「さて、どうしたものかな……」
ドリブルをつきながら、僕はひとりごちた。
先ほどの第1Q前半に陽泉高校に奪われた点差を埋められなかったのだ。無敵モードである『変性意識(トランス)状態』に入ったにもかかわらず。
相手の守備陣形は2-3ゾーン。そのために一人を抜いたところで、インサイドには常に相手センターが準備万端で控えているのだ。『キセキの世代』に匹敵する実力者、氷室辰也を完封することには成功しているが、その先が続かない。1on1専用の能力であるがゆえに、氷室を抜いた後には無力となってしまうのだ。
――だが、その弱点はわかっていたことだ
僕の目の前で見事なディフェンスを見せている氷室辰也だが、彼の存在を知ったのはこの陽泉高校に到着してから。連絡を入れてなかったので、今回の試合に敦が出てくるかは分からなかったが、それに関してはどちらでもよかった。陽泉との練習試合を組んだ理由はひとつ。
対ゾーンディフェンスの戦術を身に付けることである。
敦が入学する以前から、陽泉高校はセンターの岡村を中心にインサイドの強さで全国に名を轟かせていた。純粋な高さで勝る相手への対処法を、ウィンターカップの前に確立しておく必要がある。
視線をリングへと移す。いつも通り、その視界は曇りガラス越しのようにぼやけていた。距離感は最悪。訓練を積んだフリースローならばともかく、この視力でミドルシュートはあまりに無謀だろう。立ち位置だけで距離感を把握できるほどに、僕はジャンプシュートに精通していなかった。
「ま、対策は考えてあるが」
――氷室の一瞬の隙を突いたドリブル突破。
「くっ……!」
相手の最も反応の遅れる瞬間。それを完璧に掴んだドライブでゴール下への侵入を果たす。そのまま切り込んでいってレイアップ。だが、それを許すほど甘いゴール下ではない。
「させるかいっ!」
主将の岡村が2mを超える長身を生かして僕の前に立ち塞がった。『変性意識(トランス)状態』によって、僕の意識は氷室相手のみに調整されている。つまり、現在の僕はただの視力が著しく落ちている一般選手も同然なのだ。当然、これだけの身長差を覆して、相手のブロックを阻止することなどできない。だが――
「僕はPGだよ。役割は――パス回しさ」
――永吉へとパスを放つ。
「ナイスパス!」
上機嫌な永吉が大声で叫ぶ。僕に対応するためにカバーにきたセンターの岡村。それによって空いたスペースにパスを通したのだ。そのまま、永吉が豪快なダンクを決める。
「相手は『無冠の五将』根武谷永吉だよ。そう簡単にフリーにしちゃ駄目だろう?」
ここから、戦況は洛山優位へと傾いていく。絶対の確率で成功する侵入(ペネトレイト)。それにより起こる必然。つまり、ゴール下における僕と永吉を相手にした2対1の局地戦である。いくら陽泉高校の主将、岡村とて『無冠の五将』とのマッチアップに加えて僕のカバーでは、十全な守備など到底望むべくもなかった。
「させないっ!そう何度も抜かせるかよ!」
自身を奮い立たせるように叫ぶ氷室。ここまでの攻撃のほとんどは、彼が1対1で抜かれることから始まっている。これほどの屈辱は無いだろう。ギリッと唇を噛み締めるのが見えた。その立ち位置は通常よりも大幅に後方へと下がっている。
「へえ、さすがにこれだけ下がられると厳しいね……」
ドライブを最警戒したポジション取り。ここまで大きく僕との距離を離されては、わずかにできた隙を突いたとしても抜ききるのは至難だろう。だが、僕は薄く笑みの形に口元を歪めた。
「だけど、ゾーンでそこまで下がったら――あまりにも無警戒じゃないか」
「しまっ……」
余裕を持って左へとパスを回す。それを受け取るのは洛山高校のSG、実渕玲央。真太郎さえいなければ、まぎれもなく当代一の3Pシューターである。
ゾーンディフェンスの欠点として、アウトサイドからの攻めに弱いというものがある。外の選手のチェックを担当する氷室がそこまで下がってしまえば、3Pに対しては無防備になる。『無冠の五将』と呼ばれた天才シューターにそれは失策だ。
「私のこと、忘れてない?」
「これだけノーマークなんだ。玲央が外すなどありえないよ」
無人の3Pエリアで悠々とシュート体勢に入る玲央。深呼吸する時間の余裕すら残っており、十分に狙いをつけて、最大限に精密にボールを投げ上げる。万全なタイミングで放たれたそれは、リングにかすることすらなくネットを揺らした。
