2 満月の夜
――突然ですが、私蒼威巧はただいま絶賛逃走中でございます。
そう一人胸の中で呟きながら、巧はひたすらに走っていた。それこそ命を掛ける勢いで。いや、実際に命が掛っているのだが。
一体どれだけの時間と距離を走ったのだろうか。道は人が通れるようにと整備はされているが、砂利道なおかげであちこちにある石ころ(絶妙なうっとおしさ加減の大きさ)が邪魔になってしょうがない。左右を見渡せば道を挟み込むように見上げるほどの木々が長い長い隊列を組んでいる。
前方には同じように駆けている集団がいた。成人男性が四名、成人女性が二名と幼い少女が二人の計八名の集団だ。少女二人を除いた六人は全員武装しており、傷だらけで年季のはいった鎧を纏い、剣や弓などの武器を所持している。しかし今はそれらの出番は無く、それぞれの持ち主の元で静かに沈黙していた。
大人達は皆必死の形相で走っていた。少女達は先頭を走る屈強な男二人に抱えられながら固く目を瞑って縮こまっている。まあ、無理もない。なにせ巧を含めた九人の後方には、人を遥かに超える巨体を持った醜悪な怪物がいるのだから。怪物は獲物である巧らを追いかけている最中にも関わらず、その先の未来を想像してか見るに堪えないほどの醜い緩み顔を晒している。
彼ら全員そんな怪物に追い回されている最中であり、巧はいつの間にか見知らぬ集団と共に命懸けの鬼ごっこに興じていたのだった。
彼は前を走る数名がぎょっとするのも構わずに叫ぶ。
「どうしてこうなった!?」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
目覚めたのは鬱蒼とした森の中だった。
「ぁ……」
微睡みの中、巧はゆっくりと目を開ける。背中に当たる感触は硬く、目線の先にある空は快晴のはずだが、四方八方に伸び重なっている木々の葉に隠れ辺りは薄暗い。しかし不思議と彼の頭上だけには透き通るような青い空が見えた。太陽が彼だけを照らす。
木立の隙間から吹き入る涼しげで心地良い風が彼の覚醒を促した。それは自然と周囲の状況の把握に繋がった。
「……朝?」
見知らぬ場所にて目覚めた巧はただただ混乱の極みにあった。しばらくの間呆然としていたが、過ぎゆく時間が彼の記憶を呼び起こしていく。
「訳の分からん女に会って……そっから何があったんだ……」
直前までの記憶を思い返せば、それはそれは恐ろしく奇妙な体験だったように思う。あの血塗れの美女も一体誰だったのだろうか。血の付いた指先は無意識に唇に触れていた。巧は自身が闇に呑まれる前に感じた女の熱を何故か思い出していた。そして意識が途切れる前に見た彼女の涙も、頭から離れなかった。
頭の片隅では実はあの夜の出来事は全て夢だったのではないかとも思ったりもしたが、自身の血塗れの服装を見ればそんな考えは吹き飛んだ。
巧が次にしたことは夏菜ら一行に連絡を取ることだった。お互いの安否を確認して助けに来てもらいたかったからだ。しかしスマートフォンは通信制限でもないのに全くネットに繋がらない。巧は苛立ちよりも焦りを感じ始めていた。
結局のところ、巧はだるい体を起こし、歩き出した。
草を掻き分け、高低差のある地面を乗り越えながら約二時間ほど歩いただろうか。一先ず森を抜けることに成功し、そして目の前には明らかに人の手が加わった道が姿を現した。どこまで続いているのか分からないが、右を向いても左を向いても建築物は無く道の先は果てしないようだ。横幅はそこそこに広く、例えるならば二車線道路ほどである。
さて、ここでまた一つ問題が発生した。
「どっちに行けばいいのか」
右か左か、進むべき指針が無い以上非常に迷う二択問題だ。残念ながら手持ちのスマートフォンは全く役に立たない。一瞬迷った結果、巧は自身が右利きという理由で右方向へ足を進めた。なんとまあ軽い理由だがうだうだと悩むよりはいいだろう。そして非常事態はしばらく後に発生した。
どれくらい時間が経っただろうか。
