきてほしいなんておこがましいにもほどがある。

 それなら……。

 

「覚悟は決まったようですわね」

 

「……うん。ありがとう、文子ちゃん」

 

 私は何もしていませんわ、笑う文子ちゃんを見るとおかしくなって、ついつい私も笑ってしまった。まだ胸の中にはもやもやが残っている。それでも、その靄の先に淡く優しい光が感じられた。

 

「じゃあ、私行くね」

 

「ええ。後顧の憂いが晴れましたら、今度こそ全力のあなたに勝たせていただきますわ!」

 

 いつもの調子でビシッと宣言する彼女にひらっと手を振って更衣室を後にする。なんとなく、次の勝負が楽しみな私がいた。

 

 

 まあ、当然負ける気はないのだけれどね。

 

 

     ***

 

 

「……雪ノ下さん?」

 

 比企谷君を捕まえられたのは彼の帰り道の途中だった。下校時刻を過ぎていた時はかなり焦ったけれど、とりあえず会えて一安心。……けど、ここからどうすればいいんだろう。やばい、なんも考えていなかった。

 

「ひゃ、ひゃっはろー……」

 

 発する声も緊張からか少し小さい気がする。私らしく振る舞えていないと思いつつも、どうすることもできなかった。

 

「どうしたんですか?」

 

「あ、え、えーっと……」

 

 どうしよう。本当にここからどうすればいいかわからない。頭の中がぐるんぐるんするよ……こんなの初めてだ。

 まったく意味をなさない“どうしよう”で頭の中が埋め尽くされていたけれど、「あー」という声にはっとする。比企谷君は何か考えるように頭を書くと、「ちょっと公園寄っていきません?」と促してきた。

 もう夜に近い時間の公園には人の姿はなく、外套が淡い光を伝える。二人して座ったベンチで、お互いしゃべることはなかった。正確には私が話すのを比企谷君が待っていてくれたと言った方が正しいかもしれない。隼人だったらきっとここで「大丈夫? 何があったの?」なんて不躾に聞いてくるだろうな。今は、この沈黙がありがたかった。

 けれど、いつまでも黙っているわけにもいかない。黙るためにここにいるわけではないのだから。

 

「あの、ね。私、君に謝りたいんだ……」

 

 ぽつりと、始めの声が漏れる。そこからは堰を切ったように言葉が続いた。抱きつかれた時のこと、抱きついて欲しくてデートに誘ったこと。けれど、全然抱きついてもらえなかったこと。

 

「比企谷君に嫌われちゃったかな……って……」

 

 やっと“好き”を自覚できたのに、嫌われちゃったらどうしようもないな。きっと今の私の関係はゼロどころかマイナスだ。今のは気にしないで、と立ち上がろうとしたけれど、比企谷君の発した声に止まる。

 

「俺は、雪ノ下さんを嫌いだと思ったことはないですよ」

 

 彼を見ると、どこか照れたようにそっぽを向いていた。いや、これは本当に照れているんだろうな。

 

「確かに、苦手だと思うことはありますよ。拒否すらさせてもらえないし、からかってくるし。けど、嫌いだと思ったことは一度もありません」

 

 ほんと? と聞くと、少し顔をこっちに向けて小さく頷く。外套の白い光にうっすら照らされる彼の顔は、ほんのりと朱に染まっていた。

 そっか、嫌われてないのか。比企谷君がそう言ってくれたのが、思いの外嬉しくて――

 

「ゆ、雪ノ下さん……?」

 

 比企谷君を抱きしめていた。胸に頭を沈めた比企谷君が困惑の声を上げたけれど、そんなことを気にする余裕もなかった。

 

「比企谷君も、抱きしめて?」

 

「……大丈夫なんですか?」

 

 ああ、やっぱり彼は優しい。また私の“雪ノ下陽乃”が拒否反応を示さないか心配してくれている。そんな彼に笑いかけて、私は被りを振った。

 

「比企谷君なら、大丈夫だよ」

 

 小さく息を飲むと、比企谷君がおずおずと背中に手を伸ばしてきて、ギュッと抱きしめてきた。少し釣り目気味の目尻はとろんと垂れて瞳は寝起きの子供のように幼くなる。

 

「はるのさん……」

 

ああ、これはダメだ。何がダメって、“雪ノ下陽乃”の発する警鐘よりも、もっと抱きしめたい、仲良くなりたい、好きで好きで仕方がないという想いの方が何倍も勝っていた。彼の前では、もはや雪ノ下家の長女ではいられない。一人の女の子になった自分がいたのだ。

 強く、比企谷君に負けないくらい強く、彼の背中にまわした腕に力を込めた。

 

 

     ***

 

 

「……ふふ」

 

 すっかり日も落ちた夜道を一人歩いていると、どうしても緩む頬を正すことができなかった。あの後、気恥かしくなって彼とは別れたけれど、それで正解だっただろう。彼が近くにいたら、いつまでも抱きついていなければ気が済まなかっただろうから。

 けれど、これで私はようやくスタート地点に立ったに過ぎない。彼の周りには、妹も含めて魅力的な女性がいっぱいいる。そんな中を、学校も違う私が遅れて参加するのだ。今の旗色は正直厳しい。

 それでも負けは許されない。だって私は雪ノ下陽乃だから。

 携帯を取り出して、アドレス帳から見知った名前を呼び出す。数回流れたコールの後に聞こえてきたのは実年齢よりも落ちついた、それでいてかわいらしい声。

 

『もしもし、姉さん? 何の用かしら?』

 

 電話に出た雪乃ちゃんはいたっていつも通りだ。そんな妹に今から爆弾を投げ込もうとしていると考えると、ちょっとだけ心が痛んで、それ以上に面白かった。

 

「雪乃ちゃん! 私、絶対比企谷君を振り向かせるから! 雪乃ちゃんには負けないからね!」

 

『え、ちょっと、姉さん!?』

 

 困惑している雪乃ちゃんにちょっと笑いそうになりながら通話を切る。次会ったときに宣戦布告された雪乃ちゃんがどんな反応をするのか少し楽しみだった。

 そして、再びアドレス帳から名前を呼び出す。愛おしくて仕方のないその名前についにへらっと緩んだ頬をできるだけ引き締めて、通話ボタンを押した。

 出遅れたのなら、誰よりも積極的になるだけだ。

 

『もしもし?』

 

「比企谷君、さっきぶり! 週末、またデートに行こうよ!」




というわけで完結です


今回は露骨な八陽というわけではなく、はるのんがはちまん争奪戦に参戦する話にしてみました
なんかハーレム物になってしまった感


ただ、今回同時にめぐりんやルミルミを初めて書いてみましたが、この二人もかわいいなあ
特にルミルミがすっごい書きやすかったです
気が向いたらルミルミ単体も書いてみたいかな

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