比企谷八幡がイチャイチャするのはまちがっている。   作:暁英琉

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俺がラッキースケベを連発してしまうのはおかしい

 さらさらの柔らかい髪。きちんと手入れを欠かさないのであろう亜麻色のそれが、頬に当たってこそばゆいような心地いいような不思議な気分にさせてくる。仄かにアナスイの香りが鼻腔をつき、息を吸いこむと肺がその香りでいっぱいになって、愛用しているのであろう少女を否が応でも意識してしまう。

 

「あぅ……っ」

 

 緩めに着崩した制服の襟から覗く鎖骨、そこから続く喉は純白と錯覚するほど白く綺麗で、こんな美しいものの前で息をすることすら禁忌のように思えてしまう。しかし、そう思う俺の思考とは反対に、息は荒くなっていく。どんどん、どんどん、上限を知らないのかと苦言を呈したくなるほど、いつまでも息の荒さは酷くなっていく。

 

「ふぁっ……んくっ……」

 

 時折漏れだす声は底抜けに甘くて、鼓膜から脳みそを甘味漬けにしてくる。いや、脳どころか細胞の一つ一つ、赤血球の一つ一つまで甘さで飽和させているのではないだろうか。ただでさえ痛いほど早鐘を打ってくる心臓のせいで体内酸素が不足しているというのに、脳の回転は著しく遅くなり、視界は霞みがかってしまう。乱れた呼吸では十分な酸素補充はほぼ不可能と言えた。

 いや待て、脳の回転が遅い割にすごい変な思考を延々繰り返しているじゃないか。落ちつけ比企谷八幡、脳みそは甘味漬けになんてされない。むしろ糖分はブレインちゃんの無二の親友だ。細胞に砂糖をまぶしたって砂糖味の細胞はできないし、そもそも赤血球の砂糖事情なんて知らん。気が動転して状況判断能力が鈍っているだけだ。ここはかの魔王も認めた理性の化物で冷静に状況を分析するのだ。

 …………。

 ………………。

 ……なんで俺は一色を押し倒しているんだ?

 いや落ちつけ、ちょっと状況を見ただけで押し倒したなんて判断するのは早計が過ぎる。冷静にあらゆる方面から状況を分析、精査して結果を導き出さなければいけな――

 

「んんっ……ひぁ、ぁ……はぁ……ん……」

 

 ちょっといろはす変な声出さないで! 今このお前を俺が押し倒している状況を理解しようとしているんだから……押し倒しているって認めちゃってるじゃん!

 というかそもそも、なんでそんな、その、色っぽい声を出しているんだよ。そういえば、さっきから右手が幸せな気が……。

 

 

 ――ふにょん。

 

 

 ……うん、なんか右手が柔らかいおまんじゅうのような部分に添えられていますね。むしろマシュマロ。よくよく考えてみると、割と心地のいい感触だからって何度か手のひらに強弱をつけた気がしないでもない。なるほど、そりゃあ変な声も出るよな!

 それにしても、いつも制服姿とかを見ている分にはそこまで気にしなかったけれど、一色って意外に大き……いやいやいやいや待て待て待て待て! 今はそういうことを考えている場合じゃないだろう!

 

「はぅっ……せん、ぱい……」

 

「っ……!」

 

 あああああああああそんな潤んだ瞳で俺を見ないで! 理性の化物が二〇〇五年日本シリーズの阪神並みにフルボッコにされているから! 八幡のアイデンティティ死んじゃう! クライシスどころかデスっちゃう!

 なんかツッコミしまくったら逆に冷静になってきた。ツッコミってすごいわ、さすがフェスでボケチームに勝っただけのことはある。よし、この冷静になった思考で状況を整理してみよう。

 こういう時、どこから記憶を掘り返すべきか。……ああ、たぶんあの時からだ。先週の金曜、放課後に一色とあれをした時の話。

 

 

     ***

 

 

「一色、この資料の整理終わったぞ」

 

 その日の放課後、俺はいつものように生徒会室で一色の手伝いをしていた。いやごめん嘘、いつもではない。三日に二度くらいだ。それってほとんどってことですね、はい。

 まあ、年度末の資料整理はさすがに四人だと人手が足りないということで、生徒会長殿から俺に白羽の矢が立ったのだ。一色が生徒会長になったのには俺の責任もちょっと、ほんのちょっとくらいはあるので断るに断れないんだよなぁ。

 

「ありがとうございま~す! こっちにあるのが最後なんで、せんぱいは休んでてもいいですよ」

 

 一色も、最初の頃に比べるとだいぶ仕事をこなせるようになってきた。元々要領はいい方だったと思うが、いくつかイベントをこなしたことが自信に繋がっているのか、学校の中心、生徒の中心になってきているように思える。今回は相当忙しかったので仕方がないが、俺や奉仕部を頼る機会も減った。まあ、それをちょっと寂しく思ってしまう俺もいるわけだが。

 

「いや、手伝うぞ」

 

 それに、一色に頼られるのは、俺としても嫌な気分ではない。なんだかんだ一生懸命仕事に取り組む姿はどこか庇護欲をかき立てられるし、ふとした姿にドキリとしてしまう。この感情が一体何なのか判断は難しいが、少しでもこいつの手助けができれば……とは思った。

 だから、一色の手から書類を半分抜き取る。あざと生徒会長が何か言いたそうにこちらを見てきたが、こいつの思考はよくわからんところが多いので気にしないことにした。

 

 

 

「はい! じゃあ、今回のお仕事はこれで全部おしまいです! お疲れさまでした!」

 

