ここはきっと巡ヶ丘に残された数少ない楽園。
いや、楽園と言うには少々足りない物があるけれど。それでも外と比べればそれぐらいの価値はあると言える。
楽園に必要な物。それは緩やかな一日、飢えることの無い生活、そして苦痛からの解放。
さあ、今日も一日が始まる。
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圭にとって佐倉慈とは、すごく変わった先生である。
「どうかしたの?」
「あの…いえ。何でもないです」
「……?」
何の躊躇もなくキャベツを丸かじりしている慈に対して「食べにくくは無いのか」とか「芯も食べるのか」等を聞きたかった圭だったが、周りの先輩方…由紀と悠里と胡桃の三人が何とも思ってないような。まるで日常の一部だと言わんばかりの無関心に質問することが凄く気まずい事に感じたからだ。
おろおろする圭の視線があっちに行ったりこっちに行ったりする内にも慈の手の上からはキャベツが消費されて行き。そしてとうとう何もなくなった。青みの強い葉っぱから芯まで全部、である。
「どーしたけい。丸かじりは嫌か?」
「いえ、そうじゃなくて……やっぱりそうです」
「んん?」
そんな姿を見た胡桃がトマトを丸かじりしながら圭に質問した。トマトの丸かじりくらいなら圭もたまにやっている。しかしキャベツ丸ごとというのはいくらなんでも…。圭は自分の両手に包まれているトマトを見ながら「はぁ」とため息を吐いた。
佐倉慈はすごく変わった先生である。そして先輩方はそれに感化されている。
「どういう事なの…」
それが圭の心の中であった。
圭は慈のアレさ加減がどのくらいなのか観察してみることにした。直接聞こうとしてヘタレた訳ではきっと無い。
都合よく今日はバリケードの範囲を広げる予定で、皆でバリケードの前に集まっている。胡桃はスコップを握っていつでも対応できるよう待機し、悠里は針金を持ってバリケードの補強を担当し、由紀は圭の肩を抱えながら見学だ。ちなみに太郎丸は由紀の頭の上で丸まっている。
「じゃあ、皆?安全第一で作業しましょう!」
「はーい」
「おっけー」
そして噂の佐倉慈はバリケード用の机を四つほど軽々と抱えてのっしのっしと歩いていた。ちなみに学習机とはひとつあたり大体7kg前後である。単純計算で28kgくらいだ。
「ええー……」
圭は口をあんぐり開けて音を漏らすことしかできなかった。体格の良い男でもこれだけの重量を抱えて歩くのは辛いだろう。だというのに慈は片手に机ふたつというよく分からない事をしている。おまけにふら付く様子も見受けられない。一歩歩くたびに緩やかに上下する机がとてもシュールだった。
「この先生体おかしい……」
それが今の圭の心の中であった。
圭は自分の中にある常識を投げ捨てた。キャベツを丸かじりしたり机を四つ抱えて悠々と歩く女教師がいてもいい、自由とはそういう事だと考えるようにした。
分からないことは考えないことに限ると、バリケードの設置が終わった後に由紀の肩を借りて廊下を歩いていく。
「けーちゃん、今日もピアノ?」
「うん、なんだかすごく弾きたくなっちゃって」
主に現実逃避するために。
そろりそろりと廊下を歩いていく二人だったが、ごそごそという何かを漁っているような音に足を止めた。
音のした方を見ると女子トイレがある。
「……ちょっと覗いてみる?」
「な、なんだか嫌な予感がするけど」
由紀の提案に消極的な賛成をした圭はそっと女子トイレの中を覗き込んでみた。そこには。
「うん……完璧(パーフェクト)」
熊の着ぐるみの頭部分だけを被って鏡の前でポージングする佐倉慈そのひとがいた。あーめぐねえコスプレしてるーといった声がいやに遠くに聞こえる錯覚を感じた圭はとっさに目を逸らす。
