長い間、暗く深い場所に沈んでいたような気がした。
何も見えない、何も聞こえない、何も動かない。そんな所だ。指先を動かす力さえも今は無い。
「空虚」
例えるならばその言葉が良く合っているように巧は思う。
そんな冷たい海の底のような場所に漂っていたのだが、いつしか僅かにだが全身に活力というものが湧き上がってくる感覚があった。体が熱い。けれども不快などではなく逆に安心するような熱だ。それと共に、暗黒だった世界に一筋の光が射した。
巧はそれに導かれるかのように、光に手を伸ばした。
瞼に振り注ぐ陽光に誘われ、巧は目を覚ました。
窓の向こうから射し込む温もりに安心感を覚えぼんやりとしていたが、直前の記憶を思いだしはっと勢いよく起き上がる。寝ていたようだ。
寝起きのせいかしばらく頭の中が不鮮明な状態が続いたが、時間が経つほどに靄が消し去られていく。記憶の奔流が脳を駆け巡り、鮮明になっていく。
「俺……生きてる?」
てっきり自分は死んだものと思っていた。
巧はポツリと呟き、視線を下に向ければ、あの晩、巧を襲った怪物に切り裂かれたはずの片腕があった。掌を握ったり広げたりを何度も繰り返すが、痛み等の異常はない。掛けられていた毛布を取ってみれば、やはり両足も健在だった。とすると、あれは夢か何かだったのだろうか。
しかしそんな想像とは裏腹に服装も変わっていた。見慣れた私服ではなく、上は白のロングTシャツ、下は灰色のズボンというどれも無地で簡素な作りのもので、全く見覚えの無い服だ。元々着ていた物はどこにも見当たらない。
巧は次に今いる場所を見渡してみた。
「ここは……」
どこかの部屋のようだ。五畳ほどの広さで、壁沿いに置かれたベッドに巧は寝ていた。家具らしい家具は他に木造の小さなオケージョナルテーブルと壁に立てかけられている大きな鏡しかない。寂しい部屋だった。ベッドの真横の壁には窓があり、その向こう側には心が洗われるような快晴が広がっている。
両開き式の窓を開いてみた。耳には空を飛びまわる小鳥の囀りが聞こえ、どこからか何やら美味しそうな匂いが漂ってきている。とても食指を動かされる匂いだ。
どれも夢では感じられない、まぎれもない現実であった。
「……夢じゃなかった」
巧は眼前に広がる景色を見てそう呟いた。
窓の向こうには建物が数多くあり、ここがどこかの町であることが分かる。しかしその中に巧の見慣れたビルやマンションといったコンクリート製のものはどこにも見当たらなかった。
見たところどの家もレンガで造られている。所々木造建築の建物が見受けられるものの、この町ではレンガ造りが主力のようだ。彼のいる建物は他のものと比べるとより高く、恐らく三階建てでここが最上階に当たるのだろう。眼下の道には大人から子供まで何人もの人が行き交っており、誰もが自分と似た系統の服を着ている。目の前の光景からは現代の匂いが一切しなかった。
ベッドから降りた巧は、自身の体に何も異常が無いことに驚いた。もはやどこがどう食われていたかなど覚えていないし思い出したくもないが、それでも五体満足では済まない状態だったはずだ。しかし壁に立てかけられた鏡を見ると、それに映る姿には傷らしい傷は一つも無かった。
オケージョナルテーブルの上には小さな荷袋が置かれており、中を見ると巧のスマートフォンと赤黒く汚れた革財布が入っていた。スマホの電源をつけてみると辛うじて充電は残っていた。しかし未だ圏外のままである。
巧は増々混乱した。一体自分に何が起こっているのか。傷が無いということはあの出来事は夢だったのだろうか。なら何故記憶にない場所にいるのか。諸々の不安を抱え、巧は部屋の扉を開けた。
その先は左右に伸びる一本の廊下に繋がっており、他にも部屋が幾つかあった。狭い廊下の先には下へと続く階段がある。恐る恐る降りてみれば、下の階は広々としたリビングで構成されていた。部屋の真ん中には大きめのセンターテーブルが置かれており、それを挟み込むように荷台の二人掛けソファが鎮座している。しかしそこには誰もいない。巧はさらに下へと降りた。
一階はどこかの部屋で窓を開けているのか、風通しが良かった。それに乗って鼻を擽るのは何故か薬品の匂いだった。
(ここは病院か何かか?)