 最後の資料を確認した一色の声と同時に張り詰めていた空気が弛緩する。今日の仕事は全て終わったので、副会長達はいそいそと帰宅の準備を始めだした。最近はほとんど完全下校時刻まで作業に追われていたからね、早く帰りたいよね。

 俺もさっさと帰って小町成分を補おうと、床に置いていた鞄に手を伸ばそうとして――裾を弱々しく引かれた。

 

「ぁ……」

 

 上着の裾をちょこんと摘まむ一色は、まるで皿を割ってしまった子供のような顔をしていて……俺は声を出すこともできなかった。

 お疲れと声をかけて、他の役員たちは生徒会室を後にしていく。残るのは動けない俺と、動かない一色だけ。

 

「「…………」」

 

 沈黙が、重い。呼吸をすることすら躊躇われる静寂がまるで永遠に続いてしまうようだった。

 やがて裾を掴む手にぐっと力がこもり、小さく数度息をつくと――

 

「ちょっとおもしろい恋愛のおまじない見つけたんですよ~。葉山先輩とやる時のために練習したいな~って思いまして~」

 

 いつものあざとさマシマシの甘ったるい口調と男受けしそうなしぐさでそう言ってきた。

 葉山隼人と一色いろは。クリスマスイベント前に行ったディスティニーランドで彼女が振られてしまったのは、いやそもそも告白してしまったのは、きっと俺のせいもあるのだろう。不覚にも聞かれてしまったあの言葉。『本物』というその言葉を聞いて彼女が何を感じ、そんな行動に出てしまったのかは分からないが、俺にはそんな彼女の恋愛をサポートする責任があるのだと、思う。

 

「あざとい。……はあ、それで? 一体何をするんだ?」

 

 だから、頭をガシガシ掻きながらその“依頼”を引き受ける。これはある種当然の流れだ。当然であり自然であるはずなのに、どうして胸が締め付けられるのか。……俺には理解なんてできなかった。

 

「それで、おまじないってどんなのなんだよ」

 

「ふふふ~、それはですね~」

 

 なんだ「ふふふ~」ってそんな笑い方する奴が現実にいるとは……ああ、そんなこと言ったら材木座とか存在が消えてしまうまであるな。材木座だしいいか。

 どうでもいい奴に思考を取られていると、一色は真新しい用紙を取り出した。それを半分に折って、はさみを入れていく。鼻歌なんぞ交えながら器用に切り出したのはハート形。半分に折って切り出したので、同じものが二枚でき上がっていた。

 

「それじゃあせんぱい! こっちに自分の名前を書いてください!」

 

「お、おう……」

 

 ハート形の紙きれを受け取る八幡、この時点で超絶キモいまである。まあ、そんな事を気にしていても仕方がないので、さっさとボールペンで『比企谷八幡』と書き込んだ。書いてから思ったけれど、ハートマークの中に自分の名前があるって最高に気持ち悪い。キモいより気持ち悪いの方が精神的ダメージがでかいのは、たぶんカレーの歌とか作り出してしまったあのキャラのせい。俺はあいつ結構好きだけどね。

 一色も同じように名前を書き込んだようで、俺のものと交換してくる。そして、俺の名前が書き込まれたそれを、折りたたんで生徒手帳に挟み込んだ。どうやら、俺もこの一色の名前が記された紙を持っておく必要があるらしい。え、なにそれ超恥ずかしい。俺に拒否権なんてないんで従うんですけどね。財布にでも入れておけばいいか。

 

「これで完了です! へへっ」

 

 なんでそんな嬉しそうなんですかね……勘違いしそうになるから、そういうかわいい表情を不意打ちで見せるのはやめていただきたい。

 そもそも科学的根拠もないこんなオカルトを練習する必要があるのかという疑問も当然存在するのだが、一色には一色なりの考えがあるのだろう。そこに、俺が余計な口出しをする理由はなかった。

 

「こんなので効果なんてあるのかね」

 

「せんぱい夢がないですね~、こういうのはやることに意味があるんですよ~」

 

 なにその参加することに意味がある的な言い方。ちょっと参加しない系男子の八幡にはよくわからないですね。

 その後は特になにかがあるわけでもなく、一色と別れて帰路に着いた。ベッドに寝転がって、おもむろに財布からさっきの紙を取り出す。

 

「…………」

 

 こんなものはただのガラクタだ。小さな子供が、そこら辺に落ちている石をまるで宝物のように大事にしているようなもの。それでも、それを俺はくだらないと一蹴することはできず、丁寧に折りたたみ直して財布にしまってしまうのだった。

 

 

 

「うっす」

 

 土日を挟んだ憂鬱な月曜日の放課後。なんとか授業という修行の時間を乗り切った俺は部室にやってきていた。決められた時間に決められたことをきっちりする俺マジ修行僧。

 

「あら、何か依頼でしょうか?」

 

「おい、部員の顔を忘れるんじゃねえよ。学年一位の頭脳が泣くぞ」

 

 いや、その前に俺が泣くまであるな。八幡女々しすぎない?