「あまり甘く見ないで欲しいわね。100%なんて大言壮語はできないけれど、万全の体勢で撃てれば外す気はしないわ」
不敵な笑みを浮かべて、玲央は言い放った。
カットインを警戒して下がれば玲央の3P。アウトサイドを警戒するために守備範囲を広げれば、僕のドリブル突破の餌食となる。僕を起点にして始まる攻撃パターンはその後も止まらなかった。ディフェンスに関しても、エースの氷室を完全に抑えきったため、相手のオフェンスは精彩を欠かざるをえない。たしかに陽泉のインサイドは強力だが、『無冠の五将』根武谷永吉が支配するゴール下で得点することは容易ではない。結果、インサイドに頼りきりの攻めは、何本かに一回は止められることになる。得点差はじりじりと広がっていった。
――だが、第4Qに入ってそのパターンにも対応され始めた。
「隙だらけだよ」
数え切れないほどに繰り返された氷室からのドリブル突破。幸いなことに、大輝のような常識を超えたレベルの急激な進化は起こらないようだ。まあ、自身の隙を無くすなんてことは、言うは易く、行うは難しだ。大輝は試合中に次々と弱点を克服していくという荒業によって対処されてしまったが、あんな例外を考える必要は無さそうだ。
そして、またしても彼を抜くことに成功する。
「もらった……!」
敵陣内に侵入(ペネトレイト)し、そのままレイアップの体勢に移行した。それに対して、センターの岡村がカバーに来る。そのまま、シュートをブロックをしようと手を高く伸ばした。僕はボールを上に放るように見せかけて――
「パスじゃろうが!」
――岡村の腕にパスを止められた
「なっ……!?」
永吉へと放ったパスは完全に読み切られた。カットされたボールを岡村が前線へとロングパス。速攻で走っていた氷室がそれを受けとった。そして、これまでの鬱憤を晴らすかのような、珍しく迫力のあるダンクでリングを叩きつけた。
「……さすがにレイアップと永吉へのパスの二択じゃ、最後までは行けないか」
肩を竦めて小さく嘆息する。元々、僕と岡村の身長差から考えれば、大きく反応が遅れない限りシュートをブロックするのは容易だ。であれば、永吉へのパスカットに意識を割くこともできるだろう。シュートとパスの二択を両方とも封じられたことになる。
「こうなると他のメンバーにパスを回すのが一番なんだが……」
現在の僕は視力の低下と共に、視界も著しくせばまっている。この位置からはすぐそばにいる永吉しか視認できないのだ。かつては僕自身が囮になって、コート全体を俯瞰してできた隙にボールを回すこともあったが、それはもう不可能だ。だが策はある。ゆったりとドリブルでボールを運びながら、仲間達に声を掛ける。
「お前達!僕がボールを持ったら、常に大声で居場所を教えてくれ!」
「ん?……ああ、なるほどな。了解したぜ」
「分かったわ、征ちゃん」
みんなが納得したように返事をする。そうだ。視覚が使えないのなら聴覚を使えばいい。それは僕の編み出した代替能力だった。
――『音源感知』
その精度を最大限に高めるための指示である。僕の研ぎ澄まされた聴覚が仲間達の居場所を教えてくれるはずだ。
――氷室の意識の隙を感じる
相手の意識に自身の意識を同調させる『変性意識(トランス)状態』。その間、全感覚神経は対戦相手のみに向けられている。その極度の集中ゆえに、『変性意識(トランス)状態』においては周囲の音は耳に入らないし、解いた直後は状況把握のために一瞬の隙ができてしまう。
「隙だらけだよ」
「くっ……」
意識の隙を突いて、氷室をドライブで抜き去る。インサイドへと強引に侵入。それに合わせて、僕の鼓膜を叩くように流れ込んでくる音の洪水。その瞬間、氷室のみに集中していた僕の意識が元に戻ったのだ。
「うおおおっ!何度も同じ事をっ!」
レイアップのために跳びあがった僕だったが、シュートコースは塞がれていた。ならば、永吉へのパスを……。
――そちらも岡村がカバーしていることを直感した。
「だとすれば、他のやつらにパスを――」
著しく縮小した視野範囲では、センターの永吉以外の位置を知ることはできない。ならばと、僕は聴覚に意識を集中する。『音源感知』によって、仲間達の居場所を把握しなければ……。
「ヘイ!」
「こっちよ、征ちゃん!」
耳に入る音を拾い集め、それぞれの位置を予測する。音源の位置と声の調子、言葉の内容など、処理しなければならない情報量は膨大だ。くっ……時間が足りなすぎる!?
