時刻は、およそ四十分前まで遡る。
首都リリスを一歩出れば、そこには広大尚つ薄暗い森林が横たわっている。ある程度の実力者でなければ立ち入ることが許可されないその森は、巨大な魔獣が我が物顔で闊歩している危険地帯だ。
本来ならばリリスとの境目に強固な結界術式が展開されているので問題無いのだが、今日に限っては術式の一部に穴が開けられていた。子供が一人通過できる程度の大きさだ。
闇夜という表現が相応しい森を、小猫は全力で疾走していた。その少し前を一匹の黒猫が彼女と同じスピードで駆けていく。黒猫から微かに発せられる黒い魔力を探りながら、小猫はひたすらに足を動かしていた。
道中、何体かの魔獣と遭遇こそするが、しかし魔獣達は怯えたように逃げていく。
やがて奥に進むほどに魔獣の姿が見えなくなることを察した小猫は、黒猫が向かっているその先に実姉がいるのだと確信した。恐らく魔獣は姉の放つ魔力に怯えているのだろう。
駆け抜けること、数分。森の中心に辿り着いた彼女を迎えたのは古い大樹だった。
その根元に、姉は立っていた。
「黒歌、姉様……っ!」
「久し振りね、白音」
音も気配も感じさせずに、黒歌はゆっくりと小猫に歩み寄った。殺されるのではないかと小猫が身構えたのも束の間、黒歌は不意に立ち止まると諸手を挙げた。戦意が無いことを示すサインだ。
「昔話をしてあげようか」
驚く小猫を尻目に、彼女はポツポツと昔話を語り始めた。
「あるところに猫又の姉妹がいました。二人はいつも一緒でした。両親が病死して、家も身寄りも失って。二人は天涯孤独でした」
二人はある日、貴族悪魔に拾われた。姉が眷属になったため、妹も屋敷に住めるようになった。二人はこれで平穏な時間を送れると信じていた。
しかし、その生活も長くは続かなかった。
「姉は仙術の才能が高く、魔力量も群を抜いていました。主君である悪魔は、妹にも才能があると考えました。そして姉との契約を破ろうとしました」
主君である悪魔は、まだ未熟な妹猫にも仙術を覚えさせようと試みた。だが仙術はとても危険な術だ。もし妹猫が扱おうものならば命を落としてしまうだろう。姉猫は懸命に説得しようとしたが、悪魔は聞く耳を持たなかった。
「だから姉猫は主君を殺した。妹猫を守りたいから」
小猫は昔話の先を続けた。俯く小猫の言葉に、黒歌は頷いた。
「姉は追われる身に堕ちて、妹ともすれ違った。姉は妹を救えなかった。それだけがずっと心残りだった」
──ごめんね、白音。
やがて二人の姉妹は黙って泣いていた。
会場内で黒歌の魔力を宿した猫を目撃したとき、小猫は罠かもしれないと恐怖した。被害を出さないようにと敢えて一人で乗り込んだ。主を殺す姉の姿は今でも鮮明に思い出せるからだ。
それほどまでに恐ろしい存在であった黒歌が、小猫を抱き締めながら嗚咽を漏らしていた。今までのイメージが根本から洗い流されていく感覚だった。
それからしばらくして黒歌は着物の裾で涙を拭き、しっかりと小猫を見据えた。赤く腫れたその眼は泣いていなかった。
「私が冥界に侵入したのは、白音を助けたいから。白音に私や赤龍帝のような道を歩んでほしくないの」
その言葉に、小猫は眼を見開いた。何故、姉が赤龍帝である一誠のことを話題に出したのか。真剣な表情で黒歌の肩を掴む。
「一誠先輩がどうしたんですか!? 教えてください、姉様っ!!」
「そこから先は本人に訊いてほしいにゃ。こういうのは私の口から言えないからね」
「……それはつまり、″禍の団″に入れと?」
黒歌は、暗にグレモリー家を裏切れと言っているのだ。
小猫は言葉を詰まらせた。
上層部に殺されかけた自分を救ってくれたのはサーゼクス並びにグレモリー家の面々だ。故に裏切る真似はしたくないが、一誠の件で不信感をおぼえているのも事実である。
迷いを見せる彼女に黒歌は更に言葉を紡ごうとするが、直前に上空から焔が吐かれた。
大質量の火焔が無防備な二人を襲うが、横から飛来した一本の長い棍によって防がれた。
龍王クラスの火炎をまともに受け止めて傷一つ無い棍は回転しながら、樹の影から出てきた三国志の武将風の姿をした男の手元に戻った。