 俺を心の中で泣かせた張本人である雪ノ下はクスクス笑いながら「冗談よ、こんにちは比企谷君」と返してきた。うん、最初から普通にしてくれるとありがたいんだけれど。

 

「生徒会の仕事は終わったのかしら?」

 

「ああ、年度末で一番面倒な書類の整理とか活動まとめは終わったし、後はあいつらだけでもできるだろ」

 

 自分の席に腰を下ろして文庫本を取り出している間に、雪ノ下が紅茶を差し出してきた。軽く冷まして口に含むと、渋みのないさわやかな茶葉の風味が舌の上に広がり、冷えた身体がじわりと温まってくる。やはり、雪ノ下の入れる紅茶は美味い。ほっと息をついて読書を始めると、雪ノ下も自分の席に戻って本を開きなおした。

 やがて由比ヶ浜も遅れてやってきて、いつもの奉仕部が始まる。読書をする俺と雪ノ下に、携帯を弄る由比ヶ浜。ときどき由比ヶ浜が話題を振る時以外はほとんど会話が発生しない。けれど、俺にとってそんな空間は決して居心地の悪いものではないのだ。沈黙にも種類があるが、どこか温かいこの沈黙は……嫌いじゃない。

 まあ、こんなことを思っている時に限って、沈黙とか平穏はすぐに崩れてしまうのだけれど。八幡のフラグ回収が音速な件について真面目に話し合いたい。

 タッタッタッと廊下を駆けてくる音。普段ほとんど人の通らない放課後の廊下に、こんな軽快な足音を響かせるのは一人しかいない。ほら、雪ノ下と由比ヶ浜も気付いて扉の方見ているし、もはやこれも日常と化してしまっている。

 

「こんにちは~!」

 

 俺達の予想通り部屋の扉が開き、今日もあざとい甘々ボイスな一色が入ってきた。毎度思うが、その猫撫で声どこから出しているんだ? 女声の神秘だな。

 

「いろはちゃん、やっはろー!」

 

「こんにちは、一色さん」

 

 ああ、二人も嬉しそうですね。やっぱりこの部活って一色に甘いよな。そりゃあ、生徒会の手伝いも舞い込んでくるわ。手伝うのは大抵俺だけど。ひょっとして、俺が一番甘いのでは……?

 

「えへへ~、今日は生徒会お休みなんで遊びに来ちゃいました!」

 

 生徒会が休みならサッカー部に行かなくていいのか、マネージャーだろお前。……まあ、ここ数日放課後はずっと生徒会室に籠りっきりだったからな、息抜きも大事だろう。いや、そんな言い方をするとまるで奉仕部が暇な部活みたいに……基本暇な部活でしたわ。

 二人から目を離して、定位置に座っている俺の方を向いた一色はトテテと駆けよってきて――

 

「せんぱ~い、なに読んでるんですか……ひゃっ!?」

 

 こけた。何もない教室の床で盛大に足を滑らせた。座っていた俺は腰を浮かせる程度しか反応できず、無情にも一色の臀部はワックスがかけられた床に落ちてしまう。

 

「おい、大丈夫か……っ」

 

「いたた……せんぱい、ちょ~痛いです……ふぇっ!?」

 

 駆け寄ろうとして、思わず顔を逸らした。後ろのめりにこけた彼女は両足を大きく投げ出して、その白く意外に肉付きのいい太腿を見せつけ、あろうことか大きくめくれ上がったスカートからは……いや見てない、俺はなにも見ていない。類稀なる反射神経で見る前に顔を逸らしたからな、ほんとだよ? だから一色ちゃん、顔真っ赤にしてこっち睨むのはやめてくれないか。

 

「……せんぱい、見ましたよね?」

 

 HAHAHA、見てないって言っているだろ? まったくしょうがないなあ。今の一色は突然の事態にだいぶ動揺しているようだし、ここはこちらが理性的に対応して収束を図るべきだな。

 

「な、なにも見てないぞ! 白地に紅いリボンなんて俺は知らない……ぁっ」

 

 八幡君、それのどこが理性的なのか説明してくれません?

 いや……うん。

 白状します、見ました。赤い小さなリボンがついた純白の下着を俺の網膜はしっかりと焼きつけていました。予想外に初心と言うか清楚な感じにちょっとドキッとしたりしなかったり……いや、むしろそれがあざといまであるな。……あざといってなんだっけ?

 

「比企谷君……?」

 

「ヒッキー……?」

 

 あの……気のせい、かな? 室温が一気に低くなったような気がするんだけれど。室温どころか紅茶で温まったはずの身体まで冷たくなっている気がするんだけれど。

 身体が俺の意思に反して小刻みに震える。さーっと血の気が引いているのに、心臓はバクバクと飛び出しそうなほど大きな音を鳴らしていた。勇気を振り絞って声の方に首を捻ると、雪ノ下と由比ヶ浜がもはや女の子がしてはいけない表情で仁王立ちしていた。端的に言って鬼の形相。

 

「いや待て、落ちつけ。これは事故だ、不可抗力だ、俺は悪くねえ!」

 

 だって目の前でいきなり女の子が転んで、M字開脚パンモロしてくるなんて予想できるわけがないし、その状況を見る前に回避するなんて無理無理無理のかたつむりだ。つまり俺は悪くないし、まして一色が悪いわけでもない。つまり誰も悪い人間なんていないのだ。なんて優しい世界なんだ……。

 しかし、目の前の氷の女王様は優しくなんてなかった。

 

「いいえ、一色さんが転んだことをいいことに舐めまわすように彼女の身体を見た視姦谷君が悪いわ」

 

「俺の行為を捏造するのやめてくれない?」

 

 確かに見ちゃったけど一瞬なわけで、いや一瞬でも十分焼きついちゃったけれど。

 しかし、謎理論を展開する雪ノ下には何を言っても無駄なわけで、由比ヶ浜も完全にあちら側でキモいキモいと連呼している。ガハマさん、語彙を増やそう!

 一色に助けを求めようとするが、顔を真っ赤にして口をパクパクさせているわけで……っていうか、こいつまだスカートまくれたままじゃねえか。

 

「一度ならず二度までも……これは情状酌量の余地なしね」

 

「ヒッキー、マジキモいし!」

 

 り、理不尽すぎる……!