「え、永吉っ……!」
「だからそれは届かんわい!」
苦し紛れに出したパスは、またしても岡村にカットされてしまう。しまった……処理に時間が掛かりすぎたのか。
「お、おい赤司。大丈夫かよ。2連続で止められちゃったけど……」
心配そうに小太郎が声を掛ける。それに対して、僕は問題ないという風に手を顔の前に上げた。
「オレのところから仕掛けようか?そっちの方が安心じゃん?」
「そうかもしれない。だが、もう少しやらせてくれ」
確かに小太郎のドリブル突破の方が得点率は上がるだろう。だが、この程度に対応できないようでは、『キセキの世代』相手に通用するはずがない。
とにかく『音源感知』の速度を上げれば。そう考えた僕はドリブル突破後、位置を把握するやいなやパスを出す。
「させないアル!」
だが、位置情報は掴めたものの、肝心のマークが外れていなかった。あっさりと2mの長身PFの劉偉にカットされてしまう。そのまま福井から氷室とパスが渡り、あの芸術的なドリブルによって単独速攻が決められた。
「……予想以上に難易度が高い。カットインから数秒以内での『音源感知』がここまで……」
拳をきつく握り締める。ドリブルで氷室を抜いた後、そこからレイアップまでの数秒間に仲間の位置を聞き取り、さらにノーマークの味方にパスを出す。それは尋常ではなく困難なプレイだった。僕の視力ではレイアップしか入らないし、かといってドリブル突破から速度を緩めれば氷室に追いつかれる。
「マズイな……試合の流れが向こうに行きかけている。陽泉に逆転の目が出てきたか」
次こそは決めなければ。これまでも僕は『音源感知』によってPGとしてパス回しを行ってきたが、しかしそれは継続的に仲間達の居場所を把握していたからだ。カットインからの数秒間でイチからの位置把握に加え、フリーかどうかの判断までするには時間が圧倒的に足りない。
「全感覚神経、全処理能力を総動員するしかない」
――集中、集中
再び氷室の意識に同調していく。ボールを受け取り、ハーフラインまでゆっくりと運ぶ。氷室のマーク範囲である、中央から少し左にズレたポジションに陣取った。さて、ここからが勝負。
「いつまでも、そんな一つ覚えでっ……!」
「無駄だよ。僕の眼にはきみの全てが見えている」
ワンフェイクで一瞬にして氷室を抜き去る。
「くっ……とても対応できない!?」
悔しげに表情を歪める氷室。どうやら、大輝のような馬鹿げた天才性を彼は有していないようだった。いや、試合中に自身の欠点を埋めるなんて芸当は他の誰にも無理だろうが。しかし、それによって第一段階はまたしてもクリア。
「問題はここから……」
「もう無駄だというのが分からんか!」
侵入(ペネトレイト)を果たした僕の前に、センターの岡村が立ちはだかる。あと1秒で接触。それまでに状況を聞き取らなければ――
先ほどまで氷室に向けていた意識を周囲全体に広げていく。切り替わった意識。大量の音声情報が雪崩のように襲い来る。
「ヘイ!こっちだ!」
「ここよ……パス!」
全員の声が耳に届くが、その情報を精査している時間がない。脳内回路をフル回転させる。はっきり言って僕も情報処理能力ならば人後に落ちないという自負がある。だが、それでもこの短期間での処理は厳しすぎる。
――どこだ、どこにパスを出す
心を合わせていない岡村相手に1対1という選択肢はない。だとすればパスを出すしかないのだが……。
フェイクのためにレイアップの体勢に入る。跳び上がった僕に対して、永吉へのパスコースを塞ぐようにブロックに入る岡村。ダメだ、やはり視界外にパスを回すしかない。もはや一刻の猶予も無いが、フリーの仲間の声を聞き分けている時間もない。万事休すか……?
