ざく、ざく、と音が鳴る。一面を白く彩った道の上で、一歩を踏み出す度に皮のブーツが確かな足跡を残していく。髪にかかる雪を払いながら巧は歩いていた。
「図書館て初めて来たけど、結構ぼろいなあ。地震でも起きたら一発で倒れそうだぞ」
この日、巧は地図を頼りに町にある知識の宝庫、図書館へと足を運んでいた。
図書館はこじんまりとした見かけと裏腹に中は本で溢れかえっていた。許されたスペースをふんだんに使い並べられた本棚には数えるのも億劫になるほどの数の本が敷き詰められている。棚と棚との間の距離は大人一人が入れば埋まってしまうほどのギリギリの隙間だった。はっきり言って狭い。狭すぎる。そんな空間は二階にも広がっており、唯一心休まるのは入口の読書用の広間だけである。ここだけは相応にスペースが確保されていた。
(ふー、今が人の少ない時間帯で良かった。そうじゃなかったらとんでもないことになってたな)
いるのは受付の若い女性と数名のスタッフ、そして僅かな客だけであった。もし人で混んでいたと思うと、暑苦しくて仕方がなかったろう。
巧は広間に分厚い本を数冊用意し、どこか古びた高級感のある赤い椅子に座った。
彼がこの異世界に飛ばされてからもう数ヶ月が経っていた。けれども未だに元の世界へ戻る算段はついていないし、その手掛かりすら掴めていない状態である。本当ならばすぐにでも探し出すのが当然なのだろうが、如何せん当時の巧はそれどころではなかった。見知らぬ世界での生活の基盤を整えるので精いっぱいだったのだ。
その過程で巧は永琳から様々なことを教わった。主な内容は日常生活に欠かせない言語や一般常識についてだ。しかし人一人が教えることのできるものなど限られており、日々の生活の合間だと尚更である。故に巧は自分自身で知識を吸収していくことを強いられることとなる。
二日前に「月姫」と呼ばれる者の存在を知った巧は、その吸収の手を政治や歴史の分野に伸ばすことにした。何故最初からそれを知ろうとしなかったかというと、あまりこの領域に興味がなかったというのもあるが、元々すぐにでも元の世界に帰るつもりだったので、余計な事を知る暇があるなら他に優先すべき事があるだろうと考えていたからである。
手に取った歴史書をまとめると、この国の成り立ちはこうである。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
遥か昔、この世界には大地を創り、海を創り、空を創った神が存在した。万物の創造神は身を安らげるためにある星を創った。それが今我々が生きるこの地球である。神は永い間ここで身を休めた。そんなある時、気まぐれで一つの生命を創り出す。外見は自分そっくりに、しかし自分ではないもの。それがこの世で最初に生まれた人間だった。興に乗った神はその他にも様々な生命を生み出した。獣は森に、魚は海へ、鳥は大空へと飛び出した。そして彼らはいつしか心を持つようになり、自分達で考えるようになる。そんな彼らの生を見るのが神にとって唯一の楽しみであった。
中でも自分と似た姿を持つ人間が神は大層お気に入りであった。神は数多く増えた人間の中でも、一番最初に創った者に自身の力を分け与えた。それはつまり、神と同じ力を持つことに他ならない。人類史上最初の個体であるその男は、多くの生物から崇められるようになり、彼らを率いる統率者となった。男は神が最初にこの星に降り立った場所を蓬莱山と名付け、そこを中心に国を創った。国名は【永遠に変わらぬ生命と繁栄を】の意味を込めて、『常世の国』とされた。
人は親たる神を崇拝し、神は子たる人を愛した。そうやって人と神は共に在った。
しかしある時、人間の中から神の言葉に疑問を持つ者達が現れた。ささいな疑問は不信に変わり、不信は反抗へと姿を変えた。その者達は神に対して、国に対して反乱を起こすも止む無く粛清される。神はその事実に大層嘆き、涙を流して悲しんだ。反乱者が死んだことにではない。彼らの中に芽生えた疑念の存在が恐ろしかったのだ。子に刃向かわれた現実は、神に猜疑心を植え付け、いつしか神は人間達はおろか、全ての我が子に恐怖を覚えてしまった。