 その後、部活が終わるまで正座で読書を強要されました。冬の床は冷たいなぁ……。

 

 

 

 そんなことがあった次の日ともなると、正直一色に会いづらい。結局昨日はうやむやになってしまったが、不可抗力とはいえ見てしまったのは事実だ。その点においては、俺も謝らねばならんだろう。とりあえず、放課後に一色が部室に来たら謝るか……。

 

「ぁ……せんぱ、ぃ……」

 

 そんな俺の言霊が聞こえたのか、昼休みに購買に行くと、列に並んでいた一色と目があった。いや、謝るって考えてはいたけれど、心の準備的なあれがですね。

 しかし、ここで逃げると放課後余計に謝りづらくなる。つまりは、ここで謝るしか選択肢は存在しないと言うことだ。一つしかないのに選択肢とはこれいかに。

 

「よ、よう……」

 

「ど、どもです……」

 

「「……………………」」

 

 沈黙が辛いんですけれど……。あ、俺が謝らなきゃいけないんだから、俺が黙っちゃだめじゃねえか。落ちつけ八幡、ここは土下座……じゃねえな。さらっと謝ってしまうのが最適だろう。

 

「その、なんだ……昨日は不可抗力とは言え、悪かったな。すまん」

 

「い、いえっ! せんぱいは悪くないです、から……」

 

「お、おう。そうか」

 

 とりあえず、怒ってはいないようだ。さすがに唯一の後輩に嫌われるのは八幡的にダメージでかいので、ちょっとホッとする。すると、俯いていた一色がハッと顔を上げ、「ところで」と声を上げた。

 

「せ、せんぱいはその……私の、見て……どう、でしたか……?」

 

「え……?」

 

 なにその質問、フェルマーの最終定理並みの難問じゃね? ところでフェルマーってなに? いや、この際フェルマーはどうでもいい。どう答えればいいの? なにが正解なのか全く分からないんですが……。

 

「その、ほら! かわいかったとかいろいろあるじゃないですか!」

 

「お、落ちつけ一色、後近い超近い」

 

 顔を真っ赤にするくらいならそんなこと聞かないで欲しいんですが……。思わずのけぞるほど近いしめちゃくちゃいい匂いするしで、もうわけが分からん。

 一色に迫られるという謎の状況に注意力が散漫になってしまったのか――それ以前にそもそもここが購買ということを忘れていたわけなのだが――、思わず後ずさってしまい。

 

「おっと、すまん」

 

「いてっ!?」

 

 後ろを通ろうとしていたのであろう、いやにガタイのいい男子生徒に思いっきりぶつかってしまった。

 

 

     ***

 

 

 その結果、一色を巻き込んで前のめりに倒れてしまい、現在に至るというわけだな。つうか誰だったんだガタイのいい男子生徒。一瞬また交通事故にあったのかと思ったぞ。

 

「んぁ、んっ……」

 

 だから一色はそんな悩ましげな声出さないで! 後俺の右手は早くそこからどけよ! 俺がどかさなきゃいけないのか! なるほど!

 ……というか、この状況はやばい。なにが一番ヤバいって、ここは購買なわけですよ、しかも昼休みの。当然昼食や飲み物を買いに来た生徒でいっぱいなわけで、無数の視線がずっと突き刺さってきているわけで……。

 八幡、冷汗だらだら。なにこれ、既に人生詰んでる節があるんですが……。諦めるな比企谷八幡! 社会的に詰むにはまだ早いぞ! いや、社会的には元々半分くらい詰んでる気がしないでもないけど。

 と、とにかくなんとかしなくては……!

 

「一色、ちょっとすまん!」

 

「せんぱい? ……ふえっ!?」

 

 まずはどうするにしてもこの場に留まるのはまずいと考えて、一色を連れて走りだした。まさに脱兎。今なら葉山よりも速く走れそうだった。それどころかウォールランもできそうだけれど、俺ができたらゴキブリタニとか呼ばれそうだから試すのはやめておこう。

 購買を抜けて、なるべく人のいないところを目指す。ベストプレイスは……テニスコートから見えてしまうし、部室はゆるゆり空間だし、生徒会室は一度鍵を借りに行くのが手間だ。となると、候補は……あそこか。

 廊下を駆け抜けて階段を上る。時折感じる視線を全て無視して二階、三階と駆け上がっていくと、やがて階段が途切れた。南京錠で施錠されている扉。しかし、俺はこれが壊れていることを知っている。形だけかけられている錠を外してその奥、屋上に転がり込んだ。

 

「ここなら大丈夫だろ」

 

 ふう、と息をつく。時々川中のようにここを利用する女子もいるようだが、多少温かくなってきたとはいえ、この時期の昼休みにここに来る生徒はいないだろう。

 

「せ、せんぱい……」

 

「ん?」

 

 ああ、そういえば一色を連れてきたんだった。風になるのに夢中で一番の理由を忘れてしまうとは、八幡一生の不覚……って――

 

 

 なんで一色が俺にしがみついてるのん? いや正確にはなんで俺、一色をお姫様だっこしてるのん?