三階よりは広くなった廊下を進み、手当たり次第に部屋を覗いていく。ある部屋には一帯を埋めんばかりの本が、またある部屋には数多くの怪しげな器具が巧を出迎えた。しかしどの部屋にもやはり人の気配はない。しかし家に生活の跡はある。一体家主はどこに行ってしまったのか。巧は適当にサイズのあった靴を履き、玄関を出た。
外へ出た巧に眩しいほどの太陽光が降り注ぐ。その暖かい光に、彼はまるで数十年ぶりに再会した友人のような安心感を感じた。
「さてと、ここからどうしようか」
この家の人間が帰ってくるまでこの辺りを散策しようと巧は考えた。自分が頼れるとするならば、助けてくれたと思われるここの住人だけだ。ならばあの家でじっとしておけばいい話なのだが、いつ帰って来るか分からないことに加えてすることもないので暇なのと、単純に好奇心からだった。
家に面している街道は疎らであるが人の行き交いがある。どちらに向かえばいいかなど見当もつかないが、行き先は気まぐれに任せることにした。幸いにして巧は地図の把握等は得意な部類なので通った道は大体覚えている男である。結果として真横に伸びる道を左に向かって進むことにしたのであった。
そして巧がその家を離れてから時間にして数分後、入れ替わるようにそこを訪れる一つの人影があったことに、彼は気づかなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
暑い日差しが降り注ぐ中、巧は市場のような場所にやって来ていた。彼が歩いているところは大通りとも言うべき道で、現在は多くの店を周っている人々で大混雑している。少し背伸びして先を見てみれば、道全体が人の頭で埋まっている状態だ。そんな彼らを見守るように、様々な店が肩を組むように敷き詰められている。街の活気は見た目通りの賑わいで、ここに辿り着いた当初は何かの祭りでも行われているのかと思ったほどだった。
その光景は巧にとっては、とても時代遅れに思えた。
呼び込みをする料理店や隣を歩く老夫婦の会話など四方八方から人の声が耳に入って来るが、何を言っているのか全く理解できない。いつか行動を共にした少女達と同様に言語は違うようだった。
「これどっから出たらいいんだよ……」
少しの散策を終えた後、目覚めた住居に引き返そうとした帰り際に寄った通りだったが、どうやら失敗だったようだ。こうも人がごった返していると進むも引き返すも困難で、巧はほとんど立往生を強いられていた。
そして困ったことに尿意を催してきてしまったのが運の尽き。しばらく我慢はしてきたが、最後の砦は今にも決壊を迎えようとしている。トイレの場所など知らないし、店に入って借りようにも言葉が分からない。
最終的に巧が考え付いたのは口がきけないという設定であった。最初は不振がられたもののジェスチャーでなんとか意思疎通に成功した巧は、穏やかな気持ちで用を足すのであった。
「ふぅ、何とか助かった」
案内してくれた店員に感謝の意を示し、店先に出る。
その時、目の前を行き交う群衆の中を一人の女が通り過ぎた。女はすぐに巧の視界から消えた。しかし一瞬のことであったが巧は彼女に強い印象を受けた。彼女からは他とは違う何かを感じさせる気配があり、それは例えるならば、枯れ果てた大地に一輪だけ咲く花のような。上手くは言えないが、彼女だけが何か違って見えたのだ。
すげえ美人だったな――巧はそう思った。僅かな時間であったが彼女が目も覚めるような美女であることは一目瞭然であった。特に目を引いたのは、漆のように真っ黒な長髪だった。
そうやって気を抜いていた時だった。
「うっ」
突然感じた衝撃に後退りする。小柄な影が逃げ去るように人混みの中へ消えていくのが見えた。なんなんだと思っていると、ポケットにあった感触が無いことに気付く。入れていたはずのスマホが無い。盗みだ。