神は地上を離れることを決意した。次なる行先は、地球の隣人たる月であった。人々は飛び立とうとする神を必死に止めようとした。ある者は泣きながら、ある者は雄叫びをあげながら、ある者は黙って見つめながら。けれども神は止まらなかった。神は光へと姿を変え、遥か天高く飛び去っていった。
こうして創造神は星を去り、夜空に浮かぶ月からこちらを見ているのだ。
残された人々は神の血を引く者達を頼りに生きていくことにした。蓬莱山を性とした一族は、世代ごとに一番力の強い者――つまり霊力――を頂点とすることにした。初代の王以降、その座は常に女が担うことになり、いつしか彼女らは創造神への敬意も込めて「月姫」と呼ばれるようになった。
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「月、か」
巧は窓から空を見上げた。あの向こうにある星には、本当に神様なんてものがいて、自分達を見ているのだろうか。そんなことを考える。
巧は本の中にある、ある一文に目を惹かれた。
『――月姫は、その美しい銀髪を棚引かせながら――』
(銀髪……)
巧には以前から曖昧な記憶があった。その一つが中学生時代に起こった両親が殺された時の記憶。そしてもう一つがこの世界に飛ばされ、穢者に襲われ死にかけていた時の記憶だ。
(前者はこの前の戦いで全てではないにせよ、殆どを思い出すことができた。父さんと母さんを殺したあのクソ野郎は今すぐにでもぶっ殺したいが、それはまず元の世界に戻らなきゃ話にならねえ。引っかかるのは、あの時のことだ)
穢者に八つ裂きにされ、喰われていたところを助けた誰かがいるのは確かだ。永琳が自分を救助した時にはもう誰もいなかったらしいが、誰かがいたのだ。今となっちゃ記憶も不鮮明だが、巧にはどうも女に助けられたような気がしてならないのだ。そして何故かその女の髪が、銀色に輝いていたような気もする。勘違い・気のせいだとしてしまえば簡単だ。しかし黒や茶ならまだしも銀髪など見慣れていない者が、髪が銀だと見間違うものだろうか?
以前聞いた話によると、月姫は創造神の血を引く故、神の銀髪を引き継いでいるらしい。だとすると、もし記憶が正しいなら、あの時巧を助けたのは月姫ではなかったのかという推測がたつ。しかし月姫は国の頂点に在る人間だ。
(ま、これはこれで無理があるがな)
けれども巧の中にはもう一つの推測があった。しかしこれが本当なら大変なことになる。巧はある女の姿を思い浮かびながら、考えを仕舞った。
選び出した本を全て読み終わる頃には、既に夕暮れであった。冬の空はすぐに暗くなる。もたもたしていたら晩御飯に遅れて永琳に小言を貰う羽目になるだろう。こういう時、電話という技術は便利だったよな、と巧はしみじみと思う。
「そろそろ帰るか」
巧は本を指定の場所に戻し、建物を出た。そのまま家路につくと、彼の前に三人の人影が立ち塞がった。
「蒼威巧。これが最後の通告だ。大人しく我々と共に来い。月姫様もそれを望んでおられる」
内一人がそう告げた。何の感情も籠っていない、まるで機械のような印象を受けた。
全員が同じ装束を身に纏っている。カラフルな色で染められたコートはお世辞にもセンスが良いとは言えない。これをデザインした者の感性はどうも自分とは合っていないようだ。彼らの表情はよく見えない。というのも、頭巾で顔を隠しているからだ。唯一見えると言えば口元だけ。そこから辛うじて性別の判断がつく。彼らは全員男性だった。
「お前らもしつこいな。何回来ようが俺の答えは変わんねえよ」
巧は小さな溜息を付いてそう言った。
「ならば実力で物言うしかあるまい」
「はあ? ちょ、ちょっと待てって!」
男達は携えていた武器を構える。剣、槍等の近接戦用武器が巧に向けられた。対して巧は腰にある剣を構える。以前蜘蛛穢者討伐の際に謎の男から譲り受けたあの剣である。
人と戦うのは初めてではないが、殺し合いは初だ。生死を掛けた重い緊張が心にずっしりとのしかかる。胃が痛い。けれど、ここで死ぬつもりは毛頭無かった。