 

 

 あれ? いつのまにこんな状態になっているんだ? ひょっとして最初から? 何それ、恥の上塗りじゃん。ここに来るまでに絶対いろんな人に見られてるじゃん。むしろ一色に対しては罪の上塗り。

 つうか、こいつ軽くない? 小町もそうだけれど、女の子軽すぎでしょ。女の子の重力だけ他の六分の一なんじゃないの? 女の子月人説。

 とりあえず、抱きかかえていた一色を下ろす。なんか、ここ最近こいつの赤面しょっちゅう見るんだけど……勘違いしちゃうからやめてほしい。あ、今回は間違いなく俺のせいですね。

 一色がしっかり自立したのを確認して、一安心した俺は……逆に膝を折った。

 

「すみませんでした!」

 

「えっ、ちょっとせんぱい!?」

 

 今までの人生で一番なんじゃないかと思えるほど綺麗な土下座が決まった。押し倒した上に柔らかいあれまで触ってしまって、さらには大衆の面前でお姫様だっこだ。金を要求されても仕方のないレベルである。

 もう俺には、全身全霊で土下座することしかできなかった。

 

「あ、頭上げてくださいよ……」

 

「いやしかし、これは俺が悪いと言うか、注意力散漫だったと言うか……」

 

「仕方ないですよぉ。その……触られたのは……あれでしたけれど……」

 

 いや、本当にすみません。大変幸せな気分に……反省してねえぞこいつ! ちょっと八幡君いい加減にして!

 

「けど、ちょっとあれの後だと購買部には行きづらいですね」

 

「まあ、そうな……」

 

 今戻ったら、好機の視線とか敵意の視線とかで針のむしろにあいそうだもんなあ。まだパン買ってなかったんだけれど、今日は昼食抜くか……。マッカン飲めば午後は乗り切れるだろう。

 

「あ、あの……」

 

 そう考えていると、一色が袖をちょこんと掴んできた。相変わらずその仕草好きね。庇護欲かきたてられてあれなんだけれど……。ていうかなんなのん?

 

「あの……私お弁当あるんで、分けてあげられますよ? 生徒会室で、一緒に……どうですか?」

 

「え……?」

 

 いや……え? 確かに俺は昼食にありつけるけれど……それってお前に利点なくないか?

 返答に躊躇している俺に、一色は何かを考えるようなしぐさをして、「そうですよ!」と手をポンと合わせた。

 

「私も今の状態じゃ教室で食べるのはちょっと嫌かな~って。でも、生徒会室で一人で食べる気分でもないんで……それでチャラってことでどうですか?」

 

「まあ……お前がそれでいいなら」

 

 いや、さっき押し倒された人間と一緒に昼食って気まずくないのかな。いろはすのコミュ力高くて八幡のコミュ力も……上がりませんね、うん。

 結局なし崩し的に、二人で昼食を食べることになった。一色の弁当はなかなかおいしくて、気がつくと七割くらい俺が食べていた。あんまり食べてなかったけど、いろはすお腹いっぱいになったのん?

 

 

     ***

 

 

 おかしい……。いや、俺の性格とか目がおかしいと言うわけではなく、ここ数日の一色と俺の間での出来事がおかしいこと続きなのだ。とにかくお互いよく転んだり躓いたりつんのめったりする。外で話していたりすると風が吹いてスカートがまくれる。昨日なんて一緒に歩いていたら水道の蛇口が突然破裂して、一色の服がびしょびしょスケスケになってまた目のやり場に困ってしまった。

 明らかによくわからないアクシデント、いわゆるラッキースケベが連発しているのだ。さすがにこれはおかしいということで、試しに雪ノ下や由比ヶ浜、小町と近くにいても、一色と一緒にいるときのようなことにはならなかった。むしろ雪ノ下には道端のゴミを見るような目で見られて罵倒されたし、由比ヶ浜にはキモいキモいと連呼され、なぜか傍にいた海老名さんに葉山のところまで引っ張られた。小町には「お兄ちゃん、さすがにシスコンが過ぎるのは小町的にポイント低いよ」と言われた。超絶凹んだ。

 つまり、なぜか知らないが月曜から、突然一色限定でラッキースケベが起こるようになってしまったようなのだ。最初は一色の悪戯か何かだろうかとも思ったが、あいつは悪戯でスカートの中を見せたり、きわどいボディタッチをしてくるほど自分を軽く見てはいないし、俺自身も謎の転倒なんかをしている点を見ても悪戯の線は消えるだろう。

 となると……何か他の原因、理由がないか考えてみる。月曜の放課後まででなにがあったかを考えると、思い浮かぶのは先週の放課後にやった恋愛のおまじない、財布に入っている紙きれのことだ。ただの根拠のない夢見がちな女子たちのありふれたオカルト。そんな馬鹿なと思いつつも、それくらいしか心当たりが存在しなかった。

 

「…………」

 

 財布から紙きれを取り出す。もしこれが何かしらの効力を持っていて、それが俺と一色の間に何かを起こしているのだとしたら、これを捨てるだけで問題は解決するかもしれない。それは分かっている。分かっているけれど――捨てることができない。そっとそれを財布の中に戻してしまう理由が喉のすぐそこまで出てきているはずなのに、ほんの一息のところで止まってしまうのだ。自分のことなのに分からないということが、こんなに歯がゆいものだとは思いもしなかった。

 結局何も策を講じぬまま、一色に呼ばれた俺は生徒会室に向かった。

 

 

 

「ぁっ、せんぱい……」

 

 生徒会室の扉を開けると、一色は椅子に落ちつけていた腰を上げた。室内には一色以外いない。まあ、生徒会の手伝いとは言われなかったし、なんとなく予想はしていたけれど。

 

「よかった……」

 

 何事かをぽそりと呟いた一色をよそに、部屋の中に入って扉を閉める。そんな俺に彼女はいつものようにとててと近づいてきて――俺は密かに身構えた。

 

「今日はなんの用なんだ?」

 

「えっとですね……ひにゃっ!?」

 