――とっさに僕の腕は後方へとパスを放っていた。
「ナイスよ!征ちゃん!」
その先にはマークを外した玲央がピッタリと待ち構えていた。そのまま3Pを放つ。
「完全フリーで、外す訳ないでしょう?」
優美な放物線を描いて、ボールがリングを通過した。ベンチから歓声が上がる。
「よっしゃあああ!レオ姉、最高!」
小太郎がバンバンと玲央の肩を叩く。そんな光景を横目で眺めながら、僕は内心で首を傾げていた。
――さっき、出すべきパスコースが幻視されたような
中空から見下ろすような、俗に言う『鳥の目』のような。そんな視界で玲央へのパスルートがイメージされたのだ。
もう一度、確かめてみよう。相手に傾きかけた流れを切り取り、次の攻撃ターンに入る。僕からの連続スティールが止まったせいで、逆襲ムードに水を差されたように感じたはずだ。それを払拭しようと勝負どころのディフェンスで陽泉が仕掛けてくる。
「ここで引導を渡してあげるよ」
そう宣言すると、まずは氷室をかわしてのドリブル突破。だが、もはや相手にとっては分かりきったワンパターンだ。一息つく間もなく、迅速に岡村からのヘルプが送られる。そして、意識を氷室から外したことにより、周囲の雑多な音が耳に入ってきた。
――全神経を総動員しろ
先ほどの玲央へのパス。確かに、僕ならば聴覚だけの情報で精確なパスルートを導き出すことは可能だ。あのときの玲央の声音や息遣い、足音から、マークを振り切るために動き出すタイミングを読み取ることができただろう。味方と敵の両方の足音を聞き取り、居場所を把握することで空いたスペースを、玲央の性格や行動パターンを鑑みてフリーになりたがる場所を予測することも時間さえあれば不可能とはいえない。
その未来予測の結果があの幻視された予測線なのでは……?
「ぬおおおおおおっ!」
「最大限に知覚を鋭敏に。情報処理は無意識に……直感に任せる!」
――このパスコースは!?
どこにパスを出せばいいのか。そのパスルートとタイミングが脳内にイメージされる。心を通い合わせた仲間の未来予測、僕のやるべき最適解とは――
「キチンと決めろよ」
跳びあがり、レイアップの体勢から僕は――
――ノールックで自分の真後ろに、軽くボールを放り投げた。
「なんじゃと……?」
いつの間にか僕の背後から走り寄っていた小太郎の掌にボールが収まった。空中でボールを受け取り、そのままタップシュート。
「さっすが赤司!ナイスパス!」
狙い違わず、ふわりと投げられたシュートはネットを静かに揺らした。陽泉高校の面々に愕然とした表情が浮かぶ。完全に陽泉の流れは断ち切られたのだ。これで勝負はついたな。
「ようやく見つけたよ。『キセキの世代』に対抗できる二つ目の武器を――」
自信に満ちた笑みを口元に浮かべ、小さくつぶやく。両手をわずかに広げ、僕は体育館の天井を仰いだ。
1対1に特化した『変性意識(トランス)状態』の欠点を補う方策を見出したのだ。そう、心を合わせるという点においては、最も容易なのは相手選手ではなく、むしろ味方であるのは自明の理。共感深度こそ低いものの、短い時間で仲間達の意志を読み取る俯瞰状態での『読心術(リーディング)』。その極意の一端を僕はこの試合で掴んでいた。
――敵ではなく、味方の心に同調する、パス回しに特化した『変性意識(トランス)状態』のバリエーション。
「さて、ウィンターカップが楽しみだよ」