鋭い眼光が交差する。
最初に仕掛けたのは巧から見て右側にいる男だった。槍を低く構えながら素早く突っ込んでくる。巧はそれを右手に躱し蹴り飛ばすが、すぐに追撃が来た。真ん中にいた男が飛び上がり、両手に持った剣を振り下ろしてきたのである。
巧はとっさに剣で攻撃を防いだ。しかし男一人分の体重がかかった攻撃を防ぐにはどうしても隙が生まれる。身動きの取れなくなった巧に三人目の男が攻撃を仕掛けた。巧は無理矢理体を捩じらせるが槍のように疲れた剣先は右脇腹に浅くはない傷をつけた。痛みは巧の生存本能に火をつけ、恐怖を怒りに変えた。
「こなくそ!」
巧は目の前の男の金的を怒りのままに蹴り上げた。
「うぎゃ!」
怯んだ男の腕を切り裂く。肉を切断する感触が妙に気持ち悪かった。永琳に貰ったコートに血が付いたが気にしている暇はない。巧はすぐさま体勢を整え、次に備えた。
三人目の男が切り返し、次なる一撃を見舞おうとしていた。巧は腕を失ったことで崩れ落ちそうな男を強引に引っ張り、三人目の男の方へ押し出した。
「わ、わ、わ」
「っ!? くそ!」
さすがに仲間を斬るつもりはないのか、男は押し出された仲間を避ける。しかしそれが痛恨の隙を生んだ。
巧は男を盾にしたと同時に大きく踏み込み、右斜めに斬り裂いた。斬撃は男の右手首を断ち、血がぼとぼとと零れ落ちた。巧は続けて男の顔面に力の限り拳を打ち込んだ。男はそのまま後ろに倒れ、動かなくなった。手首を失ったショックと間髪入れずに受けたパンチに気をやったようだ。
「うわ!」
次の瞬間、巧は突然の衝撃に吹っ飛ばされた。左肩が焼け付いたように痛い。倒れながら見ると、槍を持った男がこちらに向かって手を伸ばしていた。するとその手が僅かに光り出すのが見えた。
「くそ!」
慌ててその場から転がるように離れると、元いた場所が何かの衝撃を受けたかのように抉られていた。
「そういや、お前ら霊力使いだったな
槍の男は不気味ににやついている。どうやら霊力を光弾にして発射したらしい。中々厄介な手だ。残念ながら巧にはそんな芸当はまだできない。
「でもなあ」
こういうことはできんだよ!
巧の意識は体の内の流れに集中した。力の流れは体を伝い、剣へと宿る。力のオーラが刃に包んだ。巧は霊力を剣に纏わせ、構えた。元は穢力を払うための霊力だが、こうして纏わせることで物質にも効果があることが今では判明されている。これにより巧の剣は硬度共に切れ味を増している状態だ。
「行くぞ!」
巧は男へと飛び出すように駆けた。男は光弾を幾つも撃つが、どれも避けられる。
「何故だ!? 何故当たらない!?」
「真っすぐすぎんだよ!」
男の光弾は伸ばした腕に一直線上にしか飛ばない。位置の軸を変えてやれば避けることは簡単だった。
「貰ったぞ!」
光弾の射線上に巧が動いた。男はすかさず霊力を打ち込む。弾は完全に巧を捉えており、吸い込まれるように彼へ向かっていく。しかし、弾が巧を打ち抜くことは無かった。
「何!?」
巧は霊力でコーティングした剣を盾のように使い、光弾を弾き飛ばしたのだ。
「おら!」
急接近した巧は男の両手首を槍ごと切り裂く。男は悲鳴をあげながら倒れた。
巧はさっさと男達と距離をとる。近くにいてはまた何かされるように思ったからだ。しかし三人にその気配は無い。無力化には成功したようだ。
「はあ……はあ……」
全身が、心が静まっていくのが分かる。人を斬るのはこれが初めてだった。正当防衛と言えばそうかもしれないが、彼が確かな敵意を持って戦ったのは否定できない。人を、生の肉を斬る感覚というのはこんなにもぞっとするものなのか。巧はぷるぷると震える手を自覚しながら、怯えに浸った。
戦いの興奮が収まるにつれて、全身に走る痛みがよりはっきりと鮮明になっていく。巧はズキズキと痛む体を抑えながら座り込んでしまう。しかしそれは、まだ勝負のついていない戦いにおいては大きな痛手であった。
案の定最初に斬られた男がふらふらと立ち上がるのが見えた。その頭上には霊力を収束させて作った巨大な力の塊が浮いていた。
「なあ、何でいきなりこうなるんだ? お前ら、前までは話しだけで終わってたじゃねーか」