「あいつっ」
明らかに先ほどの者の仕業だった。今のところ一切役に立っていないスマホだがあれは自分の持ち物である。使い物にならなくても私物を盗まれたことに非常に苛立った巧は犯人を追いかけることにした。
周りの迷惑そうな視線を無視して逃げた方向に人混みを無理矢理掻き分けていくと、やはり体格が小さくてもこの混雑では思うように動けないのか、犯人らしき人物を発見することに成功した。
好機だと巧が強引に近づいていくと、背後の僅かな騒ぎに気付いたのか人影は振り返った。まだ幼い子供だった。見るからに貧しそうな格好をしている。彼は己に迫る巧を見ると慌てた様子で逃げた。巧はそれを必死で追いかける。
考えていることは一緒だったようで、二人とも近くにあった通りから外れた通路へと出た。
「待てよ!」
路地裏を逃げる少年。しかし奥の角を曲がった際に人とぶつかり尻餅をついてしまう。彼が視線を上に向けるとそこにいたのは全身を筋肉の鎧で纏ったような男がいた。男は少年をゴミを見るかのような目で見ている。二者はまるで蛇と蛙のようだった。背後には仲間らしき存在が複数確認できる。
巧が追い付くと前方から少年が吹っ飛んできた。反射的に受け止めると、顔面には見るも痛々しいほどの痣が出来ていた。少年は苦しそうな呻き声を上げている。
前からは男達が何かを言いながら近づいてきていた。相変わらず巧には何を言っているのか分からなかったが、明らかにこちらを挑発しているような仕草を見るに、彼らは巧を少年の関係者か何かだと思っているようだ。察するに、敵を討ちたいならかかってこいなどと言っているのだろう。
すると突然背後から悲鳴が聞こえた。振り向くと小さな少女が顔面蒼白でこちらに駆け寄ってきている。彼女は巧の腕の中にいる少年に向かって必死に話しかけ出した。可愛らしい少女だが、格好は少年と同等の雰囲気だ。知り合いか妹かはたまた恋人か、なんにせよこちらが少年の真の身内だろう。
まだ幼いとしても女を見つけたからなのか、男達の目が卑しく輝いた。一人の軽薄そうな男が彼女の前に立ち何かを誘うような仕草をするが、少女は非常に怖がっており少年を強く抱きしめるようにして後ろに下がった。それは明確な拒絶であった。
あからさまに気分を害した風の男は強引に少女を連れ去ろうと、彼女の頭を掴む。髪を強く引っ張られる苦痛に顔を歪める少女、しかし決して少年を離そうとはしなかった。
痛みに耐え歯を食いしばっていた少女はそこで男の手から解放されることとなる。倒れた彼女が前を見ると、自身を引きずっていた男が苦悶の表情を浮かべ地面に屈している。その両手は何故か股間に当てられていた。
そして彼女を庇うように立つ、蒼威巧の姿がそこにあった。
巧は少女が強引に引きずられるのを見ると、男の金的に重い蹴りを喰らわせたのだった。その渾身の一撃は、男を屈服させるのには有効な手段だった。
仲間をやられた男達の強烈な敵意が巧に振り注いでいる。戦闘は避けられないだろう。そんな義理は無いのに何故己が二人を助けるような真似をしたのか、正直な所彼自身も明確な理由があったわけではなかった。
少年は巧に周りと比べてボロボロの格好と盗みを働いたことからそうまでしないと生活できないような環境にいるのだろう。それは少女も同様だと思われる。客観的に見れば、巧は盗人を助けるような真似はしなくていいし、男達が彼らをどうしようと関係ない。盗まれたものが返って来るならそれでいいのだ。
しかし、しかしだ。男に引きずられる少女が彼に向けた、救いを求める眼差しを無視することはできなかった。
結局は単純な話だった。巧は笑いながら子供をいたぶる男達が、単純に許せなかったのだ。
「せいっ」
巧の右足の蹴りが先の男の顔面に入った。男は鼻血を噴きだしながら後ろに倒れる。それを見たリーダー格の男が雄叫びと共に駆け出した。