「おいおい、空ぐらい警戒しとけっての。タンニーンが現れたぜぃ」
「周辺には結界を展開していたのに、こうもあっさりと術を破るなんてね。これだから空気が読めない男は嫌いにゃ」
空中高くから風を切る音が聞こえた。
タンニーンが降り立ったのだ。
「ふん、パーティー会場から焦って出ていく小猫嬢を見かけて後をつけてみれば。貴様らは″禍の団″か。捕まえてサーゼクスに引き渡してやる!」
「おうおうおう! やってみろ、タンニーン!! 俺っちは美猴! 宜しく頼むぜ、ドラゴンの大将さんよぉ!!」
「小僧が、図に乗るな!!」
叫ぶ美猴の足下に光輝く雲が出現し、タンニーンへと一直線に飛び出していく。自由自在に棍を操り巧みに攻撃を加えようとするも全く当たらない。彼が体勢を崩した直後に本気のブレスが叩き込まれる。
一瞬の輝きと共に森が焼失した。空が赤く染まり、地には大穴が抉じ開けられる。それがかつて龍王に数えられたドラゴンの実力だ。
まるで隕石が衝突したかの如く全てを更地にしたが、肝心の美猴自身は、多少の砂埃煙こそ浴びているが目立った外傷は見当たらない。
「あぶねぇ! やるじゃないの!」
「孫悟空の末裔が何を企んでいる!」
「知りたきゃ俺っちに勝つことだねぃ!」
「ほざくな、猿が!」
繰り広げられる孫悟空と龍王の戦闘。触れた物を燃やし尽くす焔から小猫を庇いつつ、黒歌は魔力を練り始める。
「姉様っ!」
「大丈夫! 私達は元龍王なんかに負けないから!! 白音は私の後ろに隠れてなさい!」
「──はいッ!」
炎の熱気を感じながら、小猫は姉の背中に身体を預けた。
▼白と黒▼
闘戦勝仏と恐れられた孫悟空の末裔、美猴。
元龍王の肩書きを持つ最上級悪魔、タンニーン。
神話を越えた二人の戦いは、木々を散らしながらより激しく加速していった。
「イィィヤッハァァァア!」
「猿がちょこまかと動きおって!」
「そう言うお前もデケェ身体して中々に速い! こっちの攻撃を紙一重で避けてやがるぜぃ!」
美猴が如意棒を構えながら得意気に冥界の空を飛び回り、対するタンニーンがそれを追跡する。風を斬る攻防が繰り広げられる空中を、黒歌は妖力を練りながら観察していた。その背中には、実妹である小猫が不安げな表情でもたれ掛かっている。
先程の謝罪もあって背中に触れてくる程度には関係が修復されたが、まだ動きにはぎこちない部分も見えた。長年に渡るすれ違いは完全に溶けたわけではないが、つまり昔のように笑い合える余地が残されているということでもある。
とはいえ、仲直りに至るにはこの戦場を生き残らなければならない。
黒歌は固く手を握り締める。
「やってやるわよ。妹を守るときのお姉ちゃんパワーは最強なのにゃ!」
音が停止し、風が消え去る。幾百幾千もの東洋文字を描いていく黒歌を中心に、巨大な渦がゆっくりと動き出した。何万年も生きてきたであろう生い茂る森林から、その樹から顔を出す小動物達から翡翠の生命力が吸いとられていった。
うねりを見せながら文字の集合体たる黒曜の魔法陣が彼女の足元に染み渡って行く。
その異変は全員が察知した。馬鹿げた質量の妖力は他ならぬ黒歌自身の、上級妖怪としての力だ。
耐性の無いタンニーンや格闘技術の向上に才能を費やし妖力から目を逸らしていた小猫は嫌悪感を覚えたが、自身も妖怪であり彼女以上の仙術の使い手でもある美猴に目立った反応はなく、それどころか自分の近くを通っていく生命力を摘まみ食いする始末である。
「なんだ、あの小娘!? 急に力が上昇している!」
タンニーンは絶大な妖力に気を取られた。戦場においてその隙は致命的で、瞬き一つの間に美猴が詰め寄る。
「食ったら力が湧いてきた! 必殺技をぶっぱなしてやるぜぇ!」
そう叫ぶと彼は拳に妖力を迸らせ、自身の身長を越える大型の術式を造り上げた。
大技を発動するのか。経験豊富なタンニーンは咄嗟にガードしようと腕をクロスさせる。その間にも術式は光を増して金色に輝き、それに呼応するかのように如意棒も色を朱から黄金へと塗り直した。
そして攻撃を正面から受け止めようと身構えるタンニーンの顔に、
「ぐわぁっ!?」
