それは星一つ見えない夜のことであった。
重苦しい闇に抱かれながら死んだように眠る町の中に、息を激しく乱し何かから逃げる様に走る者がいた。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
どうしてこんな目に遭っているのだろう。
見かけは十ほどの歳だろうと思われる少年だった。何度も転んだのだろう、身体のあちこちを泥で汚しながら息も絶え絶えになりながら走っている。先日両親に買ってもらったばかりの靴はすでに泥だらけで新品の見る影も無くなっており、普段は子供らしいあどけなさがある顔が今は涙と鼻水がだらだらと流れており、表情は恐怖に彩られている。
こうなるはずではなかったし、こうなるなんて思いもしなかった。
少年を含め、四人の子供達は近所で評判の悪い集団だった。生まれた頃から交流のあるせいか考えることは似たようで、周りを顧みないことばかりをしてきた。近所の飯屋には無銭飲食で出禁になったし、市場で万引きをするなんて日常茶飯事だった。その度に各々両親に叱られてきたが、彼らが真に反省することは遂に無かった。
切っ掛けは今朝に仲間の一人が郊外の貧民街に入った話をした時だった。
貧民街はその名の通り、まともに生活できない者達や何かしらの理由で落ちぶれた富裕層の人間が行き着く場所の一つである。埃と蜘蛛の巣だらけの廃屋がそこら中に立ち並んでおり、見るもボロボロな人々が肩を寄せ合うようにしてそこに住んでいる。食べる物と言えば、市場で盗んできた物か、辺りに生えている雑草だった。人々は常に飢えに苦しんでおり、日の光から逃げるように暮らしていた。そこにはまるで世界の終わりを凝縮したかのような光景が日常的である。
彼らの心は荒みきっており、日々誰かの血が流れていた。故に町に住む人々は彼らは危険視しており、貧民街に近づくことは厳禁であった。そんな場所に仲間の少年が入り込んだという。
そこで彼は唯でさえ不気味で危険な貧民街において一際異彩を放つ建物を発見した。貧民街でも誰も寄り付かないような場所にあったそれは、見るだけで心に不安を煽るような造形だった。
元は寂びれた木造の家だったのだろう。しかし今はその面影も無かった。壁には壊れた屋根が、穴の開いた屋根には削れた柱が不規則に刺さっている。他にも数々の家の破片があらゆる場所に、まるで掻き集めたかのように建物の一部となっている。
そんな不気味な建物を見た仲間の少年は恐ろしくなり逃げ帰ったようだが、後日仲間を連れて再び行こうと提案したのだった。生意気にもこの世で自分達に敵う奴らはいないと思い込んでいた少年たちはその案に乗った。そしてその晩それぞれ密かに自宅を離れた。
月明かりだけが頼りの暗闇の中、運良くも何事も無く礼の廃屋に辿り着いた四人はそこで信じられないものを見た。
――あれは……っ。あれは
太陽の沈んだ暗闇の中で駆け巡る少年を導くのは、生まれ育った町の土地勘と所々に配置された夜用の灯りだった。その灯りの付近には、有志による夜間の警備隊がいることが多い。夜中の犯罪行為(主に貧民街出身による)を取り締まっているのだ。彼らと合流できればこの状況を何とかしてくれるのではないかと少年は考えていた。それが彼の唯一の希望だった。
その時、視線の先に映ったのは灯りの周りにいる三人の男達だった。それに気付いた瞬間、少年はひどく歓喜した。いつもは見るだけで舌打ちするほど嫌っていた存在だが、今はまるで救世主のように思えた。ようやく助かるのだと思った。そして彼が声を上げようとした時、奴は来た。
「助け……、うっ」
何かが首に巻きついた感触がした。咄嗟に掴むと指の隙間から白く細い糸が見える。引き千切ろうにも糸は見かけ以上に固く、幼い子供の手ではどうしようもなかった。
そうこうしている内に首だけではなく胴体や手足にも糸が巻き付いてきてもはや満足に動ける状態ではなく、糸に持ち上げられるようにして宙に浮かんでいる。まるで空中に磔にされているようだった。
もう駄目だと少年は悟った。絶望の涙が頬を伝う。
「たっ、助けっ、助け……!」
それが少年の最期の言葉になった。
灯りの側にいた警備隊の男達は、突然聞こえた子供の叫びを追って近くの路地に急行した。しかしそこにあったのは、小さな子供用の靴だけだったという。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
この町の朝は早い。大体の住民が日の出とともに起床し、行動を始める。現代の若者である蒼威巧もその例に漏れなかった。
「……眠い」
全身を中から清めるような清々しい空気を味わいながら、巧は盛大に欠伸をした。元々朝が弱い男なのだ。少しは慣れたとはいえ、そう簡単に治るようなものでもないだろう。