「離れましょう、由紀先輩」
「え?なんで?」
「いいから」
動かないはずの足が動くくらいの力強さを持って由紀を引き摺る圭。熊のかぶりもので何がしたいのか、一体どのあたりがパーフェクトなのかいろいろと問いただしたかった圭だが、今思う事はひとつ。
「まともなセンスじゃない…」
これに尽きた。
「おーすごーい!」
「ワオーン!ワンワンワンッ!」
由紀と太郎丸が興奮したようにピアノを見つめる。それもそうだ、トルコ行進曲を腕が三つあるのではないかと聞き間違うほどの音を重ねながらピアノを弾いている圭の姿があったのだから。
それはもう頭を振り乱しながらの連弾もかくやの演奏である。気分はロッカーだ。圭は今、常識という殻を破り新しい自分へと生まれ変わろうとしていた。
そしてクライマックスまで弾ききり、息を切らした圭は突然顔を鍵盤に押し付けるようにして突っ伏す。
「なにやってんだろ私…」
感情を鍵盤に叩きつけた後の虚無感に圭は頭を振り、ピアノに視線を移す。そこには夜想曲の楽譜が掛かっていた。
「やそうきょく…ねえ?」
圭はさっきまでの気分を払拭するためにピアノを弾き始める。夜想曲とはゆったりしたテンポの曲で、行進曲のような激しさは無い。緩やかなテンポは心を落ち着かせ、体は不思議と揺れていた。
終始一本道のような曲だがこれはこれでいいものかな?と圭は感じながら楽譜を見る。これは夜を想う曲だが、私は何か想うべき存在があったのではないか。圭の心が揺れ、瞳も濁り。曲もゆるやかなテンポから早鐘を打つ様な不自然なテンポに変わっていく。
「けーちゃん、何かあったの?」
「──はっ!」
突如掛けられた言葉で集中を切らした圭の手元が狂い、ピアノが不快な音を鳴らす。顔を上げた圭の目の前には心配したような顔の由紀があった。
何かを考えていたはずの圭だが、頭の中が無理やり塗りつぶされたように真っ白になる。しばらくの間は圭の口から空気が漏れるだけの音が続き、突然うつろな瞳に生気が戻った。その顔は普段の通りの困ったような笑顔だ。
「なんでもないよ」
「ウソ」
「……え?」
突然の由紀の反論に圭の思考が止まる。
「けーちゃん、なんだか焦ってるし、寂しそう」
「そんなことないよ」
「ウソ」
「……」
圭は何が何だかわからない。だって、圭は本心を言っている
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キャベツ丸かじり級のバイタリティ、約30kgの荷物を長時間運んでも息ひとつ乱さないタフネス、スペシャルでパーフェクトなセンス。今日一日で得た佐倉慈の情報はそんなものであった。
「…寝よ」
夜の静かな時間になると余計な事ばかり考えてしまう。圭はタオルケットを頭から被って全てを忘れることにした。
そういえば何か大事な事忘れてなかったっけ?そう思うも、圭の思考はだんだんと睡魔に蝕まれていく。
だが。
圭は眠りから突然目を覚ました。
「───…ッ、かはっ!」
ひどく呼吸が苦しい。焼けるような喉元に手を当ててみるも何もない。やがて呼吸は正常に戻って行き、早くなった心臓の鼓動だけが名残として残った。
「まさか、無呼吸症候群?」
はぁはぁと若干荒い呼吸をしながら、辺りを見回す。少し騒がしくしてしまったが誰も起きた様子はなく、静かなものだった。枕の横で丸くなって眠っている太郎丸なんかはスピスピと寝息を立てている。
「野生はどこにやったのよ…あれ?」
太郎丸を撫でながらもう一度寝ようとした圭は違和感を覚えた。月明かりだけの薄暗い部屋を見渡すと一つだけ使われていないマットレスがあったのだ。それは慈の使っていたマットレスだった。