事実、町の霊力使い達は度々巧のもとを訪れては仲間に引き入れようと交渉してきた。けれど巧みにはその気が一切に無かったので、全て断っていたのである。しかしそれがどうしていきなり命を狙われる羽目になるのか。巧にはその理由が全然分からなかった。
「……先日、王都から連絡が来た。この件については全てこちらで預かる、とな」
「それがどうしたってんだ」
王都からということは、それは実質月姫からの命令と同義だ。
「月姫様はな、こう言いたいのだ。『お前達では役に立たないから別の者に任せる』とな……。これは死刑宣告だ。あの方にとって命令の一つもこなせない能無しは虫けら同然。有能な者は生かし、無能はすぐにでも切り捨てる。これがあの方の美学なのだ。ならば我々は死を告げられたに等しい。なればこそ、ここでお前を殺し、これを覆さなくてはならぬ」
男は必至の声色で語った。
「何だそりゃ……。結局はお前が死にたくないだけの話じゃねえか。何でそのために俺が死ななきゃならんわけ? ふざけんじゃねえっつうの!」
巧は重い体をゆっくりと立たせ、剣をとる。男を睨み付ける双眸には、燃え盛る命の炎が宿っていた。
「俺にはまだやらなきゃいけないことがあるんでね。ここで死ぬわけにはいかねえなあ!」
元の世界。
考えれば考えるほど、やらなければいけないことが山積みだ。だからこそ、死ねない。
覚悟は決めた。
「俺は、お前を斬ってでも生きる」
巧は決意と共に剣を男へ向けた。
「ふ……。そうでなくてはな」
男は更に霊力を集中させた。凝縮された高威力のエネルギー弾が巧を打ち抜くのを今か今かと待っている。
「食らえ!」
男がそう叫んだ時だった。
溜めに溜め込んだ霊力の塊がその場で弾けた。行き場を失ったエネルギーがあちこちに散らばるように消えていく。巧はその光景を呆然と見続けていた。いや、見続けることしかできなかった。何故ならば、敵の男の首が突然吹っ飛んだからである。
頭部を失った胴体は、夥しいほどの血を噴水のように吹き出しながら崩れ落ちた。頭はころころと転がっている。そこに移る男の表情は、自身が死んだことなど理解していないように思えた。
「おいおい困るよこんなとこで死んでもらっちゃ~」
妙に軽快な声だった。まるで何かを楽しんでいるかのように。
「あんたが蒼威巧だろ? 勘弁してくれよな~。ここでドンパチやってもらっちゃ俺らの報酬無くなるじゃん」
現れたのは、全身を真っ黒のコートで覆った男だった。髪は茶で、どことなくおちゃらけた雰囲気を持っている。巧と同年代か、少し上に感じる。
「だ、誰だ?」
巧がそう尋ねると、男はにっと笑った。
「俺達は『黒犬』。蒼威巧、お前を月姫様の命により拘束する」
その一言で男の背後から何人もの黒コート集団が現れ、巧を抑えつけた。怪我など一切考慮しないその乱暴さに巧は怒りを覚える。そうこうしているうちに鎖で手足を縛られてしまう。抵抗する暇などないほど、無駄の無い洗練された行為だった。
他にも現れた黒コート達は霊力使いの三人(厳密には二人と一つ)に向かい、生きている二人に止めを指していた。
「お、お前! 何だよこれは!?」
巧は地に這いつくばりながら叫んだ。『黒犬』と称された集団のリーダーと思しき茶髪の男は、面倒くさそうに答えた。
「だーから言ったろ? お前を捕まえるのが命令なんだよ。大人しくしないと、天国に今行くことになるよ?」
男の一瞬の殺気に巧は怯んだ。その様子を見た男は退屈そうに溜息を付いた。
「おーい。こいつの住居から交友関係とかいろいろ洗っといて。俺は長旅で疲れたから宿にでも行くわ」
「了解しました」
男は部下にそう伝えた後、すたすたと巧に向かって歩き出した。そして彼の目の前に来ると、思いっきり巧の頭を踏みつけた。
屈辱の味がした。
「ぐっ」
「俺はお前の名前を知ってるけど、お前は俺の名前を知らない。それじゃあ不公平だし、これから王都までしばらく一緒なんだ。特別に教えてやるよ」
男は獣のような獰猛な笑みを浮かべた。
「俺は
黒コートに刺繍された犬の紋章が夕日に照らされ怪しく光った。