とぼとぼと歩いていると、森の中から何者かの叫び声が聞こえてきたのだ。何だ何だと声がした方へ目を凝らすと、突然何人もの集団が勢い良く暗い森から飛び出してきた。そして彼らは棒立ちになっている巧を見つけると、何かを叫びながら彼の方へ走り出した。
うわっ、と巧は驚いたものの人と出会えたことは彼にとって喜ばしいことである。ここはどこだ、どっちへ行けば麓の町へ辿り着けるのか。そうした疑問を解消しようと彼らに近づくが、森の中から新たに姿を見せたものが。
それは約四メートルはある巨体の怪物だった。全身が赤黒く、体型は人間と似通ったものがあるが目が三つあるなどの特徴がある。怪物は集団を視界に入れ、そして巧に気付く。巧は一瞬奴と目が合った気がした。小集団は必死の形相で巧の隣を風の様に駆け抜けていく。怪物はまるで獲物を見つけたかのように嬉しそうに血だらけの口元を歪めた。時が止まった気がした。
次の瞬間、巧は何も言わず爆発的なスタートダッシュを決めた。何が起こっているのか分からないが、何が起ころうとしているのかは分かった。
「おいおいおいおいおい!!!!」
何だってんだよ! 巧はそう叫びながら走った。誰に言いたいのかは彼自身にもよく分からない。それは事情を知っているだろう前方の集団かもしれないし、後方から追って来る化物にかもしれない。はたまた自分をこんな状況に追いやった原因であるあの女にかもしれない。とにかく彼はこの理解不能な状況に翻弄されていた。
そして冒頭に続く。
逃走劇は未だ終わりを見せなかった。
決して短くない時間を全力で走り続けていた九人だったが、さすがにスタミナが落ちていきその速度は徐々に遅くなっていく。対して怪物は足の速さ自体は決して速くはないが、体力は十二分にあるようで速度の衰えを全く見せない。このままでは追い付かれるのは時間の問題であった。追いつかれた先の未来を想像してか、巧は表情を強張らせた。
「おい! おい! 聞こえねえのか!?」
巧は前を走る武装した男達に向かって声を掛ける。しかし彼らは何故か困惑した表情で巧を見た。それはまるで異国語を知らない外国人のようであった。
「あんたらその武器であいつをなんとかしてくれよ!」
「%~|¥&%$$#””+&*!?」
「ああ!? 何言ってんのか分かんねえよ! 武器だよ武器! そこにあんだろ!」
ほぼ逆ギレに近い形で怒鳴りながら巧は男達の背負う剣や弓を指差した。それを見て察したのか彼らは思いっきり首を横に振った。どうも戦っても無駄なようだ。
(死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬううううううう)
森の中へ逃げ込むことも考えたが、地形も全く把握していないので入れば迷うことは確実だ。加えて怪物が森から出てきたことを考えると逆に悪手だろう。残る手はこのまま逃げ切るか、奴を倒すかのどっちかだ。しかし現状ではそのどちらの成功も絶望的だった。
その時、怪物は唸るような声を上げ始めた。同時にバキボキと悪い予感しかしない音が背後で鳴る。
一体何だと振り返れば、無理矢理引きちぎられたドでかい樹木をこちらに構えた怪物が目に映った。巧が事態を理解したと同時に怪物は内蔵に響くような咆吼を上げ、投げた。高速で飛ぶ"槍"は放物線を描きながら巧の頭上を通過していった。
「避けろ!!」
しかし巧の叫び虚しく、"槍"は先頭の男を押し潰した。今の今まで生きていた人間があっさりと物言わぬ肉塊に変化する様を見て、彼はまるで胃をねじ切られるかのような気分を味わった。
男だったものから少し離れた所には少女が放り出されていた。肩ほどまで伸びた金髪は泥に汚れている。実は男は絶命する寸前に腕の中の彼女を一瞬で放り投げていたのである。そのおかげで少女は彼と同じ運命を共にすることは無かった。