 そして案の定、一色は何もないはずの床でつんのめってしまう。前のめりになった先にいるのは当然俺だ。さすがに何度もこういう事態に遭遇すると、反射的に警戒するし、いやでも慣れる。一色の奴は軽いし、そっと肩を抑えてさせてやれば大丈夫だろう。脳内で瞬時にシミュレートして、そのとおりに彼女の身体を受け止める。

 しかし――

 

「なっ!?」

 

 一色がぶつかってきた衝撃。体格差的にも何の問題もなく受け止められるはずのそれを受けた途端、俺も足元をすくわれた。まさかの謎現象二段構えに対応できず、思いっきり尻もちをついてしまう。

 

「いっつ……っ!」

 

 ドスンという鈍い音と共に重い痛みが下から上に駆けのぼる。怪我をするほどのものではないので俺は問題ないが、まともに受け止められなかった一色が怪我をしていないかと言う心配が先行して、慌てて目を向けた。

 

「一色、だいじょう、ぶ……か……」

 

 息が、詰まる。俺に支えられなかった彼女は一緒に倒れてしまったようで、俺の腹上、マウントポジションに乗っかっていた。右手は俺の胸にそっと添えられていて、接触している部分から心地のいい一色の体温と仄かな重さが伝わってくる。

 

「ぁ…………」

 

 そして、二人の顔が――近い。お互いの顔が正面と正面、目と鼻の先にあって、彼女の真っ赤に熟れた頬、整った眉、ぷるんとした唇、その全てが眼前に広がっていた。漏れだす呼気すら極上の甘味料に錯覚してしまう。

 そして、その距離は少しずつ、しかし確実に近づいてきている。ほんの少し、あとほんの少し首を前に動かすだけで、その紅色の唇にキスをすることができる。エデンのりんごのように魅惑的なそれを、欲望のままに奪ってしまいたい衝動に駆られてしまう。

 床についていた手は気がつくと彼女の肩に添えられていて……。

 

「せん……ぱい……」

 

「っ……!」

 

 理性の化物に、いやもっと違う何かに心臓を鷲掴みにされた。一種の非現実から一気に現実に意識が引き戻される。

 俺は今、なにをやろうとしていた? よくわからない事故で倒れて密着してしまった後輩に、それをいいことに肩なんぞを掴んで、その無垢な唇に近づいて……。

 俺は、そんなその場の勢いにまかせてしまうような関係なんて求めちゃいない。よくわからん事象に巻き込まれた、なし崩し的な関係にこいつとはなりたくなかった。俺は、俺は、俺は……!

 

「……すまん」

 

 気がつくと、生徒会室を飛び出していた。後ろからかすかに聞こえた声を気にする余裕もなく、行き先もなく廊下を駆ける。冷たい空気が身体を突きぬけていくが、ぐるぐると渦巻くどす黒い何かを凍らせてはくれなかった。

 

「ハッ、ハッ、ハッ……」

 

 ろくに運動もしていない身体に限界が来て、思わず足を止める。乱れに乱れた息を整えることすら忘れて、今自分が立っている、見慣れた場所を認識した。

 人は逃げるとき、潜在的に自分の一番の拠り所に身を置こうとするらしいが、俺にとってはここか。ぼっちの俺にはお似合いだな。

 ベストプレイス、誰からも干渉されない俺だけの空間に座りこむ。テニス部の声が聞こえるが、今は戸塚を眺める気にはなれず、ただただ天を仰いだ。赤く染まる夕焼けは、到来する闇と歪に交わっていて、まるでボロボロの俺の心を映し出しているようだった。

 

「捻くれた生き方をした結果が、これか……」

 

 なんてお似合いな結果だろうか。なにも得られずに、全てを失う。気付くのはいつだって全部が終わった後。柄にもなく溢れた涙は頬を伝い、漏れ出そうになる嗚咽はぐっと唇を噛んで押し殺した。

 俺は、ただ一色と一緒にいたかった、他愛のないことで笑いあって、一緒に仕事をして、適当にあしらって……。恋仲になりたくないと言えばうそになるだろう。けれど、そんな大事な関係に、あんななし崩し的になりたくはなかった。それはきっと勘違いで、偽物だから。

 いや、それ以前の問題だろう。一色が、あの一色いろはが俺なんかを意識しているはずがないのだから。だからこの想いは届かない、届けない。

 だからせめて、近くであいつを見守りたかったのに……。

 

「……まったく、余計なことしやがって」

 

 財布から取り出した折りたたまれた紙。こいつが原因である可能性には気付いていたはずなのに手放せなかったのは、これが俺とあいつの繋がりの一つだったからか。

 これを捨てれば、また一色の近くに行けるだろうか。やり直せるだろうか。

 

「無理だな……」

 

 これを捨てて、あのよくわからないアクシデントが起こらないようになったとしても、今までのことは消えない。きっと互いに気まずくなって、そのままフェードアウト。消滅。

 ならば余計に、俺はこれを捨てることができない。今となっては、これが俺とあいつの唯一の繋がりなのだから。何とも女々しい、くだらない足掻きだ。けれど、いっそ近づけないのなら、せめてこれくらいは許してほしい。丁寧に紙を折りたたみ直して、財布に戻した。

 もう、一色には会わない方がいい。俺のためにも、彼女のためにも。だったら、接触の可能性を極力減らそう。そのために、スマホを操作してほとんどかけたことのなかったあいつの電話番号をコールした。

 

『もしもし? ヒッキーどうしたの?』

 

 数回のコールの後に返ってきた明るい声に、つい躊躇してしまう。何か言われるかもしれない。却下されるかもしれない。根掘り葉掘り問い詰められるかもしれない。

 それでも、臆病になる自分をぐっと押し殺して、俺は電話越しの由比ヶ浜に短く告げた。

 