現在彼は八意家の庭先にある花壇に水遣りをしている最中であり、それが与えられた仕事の一つであった。
するとそんな巧に声を掛ける人物がいた。
「おはよう、今日もいい天気だね」
振り返るとそこには眼鏡を掛けた男性の姿があった。線の薄い印象を受ける。高身長で巧よりも頭一つ分大きい。穏やかな雰囲気を全身から漂わせるこの男の名は、八意
「おはようございます、輝彦さん。今から仕事ですか?」
朝早くにも関わらず、輝彦は既に寝間着から仕事着に着替えていた。その見かけは現代で言う白衣に良く似た服装にそっくりだった。
「うん、朝一の往診が入っててね。もう行かなきゃならないんだ」
「朝から大変ですね」
「まあね、しかも後に六件も控えてる。でもそれが仕事なんだ、いちいち文句を言ってられないよ」
真面目だなあ、と巧は思った。一回の往診でどれほどの苦労と時間がかかるかなど全くの素人である巧には分からないが、決して楽なものでは無いだろう(患者にもよると思うが)。
八意診療所は輝彦と永琳、二人の有能な薬師の下で経営されている。店はそれなりに繁盛しており、常連(医療の立場としてはあんまり歓迎できない)もいるほどだ。数年前に訪問診療サービスを開始してから往診の依頼が一定数在り、二人体勢で患者を診ていたのを一人は診療所、一人は往診という形に変えたのだという。
基本的に永琳が前者、輝彦が後者を担当することが多かった。聞けばその理由は特に無く、いつの間にかそんな感じになっていたという。
「朝ご飯は永琳が今作ってるよ。もうすぐ呼びに来ると思うから、それじゃ」
「へーい」
そう言って輝彦は荷物を抱え足早に去って行った。八意家の薬師は多忙なのである。
「あの感じじゃ、今日も昼には帰ってこなさそうだな」
「いつものことじゃない」
そう言ってやって来たのはいつもの控えめな色合いのロングシャツとロングスカートにエプロンを着けた八意永琳だった。巧の恩人であり、父を差し置いて八意家の大黒柱となっている有能な薬師だ。見かけは巧と同年代、相変わらずの美貌である。
ここだけの話、診療所に詰め寄る客層には永琳目当てでやって来る男達が何割かを占めているらしい。一日に何度か求婚をされたりするようで、巧はたまにその愚痴を聞いてあげていたりする。
「おはよう永琳さん」
「おはよう、蒼威さん。朝食が出来ているわ。早く食べましょう」
「あいよ」
腰まである美しい黒髪を風に揺らしながら彼女は言う。
すると廊下の奥からどことなく食指を動かされる良い匂いが漂ってきた。急にお腹が締め付けられるような感触を味わった。胃が食を欲しているのだろう。早く食べなくては。
「今朝は思ったより冷えるわね……」
永琳は軽く自分を抱き抱えるようにして体を摩っている。見れば寒さで微妙に震えているのが分かる。彼女の意に反するだろうが、その姿からはなんだか小動物のような可愛らしさを感じた巧だった。普段
「父さんと話してたみたいだけど、ちゃんと通じた?」
「なんとかな、最近やっと通じるようになってきたみたいだ」
生活上において必要不可欠であり、巧が最も苦労したのが言語の習得であった。幸いにも彼には永琳という化物染みた通訳者(うっかり本人にそう言ったら大層機嫌が悪くなった。悪かったとは思うが、正直異世界語を数時間でマスターする奴には相応しいと思う)がいるのでなんとかなっているが、いつまでも甘えているわけにもいかない。そこで暇さえあれば異世界語の勉強に勤しんでいる。教師は勿論永琳で、彼女の手が空いていない時は永琳自作の教科書を使っているのだ。そんな生活を二ヶ月ほど。必死に学んだかいもあって、今では拙いながらも異世界語で簡単な交流を取れるレベルにまで成長したのであった。
「私としては一週間ぐらいで今ぐらいになると思っていたんだけど」
「あんたと一緒にすんな。中高大で英語を勉強してても全く話せない奴らに謝れ」
「貴方ってたまに分からない例えをするわよね」
そうこう言っている内に巧は靴を履き変え、永琳の後に続く様にして食卓へと向かう。
巧がこの世界に紛れ込んでから既に三ヶ月の月日が流れようとしていた。言葉も分からず、常識も分からずで前途多難な彼であったが、永琳というこれまた奇想天外な女の助けによってなんだかんだで生きてこれていた。そして今ではそんな生活が彼にとって当たり前になりつつあった。
「失踪事件?」
その日の昼時のことであった。いつものように午前の営業を終えた診療所は昼休みとなり、巧と永琳は昼食の準備に移った。
営業中は当然の如く永琳は薬師として訪れた患者達の診察を行っているが、一方の巧はというと諸々の雑用を任されている。と言っても大したことではなく、家の軽い掃除や永琳の手伝いなどでありそこまで苦労するものではなかった。それが彼がこの家でお世話になる為の条件である。