少女は地面に激突した痛みに悶えておりなんとか起き上がろうとはするものの、小さな体には過剰なダメージだったようでその動作は遅い。そうこうしている間にも怪物はどんどん距離を詰めてきている。数名の大人達が少しでも足止めしようと怪物へ攻撃を仕掛けだした。どうやら彼らにとってこの二人の少女は重要な存在らしい。しかし彼らの攻撃は露ほどにも効かず、胴体を踏み潰され新たに二人が逝った。
理由は分からないがどうも奴の獲物は少女たちのようだ。怪物は真っ直ぐ少女へと向かう。
幼い少女は迫りくる脅威に顔面蒼白になり身動きが取れないでいた。特大の恐怖と焦りが彼女をパニック状態へと追いやっていたのだ。
「&%’+#!!」
「$%%#=!!」
彼女へと向けられた声があった。しかし次の瞬間にはその声が聞けることはもう二度と無くなってしまった。
少女の心は目の前の蹂躙によりもう限界だった。一人、また一人と仲間を無残に殺され、自分は恐怖にすくんで動けない。もう駄目だ、お終いだ。諦めが彼女を包む中、彼女の体が突然地面から離れた。
「がああああ!」
男の叫びが耳元で聞こえた。聞き覚えの無い声だが、少女には何故かとても頼もしく感じられた。
少女を持ち上げたのは巧だった。彼は重い腕に鞭打ち彼女を自らの右肩に抱えた。少女の顔が彼の背中にくるように、言わば「く」の字の形だ。額からは汗が吹き出ており、疲れからぜえぜえと息を切らしている。それでも歯を食いしばり走り出した。
当たり前ではあるが巧の速度はかなり落ちた。幼いとはいえ十歳ほどの子供でも数十キログラムの体重はある。それを片手で抱えているのだ。しかも少女が自分の反対側に目をやると、もう一人抱えられている者が見えた。紫がかった髪を持つもう一人の少女だった。彼女は荷物の様に脇に抱えられており、ぐずぐずと泣いていた。妹の生存に酷くほっとした少女だったが、同時に妹を守っていた男の存在を思い、涙した。危機はまだ去っていない。
二人の幼い子供を抱えながら走る巧。彼は思う。何故こんなリスキーな真似をしているんだろうか。ただでさえ体力が落ちていると言うのに、人を二人も抱えれば言外に怪物に喰われたいと言っているようなものだ。そいつらを助ける義理がどこにある? 落としてしまえ、放ってしまえ。そうしたらお前は助かるかもしれないぞ。心の中でもう一人の自分がそう囁く。それは非常に魅力的な言葉だった。しかし巧は言い返す。
「後味の悪いのは大っ嫌いなんでね!」
気付いた時には既に誰よりも先を走っていた。後ろで起こっている惨劇から少しでも逃れようと。大人達は既に事切れ、皆喰われている最中であった。怪物が餌に気を取られている間に巧は全力で走る。疲れなど知ったことか。こんなところで死んでたまるかよ!
少しして再び怪物が追いかけてきたようだ。金髪の少女が喚きながら巧の裾を引っ張る。それを受けて軽く後ろを見れば、怪物は怒りを露わにしながら追いかけてきていた。
「くっそおおおおお!!!」
守らなければならない存在は時に想像以上の力を与えてくれる。
両腕のか弱い温もりを強く抱き、雄叫びを上げながら、巧はさらに加速していった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
結論から言って、韋駄天の如く駆け抜けた巧の底力により怪物からの逃走は見事成功を収めた。
道はどこまでも一本に続いており、かと言って土地勘の無い森の中へ逃げるわけにもいかず、どうしたもんかと頭を悩ませていた巧。そこで彼に声を掛けたのは傍らにいる金髪の少女だった。彼女はここからの道筋を丁寧に説明してくれたが、言語の異なる巧に伝わるはずも無かった。
「ごめんな。お前達の言葉、分かんないんだよ」
その言葉に困惑しながらも幼い少女はほどなくして自分達の問題に気付く。彼女は幼いながらも聡明であるようだ。
考え抜いたあげく少女は巧を手招き、自ら案内人を買ったのであった。巧は未だ気絶している彼女の妹を抱えながら、後を追った。
それからしばらく歩き続ける中、夜も更けたので三人は足を止めざるを得なかった。冷え込む空気に震える姉妹。巧は大学時の経験で得た技術を活かし、何度か失敗するがきりもみ式と呼ばれる発火法で火を起こした。