大量の砂が投げられた。
「眼が、俺の眼がっ! 何も見えぬぞ!!」
苦しそうにもがくタンニーン。その前には悪戯な笑みを浮かべた美猴が砂まみれの拳を広げていた。術式は消え、如意棒も元へ戻っている。ケラケラと笑い声が聞こえた。
「どうよ、俺の二千個の必殺技の一つ! スペシャルミックスの目潰しは!」
「クソ猿めが! 殺してやるぞ!!」
「およよ、怒ったねぃ。カルシウム足りてるのかよ」
砂が取れていない眼を擦りながら叫ぶタンニーン。その様子を楽しんでいた美猴だが、不意に笑みを消した。純粋な殺意を帯びながら告げる。
「二つ、訊きたい。どうして黒歌と一緒に白音ちゃんまでも攻撃した?」
「あれは威力を抑えた牽制だ! でなければ、あの時点で小娘共々火炎にまみれて死んでいる!」
「どうだかな。お前はかつて龍王とまで称された元ドラゴンだ。転生したのも同胞を守る目的に過ぎない。本心では悪魔の一人や二人どうなっても構わない、そう思ってたんじゃねぇの?」
「……」
「ま、お前の本心なんか俺っちは知らんけどな。では二つ目だ」
普段のふざけた笑みに表情を戻し、彼は告げる。
「──さっきから俺にばかり注意を向けてるけど大丈夫かねぃ?」
光が収まった。それは嵐の前の静けさだ。巨大な魔法陣ははち切れんばかりに膨れ上がっており、その照準はタンニーンに向けられている。
「……姉様」
「なにかにゃ、白音」
小猫は、震える姉の手に自分の真っ白い手を重ねた。小猫と比べると彼女の手は大きく、とても頼りに、そして儚く見えた。
「もう離しませんから」
だからこそ、小猫はその意思を込めてしっかりと握った。もう震えはなくなっていた。言動の意味が分からずに黒歌はしばらくキョトンとしていたが、やがて気付いた様子で微笑む。
「いくよ、白音!」
「はい、黒歌姉様!」
──風が切り裂く。水が穿つ。雷が駆ける。焔が迸る。集え、八百万の森羅万象。見えざる力を持って我に道を示せ。
翠、蒼、黄、紅。
四色の妖力が黒歌の周囲を飛び回り、天に跡を描いていく。雄大で美しいその姿は見る者を圧巻する舞踏のようだった。四色は混ざりあい銀となり、そして純白の滴が最後に染みることにより、銀は金色へと昇華されていく。金の光はとても暖かだった。
小猫は涙を流した。傷だらけの過去が癒されていく心地よさを感じたからだ。
この光は、楽しかったあの頃を羨む光でもなく、真実を悟ったこの瞬間を嘆く光でもない。
姉と描くこれからの未来を夢見る暖かさだ。
──我らは導きし者なり。
二人の透き通る声が、拡げられた東洋文字を順に詠う。そして全てが読まれ、絶望が覗いた。
「「──
黒と白が入り乱れた螺旋の閃光。銀雷を纏いながら直進する莫大なエネルギー凝縮体。
迫りくる閃光を目前に、タンニーンは翼を展開し避けようとするが、不意にズキリと視界が揺れた。離れた場所に避難した美猴が砂まみれの手を見せびらかしていた。
「残念だが、お前が浴びた砂は俺の妖術仙術ミックスで強化された特殊な代物でな。一瞬だけ強烈な頭痛を引き起こすんだ。でもその一瞬は致命的だろ? ──じゃあな、ドラゴンの大将さん」
「無念……っ!」
全身を切り刻まれ、焼かれ、そして散らされるタンニーン。やがて墜ちてきたのは焼け焦げた肉片だった。
息を吐きながら膝を突く黒歌。咄嗟に小猫が抱え、木陰へと連れる。心配そうな顔の妹を見ながら、彼女は荒い息を吐く。
「……で、白音はどうする?」
″禍の団″に加入するのか、否か。
タンニーンに乱入されて聞きそびれたが、しかし今は邪魔者はいない。小猫は瞑目した後、口を開いた。
「私は、イッセー先輩の真相が知りたいです。でも、このまま調査を続ければ間違いなく私も殺されてしまうでしょう。今回の一件は、きっと上層部や魔王様が絡んでいるんです」
「なら……っ!」
白い頭がゆらりと揺れた。
「私は姉様のところに帰るだけです」
やっと言える。随分遠回りをしてしまった。だからこそ、こんなにも嬉しい。
「……おかえり、白音」
「……ただいま、姉様」
木陰の中で姉妹は笑った。涙を流す黒歌の耳元で小さな魔法陣が赤く点灯していた。