まるで大木のような巨体が勢いよく突進してくる。その速さは見た目とは裏腹に素早く、巧はそれを受け止める様に対処するしかなかった。男の突撃は巧と接触してもなお止まることは無く、そのまま押し出す様に突き進む。そして二度目のタックルで巧は大通りにまで吹っ飛ばされた。
「うぐっ」
突き飛ばされた巧の体は大勢の群衆の中に落ち、何人もの人が巻き添えを喰らい倒れた。
リーダーの男は路地裏から姿を見せた。二人の男の姿を見た周囲はこれから起こることを察知し、素早く退散しようとしている。
彼の戦い方に小細工など必要ない。必要なのは鍛え上げた己の体のみ。唯ひたすらに殴り、蹴り、殴り、蹴り、殴る。それは誰が相手だろうが変わらない。男はそれで今まで何人もの人間を襲い、奪ってきたのだ。今のタックルで動けないほどのダメージを受けただろう。彼の経験がそう告げていた。
しかし巧は軽やかな動きで立ち上がった。不思議と痛みは少なく、余裕で耐えられるレベルだった。
「その筋肉、綿か何かでできてんのかい?」
聞いたことの無い言葉であったが、その口調は明らかに馬鹿にしたものだった。怒り狂った男が砲弾のような一撃と共に突撃する。常人が喰らえば命をも砕くその拳を、巧は正面から受け止めた。衝撃に押され後退するも、掴んだ腕は離さない。
「!?」
「おおお!」
左腕で男の腕を押さえながら、巧は大きく踏み出し、固く握りしめた拳を相手の腹にぶち込んだ。肉が潰れる感触がした。
「あっ……がっ」
激しい痛みに悶えながらも、男は力任せに巧の頭部を掴んだ。もがく巧だが、鍛え上げられた握力はそれに逆らう。両者とも互いの痛みに気を取られ、僅かな拮抗状態が生まれた。
「やあああ!!」
「!?」
そこで先の少女が男に攻撃を仕掛けてきた。どこで手にしたのか、その手にはナイフが握られている。刃がリーダーの男の脇腹に突き刺さった。
「うらぁ!」
痛みに苦しみながらも、男は少女を振り切るように蹴飛ばした。彼女は血を吐きながら地面に転がっていく。そして動かなくなった。
「お前……!」
煮え返る様な怒りとはこういうものだったか。
巧は刺さったままのナイフを掴み、思いっきり手前に引いた。肉を、繊維を切り裂く感触が気持ち悪い。血飛沫が飛び散る。脇腹を切り裂かれる痛みに耐えきれず、男は巧の頭から手を離す。すかさず男の足を蹴り払い、仰向きに倒れたところに乗り、固く握った拳を力の限り相手の顔面に叩きつけた。
何度か抵抗しようと攻撃を加えた男だったが、強烈な衝撃を目に何度も受け頭が真っ白になる感覚を味わっていた。そして遂には意識を失うまでになり、沈黙した。
「はあ……はあ……」
周囲が騒然と見守る中、血塗れの顔面に押し付けた拳を離し、巧は男の上から退いた。そのまま路地裏に目をやると、荒くれ者の取り巻きは激しく動揺した様子だった。無理も無い話かもしれない。負けるはずの無い仲間が無様にやられたのだ。巧が睨みつけているのを感じると、彼らは怯えた様に奥の暗がりへと逃げ去った。
一先ずの危機を避けた巧はすぐさま倒れ伏す少女に駆け寄った。生きてはいるが、浅い呼吸を繰り返している。幼い体に丸太でぶん殴るような攻撃を受けたのだ、このままではもしかすると死んでしまうかもしれない。それはどうやら向こうで他の人に介抱されている少年の方も同じようだった。
「誰か……っ!」
助けてくれ――と叫ぼうとしたが、ここが言葉の通じない所であることを思い出してしまう。どうしようかと周囲をきょろきょろと見回す巧の前に一人の影が現れた。
「&hs&#$%¥?」
言葉は分からない。けれどその口調はこちらを案じているもののように感じた。
巧はその人物に目をやった。
「あんたは――」
現れたのは、少し前に見かけた、黒髪の女だった。
ここまで会話らしい会話が無いとは一体どういうことなのか。