きりもみ式発火法は単純に言ってしまえば、木の板の上に同じく木の棒を垂直に立て、下に押し付ける様に棒を回転させ摩擦力で火を起こす方法である。それにより点いた小さな火種を草で繋ぎ、盛大に燃やした。焚火のようなものだ。
三人はそれを囲みながら暖を取り、道中拾った木の実を食べ食欲と水分を少しでも満たそうとした。
巧はあれからも何度か話しかけるが、彼女らの言葉が日本語になることは一度として無かった。
「なんか、おかしなところに来ちゃったみたいだな、俺」
「……?」
巧の独り言に首を傾げる姉。妹はその横でうつらうつらと舟を漕いでいる。
それもそうだ。巧の知る世界では絶対に実在しないような怪物の登場。時代錯誤な武装集団。目の前の少女達の着物。伝わらない日本語。
ここはもしかしたら自分の住む世界とは違うのだろうか。そんなおかしな想像をしてしまうのも致し方なかった。
「そうだなあ。名前でも教えるか」
そうと決めた巧は体を二人に向ける。そして人差し指を自分に向けながら口を開いた。
「いいか。俺は、た・く・み、だ」
「?」
「名前だよ名前。た・く・み」
「た……?」
巧は名前の部分の時に己に指差しをすることでどうにかこれが自分を表しているんだと伝えようとした。
「た・く・み」
「た……く」
「た・く・み」
「た……く……み……?」
「おー、言えたじゃん」
ぎこちないながらも巧の名を呼んだ金髪の姉の頭を巧は撫でまわす。その横で紫髪の妹も「た、く、みゃ!」と続けた。
「お前起きてたんかい」
姉妹合わせてわしゃわしゃと撫でられ、二人は顔を見合わせぷっと笑った。それからしばらく森の中で巧の名が何度も響いた。二人の様子を見て味を占めた巧はそれから名が呼ばれるごとに少女達の髪をくしゃくしゃにした。幼い姉妹はそのたびにきゃっきゃっと笑った。
ほどなくしてはしゃぎ疲れた姉妹は眠りに落ちる。それに続く様に、巧も疲れ切った体を休めるため、泥のように眠った。
三人は夜明けと共に出発した。辺りはしんと静まり返っており、草木を掻き分け進む音しか聞こえない。巧はまるで世界に自分達しかいなくなってしまったかのように感じた。
日が目を出したとはいえ、その恩恵はまだ十分に地上には振り注いではいなかった。巧は体に撫でるようなひんやりとした風を受けぷるぷると震えている。これは冬の朝に近い感覚だった。巧はともかく、少女達にとってお世辞にも厚いとは言えない着物では耐えられるものではない。二人は昨晩から彼のコートとセーターでどうにか寒さを紛らわしていた。姉妹にとってそれは見慣れないものだったのだろう。最初に着るときは巧が着せてあげた。その分巧が寒かったが、男は耐えるものだ。
姉の案内に従い、瑞々しい緑の中を進むことおよそ半日が経った。水と飢えは集めた木の実でなんとか凌ぎ、黙々と歩き続けるとどこか既視感のある道へと出た。昨日見た道とは違い、少なくない人々が往来している。
彼らの多くが向かう先は、要塞の様に立ちはだかる堅牢な門だ。ちょっとしたマンションほどはあるその門の左右からは敷地内を囲むように壁が建てられている。そこから放たれるオーラは、何者からも守るというまるで守護神のようなものを感じた。
(あー。これはもう間違いない。間違いないぞお。夢だ、夢だと言ってくれえ……)
どうやらここは自分が知っている世界ではないらしい。
しかし現実は覆らない。
何はともあれ、今はこの幼い二人を親元に帰すのが目的である。巧が彼女らを気に掛けるのは単純に放っておけないと言う彼の性分もあるが、もう一つ狙いがあった。というのも、少女達と最初に出会った時、二人は護衛を付けていた。つまり、それだけの守るべき価値がある人物であることを意味している。ただの遊びの付き添いがあそこまで堅い装備を整えることは無いだろう。となると、彼女らの両親はそこそこの権力者ではないか、という推測が出来た。巧には少女らを無事に送り返すことで、恩人としてその一家の保護もしくは援助を受けれたらという打算的な思惑があった。成功するかどうかは、蓋を開けてみなければ分からないが。