「しばらく……奉仕部休むから」

 

 

     ***

 

 

 昼休みになると、いつものように購買部に……向かうことなく、朝コンビニで買っておいたパンを持って教室を出る。ステルスヒッキー全開で人込みを縫って進む。

 電話で伝えた俺の休部申請は、思いの外あっさりと受理された。由比ヶ浜も、それを聞いていた雪ノ下も詳しく聞いてこようとはしてこなかった。電話越しになにかを感じたのだろうか。わからないが、教室でもなにも聞いてこないのは好都合だった。

 一色との接触を避けるために購買部に行くことをやめ、いつも昼食を食べていることが知られている可能性のあるベストプレイスではなく、屋上に足を運ぶ。ばったり会ってしまうのだからあんなアクシデントが起こるのだ。ならば、会わないように気をつければいい。

 そう思っていたのに――

 

「ぁ……」

 

 屋上へと続く階段の前で、一色を見つけてしまった。互いに目が合う。この時間帯に彼女がここにいる理由はないはずなのに、なぜ……。

 身体の奥が震える。彼女の口から、どんな言葉が出るのか分からない。なによりも、拒絶される可能性を想像してしまい、言い知れぬ恐怖が沸き上がってくる。

 

「せんぱ……っ!」

 

 気付いた時には踵を返して、その場から逃げていた。完全な敗走、プライドも何もない戦線離脱。一色の顔を見るだけで胸がせつなく鳴くのに、声を聞くだけで心が叫び出すのに、それを見続けることも聞き続けることも、俺にはできなかった。

 

「くそっ……」

 

 ほら、結局あの紙きれを捨てていたって、やり直すことなんてできなかったんだ。

 一度逃げ始めてしまえば、もう逃げ続けるしかないのだから。

 

 

 

 それから、俺は学校での行動を各所変更した。学校に着くのは遅刻ギリギリ、休み時間になれば教室から逃げだして、トイレなどで授業開始まで時間を潰した。一色の気配を常に注意深く探って、見つかる前に離脱する。一度平塚先生の授業に遅れてしまったが、先生は俺の顔を見て、「次は気をつけるんだぞ」と軽く肩をたたいただけで、鉄拳制裁もなにもなかった。

 昼休みはいち早く教室を抜け出して適当な空き教室で食事を取り、放課後は誰よりも先に帰宅する。やけに帰りの早い俺に小町が不思議そうな顔をしていたが、前のように何かを聞いてくることはなかった。その代わりに、やけに夕食が豪華になったが。

 早く帰ったところで特に何かをする気にもなれず、ベッドに身体を投げ出す。頭の中に思い浮かぶのは一色のこと。自分から逃げだしたはずなのに、なにをしていても、夢の中にさえ彼女の姿を幻視する。離れれば離れるほど、会いたくて仕方がない。こんなにも彼女のことが好きだったのかと自覚させられる。

 

「気付くのが遅すぎるんだよ……」

 

 もっとこの気持ちに早く気付いていたら、正々堂々告白もできたかもしれない。いや、それでもうやむやにしていた可能性はあるけれど、少なくとも今みたいな宙ぶらりんな関係ではなかったはずだ。

 何もすることがないと、財布からあの紙を取り出して手遊びをしてしまう。なにが恋愛のおまじないだ、むしろ逆効果じゃないか。……いや、単純に俺との相性が悪いだけか。外部からの介入なんて、理性の化物の警戒心を逆なでするだけだからな。

 

「……ん?」

 

 自嘲し、自傷していると、ほとんど鳴ることのないスマホが震える。届いたメールを確認すると、スパムメールみたいな差出人……ああ、由比ヶ浜か。危うく未読でゴミ箱にシュートするところだった。中身を開いてみると、ゴテゴテとした絵文字を交えて依頼が来たから顔を出してほしいとの内容が書かれていた。もう帰宅してしまっていたが、幸い服も着替えていなかったので、短く『了解』と返事を返して家を出た。

 これも、一種の逃げなのかもしれない。なにもやっていないと一色のことばかり考えてしまって、彼女に会いたいという想いに押しつぶされそうだったから。

 

 

 

 自転車を置いて、特別棟にある部室に向かう。それにしても、直接奉仕部に依頼が来るなんて珍しいな。大抵の相談はメールでの対応で終わることが多いので、直接部室に相談が来るのは月に一度あるかないかだ。それに、大抵は葉山達や材木座のようないつもの連中からの物が多い。由比ヶ浜からのメールにはあいつらの名前はなかったから、恐らく別の人物だろう。一色のは依頼というよりも手伝いの方が正しいので、俺の中では依頼に勘定されていない。あいつ、特に用事がなくてもしょっちゅう来るしな。そういえば、もうそろそろ終業式の準備とかがあるはずだが、あいつは大丈夫――

 

「今あいつのことは関係ないだろっ」

 

 小さく舌打ちをして、頭を振って思考を乱す。一色のことを考えないために部活に向かうのに、これでは本末転倒だ。冷静に、落ちついて、思考から一色いろはを切り離せ。……意識して切り離せればどんなに楽なことか。

 くだらないことを考えている間に、部室の前に着いていた。いつものように扉を開けようとして、脳が違和感を伝えてくる。

 依頼人が来ているにしては、中から何も音が聞こえてこない。いや、仮に依頼人を帰していたにしても、依頼が来たのなら何かしらの会話が聞こえてきてもいいはずだ。それなのに、明るい由比ヶ浜の声も、澄んだ雪ノ下の声も……聞こえてこない。

 一度沸き上がってきた違和感を拭うことができず、扉に手を伸ばしたまま躊躇していると――

 

 