「そうなんだよ。最近噂になってるらしいんだ」
永琳お手製のスープを飲みながら輝彦が言った。午前の往診は予想より早く終わったようで、今は診療所に戻っている。
ちなみに巧と永琳は既に昼食を終えており、椅子に座って各々ゆっくりしている。
「物騒な話ね」
「それで、どんな内容なんです?」
永琳が一言呟く側で、巧がそう聞き返した。
「往診先の奥さんに聞いたんだけど……」
所々永琳の通訳も加えると、輝彦の話はこうだった。
最近巷で噂になっている失踪事件。それは町のあちこちで子供が行方不明になるというものだという。失踪する被害者に規則性はほとんどなく、住む場所も交友関係も血筋も性別も一つとして関係がないらしい。唯一共通するのは、失踪した子供達はわかっている範囲で全員十歳だという。
現時点で七件の失踪が確認されており、範囲を郊外にある貧民街も加えると恐らく十人以上の子供が犠牲になっているのでは、ということらしい。なので子供を持つ家庭は大層警戒しているようだ。
「昨日の夜もそれらしい事があったらしいんだ。突然悲鳴が聞こえたと思って警備隊がそこへ行ったら、泥だらけの子供の靴だけが落ちていたらしい」
そう締めくくり、輝彦は最後の一口を終えた。
「それってやっぱ、
「可能性は高いよね。こうも痕跡を残さず攫うとなると、人じゃちょっと厳しいかもしれない」
続いて永琳が言う。
「集団でならできそうではあるけど」
「それも可能性の一つだね」
「どうにしろ、犯人は分からないってことか……」
「そういうこと」
輝彦の「ご馳走様でした」の一言と共にこの話題は一先ずの終わりを迎えた。永琳と巧は後片付け、輝彦は少しの休憩をとった後活き活きと午後の往診へと向かった。
一通り片づけた後は取り立ててやることも無く、更に午後の営業開始まではそこそこの時間があった。永琳はソファに座り、淹れ立ての茶を飲みながら分厚い本を読んでいる。中は未だ勉強中の異世界語で埋め尽くされており、内容は一切理解できなかったが何かの研究書のように思えた。巧は彼女の向かいのソファに寝転び、何をすることも無く天井を見つめていた。
部屋には二人の息と本を捲る音だけがあった。
「食べてすぐ寝ると牛になるわよ」
静けさの中、ふと思いついたかのように永琳が言った。
「……寝てないぞ」
「じゃあわざわざ部屋から持って来たその枕と毛布は何なのかしら?」
「……寝てないって」
「もう完全に寝落ち寸前じゃない。寝るなら自分の部屋に行きなさいな」
「部屋寒いし、今はここで寝たい気分なんだよ」
ふわふわとした毛布に包まれながらもぞもぞと答える巧だが、その受け答えにどこか覇気が無いように感じられた。
「……子供を相手にしてるみたい」
「うるさいな……。ちょっとでいいから寝かせてくれよ。ここに来てから朝早いからしんどいんだ」
「毎日夜遅くまで起きてるからでしょ? 一体何をしているの?」
「勉強だよ勉強。言葉ってのは毎日やらないと覚えられないからな」
「勉強熱心なのは感心するけど、根を詰めすぎると体に毒よ。それに、本相手に四苦八苦するより実際に使った方がよっぽど覚えられると思うんだけど」
「まあ、確かにそうだな」
考えてみると中学・高校・大学と英語を習ってきたが、大学はともかく中・高校なんかは完全にペーパー試験用の英語だったように思える。受験ではあれだけ良い点数を出したのに、いざアメリカ人等と話す機会があると上手く口が回らないことが多々あった。
実際に本の相手ばかりで家に篭りがちな巧は、あまりその成果を実践する機会が無かった。あるといえばお客の相手で、それもお世辞にも多いとは言えない頻度の交流であった。永琳が次に言った言葉も、そういう事情を加味すれば至極当然の話でもあろう。
「勉強の成果を試すという意味でも、息抜きという意味でも、ちょっと街に出てみなさいな」
「えー……」
巧はあからさまに嫌そうな表情を永琳に向けた。その裏には不安が見え隠れしている。
異世界に来て早々妖怪に襲われても生還し、町について早々喧嘩沙汰を起こすような男が一体何を怖がる必要があるのか。度胸が据わっているのかいないのか。相変わらずよく分からない男と思い、永琳はついつい笑ってしまった。
「別に上手く喋れないからって死ぬわけじゃないし。というか、こんな所でつまづいてたらこの先生きていけないわよ?」
「それもそうだな……。じゃあ行ってくるか」
「ついでに夕飯の買い物もよろしく頼むわね」
「……それが本命だろ」
巧は面倒くさい注文を付けた彼女を半目で睨むが、涼しげな顔で本を読んでいる。こちらには見向きもしない。これは決定事項なのだろう。そう思って、巧は温かい繭から這い出た。