少女達は故郷へ無事帰ってきたことに安堵し、巧は不透明なこれからを考え途方もない不安を感じながら、三人は門へ向けて歩き出した、そんな彼らを沈みかけの夕日がじっと見守っている。世界は間もなく、暗闇が支配する時間へと移ろうとしていた。
時間帯のせいか、人もまばらな街道を歩く少女二人の表情は喜色に溢れている。それほど家に帰れることが嬉しいのだろう。ぺちゃくちゃと話したり。二人して時折巧の袖を引っ張るなどして、早く早くと急かしたり。その活発さは幼い故なのか、とても疲労や空腹で疲れているようには見えなかった。
気が抜けていたことは事実だった。何せ出会えば死は確実である怪物から命からがら逃げだし、疲労困憊だったその逃避行も終わりがすぐそこだったのだから。
だから後ろから迫る存在に気付くのが遅れた。
「うぎゃあああ!!」
心を引き裂くような絶叫が辺りを走った。
悲鳴に驚いた周囲の人々が一斉に振り返ると、林の中から肉塊と化した男性を咥えた怪物がゆっくりと現れた。鋭い双眸が巧を捕えた。
「まじかよ!」
巧が妹を抱き上げ姉と同時に走り出したのと、怪物が歓喜のような雄叫びを上げたのは同時だった。
「走れ!」
言葉は通じなくとも、そこに込められた感情は共有できる。三人はひたすらに走った。
背後では突然の出来事に混乱し対処できなかった者達が、まるで暴走列車に轢かれていくように次々と挽肉にされていった。
懸命に逃げるも、疲労している彼らは呆気なく追い付かれる。そして怪物はその鋭利な爪を鋭く光らせ、獲物を切り裂かんとした。
「きゃっ!」
しかし巧が攻撃の寸前に妹を姉もろとも突き飛ばしたことで、三人は爪の餌食になることを回避した。命は助かったが、巧と姉妹は間に怪物を挟むような形で分断されてしまった。
目の前には怪物の巨体が。死は目前であった。
凶悪な悪魔は恐怖で足がすくんでいる姉妹には目もくれず、巧へと迫った。もはやこれまでか、と諦めかけたその時、怪物の足が止まる。
見ればその腕には数本の矢が刺さっていた。矢の飛んで来た方に目をやると、遠くない位置にある人里から大勢の人が出てくるのが見えた。彼らは誰もが剣や槍で武装しており、その中には弓を持つ者もいた。
しかし矢は堅牢な皮膚の鎧に阻まれ浅く刺さっており、大したダメージにはなっていない。加えて武装集団がここに来るまでにはまだ時間がかかる。彼らが巧を助けるためには、圧倒的に時間と距離が足らな過ぎた。それを理解しているのか怪物は気にすることなく巧へと足を進めた。その巨体の向こうには、抱き合い恐怖に身を包まれながらもこちらを案ずる少女の瞳が覗けた。
(……お前達も、ここで死ぬには、まだ早いよな)
何故か奴の狙いは自分だ。ならば自分がここを離れれば、怪物も追ってここを離れるのではないか。
そう考えてしまったのが、運の尽きだった。
「とにかく生きろよ!」
巧は吐き捨てる様に叫び、駆け出した。それは果たして少女らに向けた言葉か、それとも自分自身に向けたものか。当の本人ですら分からなかった。
疲労で鈍い体など知ったことか。俺は生きるんだ。アドレナリンが全身に滾り、限界を超えた力が彼の体を動かした。
巧は夕闇に沈もうとしている森の中に入る。それは孤立無援の逃走劇という無茶で無謀な茨名の道に進むことに他ならない。巧が通り過ぎるたびに木々が嫌にざわつく。彼にはそれが、お前は逃げられないという冷やかしのように思えた。
残された少女達は全身の力が抜けたかのように座り込み、巧が走り去った方角を呆然と見ていた。ほどなくして大勢の大人達が二人のもとに駆け付けた。彼らは少女達を心配する声を上げながら、周りの警戒を始めた。
金髪の姉は小さく呟く。
「た、くみ……」
男の影は、もう見えない。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