 ――ガラッ。

 

 

「えっ!?」

 

 突然目の前で扉が開き、伸ばしていた腕を引っ張られた。完全に油断していた俺には踏み留まる力もなく、たたらを踏みながら部室に引き込まれる。

 部室に足を踏み入れた俺の胸元に、ぽすっと何かが触れる。柔らかそうなさらさらの髪、鼻をつくのはアナスイの香り。それだけで、抱きついてきているのが誰か理解した俺の警戒レベルはマックスを振りきった。

 

「一色……!」

 

 一色と接触してしまえば、またなにかしらのアクシデントが発生するかもしれない。いや、むしろこの状況すらアクシデントの結果なのではないだろうか。俺の心を勘違いさせるための、神様の気まぐれな罠なのではないか。そんなものは、そんな偽物はいらない。そんなものを俺の前にぶら下げるな。

 とにかく、ここにいるのは危険だ。背中に回された彼女の腕から逃れようと身をよじり――

 

「せんぱい!」

 

 身体の動きが、止まる。それは一色に呼ばれたからと言うよりも、その彼女の声の質を敏感に感じ取ったからだろう。

 

「お前……」

 

 泣いている……のか? 俺よりもだいぶ小さい肩は不規則に震え、背中にある両の手は何度も、何度も強く俺の服を握りしめていた。

 どうしてこいつが泣いているのか。なにかあったのだろうか。葉山か、生徒会か、クラスか、それとも……。

 

「なんで、私を避けるんですか……?」

 

「っ……それは……」

 

 俺の、せいか。俺を見上げる少女の瞳に宿っているのは、不安と恐怖。それは、俺の行動が間違っていたという事実を、ありありと俺自身に突きつけていた。

 

「それは……俺が近くにいると、お前に迷惑がかかると思ったから……だ」

 

 ああ、平塚先生にばれたら鉄拳制裁物だ。やはり俺は人の心の機微に疎い。大事な奴のために行動して、その結果傷つける。まるで成長していない。むしろ退化だ。

 

「迷惑なんかじゃ、そんなんじゃ……私は、私は……」

 

 大好きな女の子すら身勝手に泣かせてしまう。そんな自分が殴りたいほど、いっそ殺してしまいたいほど憎くて仕方がなくて、ギリッと歯を食いしばる。

 一色は俺から離れると、ポケットから生徒手帳を取り出した。そこに挟んであるのはあの時の紙きれ。俺のものと対になっているそれを広げた彼女は、ぼそりと呟く。

 

「せんぱいと私が一緒にいるとあんなことになるのって、たぶんこれのせいですよね」

 

「そう、だな……」

 

 確証はない。しかし、互いに不思議な確信はあった。このおまじないを解かないと、俺達の間に平穏は訪れないと。

 せんぱいもこのおまじないは捨ててないんですよね、という質問に、短く肯定を返す。むしろ、接触を避けるようになってからはそれまで以上に肌身離さず持ち歩くようにすらなっていた。

 

「それじゃあ、どうしてせんぱいはそれを捨てなかったんですか? 私と会わないようにするなら、どうして手放さなかったんですか?」

 

「それ、は……」

 

 その質問への返答には少々声が詰まる。その答えは自分の内をさらけ出すものだから。自分の心を丸裸にしてしまうようなものだから。

 けれど、伝えなくては。今ここで伝えられなければ、一生何も伝えることはできないと思うから。弱い心を、必死に奮い立たせる。

 

「それが、お前と俺の思い出だと思ったら……捨てられねえよ……」

 

 傍から見たらままごとの産物のような紙きれ。それでも、俺にとっては大事な思い出だった。それを捨てたら、俺とこいつの今までの思い出を全て捨ててしまうような気がして、二人の関係も、繋がりも本当に何もなくなってしまうような気がして仕方がなかったのだ。

 自分でも驚くほどか細く漏れ出た声は、しかし彼女にはしっかりと届いたようで、「そっか……そうですよね……」と彼女は頷いた。

 

「私も、同じでした。せんぱいとの思い出のものって、これくらいしかなかったですから……」

 

 しみじみとおまじないを眺めていた目を伏せ、「でも……」と畳み始める。

 

「これはもう、私にはいりません。だって……」

 

「うおっ!?」

 

 おまじないから手を離して、その手で俺を引き寄せる。よろめいて膝をついた俺の後頭部にそっと手が当てられ、その胸に優しく抱かれた。額から伝わってくる柔らかさや温度は、どこか安心できて、まるで心が洗われるようだった。あの日からずっとぐるぐると渦巻いていたどす黒い何かが拭われていくような錯覚すら覚えた。

 

「あんなおまじないがなくたって、私はせんぱいと、こういうことがしたいんですから」

 

「それって……」

 

 いや。

 思わず聞き返しそうになって、口をつぐむ。ここで余計なことを口にするのは野暮というものだ。そんな事をしなくても、今の俺には彼女の言葉の意味を正確に理解できるのだから。

 だから、それに答えるように。

 慎重に、ゆっくりと、決して壊してしまわないように優しく、けれど絶対に離さないように強く――彼女の背中に腕を回した。

 

 

 

 不思議な力に導かれた俺達の心は、近づいて、離れて、もう一度近づいて……寄りそうようにくっついた。




トイレの蓋を閉じた瞬間に振ってきたネタ

当初の予定だと いろはすLOVEる とか いろはToLOVEる って感じだったんですが、さすがにリトさんではないし、やけにシリアスになったんで変更しました
全然読んでないけど、最近のリトさんはショーツの中にカメラ連写するらしいから、ほんとすごいですね
それで好かれ続けるリトさんしゅごい


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