もうどれだけ走ったかも分からない。時間の感覚はとうに消え、あれからどれだけ経ったのかなど全くの不明だ。数時間かもしれないし、数日、もしかしたらたったの数分かもしれない。体の感覚はもはや消え失せ、巧はただ走るだけのマシーンと化し闇雲に森の中を突き進んでいた。
生きる為、背後の敵意から逃げ続けた。
そうしていつしか森を抜け、巧は一面に広がる
とうに振り切っていたのか、背後から怪物の足音は一切しない。周囲に気をやっても何かの気配はせず、辺りは静寂を保っている。
「っ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
絶対死ぬと思っていた。けれどもどうにか再び生き残った。押し寄せる疲れと安堵に押し潰されるように巧はその場に倒れた。全身の筋肉が強張ってズキズキと痛むし、喉はカラカラだ。とてつもなくコンディションは悪く、嫌になる。けれども今はその感覚が何故か心地良かった。
(マラソンとか、走り終わった後って、なんかこんな感じだよなー……)
優しい風が巧を撫でる。彼はただ、生きていることが嬉しかった。
(見たか、逃げ切ってやったぞこの野郎)
満月を見ながら思う。少女達は無事に家に帰れただろうか。あれだけの人数が町から出てたんだ、大丈夫だろう。残念ながら彼女らの家に恩を売ることはできなかったが、下手に庇って死ぬより断然マシだ。
今宵の満月はどうも張り切っているようで、瞼の向こうからでも光を感じることが出来る。薄に抱かれながら巧は静かに目を閉じた。少し冷たい風が気持ち良い。
そうして眠りにつこうとした時だった。瞼の奥で感じていた光が突如として消えた。反射的に目を開けると、そこには醜悪な顔の‘奴’がいた。どこか嬉しそうに見えた。
「っっっ!?」
一瞬で全身に恐怖が走った。
「うぐっ」
怪物はその剛腕で巧の頭を掴み、そのまま宙へ持ち上げた。頭を握り潰されそうな感覚にもはや力も声も出ず、巧は口を半開きにしたままぷるぷると震えるしかなかった。
それが面白いのか、怪物は愉快そうに目を歪に歪め、笑う。そしてもう片方の腕を動かした。次の瞬間、巧の両足はその機能を失った。同時に頭部の圧力が消え、巧は地面に落ちる。意識はもはや半分飛んでいたが本能で危機からの逃走を図る。しかし体は思うように動かなかった。
「あ……あ……」
激流の様に流れる痛みの中彼が見たのは、自身の足の付け根から出る夥しいほどの血と、怪物に食われている己の足だった。
「あああああああ!!!」
心の折れる音が聞こえた。
怪物は巧の両足を腹に収めると、地面を揺るがすような歓喜の咆哮を上げた。怪物にとってこれ以上に無いほどの甘美な味だったようで、骨の欠片すら残っていない。もっとこれを味わいたい。もっと、もっと! 溢れ出る食欲が奴を突き動かす。怪物はすぐさま巧に跳びかかり、その腕に喰らいついた。
全身をマグマのような熱が駆け巡る。感覚が死んでいっているのか、痛みは次第に感じなくなっていた。代わりに体が無くなっていく喪失感が胸を満たす。虚ろな目から涙が止まらない。
そして血濡れの牙が彼の胴体にかかろうとした時だった。
光が走った。
とても美しい銀の光だった。決して豪華ではなく、落ち着いた雰囲気の神秘的な光だった。
銀の閃光は怪物を吹っ飛ばし、消えた。地面に盛大に叩きつけられた怪物は苦悶の表情を浮かべ、空気を震わすほどの憤怒の絶叫が辺りに響いた。
怪物は起き上がろうとするが、上手くいかない。当然だ。既に下半身は失われているのだから。しかし、それでもと無理矢理這うようにして巧の方へと動く。そうまでして喰らいたいのだろうか。だが新たに飛んで来た光がその願いを撃ち砕いた。
光は怪物の頭部を貫いた。怪物は急に力が抜けた様に呆気なく倒れ、煙のように消滅した。後には何も残らなかった。
既に意識が朦朧としていた巧には一連の出来事は認識できなかった。彼が最後に感じることができたのは、闇夜に輝く光と、近づいてくる何者かの足音だった。
満月が二人を照らす。